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ちょっと電話をしてくるからと店の外に出て行った母親を見ながら、ユウカは「みらのさんどえー」を頬張った。何度か噛むとハムの塩気が口の中に広がった。よく来る黄色い看板のその店は、たくさんの大人たちで混雑していた。ユウカと母親は、向こう側の人の顔がちょうど見えないくらいの衝立があるテーブルに横に並んで席を取った。母親はブレンドコーヒーを、ユウカはいつもと同じサンドイッチとカフェラテのMサイズを注文した。朝ごはんのときもある、お昼ごはんのときもある、おやつのときも、夕ごはんのときも。「みらのさんどえー」は仕事や用事でどこかに行ってしまった母親を待つときの友達みたいになっていた。重い噛み応えと、どこを見ていいのかもわからないような手持ち無沙汰がいつもセットだった。
ユウカの母親は仕事を二つ掛け持ちしていて休みがない。何ヶ月かしたらお休みの日ができるようになるから待っていてねと言ったのは半年くらい前だった。ちょうどその頃、父親が家に帰って来なくなった。お父さん帰って来ないのと訊ねると、
「うん。もう帰って来ない。離婚するから」
と母親は答えた。それだけだった。ユウカはその日からずっと怒っていて、ふて腐れていた。つまらなそうな顔をずっと続けている。何年も前から父親と母親は口をきかなかった。自分の家が友達の家と違っていることはわかっていた。父親はユウカと話すことも苦手だった。いつもパソコンかスマホの画面を見ていた。ユウカはあぐらをかいて背を丸めている父親のとなりに座り、予定のない日曜日を過ごすのが好きだった。たまに肩を抱いてくれた。スマホやパソコンの画面の中に父親の本当の用事がないことはわかっていた。
川崎駅からすぐの地下街の、中央広場から放射線状に広がる通路の二軒目のコーヒーショップは、平日の午後二時、お客さんのほとんどが歳をとった人たちだった。サラリーマン風の人たちは忙しなくサンドイッチを食べ書類を見たりしているのに、歳をとった人たちはただ座って時が過ぎるのを待っていた。寝ている人も多かった。
その日母親が無理に休みを取ったのには理由があった。銀行や郵便局でなんとか変更の手続きがあり、携帯電話を父親と分けるからだと言っていた。二切れめのサンドイッチを頬張ったとき、考えないようにしていたことを思い出してしまった。母親が静岡のおじいちゃんとおばあちゃんの所に引っ越すと言いだしそうなのだった。そうしたら学校の友達と離れ離れになってしまう。仲良くしている友達の顔を思い浮かべると泣きそうになった。サンドイッチを齧った。柔らかいパンとレタスの間からハムの味がしてくる。何度も噛んで飲みこんだ。
ふと顔を上げると、地下街の通路に花屋が来ていた。車輪のついた木箱の上のバケツに花が入っており、側面のラックにはリボンのついた花束がたくさんさしてあった。屋根は赤と白の縞模様で、まあるい帽子をかぶりエプロンをした女の人が一人立っていた。ユウカはその場所でお花屋さんを見るのは初めてだった。黄色やオレンジ色の、たくさんの花びらがボールみたいにぎゅっと詰まったのや、細長い花びらが幾重にも外に広がっているのは見たことのない花だった。何というのだろう。バラやチューリップなどユウカの知っている花もあった。淡いピンク、明るい赤色、濃い黄色の彩りが目の奥のほうを刺激した。
「あなた、お花が好きなの?」
母親の席とは逆側から柔らかい声がした。キルトの帽子をかぶった老人の女の人がユウカに話しかけてきた。
「え? はあ」
帽子から伸びる髪は白髪で、パーマがかけてあった。二重のまぶたをきれいな薄い青い色で塗って、茶色がかった赤い口紅をしていた。手に持ったままのコーヒーカップにその色がついていた。
「お母さん、お電話長いわね」
「はい」
「でも、お一人で、お利口さんだわね。いつも、お母さんを困らせないで、偉いわね」
「いつも?」
ユウカが不審な顔つきをすると、その老人の女の人は目を細めて、
「このお店はねえ、近所の老人の溜まり場なのよ。来る人の顔なんてみーんな憶えてしまうのね。あなたのことは、みんなきっと気にかけているわよ。寂しそうな顔しているんだもの。どうしてそんな悲しそうな顔をしているの」
「そんなことないです」
ユウカはそう答えてカフェラテを飲み干した。母親の方を見ると店に背を向けてまだ電話していた。
「お花屋さんを見に行かない?」
花屋は電話する母親と十メイートルと離れていなかった。電話を終えて振り返れば視界に入る。まあいいかと思い、ユウカはその老人の顔を覗き込んで、ゆっくり頷いた。
花屋の店員は連れ立って来た二人に「いらっしゃいませ」と声をかけた。顔の小さい小柄な女性だった。背の順の整列ではいつも後ろのユウカと同じくらいの身長だった。
「何か買ってあげましょうね。お花って見るだけで嬉しい気分になるわよね。これはなあに、ラナンキュラス? これはガーベラね。ダリアもきれいねえ。ブーケだったら持って帰りやすいかしらねえ」
後ろ姿の母親は店の中を気にする様子もなく、電話を持たない方の手を腰に置いて話していた。おばあさんが言った通り、何枚もの花びらがボールみたいにキュッと詰まった花のバケツには「ラナンキュラス」という名札がかけてあった。オレンジジュースがそのまま花になったような色をしていた。おばあさんを追いかけてワゴンの反対側に回ると赤ちゃんの手のひらみたいなサイズのサボテンが並んでいた。
「こんなのも可愛いわねえ。あら、こっちはお花も咲いているわ。そうだ、ねえ、ダリアのコクチョウっていう種類ある?」
いつのまにかついて来ていた店員が答えた。
「はい、コクチョウなら店舗の方にあります。店舗ならコクチョウも、あとムーンワルツも入ってます。あと、珍しいのではオズの魔法使いもありました。それもダリアの品種です」
「あらそう。お店は近くなの」
「ええ、その角を曲がったところです」
「ねえ、聞いた? オズの魔法使いだって。どんなのかしら、見てみたいわね。行ってみない?」
と言い終わる前におばあさんは歩き出していた。引きずられるようにユウカも歩き出し、店員の言っていた地下街の角を曲がった。しかしそこには花屋はなかった。携帯電話のお店や靴屋、旅行のパンフレットが並んでいるお店があるだけで、反対側はデパートの入り口になっていた。
「もう一つ曲がるのかしら」
そうひとりごちながらおばあさんはさらに進んで行った。追いかけて行くと今度は飲食店の通りに出た。天ぷら屋さんやケンタッキー、お寿司屋さんの看板が並び、入店を待つ列ができて賑わっていた。
「あら、どこかしら。どうしても見てみたいわ、オズの魔法使い。ダリアの品種って本当にたくさんあって、どれも綺麗なのよ。ミッチャンていうピンクのも淡くて綺麗なのよ。あなたに買ってあげたいわ。たしか地上の商店街のこの辺りにお花屋さんがあったわよね。行ってみましょう」
ユウカは言われるままについて行った。もう母親は電話を終えているような気がしたが、ドロシーのお話を思い出したら自分も黄色いレンガの道を歩いてみたくなった。
エスカレーターで出て来た地上の道路は鼠色のアスファルトで、カカシやブリキ男に出会えそうな森はもちろんなく、駅前のアーケードの向こうにビルが連なり、道路には自動車とバスが行き交っていた。風が強く、おばあさんは慌てて帽子をおさえた。
おばあさんはお店探しに夢中になり、ユウカのほうを振り向かず、帽子を片手でおさえたまま進んで行った。春一番の強風が駅前の通りを吹き抜けた。歩く人の髪の毛が逆立ち上着がめくれた。女の人はスカートをおさえた。歩道に出ているノボリや飲食店の暖簾はバタバタと音を立て、キャスター付きの電気の看板が動いて倒れた。風が埃を巻き上げ、顔にあたると目を開けていられなかった。薄く目を開けると駅前の、京急の赤い電車の高架線の向こうにJR線の駅ビルがそびえ、太陽の光が窓に反射して光っていた。春の強い風がその大きな空間をめがけて空の高いところから、ジェットコースターの急降下みたいにドーンと落ちてくる。その度にビルの無数の看板がギシギシと音を立てて揺れ、新聞や雑誌や、誰かの帽子やゴミが道路の上で弄ばれ踊り狂った。
ひときわ強い風が吹いた。前を行くおばあさんが足を取られて転んでしまった。おばあさんは帽子をおさえたままどうにか立ち上がろうとするが、腰をあげると風を受けて後ろに倒れた。こんなに風が強い。お母さんが心配するから戻った方がいい。埃風に頬をなぶられ目が開けられない。風が街を揺さぶる轟音が響いた。やっと瞼を広げると、真っ青な空に、赤い電車の車両が風で舞い上がっているのが見えた。何両か連なってねじれ、空の向こうに向かってどんどんその姿が小さくなっていく。
「ユウカ。ユウカ、ごめんね。遅くなって。あらやだ、カフェラテこぼしてるじゃない。髪の毛についちゃってるよ」
「あ、お母さん。あれ、あの女の人は?」
「やだ、よだれまでたらして。拭きなさい」
「風はもうやんだ?」
「知らないわよ、今日はずっと建物の中にいるから。さあ、行きましょう、待たせてごめんね。用事は全部済んだから、なんか食べて帰ろっか。あ、そうだ、仙台屋のチョコレートパフェ食べようか」
ユウカは眠ってしまっていたことを自覚して、顔を拭いた。帽子の老人の女の人はどこにもいなかった。電車が風で飛ばされる光景の残像を思い出し、夢を見ていたのだとわかった。ワゴンの花屋もなかった。
食器のトレーを返して来た母親がユウカに上着を着せた。バッグからハンカチを出してユウカの頬を拭い、うん、と小さく頷いた。そして、ほら行くわよ、と言ってユウカの手を取った。小学校の高学年になってから、母親と手をつながなくなっていた。恥ずかしくてユウカが嫌がっていた。そのときは素直にされるままにして、地下街を並んで歩いた。そして、
「ねえ、帰りにどこかで、オレンジ色のラナンキュラス買って」
と言うと母親は、
「いいわよ。でもユウカ、よくそんな花の名前知ってるわね」
と答えてユウカの顔を見た。ユウカは、意外そうに見つめる母親の目をずっと見ていたと思った。
2019年1月31日 発行 初版
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