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【無料】一般教養にして欲しい東アジア総合現代史 下巻

坪内琢正

瑞洛書店



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簡易目次

第四章 混乱の中の安定Ⅱ

経済的安定期と戦後政治の総決算/一〇.二六と全斗煥政権/蒋経国政権/改革開放/金日成体制の完成と金正日の台頭

第五章 冷戦の終結

五十五年体制の脆弱化/現在まで続く第六共和国の成立/李登輝政権下での民主化の進展/天安門事件と江沢民政権/金日成政権末期

第六章 混沌の兆しの現れ

小泉政権による自民党の復権/第六共和国の安定/総統民選開始/江・朱政権/瀬戸際外交

第七章 私たちの眼前にある、東アジア史上最大の混乱

第六共和国の今後/民進党から再び国民党へ/胡錦濤政権/瀬戸際外交の硬化/東アジア、さらなる混迷へ

第四章 混乱の中の安定Ⅱ

経済的安定期と戦後政治の総決算
 ロッキード事件では一九七六年二月に田中は起訴されます。この間、内閣も、三木内閣以降、一九七六年十二月より福田赳夫内閣、一九七八年十二月より大平正芳内閣、一九八〇年七月より鈴木善幸内閣と変わります。また外交面では一九七八年八月に日中平和友好条約が締結されます。
 一九八二年十一月に中曽根康弘内閣が発足、『戦後政治の総決算』を提唱し、一九八七年十一月まで五年の長期政権となります。一九八七年四月、電電公社、専売公社、日本国有鉄道が民営化されます。保守的願望を抑え、経済政策を重視したという印象が強いですが、一方、中曽根内閣期の一九八六年七月には内閣国防会議は内閣安全保障会議に、内閣調査室は内閣情報調査室に改組されるなど、安全保障に関する政策も進められています。

一〇.二六と全斗煥政権
 一九七七年一月、米国カーター政権が発足、同政権は三月、在韓米軍撤退を発表します(後一九七九年二月にこれは撤回されます)。これの波を受けてか朴政権には課題が噴出します。
 一九七八年十二月の国会議員総選挙において、野党新民党は得票率が民主共和党を上回ります。翌一九七九年五月、同党は当時党内で左派強硬派であった金泳三を総裁に選出します。
 一〇月四日、南民戦事件が発生します。地下組織南朝鮮民族解放戦線(南民戦)準備委員会が資金難から窃盗、中央情報部が摘発。八十四名逮捕、二名死刑(獄死・執行)、他は有期刑となります。再調査もされましたが冤罪とならず当時の判決が現在も有効となっています。
 一方一〇月十六日から二〇日にかけ、釜馬民主抗争が勃発します。前月のニューヨークタイムズにて金泳三は、『アメリカは公開的・直接的影響力を行使して、朴政権を牽制すべきである』と発言、これが発端となり、国会は議員除名権を行使、同月四日に彼は除名決議を出されていましたが、これに抗議する形で、彼の地盤地域である釜山、馬山(現昌原)で大規模デモとなります。
 続く一〇月二十六日、一〇.二六事件が発生します。宴席にて金戴圭中央情報部長が釜馬民主抗争などの処理を巡って車智澈大統領警護室長と口論となり彼と同席していた朴正煕を暗殺します。鄭昇和陸軍総長は国軍保安司令部に金戴圭逮捕を指示、保安司令官であった全斗煥少将が金戴圭を逮捕しますが、彼が中央情報部を掌握し鄭昇和以上の実権を握ることとなります。鄭昇和が戒厳司令官、全斗煥が合同捜査本部長となります。
 十二月十二日、統一主体国民会議は萑奎夏を大統領に選出しますが、同日粛軍クーデターが発生、全が萑の裁可を得ずに鄭を逮捕します。
 一方、一〇.二六以降、第二共和国時同様全国で無許可デモが頻発し国内が混乱します。これを受け翌一九八〇年五月に戒厳令が全土に拡大され、また金大中は再び逮捕されます。なお一九八二年十二月に米国亡命を条件に刑の執行が停止されますが、金は一九八五年に帰国を強行しすぐに政治活動を再開し、当局はこれを黙認します。
 金の逮捕を受け彼の支持基盤地域である光州で光州事件が勃発します。デモの規模が数十万水準となり死者百五十四名となります。これを受け国家保衛非常対策委員会が発足、 議長に萑、常任委員長に全が就任し、その後八月に萑は大統領を辞任、統一主体国民会議は全を大統領に選出します。
 八月、全政権は新憲法案を発表、国民投票を得て成立、以後第五共和国が発足します。翌一九八一年二月、全は間接選挙にて、任期七年、再任禁止の大統領に選出されます。この選挙では統一主体国民会議に代わり大統領を選出する、五〇〇〇名以上からなる大統領選挙人団が設置されますが、前者とは異なり大統領選挙人には政党加入資格が認められることとなりました。このため事実上野党を排除するということはできなくなりました。五月には与党民主正義党を結成しその総裁に就任します。また中央情報部は国家安全企画部に改組されます。
 全政権下では内政よりも外交での出来事が目立つようになります。一九八三年九月に大韓航空機撃墜事件が発生、操縦ミスによりソ連の領空を侵犯した大韓航空機をソ連の戦闘機が撃墜します。
 翌月にはラングーン事件が発生します。全を含めミャンマーを外遊していた大統領、国務委員団への爆弾テロを北朝鮮が企画し実行、韓国の副首相、外交部長官など国務委員四名を含む十七名、ミャンマー側でも閣僚、高官ら四名が死亡します。全は乗っていた自動車の到着が若干遅れたために難を逃れます。これを受けミャンマー側も北朝鮮と断交します。

蒋経国政権
 一九七八年、蒋経国は総統に選出されます。このときの副総統は本省人の謝東閔です。一方李登輝は台北市長となります。
 米国は一九七七年よりカーター政権が発足しており、後に撤回となりますが、在韓米軍撤退を発表していました。これは韓国国内でも混乱を呼んでいましたが、同政権は台湾関係でも一九七九年元旦付けでの中国政府承認を発表します。これを受け中国側は約二十年間続けた金門島砲撃を中止します。
 そして一九七九年、発表通り米中国交が樹立、米台断交に至ります。中国全人代はこれに合わせ「台湾同胞に告げる書」を発表します。一方米カーター政権に対して米議会側は四月、米中国交承認は中台関係の安定が前提であるとし、米華相互防衛援助条約に代わるものとして台湾関係法を制定します。
 同年夏、雑誌「美麗島」が創刊されますが、編集者らが世界人権デーの十二月十日に高雄で大規模デモを実施し警官隊と衝突、事件の首謀者として 美麗島編集者らが逮捕されます。
 翌一九八一年より李登輝は台北市長から台湾省政府主席に異動となります。続く一九八四年総統選により、副総統に李登輝が就任します。
 この年には江南事件が発生します。「蒋経国伝」の著者劉宜良がロサンゼルスで暴力団「竹聯幇」の構成員に暗殺されます。国防部情報局長汪希苓の関与が発覚した他、蒋経国次男の蒋孝武の関与も疑われています。
 一九八六年、蒋経国は中央委員会全体会議にて政治改革を発表します。これを受け、同年民主進歩党が結成されますが蒋経国はこれを黙認します。翌一九八七年には、治安維持法に相当する国家安全法の制定と引き換えに戒厳令が解除されます。
 台湾移動後の中華民国初期にあった諜報担当のイメージは今では殆ど無いようにも見られます。そして、これは李登輝も認めていることですが、蒋経国は自身の健康にさほどの不安を抱いておらず、また当時も多くの台湾人は民主改革は蒋経国によって推進されるのではと考えていたようにも見えます。

改革開放
 一九七六年、七月に朱徳全人代常務委員長、九月には毛沢東党主席が死去します。これを受け華国鋒が党主席に就任、四人組が逮捕、失脚します。
 これを受け鄧小平が反撃を開始します。まず一九七七年八月十一期一中全会にて彼は党副主席となります。一九七八年六月全軍工作会議にて「実事求是」を提唱します。文化大革命、反右派闘争、土地改革などの名誉回復を開始、該当者は約三百万人に上ります。また鄧小平は一九七八年十月には訪日、翌一九七九年一月には訪米し米中国交正常化がなされます。
 一九七九年、人口抑制政策として一人っ子政策が策定されます。後に無国籍者が社会問題化します。また二月、ベトナムに侵攻しますが一ヶ月で撤退します。六月には地方公共団体が革命委員会から人民政府に復帰します。
 翌一九八〇年二月、党中央書記処が復活し代表の総書記(党中央委員会の代表は主席)に胡耀邦が就任します。また八月には広東省の深圳、福建省の廈門などが経済特区とされた他、趙紫陽が首相に選出されます。翌九月、党中央政治局が「農業生産責任制の改善強化に関する通知」を発表し生産責任制を導入します。鄧小平の「先富論」に基づくもので、「万元戸」が発生します。
 一九八一年六月十一期六中全会において鄧小平体制が盤石化されます。華国鋒は党主席、党中軍委主席を辞任します。但し極端な失脚とはならず中央委員ではあり続けます。胡耀邦が党主席、鄧小平が中軍委主席となります。軍の権威が党、国家をも凌駕する状態が鄧小平によって具現化されます。
 一九八二年、副首相の増加に対処するため、国務委員が各部部長以上の位置に置かれます。また九月の十二全大会において「中国の特色ある社会主義」の文言が登場、二〇〇〇年までに一人当たりGDPを一〇〇〇ドル以上とする目標が出されます。またこのときより党中央委員会主席が党中央委員会総書記に改称、党中央書記処総書記が常務書記に改称されます。ちなみに例によって経済成長率は大躍進同様水増しが指摘されており、地方発表分を合算すると中央発表を上回ってしまうという状況が続きます。十一月、名誉職的な位置づけとして国家主席が復活、また人民公社が廃止され郷鎮(町村)政府が復活します。
 一九八三年、鄧小平は先富論を提唱します。また国防委員会が廃止、党中軍委とメンバーが完全に一致する国家中軍委が設置されるほか、中国の国情もあり他国の情報機関に比べ権限は弱いものの国務院に国家安全部が設置されます。
 一九八四年十月十二期三中全会において「経済体制改革についての決定」採択。「改革・開放(対外開放と経済体制改革)」路線が確定します。また翌一九八五年五月、中軍委拡大会議において人民解放軍約百万名の兵員削減が決定されます。
 続く一九八七年、民主改革を思案していた胡耀邦が党総書記を辞任し、趙紫陽が後任の総書記となり、首相には保守派の李鵬が就任します。

金日成体制の完成と金正日の台頭
 一九七六年八月、ポプラ事件が発生します。板門店にて伸びすぎた北朝鮮領内のポプラの剪定を国連側が要求し北朝鮮が拒否し、強制剪定を実施し交戦、米兵員2名が戦死。3日後国連軍側が大挙しポプラを強制伐採、金日成が謝罪します。
 また一九七七~八三年頃にかけ、現在拉致問題となっている日本政府認定拉致事件12件が相次いで発生しています。
 とはいえ、金東奎国家副主席粛清後、韓国側の政情不安もあり、暴虐さは変わらないものの金日成政権は比較的安定します。
 一九八〇年十月、党則では五年に一度となっている党大会の第六次大会が十年ぶりに開催されます。既に経済的には格差が大きくなっていたものの、韓国での光州事件発生などを受け、高麗民主連邦共和国提唱など、韓国側への揺さぶりが目立ちます。
 また、連続して開催された中央委員会全員会議において、中文ウィキペディアでは政治委員会は政治局に改称となり、常務委員五名のうち、序列第三位に呉振宇人民武力部部長、序列第四位に金正日党中央委員会組織指導部部長が選出され、一九八四年よりはこの三名となります。その一方、黄長燁最高人民会議常設会議議長が引き続き常務委員から省かれ、一九八三年からは李鐘玉政務院総理も政治局常務委員委員から政治局委員に降格となり、党中枢と国家権力とのズレが進行します。
 韓国の項目でも述べましたが、一九八三年一〇月、ラングーン事件が発生、韓国の副首相、外交部長菅、ミャンマーの閣僚らが北朝鮮の爆弾テロにより死亡、ミャンマーは北朝鮮と断交します。全斗煥は乗っていた車の到着が遅れたために難を逃れたといわれています。
 一九八五年十二月、北朝鮮はNPTに加盟します。但し、NPT加盟国は18ヶ月以内にIAEAに加盟するとの同条約規定は履行していません。
 一方金正日は一九八六年「社会的政治的生命体」論を提唱します。首領である金日成を不滅の社会・政治的生命の頭脳と位置づけた理論ですが、合わせて自身の後継体制確立を意図したものともみられます。

第五章 冷戦の終結

五十五年体制の脆弱化
 中曽根内閣下において一九八七年に国鉄と電電公社、専売公社が民営化されます。後々、民営公営ではなく、JR東海に象徴される異質な法人を生んだために、地域特性の問題ではとの指摘がなされることとなります。
 一九八九年一月、昭和天皇が崩御します。
 一九八七年より竹下登内閣が発足し、一九八九年四月、社会保障財源の不安定性看過ができなくなり、中曽根内閣が否定していた消費税の創設に踏み切ります。合わせて同内閣は一九八九年六月より宇野宗祐内閣に移行します。続き一九八九年八月より海部俊樹内閣となります。
 一九九〇年八月湾岸戦争が勃発します。国連が地球市民の平和人権保持のために同憲章第七章を間接的に根拠としボランティアでの多国籍軍設置を容認募集しましたが日本はこれに非協力的となり、国際的に非人道的な国家として返す言葉もない非難を浴びせられることとなります。
 一九九〇年十一月、今上天皇による大典が実施されます。冷戦終結による政情不安に乗じて、天皇が上洛もせずに国民統合の象徴である天皇の玉座である高御座の一時解体移動などという、前代未聞にしてまた支離滅裂な式典として数千年にわたり汚名を残すとの非難を浴びながらの強制執行となりました。
 一九九一年十一月より宮澤喜一内閣が発足します。一九九二年六月に国連平和維持活動(PKO)法が成立し、混乱から安定へと向かう東南アジアカンボジアでの地雷解除などがなsれますが、多くの国民は日本人は地雷の解除などには非協力的であるべきとの立場でした。
 続き一九九三年八月、五十五年体制である自民党政権が下野し、非自民八連立による細川護熙内閣が発足します。またこの月に今ではねつ造とされている河野談話が発表されます。記者会見などでボールペンによる采配をふるう首相の姿などが実務などをそっちのけで評価され高支持率となりました。
 もちろん、予見できるものもほとんどいませんでしたが、八連立などは自然にすぐに混乱しますので、続く一九九四年四月には細川の後を受け羽田孜内閣が発足、それもすぐに続かず、一九九四年六月には日本社会党党首村山富市を首班とし自民党、新党さきがけを加えた内閣が発足します。
 一九九五年一月には阪神淡路大震災が発生します。一方その混乱も何も気にせず二か月後三月には首都圏にて死者十三名を出す地下鉄サリン事件が発生します。
 さて九月、沖縄米兵少女暴行事件が発生します。裁判所が逮捕令状を発布するも、当初、起訴されるまでは米側が拘禁との規定があり逮捕令状を米兵員に執行できず、翌月日米地位協定を運用改善し執行します。米政府側の「好意的な考慮」を明記し、形式的に米政府による政治判断としたうえでの容疑者逮捕となります。
 一九九六年一月より、引き続き自社会さ連立となる橋本龍太郎内閣が発足します。なおお途中より衆議院において自民党が過半数を回復したため連立政党は閣外協力となります。一九九七年一月、防衛庁に情報本部が設置されます。また四月より消費税が3%から5%に上がります。
 GDPとの反比例が著しく倫理観の低下が目立つ政治事象が事件が相次ぎ、それまでのドラマや時代劇も活力を失い続ける中、アニメ、漫画などのサブカルチャーがこの頃より倫理の主軸として芽生え始めます。当初は深夜など、隠れキリシタン的な扱いとの印象が強いものでした。また性描写のおおらかさを逆手にとって本心から倫理観のないものの攻撃も多数見受けられました。

現在まで続く第六共和国の成立
 一九八七年六月、全斗煥の後継と目されていた盧泰愚は、6.29民主化宣言を発表します。これを受け全斗煥大統領は改憲を発議、一〇月に改憲され、現在まで続く、直接選挙、一期五年、重人禁止の大統領規定が設けられます。一二月には大統領選挙が実施され、盧泰愚が大統領に当選します。
 全斗煥、盧泰愚の二人は軍人出身ということもあまりイメージはよくありませんが、現在の韓国の民主主義体制は盧泰愚によって完成されたものともいえます。
 ソウルオリンピック実施に際し、一九八七年十一月には大韓航空爆破事件が発生します。ソウルオリンピックに反対する北朝鮮による、ボイコットの口実作りと言われています。とはいえ一九八八年、ソウルオリンピックは無事に実施されます。
 さて、欧州サイドでの冷戦の名目上の終結(実質米ロ対立の構図は現在まで続いています)を受け、韓国にもいくつかの変化が訪れます。まず一九九〇年九月、日本は鳩山内閣時代よりありましたが、初めて韓ソ国交が樹立されます。また一九九二年八月、こちらも日本は田中内閣時代に実施されましたが、中韓国交樹立、及び韓台断交がなされます。国連との間においては一九九一年、北朝鮮との共同加盟との形で、国連加盟がなされます。
 憲法で大統領は一期五年となっていますので、後任の大統領選挙が早くもやってきます。
一九九二年五月、盧泰愚の与党民主自由党大会において、同党に合流した、朴正煕政権下での民主化の急先鋒たる金泳三総裁に指名され、これを受け、同年末、彼は時期大統領に選出され、一九九三年二月に就任します。軍人ではない文民初の大統領でもありました。
 金泳三政権下において実は比較的大きな政策は金融実名制度の導入でした。これにより、全斗煥、盧泰愚両元大統領の秘密資金が発覚し、両名は政治資金規正法違反での逮捕となりました。
 日本では一九九三年八月、宮沢内閣の河野洋平内閣官房長官が、旧日本軍従軍慰安婦について「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」と述べ、あたかも当時の法令に照らし合わせて不法な行為があったという趣旨の発言をして問題化されました。これを受け一九九四年八月一五日終戦記念日に日本では村山談話が発表されます。約二〇年の歳月を経て、二〇一四年六月、この談話は裏付け調査をなされずに河野の意向によって作成された談話であったことが判明しました。
 一九九六年九月一八日から十一月七日にかけ、江陵浸透事件が発生します。北朝鮮工作員潜水艦が座礁、工作員ら26名が韓国国内陸上に逃亡・潜伏します。これを受け韓国政府は珍島犬警報(北朝鮮スパイ侵攻警報)を発令します。韓国側は掃討に国軍・警察一五〇万人を動員し、逮捕1名、自決11名、行方不明1名、射殺13名となります。北朝鮮側は当初漂着と主張、武器などの押収後十二月に韓国側に謝罪します。
 朴政権下では北朝鮮による陸上上陸はしばしばありましたが、このときには、韓国では一般家庭にも固定電話が普及している状態であり、また北朝鮮スパイはそれを知らなかった、などが明らかになりました。この事件ののち北朝鮮側による陸上侵入は大幅に減少し、以降海戦、そしてその後はミサイルの試射などに威嚇の内容が変化していくこととなります。なお、日本でももし若狭などの原発地帯において同様の事態が発生すればどうなるか、などが議論され、創作などにも影響を与えました。 
 冷戦終結を受け、韓国でも大規模な外交的変化が発生しましたが、経済的には韓国は既に成熟段階となっていました。このため、日本同様、韓国経済はさほど大きな進展はありませんでした。一九九六年に韓国はOECDに加盟します。ところが一方、金泳三政権末期、一九九七年十一月には、大統領選挙直前には、韓国は国際通貨基金(IMF)の管理下に置かれる事態となります。

李登輝政権下での民主化の進展
 「哲人政治家」、「民主先生」、「ミスターデモクラシー」……李登輝政権下の、彼の主導による民主化の流れの表向きを見て、彼を崇拝のレベルにまであがめる人は台湾内外を問わず数をしれません。民主化の名のもとに、集団的自衛の範疇を超えた疑いのあるイラク戦争を始めた米国共和党支持者、日本植民地時代を肯定的にとらえることや安全保障の重要性を唱えることと合わせて彼を見る日本の保守派……。
 そして李登輝自身もまた、本来であればアジアの未承認国でしかない自国の元リーダーのはずが、G7などの先進国に頻繁に往来し、日本語がぺらぺらの自身は例外と言わんばかりに、米国も日本も叱りつける姿勢を頻繁に見せ、それをもって日本などどころか台湾での一定の支持を獲得し、自身の政治基盤を総統退任後もエンドレスに維持し続けています。
 実は、これは李登輝ですら認めていることですが、蔣経国はいわば急死に近く、李登輝のなした作業は本来は蔣経国がなすと当時思われていました。そして就任後、いやおうなしにそれをなさねば政権はもたない状態でした。そして今の、退任後の強硬な親日、親米路線も影響力保持に寄与するものとなっています。
 なぜここまで李には影響力の維持が要るのでしょうか。李登輝政権はそもそも独裁政権であった蔣経国政権を引き継いだ政権です。その移譲過程にあっては、李登輝のサインによる不法的な文書の存在など想像は容易です。陳水扁が総統就任早々、李登輝の身分保持を約束したことがそれを示唆しています。台湾国民に李登輝のそれへの目を瞑らせるもの、それが、頻繁に訪日訪米し、ペラペラの日本語をもって日本人を平然と叱りつける、無意識のうちにあるコンプレックスの解消なのかもしれません。
 一方、李登輝自身国民党員時代以前は、過去に共産党員、また台独派(台湾独立派)とも親交の深かった経緯から、台湾で二度も逮捕されています。今でこそ台湾独立、いわば中華民国の主権範囲の再選定作業は、台湾国家社会市民にとって有力な議題に上るものです(同時にそれは日本国家社会市民にも影響を与えるものであることは言うまでもありません)。
 ですが蒋介石時代においての台独派とは、岸首相ですら、その弾圧を黙認せざるを得なかった存在です。しかもこの基準があいまいであったため、ターゲットはいわば『KY』くらいでしかありません。これはまさに、KYという基準は国家社会市民には何の役にも立たないということを明示しているといえます。
 ちなみに李登輝は訪日中などは強硬なイメージで知られていますが、台湾総統であった当時の李登輝は饒舌家で知られていました。記者会見を開くと口が止まらずのマシンガントークです。また、蔣経国の前では緊張のあまりイスにわずかしか腰掛けられなかったともいわれています。
 同じ権謀術数に長けたもの同士です。蔣経国は、李登輝の、自己へのコンプレックスからくる過大評価に配慮しつつも、もし自分がいなければ、李登輝は辣腕を振るうのでは、と感じ、彼を、自己が死去したときの後継となる副総統に任命したかもしれません。こういった采配は現代日本の『コミュ障』などという言葉を作り出すような程度の犯罪スポーツマンやそれを崇拝する年金老人には期待できないものと言えそうです。
 さてその国民党員時代以前当時のとんでもない経験の影響もあってか、李登輝は蔣経国死後以降、台湾国内法を平然と超越した、権謀術数に長けた行為を頻繁にとってまで『蔣経国の遺志』であった台湾の民主化の基礎を作り、それをもって、他の蔣経国の有力後継者らとは比較にならない存在感を確立していきます。
 一九八八年一月、蔣経国の急死により、副総統李登輝が総統に自動昇格します。さっそくながら二年後には正式の総統選が国民大会であります。まず李は、一九八九年に党禁を正式に解除、蔣経国が黙認していた民進党を正式に承認し、翌一九九〇年、与野党党首会談を実施、この、国民大会の改選、すなわち、戒厳令こと動乱戦乱時期臨時条款の撤廃を公約し、この人気を受け他の国民党員は出馬を断念、同年三月正式に国民大会にて総統に選出されます。
 李登輝政権発足数年後前後に「李登輝情結」現象が発生します。日本統治経験・戦時下世代の本省人に李登輝支持派が不支持派を大幅に上回る、というものです。戦時下世代を中心とする「情結現象」は同時に、「利益誘導」や「政局流れ」等ではない、李登輝の「政策」を支持の根拠とすることがその特徴でもあります。李登輝は政局を読むのは下手どころかむしろ上手と言えますが、クーデター会議の設置など、読めていながらそれを完全に無視することも多いです。
 総統公選制以前の李登輝政権下において、その最大の特徴は、『国家元首によるクーデター』の頻発にあります。国民大会の改選は国民大会自身の決議によってなされる必要がありましたが李登輝はこれを無視、すなわち、国民の圧倒的支持を理由に、『自身の手に及ばない国家機関など相手にしない』という手法を取り、「国是会議」という謎?の不法機関を同年六月に設置します、なお司法、憲法裁判所に相当する司法院大法官会議もこれを支持します。実は手法としては満州事変などと同じ構図です。
 翌一九九一年五月、李は戒厳令終結を宣言します。なおこのときが台湾総統として初の記者会見となります。同一二月、「第二回」国民大会代表選が実施されます。以降国民大会は適宜開催されます。総統民選制が規定されたのは一九九四年八月です。
 続き李登輝は総統公選制に向けて動き出します。台湾を中国の一部とみた場合であっても「中華民族初の民主主義選挙」という宣伝ができる内容であり、これに中国が警戒、一九九五年二月の江沢民主席による「江八点」の発表、そしてそれへの反論である四月の「李六条」の発表がなされます。坂本龍馬の「船中八策」ではないですが、数値による政策論は中華系らしい合理さも垣間見せます。
 さらに六月、李登輝は渡米、コーネル大学にて講演します。慌てた中国側が七月以降に公海上においてミサイル演習を実施し、米空母が同域に派遣されることとなります。こうした動向は当時日本では「想像したくない」として思考停止に陥る論調が相次ぎました。
 ちなみに、のちの総統選では、のちにもはや台湾独立が台湾にあって主要議題となるなかにあっては中国国民党が親中派と化してしまいますので、親中派候補が有力と見るや、あえてミサイル演習などをせず、融和姿勢を見せ親中派に優位となるような動きも中国側は見せます。このような中で、一九九五年一二月から一九九六年三月にかけて、国民大会代表選挙、立法委員選挙、そして史上初の総統直接選挙を迎えることとなります。

天安門事件と江沢民政権
 鄧小平肝いりであった改革開放路線ですが、ソ連崩壊などの東側陣営の脆弱化の影響を受け、それはやがて天安門事件を引き起こすこととなります。
 一九八八年三月の全人代第七期第一回全体会議にて、楊尚昆が国家主席、保守派の李鵬が首相に選出され、また鄧小平は引き続き、最終権力者の地位である、NSC的な位置づけである共産党/国家中央軍事委員会主席となりました。あたかも「影の支配者」のように言われる鄧小平ですが、年齢や後継育成の観点からみて、ぎりぎりのライン以外は全て後継にゆだねる、という視点はやむを得ない措置であったのかもしれません。
 この翌年、一九八九年四月に胡耀邦が死去します。ソ連のペレストロイカの影響もうけ、これが天安門事件に発展します。
 北京市内が無政府状態の危険状態に陥ります。これを受け五月に北京にて戒厳令が布告されます。共産党中央政治局内でも意見が分かれ、この騒乱の容認論も比較的多数ありましたが、さすがに鄧小平はこれは否定しました。六月、党の顧問委員らと相談の上、鄧小平は解放軍派遣を決定します。中国共産党発表では死傷者319名となっていますが、やはり中国政府発表なので、ソ連共産党中央委員会政治局にすら約3000名と報告され、他数万名説もあります。
 六月、党一三期四中全会にて、上海市・政治局ヒラ委員であった江沢民が、総書記に選出されます。風見鶏との悪評の高い江沢民自身、泣いて固辞したものの、焦った鄧小平も、現状はあなたしかいない、と叱りつけたといわれています。その不甲斐なさから、鄧小平はここでも知才を発揮、共産党総書記任期は最大二期一〇年まで、江沢民の補佐は、「中国人と思えないような」清廉で知られる朱鎔基とし、彼の後任は胡錦涛、と、二〇年先のことまで指示し、「共産党独裁」を強固なものとします。その後一一月、鄧小平は党中軍委主席も辞任します。
 こののち、鄧小平はより顧問的な位置づけとしての活動を活発化させます。一九九〇年二月に彼は上海浦東を視察し同地域の開発が本格化されます。翌三月には国家中央軍事委員会主席も江沢民に移譲します。なおこのとき江沢民は国家主席も兼任を実施しており、中華人民共和国主席が中国共産党中央委員会総書記、国家中央軍事委員会主席を兼任しており、実質的に、共産圏にあって、トロイカ体制ではなく、国家元首がすべてを束ねるy体制となります。
 一方鄧小平は一九九二年初頭に中国南方を訪問し、南巡講話を発表するなど、かいかっく開放路線の顧問的地位を確立していきます。
 さて、一九九五年、台湾の李登輝総統が訪米しました。これを受け焦った江沢民政権はミサイル演習などを実施し、のちの台湾総統直接選挙まで継続されます。
 また同年、党政治局委員で、北京市党委員会書記であった陳希同が汚職により逮捕されます。以降、党首脳が新規発足時に党内敵対勢力の脇をつく手法が確立されます。それは今日の、習近平政権において極端なまでに発展します。
 一九九七年二月、鄧小平が死去しました。当時のショックは世界的にも知られ、日本ですら、「鄧同志死去」の紙面が並びました。また、こののち、同年六月には、中国は香港返還を迎えています。
 どちらも、江沢民政権の存在感を世界に知らしめる機会となりました。とはいえ、いうまでもなく、日本の群衆はこのどちらの事実も知らないといったことがまた実情でもありました。

金日成政権末期
 一九八八年、ソウルオリンピックという、北朝鮮にとって少々厄介な出来事が待っていました。このため、一九八七年一一月、大韓航空機爆破事件が発生します。大韓航空機がミャンマー上空で爆発、ソウルオリンピックに反対する北朝鮮による国家テロ(ボイコットの口実作り)とされています。一九八八年九月よりソウルオリンピックが中ソ参加のもとで開催されますが、北朝鮮はこれをボイコット、開催の事実自体を報道しませんでした。
 日本人が注目する拉致事件の中心もこの頃でした。発端は、一九八八年三月、日本国会にて、日本共産党議員への答弁の中で国家公安委員長が拉致問題の北朝鮮関与の疑いを指摘したことにありますが、当時は確証もなく、以後当面は目立って浮上しませんでした。
 なお、このころ、一九八九年七月に発生した、韓国学園浸透スパイ団事件の釈放嘆願署名が日本の土井たか子社会党委員長、後の民主党首相菅直人ら国会議員により韓国政府に提出されており、この釈放嘆願対象に拉致事件実行犯が含まれていたことから北朝鮮による拉致事件公認後問題化されます。
 このような中、一九九〇年九月、国交正常化模索に向け、元副首相金丸信を団長とする金丸訪朝団が訪朝します。
 また北朝鮮での、それまでよくあったかもしれない内部統制の一端が知られ始めるようになったのもこのころからです。
 一九八七~一九九〇年頃、完全統制区域16号管理所(咸鏡北道化城郡。高官、知識人とその家族なども収容しとくに処遇が酷いことで知られる)の政治犯ら約1万名が順次行方不明となります。付近に核実験施設である豊渓里があり、順次、動員、建設に従事させては全員殺害したとの説があります。
 ソ連崩壊に関連し、北朝鮮内外をめぐる動きも活発化します。
 一九九〇年九月、韓国・ソ連との間で国交が樹立、一九九一年九月、南北国連同時加盟などがなされます。同年一二月、金正日が人民軍最高司令官に指名されます。また同月、「朝鮮半島非核化共同宣言」なる外交文書が調印されます。また翌一九九二年八月には中韓にも国交が樹立されます。
 内部にあっては、一九九〇年五月、国防委員会は中央人民委員会の傘下から分離します。また一九九二年ころを中心に、「クーデター陰謀事件」が発生、80年代後半頃からソ連に留学し、密輸、またソ連国家保安委員会の美人局にひっかかった人民軍将校ら数百名が粛清されます。
 また、ソ連があてにならないと感じた北朝鮮は独自の核開発路線をこのころから模索し始めます。さらに、その過程においても、ときどきに柔和・平和な姿勢を見せて相手の政権を安心させ、また支持率上昇に寄与させる、いわゆる『瀬戸際外交』が活発化し始めます。
 まず一九九二年四月、IAEA(国際原子力機関)に署名します。翌一九九三年三月、IAEAは未申告施設の査察を要求します。
 これに北朝鮮は反発、NPT脱退を表明しますが、六月、米朝交渉により復帰します。とはいえ一九九三年五月、北朝鮮はノドン一号の発射実験を実施します。
 一九九三年四月、金正日が金日成に代わり国防委員長に就任、また同第一副委員長に呉振宇が就任します。
 同年一一月、国連総会は北朝鮮によるIAEA査察受け入れを勧告します。これを受けたのか、北朝鮮は翌一九九四年三月、自己申告をした施設のみ、IAEAの査察を認め、実施させますが、六月には不十分と報告されます。国連安保理は再度査察を勧告し、カーター米国元大統領が訪朝したりしますが、結局北朝鮮はIAEAを脱退します。
 また国内では一九九三年一二月に朝鮮労働党中央委員会全員会議が実施されます。党規約上は年に一回以上開催と規定されている同機関ですが、以降、二〇一〇年まで同機関の開催は凍結されます。
 金正日の策略による瀬戸際外交が続く中、一九九四年七月、金日成が死去します。これを受け金正日政権は「三年間の喪服」を発表します。この間、硬軟使い分けの瀬戸際外交のみならず、国内においても、金正日への権力集中体制が確立されていきます。
 一九九四年一〇月、米朝枠組み合意がなされます。北朝鮮はIAEA脱退を再度撤回します。核拡散のおそれの低い軽水炉二基を、約40億ドルをかけて、どこからこれらの国が指名されたのかもわかりにくいですが、韓国7割、日本3割の負担で建設、完成までは年間50万トンの重油供与等の内容で合意します、なお早くも、北朝鮮は翌月には軽水炉供与に反発します。
 一九九五年二月、呉振宇人民武力部部長・国防委員会第一副委員長、党中央委員会政治局常務委員が死去します。これにより、党中央委員会政治局常務委員が金正日一名となってしまい、党機能がマヒし、以降、各国のNSCに相当する国防委員会が国家権力中枢へとなります。
 国内にあっても混乱のうわさが発生しています。一九九五頃、人民軍第六軍団で数百名の将校が一斉粛清されています。クーデター未遂説、党中央側によるスケープゴート説などがあります。
 一九九五年三月、日米韓、米朝枠組み合意実施のため朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を設立します。一二月には北朝鮮は軽水炉建設に合意します。
 一九九五~二〇〇〇に、日本は北朝鮮への食糧支援を毎年実施します。特に一九九五年、二〇〇〇年の規模が大きくそれぞれ約1000億、米穀約50万トンとなっています。また米国・韓国なども食糧支援を開始します。一方、北朝鮮がWFP(世界食糧計画)に提出している受取先機関リストに不備が指摘されており最終届き先は不透明となっています。
 このころ、一九九六年二月より、労働新聞は「苦難の行軍」論を提示します。この頃から水害、食糧難などの報道が目立ち始めます。これについて、ソ連などからの援助中断などと合わせて論じられることも多いものの、そもそも北朝鮮の統計自体が不正確であり、食糧難は建国以来一貫して続いており、韓ソ・中韓などの関係改善に焦った北朝鮮側による一部情報公開の実施との指摘もあります。
 また、北朝鮮は南侵による国威誇示も続けています。一九九六年九~一一月にかけ、江陵浸透事件が発生しています。
 北朝鮮工作員潜水艦が座礁、工作員ら26名が韓国領内に逃亡・潜伏します。韓国政府が珍島犬警報(北朝鮮スパイ侵攻警報)を発令、韓国側は掃討に国軍・警察150万人を動員、逮捕1名、自決11名、行方不明1名、射殺13名となります。北朝鮮側は当初漂着と主張するものの、武器などの押収後、12月に韓国側に謝罪します。
 北朝鮮による対南工作への韓国側の対応は90年代頃までは上陸後の地上交戦が中心(兵員数名程度の侵入が年1回程度発生)でした。ところが江陵事件にて、北朝鮮では普及していない一般電話回線によって市民が通報するという、北朝鮮兵員が想定もしていない事態を受け、これ以後は海戦が中心(複数の艦船による侵入が数年に一回程度発生)、さらにそのあとは、海戦も一方的な敗北状態となったためか、瀬戸際外交の硬側は、ミサイルの発射くらいしか挑発行為のネタがなくなってきます。
 無意識のうちに海外から同朋意識の強い行為と指摘されやすい拉致問題ですが、一九九七年二月、北朝鮮の亡命工作員が日本人拉致を証言し、日本で拉致被害者家族連絡会が設立され、続く五月、日本政府は、拉致問題の北朝鮮関与濃厚を公式見解としますが、これを受け、同年七月には、早くも、日本・社民党が機関誌にて拉致問題をねつ造と主張、強硬に反発します。
 一九九七年、党元政治局委員ながらも、元最高人民会議常設会議議長であった黄長樺党秘書が韓国に亡命します。親族、関係者ら約3000名が管理所送りとなったといわれています。
 また、一九九八年八月には黄海製鉄所暴動事件が発生し、製鉄所の労働者ら数千名が暴動、人民軍が鎮圧したとの情報があります。ただしこのような事象は北朝鮮にあっては氷山の一角との見方もあります。
 さて、このような中、「三年間の喪服」、すなわち、「瀬戸際外交」などを生み出す権謀術数にたけた、金正日による権力継承の準備が整います。金正日は一九九七年一〇月、ようやく党中央委員会総秘書に推戴されます。そして金正日体制を支える制度として、一九九八年九月の改憲を迎えることとなります。

第六章 混沌の兆しの現れ

小泉政権による自民党の復権
 一九九八年七月、参院選にて自民党は再び単独過半数議席を獲得できず、ねじれ国会となり、橋本内閣は総辞職し、小渕恵三内閣が発足します。
 自民党の他には小沢一郎が代表を務める自由党が連立に加わることとなりました。実は、当時小沢氏の自由党は極右的なイメージがありました。とはいえ、連立内にあってさほど大きな動きを見せたというわけでもなかった印象です。
 さて、自由党との連立でもまだ過半数に届かなかったため、自民党は公明党との連立にも乗り出します。
 現在でも批判がありますが、この後、比較的長期に渡って自民・公明の連立が続きます。公明自身、自民党の道具ではない、と言っていますが、実際は、若干の目立った動きさえできればそれでいいといった印象で、政局重視だったためと考えられます。
 一方、自公の協調路線が続く中で自由党は埋没が進んでいきました。自公二党があれば与党は維持できるといった情勢でした。このため同党は二〇〇〇年四月一日に連立離脱を表明します。小渕氏はその翌日四月二日に脳梗塞を発症し、事実上この日に小渕氏を首班とする内閣は終焉します。また、自由党から保守党が分裂し、こちらが引き続き連立に残ることとなります。
 なお、自由党に代わって保守党、および公明党が連立に参加します。小渕内閣以降、公明党は一貫して自民党に付属するような行為を長期に渡ってとっており、長さ自体の評価もできますが、付和雷同の党とのイメージもぬぐえません。
 小渕内閣の総辞職を受け、五日に森喜朗内閣が発足します。彼の政権下において、二〇〇一年一月より中央省庁再編がなされます。
 森内閣は基本的には小渕内閣の継承路線をとっていました。とはいえ、首相個人の性格などが影響し、支持率は低迷しました。政策はほとんど変わらないにも関わらず、性格などで支持率が大きく変化するというのは、その後の麻生内閣、および第二次安倍内閣でも見られる現象でした。首相の『資質』という文言が登場し始めましたが、それは同時に、この頃から、『日本人の有権者としての資質』が低下し始めたということと同義でなないかと考量します。
 森内閣の退陣を受け、二〇〇一年四月から、小泉純一郎内閣が発足します。自民、公明、保守の三党の連立によりスタートし、後に保守党は自民党に吸収となります。また、二〇〇六年九月の、自民党総裁任期満了まで五年以上に渡って続く長期政権となります。
 小泉内閣の場合、パフォーマンスの重視が目立ちました。とはいえ、パフォーマンスでは若手の政治家などがよくやることで、またにも関わらず失脚している者も多いため、これをすぐに長期政権の理由として分析するのも早計ではないかと考えます。
 それよりも、郵政民営化などを中心とした、政策へのこだわりの姿勢の大きさが考えられます。『政局ではなく政策』という、言葉自体は美しいため誰もが頻繁に口にします。とはいえ、同内閣ではとくにそれが顕著に表れており、実際に、政治権力をとることとなってしまったが、やりたいことがあったためで、それが終わったらすぐにやめる、といった姿勢が目立っています。
 一方、二〇〇一年九月に、米国同時多発テロが発生します。これへの対処と、米国共和党が、NATOの意向にかかわらず実行しようとしていたイラク戦争の二つをほぼ同時期に受け持つこととなったため、同政権は右派的な印象でも知られます。但し小泉氏の政策自体は、経済好転を見込んでの郵政民営化や、近年の原発廃止など、さほどすぐに右派的とは言いにくい政策のほうが本来は多かったとも言えます。
 近隣諸国とのこじれ合いの主因は靖国神社への毎年の参拝でしたが、これ自体も、同社は東京では比較的高めの社格である別格官弊社でもあり、またそれに対する行為も単なる「お祈り」で、実際に日本から何らかの物理的な挑発行為をしたというわけでもないため、日中双方の世論は、新聞購入者を中心に不自然に過剰反応や空転をし合っていたとも言えます。この指摘については、後の台湾元総統李登輝が靖国神社に参拝した際にも、同様の趣旨を述べています。
 二〇〇一年九月、米国同時多発テロが発生します。これに対する、アメリカの、個別/集団的自衛権の行使の容認を認可する国連安保理決議一三六八が全会一致で可決、また、NATO第五条による集団的自衛権、太平洋安全保障条約第四条自衛権など、世界各国の機構、条約などが発動されます。但し日本の新聞とその購入者らだけは世界でも別で、本件の略称について、『テロ』と呼ばずに、(アメリカによる)『報復』といった表現を用いていました。この件については翌月日本テロ対策特措法が成立し、自衛隊が派遣されます。
 続く二〇〇三年三月よりイラク戦争が勃発します。当方は、NATOの裁可を得ない、すなわち集団的自衛権がいない中での、米国(主に共和党)主導による、旧西側一部による、非民主主義国家への見せしめに近い、『ネオコン』といった言葉に象徴される行動と感じている次第です。すぐ五月には大規模戦闘は終結、米国ら有志連合は戦闘終結宣言を出します。
 なお、当時の日本の論調は、両方ともアメリカが主導していたこともあり、対テロ戦争とイラク戦争とを一括して見るもので賛否の大半を占めていました。片方(とくに前者)を防衛行動として認め、後者は国家主権の侵害であって認められない、といった論調はほぼ皆無でした。
 とはいえこれは世界を見渡してみればむしろ一般的で、NATO各国や、米国民主党などはこの立場でした。このことからも、首相の一挙一動にばかり、いかにもこの程度しか書くことがないと言わんばかりに注目して、そればかりを見る、日本の新聞と新聞購入者らの見識がいかに浅はかなものかが世界から着眼されました。
 なおイラク戦争による自衛隊派遣の根拠は、米国ではなく、米国など有志連合による戦闘終結宣言後、国連安保理決議一四八三による、イラク国内の治安が悪化しているため、有志連合ではなく国連の裁可を得た、国連による、全加盟国への、イラクへの復興支援要請に基づくものです。これを受け同年八月にイラク特措法が成立、一二月より派遣が実施されることとなります。
 そして翌二〇〇四年、この影響もあってか、国連のアナン事務総長が国連事務総長としては初の来日を実施、日本の国軍相当機関によるイラク復興支援活動を国会演説において高く評価しています。
 また、同内閣では安全保障関連の法整備が進展し、二〇〇三年六月、現在では『Jアラート』の法的根拠などで当たり前となった国民保護法を含む、武力攻撃事態対処関連法案が成立、同一二月にはMD:ミサイル防衛導入が閣議決定されます。なお、郵政民営化法案可決後のことなのであまり知られていませんが、自衛隊統合幕僚会議が統合幕僚監部に再編されたのも同内閣のもとでの二〇〇六年三月です。
 また同内閣では、二〇〇二年九月の首相訪朝、および日朝平壌宣言が有名です。これにより北朝鮮は日本人の拉致事件を公式に認め謝罪しました。とはいえ日本世論の憤りは謝罪どころではすまなかったことは北朝鮮側も認識しているようです。なお、他国で邦人が集団でこういったことに遭うことも、遺憾ながらしばしばあるため、このことは、左派を含め、日本人の、無自覚のうちの国家主義の高さを示しているのかもしれません。公認被害者数がさらに多ければ下手をすれば戦争になっていたかもしれません。またこのとき、拉致被害者を当初の取り決め通りいったんは北朝鮮側に返すという約束をあえて反故にすべきという安倍氏らの主張が通り、これがのちの彼の評価につながります。
 とはいえ、北朝鮮に醜悪なイメージがついたとはいえ、それをもって、日本の左派が衰えたとみるのは早計であることは、そのあとの民主党政権の発足をもってしてもわかる通りです。なおこの政権交代については、日本世論が拉致問題に寛容になったということとは全くの無関係で、各党の政策自体を日本人有権者各位が理解していない、ということに起因していると思われます。
 さて、小泉内閣最大の動きとして、二〇〇五年一〇月、郵政民営化法案が成立します。同年八月、自民党造反者多数のため参議院にて同法案が否決、九月、衆議院選挙にて与党が三分の二を確保したことから参議院もこれを可決するという流れです。今から見れば、その是非はともかく、ここまで、口先ではない、『政局ではない政策』に徹底した動きをする内閣も珍しいと言えます。
 一方、郵政民営化は、中曽根内閣時代の、公社に民営システムを取り入れることでの経営健全化を主眼としたものですが、昨今のJRなどを見てもすぐにわかる通り、そろそろこれには弊害が目立っています。とはいえ、当時はその資本主義的な動きが、彼の政権主導の方針とも相まって評価されがちでした。
 このため、『一億総中流』から、本来、勝ち組側も出生率を四にしないと満足が得られないはずの『勝ち組・負け組』といった風潮が主体となりました。それに伴い、国家市民社会のことを根元から考える者も大幅に減りました。
 もちろん、書籍、漫画、アニメなど、思想文化はそれにさらに増しての警鐘を、より強烈に鳴らしました。なおその手法については、日本はいわば、『律宗』の弊害を集大成したような状況であるため、『浄土宗』的に、いわば観想念仏を取る手法が中心的に選択しました。但しこれはいわば『仏の顔』の最後の段階でもあったと言えます。
 とはいえこれへの反抗期的風潮がますます増大しました。それらは、自らを悪しき者と名乗らず、正義と称して出現し、本当の正義、すなわち悪人正機の者の良心につけこみ、過剰補償を要求する、より巧妙な手口を用いました。
 また、新たな罵倒語として、キモい、ウザいなどの単語が、バラエティー番組を発祥とし、学生から大人にまで広まり、直接的でないことから使いやすいものとして広まり、悪意ある人々は、より容易に罵倒語を使える環境となりました。そのため二〇〇六年には、これらの単語を主因としたいじめ自殺事件なども発生しました。マンガアニメなどがその原因と浅慮されやすいですが、実態はむしろその正反対で、マンガアニメなどにより、これらの言葉が暴言であると気づいた者ほどその被害者になりやすいといった事態が多発しました。
 人の相互敬愛は、相互理解関係ではなく、従順関係であると誤解し、例えば、『コミュニケーション力』といった言葉が、PTSD、HSPなど、様々な感覚を持った者とも多様に接するという意味では全くなく、左派はこれを『強気』の意味で用い、前掲の者を貶め後者を称賛し、さらに、一般的には『威圧』の意味で、しかもそれが美辞麗句として評価されるようになったことは、人間として周知のとおりといえます。

第六共和国の安定
 この項目では金大中政権を中心に扱います。「第六共和国の安定」というタイトルですので、同政権のみを評価しているかのように誤解されそうですが、これにはその前の金泳三政権も含みます。
 というのは、明らかになっていないだけかもしれませんが、これを執筆している二〇一八年九月当時の段階で、韓国の歴代有力大統領のうち、逮捕などをされていないのはこの二人だけであるからです。その後の廬武鉉政権は自殺、朴槿恵政権は任期中辞任により逮捕され有罪判決により控訴中、李明博政権も逮捕・起訴となっています。
 韓国では政党名の変更が多いのでわかりづらいですが、一般的には、彼らのうち、軍人出身の盧泰愚の後を受けた金泳三が政党では右派、金大中、廬武鉉が左派、李明博、朴槿恵が右派に属します。
 金大中の場合、朴正煕時代から、中央情報部の暴走により日本国内から拉致され海に投げられそうになったり、実際に投獄されたりしていた、いわば陳水扁に近い経歴があるため、左派政権からは待望の存在でもありました。左派政権ですので、太陽政策と称し、新北寄りの政策を進めます。また国内では、一九九九年、かつては自分の暗殺まで企図した情報機関である中央情報部、国家安全企画部の権限を縮小し、国家情報院に改組します。とはいえ準戦時国ではあるため、中国や日本のようにほかの部と同レベル、もしくはそれ以下とはならず、院として部よりも別格ではあり続けます。実際にその必要性はあったようで、同年、民族民主革命党スパイ事件が発生し、国家情報院が非合法団体民族民主革命党を摘発し、彼らには反国家団体構成罪判決が下されます。
 また、左派であるため反日側により回りやすい金大中政権ですが、実は日本文化開放がなされたのも彼の政権期が中心です。一九九八年一〇月より第一弾が実施され、以後二〇〇四年までに順次開放されます。
 台湾において日本文化が若者を中心に広まっていることは、逆に日本国内でも知られがちですが、実は韓国においてもこの現象は同様にあります。但し日本国内でそのことを知れる場所は限られていますので、当然のように日韓を問わず日本文化を楽しみあう者から、いまだに韓国では日本文化に触れられないと勘違いしている者まで幅広くいるようです。
 但し完全に言論の自由があるわけでもありません。共産主義もそうですが、日韓史などについては、書き方によっては『有害図書』となります。その代表例が二〇〇二年に発刊された金完燮(キムワンソプ)著『親日派のための弁明』で、日本語翻訳版は四〇万部のベストセラーとなりましたが、著者は逮捕されます。なお、人権の観点から見れば完全に表現の自由に対する暴力なのですが、日本の左派ほど、こういった規制の動きを歓迎するという現象が見られます。
 さて金大中政権の太陽政策を北朝鮮側は「上手く」活用し、国内統制のための、硬軟の繰り返しによる瀬戸際外交を展開します。
 軟側の最大の例は二〇〇〇年に実施された初の南北首脳会談でした。この動きは韓国はもちろん日本の左派も大きく評価したところで、また金大中はこれがきっかけでノーベル平和賞を受賞します。
 一方、硬面の代表例はその前後に二度に渡って勃発した第一次、第二次延坪海戦です。金泳三政権下において発生した江陵浸透事件以降、北朝鮮側は地上上陸ではなく海上の侵犯行為が目立ちます。なお同事件よりさらにミサイルの発射や核実験が硬面の中心となります。
 第一次延坪海戦は一九九九年六月に発生、北朝鮮側の魚雷艇三隻、哨戒艇二隻が北方限界線を侵犯し、韓国側の哨戒艇二隻と交戦します。北朝鮮側の魚雷艇・哨戒艇各一隻が沈没し、他は引き上げとなります。
 続く第二次延坪海戦は二〇〇二年六月に発生し、北朝鮮哨戒艇二隻が北方限界線を侵入、韓国哨戒艇四隻と交戦、韓国側のうち一隻が沈没、後北朝鮮側が引き上げ、また北朝鮮側が後に謝罪となります。
 ところが、哨戒艇が沈没されたにもかかわらず、初の南北首脳会談などの影響もあり、韓国国内においてすら世論の関心は薄めだったことが、第二次延坪海戦の特徴でもあります。

総統民選開始
 史上初の総統直接選挙、及び、同時実施の国民大会代表選挙を前にした一九九五年一二月に立法委員選挙が実施されます。この選挙において民進党が躍進したため、与党国民党は改憲に必要な四分の三に届きませんでした。このこともあり、李登輝政権は民進党との更なる融和を図ります。
 一九九六年三月、総統直接選挙にて李登輝が選出されます。とはいえ、首相に相当する行政院長の選出はスムーズに行きませんでした。憲法の規定により、行政院長の指名には立法院の同意が必要とあったためです。
 このため李登輝は、かつての国是会議に類似した超法規的機関である「国家発展会議」を開催します。結果的に、思惑通りにいかない場合、三権を超越した機関をクーデター的に、元首自らが勝手に作る、という手法は李登輝政権の特徴になりました。
 ここにきて李登輝は民進党との、よく言えば融和、悪く言えば取引により、民進党の政策である台湾省政府・台湾省議会の廃止を約束し、代わりに、行政院長の指名を総統専権事項とします。但し、総統直選制により総統の権限も弱まり、安定した政府ができにくくなったため、この措置は民主化の過程ではさほど強権的なものではないとも言えます。
 改選が実施されて以降、国民大会は頻繁に改憲を繰り返し、民主化とともに、自身の機能低下を図りますが、その過程にあって、国民大会代表の任期延長という、これに逆行する改憲が一九九九年に実施され、これが国民の反発を買い、司法院はこれを無効とします。一説には李登輝が自身の総統任期延長を狙っていたともいわれています。翌二〇〇〇年以降、その反省から国民大会は非常設となります。
 さて、二〇〇〇年の総統選では民進党候補の陳水扁が当選し、台湾における初の政権交代となります。これについて、国民党主席である李登輝が最初からこの結果を狙っていたという説はしばしば聞かれます。また、総統職を退いても、彼は、未だなお後任の政権が為せていない、台湾の外交にとっていわば最後の大仕事でもある、領土再画定を当時から画策していたとも言われています。
 とはいえ、それが、李登輝が台湾国民を誘導したことによるものなのか、あるいは逆に、李登輝が台湾の国民世論を読んだ、さらに言えばそれに押されたためなのかについては諸説があります。例えば一九九八年末の台北市長選では、国民党候補の馬英九が、李登輝の応援も受け、民進党候補の陳水扁に勝利しますが、李登輝は人気の高い馬英九の指名を渋っていた、国民党機関紙中央日報の記事については、陳水扁への批判記事を逆批判したり、馬英九への応援記事を批判していたと言われています。
 総統選前年の一九九九年に李登輝は二国論を発表します。また総統選の国民党候補には、保守派でありながらも人気の高かった宋楚瑜ではなく連戦を指名し、あえて国民党を劣勢に立たせます。
 この結果第一期陳水扁政権が発足します。総統就任演説において陳水扁は「四つのノー」を発表し、中国への刺激の緩和に努めますが、これは二〇〇二年には早くも撤回され、「一辺一国論」を発表します。
 さて先述の通り、李登輝は「元総統」の肩書をフル活用し始めます。現在でも訪日の度に物議をかもしていますが、その最初は二〇〇一年四月の、病気名目での訪日でした。右往左往する日本政府に対し彼は記者会見でニトログリセリンまで持ち出して日本を強烈に批判、また、各紙社説も朝日新聞以外は賛成(毎日新聞は元々やや台湾寄り)で、訪日中は至る所でペラペラの日本語を使用し、結局彼は、日本側には、日本を思う大物外国人、台湾側にも、日本に対する無意識のうちのコンプレックスを平然と打ち破る有力政治家として映らせることに成功します。
 また二〇〇一年八月には、自身を「精神的指導者」に位置付ける政党、台湾団結連盟を発足させ、総統選敗北の責任を取る形で主席を辞任した国民党からの除名処分を受けながらも、陳水扁政権との閣外協力を図ります。
 当時李登輝、陳水扁の関係は異常なまでに良好でした。二〇〇二年、李登輝の承認のもとで、一九九四年に、情報機関である総統府国家安全局が裏口座を開設し、約三五億台湾元(約一一〇億円)をプールした機密文書が流出した、という記事を掲載した『壹週刊』などの雑誌がありましたが、陳水扁政権は国防機密漏洩の疑いを根拠にこの雑誌を押収します。これについてアメリカ国務省が懸念を表明する事態となります。
 またもう一つがクリアストーム事件です。この事件はフランス国内にて、二〇〇一年、収賄用の匿名口座を持つフランス政治家のリストとされる文書が発覚するものの、二〇〇四年、フランス検察が、リストを虚偽と結論づけます。また二〇〇七年には、発覚当時外務大臣であったド・ビルパン前首相が、同事件を受け、政敵でったサルコジ大統領の失脚を図り、偽告発や偽造文書行使の容疑で起訴されるも、のちに無罪が確定します。
 この事件が台湾にも影響を与えます。一九九一年のフランス製駆逐艦購入を巡り、いったんは台湾への売却を見送ったミッテラン政権のフランス政府高官に四〇億フランが流出、さらにフランス経由で中国にも流出した疑惑が発生、また一九九三年に台湾海軍大佐が暗殺され、李登輝の関与疑惑も浮上していましたが、二〇〇二年三月、監察院は李登輝の関与を否定する調査結果を発表します。
 もともとクリーンなイメージで就任した陳水扁でしたが、李登輝の影響によって就任した印象が拭えず、さらにそれが結局、李登輝政権初期に、彼自身も引き継ぐはめになった、国民党の黒金イメージを庇う印象を与える格好となり、国民党との支持率が拮抗していく中で、二〇〇四年の総統選を迎えることとなります。

江・朱政権
 一九九八年の第九期全人代第一回会議にて、天安門事件当時からの上海での江沢民の同僚であり、鄧小平が抜擢した改革派の朱鎔基が李鵬に代わって就任し、改革開放路線の推進を図ります。三大改革として、国有企業改革、金融改革、政府機構改革があげられます。
 また同年より人民解放軍に総装備部が設置され、三総部は四総部体制となります。
 一九九六年から九九年にかけて遠華密輸事件が発生します。貿易会社遠華電子有限公司が800億元を脱税、公安部副部長を筆頭に156名が逮捕、死刑含め有罪判決となります。江沢民による軍部掌握の一環との指摘もあります。
 また一九九九年七月より法輪功への弾圧が始まります。逮捕者は数万名に上ります。
 二〇〇〇年、江沢民は「三つの代表論」を提唱します。中国共産党は人民の根本的利益などを代表する存在であるとされる内容で、改革開放により、それまでの労働者階級から、企業家などへも利益を代表する存在としたもので、毛沢東「思想」、鄧小平「理論」に続く、理論思想などを模索していた江沢民政権により作成されます。但し江沢民の個人名は載らないなど、前二つに譲歩したものとも言えます。
 二〇〇一年にはWTOに加盟します。
 またその翌年二〇〇二年、伝染病SARSが中国で流行します。

瀬戸際外交
 改憲直前の一九九八年八月三一日、日本海に向けてテポドン1号の発射実験がなされ、これが日本上空を通過します。
 その五日後の九月五日、金正日体制に伴う改憲がなされます。まず国家主席ポストは金日成を「永遠の主席」として廃止、また、彼の権力の中枢でもあった同諮問機関「中央人民委員会」も廃止されます。政務院とその総理、各部部長については、内閣と総理、省相に改称され、中国風から日本風となります。但し国家安全保衛部、人民武力部については引き続き部の名称のままとなり(人民武力部は当初は人民武力省であったものの二〇〇〇年に部に復帰)、これらは内閣ではなく国防委員会の直属となります。同委員会の第一副委員長は総政治局長の趙明禄です。以降、呉振宇が総参謀長を務めた総参謀部から、総政治局が人民軍中枢にシフトしていきます。
 また最高人民会議の常設会議は常任委員会に改称、金永南が委員長に就任します。
 これらの措置により、名目上の元首は共和国主席ではなく最高人民会議常任委員長となります。共産圏では党、国家、軍がしばしば三権と呼ばれますが、もともと麻痺していた党に加え国家機関も衰微、金正日がもともとから掌握していた軍が優位となり、翌年の「先軍政治論」の足がかりとなります。とはいえ共産圏での三権の最終権力が軍になることは鄧小平期の中国にもみられたことであり、そもそも金正日政権はその他に手を回す余裕がなかったということもできます。
 またその四日後の九日、労働新聞に「強勢大国論」が掲載され、これが金正日政権の施政方針となります。
 同体制のもと、硬軟を交互に使い分ける、二〇一八年現在も続く「瀬戸際外交」がスタートしていきます。
 まず一九九九年三月、能登半島沖不審船事件が発生します。日本領海内に不審船2隻が出現、日本海上保安庁巡視船艇15隻、航空機12機が出動、また海上自衛隊に初の海上警備行動命令が下されますが、2隻は逃走し清津港に入港します。
 韓国に対しては一九九九年六月一五日に、韓国の項目で述べた第一次延坪海戦が勃発します。労働新聞が「先軍政治論」を発表したのはその翌一六日です。
 二〇〇〇年には、朝鮮学校の校長が島根県に覚せい剤250kgを密輸したとして国際指名手配となります。
 また、一般警察に相当する社会安全省が人民保安省に改称されます。
 一方軟面として、同年六月、初の南北首脳会談が実施され、金正日は金大中韓国大統領と会談します。
 また一〇月にはそれに続き、米国オルブライト国務長官が訪朝します。
 さて一方国内では、深化組事件が発生します。第六軍団事件に続く大規模粛清で、当時の社会安全部に「深化組」が秘密裏に組織され、張成沢党組織指導部第一副部長(部長は空席、元金正日が就任)が中心となり、一九九七年頃から二〇〇〇年頃にかけて、苦難の行軍のスケープゴートとして、党農業担当秘書ら約2万5千名が粛清されたと言われています。
 翌二〇〇一年五月、金正日の長男であり、有力な後継者とみられていた金正男が日本に不法入国し、事実上の政治判断により入管審査が中断され国外退去処分となります。とはいえこの後彼は後継候補から実質的に外されます。
 また同年一一月には韓国釜山港にて覚せい剤91kgが摘発されます。
 翌一二月、九州南西海域工作船事件が発生します。北朝鮮工作船1隻が出現、漁業法違反容疑で海上保安庁巡視船艇24隻、航空機14機が出動し、同船は銃撃の後自爆し沈没します。なおこの時には自衛隊への出動命令は出ていません。
 二〇〇二年四月、KEDOは軽水炉の建設に着手します。
 同年五月、瀋陽日本国総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件が発生します。亡命は成功しました。なお、駆け込み亡命に際し、中国武装警察が総領事館に無許可侵入していたこと、また日本の駐中国大使が亡命者を追い返すよう指示していたことなどが発覚します。
 なおこの年、韓国到達脱北者が年間1000名を突破します。また、中国東北部潜伏は30~40万名と推定されるとのことです。
 同年六月、韓国にて第二次延坪海戦が勃発します。なお、これ以降は上陸に加えて、海戦も大幅に減り、以後はミサイルの発射などが中心となります。
 九月、日本小泉純一郎首相が訪朝、日朝平壌宣言が出されます。金正日は拉致を認め謝罪します。日本政府認定の拉致被害者は当時17名でしたが、北朝鮮側は5名生存、8名死亡、4名入境なしと主張します。これ以降、日本における北朝鮮への態度は硬化します。翌一〇月に、拉致被害者のうち北朝鮮が生存を主張する5名が一時帰国します。帰国後、内閣官房副長官であった安倍晋三、内閣官房参与であった中山恭子らの提言により、日本政府は北朝鮮への送還を拒否します。
 翌二〇〇三年一月、日本にて特定失踪者問題調査会が設立されます。北朝鮮による拉致の可能性が高い失踪者が「1000番台リスト」とされ、同会によれば100~200名とのことです。
 また一方一〇月には、ウラン濃縮が米国により発覚し、一二月に北朝鮮はIAEAを脱退、続く翌二〇〇三年一月にはNPTも脱退します。このため一二月にはKEDOは軽水炉の建設を中止します。
 二〇〇四年四月、龍川駅にて爆発事故が発生します。金正日暗殺テロとの説があり、韓国はこれを否定、逆に中国がこれを断定します。
 翌五月、日本小泉首相が再度訪朝、帰国した拉致被害者の親族も帰国します。北朝鮮側は事実上の人質扱いとして米穀約25万トン(約500億円分)を要求し、日本側は当初拒否するも結局これを供与します。
 同年、日本では北朝鮮経済制裁二法として、特定船舶入港禁止法の公布と、外為法の改正が実施されます。
 また同年一一月、日朝実務者協議が実施されます。北朝鮮は拉致被害者のうち死亡と主張していた8名の死亡診断書をねつ造と認めます。また、北朝鮮が拉致被害者松木薫さんの遺骨と主張するものが回収されますが別人と判明します。
 翌一二月に外務省局長が訪朝、北朝鮮が拉致被害者横田めぐみさんの遺骨と主張するものを回収します。別人とは判明できないものの、本人と確認できないDNAが検出されます。なお不自然な経緯により燃やされておりDNAの殆どがなく、同鑑定の実施により同遺骨は消失します。これ以降、北朝鮮が死亡と主張する拉致被害者の遺骨返還はなされなくなります。
 二〇〇五年二月、北朝鮮は核保有を宣言します。これを受け、九月に六か国協議共同声明が発表されます。北朝鮮当事者を含め、北朝鮮の核兵器の放棄に合意します。また一一月にKEDOは解体されます。一二月には国連総会にて北朝鮮非難決議が採択されます。英国が作成を主導し、日米欧など45カ国による共同提出となり、中露が反対、韓国が棄権します。
 またこの年、日本にて自衛隊法が改正され、ミサイル破壊措置命令が規定されます。一方米国では食糧支援が中止されます。
 翌二〇〇六年七月、テポドン2号他計7発の発射実験がなされます。日本は特定船舶入港禁止措置を発動します。また九月には金融制裁を閣議決定し、即日発効となります。
 一方、国際連合安全保障理事会決議1695も採択されます。北朝鮮のミサイル発射に対する国連非難決議で、日本が作成を主導、当初は国連憲章41条に基づく国連による経済制裁案が浮上するも削除されます。
 またこの年、韓国到達脱北者数が年間2000名を突破します。
 こうした中で、北朝鮮は秘密裏に地下核実験の準備を進めていきます。

第七章 私たちの眼前にある、東アジア史上最大の混乱

第六共和国の今後
 金泳三、金大中両政権は、ともに末期にはレームダックを引き起こしました。とはいえこれはまだましな方で、そのあとに続く政権は、二〇一八年現在、歴代大統領が送検、逮捕される事態となっています。このことから、日本はもちろんですが、韓国についても、現状は過去よりも悪化しているとの見方もできます。
 二〇〇三年からは廬武鉉政権が発足します。金大中政権同様、韓国では左派に位置します。
 彼の政権期、二〇〇四年にKTXが開業します。
 二〇〇四年三月、韓国国会は大統領弾劾決議を出します。但しこれはねじれ国会に基づく行為であり、世論はこれにかえって反発し、同年の国会総選挙で廬武鉉政権の与党ウリ党(我々の党)は勝利します。同年五月、憲法裁判所は国会の弾劾決議を棄却します。
 とはいえレームダックは進行します。このためか、二〇〇七年一〇月、廬武鉉は金正日と南北首脳会談を実施します。
 また同月、日本の保守寄りで、日本に帰化した作家呉善花の入国を一時拒否します。これは日本側の抗議により撤回されます。
 廬武鉉政権に続く政権は二〇〇八年二月に発足した李明博政権です。韓国ではこれは左派から右派への政権交代となります。
 同政権は北朝鮮に対し、「非核・開放・3000」(北朝鮮が非核化と改革・開放を実現することにより、一人当たりの年間所得を3000米ドルにするための経済支援を行う政策)を提唱しますが、これは金正日政権により拒否されます。
 また国内向けには「韓国747」政策を提唱します。毎年平均7%の経済成長、一人当たり4万ドルの国民所得、そして韓国を世界7大経済大国にするものですが、実績は不透明です。
 二〇〇九年五月、不正資金疑惑をかけられていた廬武鉉が自害します。これを受け当局は捜査を中止します。
 李明博政権は右派寄りであり、当初は比較的知日路線をとっていましたが、こちらもレームダックが進行、二〇一二年七月、実兄が検察当局により拘束され、翌八月には、実効支配状態である島根県竹島を訪問します。
 さて、李明博政権の後も右派政権で、二〇一二年一二月、朴正煕の長女、朴槿恵が大統領に当選します。同政権は「国民幸福十大公約」を公約としていました。

民進党から再び国民党へ
 二〇〇四年の台湾総統選は、僅差ながらも、陳水扁ではなく、国民党の馬英九が有力とみられていました。
 そのとき、総統選の前日、三・一九銃撃事件が発生します。総統候補であった陳水扁が銃撃され、彼は軽傷を負い入院します。翌日の投票の結果僅差で彼が当選します。また、正名運動を睨んで、台湾初の住民投票が実施され、中国のミサイルの撤去を求めますが、こちらは不成立となります。
 国民党が求めた投票の再集計は不実施となります。また、銃撃事件の犯人は自殺したとされています。
 二〇〇五年六月、国民大会廃止の改憲がなされます。
 また二〇〇七年一月、台湾高速鉄道が開業します。
 二〇〇五年十一月、陳水扁はクリアストーム事件の再調査を公言しますが、実際には特に何もされていません。
 翌二〇〇六年には、陳水扁の妻が総統府機密費の私費流用容疑で逮捕されます。これらの影響を受け、二〇〇八年、総統選に先立つ立法委員選にて民進党は大敗し、陳水扁は同党主席を辞任します。
 二〇〇八年総統選では馬英九が当選、国民党が政権に返り咲きとなります。同政権は三不政策(台中統一・台湾独立・武力行使のいずれもしない)を打ち出します。これは旧来の国民党、また民進党双方の路線とも異なる一方、比較的台湾では現実的として支持されやすい内容でした。
 同年十一月、総統府機密費流用及び資金洗浄容疑で陳水扁が逮捕されます。
 翌二〇〇九年八月、八八水災が発生します。台風8号が台湾を直撃、681名が死亡し、政権の求心力は一時低下します。とはいえ三不政策の推進などによりそれは徐々に回復します。
 二〇一〇年より台湾軍は将来の志願制導入に向け志願併用制を採用します。とはいえ募集が低迷し、完全志願制の実現には至っていません。
 翌二〇一一年には李登輝が公金横領、資金洗浄で起訴されます。
 また二〇一二年一月より、かねてより、中国以上に煩雑となっていた省庁再編が段階的に実施されます。同月、馬英九は総統選にて再選となります。

胡錦濤政権
 二〇〇三年三月、第10期全人代が開催されます。ここにおいて、鄧小平が予め、江沢民政権のさらにその先として選出していた胡錦濤が総書記、国家主席、温家宝が首相に就任します。2期先まで、見通す鄧小平の洗眼も優れたものといえそうです。とはいえ鄧小平はすでにいません。党中央政治局常務委員会は2人を除き江沢民派上海閥で占められます。また江沢民は中軍委主席に残留します。
 胡錦濤政権は鄧小平の「先富論」を「和諧社会」に発展させます。また胡錦濤政権は、環境問題;「四害」 (大気汚染、水汚染、騒音、固体廃棄物汚染)、「三廃」 (排ガス、廃水、固体廃棄物) を指定しこの改善を重視します。
 翌二〇〇四年には早くも、鄧小平らの同期による圧力もあり、江沢民は中軍委主席胡錦濤に譲ることとなります。
 同年一〇月、四川省にて、鎮圧に武装警察のみならず人民解放軍が出動、参加者約10~15万名 死者数名~十数名の暴動が発生します。
 二〇〇五年に中国政府は農業税廃止を発表します。 
 二〇〇六年、カナダの元閣僚らのチームの調査により、01~05にかけて実施された臓器移植約四万件の臓器の出所が不明と判明します。中国側は臓器狩りを否定、2010年代以降米下院外交委員会、EU議会などが非難決議を出します。
 また二〇〇六年より、中国政府は、暴動発生件数の発表を中止します。
 なお、それまでの報道では、06年ころの報道では年間約9万件(1日に約240件)、11.06BBC報道で年18万件、13.10日本識者指摘で年30万件(1日800件) 05.10共産党内部資料、当月全国705件、参加者合計200万名(1件当たり約2800名)、死傷者320名となっていました。たった一つとってみても日本の秩父事件をはるかに上回る規模ですが、暴動の原因については、強制土地収用、賃金未払い、幹部による弱者暴行、環境汚染など様々です。03年の中央への直訴件数は約1000万件、うち解決比率は0.2%といわれています。
 二〇〇六年三月、胡錦濤政権は、 「8つの名誉と8つの恥」からなる「社会主義栄辱観」を発表します。
 同年九月、恒例「政敵の脇をつく」手法とも言われていますが、上海市党委書記の陳良宇が汚職で逮捕されます。
 翌二〇〇七年、日本の生活保護に相当する、最低生活保障制度が施行されます。これとの連動かのように、日本の対中ODAも大幅に減ります。日本の対中ODAの減少は、しばししば言われるような、政治問題とは無関係ではないかとの指摘もできます。
 二〇〇八年3月、第11期全人代第一回会議が開催されます。胡錦濤政権系の共青団出身の李克強ではなく、上海閥の習近平が国家副主席に就任します。
 同月チベット暴動。死者約80名とも言われています。
二〇〇八年、四川大地震が発生します。
 同年、北京オリンピックが開催されます。
 また同年、高速鉄道網整備計画が(四縦四横)採択されます。
 同年年末一二月九日、人権活動家劉暁波らによって、民主化を求める『零八憲章』が発表されます。これの影響もあってか、二〇一〇年、劉はノーベル平和賞を受賞します。なおこれに対する中国当局への劉への身体的対応はひどいものでしたが、精神的対応は日本の群衆と大して変わらないともいえます。
 二〇一二年十一月、習近平、党総書記、党中央軍事委員会主席に就任します。
 彼は翌二〇一三年三月、全人代の承認により、国家主席、国家中央軍事委員会主席就任します。また胡錦濤系であったはずの李克強は首相に就任します。

瀬戸際外交の硬化
 二〇〇六年一〇月、瀬戸際外交のひとつの節目として、地下核実験が実施されます。これ以降、硬軟を織り交ぜる瀬戸際外交の軟面がとりわけ縮小していきます。
 同実験を受け、国連安保理決議1718が出されます。日本が作成を主導し、同1695(二〇〇六年、ミサイル発射に対する非難決議)では浮上したものの削除された国連憲章41条に基づく経済制裁が実施されます。
 二〇〇九年、拉致加害者の親族が三鷹市議選に立候補します。なおのちに首相となる民主党の菅氏がこの候補の所属政治団体に献金していることが指摘されます。
 二〇〇七年一〇月、金正日は廬武鉉と南北首脳会談を実施します。
 翌二〇〇八年から、韓国は李明博政権となります。「非核・開放・3000」政策を提唱するも北朝鮮はこれを無視します。韓国では、二〇〇六年を除き実施されていた食糧支援が極めて小規模に縮小されます。
 同年六月、日本とは日朝実務者協議が実施されます。北朝鮮は拉致問題について解決済みとの見解を転換、再調査を表明します。但しその後の報告はありません。
 また同月、米国が食糧支援を再開しますが、翌二〇〇九年三月に北朝鮮側が拒否して以降中止となります。
 同年八月、金正日が脳卒中により一時倒れ、後継者問題が浮上します。
 一〇月に米国はテロ支援国家指定を解除します。
 十一月、日本にて拉致知事会が発足します。このとき、小沢一郎民主党代表の「小沢チルドレン」として知られる岩手県知事のみ当初不参加を表明し注目されました。
 一〇月から一二月にかけ、北朝鮮ぜいたく品不正輸出事件が発生します。翌年、国連経済制裁違反で日本国内で初の逮捕者が出ます。なお被疑者は在日韓国人でした。
 翌二〇一〇年四月、人民保安省が内閣から分離、国防委員会直属となり、部に改称されます。
 九月、党代表者会が開催されます。党大会に次ぐ上位の臨設機関で、金正日政権下で開催される党中央機関としては初の開催となります。
 同会において金正恩が初登場し、共産圏においてNSCに相当する国防委員会の、党側の機関である、中央軍事委員会の第一副委員長に就任します。
 また長らく金正日一名であり実質的に機能不全となっていた労働党最高意思決定機関である政治局常務委員に、金正日の他に、金永南最高人民会議常任委員長、崔永林内閣総理、趙明禄人民軍総政治局長らが就任し(但し趙明禄は翌月死去します。)、同委員会の機能が名目上復活します。
 また同会は中央委員を選出し、中央委員会全員会議が開催されます。一九九三年の第二一中全会の後、金日成死去以降、開催中止となっていたものです。但し規約上、中央委員は党大会によって選出されるものとなっているため、一般的にこの中央委員会全員会議は第二二次にはカウントされません。
 金正恩が中央軍事委員会第一副委員長に選出された党代表者会から二ヶ月後の十一月、北朝鮮は韓国延坪島砲撃を実施します。
 翌二〇一一年一二月、金正日が死去します。同月、金正恩が人民軍最高司令官に就任します。
 そして翌二〇一二年四月、党代表者会が開催されます。ここにおいて金正恩は、党中央委員会第一秘書(金正日を「永遠の総秘書」とし、総秘書より改称)、中央軍事委員会委員長に選出されます。また同月、最高人民会議より国防委員会第一委員長(委員長より改称)に選出されます。

東アジア、さらなる混迷へ
 二〇〇六年九月、小泉内閣の後を受けて、第一次安倍晋三内閣が発足します。自民、公明による連立です。小泉氏の総裁任期延長論もありましたが本人がこれを固辞しました。あまり知られていませんが、第一次安倍内閣でも保守的な政策が目立ちます。
 一二月に教育基本法が改正、また同月、防衛庁は省に格上げとなります。
 翌二〇〇七年三月、日豪安全保障宣言が発表されます。米国以外の国との、安全保障に関する取り決めとしては初となります。
 五月には国民投票法、六月には教育改革関連三法が成立します。
 とはいえ九月、参議院選挙にて与党が過半数割れとなってしまったため、同内閣は退陣します。
 続き二〇〇七年九月から福田康夫内閣が発足、その後、二〇〇八年九月からは麻生太郎内閣が発足します。
 麻生内閣は早い段階での衆議院解散を検討したと言われていますが、同月世界金融危機が発生、これに対する、多次の補正予算編成に追われることとなり、解散はなされませんでした。
 一〇月、日豪に続き、日印安全保障宣言が発表されます。これにより、日米安保は「ダイヤモンドセキュリティ構想」に発展したとみることができます。
 とはいえ二〇〇九年九月の衆議院選挙にて自民公明両党は大敗し、民主、社民、国民新党の連立による鳩山由紀夫内閣が発足します。同内閣は発足当初、70%を上回る圧倒的人気を誇っていました。さっそく同内閣は、国家戦略室、行政刷新会議などを設置します。
 実は福田氏も小泉内閣において長期に渡り官房長官を務めています。また麻生氏も第二次安倍内閣において長期にわたり副首相を務めています。このため、首相のみに批判などが集中する傾向がうかがえます。
 また、政策そのものは第一次、第二次ともほとんど変わっていません。確かに、例えば麻生氏の場合、九州などでしばしばみられる、強がりを美徳とする傾向があり、海外から『華のある人物』と評されたりしています。とはいえ災害対策や経済政策にあっては、その姿勢が必ずしも精神衛生にとって好ましいとは言い難い部分もありそうです。
 ですがこのことからも、とりわけ二〇〇〇年代以降、立法・行政機関への評価は、政策から単なるタレントへと変貌し、同時に、有権者が、いわば自ら全員が特権階級であることを失念していったとの見方もできます。
 翌二〇一〇年六月、普天間基地移設問題の混乱に際し社民党が離脱を表明、これを受け鳩山内閣は総辞職し、菅直人内閣が発足します。こちらも鳩山内閣同様、発足当初、60%を上回る高い人気を誇っていました。また鳩山内閣にあって財務副大臣であった野田佳彦が財務大臣に就任します。
 発足から二ヶ月後の八月には管談話が発表されます。その翌九月、尖閣諸島中国漁船衝突事件が発生します。海上保安庁は同船長を公務執行妨害の容疑で逮捕するものの、政治問題化し釈放します。翌十一月、事件時の映像を海保職員がyoutubeにて拡散し、同職員は書類送検となります。
 翌二〇一一年三月、東日本大震災が発生します。
 八月に菅内閣は総辞職、野田佳彦内閣が発足します。
 翌二〇一二年三月、国民新党党首の亀井静香が同党を離脱しますが、同党員らにより民国連立は継続されます。
 八月、公約になかった消費税増税を柱とする社会保障・税 一体改革関連法が成立、さらにその翌月には、これへの批判を抑圧しようと行政刷新会議議員に葛西敬之JR東海会長らを任命します。
 一二月、衆議院選挙にて民主党が大敗、自公政権による第二次安倍晋三内閣が発足します。
 世界金融危機がひと段落し、円安傾向が発生していたことから、これに乗じ、アベノミクスと呼ばれる経済政策が実施されます。
 また文化、思想面では、引き続きマンガ、アニメなどを中心としたものが隆盛します。とはいえ引き続き観想浄土的手法を多くなっています。このため、かえって、反抗期的な発想こそがスタンダード、とまで言い張る者も増大し、その限界も指摘されています。
 また、アベノミクスが実施されているとはいえ、少子化が進行して以降、これの改善はほとんど見られません。財政、経済、社保が連動して危機的な状況が近づいていますが、タレントと立法府代議士の区別がつかなくなった退廃した昨今、それに気付く者も限定的となりました。
 もはや地位や身分を問える状態ではありません。日本を含めた東アジアの混迷に対し、広範に、その処方箋が必要となっていると言えます。

【無料】一般教養にして欲しい東アジア総合現代史 下巻

2019年2月3日 発行 初版

著  者:坪内琢正
発  行:瑞洛書店

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