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【無料】一般教養にして欲しい東アジア総合現代史 上巻

坪内琢正

瑞洛書店



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簡易目次

第一章 終戦、朝鮮戦争、国共内戦

終戦とGHQ占領下の日本の諸政策/韓国の成立/国共内戦/歴史の悲劇、北朝鮮の誕生/朝鮮戦争の日本への影響/朝鮮戦争/

第二章 冷戦の中でのそれぞれの国家

日本での安保闘争/李承晩政権/台湾、半世紀に及ぶ戒厳令の開始/中国、第一次、第二次集団化/北朝鮮、満洲派の台頭と他派の粛清/高度経済成長/第二共和国と五.一六/調整政策

第三章 混乱の中の安定

佐藤長期政権とその後の政局の混乱/第四共和国/蒋経国への権限移譲/文化大革命/金日成への権力集中

第一章 終戦、朝鮮戦争、国共内戦

 終戦とGHQ占領下の日本の諸政策
 終戦の日については各国の見解に相違があるものの、日本では一般的には一九四五年八月一五日とされています。八月一四日はポツダム宣言の受諾が連合国側にされた日、08.15は玉音放送こと終戦の詔書の録音朗読が発表された日、九月二日が降伏文書調印の日です。
 以下対日講和条約締結まで、日本では、日本の政体を維持したまま、マッカーサーを総司令官とする、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による間接統治の形態での占領状態が続き、各種の政策変更が実施されていきます。
 終戦を受け皇族を首相とする東久邇宮稔彦内閣が発足します。同内閣では一億総懺悔、国体護持が提唱されますが、一〇月、GHQの圧力により総辞職します。東久邇宮稔彦内閣の後、幣原喜重郎内閣が発足します。同政権の下でGHQより一〇月に五大改革指令(婦人解放、労働組合結成、教育自由化、圧政撤廃、経済民主化)が出され、戦時のために統制されていた各種政策の復元や、新たな諸権利の拡大などが実施されていくことになります。
 まず一〇月に徳田球一を書記長とする日本共産党が合法化、一一月にはその他の政党も結成されます。鳩山一郎(後に公職追放)を総裁とする日本自由党、片山哲を書記長とする日本社会党、日本進歩党などです。
 また一〇月には教育改革指令が出され修身の授業が停止されます。続く一二月には神道分離指令、農地改革指令、選挙法改正が実施されます。
 一九四六年に入ると一月に昭和天皇が人間宣言を実施、また労働組合が結成されます。共産党指揮下のもとで全日本産業別労働組合会議(産別)が結成、またそれとは別に反共的な立場から日本労働組合総同盟(総同盟)が結成されます。また一月、公職追放が実施されます。また経済政策として二月に金融緊急措置令が出されます。これはインフレ阻止のために新円への切り替えと、一定額以上の預金封鎖により通貨量削減を実施したものです。
 五月、日本自由党より第一次吉田茂内閣が発足します。基幹産業を緊急重視するため傾斜生産が閣議決定され、石炭、鉄鋼などの生産への傾注が図られます。
 一一月、国民主権、平和主義、基本的人権尊重の三原則から成る帝国憲法の改正、日本国憲法への改称が公布され、翌年五月に施行されます。
 翌一九四七年三月、教育基本法及び学校基本法が成立、四月には独占禁止法が成立、地方自治法が公布されます。また四月までに労働三法が整備されます(一九四五年一二月に労働組合法、一九四六年九月に労働関係調整法、一九四七年四月に労働基本法)。
 一方一九四七年二月一日に実施が予定されていた二.一ゼネスト計画にはGHQより中止命令が出されます。
 政治面では三月に日本進歩党は民主党となる他、国民協同党が発足します。五月に第一次吉田茂内閣が退陣、日本社会党、民主党、国民協同党を与党とする片山哲内閣が発足します。
 同年一二月に財閥解体、過度経済力集中排除法が成立します。同法では三二五社が指定されましたが、実際に分割されたのは一一社です。また同月民法改正、自治体警察が発足します。
 一九四八年三月、日本自由党は民主自由党となります。片山哲内閣が退陣、芦田均内閣が発足します。
 同年日本労働組合総評議会(総評)が産別より分離します。また七月に教育委員会法が公布、委員は公選制とされます。
 一九四八年一〇月、芦田均内閣が退陣、代わって第二次吉田茂内閣が発足し、この後第五次まで政権を担当します。
 一二月、GHQにより経済安定九原則指示、均衡予算、ドッジラインによる単一為替レート(一ドル三六〇円固定)などが実施されます。また翌一九四九年にはシャウプ税制改革勧告が出されます。
 またこの頃、七~八月に下村事件(国鉄総裁暗殺)、三鷹事件(無人電車暴走)、松川事件(福島県にて列車転覆)などの不審な事件が相次ぎます。共産党員などが検挙されましたが後に無罪判決が出されています。もっとも、当時共産党は非合法路線を採択していましたので、この他にも小規模に交番襲撃などを実行しています。
 さて一九四九年に湯川秀樹氏が日本人初のノーベル賞を受賞します。日本人のノーベル賞受賞者は以後二〇一五年までに二四名です。
 また翌一九五〇年三月、与党民主自由党は自由党に改称します。
 そしてこの年の六月に北朝鮮が三八度線を突破したことが影響し、日本を巡るGHQの対応も次第に柔軟なものとなっていきます。

 韓国の成立
 終戦とともに朝鮮半島は独立となります。戦前の朝鮮は識字率の格差などから、ちょうど現代の私たちが中学生を一律未熟とレッテルを貼って参政権を付与していないのと同様に、参政権が認められていませんでしたが、内鮮一体により大戦末期には制限付きながらも衆議院の参政権が認められるようになっていました。独立によってこの権利は消失し、代わって朝鮮人には韓国国会議員選挙権、北朝鮮最高人民会議代議員選挙権などが付与されるようになりました。現代、もはや日本、韓国、北朝鮮はそれぞれどう経済改革を実施しても通貨統合の見通しも全く立たないほどの差が発生することとなりました。
 さて、最初から南北は分断統治でした。南部は連合軍による直接統治の軍政、進駐軍司令官はジョン・ホッジです。一九四五年一二月、米英ソは外相会談によって最長五年間の信託統治を発表します。連合国各国も朝鮮半島の統治を楽観視していました。日本統治下にあっては南北ともに人権も維持され、小規模なパルチザン(共産主義)テロリストなどもとっくに壊滅、空襲などもなく平和そのもの、現在は北朝鮮領に位置し廃線状態の、観光鉄道であった金剛山電鉄も戦時下のため部分運休がなされるもの運転されるほどでしたが、『光復』によりそれまで安定していた治安、政情が極端に悪化、信託統治に賛成した韓国民主党首席総務宋鎮禹は極右によって暗殺されます。また一九四六年一〇月には10.1事件が発生、大邱にて左右のデモが衝突します。
 一二月、連合軍政庁は過渡立法議員を設置しますが政情不安は収拾しません。一九四七年七月頃、呂運亭(中道左派・勤労人民党党首)、張徳秀(韓民党政治部部長)など要人の暗殺が相次ぎます。極右韓国独立党党首金九によるテロといわれていますが、このテロリストは現在の韓国でも未だに偉人扱いになっています。
 米ソ合同委員会は数度開催されますが南北合意に至らず、一九四八年五月に国際連合主導のもと、共産独裁化の進む北側は無視、南側単独で、韓国国会議員総選挙が実施される運びとなります。これについて中間派も統一を阻害するとしてボイコットし、国際連合は半島統治に頭を悩ますことになります。さらにこれに先立つ四月には、済州島にて済州島事件が発生しています。共産化を支持し総選挙に反対する左派による暴動に端を発し、混乱が長期化、韓国国軍、警察が出動し、一般島民約六万名を殺害、同島から日本へ大量の不法入国者が発生、現在の在日韓国・朝鮮人の圧倒的多数の第一世となります。
 さて一九四八年九月には、反日派の韓民党が多数を占め、混乱と無秩序の極みにあった国会において、遡及法である反民族行為者処罰特別法が可決されます。これは一審のみで死刑をも可能にする法律でした。警察はこれを無視しますが反民族特別委員会が警察を逆に無視して独自捜査、司法機関と無関係に逮捕権があるものと独自解釈し逮捕を実行、委員会は強制解散に追い込まれます。
 七月、韓国国会は大韓独立促成国民会総裁の李承晩を大統領に選出、翌八月には軍政が終結し大韓民国が成立しますが治安の混乱は解消されません。一〇月一九日、麗水・順天事件が発生します。済州島事件鎮圧命令の下った国防警備隊内部において、後に北朝鮮と合流し、朝鮮戦争停戦後は金日成によって真っ先にスケープゴートの対象とされる南朝鮮労働党所属の兵員が反乱、南労側は警察官約一〇〇名、一般市民約五〇〇名を虐殺し順天を制圧した後に主力は麗水に移動、この後韓国国軍が出動し制圧、一般市民約八千名が虐殺されます。
 翌一九五〇年、三月に農地改革法が公布され地主が解体、五月に中間派も参加の上で第二回国会議員総選挙が実施され、李承晩は自由党を創設します。
 さて一九四九年六月五日、韓国政府は共産主義者への緩やかな掌握を目的として国民保導連盟を組織します。不逮捕、再教育が目的とされ、要監視対象の共産主義者への加盟を促進しますが、これが朝鮮戦争勃発後に惨事となります。
 治安の混乱は相変わらずで、一九四九年一二月二四日には聞慶虐殺事件が発生、韓国軍がパルチザンとみなし住民八八名を虐殺します。とはいえ明らかになっているだけまだなしな方で、北側では何が起こっていたかすらわからない状況です。
 そんな中、一九五〇年一月に米国がアチソンラインを発表し朝鮮、台湾防衛放棄を示唆することとなります。

 国共内戦
 終戦とともに、汪兆銘が樹立し、日中を始めアジア諸国と友好的な関係を築いていた中華民国南京国民政府が解散、ゲリラテロリスト状態であった蒋介石の中国国民党、毛沢東の中国共産党が台頭します。一九四五年一〇月、両党は双十協定を締結、戦後構想を協議します。
 にもかかわらず中国各地では国共の衝突が相次ぎます。いずれも国民党側が圧倒的優位な情勢となります。
 一九四五年八月から一〇月にかけては上党・甘戦役が勃発、国民党は山西省の主導を握ります。一九四五年一〇月から翌一九四六年一月には遠戦役、内蒙古も国民党側ととなります。また同時期一九四五年一〇月から一月には除州済南戦役、山東省も国民党支配下となります。
 一月には重慶にて政治協商会議が開催されますが、早くも三月、国民党は六期二中全会にて同会議での協議決定を変更、国共関係はさらに悪化し結局六月に国共は全面内戦となり、南京国民政府によって安定、維持が確保されていた治安は劇的に悪化します。
 『清廉な共産党軍は民衆らの支持を得て勝ち進み、腐敗した国民党軍を駆逐した』という論を未だに書いている著作があるのですがこれは極論です。当初圧倒的優勢であったのは国民党側です。一一月には国民党は国民大会を開催、中華民国憲法を制定します。翌一九四七年三月には延安が陥落します。
 これに先立ち一九四七年二月、日本の直接統治下であった台湾にて、中国側のあまりの統治能力の低さに台湾住民が激怒し2.28事件が勃発します。日本による法治に慣れていた台湾住民にとって、国民党側が中国で通常の手段として用いていた統治方法が想定外の水準のものであったため、1万8千から2万8千名ともいわれる、中国大陸はともかく、台湾にとっては大規模な数の犠牲者が発生します。
 さて六月までに国民党は山東省や東三省(満洲)を除きほぼ全土を掌握します。八月、国民党は内戦終結を目指し東北作戦を開始します。ところがここにきて、ソ連が接収していた、旧満州帝国の軍事物資が中国共産党サイドに流入、これが原因で立場が完全に逆転、国民党主力が壊滅的な打撃を受けます。以後主力を失った国府軍側は撤退続きとなります。
 一九四七年一〇月共産党は土地法大綱を公布、以降500万人ともいわれる地主、富農らが曖昧な基準で処刑されます。
 一九四八年三月、国民党は第一次国民大会を開催、初代中華民国総統に蒋介石を選出しますが戦局の悪化は変わらず、三大戦役となります。一九四八年九月から一一月に遼瀋戦役により東北の中心瀋陽が陥落、一九四八年一一月から翌一九四九年一月の准海戦役により徐州が陥落、また平津戦役により北平(北京)、天津が陥落します。これを受け蒋介石は一月総統を辞任、李宗仁が総統代理となりますが、四月には人民解放軍は南京を占領、一〇月、共産党は北京にて中華人民共和国成立を宣言、一一月、李宗仁は香港に亡命、一二月に国民党は台北を臨時首都とします。

 歴史の悲劇、北朝鮮の誕生
 一九四五年一〇月一〇日、『光復』によって南北に分断され、ソ連支配下となった朝鮮半島北部に朝鮮労働党北朝鮮分局が成立します。同分局は一二月一七、一八日の第三次拡大会議にて金日成を責任秘書に任命します。翌一九四六年二月八日にはソ連も、活動困難となり満洲からソ連に亡命していた金日成を北朝鮮臨時人民委員会委員長に任命します。
 さて、北朝鮮の各パルチザン(共産主義テロリスト)には主に出身別に五つのグル―プがあります。
 金日成が所属していたのは満洲派で、後に他の勢力を順次粛清し、北朝鮮の実権を握る勢力となります。
 次が甲山派です。日本統治下の朝鮮北部甲山を拠点とし一九三七年、満洲派とともに、普天堡事件を起こします。北朝鮮が讃えるこの事件は、人口約一三〇〇名、うち朝鮮人九割の朝鮮北部の寒村にて郵便局や民家などに集団で狼藉をはたらき、警察官七名が殉職したものです。この事件は二五歳の金日成が首謀者と言われています。金日成が後に日本撤退後にすぐに北朝鮮のリーダーに選ばれたのはこうした経緯があったからかもしれません。但しこれには別人説もあります。とはいえ事実とすれば二五歳の若いテロリストの首謀者が後に国家のリーダーになったことになります。
 この他、朝鮮南部を拠点としていた南労派、中国共産党八路軍に所属していた延安派、ソ連に滞在しソ連国籍を保有していたソ連派がいます。
 八月三〇日、朝鮮共産党北朝鮮分局は北朝鮮労働党に改称、第一次党大会を開催します。翌三一日の中央委員会全員会議にて、金枓奉(延安派)が中央委員会委員長、金日成、許哥誼(ソ連派)が副委員長に選出、また、政治委員五名、常務委員一三名を選出します。
 一九四七年二月、立法機関として北朝鮮人民会議が設置され、行政機関は北朝鮮人民委員会に改称されます。
 翌一九四八年九月九日、朝鮮民主主義人民共和国が建国されます。
 翌一九四九年六月三〇日には北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併、朝鮮労働党が発足します。翌日、金日成を委員長、朴憲永、許哥誼を副委員長に選出します。
 この頃日本では、非合法路線を採択中の日本共産党と連携し、在日朝鮮人からなる非合法団体である祖国防衛隊が、一九五二年の破壊活動防止法制定頃まで、大規模な被害には至らないものの交番や役場などを襲撃する事件が相次ぎます。そのような中、一九五〇年一月、米国はアチソンラインを発表し朝鮮・台湾の防衛放棄を示唆、金日成に南進を誘惑させることになります。

 朝鮮戦争の日本への影響
 一九五〇年一月、米国がアチソンラインを発表し朝鮮、台湾防衛の放棄を示唆、これを受け六月北朝鮮が韓国に侵攻し朝鮮戦争が勃発、連合国各国は日本抜きにはアジアの平和と安全を維持できないことを痛感させられ、警察予備隊が発足します。また同年、レッドパージによって日本共産党員が公職追放、代わってそれまでの公職追放が解除、戦犯らも釈放されます。戦犯という概念自体が連合国側の迷走によって生まれた印象が拭えないものとなります。また翌一九五一年、日本社会党は左右に分裂します。
 一九五一年九月、対日講和条約が締結、翌一九五二年四月より発効し日本の主権は回復します。対日講和条約と同時に日米安全保障条約が締結されます。このときの同条約は米軍の日本駐留を認めたものに過ぎず、日本の防衛義務は明記されていません。二月には台湾と日華平和条約、米国と、現在の日米地位協定の前身となる日米行政協定が締結されます。また同年国際通貨基金(IMF)に加盟します。
 五月、皇居前のデモが暴動化する皇居前広場事件が発生します。これを受け、七月に保安庁が発足、警察予備隊と、海上保安庁の海上警備隊を統合した保安隊が発足します。また破壊活動防止法が成立、公安調査庁、内閣総理大臣官房調査室が発足します。
 一九五四年三月、日米相互防衛援助協定が締結されます。また同月第五福竜丸事件が発生、ビキニ沖水爆実験により一名が被爆死、政治決着により米側から見舞い金が支払われます。翌一九五五年八月には第一回原水爆禁止世界大会が開催されます。
一九五四年六月、警察法が改正され、自治体警察は現在の都道府県警察になります。また七月に保安庁は防衛庁に改組、自衛隊が発足し、個別的自衛権の保持が確立されます。
 政治面では、一一月に、造船疑獄事件により、鳩山一郎らが自由党から分離して日本民主党を結成、翌一二月には吉田茂内閣に代わって彼を首相とする鳩山一郎内閣が発足します。翌一九五五年一〇月には日本社会党の左右が再統一、これを受ける形で翌一一月、日本民主党と自由党も再合併し、自由民主党が発足、いわゆる五五年体制が始まります。

 朝鮮戦争
 一九五〇年六月二五日、スターリン、毛沢東などの賛同を取り付けた金日成の北朝鮮は南侵を開始します。今でこそこれは当然の事実となっていますが長らく北側から侵攻したことすら周知されていない時代もありました。
 二七日、李承晩は保導連盟加盟者の処刑を指示します。これにより二〇から一二〇万名もの保導連盟加盟者が国軍、警察などにより処刑されます。また、この処刑には、米軍他国連軍将校が立ち会いをしていたと公開済みの米国機密書類にあります。
 二八日、ソウル最終防衛線が崩壊します。国軍参謀総長が漢江大橋の爆破を命じますがすぐに撤回します。しかし撤回命令が間に合わず橋は爆破され、五〇〇から八〇〇名が死亡したとされています。現場の爆破担当将校が処刑されますが朴政権下の一九六二年に名誉回復されます。
その後も北朝鮮は南侵を続け、わずか約一ヶ月後の八月には釜山を除く全土が北朝鮮軍支配下となります。
 八月一七日、三〇三高地の虐殺。北朝鮮が米軍捕虜四一名を虐殺します。
 九月、国連軍が仁川に上陸します。ソ連は安保理決議に反対ではなく棄権、また中国代表は当時台湾だったため国連安保理決議八二が成立、歴史上唯一の、国連軍名義としての、国際の平和と安全を維持または回復するために必要な活動となります。今度は国連軍側が一気に新義州の手前まで進軍します。
 また六月より米海軍第七艦隊は台湾海峡防衛を開始、『金日成に助けられる』形で台湾の国民党政権は存続します。
 一〇月頃、北朝鮮領内の信川郡にて住民約三五〇〇〇名が虐殺されます。現在、この虐殺を北朝鮮は国連軍側によるものと断定、糾弾しています。国連軍側もどちらが加害者なのかの立証が困難な状況です。
 一一月、後に大躍進政策を批判し失脚することとなる彭徳懐を司令員とする中国が人民志願軍を派遣、またソ連も援助をします。彭は中朝連合司令部を結成、金日成から軍事指揮権を自分に譲るよう指示します。ここにきて、半島人同士では何もできなかった朝鮮半島の三八度線付近で戦線が膠着状態となり、一九五一年六月より停戦交渉が開始されます。
 この間、いくつかの戦争犯罪(日本人は『戦争という犯罪』という誤解をよくしますがそうではなく『戦争状態下における非合法行為』です。もちろん一方で敵対兵員への攻撃などの合法行為もあります)が韓国国内では明らかとなっています。なお北朝鮮では明らかとすらなっていない状況です。
 一九五〇年七月一一日、小倉黒人米兵集団脱走事件。在日米軍の駐屯する日本、小倉市城野補給基地から武装した黒人兵士ら約二五〇名が脱走して市内にて狼藉、七〇件ほどの被害届が出され鎮圧されます。朝鮮戦争初期において国連軍の劣勢が伝えられる中での米兵員による自暴自棄の行動とみられます。
 一九五〇年七月二六日には老斤里事件。地上戦下の劣勢を感じた米軍師団長が「全ての民間人を敵とみなし発砲」を指示、民間人約三〇〇名、政治犯約一〇〇〇名を虐殺します。
 翌一九五一年一月には国民防衛軍事件が発生します。急きょ編成された韓国軍国民防衛軍への給養を幹部が横領し兵員ら約9万名が餓死します。
 一月六~九日には江華良民虐殺事件が発生します。江華島にて国軍、警察、民兵らが住民二〇〇~一三〇〇名を虐殺します。
 また二月九日から十一日にかけては居昌事件が発生、国軍が市民三八五名をパルチザンとみなし虐殺しています。
 さて一月には日本にて合法団体として在日朝鮮統一民主戦線が設立されています。
 朝鮮戦争はこうした中一九五三年七月に停戦となり、以降現在に至るまで南北朝鮮は『準戦時国家』となります。
 一方中国では一九五三年一二月に高崗・饒漱石事件が発生。党東北局書記・東北人民政府主席の高崗が組織部長の饒漱石と謀って劉少奇失脚を画策しますが毛はこれを察知、高は自殺します。これを機会に次期全人代より大行政区は廃止されることとなります。

第二章 冷戦の中でのそれぞれの国家

 日本での安保闘争
 自由民主党は、解釈運用でないと賄えない非現実的な日本国憲法の改正を目的としましたが、野党やマスコミらの宣伝、皇室の権威縮小などもあって無知な国民が爆発的に増大、合理性を欠いた憲法は結局今日まで存続する結果となりました。
 さて一九五六年には、後に与党に協力的な立場をとることとなるオカルト団体、創価学会が政界に進出します。公明党の結党はこの後の一九六四年となります。
 国際的には一〇月に日ソ共同宣言、一二月には国際連合に加盟します。また同月、内閣に国防会議が設置されます。
 同月より石橋湛山内閣が発足しますが病気のためすぐに辞職、戦犯であったはずの岸信介内閣が発足します。このことからも東京裁判が恣意的な裁判であったことが伺えます。
 一九五七年八月、内閣官房調査室が内閣調査室に改編されます。
 一九五九年一〇月には社会党右派の一部が分離、民社党を結成します。
 また一九六〇年、貿易為替自由化計画大綱が策定されます。
 さて一九六〇年一月、日米安全保障条約は新条約に改定されます。これにより米軍による日本防衛が明記されることとなります。
 日米行政協定は日米地位協定に変更されますが、これは後に米兵員による狼藉などもあいまって無実化していくこととなります。
 五月、アイゼンハワー大統領訪日に合わせ、恒例の無秩序な反米デモが発生、機動隊が出動しますが、これによりデモ参加者一名が死亡する事態となります。これにより岸内閣は七月に退陣、以降安全保障に関する議論が停滞気味となります。

 李承晩政権
 マッカーサーラインの廃止、及び対日講和条約発効による、国際社会からの日本の領海拡大の承認を目前にした一九五二年一月、韓国政府は海洋資源の独占などを目論み、竹島などを含む李承晩ライン設定を独断で強行、日米など国際社会はこの蛮行について「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議します。現代であれば海上警備行動が発令される状況ですが当時は海上自衛隊の前身となる海上警備隊もなく、またその設置も野党などの反発により遅れており初動ができず、結果現代にいたるまで領土問題化することとなります。また韓国側は国際社会の抗議を無視、述べ約四〇〇〇名にも上る善良な漁民らを抑留、四四名を死傷させます。さらにその返還と引き換えに、彼らを人質扱いとし、日本国内において重大犯罪者、常習的犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人ら約四七〇名の釈放を要求、日本側は結局これに応じることとなります。
 同年七月に改憲、大統領直接選挙制となり、翌八月、李承晩は大統領に再選されます。
 一九五三年七月に朝鮮戦争は停戦となります。
 一九五四年、大統領の三選禁止規定撤廃を柱とする改憲案が国会に提出されます。賛成票が定数の三分の二に一票足りなかったのですが自由党が改憲を強行したため『四捨五入改憲』と呼ばれます。
 一九五六年五月に大統領選挙が実施されます。民主党候補の申翼熙は選挙期間中に急死、代わって張勉が民主党候補となり、大統領に与党自由党の李承晩、副大統領に野党民主党の張勉が就任する事態となり、政局が不安定化します。またこのとき、左派系候補・進歩党委員長曺奉岩がスパイ容疑で処刑されます。これは現在冤罪事件とされています。
 同年九月には張勉狙撃事件が発生します。真相は現在も不明のままです。
 一九五九年から日本では北朝鮮への帰国事業が開始されます。これはこれで現在悪名高い事業となっていますが、一方韓国政府は帰国事業阻止を目的に北韓送還阻止工作員六五名を結成しますが早くも一二月には逮捕者が出ます。このとき、新潟日赤センター爆破計画、新潟港への鉄道線路爆破計画などが発覚、また他の工作員の密入国も逮捕や沈没で全て失敗に終わります。当時の駐日代表部は関与を否定、発覚は事件から六〇年以上も経った二〇一一年のことです。

 台湾、半世紀に及ぶ戒厳令の開始
 一九五二年、日台間で日華平和条約が締結されます。その後一九五四年三月、動員戦乱時期臨時条款の無期限延長が決定され、半世紀に及ぶ戒厳令が始まります。国民大会代表、立法委員の改選は停止され、「万年議員」が誕生することとなります。
 同年一二月、米華相互防衛援助条約が締結されますが中国はこれに反発し、翌一九五五年一月に浙江省の大陳島を攻撃、台湾側は大陳島を放棄します。
 一方台湾側も同年四月にカシミール・プリンセス号事件を起こします。アジア・アフリカ会議の参加者を乗せ、周恩来も搭乗を予定していた航空機「カシミール・プリンセス号」がブルネイ上空にて空中爆発します。現在まで真相は不明のままですが、台湾国防部秘保局によるテロといわれています。
 中国側はさらに一九五八年八月に金門島砲撃を実施しますが戦線は膠着します。
 一方国民党側も国内での統制を強化、百家争鳴の小規模版ともいえる事件が発生します。一九五六年一〇月、蒋介石が七〇歳の誕生日の記念行事の一環として政策についての意見を募集したところ、雷震が編集長を務める雑誌「自由中国」が蒋介石批判を展開、四年後の一九六〇年九月に雷震らが逮捕されるという「自由中国事件」が発生します。
 さて、一九五〇年総統府に機要室資料組が組織されます。非公式の情報機関であった政治行動委員会の公称で、戦前の主力情報機関であった国民政府軍事委員会調査統計局、国民党中央党部調査統計局などが再編され、秘書長には蒋経国が就任し、彼は情報機関のトップとして共産党員の検挙に当たります。一説によると逮捕者数約四万名のうち約二千名以外の約九十五%が冤罪だったといわれています。
 また、もともと共産圏国によく似た構造をしている中華民国ですが、国防部に政治部があり、蒋経国は同主任にも就任(一九五一年に総政治部に改称)し、蒋介石の司令の補佐に当たります。共産圏の軍ではしばしば表の司令部を裏の政治部が指揮していますが、この権威は六〇年頃には台湾では収束に向かいます。
 一九五二年、国民党七全大会、及び一中全会が開催されますが、中央常務委員の序列は行政院長の陳誠の第一位に対し蒋経国は第二位でした。またこのとき総統府に、後に国家安全会議になる国防会議が設置され、蒋経国はその副秘書長となります。
 一九五五年、機要室資料組は国防会議所属の国家安全局として改組、共産党員の検挙なども冤罪の弊害ばかりとなっていたため収束に向かいます。
 台湾の表向きの顔とての役割を担った、行政院長であった陳誠以上に、裏の顔であった蒋経国は当時より蒋介石の後継と見られていました。もともと蒋経国には共産主義志向が強く、そのため政治指揮系統など共産圏的な役職に就きましたが、これが台湾にあっても親米派の反感を買っていました。なお、それへの対抗措置も共産圏のスタイルに近い内容になっていたともいわれています。
 一九五三年には台湾省主席であった呉国楨が渡米します。呉国楨自身がもともと親米派で蒋親子と不仲であり、暗殺の危機を感じたという説もありますが、江南事件の原因となった「蒋経国伝」では、不自然な交通事故に遭いかけたため、蒋介石の慰留があったにもかかわらず渡米したともいわれています。
 また陸軍総司令であった孫立人は一九五五年に部下がクーデターを企んでいたとして軟禁され、これは蒋経国が死去する一九八八年まで続くこととなります。なおこの事件は現在では冤罪とされています。
 但し、台湾の国民党における、さほど熾烈ではないとはいえ共産圏に近い、党内部での非合法と思われる権力闘争は、国民党自体が共産党に近い党禁を敷いていたためとも見られます。なお、共産圏特有の制度としての、軍における裏の指揮系統である政治委員制度を模倣して政治工作指導員が設置されていましたが、台湾移動後の中華民国において、その中枢であった国防部総政治部主任の地位にあったのは、トロツキストであった蒋経国でした。
 一方、韓国の場合は建前上は民主主義であったため、迫害などの対象は野党に対するものが中心で、それも徹底されたものとはなっておらず、また与党内にあっては単なる異動が中心ともいえます。
 さてところが、蒋経国自身も、金大中事件よろしく情報部門の暴走を引き起こしてしまい、蒋介石の後継としての活躍は一時中断となります。一九五七年、米台双方の工作員同士が軍事物資の横流しの分け前をめぐって対立し、米国工作員が自宅にて台湾工作員を銃殺したものの、裁判権のあった米軍事法廷によって無罪判決となります。
 もともとトロツキストで反米主義志向の強かった蒋経国がこれに反発し、台湾工作員数十名が米国大使館を襲撃したといわれています。真相を尋ねた日本の駐台記者に対し蒋経国は「真相は駐台記者であれば(答えなくても)ご存知のはずです」とまで発言したといわれています。蒋介石はこれに激怒、彼は駐台大使に謝罪、また真相は暴けないものの、「未曽有の恥辱」、「無知無能の暴動」と自国側のなしたことに強烈に遺憾を表明します。
 蒋経国はその後一九六五年に国防部長となるまで、一九六三年に訪米などはするものの公職からは外されます。後に復帰した蒋経国には蒋介石の後継としてのイメージが強く、諜報担当としてのイメージはあまり知られていないようにも見えますが、台湾期中華民国初期の蒋経国にはそちらの側面もあったようです。

 中国、第一次、第二次集団化
 一九五四年、党では再び中央軍事委員会が復活、また国家では九月に第一期第一回全人代が開催され、国家主席、国防委員会主席に毛沢東、国家副主席に朱徳、全人代常務委員長に劉少奇、国務院総理に周恩来がそれぞれ就任、第一次集団化政策が開始されます。つ高崗・饒漱石事件の教訓から大行政区は廃止されます。この他国家主席の諮問機関として最高国務会議が設置され、主に毛が国家主席の時期に恣意的に開催されます。後の北朝鮮、金日成が国家主席設置の際に設置した、立法(最高人民会議)、行政(政務院)を超越し絶大な権限を持った機関である中央人民委員会は位置づけ上はこれに類似した機構です。
 一九五六年二月より簡体字が導入されます。
 同年四月、毛は政治局拡大会議にて「百花斉放・百家争鳴」を提唱し言論の自由について容認する姿勢を見せますが党への批判が増大、翌一九五七年六月には人民日報社説「これはどうしたことか?」を発表、七月の省級書記会議(青島会議)より反右派闘争が始まり、約五五万人が右派分子とされ迫害される結果となります。
 一九五六年九月に党第八期全国代表大会(八全大会)。政治局にかつてあった常務委員会が復活します。政治局常務委員会の役割を果たしていた中央書記処は事務処理機構に変更となります。この大会では劉少奇が政治報告、鄧小平が中央書記処総書記(党中央委員会総書記ではなく、党の代表、中央委員会主席、毛ではありません)に選出され党規約の改正報告を行い、いわゆる『八大路線』が確立、毛の急進的な路線はここでいったん否定されることとなります。
 一九五八年一月に国務院は戸口登記条例を公布、都市戸籍と農村戸籍の分離がスタートします。
 さていよいよ中国全土を餓死者で埋め尽くした恐怖、大躍進のスタートです。まず一九五八年三月、成都にて開かれた政治局拡大会議(成都会議)にて毛は総路線(『全体方針』という意味の普通名詞です。一九五三年にも出されています)を提起、八大路線を否定します。続く五月には八全大会第二回会議が開催、第二次5カ年計画が策定され、いわゆる大躍進政策がスタートします。八月には北載河にて政治局拡大会議が開催、人民公社設立が決定され、総路線、大躍進、人民公社の三つを持って三面紅旗と呼ばれることとなります。
 水害説など当時さまざまな説が流れましたが、穀物生産量自体が大きく変化するとは考えにくく、今日もっとも有力となっているのは『虚報連鎖説』です。全土にて穀物生産高の増産虚報報告競争が開始、それを真に受けた中央がさらなるノルマを課し、『穀物が倉庫に余っているにもかかわらずそれに手をつけることが許されない』という状況が発生したために発生したというものです。これにより約三千万名が餓死したとされています。現代においても地方のGDPを合計すると中央の発表を上回ってしまう現象が発生しており現代中国における経済成長もこれと似た側面を持っていると言えます。
 一九五九年三月、チベットにて大規模な暴動が発生し約十万名が死亡、自治区準備委員会主任のダライラマ十四世がインドに亡命します。
 大飢饉の発生が明らかとなりつつあった一九五九年四月の第二期全人代第一回会議にて劉少奇が国家主席、国防委員会主席、朱徳が全人代常務委員長となります。しかしこれを持って毛が大躍進の失策を認めたと判断するのは早計です。同年七月、政治局拡大会議(廬山会議)にて、朝鮮戦争の人民志願軍司令員であった彭徳懐国防部長が毛沢東に私信を宛て大躍進を批判、毛はこれを会議にて発表し彭は失脚、後の国防部長には林彪が就任します。
 また一九六〇年には雑誌『紅旗』が『レーニン主義万歳』を掲載、この中でソ連を修正主義と批判、中ソ対立が始まります。結局大飢饉はこの間ずっと継続されます。
 毛が大飢饉の発生に気付いておらず虚報を信じ続けたのか、それとも自身の政策に我が身を投じる覚悟であえて突き進んだのか、その真相は今も不明なままとなっています。
 
 北朝鮮、満洲派の台頭と他派の粛清
 一九五三年七月に朝鮮戦争が停戦となりますが、これを機会に金日成は南労派の処刑、粛清に乗り出します。停戦に先立つ三月、停戦濃厚を口実に朴憲永副委員長ら南労派が一斉に逮捕、順次粛清されます。また停戦直前には許哥誼副委員長も自害に追い込まれます。
政治的弾圧の度合いですが、韓国、台湾などは数年で釈放、中国などは軟禁というケースが多いのですが北朝鮮の場合はこのように一斉処刑となります。こうして停戦直後の八月の中央委員会全員会議では新たに常務委員十四名、政治委員五名が選出されることとなります。
 さて一九五五年五月、終戦から一〇年も経ってようやく日本共産党は非合法路線を放棄します。これを受ける形で、日本にて在日朝鮮統一民主戦線と祖国防衛隊が解消、在日本朝鮮人総聯合会が設立されます。
 同年一二月、ソ連、中国の要請などにより粛清が留保されていた朴憲永に死刑判決、即日処刑されます。
 翌一九五六年八月に八月宗派事件が発生します。この年二月にソ連共産党第二〇回党大会が開催、フルシチョフがスターリン批判を行いますが、これが北朝鮮での金日成神格化への批判の契機となります。
 同年四月党第三次大会、中央委員会全員会議が開催され、中央常務委員が一一名選出されます。第三次大会では政治委員が廃止されています。
 六月、金日成はソ連を訪問しますが、この間に八月宗派事件の画策がなされたものとみられています。
 八月に中央委員会全員会議が開催されますがその席上、崔昌益党中央常務委員兼副首相(延安派)、朴昌玉副首相(ソ連派)、朴義琓副首相兼国家建設委員長(ソ連派)などが金日成の個人崇拝化などを公然と批判します。彼らは即日党籍はく奪となります。
 あまりの恐怖政治にソ連、中国すら驚き、翌九月にソ連は第一副首相アナスタス・ミコヤンを、中国は中国人民志願軍司令員であった彭徳懐国防部長を北朝鮮に派遣、先月の中央委員会全員会議での除名処分を撤回させます。しかし中ソの仲介も効果はなく結局彼らはその後一~二年以内に全員処刑されます。さらに翌一九五七年九月には最後の延安派の重鎮であった金枓奉最高人民会議常任委員長も解任、その後の公式情報すらありませんが年内に処刑されたものと推定されています。八月宗派事件の結果、ソ連派、延安派は大量粛清され壊滅することとなりました。
 さて一九五六年一二月の中央委員会全員会議において金日成は千里馬運動を提唱、翌一九五七年から国民経済発展第一次五カ年計画がスタートし、「白飯と肉のスープ」を目標に掲げます。
これはつまり逆にいえば、観光鉄道まで走っていた光復以前とは打って変わって、韓国とは異なり日本統治時代の遺産を破壊してしまった当時の北朝鮮にはそんなものはなかったということです。後に北朝鮮は『苦難の行軍』の時期に入ります。これについて、ソ連からの援助が途絶えた、水害が発生したなど、あたかもそれまで繁栄していた国家が窮乏したかのような論調が多くありますが、これは西側からの援助を引き出すための宣伝で、実はこの国の経済状態は最初から『苦難の行軍』状態にあったと指摘できます。
 しかし当時の諸外国がそのような状況を知るよしもありません。当該国籍を持っている者が希望するのであれば自国に帰る権利を保障すること自体は重要です。なので一九五九年から帰国事業が開始され、一二月に第一団が帰国します。配偶者などが日本人の場合はもちろんその日本人も一緒です。北朝鮮は韓国との競争などから一戸建ての新築住宅の写真などを作って宣伝に努め、また朝鮮総連も差別される日本国内よりいい暮らしができると宣伝キャンペーンを実施します。もちろん帰国した者たちはその瞬間から職業選択の自由もないことに気づくのですが。
 さらにこれと合わせ、北朝鮮は現在でも続けていることは明白であるにもかかわらずその政策の存在すら否定していますが中央党集中事業を実施、出身成分を規定、経歴などの党への忠誠度に基づき人民を「核心階層」「動揺階層」「敵対階層」の三種類に分類、動揺階層を監視対象、敵対階層を特別監視対象としそれぞれ居住可能区域を指定、約七万名が強制移住、また同時に約六千名が処刑されることとなります。帰国事業により帰国した者たちは大歓迎を受けた後、原則として動揺階層に入れられます。もちろん党や首相の批判などを口にしてしまえば個人どころか当該親族を含めそれどころでは済みません。
 この後、一九六一年九月、党第四次大会が開催されます。党規約上は大会は五年に一度の開催とありますが、今大会より概ね一〇年に一度程度のペースとなります。つまり、執政政権の党の規約の最重要レベルの項目すら公然と無視され始めることとなります。この後の中央委員会全員会議では中央政治委員十一名が選出されます。第三次大会では中央政治委員がなくなり中央常務委員のみとなりましたが、今度はその逆に中央常務委員会がありません。

 高度経済成長
 一九六〇年代頃より石炭から石油へのエネルギー革命が始まります。日本もこれに合わせ高度経済成長期に突入、安全保障政策は後回しとなり、岸信介内閣の後を継いだ池田勇人内閣は『所得倍増政策』を掲げます。また旧日本領下であった韓国、台湾と、英領都市国家・地域であった香港、シンガポール(一九九七年まで香港は英領)の四か国、地域もアジア小四龍としてそれに続きます。対外非開放や、共産と言いながら結局は幹部の腐敗による横領、統計水増しなどにより、文革期でも駅で人肉饅頭が売られるなどしていた中国などとの格差が開くこととなります。
一九六四年、日本はIMF八条国となり、国際収支を理由に為替管理をしない国となります。また同年経済協力開発機構(OECD)に加盟、資本取引が自由化されます。
 同年一〇月、東京オリンピックが開催、また東海道新幹線が開業、高度経済成長の象徴的存在となります。

 第二共和国と五.一六
 一九六〇年三月に韓国にて大統領選が実施されます。民主党候補の趙炳玉は病気治療のため渡米しますが死去、李承晩が再選されますがもはや不正選挙が明白となり、翌月より大規模デモが頻発、四.一九革命と呼ばれます。これに国軍が中立を表明、李承晩は下野し翌月ハワイに亡命します。副大統領の李起鵬は拳銃自殺、許政外務長官が大統領権限代行となります。
 六月に改憲、第二共和国が始まります。七月に国会議員総選挙が実施、民主党が圧勝し自由党は事実上消滅となります。八月、国会は民主党旧派の尹潽善を大統領に選出、尹潽善は同旧派の金度演を国務総理に指名しますが民主党は内紛、民主党新派はこれに反発し否決、張勉が国務総理に選出されます。国政の混乱もさることながら、学生、労働組合などによるデモとそれに伴う不法行為が頻発し治安が極度に悪化、一〇月には国会乱入デモが発生、また学生団体などが板問店での南北学生会談開催を提唱するなどします。
 ここにきて翌一九六一年五月に五.一六クーデターが発生、元満洲帝国国軍将校で陸軍少将・参謀本部作戦参謀部長の朴正熙が軍事クーデターを決行、国家再建最高会議が発足し軍政となり、議長に陸軍参謀総長の張都暎、副議長に朴正熙が就任します。張はすぐに米国に事実上の強制的な亡命扱いとなり朴が議長となります。
 軍政下に置いてデモは事実上消滅、混乱の限りを尽くしていた治安が回復し、満洲の経済成長に強力的な役割を果たした企画院に相当する経済企画院、情報機関である中央情報部などが設置、また生活保護制度、医療保険制度などが整備されます。
 軍政開始より二年後の一九六三年に朴は民政に復帰、民主共和党を結党し自ら大統領選に出馬し当選、第三共和国のスタートとなります。

 調整政策
 一九六一年一月の八期九中全会より劉少奇国家主席、鄧小平党総書記らによる調整政策が開始、急進的な集団化の抑制が始まりますが毛はこれに不満を抱いていました。
この頃北京市副市長の呉晗が『北京文芸』に『海瑞罷官』を発表、清廉な官僚が辞任する話を描いたものですが、これが大躍進を批判し失脚した彭徳懐を擁護していると言われ、後に文革の端緒となります。
 一九六二年一〇月に中国はインドに侵攻します。ダライラマ亡命への報復が目的といわれています。また一九六四年一〇月には初の原爆実験を実施します。
 さて一九六三年二月、政治局が招集する中央工作会議において毛は『前十条』を開始、事実上調整政策への反撃を始めます。一方、九月の中央工作会議では劉・鄧らは「前十条の補足」という形式で『後十条』を発表し、両者の対立が進行します。
 続く一九六四年一二月、全国工作会議にて毛は鄧総書記と、李富春国務院国家計画委員会主任らを名指しで批判、ついに対立が表面化することとなります。さらに毛は翌一九六五年一月にも全国工作会議で『二三条』を発表、やがて文革へと繋がっていき、調整政策は毛の急進的な共産化路線を止めることはできず、結局経済の破滅的な状況が続くこととなります。
 さてこの頃日本は一九六三年八月、倉敷レイヨン・ビニロンプラントの中国向け延払い輸出を承認、また一〇月、一時台湾亡命を求めていた中国代表団通訳周鴻慶を北京に送還(後に本人の意向が変わったとされる)、日台関係が悪化します。

第三章 混乱の中の安定Ⅰ

 佐藤長期政権とその後の政局の混乱
 一九六四年十一月、健康問題に伴う池田政権の引退の後を継いだ佐藤栄作内閣ですが、一九七二年七月まで実に七年八カ月という長期政権となります。
 この間には、まず、韓国との間でようやく日韓基本条約が締結されます。戦後の朝鮮半島関連の法案については無効が確認されますが、『もはや』という文言が用いられており、この解釈は、日本側が、同条約発効と同時に無効になった、韓国側が、最初から無効だった、とそれぞれ異なるものにできるようにされています。
 この条約締結により韓国側は賠償請求を放棄したことも明文化されています。なお、このように大幅に日本側からの譲歩を引き出した内容ではありますが、条約締結に際し、韓国国内では大規模な不法デモが発生、戒厳令が敷かれる事態となります。
 また高度経済成長期後半になって公害問題が社会問題化し、一九六七年に公害対策基本法が制定されます。一九七一年から一九七三年にかけて四大公害訴訟がなされます。
 この他一九六八年には小笠原が、一九七二年には沖縄が返還されます。
 一九七二年七月より田中角栄内閣が発足します。列島改造論を掲げインフラの整備などを主張します。この中には現代の北陸新幹線経由地、中央新幹線経由地を始め時代に促していないものも数多くあります。
 発足直後の九月に田中は中国を訪問し日中共同声明を発表、これを受け、アメリカに先行して台湾は日本と断交します。
 一九七三年二月より変動為替相場制が導入されます。また一九七三年にはオイルショックが発生します。
 この後一九七四年一二月に金脈問題から田中内閣は退陣、三木武夫内閣が発足します。田中以降、二一世紀までは、中曽根内閣を除き首相の在任期間は二年程度となることが通例化します。いずれも政権末期には支持率が低かったり健康上の問題が発生したりしています。こうした日本の状況は、国自体が安定化し、改憲などのすぐに実行の可能な目立った政策がなくなってきたことに加え、指導者の資質だけでなく、有権者の資質も原因と考察できます。
 とはいえ、海外においては任期制の指導者が二大政党制状態で、政権末期にはレームダック化し選挙で後継者が当選できず野党に政権を譲っていることも多いので、必ずしも日本ばかりが、多数の指導者が不名誉な退陣をしているとは言い切れないのではないかとも指摘できます。二大政党制にせよ、同一政党での代表交代にせよ、大衆の、政策とは関係のない、政治そのものへの不満のはけ口としては機能していますが、それが本当に意味のあることなのかどうかはまた別の問題ではないでしょうか。

 第四共和国
 一九六五年の日韓基本条約締結に際し朴政権側は国内世論に配慮しやや強硬姿勢で臨まざるを得なくなりましたが、それでも結局不法デモが発生、国内で戒厳令が発令されます。
この後も南北関係は緊張が続きます。現代でも北朝鮮から韓国への、領海侵犯や砲撃、ミサイル発射などの挑発行為は散見されますが、一九九六年の江陵浸透事件までは韓国領内への不法上陸が中心でした。
 中央情報部による摘発も相次ぎます。本当にスパイとして破壊活動をしようとしていたものがある一方、二一世紀になって冤罪だったと判断されたものもあります。
 一九六五年八月に第一次人民革命党事件が発生、中央情報部が四一名を検挙し一三名に有罪判決を下しますがこれは後に冤罪事件とされています。
 一九六七年七月には東ベルリン事件、中央情報部は東ドイツ駐留の北朝鮮大使館と接触したとされる韓国人一九四名を逮捕し、一〇七名を立件、死刑を含め有罪判決を下します。二〇〇五年の国家情報院の再調査では、「事件は捏造ではなかったが、被疑者に対する強引なスパイ罪の適用があった」との結果が報告されています。
 一九六八年八月には統一革命党事件が発生、国家保安法違反で武器などを押収し七三名起訴、四名に死刑判決が下されています。現在でも冤罪ではなかったとされています。また北朝鮮側はこの事件を称賛しています。
 同年十一月には李承福事件。北朝鮮の武装工作員百二十三名が江原道から船舶で韓国内に侵入、たまたま占拠した民家の子どもの反共発言に憤慨しその民家を虐殺、警察、国軍が逮捕する事態となります。
 一方北朝鮮側による挑発も相次ぎます。一九六八年一月二一日、青瓦台襲撃事件が発生、朝鮮人民軍の対南工作部隊三一名が青瓦台の八〇〇メートル手前まで侵入し銃撃となります。
朴政権側はこれに激怒、米国に北侵を要請したとされていますが、続く一月二三日にはプエブロ号事件が発生、北朝鮮が米国艦プエブロ号を拿捕します。米海軍は空母機約二〇〇機を展開、米ソ交渉の結果米国乗員らは一二月に解放されます。
 さて朴政権は政権の延長に乗り出します。一九六九年九月に大統領三選を認める改憲案が国会で可決されます。ですが野党を国会に呼ばなかったためひったくり改憲と呼ばれることになります。
 一九七一年四月に朴は三選します。翌月には国会総選挙が実施されます。ここで金大中の野党新民党が三分の一を上回り、与党単独での改憲が不能となります。翌一九七二年、南北共同声明が出され統一への目標が掲げられ、それに伴い韓国では第四共和国が、北朝鮮では改憲、国家主席が設置され南北の権力基盤が強化されます。当時の韓国・朝鮮人たちは、ベトナム戦争の敗戦濃厚やデタントの影響もあって統一ムードに踊らされていたそうですが、現在では南北共同声明は双方の権力基盤強化の口実だったとの見方が強めです。北朝鮮側では金日成の延安派への粛清は一通り済んでいましたので、持ちかけたのは、与党単独改憲ができなくなった韓国朴政権側ではないかと言われています。
八月、南北共同声明を前に、青瓦台に対抗する目的で作られた特殊部隊三一名が待遇への不満からソウル市内で暴れ鎮圧されます。なお、この事件を扱った映画での、隊員らが元犯罪者との描写は脚色です。
 一〇月、ソウルに衛戍令が出されます。一方で韓国側は北朝鮮との接触を開始、翌一九七二年五月に李厚洛中央情報部部長が金日成首相と極秘会談、続けて朴成哲北朝鮮第二副首相が朴正熙大統領と会談、そして七月に南北共同声明が発表されます。
 一〇月、南北対話を進めるために強力な国家体制が必要との理由で戒厳令が布告され、維新憲法案が公告されます。同案により大統領の任期は六年、統一主体国民会議(議員は政党所属禁止。このため野党議員を実質的に排除)による選出、再選禁止規定を撤廃、また統一主体国民会議は、国会議員の三分の一を与党維新政友会議員として選出することなどが規定されます。これにより、過半数ではないものの簡易的なヘゲモニー制となります。また、戒厳令と同等の権限を持つ大統領緊急措置令が規定されます。
 新憲法案は翌十一月に国民投票で可決、十二月に統一主体国民会議が開催され朴を選出、ここに第四共和国が成立します。
 一方北朝鮮でも十二月に改憲、国家主席ポストが設置されます。南北の権力基盤強化が一通り済んだところで統一ムードは次第に消滅していきます。
 日本とは、一九七三年八月に大統領引退を勧めたために朴の不信を買った李厚洛中央情報部長の指示により金大中を東京から拉致、溺死させようとするも自衛隊による哨戒で断念、金は五日後にソウルの自宅前で解放されます。朴の関与は不明ですが、当時親韓だった日本の保守派も主権侵害に憤慨、田中内閣と朴との間で政治決着がなされます。李厚洛は中央情報部部長を解任されます。但しその後も国会議員では居続けます。
 また一九七四年に文世光事件が発生、在日朝鮮人が日本の警察の拳銃を盗み朴を狙撃、同行していた夫人が死亡します。これらの事件を受け日韓関係が悪化します。
 また米国とも同年コリアゲート事件が発生、在米ロビーストの朴東宣が米国議員や政府高官らの買収を図ったとされ、米韓関係も悪化します。
 国内でもスパイ事件、スパイ事件の冤罪事件、北朝鮮からの挑発などが続きます。朴はまず一九七四年に大統領緊急措置一、二号を発令、改憲議論を禁止し罰則規定を設けます。四月には民青学連事件が発生、大統領緊急措置四号が発令され民青学連との接触が禁止され、全国民主青年学生総連盟の一八〇名を逮捕、非常軍法会議にかけますが、翌一九七五年二月に大統領特別措置により全員の刑執行の停止、釈放がなされます。これは現在冤罪とされています。
 一九七五年四月に第二次人民革命党事件が発生、二三名が逮捕、うち八名に死刑判決が出されます。大統領緊急措置七号、高麗大学校に休校命令が出されます。現在これが中央情報部がした最大の冤罪事件と言われています。
 同年十一月には学園浸透事件。日本からの在日留学生約二十名がスパイ容疑で逮捕されますがこれも冤罪と判明しています。
 五月、最後の大統領緊急措置である九号、集会、結社、出版、放送などによる改憲議論停止が出されます。この九号のみ朴の死まで続き、この九号継続の時代は韓国での言論の自由に一定の制限がかかった時代と言えます。これに対し金大中は民主救国宣言を発表、九号違反で逮捕、懲役五年判決を受けますが二年後に釈放されます。
 北朝鮮とは、一九七四年十一月に最初の南侵トンネルが発見されます。以後一九八九年までに四本が発見されています。韓国側では現在もボーリング探査を実施しています。
 また一九七六年八月にはポプラ事件が発生、板門店にて、伸びすぎた北朝鮮領内のポプラの剪定を国連側が要求し北朝鮮がこれを拒否、国連側が強制剪定を実施したところ交戦、米兵二名が死亡し、三日後に国連軍側が大挙しポプラを伐採、金日成主席が謝罪します。

 蒋経国への権限移譲
 中国が文化大革命の混乱にあるさなか、国民党による党国の独裁体制の中にあっても台湾は比較的穏やかな方でした。
 一九六七年、総統府直属の国防会議から、情報機関として国家安全会議が設置されます。続く一九六九年、蒋経国が行政院副院長に就任します。彼は一九六五年から国防部部長となっていましたが、このときに蒋介石はすでに八三歳と高齢となっており、この頃より寺実質的に蒋経国への権限移譲が始まります。
 しかし中国が文革の混乱にあるさ中にも関わらず、台湾を取り巻く国際状況は悪化します。一九七一年、米国大統領補佐官キッシンジャーが北京を訪問し、国連総会が台湾を国連から追放します。日米が提案していた台中二重代表制は否決されます。
 一九七二年七月、蒋介石はこん睡状態になります。一九七三年一月、約半年後に意識は回復しますが、この時点ですでに蒋経国時代が始まっていると見ることができます。一九七二年より蒋経国は行政院長に就任、自由地区(台湾)の議員定数を増加させます。また政務委員(閣僚)の本省人も増加させます。李登輝もこのときより政務委員に任命されます。
 一九七二年には米国ニクソン大統領が訪中、また日中国交回復により日台断交となります。
 一九七三年、蒋経国内閣のもとでインフラ整備である十大建設が発表されます。一九七五年に蒋介石が死去、総統には厳家淦が就任しますが、国民党中央委員会主席(総裁より改称)には蒋経国が就任します。

 文化大革命
 一九六五年十一月、上海の文匯報が、姚文元による、『海瑞罷官』を、毛沢東が罷免した彭徳懐を暗喩していると指摘し、文革の端緒となります。
 翌一九六六年より文革が本格化します。劉少奇、鄧小平らによる調整政策は失敗に終わり、相変わらず駅にて『人肉饅頭』が売られる時代が続きます。まず一九六六年五月、政治局拡大会議にて、『五.一六通知』を採択、中央文化革命小組の設立が決定されます。林彪はこの頃から毛沢東天才論を唱え始めます。
 八月、八期十一中全会はプロレタリア文化大革命決定を採択、文革が始まります。すぐに文革小組は実質的に政治局、書記処以上の権限を持ち始めます。この中央委員会より林彪は序列第二位に進出し、一方劉少奇は第八位に転落します。
 文革による紅衛兵らの行動により約2千万人が殺害されたとされています。毛は紅衛兵らへの謁見を開始し、また都市部には壁新聞である大字報が各所に貼られます。
 一九六七年一月、黒竜江省にて初の『革命委員会』が設置され、事実上共産党省委員会以上の権限を持ちます。二月には同様組織『上海コミューン』が上海に設置されます。同月、劉少奇は国家主席辞表を毛に提出しますが毛は慰留します。しかし劉は結局四月には紅衛兵らにより監禁されます。毛は劉の扱いを不当にしないよう指示しますが効果はありませんでした。
 同年八月には武漢にて武漢事件が発生します。実権派の武漢軍区司令員陳再造ら『百万雄師』らと造反派が対立、さらに林彪が造反派応援のため東海艦隊を派遣、内乱の寸前までいきますが、周恩来首相が調停します。
 翌一九六八年五月より毛は林彪に五七幹校設立を指示、下放が始まります。
 安全保障面では、国内の混乱にもかかわらず、一九六六年に核弾頭ミサイル東風二号が完成、また一九六七年にはウイグル、ロプノ―ルにて地上水爆実験を実施します。地上などで水爆実験をすれば被爆者が出て当然ですが現在でもその真相は不明のままです。
 一九六八年一〇月十二中全会にて劉少奇は正式に国家主席を解任され、翌年監禁状態のまま死去します。また鄧小平中央書記処総書記も解任されます。
 一九六九年三月に珍宝島事件が発生し中ソ両軍が衝突、中ソ対立が表面化します。
 四月、第九期一全大会にて林彪を一ポストのみの党副主席に選出し毛の後継者としての地位が確立しかけます。またこのときより鄧小平が管轄していた党中央書記処は廃止されます。また同年、暴走気味であった党中央文革小組は廃止されます。
 ところがこの直後より林は焦りはじめます。一九七〇年三月、党中央工作会議にて、空席の国家主席ポストを廃止、他の共産国同様、国会議長に相当する全人代常務委員長(朱徳)が名目上の国家元首となることが決定されますが、林はこれに不満を抱きます。
 八月、二中全会にて、林はまたも天才論を説き毛を黙らせ、また林派が『会議は林彪の演説に学ぶべき』と主張、飛ばした行動に毛は林を批判します。これを受け焦った林は一九七一年に五七一クーデター、毛を暗殺しようとしますが計画がことごとく毛に漏れ失敗、ソ連に亡命しようとして使用した航空機が燃料不足のためモンゴルに墜落、林は死亡します。周恩来が燃料を抜き取った、林彪は戦時中のモルヒネ中毒脱却の見返りにソ連と密通していた、など現在も噂があれこれ飛び交っています。
 このような国内の大混乱を知らずか国際社会は中国に接近、一九七二年二月にニクソン米国大統領が訪中、また同年九月には田中政権が米国に先立ち日中国交を樹立し台湾と断交します。
 一九七三年八月一〇全大会にて、林彪事件の反省を受け鄧小平が党中央委員に復帰します。さらに、高齢の周恩来の意向を受け、自らの補佐として鄧小平は第一副首相に就任します。一方、党政治局には、党副主席の王洪文、毛婦人の江青ら四人組が出現します。また国家主席ポストが正式に廃止、合わせて国防委員会、最高国務会議も廃止となります。この辺りは、国家主席とその諮問である中央人民委員会を設置した北朝鮮とは逆の路線になります。
 翌一九七六年一月、周恩来首相が死去します。これを受け周恩来追悼の民衆と華国鋒との間で衝突、第一次天安門事件が発生、鄧小平が再び失脚し、華国鋒が毛の信頼を得、党第一副主席兼首相となります。

 金日成への権力集中
 北朝鮮では金日成への権力集中が進みます。一九六五年頃より初めて主体思想の用語が登場します。翌一九六六年党機構が改組され、中央委員会委員長は中央委員会総秘書となります。また中央委員会政治委員会に常務委員会が設置され六名が選出され、ピラミッドが一段増えたことになります。また事務機構である秘書局が設置されます。
 一九六七年五月四日から八日にかけての中央委員会全員会議にて主体思想が「唯一思想体系」として確立され、これを批判した政治委員会常務委員朴金喆、李孝淳ら甲山派が攻撃されます。さらに続く六月二八日から七月三日の中央委員会全員会議では呉振宇らが朴金喆を批判、朴金喆は自殺を図り一命を取り留めるも翌年処刑されます。また李孝淳ら甲山派も順次行方不明となり壊滅し、金日成が所属していた満洲派のみが残ります。
 韓国・米国との関係も、当時は南北の工作員の上陸が比較的容易だったため、一九六八年に青瓦台襲撃事件、プエブロ号事件、李承福事件、一九六九年四月に米海軍EC-121機撃墜事件(米海軍早期警戒機が北朝鮮機により撃墜)などが相次ぎ悪化します。なお韓国側での経済成長に伴い電話回線網などが普及するにつれ上陸は次第に困難となっていきます。
 一九六九年三月、最後に残っていた金日成の出身派閥である満洲派のうち強硬派の金昌鳳民族保衛相(一九六八年一二月に解任。後の人民武力部)、崔光人民軍総参謀長などが粛清(但し崔光は後に復権、国防委員会副委員長、人民武力部長などに就任)、呉振宇が人民軍総参謀長に就任します。
 一方金正日も党組織指導部第一副部長に就任します。当組織指導部は党内権限が強いことで知られますが、これはもともとという説と、金正日の出身部門だったためという説とがあります。
 一九七〇年、出身成分が「三大階層五十一個分類」に細分化されます。
 核心階層は主に平壌他都市部居住(約3割)、以下動揺階層約5割、敵対階層約2割とされます。順次教育、職業制限などがあります。帰国事業により帰還した在日朝鮮人は動揺階層の一番下になり、敵対階層入りはぎりぎり回避されます。一方、少なくとも一九七五年頃に五千名ほどの在日出身が十五号耀徳管理所送りになったと言われています。
 同年三月三一日、よど号ハイジャック事件が発生します。当時日本では北朝鮮に憧憬を抱く者も多かったため、日本の過激派組織共産主義者同盟赤軍派九名が日本航空機をハイジャックし北朝鮮亡命を要求します。いったん平壌と偽りソウルに着陸、韓国軍が朝鮮人民軍に偽装するもバレ、北朝鮮に亡命します。運航乗務員、人質身代わりの運輸政務次官は北朝鮮まで同行後に帰国します。
 同年一一月二日、規約上は五年に一度開催とある党大会(第五次)が九年ぶりに開催されます。政治委員十一名、秘書九名が選出、呉振宇は序列第七位となります。
 同年五月、韓国国会で与党は改憲ラインである三分の二の確保に失敗、政権権力強化に乗り出し、同時に北との接触を試みます。一九七二年五月に李厚洛韓国中央情報部長が金日成首相と極秘会談、同月末には朴成哲第二副首相が韓国朴正煕大統領と極秘会談を実施、七月に南北共同声明が発表されます。
 これを受け韓国では第四共和国が成立しますが、一方北朝鮮でも一二月二七日に改憲がなされます。まず名称がこのときより『朝鮮民主主義人民共和国憲法』から『朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法』となります。
 国家元首は立法府の長である最高人民会議常任委員長ではなくあらたに(国家)主席が設置され、金日成は首相に代わりこれに就任します。行政府である内閣・首相・各相は政務院・総理・各部長に改称となりますが、主席が設置されたため権限は弱体化します。立法府である最高人民会議常任委員会は同常設会議に改称、議長に黄長燁が就任しますが彼は党政治委員会からは除外されており、こちらの権限も縮小されます。また主席の諮問機関として、毛沢東が国家主席時代にしばしば開催していた最高国務会議に類似した位置づけの中央人民委員会が設置されますが、これが次第に党、政務院をも凌駕する強大な位置を占めることとなります。またこのとき中央人民委員会傘下に国防委員会が設置されます。
 なお、一九六六年に党秘書局、一九七二年に国家主席が設置されていますが、一方中国では、中央書記処総書記の鄧小平、国家主席の劉少奇らの失脚に伴いこれらのポスト、機構は廃止となっています。
 一九七三年頃、『三大革命赤旗獲得運動(思想・文化・技術の3つ。三大革命小組運動とも)』を金正日が提唱、農場、工場などに学生、若年党員らを派遣し業務を監視させますが九〇年頃には終焉します。なお同年金正日は党組織指導部長となります。また同年社会安全部(現人民保安省。一般警察)から国家政治保衛部(秘密警察)が分離独立、現在の国家保衛省の元となります。
 同年一二月、二児拉致事件が発生します。朝鮮総連第一副議長の貿易会社にて日本人女性が殺害され、六歳と三歳のその子どもを拉致、二〇〇七年に日本政府が拉致被害者として追加公認し容疑者を国際指名手配します。これについて現在も北朝鮮からの回答はありません。
 翌一九七四年二月十一~十三日の中央委員会全員会議にて金正日は政治委員・秘書に選出されます。また四月十四日に十大原則が発表され金日成の神格化も進行します。また一九七六年五月十四日には呉振宇も人民武力部長となります。一方、同年六月には金東奎国家副主席らが金正日後継体制を批判しますが翌一九七七年一〇月に粛清、また党員約三〇万名の党籍がはく奪されます。

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2019年1月11日 発行 初版

著  者:坪内琢正
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