───────────────────────
───────────────────────
「あの……、この、長期経済計画の資料に載せる一人当たりGDPについての項目なんですが……次からは抽象的な言葉でなくて、具体的な数値を載せるようお願いします」
国家経済財政委員会の席上で、ペンの力で四〇代の姿に変身していた珠洲は報告に来た経済企画部の事務副部長と総合計画司の司長、副司長に頼んだ。
「え……あ、はい」
「わかりました……」
総合計画司の司長と副司長は不満げに回答した。そして、事務副部長と共に会議室を退出した。
「ふん……公務なんて適当で構わんよな」
「そうだな……我々には本業があるのだから」
そして、三人で愚痴を言い合った。
「珠洲ちゃん……今の人たち……あんまり納得してなかったみたいに見えたけど……?」
一方、三人が退出したあと会議室内で美濃が珠洲に言った。
「うん……でも、やっぱり経済計画に数値もないのは不味いと思って……」
「確かにそうだね……」
「というか、数値がないっていうのは随分いい加減なんじゃ……」
出席していた経済企画部長の男子、勇山今朝(ゆうざんけさ)が言った。
「あ……まあ……」
珠洲も苦笑した。
「なんでああなっちゃうのかな……」
その場にいたとまとも言った。
「あ……うん……それは多分、この国はまだ公務員の兼業を認めているから……。もうそろそろ日本と同じように、これも禁止しようと思う」
珠洲は答えた。
*
「義務教育制度?」
教育部長を務めていた華月が珠洲に聞いた。
「うん……。史ちゃんが、地方の大人は文字が読めないから、必要なんじゃないかって……法案を検討してほしいんだ……」
総理執務室にいた珠洲は彼に頼んだ。
「わかった……でも、きっとすぐには定着しないと思うよ、一応この国が中国だったときから義務教育制度はあったんだし」
「うん、わかってる……だから義務教育の年数も短縮して考えるとかしてもいいと思うよ」
「そう……」
華月は答えた。
*
一ヵ月後、国務院全体会議に提出された教育部案では、義務教育は三年間と明記された。
「え……三年?」
「短すぎない……?」
耐と、労働社会保障部長の光恵が言った。
「少ないよ……日本と同じ九年間はいるよ」
楢樹も言った。
「うん……でも、関東が中国だった頃も制度上は九年間だったけど、識字率は十%もなかったみたいだし、少し短縮しないと……」
珠洲は言った。
そして、全体会議での議論の上、数日後、関東議会議員機構法案として義務教育を六年間とする教育基本法が国家議会に提出された。
*
「労働基準法って何……?」
国務院総理の執務室で光恵は珠洲に聞いた。
「えっと……労働契約を結ぶときに必要な基準を定めた法律……でいいのかな。とにかく、なるべく早く作ってほしいんだ……。私たちがいた日本の制度を元にして……」
珠洲は光恵に依頼した。
「あ……うん、わかった……」
光恵は返事をした。
*
しかし、後日光恵が国務院の全体会議で提出した部の案は、明治時代の日本の工場法を元に作られたもので、一五人以上いる事業所に対して一日一二時間以上の労働を禁止するだけのものだった。
「な……これじゃマズい……」
珠洲は配られた資料に書かれてあった法案の骨子を見て驚いた。
「何これ……?」
楢樹も訝しんだ。
「光恵ちゃん……、お願い、部の人に言っといて……、戦後の日本の労働基準法に合わせて、週四〇時間以上は残業、残業は月四五時間までっていう内容にし直してって……」
「あ……わかった、ごめんね、珠洲ちゃん……」
光恵は珠洲に詫びた。そうして、政府案は部の元の案を大幅に書き直したものになった。
*
珠洲が国務院の総理に就任してから約三ヵ月後の一一月一日、国家議会議員で議会議員機構の中央委員だった黄という男性が政治資金規正法違反で逮捕された。黄は匿名の口座を銀行に作ってそこに資金を保管していた。そのことについて楢樹は国務院全体会議で頻繁に珠洲を問い詰めていた。
「うわ……小瓶の砂が減ってる……どうしよう……」
「何か対策を採らないと……」
全体会議が終わった後で、総理執務室に来ていた耐と司は言った。
「あ……うーん、あのね……」
そのとき珠洲が二人に話しかけた。
「え……?」
「今思い出したから、私もうろ覚えなんだけど、一九九〇年代から、韓国では、腐敗の温床になっていた架空名の口座の開設を禁止したんだ……。未来の先取りになっちゃうけど、この国でもやってみる……?」
珠洲は言った。
「え……」
耐はきょとんとした顔になった。
「うーん……どうなるんだろ、この国の現状に適応したものにしないと……」
美濃が言った。
「うん……具体的な条文は、とまとちゃんと財政部の人たちに考えてくれるように頼んだほうがいいと思ってる……」
珠洲が美濃の発言に返事をした。
後日、その法案は金融実名法として、政府・与党から国家議会に提出された。
*
その約一ヶ月後、今度は旅大専区にあった西崗(シーガン)区政府の職員が裏金を作っているとして検察の捜査を受けた。
「どうしよう……地方での公務員の汚職が多い……」
その事件が報道されてから数日後、国務院全体会議の席上で美濃が呟いた。
「あの、美濃くん……、前から民政部で検討していることなんだけど、市轄区政府と県政府をなくして、地方機構をスリム化したらどうかな」
民政部長だった安場千枝(やすばちえ)が発言した。
「えっ……県をなくすの?」
司が聞き返した。
「うん……。具体案はもうあるんだ。日本の郡に相当している県政府を廃止する他、各専区の市轄区政府も原則として廃止して、代わりに市轄区域を統合する県級クラスの市を置く、それから、五大専区である長春、旅大、吉林、撫順、鞍山専区にも、市轄区域を統括する市を置くんだ……。楢樹くんも、いいよね」
千枝は楢樹に聞いた。
「あ……いいと思うよ」
楢樹も千枝の案に同意した。
「わかった……千枝ちゃん……民政部のその案を詰めて、提出してもらえないかな……?」
「いいよ」
珠洲の頼みに千枝は答えた。
*
「みんなお待たせ……、鉄道の改良案ができたよ」
交通部長の桜が総理執務室にいた珠洲、美濃、耐と司に鉄道の輸送改善案の資料を持ってきた。
「みんなが言っていた自走式の車両だけど、日本のこの時代の国鉄の五五系準急用車両を手本にした、各車両に動力のついたディーゼル車両を導入することになったよ。形式はD一〇〇〇系で、運行区間は、大連から瀋陽北(シェォンヤンベイ)を経由して長春までと、安東から瀋陽北を経由して撫順までで、両系統は瀋陽北駅で接続するんだ」
桜は資料を四人に配ると説明し始めた。その資料には、蜜柑色と深紅色のツートンカラーに塗られた車両の完成予想図が描かれていた。
「へえ……」
耐はそれを見ながら頷いた。
「半数は特急だけど、もう半数は、新たに新特急という種別を設けて、大連、長春間は大石橋(ダーシーチャオ)、鞍山、瀋陽、瀋陽北、四平のみ、安東、撫順間は鳳凰城(フェォンファンチェォン)、本渓、瀋陽、瀋陽北のみの停車として、スピードアップさせる予定だよ。それから、瀋陽市内交通の方は二両編成の路面電車にして、白山(ペイシャン)から北陵(ベイリン)、市政府前、渾河を経由して楡樹台(ユーシュータイ)までに二二駅を設け南北に走る路線と、于洪(ユーホン)から瀋陽駅、市政府前、瀋陽東(シェォンヤンドン)駅を経由して観泉(グヮンチュェン)までに二七駅を設け東西を走る路線の二つにし、両路線は市政府前で接続するという計画なんだ」
「なるほど……」
珠洲たちは桜の説明を関心した様子で聞いた。
*
「国旗の図案ができたよー」
その数日後、国務院総務庁主任の立華と彼女を補佐している副主任の雲雀が総理執務室に入ってきた。
「え……どんなの?」
耐が興味深そうに尋ねた。雲雀は手にしていた資料を室内にいた珠洲、美濃、耐、司の四人に配った。
国旗の図案は白を基調としたもので、横に黄土、青、赤、白、黒のラインが引かれたものだった。それぞれの幅の比率は、上から順に白三〇、青一、赤一、白一、黒一、黄土八、白一四となっていた。
「耐ちゃんが部長を兼任している民族宗教部の人の意見を聞いて、満洲人、中国人、蒙古人などのシンボルカラーが入っていた旧満洲の国旗のデザインを少し継承する形にしてみたよ」
雲雀が説明した。
「現代的な図案だね……」
美濃が呟いた。
「うん……いいと思うよ」
司も言った。
「立華ちゃん、雲雀ちゃん、ありがとう……これを法案化して議会に提出してみないか全体会議でみんなに聞いてみるね」
珠洲は二人に礼を述べた。
「あの、珠洲ちゃんいる……?」
そのとき、執務室の扉が開いて、議員機構宣伝部長をしている鳳仙と、四〇代くらいの男性が入ってきた。
「あれ……?」
「鳳仙ちゃんも用事……?」
司と美濃が彼女に尋ねた。
「あ……この人、黄副部長が、なんか珠洲ちゃんに会いたいって……」
鳳仙は恥ずかしがりながら二人に説明した。
「朝霧総理……、二人で話がしたいのですが、私と一緒に来ていただけないでしょうか」
黄は珠洲に言った。
「え……、いいですよ、ちょっと待っててください」
珠洲は黄に告げた。
「わかりました……それでは、隣の控え室にてお待ちしています」
黄は珠洲に言うと、執務室を後にした。
「珠洲ちゃんだけって……何の用かなぁ……?」
司が不安そうに呟いた。
「あ……」
珠洲はポケットに霊力のペンが入っているのを確認した。
「大丈夫だよ、ペンもあるし、きっと」
そして、司たちに笑ってみせた。
*
「総理、お呼びした件なのですが……、実は、国務院会議府と各地区の地区政府前に、総理の銅像を建ててはいかがでしょうか」
控え室で黄は珠洲に提案した。
「え……」
「銅像……?」
珠洲も、その場にいた鳳仙も彼の提案に驚いた。
「あ……勿論お姿は成人の状態のものでです」
「もしかして……私だけを控え室に呼んだのって、他の国務院委員に聞かれると、どうして私なのかと言われる恐れがあったからですか……?」
珠洲はやれやれと言った表情で黄に尋ねた。
「あ、はい……」
黄は苦笑いをした。
「それを、国費か、議員機構の党費でやりたいというのですか……」
珠洲はまっすぐに黄を見つめた。
「はい……」
黄は頷いた。
「え……」
鳳仙は珠洲の真剣な表情に驚いた。
「だめですよ、それは」
やがて珠洲は苦笑しながら答えた。
「え……ですが総理、この国を一つにまとめていくためには、求心力となるカリスマが必要なのではないですか?」
黄は珠洲の回答に驚きながら言った。
「いえ……私は、私たちの政権には、カリスマ性も、求心力も必要はないと思っているんです。黄副部長……逆にお願いしたいのですが……党費を使って、指導者の偶像崇拝を進めるような宣伝はしないでください」
珠洲は笑いながらも丁寧に説得した。
「え……はい……」
黄は渋々頷いた。
*
「総理は、先日議会でされた施政方針演説に於いて、関東の一人当たりGDPを数年以内に中国の三倍以上とし、関東を経済的な基盤の上に成り立っている経済国家であると述べられました。総理は臨時独立委員会主任も務められましたが、関東が中国から分離・独立した原因は、経済的な理由にあると考えてよろしいのでしょうか」
翌日、珠洲は大人の姿に変身し、初めて大規模な記者会見を行った。彼女は二〇名ほどの記者たちが座席に座っている前に立って一人の記者の質問に耳を傾けた。
「そうですね……関東に、中国以上に経済成長の可能性が見込まれることが、関東が中国から独立した最大の要因です。ですが……合わせて、中国が共産化し、とくに産業の集団化を推進して以降、中国は大規模な経済不振と飢饉に見舞われました。飢饉が発生すると、人々はまず木の皮や草を食べました。やがてそれらがなくなると、自分が生んだ幼い子どもを茹でて食べました。自分の子どもを食べるのはつらいということで、近所の家の子どもと自分の家の子どもを交換して食べる、易子而食という風習が広まりました。やがて、子どもたちがいなくなると、今度は集落に残っていた老人たちを食べました。そして、集落からは何もなくなり、まったく何の物音もしなくなったと言われています。関東共和国が建国された要因には、このような凄惨な状況から少しでも人々を救うことがあったことも、忘れてはいけないと思います。……よろしいでしょうか……」
珠洲は淡々とその記者に回答した。
「それでは……他の質問はありませんか?」
「はい……」
一人の記者が挙手した。
「あ……そちらの方、どうぞ」
珠洲は彼を指名した。
「総理は、飢饉から人々を救うために関東は中国から分離独立したとおっしゃいましたが、関東はかつての満洲帝国に比べると、領土はその四分の一程度です。とくに、かつての中国の黒龍江省からは牡丹江専区しか編入しておらず、省都ハルビン市などは現在も中国領ですが、今後、関東がさらに領土を拡張していくことはあるのでしょうか」
「そうですね……記者がおっしゃる通り、関東の領土はかつての満洲帝国の四分の一程度ですが……領土を拡張する余裕は、関東の国力にはないと考えています。ハルビン市を含めて、今後関東が中国を侵略することはないです」
珠洲は言った。
「あ……宜しいでしょうか」
今度は別の記者が挙手した。
「あ……ちょっと待ってください、えっと……今の方は、宜しいでしょうか?」
珠洲は前に質問した記者に尋ねた。彼は小さく頷いた。
「あ……それでは、はい、どうぞ」
「現在のわが国の閣僚の出自についてですが、虚偽との指摘も多く、また安保上の理由から機密とされ公開されていない箇所も多く散見されますが、圧倒的多数が日本人です。このことは民族自決の原則と矛盾しているという指摘もできると思いますが、総理は閣僚に関東出身の人物を起用することは考えておられないのでしょうか」
その記者は質問した。
「ええ……まず、機密の件については、安全保障上の理由から国務院の方で開示が危険と判断した箇所については引き続きご理解をお願いいたします。また……、確かに今、関東の国務院委員の大半は日本人ですが、おっしゃる通り、これは民族自決の観点から見れば改善の余地があると考えています。満洲は日本の関東軍によって建国された国家であり、国の運営は関東軍によってなされていました。中国成立後は東北(ドンベイ)人民政府主席であった高崗(ガオガン)が東北分離を画策していたとも言われていますが、これも失敗に終わっています。これまで関東国民はその教育水準も低く、近代に入ってから自分たちの手で国を運営することができませんでしたが、今後国民の民族自決の意識は高まっていくものと思われます。私の後任の総理を含めて、関東出身の人物が国務院委員に就任する可能性は否定できません。……よろしいでしょうか」
珠洲は記者に尋ねた。彼は頷いた。
「それでは……他に質問のある方はいらっしゃいませんか?」
珠洲はあらためて室内にいた記者たちに言った。少しの間があったが、誰も手を上げようとはしなかった。
「了解しました……それでは、今日の会見はここまでにしたいと思います。どうもありがとうございました」
珠洲は頭を下げると、自分の右側にあった部屋の出口に向かった。
「ふう……」
そして、その部屋の隣の部屋に入ってすぐに、少し珠洲の足はよろけた。彼女は薄い緑色の光に包まれ、子どもの姿に戻った。服はブカブカになった。
「珠洲ちゃん……大丈夫……?」
その場にいた子ども姿の耐が珠洲に聞いた。
「あ、うん……。でも、いっぱい質問されると、ちょっと不安にはなったかな……この国の未来が。自分でこの国の未来について答えたつもりなんだけど……。私も、どこまでこの国を支えられるかわからないから……」
「え……」
「珠洲ちゃん……大丈夫だよ」
「え……史ちゃん……?」
同じくその場にいた史香が珠洲の肩を軽く抱いた。
「私も珠洲ちゃんを支えるから……私だけじゃない、クラスのみんなも、珠洲ちゃんの仲間だから」
史香は優しく珠洲に言った。
「あ……うん、ごめん……大丈夫だよ」
珠洲は一瞬目を丸くしたあとで、落ち着いた様子で嬉しそうに史香に礼を言った。
*
「あの、珠洲ちゃん……保衛委員会のシギントで掴んだ情報なんだけど、ソ連が中国に核弾頭つきの準中距離弾道ミサイルを譲渡したみたいなんだけど……」
数日後の一二月のある日、国務院総理の執務室で史香が報告に来て言った。
「えっ……!?」
座席に座っていた珠洲は書類に目を通すのをやめて驚きの声を上げた。
「対立するどころか核を送ったの?」
執務室にいた美濃も驚いて聞き返した。
「やっぱり、僕たちが来たせい……?」
司も呟いた。
「うん……保衛委員会の方で調べてたら、瀋陽から約一〇〇〇キロ離れた内蒙古(ネイメォンウー)自治区のシリンゴル盟の地下にある第二一施設で極秘にR―五型準中距離ミサイルの組立機と運搬車を保管していて、既に三発程度が完成し、付近に発射基地も建設中だって……。戦略ミサイルを扱う第二種砲兵部隊も組成されて、毛中共主席が主席を務める中央軍事委員会に直属しているって。ミサイル発射基地が完成したら、発射命令が下ってからおよそ二時間で、広島の二〇倍の威力の核を、瀋陽までだと七、八分で飛ばせるようになるみたい……」
史香は手にしていたメモを見ながら言った。
「うわ……」
耐が呟いた。
「これ……、なんなら、私が保衛委員として爆破してくるよ」
史香は顔を上げて言った。
「えっ……ちょっと待って、いくらなんでもそれは危ないよ……」
珠洲は驚いた。
「大丈夫。ペンの力の使い方にも大分慣れたし。それにお互いに機密な内容だから、人数もあまり増やせないよ」
史香は笑顔で言った。
*
中国の内蒙古自治区シリンゴル盟の砂漠の中に、巨岩のうちのひとつを刳り貫いて、一〇トン級の大型のトラックが入れる程度の大きさの鋼製の扉があった。そこが秘密に準中距離弾道ミサイルを保管している第二一施設の入り口だった。夕暮れ時に、史香は一人で、爆弾を入れた薄い茶色のリュックサックを背負って、ペンによる瞬間移動を使ってその内部に潜入していた。ところが、彼女はその途中で中にいた警備員に発見された。
「え……もう見つかっちゃった……」
史香はペンによる瞬間移動を使って退避しようとした。
「自動ドア……?」
そのとき、前方に奥の見えない自動ドアがあった。史香は溜息を吐くと、仕方なくペンによるジャンプを一瞬やめて自動ドアを開け、すぐにその奥に向かって走り出そうとした。
すると、その前から来た中国軍の兵士と衝突した。
「ええっ……?」
史香はその場で尻餅をついた。
「な、なんだお前は!」
「どこから入ってきた!」
彼女はすぐに数名の兵士らに囲まれた。
「え……ジャンプできそうにない……どうしよ……」
――危なくなったら、すぐに携帯で知らせて。
史香の脳裏に、瀋陽の国務院の総理執務室で、出発する前に珠洲が自分に言った言葉が思い出された。
彼女は怯えながらポケットに手を入れると、手探りでそこに入っていた携帯電話のボタンを、震えるのを抑えながら何度か押した。すると、予め送信の用意がされていた緊急用のメールが発信された。
*
「……!」
史香が発信したメールを、国務院の執務室にいた珠洲の携帯電話が受信した。
「……」
やがてその部屋から珠洲の姿が消えた。
*
「うわっ」
一方、核ミサイルの保管施設内にいた史香は一人の兵士が持ってきた棍棒で頭を打たれ、その場に倒れ込んだ。
「やれやれ……にしても、国家の最高機密の中枢にどうやって入り込んできたんだろうね、この子は。近所の部族の子だろうか」
「子ども……だと……? ちょっと待て」
そのとき、兵士らの奥にいた一人の将校が突然声をあげ、そして倒れている史香の姿をまじまじと見つめた。
「あ、これは向(シャン)司令員……どうしました?」
「いや……なんでもない。その子はしばらく留置しておけ」
「はい」
その、司令員と呼ばれた将校、向守志(シャンシャオヂー)は他の兵士らに命じた。
「それから……林元帥閣下に連絡をとってくれ。今から」
「あ、はい、承知しました」
他の兵士のうちの一人が返事をした。
*
施設内の一室で、向は電話の受話器を取っていた。
「はい……はい、そうです、子どもです……。え? こちらにお越しになるのですか……? はい、はい……わかりました……」
やがて彼は電話を切った。
「李政治委員同志……、林元帥が明日、自らこちらに来られることになった」
向は部屋の中にいたもう一人の将校、李天煥(リーティェンホヮン)政治委員に話した。
「え……それは一体……」
「わからん……。施設内に不審な子どもが現れたら、すぐに報告を上げるよう彼に言われていたのだが……」
「へえ……そうなんですか……」
李も奇妙そうな顔つきになった。
*
翌朝、キィと音がして、突然留置室の部屋のドアが開いた。
むき出しのコンクリートでできたその部屋のベッドに史香は寝かされていた。リュックサックは兵士らによって没収されていた。ベッドの他にはその部屋には何もなかった。
ドアから入ってきた一人の少女が史香の体を肩にかけた。そして、二人の体はそのまま薄い緑色の光に包まれると、その光ごとその場所から消えた。
「あ……れ……?」
「……」
彼女は無言のまま、ペンによるジャンプを使って施設の外の砂漠の巨岩の下まで史香を背負ってきた。
「え……珠洲ちゃん……? 嘘……」
史香は彼女、珠洲に背負われながら目を覚ました。
「あ……史ちゃん……起きた……?」
「あ……私、危なかったんだ……。総理をやってる珠洲ちゃんがわざわざ来てくれたの?」
珠洲の背で史香は少し頬を赤く染めながら言った。
「え、うん……心配だったから、来ちゃった……。一応みんなにもメールで知らせたから、他にも誰かもうすぐ来るよ」
珠洲も少し頬を赤く染めつつ言った。
「え……ううん……」
史香は返答に窮した。
「どこへ行くのかね?」
そのとき、不意に男性の声がした。
「えっ……?」
珠洲が目を上げると、そこに林がいた。
「林……元帥……?」
「子どもの諜報部員……やはり関東か……。君たちのおかげで、自然現象に敏感なはずのこの私がこんな砂漠でも健康そのものだよ」
「え……」
「感謝を込めて……今日こそは、君たちの正体を教えてもらう」
「えっ……史ちゃん、飛ぶね!」
珠洲は史香を背負ったままペンによるジャンプを行い、丁度見えていた数十メートル先に瞬間移動した。
「ほう……そこか。やはり秘密はこのペンか」
林は手にしていた、以前耐が持っていたペンを使って瞬間移動をして二人の後を追ってきた。
「ええっ……?」
「嘘……」
「あれ、耐ちゃんのペンじゃ……珠洲ちゃん……、彼がもし、ペンの下に向けて拡散していく光の力に気付いたら大変なことになる……あのペンは返してもらわないと……」
史香は言った。そして、珠洲の背から降りると、林に向かって立った。
「ほほう……面白い。君は私と対峙しようというのかね……」
林はそう言うと、腰から拳銃を取り出した。
「史ちゃん……!」
拳銃を持った林の手を見た珠洲は慌てて史香の名を呼んだ。その次の瞬間には史香はペンによる攻撃をしていた。その光は林の左肩に衝突した。
「ぐ……君は……何者だ……?」
林は膝を地面につけながら史香に聞いた。
「私は……珠洲ちゃんに任命された国家保衛委員、夢咲史香です……!」
史香は林に告げた。
「史ちゃん、もういいよ……!」
珠洲は叫んだ。
「く……『政権は銃口から生まれる』か……。君たちも、毛主席様がおっしゃったことをそのまま実行しているわけだな……」
林は赤く染まりつつあった自分の肩から目を離しながら呟くと、上着のポケットから拳銃を取り出し、安定しない目線で史香に狙いを定めて発砲した。
「……!」
史香の瞳孔が縮み、彼女は仰向けに倒れた。
「史ちゃん……!」
そこに珠洲が駆けつけて来た。
「く……」
林もその場に倒れた。珠洲は一度彼の方を向くと、再び史香の顔に目をやった。
「史ちゃん、一回、飛ぶね!」
「痛っ……!」
珠洲は史香の腕を自分の肩に掛け、抱きかかえた。史香は小さく叫んだ。史香の体を完全に地面から離してすぐに、二人の体は薄い緑色の光に包まれ、そしてその光ごと消えた。
それからすぐに、倒れていた林の元に五名ほどの兵士らが駆け寄ってきた。
「林元帥! こちらにおられたのですか!」
「お怪我をなさっておられるではないですか……! まもなく医療班を呼びます、少しお待ちください」
「ああ……」
林は兵士らに応えた。
「林元帥……、それと、報告です、施設内に侵入者が現れました。現在居場所を探しています」
他の兵士が林に告げた。
「それならわかっている……。だが、侵入者ならおそらくもういないだろう」
林は彼に言った。
「は……?」
その兵士はきょとんとした顔になった。
(彼女らの持つ不思議な力だが……私も手に入れることができたようだな……。この力……うまく使えば、私が毛主席に取って代わり、私がこの国を治めることができるかもしれん……)
林は自分の脇に転がっていた霊力のペンを右手で拾った。
(素晴らしい望みができたな……。私はまだ、こんなところで逝くわけにはいかない……)
彼の意識は次第に薄れていった。
一方、珠洲はそれから数百メートルほど離れた砂漠の中で史香を自分の膝の上に寝かせていた。史香の衣服は血で赤く染まっていた。珠洲は自分のジャケットを彼女の肩に巻き始めた。
「珠洲ちゃん……ごめん、ペンは取り返せなかった……」
史香はか細い声で珠洲に言った。
「ううん……今は、史ちゃんの安全が優先だよ」
「私、死にそう……?」
史香は自嘲しながら聞いた。
「大丈夫……! 出血は左肩からだし、シリンハオト市までジャンプで運んで、そこで治療してもらえれば助かるよ……! 身分は隠すし!」
珠洲は泣きそうになるのをこらえ、無理に笑顔を作ろうとしながら、それでも焦って答えた。
「そう……?」
史香は再度聞いた。
「うん……、みんな一緒に帰るって言ったんだもん、史ちゃんも一緒だよ!」
「わかった……珠洲ちゃん、ありがと……」
史香はほっとした様子で珠洲に礼を言った。
「え……史ちゃん? 史ちゃん……!」
その直後に彼女の意識は途絶えた。ペンを握っていた彼女の拳はペンを放した。
*
「……?」
史香は薄っすらと目を開けた。その先に薄汚れた白いタイルでできた天井があった。
「あ……、史ちゃん、起きた……?」
史香の寝ていたベッドの傍らの丸椅子に座っていた雲雀が立ち上がった。
「雲雀ちゃん……っ痛っ」
史香は起き上がろうとして小さく悲鳴を上げた。
「まだ寝てないとだめだよ……。でも、一〇日くらいで回復するって」
「私、寝てたの……?」
「うん、三日間。ここはシリンハオトの病院だよ」
「え……そう……」
「ちょっと待ってて、珠洲ちゃんと、夙伝くんも呼んでくるね」
雲雀はそう言うと、部屋の奥の扉から出て行った。そしてすぐに、その扉から珠洲と夙伝が入ってきた。
「あ、珠洲ちゃん、夙伝くん……おはよう……」
史香はぼうっと二人を見つめた。二人の目には少し涙が溜まっているのが窺えた。
「おはよう……」
珠洲は少し俯きながら挨拶を返した。
「似た者同士……だよね」
史香が呟いた。
「え……?」
「みんなのことを大切に思ってるし、それはマズいと思ってる……けど、一人で抱え込むことも……。こんなところまで一人で来る諜報部員と……総理」
「あ……」
そう言い合うと二人は顔を見合わせ、紅潮し合った。
「それでは……これで委員会を閉会します。皆さんお疲れ様でした」
珠洲と史香が内蒙古自治区シリンゴル盟の第二一核ミサイル保管施設に行ってからしばらく経ったある日、唯が主宰し、珠洲、耐、美濃の他国防部長の弘明と、陸軍参謀総長、海軍司令、空軍司令らが出席する国家軍事委員会で、唯が閉会を告げた。各委員らは徐々に部屋を退出して行った。
「くそう……なんであんな子どもの言いなりにならないといけないんだ……」
四年二組のクラスメートのメンバーが全員退出した後で、張順に代わって陸軍参謀総長の地位に就いていた陸新(ルーシン)が呟いた。
「何だか不思議な力を持っているようですよ……。あまり反発しない方がいいのではと……」
空軍司令の于(ユイ)が彼に釘を刺した。
「しかし……このままでは私たちの面目が……」
陸は言った。
「陸総長閣下、ちょっと……」
そのとき、この日特別に軍事委員会に出席していた陸軍瀋陽衛戍区司令の呉王日(ウーワンリー)が陸に耳打ちした。
「ん……呉司令? どうしたのかね?」
「お話があります、こちらへ」
そう言うと、呉は陸を会議室の外の廊下に導いた。
*
「クーデター?」
陸は驚いて声を上げた。
「お静かに……! 声が大きいです……」
呉が言った。
「ああ……」
陸は自分の口に軽く手を当てた。
「今、主に二〇師団と瀋陽瀋陽衛戍区の中で意気のある者たちを中心に話が進んでいます……。一説によると朝霧総理が裏で尾を引いていたと言われている韓国の朴政権の軍事クーデターを参考にしたいと考えております……。閣下にもよければ是非にと思い、お話させていただきました……」
「ちょっと待て……。お前たちが私を誘ったのには他に目的があるんだろう?」
「あ……これはお察しが早い……。確かに、私たちは自分たちの代表になって頂ける方を探しておりました……」
「ほう……」
陸は軽く頷いた。
「はい……私たちは、閣下は、いずれこの国の中枢で活躍されるに相応しい方であると信じておりました……」
「そうか……」
陸は呉の言葉に再び軽く頷いた。
*
一週間後の朝、陸は呉の誘いに乗って二〇師団のうちのおよそ二千名の兵員を用いてクーデターを起こした。国務院会議府が置かれていた瀋陽市政府を始め、国家議会議事堂、最高法院などの主要な国家施設にその兵員が配置された。クーデターの本部は瀋陽衛戍区に置かれた。
「え、軍人……?」
「これはいったい……?」
国務院会議府に寝泊りしていた四年二組のクラスメートは慌てて大人の姿に変身した。服だけがまだ子ども用のままの子どももいた。本来国務院の高官や将校などにしか立ち入りが許されていないその区域に兵士たちが駆け込んできた。
「朝霧総理、宝塚副総理……貴方方を拘束します」
珠洲と耐が二人で寝泊りしていた部屋にも五名ほどの兵士たちが入ってきた。
「え……嘘……」
子ども用の寝間着の上に大人の寝間着を着た、大人姿の耐は彼らの姿を見て怯えた。
「指揮しているのは誰ですか……、今どこにいるのですか?」
同じく大人姿の珠洲は兵士たちに尋ねた。
「お答えしますと、陸新陸軍参謀総長閣下です。今瀋陽衛戍区にいます……。ですが、そんなことは貴方にとってもはや関係のないことですよ」
兵士のうちの一人が答えた。
「そうですか……、ありがとうございます。それから……、私はまだ捕まるわけにはいかないです」
珠洲はそう言うと、ペンを自分の胸の前に翳した。すると薄い緑色の光が現れ、その光とともに彼女の姿は消えた。
「え…ええっ!?」
兵士たちはどよめいた。
*
やがて総理執務室に突然薄い緑色の光が現れ、その光の中から珠洲の姿が現れた。
「あれ……ここまで制圧されてなかった」
執務室の中には誰もいなかった。珠洲は部屋の奥の窓の手前の棚に置かれていた幸福の小瓶を手に取り、それをスカートのポケットの中に入れた。そして、代わりにポケットから携帯電話を取り出した。
――クーデターの主謀は陸新陸軍参謀総長だって。瀋陽衛戍区にいるみたいなので今からそこに行ってくる。
彼女はそう打ってメールをクラスメートたちに送信した。そして、彼女の姿は再び薄い緑色の光に包まれて消えた。
*
「宝塚副総理、伊藤外交部長、宋国務院総務庁主任など、複数の国務院委員の身柄の拘束には成功しましたが……。一方で、いるはずの会議府に姿の見えない委員がいるとのことです」
瀋陽市政府から数キロ離れたところにあった、陸軍瀋陽衛戍区の駐屯地の敷地内にあった庁舎の一室の中央に長いテーブルが置かれ、将校たちが集まっていた。
「会議府にいない? どういうことだ」
その部屋の一番奥の座席に座っていた陸が、不思議そうな顔で報告に来た兵士に尋ねた。
「わかりません……居場所はまだ不明です」
「総長閣下……」
「ん……?」
そのとき、部屋で電話を受けていた別の兵士が電話から口を外して陸に呼びかけた。
「朝霧総理ですが……いったんは居場所は確認したのですが、その……」
「どうした?」
陸は彼に尋ねた。
「消えたそうです」
「見失ったのか?」
「いえ……その、兵士らの前で、消えたと……」
「は? 何を言っているんだ?」
「ですから、シュッと、消えてしまったと……」
「なんだその報告は? ちょっとその電話を貸してくれ」
陸は不機嫌そうにその兵士に近づき、電話を受け取った。
「もしもし、ルーだが?」
そして受話器に耳を当てた。
「うわーっ!」
そのとき、その部屋の扉の向こうで男性が叫ぶ声が聞こえた。
「なんだ……?」
陸は部屋の扉の方に顔をやった。すると、カチャと音がして扉が開いた。そして、そこに子ども用の寝間着を着た子ども姿の珠洲がいた。
「ん……?」
「子ども……?」
部屋にいた、大人の姿の珠洲しか知らなかった将校たちは彼女の姿を見てきょとんとした。
「お嬢ちゃん、どこから入って来たの?」
「ここは入って来ちゃいけないよ」
将校たちは珠洲に言った。
「陸参謀総長……」
珠洲は電話の受話器を持っていた陸を見つけると、彼に声を掛けた。
「あ……朝霧総理……」
陸は珠洲と目が合うと憔悴し始めた。
「え……?」
「閣下、どうされたのです?」
将校たちは陸の様子がおかしいことに気づいた。
「くっ……!」
陸は震える手でポケットに入れていた拳銃を握った。
「うっ!」
「おおっ?」
しかし、そのとき珠洲が放ったペンの光がその拳銃を直撃し、彼はそれを床に落とした。将校たちはどよめき合った。
「陸参謀総長……、蜂起した兵員たちに武装解除を命じてください」
珠洲は陸に言った。
「く……」
陸はその場で頭を下げた。
*
国務院の総理執務室の棚に安置されていた幸福の小瓶の内部には、三分の二ほど砂が溜まっていた。
*
(私は中軍委副主席として毛主席様から解放軍の中でももっとも厚い信頼を受けている……彭元帥も一昨年の廬山会議で失脚し、彼の国防部長の地位も私のものとなった……。あの関東の子どもから奪ったこのペンがあればいずれは十大元帥の筆頭である朱徳(デューデォ)人大常務委員長や劉国家主席はおろか、毛主席にも取って代わりこの国の指導者となることができると思ったが……)
中南海の暗い一室の中で、一人で林元帥は霊力のボールペンを握り締めながら俯いた。
「なかなか上手くいかないものだな……どうしたものか……」
林は呟いた。やがて彼は徐に顔を上げた。
「もしかして……私の力だけでは私の望みを叶えることは難しいというのか……?」
林はそう言いながらペンを眺めた。そしてそのペンを握る手に力を加えた。
「ならば……望もうか、不思議な筆具よ、私のために、私に相応しい手下を用意してくれ……」
彼は呟いた。
数秒ほどの時間が流れた。
「何も起こらないというのか……いや、そんなはずはない、頼む、魔法の子どもたちが持っていた筆具よ、私の望みを叶えてくれ……!」
林は声を荒げた。すると、彼が持っていたペンは薄い緑色の光を放ち始めた。
「お……おお!」
やがてその光はペンを離れて空中に浮かんだ。そして、それは次第に人の形になっていった。
*
「では……このBCGの予防接種に関する予算ですが、牡丹江・延辺・通化の三専区で執行予算が不足気味ですので、来年度予算で、財政部の方で追加できないか、次の経済財政委で議題に取り上げます。副総理もそれで宜しいですか?」
それから数日経った一月一〇日の午後、瀋陽の国務院衛生部の部長室で、大人の姿に変身していた男子児童、松社政美(まつしゃまさみ)が、その部屋を訪問していた耐に尋ねた。耐も大人の姿だった。部長室には二人の他、耐の秘書を務めていた許国革(ヘォグォゲォ)と、衛生部事務副部長の呉(ウ―)、同保健医療司司長の劉(リウ)がいた。
「あ……はい、わかりました。今日の用件はこれだけですか?」
耐は頷き、政美に逆に尋ねた。
「あ、はい」
呉が答えた。
「それでは……私は会議府に戻りますね。松社くんも、引き続き頑張ってね」
「うん」
政美は頷いた。やがて耐と許は部長室を後にした。許はコートと鞄を手にしていた。
「あ……鞄を貸してください……、ちょっと待っててください」
耐はそう言って許の持っていた鞄を手にし、衛生部の庁舎内のトイレに入っていった。許はトイレの前で数分ほど待った。すると、鞄の中に入っていた子ども服を着た、子ども姿の耐が出てきた。
「え……副総理、ここでそのお姿は不味いのでは……」
「いいんですよ許さん、会議府までは北京街の裏路地を通るから誰もいないですし。大人の姿はなんか疲れるんです」
耐はそう言うと嬉しそうに衛生部の廊下を進んだ。許も渋々彼女の後に続いた。
やがて二人は衛生部を後にして人気のない北京街の裏路地に出た。路地の端や建物の屋根には厚さ五―一〇センチ程度の雪が積もっていた。許はコートを着用した。
「今日は早く終わってよかったですね」
許は耐に言った。
「そうですね……まだ年明けですから。今日は……会議府の食堂で日本風のお鍋にするつもりです、珠洲ちゃんも一緒ですよ」
「へえ……それはいいですね。……?」
そのとき、二人の前に一人の人の影が映った。
「……?」
耐も立ち止まって前を見た。
「宝塚耐……関東副総理だな」
影の方から男性の声がした。その影は耐の方に迫ってきた。
「え……?」
耐の表情は次第に青褪めていった。
*
その日の夜、国務院会議府の食堂には、大人の姿や子どもの姿の国務院委員、四年二組のクラスメートたちが食事のために集まって来ていた。
「耐ちゃんがまだ戻ってきてない……?」
鍋を前に、食堂の席に座っていた子ども姿の珠洲は、彼女の元にやってきた政美の話を聞き返した。
「うん……お昼には会議府に戻っていったんだけど」
「会議府には戻ってきてなかったよ……、おかしいなあ……どこに行ったんだろ」
珠洲は首を傾げた。
「どこかの部で、仕事があったのかもしれないよ」
珠洲に相席していた淡水が言った。
「どうしよ……先に食べちゃう……?」
同じく相席していた貴船が珠洲に言った。
「うん……」
珠洲は迷いながらも頷いた。
「珠洲ちゃん……! あの……」
そこに雲雀が駆け込んできた。
「雲雀ちゃん……?」
雲雀は珠洲の隣まで行くと、彼女の耳元に顔を近づけた。
「宝耐を誘拐したって、会議府に匿名の電話が架かって来てて……それで、あの、珠洲ちゃんを呼ぶように言ってるんだけど……ガセ?」
「えっ……?」
珠洲は驚いた。その場にいた淡水、貴船、美濃も雲雀の報告を聞いて表情を変えた。
「タイミングが合ってるよ!」
淡水が言った。
「電話は総務庁主任室で取れるよ……!」
「わかった、出る……雲雀ちゃん、ありがとう」
珠洲は席を立った。そして、雲雀、美濃と共に食堂を後にした。
*
「あの……もしもし?」
会議府内の総務庁主任室で珠洲は電話を耳に当てた。立華、雲雀と美濃も部屋にいた。
「朝霧……総理か」
電話の向こうから静かに、しかしはっきりとした男性の声がした。
「はい……」
珠洲は返事をした。
「今、宝塚副総理の身柄を預かっている」
「お伺いしました……あの、何が目的なんですか……?」
「明日正午、北陵の南、北陵泰山の交差点に一人で来い。目的は、君の身柄の確保だ」
「私と交換ということですか……?」
「そうだ。言っても無駄かもしれないが……部下を連れてくるんじゃないぞ」
男性は答えた。
「わかりました……。……教えてください、副総理は、今、無事ですか?」
「ああ……あの子なら心配はいらない。拘束はしているが、危害を加えるようなことはしていない。但し、明日君が来なかったら、彼女はそれまでだ。声を確かめるか? 余計な工作をしないという条件で」
「……! あ……いえ……、信じます。私も動揺しているので……聞いてしまったらその条件を守れなくなりそうなんです」
一瞬受話器を持つ珠洲の手が震えた。
「はは、そうか……、わかった。では……明日、君を待つ」
「はい……」
男性は電話を切った。珠洲もそれを確認して受話器を耳から離した。
「明日正午、北陵泰山の交差点に一人で来てって……私と交換だって」
「わかった……でも、本当に一人というわけにはいかないよ、僕も行くし、保衛委員の人も一緒に来れないか聞いてみる。影で隠れて、隙を見て二人とも救出するから」
美濃が言った。
「うん……」
珠洲は項垂れながら返事をした。
「子ども姿の耐ちゃんを副総理だと知ってたってことは……またクーデターかな……?」
立華が言った。
「ううん……もしかしたら……中国かもしれない……」
珠洲が答えた。
「え……でも、中国人は瀋陽までは来れないんじゃ……」
雲雀が言った。
「そうでもないよ……。中国共産党の中央調査部のスパイなら市内にいるし。でも、子ども姿だって知ってる中国人は……」
「まさか林元帥?」
美濃が言った。
「え……」
雲雀は林の名を聞いて深刻そうな表情になった。
*
翌一月一一日の正午に珠洲は子どもの姿で、一人で北陵泰山の交差点の南西の角に立っていた。交差点の残る三方の影にはそれぞれ三名ほどのスーツを着用した保衛委員会職員が配置されていた。また、大人の姿の美濃と史香の姿もあった。
珠洲は不意に一〇月頃に耐と二人で総理執務室にいたときのことを思い出した。
*
一〇月頃、珠洲と耐が二人で総理執務室の本の整理をしていたときがあった。執務室のあちこちで書物が積み上げられており、二人の他には誰もいなかった。
「珠洲ちゃん……満洲時代の一九四〇年代の奉天(フェォンティェン)省の穀物生産高の資料だって……これはどこに入れよう……?」
耐が一冊の書物を手にしながら珠洲に聞いた。
「あ……それはそっちの右端辺りでいいよ……」
少し離れたところにいた珠洲が言った。
「わかった……わっ」
足を踏み出した瞬間耐はバランスを崩して倒れそうになった。
「あっ……」
珠洲は慌てて耐の傍までやってきて、彼女の背を支えた。
「あ……ありがと……珠洲ちゃん……ごめんね、なんか、私って珠洲ちゃんに助けてもらってばっかりだね」
耐は体勢を立て直すと、珠洲に苦笑しながら言った。
「え……そんなことないよ?」
珠洲は目を丸くして耐に言った。
「ううん……」
耐は首を横に振った後、窓の外を眺めた。
「耐ちゃん……?」
「ほら、私ってさ、いつも元気そうに見えるでしょ……、でも、そんなことないんだよ、本当は人見知りが激しくて、怖がりで……、クラスのみんなと打ち解けられたのは、珠洲ちゃんのおかげなんだ……。今でも、あまり知らない人と話すのは、実はちょっと苦手なんだ……雲雀ちゃんともよくはしゃいでるけど、雲雀ちゃんと少し違うところもあるんだよ」
耐は寂しそうに言った。
「だから……ありがとね、珠洲ちゃん」
そして、珠洲の顔の方を向くと、笑顔で言った。
「え……」
珠洲は再びきょとんとした表情になった。
*
「珠洲ちゃんって、宝耐と仲良いよね」
京都にいたとき、洛央小学校の教室で珠洲は淡水に話しかけられたことがあった。
「え? あ、うん……」
珠洲は恥ずかしがりながら淡水に返事をした。
「あ、いや、悪いって言ってるんじゃないよ、そうじゃなくて……あのね、宝耐って、臆病そうで、あまり自分に自信がないみたいに見えるでしょ、だから、珠洲ちゃんも、すぐに宝耐のことを嫌っちゃうんじゃないかと思って……」
「え……そんなことないよ?」
珠洲は否定した。
「うん……ありがと。珠洲ちゃんは……友達を大切にすることを、自分の楽しみだって気づいてるみたいに見える、珠洲ちゃんの叡知は全部そこから……私たちのクラスはともかく、最近はもう減ってきたタイプかもしれない……『大人』を自称する人たちとかさ」
「え……」
赤面する珠洲を前に淡水は続けた。
「私も、宝耐のことはずっと昔から知ってるけど、宝耐が自分に自信がないように見えるのは、ただ、みんなのことを信じているからなんだ。みんなの言うことを尊重したいという気持ちが強いから、あまり自分の主張をしたがらないだけなんだ……。それは悪いことじゃないと思う、絶対……。だから、宝耐が、あまり自分に自信を持っていないように見えるからって、嫌いにならないで欲しいなって……、きっと、宝耐も、珠洲ちゃんのことは好きだと思うから……」
「あ……淡水ちゃん……わかった……。ありがとう……」
珠洲は淡水のアドバイスに礼を言った。
*
「耐ちゃん……」
一月一一日の今、北陵泰山の交差点にいた珠洲は、それらのことを思い出すと、悲しい思いに包まれ目を強く閉じた。
しばらくすると、珠洲の前で、一台の黒塗りの乗用車が停まった。そして、その運転席から一人の体格のいい、コートを着た中年の白人の男性が出てきて、珠洲の前に立った。
「……?」
珠洲は彼を見上げた。
「……朝霧珠洲……関東国務院総理だな?」
その男性は珠洲に尋ねた。
「……おじさん、何を言ってるんですか?」
珠洲は淡々と男性に尋ねた。
「誤魔化しても無駄だ、子どもの総理」
彼は珠洲に言った。
「……」
珠洲は彼から目を逸らした。
「やはり護衛を連れて来ていたな……」
「え……よくわかりましたね」
珠洲は言った。
「彼らを撒く……車に乗れ」
男性は珠洲に命じた。
「はい……」
珠洲は渋々車の後部座席に入った。男性も運転席に座り、すぐに車は発車した。
「あ……車だ」
「僕たちも急ごう……!」
史香と美濃も傍に停めていた茶色の車に乗った。保衛委員会の職員たちも車に乗り込んだ。そして、三台の車が珠洲と白人の乗った車の後を追った。
「つけてきたか……どれ、撒くか」
珠洲を乗せた車を運転していた白人はバックミラーを見ながら言った。
「え……?」
後部座席に座っていた珠洲は目を丸くした。その車は急に角を右に曲がった。
「あと……二回だ」
続けてその車は凄まじい速さでその先にあった角を左、右と二度曲がった。
「あの角か……」
後部座席に史香と美濃が乗っていた車もその後をつけ、珠洲を乗せた車が一つ目に通った角を右に曲がった。
「あれ……いない?」
「きっとあっちの角だよ」
美濃がその先にあった角を指でさした。
「わかりました……」
その車を運転していた、コートを着た職員は返事をすると、ハンドルを左に切った。
「え……」
「いない……?」
三人を乗せた車はその角を左折した。その先に車の姿は一台もなかった。
「あの角……?」
史香は不安に駆られながらもそのすぐ先にあった交差点を指差しました。
「行ってみます……!」
運転していた職員は返事をした。そして、その車は史香が指差した交差点を左に曲がった。
「……え……」
そこは四車線の大通りで、沢山の車が走っていた。珠洲を乗せた車の姿はなかった。
「嘘……」
「大丈夫です、既に公安に、市外に出る車両に検問をするよう緊急要請しています。とくに、白人と、一〇歳くらいの少女を乗せた車両だと、特徴も伝えてあります」
運転していた職員は史香と美濃に言った。
「わかりました……」
「……珠洲ちゃん……」
史香と美濃は不安そうな表情になりながら彼に返事をした。
*
「撒けたようだな」
珠洲を乗せていた車を運転していた白人がバックミラーを見ながら言った。珠洲も背後を振り返った。やがて車は瀋陽市内の人気のない路地裏を走って行った。
*
瀋陽市内西部にある皇姑屯(ホヮングゥトゥン)駅付近の路地裏にあった、薄汚れた三階建てのコンクリートのホテルの一室に、林と耐が入ってきた。
「そこに座れ」
林は耐に命じた。耐は渋々彼の言うとおり、部屋の隅にあった椅子に座った。林は手にしていた縄で耐の体を椅子に縛り始めた。
「昨日はよく眠れたかね?」
林は耐に聞いた。耐は黙ったまま林を睨んだ。
「元気そうな顔だ……その分だと健康に問題はなさそうだな」
林は笑いながら言った。
「あの……私からいろいろ聞かないんですか?」
耐は林に尋ねた。
「勿論後で聞くつもりだ……」
林は堂々とした表情で言った。
「……どこまで話すかはわかりませんよ」
「……そうだろうな。だが、こちらも一通りの手順は踏むつもりだ」
「手順……ですか?」
「ああ……身体を拘束し、持ち物と衣服を全て没収し、鞭にかける。気絶すれば頭に水でもかければまた起きるだろう。我々は情報を得るためなら手段は選ばない」
「貴方はいじめっ子ですか……?」
淡々と話す林の言葉を聞いて耐は青褪めながら反論した。
「そうかもしれないな……だが、それを言うなら私の国はみないじめっ子の馴れ合いだ。誰もがいじめっ子の精神を持ち、いじめっ子でない者も、いじめっ子の振りをして虚勢を張る……。友好の精神に従って生きようとする者は迫害される。君の周囲は相手を思いやる心を持った者が多いのかもしれないがな」
林は自嘲しながら言った。
「だが……君を尋問する前に、今はやることがある」
「……!」
耐は驚いて顔を上げた。
「珠洲ちゃんですか……!?」
「ああ……私があの子ども、反乱分子の筆頭、朝霧珠洲を単独で始末すれば、ただでさえ高い毛主席の私に対する評価はさらに高まり、十大元帥の筆頭である朱人大常務委員長や劉国家主席を越える党内序列第二位の地位も私のものとなるだろう。だが私の目標はそれではない。党内序列第二位となった後、いずれ私は隙を見て毛主席に取って代わり、人民中国の指導者となるのだ」
林は自信を持って答えた。耐の表情はますます蒼くなった。
そのとき、外の路地に一台の黒塗りの乗用車がやってきてホテルの一〇メートルほど手前で停まった。
「おお……来たようだな。よし、行くぞ」
林は窓からその車を眺めると、耐を縛っていた縄を解き始めた。
*
「ここだ……下りろ」
ホテルの外で、乗用車を運転していた白人の男性が珠洲に命じた。珠洲は車から下りた。男性も続けて下りた。そして、二人はホテルの玄関の方に向かった。
そのとき、ホテルの玄関のドアが開き、中から林と耐が出てきた。
「……耐ちゃん……!?」
珠洲は突然耐が現れたのを見て驚いた。
「珠洲ちゃん……! 来ちゃだめ! 交換じゃないよ! 林元帥は珠洲ちゃんを殺すつもりなんだよ!」
耐は珠洲に向かって叫んだ。
「え……?」
珠洲はきょとんとした顔をした。そして、気配を感じて背後を振り返った。そこで、白人の男性が拳銃をコートの内ポケットから取り出し、それを自分の方に向けていた。
「セルゲイ……やれ」
耐の腕を掴んでいた林はその男性をセルゲイと呼んで命令をした。
「あ……。ペンも間に合わない……」
珠洲は自分の置かれた状況を悟ると軽く自嘲した。そして、耐の方を向いた。
「耐ちゃんー! ごめんー! 私、耐ちゃんを助けられなかった」
珠洲は耐に向かって、声を震わせ無理に笑顔を作りながら叫んだ。
「でも……大丈夫だから! きっと、すぐにみんなが助けに来るから……! 耐ちゃん……、さよなら……!」
珠洲はそう言うと背後を向き、怯えながら、林にセルゲイと呼ばれた男性の銃口の前に立つと、ぎゅっと目を閉じた。その目には涙が溜まっていた。
「珠洲ちゃん……!」
耐は泣きながら叫ぶと駆け出そうとした。
「おっと」
彼女の腕を林が掴んだ。
セルゲイはそのまま銃口を珠洲に向けていた。珠洲は震えながらじっと立っていた。
「君もこれまでか……私も、これでやっと元の世界に帰れる」
セルゲイは拳銃を持った手を伸ばしながら呟いた。
「え……それはどういうことですか……?」
珠洲は彼の呟きに疑問を感じて質問した。
「ああ……いいだろう、教えてやる。私は実はこの時間の人間ではない……一九七九年、ソヴィエトの国家保安委員会で工作員を務めていた者だ……。そこにいる林の奇妙な異界の力によって召喚されてやってきたのだが」
セルゲイは淡々と答えた。
「あの……もしかして、緑色の光に包まれてですか?」
「そうだ」
「だとしたら……私を殺しても、元の世界には帰れませんよ」
珠洲は不思議そうな顔をして言った。
「なんだと……?」
ソ連国家保安委員会の工作員と名乗ったセルゲイは表情を変えて拳銃を持っていた腕を下ろした。
「おい……林! どういうことだ! この子どもを殺せば元の世界に帰ることができると言ったのはお前だろう!」
そして林に向かって怒鳴った。
「ははは、そうでも言わなければ、君は動かなかっただろう」
林は笑いながらセルゲイに向かって言った。
「なんだと……私に、余計な殺しをさせようとしたのか?」
セルゲイは林に問い質した。
「余計ではない……、いいだろう、お前にも本当のことを教えてやる。そこにいる子どもの反乱分子、朝霧珠洲を単独で暗殺すれば、毛主席の私に対する評価が高まり、私は党内序列第二位となる」
林は反論した。
「貴様……まさか、そんな下らない野望のために、奇妙な力を使って私を巻き込んだというのか!」
「下らないとはなんだ! 党内序列第二位となれば、いずれ私は毛主席に取って代わり、中国の指導者となる日がやってくるのだ!」
「もういい! この魔物め!」
セルゲイは激高した。
「工作員さん……!」
珠洲は工作員に向かって叫んだ。次の瞬間、彼は拳銃を持つ腕を伸ばし、引き金を引いた。拳銃から出た弾は林の頭部を打ち抜いた。林はその場に倒れこんだ。
「ひっ……」
耐は息を呑んだ。そして恐る恐る林の体を見つめた。
「死んでる……」
耐の表情は恐怖で青褪めた。
珠洲も慌てて林の傍に駆け寄ってきた。彼の遺体を見ると彼女も真剣な表情になり、強く目を閉じた。
「林元帥……確かに貴方は毛沢東の信頼を得たものの、それに飽き足らず反旗を翻し、その結果凄惨な最期を迎えた方でしたが……ちょっと、時期が早すぎます……。……えっと、工作員さん……」
そして無念そうに言った後、振り返って後方にいたセルゲイに呼びかけた。
「……セルゲイ・コザクだ」
「あ……セルゲイさん、あの、元の世界に帰る方法なら、概ね見当がついています。よかったら、国務院会議府に来てもらえないでしょうか?」
「何……? ああ……いいだろう。信用できないが、他にいく当てもないしな」
セルゲイは珠洲に答えた。
*
カチャリと音がして、瀋陽の国務院会議府の総理執務室の扉が開き、耐がその部屋に入った。
「え……宝耐……!?」
「耐ちゃん……!」
室内にいた雲雀と貴船が驚いて耐の元に駆け寄ってきた。
「大丈夫だった……?」
「うん……ありがとう」
耐は雲雀に礼を言った。耐に続いて珠洲、美濃、史香とセルゲイが入ってきた。
「え……」
「誰……?」
雲雀と貴船はセルゲイの姿を見て再び驚いた。
「ただいま……ごめん、説明は後でするね……」
珠洲は二人に言うと、部屋の奥の窓の前に置かれていた幸福の小瓶の前まで行った。
「やっぱり……ちょっと減ってる……」
珠洲はその小瓶を見つめると手に取った。そしてセルゲイの方に振り返った。
「セルゲイさん……あの、セルゲイさんをこの世界に召還したのも、私たちのときと同じ、この世界の霊の力です。ですが……砂がこれくらい残っていれば、一人だけなら、クラスの全員で祈ればもしかしたらすぐにでもセルゲイさんを元いた一九七九年のソヴィエトに戻すことができるかもしれないです」
珠洲はセルゲイに説明した。
「な……本当か?」
セルゲイは驚いた。
「珠洲ちゃん……砂に祈って、セルゲイさんを元の世界に返そうとしたら、さらに砂の量が減るかもし知れないよ……?」
史香が珠洲に言った。
「うん……みんなにも、このことで砂を使っていいかどうか聞いてみる。でも……私は、セルゲイさんに早く元の世界に戻って貰って欲しいと思ってる。自分のいた世界に早く帰りたい気持ちは私にもわかるから……でも私たちは、この世界で今までみたいに頑張っていけば、また砂の量が増えて、いつかみんなで帰ることができると思うから……」
珠洲は史香に説明した。
*
翌朝、珠洲の意向を受け、幸福の小瓶に溜まった砂を使ってセルゲイを元いた世界に返すために、セルゲイ、桂創と、子ども姿の国務院委員の全員が国務院会議府の屋上に集った。子どもたちは輪になり、その中心にセルゲイが立った。
「それじゃ……やってみよう……」
美濃が呼びかけた。
「うん……」
小瓶を持っていた珠洲も頷いた。そして、子どもたちは各々持っていた霊力のボールペンを真っ直ぐと頭上に翳した。
「どうか……セルゲイさんが元いた世界に戻れますように」
「戻れますように……!」
彼らは目を閉じて祈り始めた。すると、彼らが持っていたペンは薄い緑色の光を放ち始めた。その光は環の中心にいたセルゲイを照射した。
「これは……」
また、セルゲイ自身も同じ色の光に包まれ始めた。
「おお……」
程なくして、その光はやや薄まった。
「だめか……」
セルゲイは呟いた。
「いえ……諦めないでください……!」
珠洲はセルゲイに強い口調で言った。
「みんな、もう少し……!」
史香が呼びかけた。
「わかった……」
耐は史香に返事をすると、強く目を閉じた。
「もう少し……」
「セルゲイさんが、元の世界に帰れますように……!」
子どもたちは必死に祈った。やがて、彼らの持っているペンからは光が乱れ飛び、セルゲイの体を包む光も濃くなっていった。
「これは……ありがとう、私と同じ境遇になった子どもたち……。 私も、君たちが一日でも早く、元の世界に戻れることを願っている……!」
セルゲイは自分を包む光に驚きながら、彼らに向かって叫んだ。その直後にセルゲイの体は完全に光に包まれ、そしてその光ごと消滅した。ペンから飛び出ていた光も全て消えた。
「やった……?」
美濃が呟いた。
「うん……」
史香が嬉しそうな表情で頷いた。子どもたちの間に一気に安堵感が広がった。
「珠洲ちゃん……砂の量は減っちゃった……?」
司が珠洲に聞いた。
「え……あ、うん……二分の一くらいになってる……」
珠洲は手の中の小瓶を見つめながら言った。
「まあ……仕方ないよ、またみんなで頑張れば」
雲雀がやれやれと言った表情で言った。
「みんなで一緒に帰ろう」
談水が呼びかけました。
「うん……珠洲ちゃん、私も、珠洲ちゃんを支えるから……」
史香が珠洲に言った。
「あ……うん」
珠洲は顔を上げると嬉しそうに頷いた。
2019年1月11日 発行 初版
bb_B_00157774
bcck: http://bccks.jp/bcck/00157774/info
user: http://bccks.jp/user/138478
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
※ 改行多数のため、ツイプロ及びブログメッセージボードをご参照ください。
〇 ツイプロ:http://twpf.jp/sigure_pc
〇 ブログメッセージボード:http://blog.livedoor.jp/t_finepc/
※ アイコンの上半分の拾い物のイラストはつばさちゃんっぽいですが、小説の珠洲ちゃんの外見イメージにも近いです。