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きすがうら日録

前田宣明

保田文庫出版



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 目 次

まえがき

キスガウラの事

鋸山と保田石の事

元名海岸の事

大六海岸の事

茶の事

板子乗りの事

石原純の事

あとがき

まえがき

 ここ数年来は家の近所の昔のことを調べて、それを本の形にまとめるようになった。それで生計を立てているわけでもなく、あくまで生業の余暇で個人的な興味本位に淡々と続けている。私がこの取り組みをするようになった発端は、家の前にある一軒の古い別荘について、そのいわれに興味をもったことだった。別荘の主人は私が幼い頃から知っていた方たちで、来ていた時をみはからって訪ねてみた。私はその時、別荘が生物学者の小泉まことという人物によって、昭和戦前期に建てられたものであるという事と、小泉が書き残した『保田日記』なるものがある事を知った。さらに興味を持った私は、その後主人から保田日記を読ませてもらう機会を得て、日記を読み進めながら、小泉丹について調べ始めた。『保田日記』には、地元の人や近隣の別荘人との交流が書いてあり、在りし日の保田の空気感が行間から漂っていた。
 当時の様子を踏まえた上で日記の内容を理解するには、第一に地元のご老台方に話を聞く必要があったし、事によっては国立国会図書館にいったり、インターネットも頻繁に使う必要があった。そんな風に過ごしているうちに、旧保田町が避暑避寒の保養地として賑わっていた町だったということがわかってきた。そうなってくると調べる事も増えてくる。当初は、自分の家の近所である鱚ヶ浦周辺について日記に出てくることがわかればいいというくらいで調べ始めたのだが、思いがけずその対象は旧保田町全域に近いものに広がった。
 調べたことをまとめようと、2017年には『注訳 保田日記』と『保養地保田きすがうら事典』という本を作った。小泉丹が残した日記に解説をつけた本と、調査で知りえた昔の事を50音順に整理したものだ。翌年には『保田震災記』を作った。震災記は、大正時代から保田に暮らした著名な科学者歌人・石原純が書き残した関東大震災の被災記録について郷土史的に紹介するものだ。これら3冊は地域の歴史的なものを紹介する内容になった。一方で、写真集も作ってみた。古いものを知識として形にする作業とは違って、理屈抜きに感じ取る土地の「質感」や「風土」みたいなものを自分なりに表現しておきたくなったからだ。幼い頃から親しんできた場所や、気に入っている風景を収めた。名前は近所の光景という意味で『NEIGHBORING LIGHT』にした。
 本書『きすがうら日録』は、歴史の本と写真集との間に位置するようなもので、これまでやってきた日常的な取り組みの中で、ふと思ったことや、気づいたことなどを並べてみた。紙きれに書き留めてあったメモをひっぱりだして書いたり、自作した本をめくりながらあれこれと思い出しながら書いたものもある。道草的に得た雑感を集めたようなものだが、本書は私なりの保田日記と言えるかもしれない。








何の本だったか忘れたが、「誰もが生きている今この瞬間は、時間という縦軸と、空間と言う横軸の交点にある」というのを読んだことがあった。町中で古い建物や戦前に賑わっていたころの遺構を見つけると、この文章を思い出すことがある。



キスガウラの事

この辺の海岸は、夕景がきれいだ。一面オレンジの夕焼け空のなか、海の向こう側にくっきりと富士山が輪郭を浮かべる。この景色に車を止めて、カメラを構える人も多い。車を見るとだいたい他県ナンバーだったりする。夕日も美しいけれど、朝の海岸も好きだ。夕暮れ時には逆光でつぶれてしまう景色が、立ち上がって鮮やかに見える。葉先まで朝陽があたった繊細な松の木が、砂浜に影を伸ばしている景色は、見ているだけで気分がすっきりしてくる。



朝日が照ると、海はその季節らしく光って、夕暮れには、ゆったりとした時間が展開される。日が暮れて夕焼けがあたりを包みはじめる頃、幼い私はその雰囲気にどっぷり浸かるためのちょうどよい場所を見つけていた。その場所は家の向にある別荘のベランダだった。古い石積で一段高くなった空間。夕焼けの時にここに身を置くと、とろみのあるオレンジ色がポーチの下屋内に滞留して、特別な空間が出来上がる。



祖父は、家の前の古い別荘の世話をしていた。枝木をはらったり、家屋に風を通したりとかれこれ45年くらいやっていた。私は小さいころから、祖父の作業の脇で遊ぶのが好きだった。



それから25年ほど経って、幼い頃から知っている別荘の主人たちに聞いてみた。それで、この別荘が生物学者・小泉丹によってが建てられた「滴水居」というものだったことと、小泉が残した「保田日記」のことを教えてもらったのだった。その日から、保田日記を読み始め、小泉がいったいどんな人物だったか調べ始めたというわけ。



祖父は90歳も過ぎたので、さすがに別荘の世話はやらなくなったが、2、3年前まではハシゴにのぼって頻繁に枝を切っていた。祖父がやっていたころは、切った枝を丸めて縛っておけば行政のゴミ回収のときに持って行ってくれたようだが、いまはそれも厳しくなって、町指定のごみ袋に入るサイズに刻まないと回収してもらえない。だから切った枝を細かくする必要があるのだけれど、これがなかなか大変。枝木の成長もまったく早い。Kトラでもあると一度でたくさんの枝を捨てに行けるのだが、あいにく我が家にはKトラがない。別荘番はなかなか大変だ。茂った椎の木のかなり高い位置に、太い枝を切り落とした跡をみつけて、祖父はかなり手をかけていたんだなぁと実感した。今でも様子が気になるようで、祖父は時折、別荘の敷地を覗いている。




小泉は自分の専攻について「生物学と医学の接境界を専攻の局面としている」と書いている。接境界か。なんていい言葉だろう。既成のカテゴリーの間に歩みを進めるということは、開拓精神や創造精神、自己への厳しさが求められる。イノベーションという言葉をよく聞くけれど、そんな意味もある気がする。



滴水居の外観は、いい塩梅で洒落ていると思う。下見板張りの外壁や、長く伸びた下屋に設けられたポーチ、ポーチの一部に設けられた保田石を積んで作ったベランダ。和小屋をベースにした桐妻屋根の佇まいの中でそれぞれの意匠が程よく雰囲気を醸し出している。全体として強い作家性は感じない。外観のアイデアは大工なのか、はたまた小泉の家族の趣味なのか、誰によるものかわからないが、そんなアノニマスな感じがいい。




滴水居の外壁は、よく見ると部分ごとに様々な手が加えられている。建てられてからの90余年の間に、何度か手を入れているからだ。いちばん古い板には手斧仕上げの独特の凹凸があるし、下見板の材質も年代によって製材の度合いが違うことがわかる。まるでパッチワークのように時代の記憶を纏っているかのようだ。



滴水居の主人は二組のご夫婦で、年に数度、お互いに別荘で顔を合わせるのを楽しみにしている。先日皆さんを訪ねて70年前の避暑の日々の事や、祖父小泉丹のエピソードなどを聞いた。ワインも進んで時計は深夜0時を回っていた。夏の涼しい風が開け放った窓を通り抜け、笑い声が古い別荘の柱や壁に染み入っていた。主不在の時とは一転して、建物そのものが生き生きしていた。私たちの会話とともに建物も笑っているような気がしてならなかった。



『保田日記』には、小泉が教鞭をとっていた慶大医学部寄生虫学教室の研究者たちと鋸山に登ったとか、街の方に買い物にいったとか、避暑客が賑やかだとか、当時の様子が記されていた。いまから80数年前の、ある日の保田が各ページにとどめられているのだ。祖父がまだ幼かったころの話だ。私は日記に出てくる人物や出来事について、より詳しい事を知りたくなった。それで、知っていそうなご老台に聞いてみようと思い立った。きっと親や上の世代の人から聞いていたり、本人の事を知っているかもしれない思ったからだ。



最初に話を伺ったのは、84歳の元大工のAさんだった。仕事柄、キスガウラ周辺や石原純の家なども修理を頼まれた事があったというから、いろいろと詳しかった。別荘の人たちは修理の注文や暮らしぶりも「ハイカラだった」らしい。たとえば、キスガウラに住んでいた電気工学の竹内博士の書斎を作って、完成後に二人で乾杯をした時のはなし。博士は大のビール党で2合瓶のビールを冷やさず飲むのが好みだった。博士はキスガウラが、イギリスかイタリアだかの海岸に似ていて気に入ったから住むことにしたんだという。大六のとある別荘では「パーゴラ」を作ってくれと言われた。この田舎ではそんな注文は初めて。施主の要望をかなえるためにいろいろ調べたり、カメラを買って、東京で気になった建物があったら撮影してアイデアを溜めていたという。Aさんは「多くの学者や立派な人がこの辺りにはたくさんいたんだけれど、その人たちの感性や価値観に対応できる人が当時地元に少なかった。対応できる人がもっといたら、今の街の様子が少しは違ったかもしれない」と言っていた。それと最後に「古いものを復活していくこと、それが生きている者のつとめだ」と語った。今でも時折、Aさんの言葉を思い出す事がある。



ご老台の方々から話を聞くことは、ある意味、時間との勝負なんだと思う。例えば戦前の昭和8年のことを知りたい場合。2018年現在、そもそも85歳のお年寄りが昭和8年生まれなのだから、1才や2才の頃の記憶で、「あの界隈にどんな人がいた。」とか、当時の町の様子や別荘人たちの人となりなんてわかるはずがない。つまり、私の調べていることのリアルタイム世代は、ほんとうは、さらにもう一世代前の人達なのだ。しかしその人達は、残念ながらもうこの世にはいない。だから「あのおじさんが生きていればもっとわかったのになぁ」というような言葉がよくでてくる。でもそれは仕方のないこと。私にできることは、少しでも証言できる人がいるうちにその片鱗的エピソードを集めて、その他の情報と合わせてひとつずつ形にしていくこと。そうすれば、自分自身が見えていなかった地域の姿を見出す楽しさを覚えることができるし、興味のある人や次の世代の人たちに、地域に育まれた文化的なエピソードを伝え残すことだってできる。できるだけ多くのご老台から話を聞くためには、情報を調べてまとめる時間を短縮する必要がある。きっとひと昔前なら、出会うべき文章に出会うにも図書館(蔵書次第でかなり遠方になる)に行って、そこで探して、という大変な手間と労力があったが、インターネットを使うことで、今ではそれがたやすくできる。だから、ゆっくりとご老台の話に耳を傾ける一方で、インターネットの速度をもって過去の約100年くらいを取り返す勢いでやる他に無い。




Aさんが亡くなったと聞いたのは、話を聞きに伺った翌々月の事だった。話してくださった事自体が、地域の姿を残していくうえで貴重な「証言」だったのだと痛感したし、形にしなければ風化して何も残らないのではないかとも思った。それで、聞いたことを形に残すには、やはり本が良いだろうと思い立って作り始めた。



松山吟松庵のこと
保田日記を読んでみたら、頻繁に松山という近所の人が出てきた。いろいろ調べてみたらインターネットのとあるページが見つかった。昭和14年に行われた北大路魯山人の絵画展の冊子がデジタルデータ化されたページ。絵画評に「房州 松山吟松庵」と署名された一文があった。さらに調べていくと、国立国会図書館で読んだ茶道関係の本に「松山吟松庵は保田の吉浜日蔭に暮らした」と書いてあった。日蔭というのは小泉の別荘のすぐ近くのあざだ。キスガウラの古い別荘の人に松山吟松庵を知りませんか?と聞いて回ったら、みんなお茶の世界の研究者だったと知っていて、「うちの別荘は松山との縁でここに別荘を構えた」という人が少なくなかった。



松山は明治のころから保田に避暑に来るのを気に入り、景色と里人の素朴さを好んで大正のころから保田に住み始めたらしい。昭和に入ると、松山の家からすぐ近くのキスガウラに、学者や実業家たちが別荘を構えていくのだけれど、調べていくと松山とゆかりのある人物ばかりだった。松山という人は、古いこの界隈の別荘人の草分け、キーパーソンだったんだ。



加賀の道具商の家に生まれた松山は、相当の目利きで、当時の著名な茶人や数寄者と交流のある国文学・茶道文化史の第一級の学者でもあった。かの小説家・谷崎潤一郎も松山の教え子だったというが、鋸南町史や、郷土史研究者の本にも松山のことはまったく載っていない。このような人が私の家のすぐ近くに住んでいた事に驚いた。



松山吟松庵は大正時代に保田の海岸に移住してから、住まいを「陸舟庵」と号した。その後昭和5年、自邸に茅葺の古屋を移築して「残月庵」と名付けた。残月庵はその当時で築300年以上だったというから貴重なものだ。古い観光絵葉書に、その姿が写っているものがあるのだが、なかなか大きな家屋だ。小泉丹も日記の中で「残月に呼ばれた」と時折書いている。松山は知人を招いて茶を楽しんでいたのだろう。



旧松山邸の陸舟庵の方は、現在もまだ貸家として使われている。一方、残月庵は、かつて国道沿いのコインランドリーと精米所の場所に建っていた。日常的に精米しに行く度、機械が止まるまでの間、昔のことを全力で空想してみる。国道の向こう側一帯はまだ埋め立てになっておらず、おどやも公民館の建物もなくて、道の向こうは一面おおらかな海景が広がる。すぐ下の砂浜は鋸山の方に長く続いて、村人がまばらに見える。集落の奥には無骨でボリュームある鋸山が海に横たわっている。そこから視線を左にそらしていくと、富士山が夕焼けの空に端正なシルエットを浮かべている。おや、後ろ手を組んだ細身の老人が、私の横を通り過ぎてゆっくりと砂浜に向かって歩いていった。老人は振り返ると、仙人のようなあご髭をなでながらこう言った。「隣は私の家なんですが、家に居ながらにして釣りができそうでしょう?お茶でも一服寄っていきませんか。」



残月庵は松山が亡くなった後、隣町のとある丘に移築されたというが、そこにはもう建っていない。地域のご老台も残月庵のその後について知る人は少ない。残月庵がその後どうなったのかというのが、かれこれ7年くらい気になって仕方がないことなのだ。



仮に残月庵が隣町の丘で壊されたのだとしたら、基礎石くらいはまだ土に埋もれて残っているかもしれない。




近所のご老台に聞いてみると、あそこの別荘には、あんな学者がいたとか、こんな文化人がいたとかなんていう話がいくつか出てきて、いよいよ、キスガウラの界隈は古くから避暑避寒の別荘地であったことがわかってきた。新しいことがわかる楽しさもあるが、そのたびに、親しんできた景色の見え方がより豊かになる気がする。その実感に心地よさを覚えているのかもしれない。



キスガウラに別荘や住まいを構えた人のことをひとりひとり調べてみたら、茶の湯や古美術界に精通した研究者や、ドイツビールを好んだ工学博士、科学ジャーナリズムや進化学の一線で活躍した頑固な生物学者、ラジオ無線機を愛した実業家など、スケールの大きい個性豊かな面々だ。それぞれが保田の生活、時間を自適に楽しみながら交流していたようだ。当時の別荘人の中には地域の小学校の卒業式に列席したり、地元の子どもの名付け親になったりした人もいた。そんな交流があった時代に憧れを覚えるのはなぜなんだろう。



東京の馬込や田端、落合、田端、埼玉の浦和のあたりは、大正時代と昭和戦前の頃には文士村と呼ばれるくらい、文筆家や芸術家たちが集まっていたところだそうだ。きっと表現者たちはソサエティを共有していて、人的なつながりで、それぞれの土地に集まりを見せていたのだろう。同じような現象は、他にもきっとあったはずだ。規模こそ違えどキスガウラは松山を中心として、同じような現象が起こっていたのかもしれない。



すこし歴史っぽい話をすると、明治時代は東京から房州に来るには汽船を使うのが主流だった。その後大正6年に鉄道の保田駅ができると、両方で来れるようになった。両国から出ていた電車はそれまでの汽船よりも便利で、来房する人が爆発的に増えた。戦前にかけて保田では駅から海岸の地域はたいそう賑わっていたという。当時の保田の様子を知る人は、「沢山の人が夜でも下駄を鳴らして、にぎやかに海辺や町中を歩いていた」というから、いまでは想像できない。駅から南に向かって、3キロぐらい離れると保田の最南「大六」と「キスガウラ」の海岸に来る。このあたりまでは町の喧騒は届かなかっただろうし、景色も美しい。波も穏やかで静かに過ごすことができるから、昔から学者とか実業家たちが好んで別荘を構えたんじゃないだろうか。



現在のキスガウラの別荘人のなかには、幼いころから70年以上来ている人も多い。そういう方たちは、保田に愛着をもってくれていて、「この海岸の素朴で静かな所や、俗っぽくない雰囲気が好きだ」と口をそろえて言う。キスガウラに生まれ育った私としてはそう言ってもらえるのがなんだか嬉しい心地がする。



昔に建てられた別荘の中には使われなくなって解体されたものも多い。まだ別荘として使われ続けているのもあって、年に数回来る主人たちと会っていろいろお話を聞くのが私の日常空間での非日常的な楽しみになっている。



キスガウラに残る古い別荘建築にいくつかお邪魔する機会を得てきた。今でも新しい別荘が時折立つが、古い別荘のほうが周りの風景に馴染んで溶け込んで見える。







数年前に幼馴染の家のおばあちゃんに話を聞きに行った時のこと。その家には、小学校のころからよくファミコンをやりに行っていた。私たちが夕飯前までゲームに熱中しているあいだ、おばあちゃんは、たいてい閉まっている扉の向こうの部屋に居たのを覚えている。話を聞き終えた後、おばあちゃんが「こっちに来てみな」というので、ついていくと、例の扉の向こうの部屋に案内された。おばあちゃんは、「私はね、生まれてから80年ちょっと、別のところに住んだことはないけど、ここが世界で一番きれいなとこだと思ってきたんだよ、うそじゃないよ、見てみな」と言って窓を開けた。窓枠は、海岸にある松の枝と夕景を、絵画のように切り取っていた。自分がゲームに夢中になっていたあの時も、おばあちゃんは隣の部屋でこんなことを思っていたのかもしれないと思うと、なんだかぐっと来た。



ご老台に話を聞いたり、インターネットや書籍で調べるという方法以外に、かなり決定力があるのが、閉鎖謄本を見るというやり方。古い土地では明治時代からの土地の取引が順を追って記録されている。ご老台の証言のうち不確実な情報でも、一致した記録が出てくると、大きな裏付けになる。法務局に行って受付を済ませると、職員さんが希望のものを出してきてくれる。受け取った記録簿の中に、目当ての情報があると、それはもうガッツポーズものだ。ただ、施設内は静かなので、ポーズはちいさく静かに。法務局に別名をつけるならば迷わず「ローカルヒストリーの館」と呼びたい。



私が調べてきた事は、今から100年くらい前までのもの。決して大昔でもなく、祖父の幼いころや曽祖父が生きていたころの話。だから「歴史」というと大げさな気がするし、「郷土史」というと仰々しい気もする。私としてはいつも身近にある素朴な疑問を知りたいなぁといったところ。なかなかいい言葉が見つからないのだが、「身辺史」といったところか。



保田は、戦前から船や鉄道を使って多くの人が避暑に訪れた賑やかな街だったということ。それから、私の生まれ育ったキスガウラというところは、保田の町はずれの静かな海岸地で、古くから学者や実業家に好まれた別荘地だったということ。本を作ってみてこの二つの事が分かった。



調べたことを一つ一つ項目に分けて、あいうえお順の辞典形式の本をつくってみた。本を作った後も、それぞれの項目について新しいことがわかったりする。きっと本というのは、刻々と変化する「わからないこと」と「わかったこと」の間に存在する、とっても繊細なものなんだろう。



過去のことを残すだけで終わるのはもったいないような気がして、「今も昔も変わらない、地域特有の雰囲気や質感を表現しておきたい」とも思うようになった。言葉にするのは難しいんだけれど、それは色だったり、感触だったりにおいだったり、自分や他人の記憶だったり、この土地の風土から人が共通に感じ取る気配だと思っている。




この辺りの海岸地は、現在では、一般に「キスガウラ」と呼ばれる。漢字は魚へんに喜と書く「きす」の字があてられていて、鱚ヶ浦と書く。いっぽうで、2015年現在、私の祖父や、地元の80代以上のご老台方は、たいてい「ギスガウラ」と濁った頭音で呼んでいる。地名に正解を求めるのはナンセンスだと思うのでそれはしないけれど、私はこの「ギスガウラ」という音や調子が好きだ。粗野な音の響きに、いかにも房州の海辺の土地の潮気を感じる。多くの人が別荘や終の棲家にこの界隈を選んだのは、素朴で美しい風景や、そこに暮らす人達を好んでのことだった。「ギスガウラ」という音にはそのような風土の質感やかつての人の営み全体が宿っている気がする。



この界隈に別荘を構えた人や移り住んだ人たちは、著書を残していた。中には学術的で難しいものもあるけど、新しい価値観にふれるような、魅力的なエッセイにも出会うことができた。そういう文章は、彼らが残してくれた置き土産のようでもある。



「お城を作っちゃえば、絵本の物語も本当のことになるんだね」と娘が言った。家族でディズニーランドに遊びに行った時、娘とシンデレラ城に向かって二人で歩いていたときのことだった。それを聞いたとたん、私は膝を打つ思いがした。家の近所に立つ経年味のある古い別荘たちは、そこに佇んでいるだけで、昔の忘れ去られようとしている物語を、今に伝えているんだなと。



妙本寺の客殿の向拝ごはいは江戸時代の彫刻の名手によるものだ。向拝の左右には、透かし彫りの立体的な波が一対に配されている。あまり大きくないのだが、幼いころからついこの部分が気になってしまう。向拝の内側から、光の加減が半逆光の時に眺めるのがもっとも豊かに見える気がする。



自転車での移動はたいへん小回りが利く。休みの日に、戦前の頃の名残を探して保田の街なかを巡ってみた。思いがけず数々の興味深い風景を発見でき、なかなか面白くなってきた。自転車のタイヤは「生活道路」の路面から離れ、時間空間を軽やかに動き回るタイムマシーンのよう。通り慣れた道がまるっきり違って見えた。ペダルを漕いで歴史の縦軸横軸を行き来している感じだ。



元名海岸の職場に自転車で向かう間は、ずっと眼前に鋸山が見えている。鋸山の稜線は名前の通り鋸の歯のように、上ったり下がったりを繰り返しながらギザギザしていて、右肩上がりに傾いている。古来保田の海には、一般の行楽客だけでなく、中には不遇や悲運に陥っていた人も訪れたことだろう。その人たちの中には鋸山の山容を見て、勇気付けられた人がいたのではないだろうか。と、思ったところで職場に着いた。

すもうとるべえのこと
家の近くに面白い妖怪の話があった。その妖怪の名前は「相撲とるべえ」といい、彼の住処はキスガウラの北端にある海岸沿いの山だという。今では海側が埋め立てられ、海岸線の国道も広がっているが、その昔ここには山の下に細い道が一本あるだけで、反対側の道端は波が寄せる磯だった。すこしでも波が荒れると道まですぐ波が来てしまっていた。昼の間は磯馴れ松が枝を垂れる、大変うつくしい岬の景観だが、夜になれば暗くて心細い道だったという。夜そこを通ると、力士の姿に化けた狸が「相撲とるベエ、相撲取るベエ」と言い寄ってくるのだ。房州の方言ではさいごに「っぺ」とか「べえ」がつく。動詞+「べえ」というのは「~しようよ」という勧誘的ニュアンスのことばだ。そこで相撲をとってしまったら最後。海に投げ込まれてしまうというなんとも恐ろしい話だ。



相撲とるべえの話を知ったのは、キスガウラに地縁のある昭和の女優・長岡輝子の本に書いてあったから。読み終わった後、つい部屋の窓から相撲取るべえのいる山肌を眺めて妙に納得したのだった。というのも、私がまだ中学生のころ、夜にそこを自転車で通りかかると、相撲取るべえのあたりだけはなぜか背筋がゾクゾクして、心細く、全力でペダルを漕いで走り抜けるのがお決まりだった。二日に一遍は日常的に通っていたけど慣れなかった。急いで走り抜ける私のことを相撲取るべえは山の上から見ていたに違いない。こんな経験があるので、私は相撲取るべえがまだあの山にいるような気がする。



小泉丹の別荘は、相撲取るべえのところからすぐ近くのところにある。博覧強記な小泉は、科学随筆もたくさん書いた人物だった。小泉は妖怪についてもいくつか文章を残している。1955年に中央公論社から『河童』という本が出て、そこにも小泉の「河童考」という文章が収録されている。俗信・妖怪・幽霊の研究でしられる民俗学者、今野圓輔こんのえんすけは、迷信や妖怪などをちゃんと正面から解明しようとした参考書は小泉丹の『科学的教養』や柳田国男の『妖怪談義』などである、云々と書いているという。小泉は別荘のすぐ近くに伝わる相撲取るべえのことを知っていたのかな。


川村記念美術館で、藤田嗣治の企画展があったので行って来た。藤田の生涯を語る資料や、パリ時代や旅行中の人物画に焦点を当てたたくさんの作品が並んでいた。トレードマークの丸い眼鏡もあった。そんななかで、ふと目を引いたのが、横綱の姿を後ろから描いた素描だった。横綱が土俵入りで手を広げている姿で、それまでの熱量のある人物画群とは正反対の雰囲気。これが、一目見た瞬間に相撲取るべえに見えた。土俵際からのスケッチなのか、少し下側からなめるような角度で描いてあるので、ちょうど山肌から飛び降りて宙を舞っている相撲取るべえのようなのだ。家に帰って、藤田の画を参考に狸のしっぽをつけて、相撲取るべえの想像図を描いてみた。相撲取るべえがビジュアル化されたのはきっとこれがはじめてだろう。けっこうかわいい妖怪ができた。




千葉の稲毛は東京に近い事もあって、保田よりもはやく鉄道が通り、避暑地、別荘地として賑わっていた海辺の土地だ。稲毛にある古い洋館を使った公営の市民ギャラリーは、当時の稲毛のことを調べたり語り継ぐ活動をやっている。そこの学芸員、Yさんは、毎度私の自作本の地図の制作を手伝ってくれている。最初の本ができあがったとき、Yさんにキスガウラ周辺を歩いて案内したことがあった。独自の視点で界隈を案内する感じが、例えて言うならテレビのブラタモリみたいな感じがしてお互い楽しい時間になった。Yさんがとくに良かったと言っていたのは、ある教育者の別荘があった敷地の擁壁だった。一見よくある土手沿いの石積の壁なんだけれど、それを気に入っているあたりがYさんらしくてよかった。



家から海岸の道を4分ほど歩いたところにJさんの別荘がある。地元の高齢者も、あそこは古い別荘だから訪ねてみたらと言っていたので、この前の夏、庭に車が泊まっているのを見かけたから行ってみることにした。



Jさんの別荘は、昭和7年に実業家で無線の発明家だった父親がJさんのお兄さんの療養先を兼ねて建てたものだった。別荘ができたのはJさんが一歳になる前。だからもうJさんは80年来、毎夏キスガウラに来ている。麻布の自宅から船着き場までも近かったから、まだ汽船を使えば、わけなく来れたという。



Jさんは「これだけ来ていれば、さすがによくいう第二の故郷という感覚がありますね」と柔和な表情を浮かべていた。「昔の別荘はね、地域の人に手入れしてもらって行き来があって、よかった。今はそういうのが減ってきましたね。ここに来たらあくまで個人的になんですけど、前の道を掃き掃除するようにしています」と話してくれた。別荘人は、たまにしか来ない存在ではある。けれど、Jさんの語りを聞いて、なんだか温かい気持ちになった。



「彼はホタホタとして笑った」という文をどこかで読んだことがあった。顔色良く幸せそうみたいな意味の言葉だったと思う。Jさんは、「ホタっていう響きがね、なんかこう優しくて、いいよね」と言っていた。



晴れた日の保田の海辺は穏やかな空気に包まれる。ホタホタという言葉は、保田のそんな風土にあっているような気がする。



それにしても、人はなぜ別荘を構えるのだろう?別荘という言葉を辞書で引いたら「本宅から離れた土地に設けてある屋敷。主に避暑・避寒などに使う。」とあった。屋敷を設けれるほどの人は「別荘」を構えることができる。じゃあ宿はどうだろう。



そういえば、このあいだ、元名海岸のホテルで接客していたお客に「別荘を持つなら、こうやってたまに気に入った宿で贅沢した方がよっぽどお得だよね」というお客がいた。別荘にせよ宿にせよ、日常から空間・精神的に離れたのところに身を置いて過ごしたいのではなかろうか。



人は本能的に気分を転換できる場所を求めるものなのかもしれない。日常の煩事から解放される時間空間を求め、自然環境の優れた地をさがすのかもしれない。



「居は気を移す」という言葉があるように、人は自らの気持ちや精神をよりよくする場所を探しているのではないだろうか。人が風光の良い場所に身を置きたくなるのは、そのような精神的な営みのうちの一つじゃないだろうか。幼いころから慣れ親しんだ環境そのものが、人を惹きつけるものであったとしたら、それは私にとっては、とてもうれしいことだし、現存する古い別荘たちは、過去の人々がこの土地を気に入ってくれたことの証に見えてくる。



20代に一度、スペインの地中海沿いをバスで巡ったことがあった。海沿いのミハスという街でバスを降りて、泊まってみようと思っていたのだけど、バスを降りたらどうも違って、ネルハという街だった。スペイン語が全く分からなかったからそんなことになってしまった。しかし、このネルハという街がコンパクトでよかった。カフェもタブラオもあって、一応観光地だが、混み過ぎていなくて浜辺でも静かに過ごせた。海辺の高台は広い公園になっていて、沢山の人が写真を撮ったり思い思いに過ごしていた。なんでもここは「ヨーロッパのバルコニー」と呼ばれているところらしく、綺麗な海水と入江が続く景勝地だった。数年前にキスガウラの国道の歩道にあった形のいい松が、切られて無くなった。多分松くい虫の被害拡大の予防のためだろう。地面対してに水平に広がって枝を伸ばした松だったので、歩道も海に向かって弧を描くように広く作ってあった。松が無くなったあとは、ちょうどそこがバルコニーみたいにな形になった。夕陽の時間に行くと、ネルハの海岸を思い出す。

2007 Nerja





ノリ君と別荘のこと
幼いころ、夏になると、たしか「ノリ君」という名の同じ歳くらいの男の子が、鱚ヶ浦の別荘に遊びに来ていたっけ。うちはお菓子やアイスを売る商店だったので、ノリ君はオールバックで白い革製のサンダルをはいたカッコイイおじいさんと一緒にアイスを買いにやってきた。おじいさんは銀縁で茶色のグラデーションのあるサングラスをしていた。たしか車は白いメルセデスに乗っていた。テールランプに凹凸のあったころのモデルで、夏の日差しにメッキのグリルがキラキラ光っていた。ノリ君の別荘は線路を越えた高台にあって、何度か遊びに行った記憶がある。別荘の窓から見下すキスガウラの海面は陽が反射していつも銀色だった。今となってはどんな子だったかあまり覚えていないが、時折あのノリ君とおじいさんに会いたくなるときがある。そう思うときは、ひと際海がキラキラしている日だ。



ノリ君が来ていた別荘は幼馴染の家の上にあった。幼馴染に「ノリ君」て覚えてる?と聞いたら「そんな子いたかなぁ」と思い出せなかった。自分の記憶がちょっと曖昧な気もしなくもないけれど、ノリ君はちょっと、遠い夏の空想的な存在になった。それも悪くないな。



M家の方たちは、松山吟松庵の子孫にあたる皆さんで、いまでも夏になるとキスガウラで過ごすのを一族の楽しみの一つにしている。パラソルや海の道具を砂浜に広げて、日がな海辺で過ごしている。海に来ると必ずやるのが泥団子づくりだ。強さを競ってぶつけ合う遊びだ。亡くなったおじいさんはとても上手で、みんなその泥団子には歯が立たなかったという。おじいさんは「キスガウラの砂はこの辺にはない細かい砂で、泥団子を作るには最適なんだ」と言っていたらしい。そういえば、幼いころから、夏場に何度か浜辺できれいにつくられたカチコチの泥団子が何個か落ちていたのを見たことがある。あれはきっとこの人たちのものかもしれない。Mさんたちは宿を勝山にとって、海岸線を2キロ弱、二つの海水浴場を通り過ぎて歩いてキスガウラまで来る。



Mさんたちは泥団子以外にも素潜りも好んでいるという。砂浜だけでなく海の中に積極的に入って楽しみたいのそうなのだ。家族のアルバムを見せてもらったら、浮き輪につかまって楽しそうにしている写真がたくさんあった。もう50から60年くらい来ている人たちなので、とても海の中の様子をわかっている。どのあたりにどんな形の岩があるかとか、昔に比べて、あんな魚やこんな海藻が減ったとか。実は海中ある場所にちぃさなサンゴがを見つけたことがあるという。でもそのばしょは秘密。Mさんは、「保田が好きなのでもう少し活気があったらいいと思うけれど、キスガウラだけは、静かなままでいてほしい」と言っていた。



Mさんと初めてお会いした時に「今年はダイヤモンド富士の時にキスガウラにいたんですよ」と聞いて驚いた。というのも、その日は私の友人のU君夫婦が近くの旅館に泊まりに来て、夕食までの間、私たち一家はU君夫婦とキスガウラで過ごした。陽が落ちかけてくると、浜にはカメラを持った人たちが10人弱集まってきた。この日は「ダイヤモンド富士」の見れるポイントがちょうどキスガウラだった。U君夫婦はカメラを持った人にモデルになってと頼まれた。Mさんたちのある夫婦もキスガウラで同じ時間にカメラを持った人たちにモデルになってくれと言われていたらしい。なんとも奇遇な話。



ネットで保田の古い絵葉書や印刷物を見ていたら、きれいに描かれた保田の鳥瞰図が売られていた。精巧で趣ある絵だったのでネットオークションで競ってみた。200円からのスタート。千円くらいで落とせるだろうと思っていたら、終了時間30分前から相手が仕掛けてきた。5千円を超えてもお互いに引かない。こうなったらもう意地だ。6000円、6500円、とうとう7800円で競り勝った。




東京の青山に、観光関係の書物を扱う旅の図書館というのがある。先日訪ねたときに館長のFさんとその鳥瞰図の話になった。この鳥瞰図を描いた吉田初三郎という絵師の作品は近頃人気が出てきていて、大阪の方で個展が開かれたのだという。今や印刷物でも20000円はするらしい。オークションでしつこく競ってきたのは、なるほどそういうことだったのだろう。


旅の図書館の講演会に行ってきた。「古書から観光文化を学ぶ」というテーマだった。講師はまち歩きや風景論や建築や観光について研究している大学教授だった。講師の言葉で印象的だったのが「今と違ってメディアが少ない頃、著者にとって本を書くということは、前提となる熱量がそもそも違った。だから文章の重みや意志が現在までタイムレスに強く伝わってくる」というもの。これには共感した。小泉丹の随筆に「水平線は曲がっている」というのがある。あれは間違いなく小泉の別荘の前から東京湾の対岸を眺めたときの雑感だろう。キスガウラの真珠島から対岸の城ケ島までの間の水平線が「ほんの少し曲がっていることに気がついたんだ」という内容。小泉は、日常の中の取るに足らない発見だと言っているけれど、私にとってはとっても大きなことだ。80数年前に小泉が見た景色を今日も私は見ている。そしてたしかにほぉんの少し水平線が曲がっているのだから。

鋸山と保田石の事



鋸山は高い山じゃないから大したことないだろうと思って観光に来る人がいるようだけど、山内は、どこの名所に行くにも階段で移動しなくちゃいけなくて、その階段の勾配はどこも結構きつい。そのせいか階段の途中でヒイヒイ言っている人をよく見かける。とくにヒールを履いた若い女性とかはお気の毒。鋸山って、東京タワーより低いんだけど、そんなところがいいんだと思う。



保田駅の前で、外国人の旅行者を見かけることが増えた気がする。仕事帰りに自転車で通りかかったらブラジル人の女の子2人に「シャッターを押して」と頼まれた。去年は台湾から来たというグループの写真を撮ってやった。この人たちはみんな、これから鋸山に登るんだと言って手を振って歩いて行った。


元名海岸のホテルの夕食で、外国人夫婦のテーブルを担当したことがあった。奥さんはルーマニアかどこかの外交官で、ご主人は大学教授だった。鋸山の大仏を見てから来たという。去年は、旅館で電動工具や自動車メーカーのエンジニアをしているドイツ人の夫婦と、サンフランシスコから来た米軍の男性と若い女性のカップルを接客した。両組とも鋸山の大仏と「和風旅館」を楽しみにして来たと言っていた。鋸山は海外向けの旅行情報サイトで日本の穴場として紹介されてから、人気が高まっているらしい。米軍の彼は、鋸山の境内の雰囲気にアジアらしさを感じてよかったと言っていた。たしかに百尺観音の近くの古い石切場の岩肌に、太い蔓がめり込んで生えていたりするのは、カンボジアあたりの宗教遺跡にでも来たようなエスニックな雰囲気があって私も気に入っている。彼の言っているのがわかる気がした。




鋸山を近辺で切り出された石は通称「房州石」と呼ばれていた。その中でも採掘された地域ごとに名がついていて、保田で採れたものは保田石と呼んだ。古い別荘や民家には、今でも塀や門柱、基礎石などに建材として使われていて、岩質の粗さがノイジーで独特な経年の味わいを醸し出している。



街なかを自転車で走っていると、たまに雰囲気のある古い房州石の塀が葉の影から顔を覗かせることがある。道端の古い石たちが、あのころの保田の名残を話しかけてくるかのよう。




サンドカフェの主人の家にお邪魔した時、庭の小さな茶庭風の一角を見せていただいた。シュロ竹とツワブキが茂るところに、つくばいと大きなかめが並んでいて、その傍らに鋸山の貝の化石を二つ重ねて作った小さな石塔が佇んでいた。下に巻貝、上は大きめの二枚貝。よくある石灯籠の風情ともちょっと違って、素朴ながらプリミティブな雰囲気が漂っていた。鋸山の化石の使い方や、その佇まいがあまりに魅力的で衝撃を受けた。以来私もやりたくなってしまって、かれこれ10年くらい、使えそうな鋸山の化石がないかと気にはしているんだけど、いっこうに出会えていないのが実際のところ。




今から数十年前、鋸山のあたりで大規模な砕石が行われていたころ、よく化石が出たらしい。自室の本棚に二枚貝の化石を飾ってある。これは当時、父が近所の埋め立て地に落ちていたのを拾ったものだという。手のひらほどの大きさで、つかんでいると妙に無言になってしまう。人間のスケールを超えた時間軸が手のひらに収まっている感じにちょっと、困惑するのだが、これが意外と心地よい。



鋸山中の河原に製材された小ぶりな保田石が落ちていた。石の切出しが終わって以来、そのままになっているのだと思う。庭の飛び石にでもしてみたらどうだろう。



保田駅の裏手から元名に向かう道に、汐止橋がある。小学生の頃よくこの橋の上を自転車で通ったが、河原まで下りて橋全体の姿を見たことはなかった。保田石をアーチ式に積み上げた古い橋。その積み方が珍しいことから土木遺産に認定されたというので、見に行ってみた。表情豊かな石がきれいに弧を描いて積まれていた。しばらく橋を眺めていたら、橋上を自転車の少年が走っていった。



ある日、元名海岸のホテルから自転車で帰る途中、遠回りして初めての路地を通ってみた。古い生け垣が続く道。眼の前に現れた三叉路で、妙に左側が気になったので曲がってみた。すると古い下見板張りのコテージ風の二階家が見えた。敷地の中を覗くと、その家の外壁には、鋸山の石で作られた立派な暖炉があった。私はこの瞬間、運命的な出会いと言えるほど驚いた。というのも、私はかれこれ2年くらい、保田の何処かに、鋸山の石を使った暖炉を構えた家がきっと有るはずだ(あってほしい)と思っていたのだから。


石の暖炉のある建物は、東京YWCAが建てた古いコテージで、シンプルな文化住宅といった感じ。キスガウラの滴水居の石積みのベランダとともに、「保田建築文化遺産」でも作って認定したい気分。

元名海岸の事



保田駅ができて間もない頃、とある英語文学者が松音旅館に泊まったときの話。出てきたアジの塩焼きを食べて、「こんなうまい魚が食べれるなんて、ここに住んでしまおう」とそのまま近所の漁師の家を別荘に使わせてもらえるように話をつけたとか。その学者は保田駅の近くに立派な和風住宅を建てて、結局移住してしまったらしい。移住後は英語の参考書など著作業に力を入れて、保田での生活を楽しんでいた。私が働いている元名海岸のホテルでは、朝食でアジの開きがいつも出る。この前のお客さんはこの辺に別荘を持とうか考えているという品のいい中年の夫婦だった。二人にアジの開きを出したときにその学者の話をしてみたら、「私達もこのあと町の人に話しをしに行こうか」と笑っていた。あの夫婦の別荘はどうなっただろう。



親戚の家の蔵の中にかれこれ20年近くほっぽらかしてあった、古いロードバイクをもらって、きれいにして乗っている。華奢なフレームの感じと、ところどころはがれている塗装が、気に入っている。国道は道幅が狭いから乗りにくいけれど、ひとたび浜沿いの道に入ってしまえば、地元の人が散歩しているくらいなもんで、快適に走れる。出勤して、元名海岸のホテルのカフェのカウンターでコーヒーを入れていたら、朝食を終えたお客さんが「君は朝海沿いを自転車に乗っていたよね、あれはいいやつだよ、大事に乗ってやったほうがいいよ」と言ってきた。長年ロードバイクを趣味にしているという中年男性だった。



数年前に三浦半島の横須賀美術館に行ったときのこと。エントランスからすぐのところにあった現代美術家の山口長男の作品が気に入ったので、ポストカードを買って部屋に飾っていた。先日ネットサーフィンをしていたらある海景画に目が留まった。クリックして説明を読んだら、山口長男が鋸山の海辺の風景を描いたものだった。ごつごつした岩場の割れ目に赤いラインが入っていて、独特な世界観がある。今度はそれをプリントアウトして棚に飾ることにした。



夕暮時の元名海岸から見る伊豆大島は、ちょうどロバート・フリップとブライアン・イーノの「イブニング・スター」のLPジャケットのようだ。iphoneに曲を入れて元名の海岸で聞いてみた。キスガウラからは伊豆大島が見えないかから、曲調と夕暮の景色が相まって特別な気分だ。



東京YWCAのサマーコテージが元名にできたのは、昭和9年の頃だった。東京の職業婦人たちにとってそこで過ごす日々は無上の幸せだったようだ。同会の機関誌には多くの人が元名で過ごした日々を書いている。そのなかに「元名海岸の岩場の先には3畳くらいの芝生があって、そこでパンを食べるのが幸せ」みたいなことが書いてあった。保田小学校に友人と泊まった翌朝に、パンとコーヒーを買って、海岸の芝生の上で食べた。なんとも爽快な朝だった。




私にとって元名海岸に暮らす山﨑源治さんは、本当に貴重な存在だ。保田の昔のことについて知りたい事があると、まずは山﨑さんに聞いてみたら大抵の事の輪郭は分かるのだ。カメラが趣味の山﨑さんは、10代の頃からかれこれ70年来、日常的に元名海岸を中心に保田の風景を写してきた。漁師の家に生まれた山﨑さんは、父親の漁の手伝いもしたし、戦前の賑わう保田の街で、避暑客相手の貸しボート小屋で仕事をしたりした。家の隣の別荘番もやっている。私が興味を持っている避暑・保養地としての保田の空気を吸っていた張本人、生き字引とはこういう方の事をいうのだと思う。



「いつでも写真が撮れるようにカメラは外からもすぐ手に取れる場所に置いてあるよ。」山﨑さんが先日言っていたことだ。山﨑さんの撮ってきた写真を見せてもらったら、虹の写真がたくさんあった。元名の海は虹が出やすいというが、それらをしっかりと写真に収めているのは、環境の変化に機敏に、長年その場所に暮らしているからこそだと思う。私も玄関近くにカメラを置くことにした。



山﨑さんを訪ねると、すぐに2時間は経ってしまう。驚いたことに70年くらい前のエピソードだって、日付単位で「あの日の天気はこうで、こんなことがあった」と思い出せるのだ。話を聞きながらいつも思う。自分はこの方と同じくらい日常にしっかり目を開いて生きているだろうか?と。



山﨑さんは、生まれる前の近所の古い写真もたくさん持っている。それらの多くはA4サイズに綺麗に引き延ばして、クリアファイルに入れてある。各ページにはシールに手書きで写真の説明を書いて貼ってある。はじめて見せてもらった時に驚いた。



山﨑さん曰く、昔の元名の人は、鋸山の壁面のある部分を見て時間がわかったという。その部分は通称「オオドケイ」と呼ばれていたのだが、今ではそれを知っているのも山﨑さんくらいのようだ。山を大きな掛け時計としてとらえる感覚。鋸山が生活の一部に入り込んでいることに魅力を覚えるし、話している山﨑さんが妙にかっこよく見えた。



版画家の川瀬巴水が元名海岸の作品を残しているんだと山﨑さんが教えてくれた。「石積む舟」という名で、鋸山から切り出した重たい石材を背負う人が和船に向かう風景だった。まだまだ知らないことがたくさんある。



先週山﨑さんを訪ねた時、帰り際にこんなことを言っていた。「いまの街があるのは、先人の苦労があるからだよ。あの絵みたいに、鋸山から切り出したびっくりするくらい思い石材を背負って山を下りて、船に乗せていた人がいたから、今があるんだ」と。現在の保田は、かつて賑わっていた町という感は否めないが、こんな時代だからこそ逆に一昔前の先人の苦労を進んで探しに行くことに意味があるだろう。山﨑さんはあえて私に話してくれたような気がしている。


大六海岸の事



ハワイ音楽のひとつ「スラッキーギター」の祖と呼ばれる、ギャビー・パヒヌイが好きだ。彼は伝統と文化を愛し、表現した男だと思う。奔放で放浪的な性格のギャビーは、彼の家の裏庭に集う友人たちと演奏を楽しんでいた。この裏庭の音楽会は、やがてスラッキーギターという音楽ジャンルとして復活し、西洋化や土地開発で消えて行くハワイ独自の文化の復興につながった。そこに集う人たちにとって、ギャビーの裏庭は大切な「居場所」だったのだろう。




ギャビーのアルバムに「ラビットアイランド・ミュージック・フェスティバル」というのがある。ギャビーの家の近くに浮かぶ離島、ラビットアイランドで息子や仲間たちと演奏した曲も入っている名盤だ。鳥の声から始まる一曲目は、自然の中でのびやかに楽しんでいる空気がスピーカーから広がる。楽器好きな知人たちと一緒に演奏したら気持ちよいだろうな、なんて大六の浜辺から沖の無人島を眺めながら思っている。





千倉のサンドカフェの主人が「カリフォルニアのモントレーの17マイルドライブは理想郷のようなところだった、行ったほうがいいよ。」と教えてくれた。その数年後、大学時代に友人のU君とカリフォルニアを旅行して、17マイルドライブを車で走った。無垢な海岸線の自然は本当に気持ちがよかった。途中、松の木が茂る中に少しくねくねした道があって、そのあたりの質感が、「地元と似てるなぁ」と思った。その瞬間、モントレーの海岸に立ちながら、頭はたしかに太平洋を越えて房総半島の保田とつながっていた。家の近くのキスガウラと大六海岸の間の短い海岸線で自転車のペダルをこいでいると、たまに17マイルドライブを思い出すことがある。だから、この道は勝手に「1マイルドライブ」と名付けた。独り遊びです。娘が自転車に乗れるようになってきたので、もう少ししたら一緒に走るのがこのところのちょっとした夢。




10年くらい前、はじめて黒磯のカフェに行った時のこと。店の主人はずいぶん昔館山に住んでいた事もあり、南房総からの客に興味を持ってくれたようだった。店主は若いころ、いくつかの興味のある街に暮らした。いい街にはいい店があったという体験から、その後自分が育った街にカフェや洋服屋や古道具店などを作っていった。現在流行っているようなカフェができるずっと前の事、今や全国的に知られる名店だ。店主が話してくれた「知らない土地で自分の生まれ育った場所をふと思い出すということは、環境や場所が変わっても常に気持ちの中に故郷を持っているからなんだ」と言うのが忘れられない。館山にいた頃、休みの日は南房総の景色の良い場所を探してバイクを走らせていたという。保田の事を言ったら、「たしか、あのあたりの国道沿いに、いい感じで松が生えた海岸があったよね」と話していた。家の近くの風光が店主の記憶にも残っている事が嬉しかった。



大六の浜辺にあった古い廃屋を、知人が2年かけてひとりで改装して、とうとうカフェと住まいにしてしまった。奥さんと二人でやっている店で、インド風味の創作的なカレーやコロッケが美味しい。保田文庫の本をお店に置かせて貰った縁から知り合ったのがTさんだ。主人の同級生のTさんは、いつもカメラを持っていて、地域の昔の事にも興味を持つ紳士的な方だ。以来しばしばお店で保田の昔の事や、写真の事や、仕事の事や、服の事、さまざまな話をするようになった。こういうカフェが、家の近くにあったらいいなとずっと思ってきた。このカフェの存在が保田文庫の世界をより豊かにしてくれている。


茶の事



千倉のサンドカフェで、「沖箱」の展示会があった。沖箱とは、漁師が海に出るときに使った木製の道具箱で、プラスチック素材が主流の昨今では見られなくなったいわば民具だ。カフェの店内には愛好家たちが思い思いのスタイルで使う沖箱が並べられていた。ある人は文庫本入れ。またある人はコーヒー道具入れ。どれもよく手入れされており、経年の味わい深い質感があった。私が沖箱というのを知ったのはその時だった。が、どうもこの箱は、見おぼえがあった。家に帰って、物置の奥にもぐりこんで探したら、一つ出てきた。祖父に聞いたら50年くらい前に買ったのだという。見つけた沖箱は、中国茶器がぴったり入るサイズだったので、茶道具入れにすることにした。



天気の良い日に沖箱と茶葉、それからちょっとした菓子をもって、娘とキスガウラの松の陰でお茶をした。夏の終わりで日差しは強かったが、風はほどよく涼しくて、過ごしやすかった。砂浜には独りで泳いでいる若い男性がいた。



キスガウラの別荘人の草分け松山吟松庵は、わがままで豪快、健啖家であった一方で、学者としては厳しい姿勢を持っていた人物だった。大実業家で茶人の益田鈍翁や横井夜雨、川喜田半泥子、高橋箒庵など、茶の湯界のそうそうたる人物に頼られる見識の持主でありながら、妻と二人で保田のはずれ、吉浜の浜辺で素朴かつ自由に暮らし、茶道史の探求に励んだ。八大山人、吉田兼好、鴨長明のような文人、粋人のように、徒然なるままに簡素に自分の境地に遊んだ翁だったのだろう。ひげを伸ばした細身の格好が仙人のようだ。



松山は東京に暮らしていたころから保田、吉浜の日蔭の茶屋という茶店に来ていたようだ。まだ保田に鉄道が通る前、明治時代のことだ。松山は大正時代になって、この茶屋のとなりに家を構え移住した。茶屋の店主とはどんな会話をしていたんだろう。



中学生の頃に英語を習ったK先生の塾を十数年ぶりに訪ねた。先生の父親が松山と関係があったと聞いて驚いた。「あなたの口から松山さんという名を聞く日が来るとは思わなかったよ」と先生も笑って驚いていたが、家の奥から面白い器があると持ってきてくれた。父親が松山からもらったものと思われる器だという。大きな二枚貝の片方を鋳物で縁取って、鍋の蓋をその貝と同じ大きさに加工してピタリと合わせてある。蓋も貝の縁の凹凸に合わせ微細に調整されている。素朴な材料ながら、細部まで美を追求する気迫が感じられた。



幼いころのK先生は残月庵に遊びに行ったことがあったという。家の中の柱はとにかく古く真っ黒になるほどいぶされていて、天井を見上げると竹と紐で編まれた茅葺屋根が高く続いていたという。



保田日記の中に、小泉丹と松山吟松庵が一緒に山を散歩して「林間で茶を飲んだ」と書いてあった。持ち運びしやすい道具を持っていたのかな。「だいぶ歩いたので一息つきましょうか」「ここからならちょうど富士山が見えますよ、では景色を見ながら一服しましょう」と人知れず山中で茶を広げる老人二人。まるで小津安二郎の映画のよう。タイムマシーンがあったらその傍らに行ってみたいものだ。


板子乗りの事



幼い頃祖父に連れられて家の下の浜で泳いでいたとき、隣で海水につかっていた近所のおじさんが「俺の小さかった頃は、台風が来ると洗濯板とか板切れで波乗りしたもんだ」と言っていた。



避暑地や海水浴地の歴史を調べるようになって、「板子乗り」という海の遊びがあったと知った。和船の底板で波に乗っていたことからその名がついたのだという。今ではこの遊びをやる人は殆んどいないが、戦前までには全国的に楽しまれていた遊びだったそうだ。いずれにしても波が大きい時に板状のものでそれに乗ろうというもの。近所のおじさんがやっていたのもこの類だろう。



板切れを買ってきて、試しに波乗りしてみた。波が割れるタイミングでそこに滑り込んでいくとそのまま波の上を走ることができた。海底の地形的に岸辺で波が盛り上がりやすい保田の海岸は、板子乗りに適していると思う。昔の板子乗りは岸に向かって垂直に乗っていたというが、サーフィンの要領で波の上を岸に対して平行に進もうとやってみた。台風の時の大きく盛り上がった波にうまく乗ると、波の輪っかの中にも入ることができて、かなりエキサイティングな遊びだ。材料はホームセンターの棚板でいい。1500円もあればお釣りが来る。



最初の夏は、ホームセンターで買った棚板に防水のために油性ニスを塗って使っていた。本来の板子乗りの雰囲気に近いものにしたかったので板の形状には何も手を加えなかった。次の年は、大工のTちゃんに頼んでもう少し板を短くしてもらって、カンナで縁取りもなめらかにしてもらった。板が短くなった分浮力が減ったので、こちらは大きな波用にすることにした。波の様子によって使い分けするのも楽しい。



台風の波が入ってきた日、保田海岸で板子乗りをした。その日はサーフィンをやる人たちも保田の海岸を選ぶ人が多かった。ひとしきり楽しんで海から上がったら、サーフボードを持った人に「いったい何を使って波乗りしてるんですか?」と質問された。「ホームセンターで売ってる板なんです」と返したら、「へぇ、勉強になります」と妙にまじめな表情をしていた。ただ自己満足的に遊んでいるだけなので、これにはちょっと恐縮。でもいつか板切れをもったあの人と海ではちあわせたりしたらおもしろいだろうな。



大正時代に保田に赴任した警察官が吉浜の小学校で子どもたちに水泳を教えたという。どんな人物か気になって調べてみたら、大正3年にこの人が書いた本が国立国会図書館にあった。古い泳ぎ方や、人の助け方など水に親しむことの「いろは」・「こころがまえ」が書いてある。そのなかに「板子浮具の事」というのがあって、なんと板子乗りの方法を解説していた。後日、祖父のおばがその人の息子と結婚したと知って驚いた。時を超えて、まさか遠い縁戚から海の遊びを教えてもらうとは思ってもみなかった。



インターネットに古い絵葉書の専門店があった。買わずとも、見ているだけで楽しい。写真面は当時の風景を伝える貴重な資料である一方、宛名面のメッセージや消印もあなどれない。例えば、夏休みに保田に海水浴に来た子どもが、東京の家族に向けて「水泳練習で泳ぎが上達しました。頑張っているから心配しないでください、真っ黒に日焼けして帰ります」みたいなことを書いている。ある人物の個人的な視点から時代を感じ取るのが、映画「プライベートライアン」に似ているような気がして、なかなか味わい深い。


ついにみつけた。保田の海岸でたくさんの人が板子乗りを楽しんでいる古い絵葉書だ。神奈川の大磯や外房の御宿など、古い海水浴場を紹介する絵葉書の中には、板子乗りを楽しむ様子が写っているものがある。きっと保田にも同じようなものがあるはずと思っていたが、これがなかなか無くて、2年ほど気になっていたところだった。




久しぶりに江田写真館を訪ねたら、先代が撮った古い写真がたくさんあると見せてくれた。戦前から昭和30年代くらいまでの大量のモノクロの紙焼き写真が束になって保存されていた。600枚くらいはあった。七五三、結納、兵隊の出征、地域の祭りの集合写真、海水浴客たち、個人別荘に来た一家、浜辺で撮影したポートレイトなど、、一枚一枚手に取り、そこに写っている人の表情や服装、背景の街の様子などをみて味わっていく。今の時代とは違った空気感、質感がにじみ出ていて、いろいろと思いが巡る。ある枚数を越えると、手に取っている写真の存在がとても尊く思えてきた。ブラインドの隙間から昼の陽が差し込むスタジオで、江田さんと2人で古い写真を取り出して見ていると、江田さんは「写真はさぁ、やっぱり、あとだよ」としみじみ言った。「あとってどういうことですか?」と聞くと、「後になって、出て来るもんなんだよね。良さがね」と返した。それを聞いて私は「写真」の持つ底力に触れたような心地がした。



江田さんからいただいた古い写真。家族らしき人たちが写っている。夏の思い出にと地元の写真館に撮ってもらった一枚だろう。みんないい表情しているな。やっぱり海はこうでなくちゃ。




保田駅の改札脇に、古びたショーウィンドウが壁に作りつけてあった。細い丸太で骨が組まれ、側面は薄い漆喰の壁、庇が出ている。なかには1畳分のゴザが敷かれていて、天井は網代編になっている。ショーウィンドウというより飾り棚という風情か。大正6年に駅ができて以来、この棚は沢山の避暑客が往来する駅舎で時代を見守ってきのだろう。近年は電車の便も少なくなってしまったけれど、この間梅雨入り前にみたときは、傘をさしたカエルと藤の花が飾られていた。




保田と勝山は隣接した地域で、鋸南町ができる前は別々の町だった。本当かどうかはわからないが、保田は勝山に比べて「房州弁」のなまりがきつくないというのを何度か聞いたことがある。その理由は避暑客や別荘人など、都会の人との交流が多かったからなんだという。今では、きつい房州弁を話す人もずいぶん少なってしまったが、私の世代くらいまでは、なんとなくその感覚がわかる人もいるように思う。



満月の夜に、江月のとある別荘に呼ばれて庭で夕食を食べながら過ごした。幼いころから江月にはあまり遊びに行ったことはなかったから、ゆっくりと江月に身を置いたことはほぼ初めてだった。山の稜線からとても明るい満月が出てきたころには、夏の終わりの丁度いい涼しさで、風も心地よかった。海沿いとは違った空気感が、たしかにそこにはあった。冬は寒い日ほど道端の水仙が香を強く出して、一帯がそれに包まれるのだという。



10代の多感な頃、Kさんは保田の別荘に来るや方々を歩いて、気分転換をしたり、内省したりと過ごしていたらしい。保田の海岸から三浦半島の明かりが見る度「ここは対岸なんだなぁ」とよく思ったものだと話してくれた。Kさんの「対岸」という言葉の中には、非日常的な癒しだったり、自分を俯瞰することだったり、年頃の漠然とした不安だったり、開放感だったり、様々な気持ちが含まれているのだろう。海を越える移動体験が、日常から離れてこの海辺の町に来る人たちに、様々な精神的な作用をもたらしている。



好きな本の一つに川本三郎の書いた『火の見櫓の上の海 東京から房総へ』というのがある。つげ義春、安西水丸、夏目漱石、石原純、竹久夢二、三島由紀夫、白土三平、、房総を訪れた作家や文人縁の地を散策する紀行文集だ。川本氏は、この本で房総半島の地理的性格を「東京の近所田舎」と書いている。戦前にキスガウラに別荘を持った人たちは、東京の旧芝区あたりの人たちが多かったようだ。波止場も近いから船の便もよかっただろうし、両国発の電車の便も悪くなかったはずだ。



高速道路で出かける時に、アクアラインの海ほたるで休憩することがある。コーヒーを買ってデッキに出ると房総半島が見える。鹿野山の向こうに、横長のいびつな弧を描く鋸山をみつけると、あの裏側が保田なのだなと思う。見えていない「裏側」というのがいい。昔、船で保田に向かう避暑客や別荘人もきっとワクワクしたんじゃないかな。船が進むごとに徐々に大きくなる鋸山を越えたら、そこは保田。都会から見えない町。




明治時代、湘南の大磯に日本初の海水浴場が開設されて、東海道本線の大磯駅が明治20年にできると、政財界の要人が次々と別荘を構えていった。大磯一帯は海浜保養地・別荘地として発展したという。一方、当時の保田は、まだ汽船で来る町で、鉄道の保田駅ができるのは大正時代になってからだった。明治時代の保田には、海水浴に来る人もそれなりにいたようだが、出獄後の社会主義者が一時住んでいたり、大六のとある別荘では孫文が匿われていたという話もある。東京から西側に政財の息がかかっていく時代、反対方向の房州・保田は時代の死角、隠れ蓑としてちょうどよかったのかもしれない。



大六海岸のカフェの主人が、こんな曲があるよと教えてくれたのが、南こうせつの「房総西線」という曲だった。今の内房線は昔、房総西線ぼうそうさいせんという名だった。歌詞は東京から列車に乗って房州に向かう人の心情が描かれている。マイナーの曲調で始まるこの曲は都会への心労が伺える。そのあと車窓から海が見えると一転してほのぼのとした明るい曲調に変わり、心が和んでいく。この曲には、都会と房州の関係について大事なことがつまっているような気がする。



日常を忘れ何事からも離れたような気分になりたくて、人は景色の良い所や自然の中に赴くのかもしれない。観光地や保養地というのはそういうところだと思う。けれども、そういう土地にだってそこを日常の場として生きる人がいる。観光地や保養地において「居るひと」と「来るひと」の間に生まれるべきものとは何なのだろう。



保田以南にも昔汽船が発着した避暑客で賑わった海辺の町がいくつか有る。それぞれを歩いてみると、保田と同じように町外れの景色の良いあたりでは、経年の雰囲気のある家や、特別ないわれがありそうな「匂う」石垣を見かけることがある。保田に限らずその土地にしかないエピソードがまだまだ眠っているはずだ。

石原純の事



保田小学校に通っていた頃、先生が「この学校の裏山に、昔、有名な博士が住んでいたんだよ」と言っていたのがどうも気になって、二階の廊下の窓から小枝の搖れる丘を眺めていた事があった。この有名な博士というのは、アインシュタインに理論物理学を学んだ当時一流の学者・歌人・科学ジャーナリストの石原純という人だった。石原は、大正時代に原阿佐緒という歌人と恋仲になって保田に駆け落ちして、保田小学校の裏に洋館を建てて住んだのだという。石原が保田に住んでからは、新聞記者や学者、歌人、いろいろな文化人が保田に来るようになったらしい。



元名海岸での仕事から帰る途中、昔汽船がついていた古い港のあたりを歩いていたら、白いベンチに高齢の男性がひとり座っていた。昔の話を伺っていたら、家に面白い絵があると、ご自宅に案内してくれた。石原純が父親のために描いた絵だという。漁師だった父が海で泳いでいて溺れてしまった石原を助けた後、石原が御礼にと持ってきたのがその絵とのこと。元名海岸から見た鋸山の風景画なのだが、よく見てみると、リンゴや水指がぼんやり浮かび上がって見えた。描き途中の静物画に上描きされているので、美術作品としては微妙かも知れないけれど、石原の日常を物語っている気がして、むしろ印象的だった。



石原純が住んでいた保田小学校裏の洋館は、もう存在していない。いまや石原のことを知っている人も少なくなってきていて、伝説に近くなってきた感がある。地域のご老台に聞くと、断片的な回想で「建物の壁は白かったよ」とか「瓦は赤だったかな」というふうに返ってくる。それらの話を聞いて、『鋸南町史』に載っているモノクロの写真をじーっと見て、想像で色を付けていく。これも楽しいのだが、どうも釈然としない。何かよい方法はないかなと思いついたのが、レゴブロックで作ってみるというものだった。先日子どもたちを連れて、レゴのテーマパークに行ったときに、赤い切妻屋根と白壁のシンプルな家が三種類作れるキットがあった。これをアレンジしたら、かなり近い模型が作れると踏んだ私は、後日キットを買って、作ってみた。なかなかいい出来栄えのものができた。かつて学校裏の高台にあった洋館は、かわいらしい感じのものだったようだ。



石原は、いくつかの文章で保田の自然環境を好んでいると書いている。保田移住後、科学ジャーナリストとして旺盛に筆を振るい、歌人としては新たな境地を模索した。保田の風土は石原の精神に活力と安らぎを与えていたに違いない。




関東大震災が起きたのは、石原純が保田に移住した翌年だった。地震発生当時も石原は保田にいたようで、当時のことを克明に記した文章を残している。その文章は理科ハウスという名の科学館のホームページに紹介されていた。理科ハウスは石原の令孫が運営する私設科学館だった。その文章を読むと、まるで映画でも見ているかのように、当時の町中の被害の様子や、人々の心情まで伝わってくる。いつ読んでも感慨深い。



久しぶりに理科ハウスのホームページをのぞいてみたら、今夏をもって一度休館すると書いてあった。それを知ってから、どうも石原の震災の文章を一つの本として地元に残しておく必要があるような気がしてきた。次の休みに理科ハウスを訪ねることにした。



保田移住後の石原は歌人として、前衛的な表現をより強めていった。移住の翌年、大正12年の随筆集『人間相愛』の一番最後には「水」という作品があって、海に注ぐ川の様子が描写されている。どこの海岸とは書いてないけれど、保田海岸の河口あたりのみずみずしい風景が連想される。波打ち際に足をつけていた時にでも思い浮かんだ作品じゃないだろうか。



アントニオ・カルロス・ジョビンの曲に「三月の水」というのがある。石原純の「水」を読んだときに、なぜかこの曲が思い出されて仕方がなかった。どちらも両者の艱難辛苦の末に生まれた作品だと思う。適当な言葉が見当たらないんだけど、みずみずしくて、憂いがあって、知的で感覚的な言葉が美しく並んでいる。二つの作品が似ていると感じたのは、ひょっとしたら、二人とも海のある土地に癒され、創作の力を得ていたからじゃないだろうか。


   水        石原 純

ちひさな河が冬田のなかをながれて
海ぎしでふくれてゐます。
その河ぐちに砂がたまつて、
河みづがいつぱいに
みどりいろのこけをふくんで
じつとふかくたまつてゐます。
西かぜが強くふく日、
満潮のたかい波が砂をこすと
やはらかい砂やまがすつと途ぎれて、
河みづと海のみづとが
お互に交錯し出します。
     ・
しとしとと湿りをもつて
くろずんで見える砂のうへに
波がすつと退ひいてゆくと、
しろい無数の泡くづが
さつとしづかに拡がります。
何といふうつくしい自然の紋様。
河のまみづがその後をうて
ゆらゆらと水脈を曳いて
透明にながれ続きます。
河みづと海のみづとの
絶えはてぬ多様の交錯。
     ・
河ぐちの橋を渡つて
私はその海ぎしの砂浜をあゆみます。
河みづのそそぐながれが
あるときはふかく
あるときは浅く、
きのふは向うへ寄つてゐたのに
けふはまるで砂で塞がってゐます。
風のちからと波のうごきと、
数へきれない偶然のかさなりが
この複雑な様態を
それでも厳確に支配してゐるのです。
     ・
それは或る寒い冬の朝でした。
河みづのしづんだおもてには
うすい氷が
めづらしくもいちめんに張って、
緑青いろをふかくつヽみながら
ところどころに日光を反射してゐます。
河ぐちをほそく縁どつた
砂がこひのしきりを隔てて
いきいきと波うつてゐる
あの洋々とした海のみづと、
何といふ対照なのでありませう。
     ・
海ぎしの砂浜のうへに
冬の平和な陽をあびて
私はそこに立ちながら、
じぶんのこころのうごきを
しづかにこまかく辿りてみます。
かたくななひたむきな
しかしはにかましいじぶんが
あわれにもまたかなしくも省りみられます。
藍いろにひかつた海のみづが
響きのこもつた潮とともに
いま私のあしもとに
こもごもたかまつてまゐります。
やがては乾いた砂をこえて
河のまみづに
交錯せんがために。
















あとがき

 「ふるさと」はどこにあるのだろう。そんなことをふと思って、辞書で引いてみた。「自分の生まれ育った土地。故郷 (こきょう) 。郷里。以前住んでいた、また、前に行ったことのある土地。-」と書いてあった。しかし、ふるさとという言葉にはもう一つ「精神的な場所」というような意味合いがあるような気がしてきた。それは、必ずしも辞書の意味通りでなくて、自分の感覚の素や基盤になるような体験を得た場所とでも言えるのかもしれない。それは郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味合いを持つ「サウダージ」という言葉に近い感覚かもしれない。
 鱚ヶ浦で生まれ育った私は、幼いころから親しんできたこの界隈の、特に夕暮時の雰囲気は常に心情の根底にあるとおもう。きっとこの「感覚」が私にとっての精神的なふるさとなのではないかと思う。永年鱚ヶ浦を訪れている別荘人の方たちは、幼いころにここで過ごした日々の景色や雰囲気を大事な思い出として懐かしそうに語ってくれる。保田や鱚ヶ浦のことを「第二の故郷」と思っている人がいる。私も含め、きっとこの土地の持つ雰囲気や力みたいなものに影響を受け、好んでいるのだと思う。

きすがうら日録

2019年1月10日 発行 初版

著  者:前田宣明
発  行:保田文庫出版

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