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母の日が過ぎて店長が一ヶ月ぶりに休みをとった。朋子は仕入れのトラックが到着するのを待っていた。
その生花店でアルバイトを始めて一年近く経つ。先輩バイトの由香と売れ残ったカーネーションのブーケを解き、母の日用のリボンやポップや包装紙を、来年も使えるものを選んで段ボールに入れたり、使えないものを集めて廃棄に回したりする作業が開店までに終りそうにない。大方は夜のうちに片付けたからと言った店長の言葉におそらく嘘はないだろう。それでもこんなに、多肉植物の鉢にまでポップが挿してある。店は横浜駅に近いビルの一階に入っている。
店長が休みのときは、花は市内の中央市場から宅配業者が運んで来る。由香は担当の配達員がお気に入りで、一週間ぶりに会えるその人のことを、八時に出勤してからずっと話していた。
「家、この辺なんだって」
ギンガムチェックのシャツに赤いエプロンをした由香は、ガラス張りの冷蔵ショーケースの壁を——それは鏡になっているのだが——何度も覗いては自分の顔を確かめていた。朋子には二歳上の由香が幼く見える。でも本当は何事においても由香は器用なのだった。ハイトップのポニーテールにした髪はいつも毛先がカールしてあり、それが弾んで揺れる。
ショーケースの花バケツからピンクのシャクヤクを一本抜き取ると、幾重にも重なる薄い花びらの塊に頬を寄せた。
「あ、そうだ、朋子ちゃん、今日も高島町の配達あるからね」
真顔に戻った由香が言った。毎週月曜日の午前中に花を持って行く家があった。平日は毎日出勤している朋子が配達することになっていた。
「今日は何ですか」
「えっとねえ、まあ、申し訳ないけど売れ残ったカーネーションと、あとバラと……、カンパニュラとかちょっと入れてみる?」
毎回おまかせで三千円の花束を注文する。受け取るのは三十歳くらいに見える男性だった。もう半年前から通っている。三回目に配達したとき、病人がいるんです、だからなるべく花を用意するようにしているんですよと、不器用な笑顔をごまかすように肩をすくめて朋子に言った。いつもわざと外気を通すように大きく玄関ドアを開き、朋子が持って来た花束を肩に寝かせるように持ち、財布からお金を出す。
高久というその客はJRの高架を見おろすマンションに住んでいた。横浜駅と桜木町駅の中ほどにあるマンションの上層階から眺める空はいつも青かった。首都高が足元を走り、雑草が生えるままの更地の向こうにタワーマンションが並ぶ。細長い箱の立ち姿の足元に臨港パークが緑を広げる。そしてその向こうに海が見えた。
店長も由香も高久の花束に何を使うかいつも悩んでいるので、どんな花が好きなのかと訊ねてみたことがあった。
「そうですね、妻は、なんでも好きですよ。知らない花が入っているとちょっと喜ぶかなあ」
その答えを店の誰にも言わなかったのは、高久が結婚していることが少なからずショックだったのと、長く病気をしているのが高久とそう年齢の違わないはずの妻だったからだ。高久が花の注文をやめるのはどんな時なのか考えると、冷たい気持ちが五月の風のようにふんわりと朋子を包んだ。
エントランスで部屋の番号を押す。朋子が名乗る前に高久の「どうぞー」という声が、いつもは聞こえてくる。だがその日は低い声の「あ、はい、どうぞ」と、乾いた土の塊がほぐれていくのにも似た、力ない返事が聞こえてきた。
約束の時間のはずだが、取り込み中に来てしまったのか。急に居心地が悪くなる。さっさと渡して店に帰ろうと自分に言った。エレベーターに乗り、一八のボタンを押して自分の体が空に運ばれるのを待つ。廊下に出て玄関まで歩く。
その日、高久はどういうわけか外に出てきて玄関のドアを閉めた。少し赤く腫れた下瞼を隠すようにメガネをかけていた。つい、朋子は口を動かした。
「奥さん、お悪いんですか」
目の淵が赤いとかメガネとか、それだけのことが簡単に病気の妻に結びつき、しかも軽々にも実際に言ってしまうのは、朋子の中にそれだけ高久や毎週の花束や、玄関から伸びる廊下の先に、いつか垣間見たリビングの一枚硝子の窓の近くにいるらしい妻を想像して過ごした時間が、かなり長くあったからだった。朋子はすぐに恥ずかしくなり、他人のことを必要以上に——必要がどの程度のことなのか皆目見当もつかなかったが——考えるのはやめるんだと決めていたことを思い出した。特に高久のことは、週末から週明けにかけて、配達などという仕事があることすら忘れるように、意識していた。その負荷のために却って高久のことが朋子の中に深く沈殿していくのは自覚できなかった。ただつい口走った「奥さん」という言い方、それまでそんな言葉も言い方も高久にしたことがなかったのだが、それがあまりにも、自分から見ても不躾で不必要な代物であったことがすぐにわかった。
高久は黙ってしまった。出過ぎた真似を謝ろうかどうしようか、決められなかった。風が吹いて高久のシャツと朋子のエプロンが膨らんだ。パラフィン紙の中で由香が選んだカンパニュラが揺れた。
「すみません、余計なこと、きいて」
高久は目を合わせなかった。朋子の背後を見遣ったり、自分の手元を見たり、視線の先は落ち着かなかった。
「花束は、今日で最後です。いままで、ありがとう。それで、今日はちょっと、違う場所に届けてもらえませんか。そんなに遠くではないです。日ノ出町にある金物屋です。今、住所を言ってもいいですか?」
朋子は慌てて携帯をポケットから取り出すと地図アプリを起動した。高久の言う住所を入力すると赤いポインターが表示された。
「横浜は詳しい?」
「はい、よく配達に行くんで」
「たぶん、すぐわかると思う」
そういうと、高久は財布を出し、一万円札を差し出した。
「あ、どうしよう。いつもきっちり用意してもらってるんで、釣り銭、ないんですけど」
「いえ、今日は特別なお願いだから、あなたのお小遣いにでもしてください。いままでのお礼もこめて」
「いえ、それは」
ひときわ強い風が吹いた。鎖骨まである朋子の髪が宙に浮いた。力ない高久の指の間からお札が飛んでしまいそうだった。朋子も黙った。だんだん黙っているのが後ろめたくなってくる。よくない感情が体の内側から滲み始めた感じがした。毎週とはいえ二三分だ。それなのに高久の日常の中に自分が生きているのを見出そうとしたくなる。何があったのか訊ねてもいい距離に立っているのと錯覚する。じんわりと苦い罪悪感の正体が配達先で油を売っている後ろめたさではないことは明らかだった。
「あの私、そこに花を届けたら、店に戻る前にここに来てもいいですか」
いかにも接客の高い声で問いかけた。
「え」
やっと高久が朋子の顔を見た。
「ちゃんと渡せましたって、言いに来ます。お金はそのとき、もらいます」
開いた地図アプリを見ると、赤いポインターは初音町の交差点近くを指していた。高久のマンションはJRの高架沿いである。掃部山から野毛の山を越えて行く道順はわかる。しかし休日の散歩ではあるまいし、地下鉄で阪東橋まで出てしまうことにした。
もう花がいらないのだから奥さんは亡くなったんだ。廊下まで出てきた高久に本当は何を言えばよかったのかと、地下鉄の車窓に映る自分の顔を見ながら思った。高久に自分のことをもっと強く、あるいは別のやり方で意識してほしかった。「あぁあたし、だめだなぁ」と戒めるように小さく声に出した。週に一回配達する家の人だ。そんな人にまで自分のことを押し付けようとして、自分で自分が気持ち悪い。店でポニーテールの髪を揺らす由香みたいに何も考えずに人と人の間を渡り歩けば人生はそれでいいのだ。そのうち行くべき所におさまるはずだ。なんで自分のことしか考えられないのだろうか。そんな逡巡の終わりに朋子はまた、たぶん奥さん、亡くなったんだと、さっき見たばかりの高久の顔を思い出した。
JR線と並行に走る幹線道路から掃部山のほうへ入っていく斜めの道は緩いカーブを描いていた。その曲線の緩さはまるで朋子が期せずして迷い込んだ午前中の気怠い、なかなか時間の進まない鈍重な感覚、不甲斐ない自分を弄ぶ不自由そのもののように見えた。車道を挟んで両側に並ぶ商店のほとんどがまだ開店していない。街路灯に吊るされた街の名の銅板が風に押されて揺れた。道路も、縁石で高くなった歩道も、どんな資材が使われているのか黄土色に見えた。店の間口はどこも二間ほどで、和洋を問わず酒を出す店が多かった。
準備中の店の窓をふっと見遣った。自分の姿が映っている。ポスターでも貼ってあるのかと思った。初夏の日差しを正面から受けて顔をしかめ、額に横ジワが寄っている。花束を抱えた腕から肩、背中にかけて前傾し、その分いくらか顎を突き出している。顔に物寂しさが浮き出てみすぼらしい。恐る恐る背筋を伸ばした。
少し立ち止まり深呼吸をした。たまたま光の角度か何かでそんな風に見えただけだ。朝からのことを順を追って思い出し、進むべき場所のことをもう一度頭に思い浮かべよう。どうということはない。いつもの気分の落ち込みだ。暑さのせいかもしれない。コーヒーを飲んだり食事をしたりすればすぐになおる。店に帰ってから由香に平然と何か言う自分を想像した。もう一度深呼吸をする。
それでも、掃部山公園の脇の急坂で立ち止まってしまうと、足が進まなくなった。あのガラスに映った人間は誰だ。力が湧かず、片方の掌を膝頭に置き体重を乗せた。しばらくその姿勢のままでいたのだが、我慢できなくなって座り込んだ。
◇ ◇ ◇
横浜市営地下鉄高島町駅から三つ目、阪東橋駅で下車すると山の向こう、藤棚から浦舟まで続く道が目の前に、背後には高速道路の入口が迫る阪東橋交差点に出てくる。通りの向こうには、柔らかな緑色の葉を繁らせたクスノキが五月の風に大きく揺れている。月曜日の午前中、首都高に入っていく車両も少なく、街はいつになく閑散としていた。まるで人の気配が感じられない。横切るバスの中や向こう側の歩道には確かに人影があるのだが、写真のように貼り付いて見えるだけだった。強い陽射しに汗をかき、額や首筋をタオルで拭う仕種も輪郭がぼやけ、誰かの白昼夢を覗き見できるならこんな見え方だろうと、そんなことを思わせた。
大岡川にかかる太田橋を渡り、京急黄金町駅を越えると初音町の交差点が見えてくる。それを右に折れ、何軒か数えると斉藤忠明の金物屋があった。大岡川の川沿いや高架下はこの十数年で様変わりし、新しい建物も増えていたが、初音町の交差点から日ノ出町駅に続くこの通りにはモルタル壁の古い商店がまだいくつも残っていた。玩具や包装紙材の問屋らしいのや、旅館があった。車道にまでホルモン焼きの煙が立ち込め、その向こうに質屋の看板が見えた。
忠明の金物屋はほとんど商店としての体をなしていなかった。客がくれば物を売る気概はあったが、前年から仕入れをやめていた。トタンの看板は前半分がはずされ、残った半分に「商店」の二文字と、市内局番が二桁の電話番号が丸ゴシックで残っていた。看板を固定するボルトは錆び、茶色い雨だれの痕が幾筋もついていた。間口の半分ガラス戸が締まり、店の中は暗い。鈴なりの鍋の蓋やおろし金が柱にかかっている。二階の窓には簾が垂れ、風に揺れている。多くの商品がビニール袋に入れてあるのだが、それがいちいち全部、埃で薄茶けていた。杉らしいガラス戸の桟は、摩耗して痩せた木目が焦げたように黒かった。
忠明はいつも一人、店の奥に座り込んでいた。陳列棚と壁が作るわずかな隙間に、もらったり拾ったりした家電製品を持ち込んでは電気の通る道筋を辿り、修理をしてみるのが日課だった。そんな事以外、やることはみつからなかった。修理がうまくいったことは一度もなかった。
もう七十歳に手が届く。よくしてくれた人や親しかった人の大半が死んでいた。その日もいつもと同じ暗い店の隅にしゃがんで、拾ってきたエレキギターのボディの蓋を開けていた。
だが、いくら時間が経ってもいっこうに気持ちが集中しなかった。しばらくすると手を止めた。真一文字に結んでいた唇をとがらせ鼻梁に皺を寄せた。そして尻を地面におろし、すり鉢も鍋も一緒くたに詰め込んでいる棚によりかかった。裸足につっかけたサンダルの先から白濁して割れた足指の爪が見えた。
机の上で携帯電話が一度振動した。五時間ごとの薬の服用を知らせるタイマーだった。地べたから机の上を見遣った。文箱にレシートや新聞料金の領収書、電話会社の請求書なんかが無造作に投げ入れてあった。本立てに並んでいるファイルの背には端正な筆致で「仕入れ」の三文字とその年度が記されている。柱のカレンダーは前の年の十月のままだ。
気持ちが散漫になる理由は花だった。つい今しがた、女の花屋の、大学生くらいのアルバイトが来て、えらく悄気返った顔をして配達だと言い、花束を一つ置いて行った。カーネーションが入っているのはわかったが、それ以外の花の名前はわからなかった。配達の依頼主は高久という男だと言った。
「高久さんのこと、知っているんですか」
と寂しそうな目で問うのだ。その目の黒さが忠明の喉か胸か、どこかにひっかかって仕方なかった。
忠明が高久に初めて会ったのは一年前のことだ。
川沿いのラーメン屋だった。その界隈では珍しくない古い店で、何がいいかと言えば、来客が滅多になく、地面と引き戸のレールと店の床が真っ平らであるということだった。忠明は当時、いつも車椅子を押していた。その日も脳溢血の後遺症で歩けなくなった妻明代と一緒だった。狭い店の真ん中に車椅子を置いたままにしても、他に誰が来るわけでもないその店なら気兼ねしなかった。自分はカウンター席に座り、店主が読み終えた新聞を黙って読みながらラーメンを待っていた。
そこへ高久がやってきた。若い兄ちゃんが入ってきたと思ったらすぐに外に出てしまったので、顔を見上げた自分の目つきが悪かったのかと思った。しかしすぐにまた姿を見せた。車椅子を押してきた。車椅子には若い女が座っていた。女は箱から出した人形みたいに色白で、レースのブラウスに薄紅色のカーディガンを着て、更に驚いたのはストッキングを履いていることだった。四つあるテーブル席の通路の真ん中に置いたままにした明代の表情が曇った。顔は俯けたまま視線を左右に忙しなく泳がせている。新聞を置いてカウンターの椅子から降りた。
明代はもともとそんなに肥満していなかった。しかし病気とそれに伴う運動不足で、体重がどんどん増えていった。倒れてから一年が過ぎる頃には忠明よりも目方が多くなっていた。背中に肉がつき、手首足首が太くなり、腹が出た。美容院の人目を嫌う忠明が明代の髪を切っていたので、いつもさんばらだった。着せる服も腕と頭が通しやすいだけの、てきとうなものだった。それに比べると高久の連れの小綺麗さには目を見張った。言語障害も残る明代が背後を気にしていた。
忠明は再び目があった高久に小さな会釈をして明代の車椅子のストッパーを外した。買いっぱなし飾りっぱなしで埃を被った観葉植物が客のテーブルにまで置いてある、磨りガラスから曇天の外の光が霧雨みたいに入るだけの店内で、黙って明代の車椅子を押した。カウンター席の背後まで押し入れた。再び席につくと新聞に視線を落としたが、すぐにラーメンが出てきた。店主が汚い厨房服のまま中から出てきて、高久の注文をとった。
醤油味の塩辛いラーメンだった。若布とシナチクと刻んだネギが浮いているだけで六〇〇円とはたいそうなものだといつも思っていたが、明代の世話であっという間に一日一年が暮れていく生活で、自らの食事の世話などしていられなかった。
明代には店の奥、トイレのほうに顔を向けさせたまま、肩と背中でどんぶりを抱えるような猫背で麺をすすった。店主が高久の注文を調理し始めた。冷蔵庫を何度も開け閉めした。三つの中華鍋を火にかけている。「何を注文しやがったんだ」と胸の内で悪態をついた。
最初にできたのはチャーハンだった。レンゲを飯の山に差し入れると行儀良く人間のほうを向いていた米粒やチャーシューが斜面を転がり、床に落ちた。火にかけたままの鍋を気にして厨房に戻ろうとする店主に「取り皿と、それから、もう一つレンゲをください」と高久が言った。店主が「ああ」と答えた。中華鍋からは豪快に油が跳ねていた。
店主が高久と鍋の前を行ったり来たりしている間に忠明はラーメンを食べ終えた。歯に挟まったネギを楊枝で取るのがいつもの順序だったが、その日に限って歯の間には何も挟まらなかった。塩辛いスープを飲む気もせず、小銭をポケットから出しカウンターの上に置いた。真後ろに押し入れた明代を気にして横滑りに椅子から降りると、高久とまた目が合った。痩せた体躯に浅く焼けた肌はいかにも健康そうに見えた。まめというよりも万事において細かい性格を容易に想像させたのは、色白の連れの女の服装もその一つだったが、高久自身、アイロンのきいた木綿のシャツを着、丁寧に髭を剃り、シャツのボタンが胸を真っ直ぐにおりているか、忠明が見ている間だけでも数回、気にして直していたからだった。優しく微笑む眸の黒さは、奥行きも立体感もない、ただ平らに黒いだけに見えた。その目が頬の筋肉に、さもわざとらしく持ち上げられている、そんな笑顔に忠明には見えた。人の多いところで介添えをする居心地悪さや気恥ずかしさは忠明にもよくわかった。その時見た高久の表情の違和感も、そんなものの一種なのだろうと思い、それ以上考えないようにした。
高久は腰を浮かせて向き合う女の口元にレンゲを運んだ。女が口を開けたのか、レンゲの角度を高くした。後ろ歩きのまま明代の車椅子を動かした。肩に手を置くと少し強ばっていた。
出口へ近づくと話し掛けられた。多少は予感していたが本当に話し掛けてくるとは思わなかった。
「大変ですね」
大変なことなど何もないと答えるのが面倒で、「ええ」と言った。
「この近くにお住まいですか」
「ええ、まあ」
明代の視界に色白の女の姿が入っているかいないか、気になった。
「何年ですか」
「え?」
「その——、お世話をされて」
「ああ、これ、ですか。ええと、倒れて運ばれたのが三年前ですね。脳溢血でね」
「そうですか。僕のほうは先天性の病気です。でもこうやって外に出るのは、いいですね」
いいもんか。こんなしみったれたラーメン屋、人目を避けたくて来てるだけだ。あんたもそうだろう。
馴れ馴れしい高久の口調が店の油の匂いと相まって余計に不快だった。人との距離には無関心な人間なのだろうと思った。
「まあ、ね。若いとやりたいことも多いでしょうに」
「いえ、僕は彼女と一緒にいられれば、それで幸せですから」
「えらいもんだ」
それだけ言って笑顔を作ると忠明はさらに車椅子を引き、出入口の引き戸を開けた。明代の頭越しに座ったまま振り返る高久と、向き合って座る女が遠ざかっていった。女の唇が油で光っていた。背後に車が来ていないことを確認してから明代を道路に出し、戻って店の戸を閉じようとした。すると忠明よりも半歩早く高久が立ち上がり、戸に手を伸ばした。
「それじゃあ、また」
どう答えていいかわからず、また小さく会釈しただけだった。
二度目に会ったときには、高久は車椅子を押していなかった。白いシャツを着て、本屋のビニール袋を手に提げていた。大岡川沿いの桜の木が、太陽に熱されていた。昼間からブラブラしてどう生計を立てているのか不思議だった。
明代はさらに太り、車椅子は重さを増していた。日ノ出町近くの高架の下に本屋がある。高久はそこから出てきた。忠明に気づき、会釈しながら近づいてきた。
「先日はどうも。ほんとうにこの近所にお住まいなんですね」
忠明も軽く頭をさげた。
「ええ、まぁ」
「どのへんなんですか」
答えにつまっているとそれを気にして続けて言った。
「いや、その、もし僕と同じ区だったら、行政のいろんなこと、きけたらいいなぁって思って」
「ああ。初音町。中区ですよ。うちはほら、もうこんな、老老介護だからいろんな申請もできるけど、お宅は若いから大変でしょう」
「僕も中区ですよ。へぇ。この辺は古い店がたくさんあっていいですね。やっぱり商売をしているんですか」
「ああ、まぁ、そこの金物屋ですよ」
高久は忠明の言ったことを聞いているのかいないのか、車椅子の明代に視線を向けた。
「こんにちは。先日はどうも。いいお天気ですね」
「かあちゃんは言語障害が残ってるから、あんま話さないよ」
明代が小さく「こんにちは」と返した声が聞こえた。着せたTシャツが汗で色を変えていた。桜の木漏れ日の影が明代の膝に斑模様を作っていた。
「僕の妻は昨日から検査入院しているんです。たまにこうやって一人になると、どうしようもなくなります」
忠明は高久の言うことにどう答えていいのかわからず、黙っていた。誰のものであろうと、病名を聞くのは嫌いだった。
「どうしようもないって、どういうこと?」
頭皮からも首筋からも汗を流している明代が訊いた。
「いえ、単純なことです。やることないし、寂しいしね。こういう時に仕事を、なんて思い立っても、手につかないものですね」
側溝の網蓋の表面を車椅子のタイヤが滑った。側溝を避けようと忠明が明代を押すと、高久も見おろした視線に引っ張られるように、二三歩、道路の日向に体を寄せた。そして強い日射しに目許を歪めた。
「お仕事は何をしているんですか」
並ぶと随分背が高い。忠明は後ろから高久の肩や首筋を見上げて訊いた。
「学術論文を書いています」
「へぇ。——そりゃ、知らない稼業だ」
腕も額も熱くなるのを誰もどうもせず、ただ顔をしかめたまま川沿いを歩いた。昼を少し過ぎたくらいで、その一帯は、馬鹿にされたような静けさだった。どこに向かっているのか誰もわからないまま、いつか誰かが自分に、もう何もかもやめてしまっていいんだよとそう言ってくれる日が訪れるような、薄らぼけた未来へ、自分以外の誰かに歩調を合わせて進んでいるような、そんな思いがした。そして忠明はその時、明代もまったく同じことを思っているに違いないと疑いなくそう思った。
「奥さんは、あなたが頼りでしょう」今度は明代が訊いた。
「あなたは、だんなさんが頼りですか」
高久にそう問われて明代は少し黙った。高久を嫌がるように、太った体を斜めに引いた。それでも視線は高久のことを見上げていた。
「そうですよ。この人がいないと便器にも座れないから」
「そうですか——。僕はたぶん、妻をあの狭いところに閉じ込めているんだと思います」
そこまで言うと高久は立ち止まり、一度うかがうように忠明の顔を見てから、川面に視線を逸らしてしまった。
忠明は何が言いたいのかわからない会話が苦手だった。川の水面は低く、水はほとんど緑色に濁っていた。カラスが一羽、忠明のすぐ背後に舞い降りて、二三度両足で周辺を歩いた後、飛び立って近くの郵便ポストの上に乗った。翼を動かす大きな音がしたのに、高久は川のほうをみたまま動かなかった。
やりきれなくなった忠明は「そう思い詰めないで」と、適当に言葉を掛け、車椅子の向きを変えた。明代はまだ高久に声を掛けたそうに身をねじったが、忠明はそのとき、一刻も早くそこを離れたいという気持ちでいっぱいだった。明代が後ろを気にするのを無視して急いで歩いた。沼のようなものに足をとられそうな感覚がした。
日ノ出町一丁目の交差点で車を一台やりすごした。太陽の光は真上から刺すように降り注ぎ、自分のも明代のも、地面に影はほとんど見えなかった。しばらくすると明代が、誰に向かってなのか「おとうさん」と二回言った。忠明と明代の間に子どもはいなかった。
「すみません」
地面にお腹を開けたエレキギターが横たわっていた。はっとして周囲を見回した。陳列棚のむこう、外光がただ白く見えるだけの店先に人影があった。肩まで髪をおろし、声に聞きおぼえがある。立ち上がってギターをまたぎ、倒れかけた竹箒の柄をまたぎ、二十号のすり鉢をまたぎ、忠明は埃もはたかないまま湿った体を穴蔵の外に出した。立っていたのは花屋だった。
「すみません、あたしさっき言わなかったことがあって」
「何、お金?」
「違います、高久さんは毎週、花の注文をしていたんです。病気の奥さんの枕元に置くんです。でも、もうそれが必要ないって言われて、最後の花束はここに届けてほしいって言われたんです。高久さんの奥さんは亡くなったんですか」
「知らないよ。そんなこと、知りようがないよ。でも、亡くなったんじゃないの、あんたがそう思うんなら」
花屋の女は忠明にそう言われると、力なく体の向きを変えた。そして、真っ白く光る通りへ出て行った。消えかけた横顔は下唇を強く噛んでいた。
忠明も高久に会ったのはたったの二回きりだ。
外から見ると店内は真っ暗だった。正面の柱のカレンダーだけが白く浮いていた。明代が亡くなった十月のまま、一度もめくっていない。そのカレンダーの最後の、今年の十二ヶ月が小さな文字で並んでいるページを開いた。
五月、五月——、第二月曜日。
「あ、母の日か、昨日」
そうつぶやくと、机の上に置いたままにした花束を持ち上げ、パラフィン紙をハサミで切り裂いた。どこをどう歩いてきたのか、薄い紫の、釣り鐘のような形をした花の多くが萎えかけていた。茎を束ねる輪ゴムを切り落とすと母家に上がり、台所に向かった。そして食器棚の奥から、明代によく麦茶を飲ませたコップを取り出した。花束をそれに挿し、仏壇に供えた。
花屋が来て、忠明は一週間ぶりに人と話した。額の中で、太る前の明代が忠明を見て笑っていた。
了
2019年1月31日 発行 初版
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1977年川崎市生まれ。 1997年法政大学文学部日本文学科入学。在学中同大学文芸研究会に所属。
2000年から「婦人文芸」同人、2006年〜2015年は同誌編集責任者。
2001年電子書籍2タイトルを文芸社より刊行。
2002年から文芸誌「孤帆」主宰。
2005年法政大学大学院人文科学研究科日本文学専攻修士課程卒業(修士論文は井原西鶴「万の文反古」の作品論)。
2007年森田雄蔵賞受賞(「小説と詩と評論」主宰)。
2009年「季刊文科」第45号(2009年7月)に「同人雑誌の周辺」を寄稿。
2014年全作家文学賞・佳作を「多生」で受賞。同年「季刊文科」第64号に「孤帆」から作品「他人」が転載。
2015年同誌第65号にエッセイを寄稿。
主宰する「孤帆」は多方面から評価され、2015年「文芸年鑑」の伊藤氏貴氏「概観/同人雑誌」でとりあげられる。