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七月下旬、夏休みの昼過ぎ、東京(とうきょう)都千代田(ちよだ)区に鎮座する神田(かんだ)明神の上空を黒い霧が覆っていた。
「これは……末鏡がまた発動したのか……。よかろう……ならば、我は末鏡の意思と一体化し、もってその目論見を助けん」
そのとき、神田明神の本殿から男性の声がした。
*
一方その頃、千葉(ちば)県香取(かとり)市香取駅前付近の利根川の河川敷に、四名の男子高校生がいた。
「お前……よくも先公にチクリやがったな……、今日は見せしめだ」
「え、な、何……」
そのうちの一人が別の一人に言った。
「おい、お前ら、そいつを押さえとけ……」
「ああ」
「ちょっとやめ……、な、何をするの……」
二人で、一人の両腕を掴んだ。掴まれた一人の少年は怖がった。
「まずは……そうだな、前に映画で見たんだ、回し蹴りとか、かっこいいよな」
もう一人の少年が言った。
「お、それいいな」
「やってみろよ」
腕を掴んでいた二人も言った。
「や、やめて……」
掴まれていた方の少年が震えながら言った。
「いいぞ……いくぜ」
その前に立っていた少年がうすら笑いを浮かべながら言った。
*
ブーッ!と珠洲のもっていた携帯電話が振動した。彼女は昼食を終えて自室で宿題をしていた。
「あ……新蘭さんだ……」
珠洲はその電話に出た。
「はい……はい……、ええ、わかりました……これから宝心寺に行きます」
彼女はそう言うと電話を切った。
*
珠洲が宝心寺に着くと、美濃と司も既にそこに居た。
「すみません……、また、鬼玉が発生したようなのです」
新蘭は三人と、宝心寺の娘である耐に向かって説明した。
「え……わかりました……」
「また、僕たちの出番というわけですね」
美濃と司が答えた。
やがて他の子どもたちも宝心寺に集まってきた。全員が来たところで新蘭が口を開けた。
「実は、今度の場所はこの京都からはるかに離れて、関東地方なのです」
「え……関東……?」
「そんなに遠くまで行って、大丈夫なんでしょうか……」
珠洲と耐が新蘭に尋ねた。
「はい……光筆の力が衰えたりすることはまず有り得ません……、ただ、慣れない土地の神霊が相手ですから、どの程度の力を持っているのかがわかりません……。皆さんには、また怖い思いをさせてしまうことになるかもしれないのですが……」
新蘭が恐る恐る言った。
「あ……はい、わかりました、気をつけて行きます……」
珠洲が新蘭に答えた。
「みんなも……いいかな……?」
そして彼女は恐る恐る他の子どもたちに尋ねた。
「あ、うん……」
「気をつけて行こう」
雲雀が頷き、唯が呼びかけた。
「わかりました……それでは、移板を使います……」
新蘭は袖から移板を取り出すと、それを額の前に翳した。すると、すぐに弘明と淡水を除いた子どもたちの体は薄い緑色の光に包まれ、そして、その場から光ごと消えた。
*
「ははは……」
香取市の利根川の河川敷で、先ほどの少年が、両腕を押さえられていた少年に向かって高笑いをした。
「ん……」
「なんだ……?」
そのとき、その少年の背後に、一人の、小学生高学年くらいの、朽葉色の小袖を着た女の子が彼の元までやってきた。
「お主たちの鬼玉を我に寄こせ」
その少女は男子高校生たちを見るなり彼らに言った。
「は……?」
回し蹴りをしようとしていた男子高校生はきょとんとした。その間に、少女は右手のひらをすっと立てて彼の胸元の前に出した。すると、胸元に発生していた鬼玉の霧が少しずつその手のひらに吸収され始めた。
「う……い……」
その高校生は胸に急激な痛みを覚え、右手で胸を押さえ、慌てて逃げようとした。
「おっと、逃げても無駄だ……」
少女は彼の腕を掴んだ。
「……?」
その力は少女とは思えないほど強く、高校生はもがいたものの掴まれたままだった。
「学生らよ……お主らもわかっているのではないか……? 偽りの正義を通常の正義と言い続け、逃げ続けていると……」
「な……」
少女の気迫に高校生はたじろいだ。
そのとき、ヒュン!と少女の手のひらの前を一筋の光が通過した。
「な……?」
少女は驚いて手のひらを男子高校生の胸元から除けた。すると霧の吸収も止まった。彼女は光が来た方を振り向いた。するとそこに、六人の子どもたちと新蘭がいた。
「く……天路の従者か」
少女は珠洲たちを睨み付けた。
「末鏡によって惑わされた神霊とお見受けします……あなたはどちらの神霊ですか?」
新蘭が彼女に尋ねた。
「我は犬卒塔婆(いぬそとば)と称する利根川流域に分布する民間信仰の一形態の神霊である。Y字形の生木に経文を書き、墓場の入り口や辻、川原に立てる。多くは女人の安産祈願のために行われている」
その少女は答えた。
「お主らは京の天路の従者か……この者の鬼玉を喰らうという我の目論見を妨害するつもりか」
彼女は続けた。
「神霊が鬼玉を喰らうと時空間に歪みが生じ、現世と幽世のバランスが崩れます……どうか鬼玉を喰らうのはおやめください」
新蘭は犬卒塔婆の神霊と名乗った少女に訴えかけた。
「断る……鬼玉を喰らうことは末鏡に惑わされた神霊に課された使命のようなもの、どうしても妨害するというのなら……我の神能に訴えかけよう」
犬卒塔婆の神霊はそう言うと、長さ十五センチメートル程度の小さな犬卒塔婆を持った右手を上げた。
「え……?」
すると、空から長さ二メートル、直径三十センチメートル程度の巨大な犬卒塔婆が珠洲と美濃の頭上に降ってきた。
「わ……!」
二人はそれをさっとかわした。
「我の神能は我、犬卒塔婆そのものである、とくと喰らうがよい」
犬卒塔婆の神霊は誇らしげに珠洲たちに言った。
そして、再び右手を上げた。すると、上空からまた三個ほどの、同じくらいの大きさの程度の巨大な犬卒塔婆が珠洲たちに目掛けて落ちてきた。
「珠洲ちゃん……!」
「うん……!」
美濃が珠洲に呼びかけ、珠洲がそれに返事をした。そしてすぐに、二人の姿は光に包まれ、そしてその光ごとその場から消えた。
「な……どこだ……?」
犬卒塔婆の神霊は慌てて周囲をきょろきょろと見渡した。その背後に二人の姿があった。
「な……後ろか……光筒の力か!」
犬卒塔婆の神霊が叫んだときには、二人は既に彼女の姿を見つめていた。そして、二人の持っている光筒から薄緑色の光が犬卒塔婆の神霊に向かって飛び出した。
「く……このままでは我が幽世に……持ちこたえられるか……」
その光を見た犬卒塔婆の神霊はそう呟くと慌てて両腕で顔を拭った。すぐに彼女に光筒の光が衝突し、彼女を中心に周囲は煙で覆われた。
「やった……?」
「どう……だろ……?」
その様子を見た雲雀と唯が言った。
「く……我はこの程度で幽世行きとなる神霊ではない!」
そのとき、煙の中から犬卒塔婆の神霊の声がした。
「……!」
それを聞いた子どもたちの表情が一気に強張った。その直後に、煙の中から一筋の光が司に目掛けて飛翔した。
「え……?」
司はそれを見てきょとんとした。その光はすぐに彼の左肩に直撃し、彼は衝動でその場に倒れ込んだ。
「司くん……!」
それを見た珠洲たちは彼の元に駆け寄った。
「う……うう……」
司は仰向けになりながら呻いた。光が直撃した左肩の衣服は血で赤く染まり始めていた。
「雲雀ちゃん……、私と二人で、司くんを治癒しよう」
耐が雲雀に言った。
「うん……」
雲雀もそれに呼応し、自分の持っている光筒を司の左肩に宛がい始めた。
「おっと……天路の従者よ、回復はさせぬ……」
その直後に、彼の背後から犬卒塔婆の神霊の声がした。
「……」
珠洲は耐と雲雀の前に立ち、両腕を左右に広げ、じっと犬卒塔婆の神霊を見つめた。
「珠洲ちゃん……!」
耐はその様子を見て叫んだ。
「二人とも……司くんをお願い……」
珠洲は声を震わせながらもなんとか毅然とふるまおうとした。しかしその目にはうっすらと涙が溜まっていた。
「よかろう……お主から幽世に送ってやる」
犬卒塔婆の神霊は小さな犬卒塔婆を珠洲に向けた。
そのとき、彼女の眼前を一筋の神幹が通過した。
「な……」
犬卒塔婆の神霊も珠洲も驚いてその神幹が来た方を向いた。そこに、蘇芳色の狩衣を着用した男性がいた。
「え……」
「あの、あなたは……」
耐と雲雀も彼を見つめた。
「私はここから東に約一〇キロ離れたところに鎮座する息栖神社の神霊です……。当社は大同二年こと八〇七年より鹿島神宮・香取神宮と合わせて一辺がおよそ十キロの正三角形の一点に位置する、現在は神栖市に鎮座するものです。道祖神である岐神(ふなどのかみ)を祭神とし、香取神宮、鹿島神宮と共に東国三社の一と看做され、明治十年より鹿島神宮の摂社から分離し県社となったものです」
彼は息栖神社の神霊と名乗り、淡々と自己紹介をした。
「この度末鏡の発動により、日本中で神霊が惑わされているようです……、そこにいる犬卒塔婆の神霊もそうですね……」
息栖神社の神霊は続けた。
「え……」
「あ……はい……」
珠洲、唯たちは唖然とした表情になった。それを見た息栖神社の神霊は少しうすら笑いを浮かべた。唯にはそれが不思議に思えた。
「く……息栖だと……!」
犬卒塔婆の神霊は慌てた。
「息栖よ、待ちなさい……!」
そのとき、息栖神社のさらに背後から一筋の神幹が飛翔した。
「え……」
それは耐の脇を通過した。
「あっ……」
耐は青ざめながらそれが来た方を向いた。そこに、そこに、黒の縫腋胞の、弓、箭を携えた、武官束帯姿の一人の二〇歳前後の若い男性がいた。彼は慌てているように窺えた。
「え……誰……」
珠洲たちもその男性の姿を見て不思議に思った。
「おそらくあの者も、末鏡に惑わされた神霊でしょう……、天路の従者殿、ここは私にお任せください」
「はい……」
珠洲たちは頷いた。すると息栖神社の神霊は右手に持っていた蝙蝠をさっと上げた。それと同時に、珠洲と雲雀の頭上に、先端が木の針になった、直径三メートルほどの和傘が逆さになって勢いよく落ちてきた。
「え……」
「――」
二人は慌ててそれをかわそうとしたが、避けきれずそれは二人の腕と足に刺さり、二人は激痛でその場に倒れ込んだ。
「珠洲ちゃん……?」
「雲雀ちゃん……!」
それを見た美濃、耐、唯の三人は慌てた。
「息栖神社さん、これは一体……」
美濃は息栖神社の神霊に詰問した。
「ふ……神霊に向かってさんづけなどと気安く呼ばないでいただきたいものですね……、実は私も末鏡に惑わされているのです……和傘が庶民の間にも広まったのは十八世紀、すなわち天明年間のことで比較的新しいですが、夏の季語となっています。攻撃性にも優れているため、神能として使わせていただきました」
息栖神社の神霊はうすら笑いを浮かべながら言い放った。
「え……そんな……」
それを聞いた美濃は絶句した。
「まだまだ続けますよ……」
息栖神社の神霊は続けて蝙蝠を持つ手を上げようとした。
そのとき、彼の眼前を一筋の神幹が通過した。
「な……」
息栖神社の神霊は驚いてその神幹が来た方を見た。そこに先ほどの武官束帯の男性がいた。
「あの、あなたは……」
美濃はその男性に尋ねた。
「先ほどは失礼いたしました……神幹の手元が狂い、あなた方を射るところでした……、私はこの利根川から南に約二キロの所に鎮座する、香取神宮の神霊です。旧近代社格官幣大社、東国三社の一、宮中の四方拝で遥拝される社の一社で、古の大和王権が東国の際限を支配、監視するために鎮座させたといわれています。おそらく軍神としての性格が強いとされているので私の現世での姿もこのように武官束帯となったのでしょう」
彼は香取神宮の神霊と名乗った。
「香取……さん……?」
美濃は恐る恐るその名を呼んだ。
「はは………これはこれは……」
香取神宮の神霊はニッと笑ってみせた。
「二所宗廟の一、石清水八幡宮や、官幣大社筆頭である上賀茂神社を有する京、山城からみれば、普段は地元の民衆らに神だ、神だと崇められ、畏れられている私も、『香取さん』と親しみを込めて呼ばれてしまうのですな……。それは仕方のないことです。ですが、それほどに神徳のあるものなど何もないのです、われわれの地には。そのことをどうかご理解ください」
「あ……すみません……」
美濃は香取神宮の神霊に謝った。
「いえ……構いませんよ。それより今は……末鏡に惑わされた神霊を幽世に送り返すことのほうが先です」
香取神宮の神霊は美濃に言った。
「あ、はい……」
美濃は頷いた。それと同時に香取神宮の神霊は犬卒塔婆の神霊と息栖神社の神霊を睨んだ。
「な……」
それを見た犬卒塔婆の神霊は怯んだ。香取神宮の神霊はすかさず背負っていた箭を弓に掛け、それを犬卒塔婆の神霊に向けた。
「――」
それを見た犬卒塔婆の黒目が縮んだ。
「幽世に戻れ、惑わされた神霊よ」
「させぬ! 香取の神霊よ」
そのとき、息栖神社の神霊が香取神宮の神霊に向かって神幹を放った。
「……!」
「香取さん……!」
それを見た耐は叫んだ。香取神宮の神霊はその神幹の直撃を受け、その場に倒れた。
「あ……ああ……」
その様子を見た唯は怯えた。
「さて……まだ終わっていないぞ、天路の従者たち……」
犬卒塔婆の神霊がニヤリと笑いながら子どもたちを一瞥した。
「――」
それを聞いた美濃も硬直した。
「神霊さん……待って……!」
そのとき、子どもたちの背後から淡水の声がするとともに、一筋の薄い緑色の光筒の光が犬卒塔婆の神霊の足元に飛来してきた。
「な……!」
犬卒塔婆の神霊は慌ててさっと飛び退いた。美濃、耐、唯の三人は背後を振り返った。そこに弘明と淡水の姿があった。
「淡水ちゃん……!」
「弘くん……!」
三人は喜んで彼らに声をかけた。
「ああ……また酷いことに……」
「手分けして治癒しよう……、僕たちは神霊を鎮魂するから」
淡水と弘明は茫然としながら言った。
「あ、うん……」
耐は頷いた。
「天路の従者の増援ですか……しかし私たちを止めることはできませんよ」
息栖神社の神霊はそう言うと、蝙蝠を振り下ろし、二人に向けて神幹を放とうとした。
「く……!」
弘明はすぐにそれに反応し、息栖神社の神霊の方をぼやりと見つめ、光筒による光を放った。しかし焦点が定まっていなかったためその光は息栖神社の神霊の右上を通過した。
「覚悟せよ、天路の従者……!」
同時に犬卒塔婆の神霊が右手を振り下ろし、二人に向けて神幹を放った。
「え……」
「あ……」
「二人とも……!」
唯が叫んだ。神幹を見た二人は茫然とした。すぐにその神幹は二人の肩と脇に当たり、二人は血を流しながらその場に倒れた。
「弘くん……!」
「淡水ちゃん……!」
美濃、耐も慌てて二人の方を向いた。
「まだですよ……天路の従者よ……」
息栖神社の神霊はそう言うと、蝙蝠を振り下ろし、美濃と耐に向けて神幹を放った。
「――」
「え……?」
その神幹も美濃と耐にそれぞれ直撃し、二人は出血しながら倒れた。
「え……」
それを見た唯は青ざめ、震えながらその場に立ち尽くした。
「さて……お主で最後だな、これでようやく鬼玉を喰らうことができる……」
犬卒塔婆の神霊は唯を睨み、うすら笑いを浮かべながら言った。
「へ……え……」
唯は涙交じりに恐る恐る周囲を見渡した。自分以外の子どもたち全員と香取神宮の神霊は倒れていた。
「あ……ああ……!」
唯は目標もはっきりさせずに光筒の光を放った。それは息栖神社の神霊からかなり離れたところを飛んでいった。
「い……嫌だ……」
唯は恐怖でさらに涙を流した。
「は……まさか……」
そのとき、新蘭が袖から移板を取りだした。能源は満ちていた。
「容赦はせぬ、天路の従者……」
犬卒塔婆の神霊は右手を上げた。
「池田さん、移板行きます……!」
新蘭は叫んだ。すると同時に、子どもたち全員と、男子高校生たち全員と、香取神宮の神霊、新蘭の体は白い光に包まれ、そしてその光ごとすぐにその場から消えた。
「……?」
「なんと……?」
取り残された犬卒塔婆の神霊と息栖神社の神霊は目をぱちくりさせた。
「ふふ……末鏡に惑わされた神霊たちよ、困惑しているようだな……」
そのとき、二人の神霊の背後から男性の声がした。二人が驚いて振り返ると、その上空に黒い霧が展開していた。
「な、何奴……」
二人の神霊は訝しんだ。
「我は東京千代田に鎮座する神田明神の神霊……、祭神に平将門公を有する……この度末 鏡が発動したので、その意思と一体化し、もってその目論見を果たす手助けをせんと願った者……」
黒い霧の中から男性の声がした。
「なんと……」
「神田明神様とな……」
「天路の巫女が使ったのは移板だ……。一度に大勢の者を移動させることができる……しかし移板には霊気の跡が残る……、その跡をつけていけば、再び天路の従者たちにも、そして鬼玉にも会うことができるであろう……」
神田明神の神霊は言った。
「え……」
「これは神田明神殿……ご丁寧にありがとうございます……」
二人の神霊はそう言うとほくそ笑んだ。
*
それとほぼ同時に、とある湖の湖畔に薄い緑色の光が現れ、その中から新蘭を中心として子どもたちと、高校生たちと、香取神宮の神霊の姿が現れた。
「着きました……」
新蘭が皆に言った。
「え……ここは……どこでしょうか……海……?」
周囲の光景を見た唯は奇妙に思った。
「すみません……座標の位置は私も特定していなかったため、ここがどこなのか、私にもわかりません……ですが、移板の性質から何らかの神霊と関わりのある場所に飛ばされた可能性が高いものと思われます」
新蘭は解説した。
「え……でも、ここって……海岸じゃ……?」
唯は腑に落ちない様子で呟いた。
「そうですよね……」
新蘭も自信なさそうに言った。
「え、あ、あそこに……鳥居がありました……」
そのとき、唯が遠方を指しながら呟いた。
新蘭はあらためて前方の湖畔を指差した。そこに朱塗りの簡素な鳥居があった。
「あ、本当ですね……」
「でも、鳥居の奥はただの道ですね……?」
新蘭が言った。鳥居の奥は普通の閑静な住宅街だった。
「あ……それより、みんなを治癒しないと……!」
唯ははっとすると、すぐに珠洲たちの元に向かった。
「あ、あの、巫女さん……」
そのとき、男子高校生たちのうちの一人が新蘭に声をかけた。
「この騒動は……」
「え……? あ、はい……、実は、今回の騒動の原因は皆さんにあるのです」
新蘭は淡々と言った。
「え……?」
それを聞いた男子高校生たちはきょとんとした。
「天路の従者たちよ、それで我らから逃れたつもりか」
そのとき、背後から犬卒塔婆の神霊の声がして、唯は硬直した。
「まさか……もう……?」
新蘭が恐る恐る背後を振り返った。そこに、犬卒塔婆の神霊と息栖神社の神霊の姿があった。
「神田明神から移板のことは聞いた……霊気の跡をつけていけば良いとな。言われた通りだったわ」
息栖神社の神霊は新蘭の怯えた表情を見て鼻で笑いながら言った。
「北浦沿岸の大船津か……香取神宮からおよそ十キロ、こんな何もないところに逃げてどうするというのだ」
犬卒塔婆の神霊も言った。
「いや、それは……、犬卒塔婆よ、この勝負、早めにつけた方がいいと思われます」
息栖神社の神霊が犬卒塔婆の神霊に言った。
「は……? どういうことだ、まあよいが……」
犬卒塔婆の神霊は息栖神社の神霊の発言に訝しみながらも右手を上げた。
「あ……ああ……」
一方彼らの姿を見た唯は怯えていた。
「最後に残った天路の従者よ、お主もこれまでよ!」
犬卒塔婆の神霊は叫んだ。すると、同時に彼の右手から神幹が発せられた。
「待て……!」
そのとき、唯たちの背後、鳥居の方角から一筋の神幹が飛来し、唯に向かって飛来していた、犬卒塔婆の神霊が放った神幹に直撃した。二つの神幹は衝突しあうと互いに煙を出した。
「な……これは……」
犬卒塔婆の神霊と、唯、新蘭はその神幹の来た方角を向いた。そこに、白衣、烏帽子を被り、襟に幣帛を指し、白地に日の丸のついた扇を持った一人の若い男性がいた。
「え……誰……?」
「天路の従者殿、お怪我はございませんか……?」
その男性は唯に向かって呼びかけた。
「あ……はい、大丈夫です……あの、ありがとうございました」
唯は彼に礼を述べた。
「いえ……」
その男性は顔を紅潮させた。
「あの……あなたは……」
新蘭が彼の名前を問うた。
「あ……これは失礼致しました、私はここに一の鳥居を置く、鹿島神宮の神霊です。既にそこにいる香取の神霊からお聞きかと思いますが、大和王権が最果ての地と東国の監視のために鎮座させたと言われている、東国三社の一、官幣大社の一で、四方拝の一社でもあります。祭神の建御雷神(タケミカヅチノカミ)は、香取神宮の経津主神(フツヌシノカミ)同様軍神としての性格が強いです。近世以降、毎年一二月八日に当社の最高巫女の物忌みが託宣を発し、その言を下級神人である事触が関東から東海にかけて正月年頭から諸国を触れ回ったため、これらの地には事触を迎える踊りとして『鹿島踊り』が各地に残っています。私の神霊としての出で立ちも、その事触を再現したものとなっています」
その男性は鹿島神宮の神霊と名乗り、自己紹介をした。
「え……鹿島神宮さん……?」
唯はきょとんとした表情になった。
「天路の従者殿……我を末鏡の暴走を食い止めるのに協力させていただけませんか?」
鹿島神宮の神霊は唯に言った。
「あ、はい……」
「それは私たちとしても願っても無いことです、鹿島の神霊さん、よろしくお願いします」
唯が頷き、新蘭が鹿島神宮の神霊に言った。
「鹿島が来たのか……だが……」
「大和の辺境の神霊でしかないお主程度の加勢で我らの目論見を邪魔させることはできません!」
そのとき、犬卒塔婆の神霊と息栖神社の神霊が鹿島神宮の神霊に向けて言い放つと同時に、右手から神幹を放った。それは鹿島神宮の神霊に向けて飛来してきた。
それを見た鹿島神宮の神霊は扇子を持っていた右手を上げた。
「ちはやふる……」
そしてそう呟いた。それと同時にその扇子から神幹が放たれ、二人の神霊が放った神幹と衝突した。
「天路の従者殿、今です!」
鹿島神宮の神霊は唯に呼びかけた。
「あ……はい……!」
唯はそれに呼応し、犬卒塔婆の神霊と息栖神社の神霊の姿を凝視した。
(……!)
すると、彼女が持っていた光筒には『Iy』と光の文字が現れ、同時に薄い緑色の光を発した。その光は犬卒塔婆の神霊と息栖神社の神霊に向かって飛翔した。
「な……しまった……!」
「これでは我らが幽世に……」
その光を見た二人はたじろいだがどうすることもできず、その光の直撃を受けた。そして、その場から消滅した。
「く……天路の従者……。しかし我はこれでは引きさがらぬ……」
また二人の神霊の背後から神田明神の声がした。しかし彼の霧は次第に晴れていった。
「やった……の……?」
その光景を見た唯が呟いた。
「あ……はい、二人の神霊の霊気が消えました……二人は再び幽世の神として、人々に崇められることでしょう」
新蘭が一行に説明した。
「そうですか……。あ……! そうだ、みんなの治癒を!」
唯は安堵した後、慌てて珠洲の元に駆け寄り、彼女の傷口に光筒を宛がった。するとそこから薄い緑色の光が出現した。程なく、珠洲の意識が回復した。
「あ……あれ、唯ちゃんが助けてくれたの……? やっぱり唯ちゃんは、お姉ちゃんみたいだね……」
珠洲は笑顔で言った。
「そ、そんなことないよ……、私より、珠洲ちゃんの方が、勇気があるよ……」
唯は顔を紅潮させながら否定した。
「あ、あの……、さっきの続きなんですが……」
そのとき、新蘭の元に男子高校生たちがやってきた。
「この騒動が、僕たちの原因だって……」
「はい……そうです……、皆さんは、鬼玉を発生させるようなこと、何か思いあたるふしはありませんか?」
新蘭は高校生たちに尋ねた。
「あ……はい……そういえば、実は僕たちは、いじめを先生に告げ口されたのに腹を建てて、彼をリンチしようとしていて……、そしたら、あの昔の服を着た女の子が出てきて……」
高校生たちのうちの一人が答えた。
「ああ……逆恨みで、あえて人目につかないところでリンチですか……。それは鬼玉が発生しやすい状況ですね」
新蘭は淡々と言った。
「はい……すみません……」
それを聞いた高校生たちは項垂れた。
「あの……、もしかして、皆さんはこれからも、あのような怖い目に遭うかもしれないのですか……?」
彼らのうちの一人が新蘭に尋ねた。
「それは……。……。……はい……」
新蘭も俯きながら答えた。
「そんな……」
「あの、何か僕たちにできることはないでしょうか……」
他の一人が尋ねた。
「それは……、……。そうですね、あの、ええと、池田さん……」
新蘭は唯を呼んだ。
「新蘭さん……? あっ、珠洲ちゃん……」
「……うん、私は大丈夫……」
新蘭の声を聞いて唯は珠洲に声をかけた。それを聞いた珠洲は少し笑いながら言った。
「ごめんね……ちょっとだけ待ってて」
唯は珠洲にそう言うと新蘭の方に向かった。
「池田さん……治癒の途中で呼びだして朝霧さんたちにもすみません……、光筒を、差し出していただけないでしょうか……」
新蘭はやってきた唯に言った。
「あっ……、はい」
唯は自分の光筒を掌の上に出した。
「皆さん……、この筒に手を当てながら、祈っていただけないでしょうか……。もし、他に同じように危ない目に遭った人がいた場合に、その人が無事でいられるように、と……。祈るだけでいいのです……」
新蘭は高校生たちに言った。
「えっ……」
「はい、わかりました……」
高校生たちは唯の光筒に手を当て、少しの間軽く目を閉じた。すると、唯の光筒の頭部が薄緑色に光り、数センチほど伸びた。
「これは……」
高校生たちはそれを見て驚いた。
「これで、池田さんの筒の威力が少しだけ上がりました……。また、この伸びた部分ですが、切り取って他の筒に付けることもできます」
新蘭は彼らに説明した。
「えっ……」
「それはよかったです……」
「あ、あの、他にも、僕たちに何かできることはないでしょうか……?」
他の高校生が尋ねた。
「それは……。今は、皆さんの周り、この、香取で、同じような目に遭ってしまいそうな方を、少しでも減らしていただくことくらいしか……」
そう言いながら新蘭は俯いていった。
「え……」
「わかりました……。最初はヒーロー呼ばわりされてしまうかもしれないですが……努めます」
「でも……微力ですみません……」
高校生たちも頷き、そして俯いていった。
「あ、いえ……」
そのとき、唯が声を上げた。
「え……?」
高校生たちは顔を上げ唯の方を向いた。
「ここ香取にいる皆さんが応援してくださってうれしいです……。あ、あの、ありがとうございます」
唯は照れながらもはきはきと彼らに礼を言った。
七月下旬の夕暮れ時、東京都千代田区赤坂(あかさか)のとあるビルのオフィスで、若い男性がデスクに座っていた中年の男性に声をかけた。
「部長……、今月は多忙のようですが、このままいくと今日で私の残業時間が法令で定められた月四五時間を超えます。速やかに対策を取ってください。私は今日は定時で帰らなければなりません」
「なんだと……! それはだめだ!」
デスクに座っていた男性は怒鳴った。
「お前は確か畿域の出身だったな……だからそんな個人主義的なことを言っているのかもしれないが、今まで誰もそんなことで文句を言ってきた奴はいないし、残業時間の法令違反などおそらくどこでもやっている! 畿域と違い、ここ武蔵野で大事なのは集団主義で周囲と歩調を合わせることだ……! さぁ、今日も遅くまで残るんだ」
「しかしそれではコンプライアンスが……」
「そんなものはどうでもいい! さっき言っただろう! 大事なのは集団主義だと! 個人に一人一人備わっている理性などどうでもいい! ここで大事なのはただ全体に流されることだ! これ以上口答えするな!」
その男性はなおも怒鳴った。そのとき、彼の胸元に黒い霧が発生した。
「もういい……ちょっとコーヒーを飲んでくる……。いいか、勝手に帰るんじゃないぞ」
彼はそう言い放つと部屋を出た。
(上方など……。東方では、たとえ雪崩が発生していたとしても、雪崩から逃れることよりもそれをアナウンスする者を攻撃することこそが正しい……!)
そして、思案しながら歩道に出た。ところが歩道には彼の他には誰も人がおらず、また車道に自動車もなかった。
「……?」
「お主の鬼玉を我によこせ……」
その男性が不審がっていると、彼の背後から若い男性の声がした。彼が振り返ると、そこに浅葱色の狩衣を着た男性がいた。
「な……?」
会社員の男性が驚いているうちに、その狩衣の男性はつかつかと彼の前までやってきた。そして彼の胸元から発生していた鬼玉を吸い始めた。
「う……あああ!」
会社員の男性は痛みで悲鳴を上げた。
*
同じ頃、宝心寺に珠洲、美濃、耐、司の四人が集まり、夏休みの宿題をしていた。
「ふう……疲れたね……」
「そうだね……ちょっと休憩しよう……」
司と珠洲が言った。
「あ、それじゃジュースのおかわりもってくるね」
「わ、ありがとう」
耐の言葉に美濃が礼を言った。
「あの、皆さん……」
その直後に、その部屋に新蘭が入ってきた。
「あれ、新蘭さん……?」
「あの、皆さん、申し訳ありません、また鬼玉が発生してしまいました……」
新蘭は俯きながら言った。
「え……、あ、別に大丈夫ですよ」
「はい……、そうです。雲雀ちゃんたちも呼んで、行きましょう」
珠洲と美濃が答えた。
「あの……、それで、今度の場所はどこなんですか?」
司が新蘭に尋ねた。
「実は……東京都内なのです」
「え? 東京?」
「また、遠いですね……」
耐と司は驚いた。
「すみません……」
新蘭は詫びた。
「あ、いえ、大丈夫ですよ」
珠洲が彼女を気遣った。
数十分ほどして、雲雀、唯、弘明、淡水の四人も宝心寺にやってきた。
「それでは……先に六名の皆さん、参りましょう」
新蘭が言った。
「はい……」
珠洲たちは頷いた。すぐに弘明、淡水を除く六人の子どもたちの姿は白い光に包まれ始めた。
*
「くそ……何なんだあいつは……、く……来るな! 来るなぁ!」
千代田区赤坂の歩道で、会社員の男性は狩衣の男性の腕を振り払い、彼から逃げていた。
「逃げても無駄なこと……。お主自身も気づいているのではないか、偽りの正義を正義と言い続けて逃げていることに……、自然科学に驕る体育系思考に染まっていることに」
狩衣の男性も彼の後を追ってきた。人も車両も道路には全くなかった。
そのとき、一筋の薄い緑色の光が狩衣の男性の眼前を通過した。
「……!」
狩衣の男性も、会社員の男性もそれを見て足を止めた。二人が背後を振りかえると、そこに六人の子どもたちと新蘭がいた。
「く……天路の従者か……」
「あなたが……末鏡に惑わされた神霊ですね……、失礼ですが、どちらの神霊ですか?」
珠洲が狩衣の男性に尋ねた。
「我はこの近く、永田町二丁目に鎮座する日枝神社の神霊である……、江戸三大祭りの一つ、山王祭を執り行う。大山咋神(おほやまくひのかみ)を主祭神とし、江戸城の裏鬼門に鎮座し、江戸城鎮護の神社としても知られている。……大正元年、東京の神社としては初の官幣大社となった。東京で官幣大社であるのは我と明治神宮のみである……」
その狩衣の男性は日枝神社の神霊と名乗った。
「日枝神社さん……東京初の官幣大社ですか……、現幽のバランスの崩壊に繋がります、鬼玉を喰らうのはどうかおやめください」
新蘭は彼に言った。
「ほう……ならば、実力で止めてみてはどうだ……!」
そう言うと日枝神社の神霊は右手にしていた蝙蝠を上げ、そこから神幹を発した。
「わっ……!」
それは雲雀の方に向かって飛翔した。しかし次の瞬間、彼女と唯の姿はその場から消えていた。
「……?」
その様子を見て日枝神社の神霊は左右をきょろきょろと見た。
「後ろか……!」
そして叫んだ。彼の背後に、光筒で移動した雲雀と唯の姿があった。
「唯ちゃん……!」
「うん……!」
二人の少女は呼応し合った。
(彼を視界に入れて……)
(撃って……!)
雲雀と唯は光筒を持つ手を前に出すと念じた。するとそこから日枝神社の神霊に向けて薄い緑色の光線が発せられた。
「な……これでは私が幽世送りに……持ちこたえられるか……!」
日枝神社の神霊は顔を袖で拭った。光筒の光は彼に直撃し、周囲を煙が俟った。
「やった……?」
珠洲が呟いた。そのとき、雲雀と唯の上空一〇メートル程度のところに直径一メートル程度の巨大な火の玉が出現し、二人に向かって飛来してきた。
「二人とも、上!」
美濃が驚いて叫んだ。
「え……」
「あ……」
二人は慌ててそれをかわそうとしたが、それぞれの肩に当たった。
「あつっ……!」
二人は火傷を負い、その場に倒れた。
「危ないところだった……。七十二候第三十五番に、土閏いて溽暑(じょくしょ)すとある。溽暑とは蒸し暑さのこと。その火球はその結晶だ……。次はお主たちの番だ……!」
日枝神社の神霊はそう言うと再び蝙蝠を持つ手を上げた。
「……!」
それを見た珠洲たちは硬直した。
「――!」
そのとき、一筋の神幹が日枝神社の神霊の前を通過した。
「な……」
日枝神社の神霊も、珠洲たちもその神幹が来た方を向いた。そこに、黒の法衣に輪袈裟をつけた若い僧侶が立っていた。
「え……」
「誰……」
子どもたちは彼の姿を見てきょとんとした。
「私は台東区上野桜木にある天台宗関東総本山寛永寺の神霊です……、東の比叡山の意を込めて東叡山(とうえいざん)の山号があります……、本尊薬師如来、徳川将軍家の菩提寺で、江戸城の鬼門の方向にあります」
その僧侶は寛永寺の神霊と名乗り、淡々と答えた。
「へぇ……」
子どもたちはそれを頷きながら聞いた。
「末鏡に惑わされた神霊がいると感じ、ここまでやって参りました……、天路の従者の皆さま方……、私に神霊の鎮魂を手伝わせていただけないでしょうか」
寛永寺の神霊は子どもたちに言った。
「え、あ、はい……」
「それは……私たちにとっても歓迎したいとです」
美濃と珠洲が答えた。
「ありがとうございます。では……」
寛永寺の神霊は右腕を上げようとした。
「寛永寺……待ちなさい……!」
そのとき、珠洲たちの背後から若い男性の声がするとともに、一筋の神幹が飛来してきた。
「――!」
それは耐の頬を掠めた。寛永寺の神霊はそれをさっとかわした。
「あっ、しまっ……」
その男性は慌てているように見えた。
「え……誰……」
司はその男性を見て訝しんだ。
「天路の従者の皆さま……あなた方を狙うとは、あの者も末鏡に惑わされた神霊に違いありません……、日枝神社の神霊共々鎮魂いたしましょう」
寛永寺の神霊はそう言うと、さっと右腕を上げた。すると珠洲と耐の頭上に、陶磁器でできた直径五〇センチメートル、短冊一メートルくらいの巨大な風鈴が出現し、二人に向かって落下してきた。
「……!」
「あ……」
気配を感じた二人はそれをかわそうとしたが、陶磁器の部分が二人の肩と頭にそれぞれ直撃し、そのまま二人はその場に倒れた。
「二人とも……!」
「え……寛永寺さん、これは一体……」
司と美濃は慌てるとともに寛永寺の神霊に詰問した。
「ふ……それは、私も末鏡に惑わされている神霊だからです!」
寛永寺の神霊はうすら笑いを浮かべながら言った。
「え……」
「そんな……」
司と美濃は絶句した。
「さて……お二人で最後ですね」
寛永寺の神霊はまた右腕を上げようとした。そのとき、彼の前を神幹が通過した。
「……!」
彼と司、美濃が驚いてその神幹が来た方を向くと、そこに先ほどの黒の狩衣を着た若い男性がいた。
「え……」
「あの、あなたは……?」
美濃と司は彼の名を問うた。
「私は千代田区九段北に鎮座する招魂社、靖国神社の神霊です。英霊約二四六万柱、うち大東亜戦争が全体の約八五パーセントを占める二一三万柱です。公人の参拝が政治問題化するにつれ、どういうわけか私が神道を代表する神社であるかのような誤解を受けることもしばしばありますが……、あくまで私はしょせんは別格官幣社、あまり神経質にならずに気軽に参拝していただければ幸いだと思っております……」
その男性は靖国神社の神霊と名乗った。
「あ……靖国さんでしたか」
美濃が相槌を打った。
「あの……靖国さん、さっき耐ちゃんを狙ったのはどうして……」
司が尋ねた。
「あ、それは……申し訳ございません、寛永寺を狙うつもりが、単純に手元が狂ったのです。私は末鏡に惑わされてはおりません……」
靖国神社の神霊は釈明した。
「く……靖国……招魂社とは少し厄介ですね……ですがしかし鬼玉をいただくという私たちの目論見に変わりはありません……!」
寛永寺の神霊はそう言うと靖国神社の神霊に向かって神幹を放った。
「靖国さん……!」
「……く!」
美濃が叫んだ。靖国神社の神霊はその神幹をさっとかわすと、右手にしていた蝙蝠をさっと上げ、寛永寺の神霊目がけて神幹を放った。
「させません……!」
寛永寺の神霊はその神幹をさっとかわした。そのとき、日枝神社の神霊も蝙蝠を上げ神幹を放った。
「――!」
靖国神社の神霊はその神幹に気づくのが遅れ、その直撃を受け、その場に倒れた。
「靖国神社さん……!」
美濃と司は慌てて彼のもとに駆け寄ろうとした。
「おっと……待て、天路の従者たち」
そのとき、日枝神社の神霊が二人に声をかけた。二人はその場に立ち止まった。
「今度こそ幽世送りにしてくれる……」
そう言うと日枝神社の神霊は蝙蝠を上げようとした。
そのとき、また彼の前を一筋の薄い緑色の光が通過した。
「な……!」
日枝神社の神霊と美濃、司がその光が来た方に顔を向けると、そこに弘明と淡水がいた。
「弘くん……」
「淡水ちゃん……!」
美濃と司は喜びながら二人の名を呼んだ。
「また酷いことになってる……」
「うん……なんとかしないと」
弘明と淡水は言い合った。
「天路の従者の増援か……おのれ……!」
日枝神社の神霊はそう言うとまた蝙蝠から神幹を放った。
「弘くん……!」
「……!」
弘明はその神幹に気づくと、慌ててそれをかわして同時に光筒による光を日枝神社の神霊に向けて放った。しかし彼は日枝神社の神霊の姿をよく見てはいなかった。光筒の光は日枝神社の神霊の脇を掠めた。
「く……!」
そのとき、寛永寺の神霊が神幹を放った。
「え……」
その神幹は弘明の脇に直撃した。彼は出血するとともにその場に倒れた。
「弘くん……!」
美濃と司が驚いて彼の元に駆け寄ろうとした。
「まだまだだ……天路の従者……!」
続けて日枝神社の神霊が二人に向けて神幹を放った。
「あ……」
「ひっ……」
その神幹は二人の肩と腰に当たった。二人もその場に倒れた。
「え……あ……」
その様子を見た淡水は怯えながらも光筒を日枝神社の神霊の方に向けた。
「ふふ……周囲をよく見てみるがいい……、残された天路の従者はお主一人だ……お主だけで何ができるというのだ……」
日枝神社の神霊はうすら笑いを浮かべながら淡水に言い放った。
「え……」
淡水は言われるがままに周囲を見渡した。日枝神社の神霊の言う通り、自分以外の全員の子どもたちと、靖国神社の神霊は倒れていた。
「あ……」
淡水は恐怖で涙交じりに震えた。
「あ……まさか……」
そのとき、新蘭が袖から移板を取りだした。
「これで終わりです、天路の従者……!」
続けて寛永寺の神霊が腕を振り上げた。
「――!」
淡水は強く目を閉じた。
「淡水さん……、皆さん、移板を使います……!」
同時に新蘭が移板を額の前に翳した。するとその直後に、淡水を含めた子どもたちと、靖国神社の神霊と、会社員の男性の姿は白い光に包まれ、そしてその光ごとその場から消えた。
「何……!」
「これは……?」
残された日枝神社の神霊と寛永寺の神霊は目をぱちくりさせた。
そのとき、彼らの背後の空中に黒い霧が舞い始めた。
「ふふ……困惑しているようだな……」
その霧の中から神田明神の声がした。
「な……何者……」
二人の神霊はその声の主の名を尋ねた。
「我は神田明神の神霊……末鏡の意思と一体化した者だ……。我の目的はそなたたちと同じだ、案ずることはない……。天路の巫女が使ったのは移板だ……一度に大勢の人数を遠距離に移動させることができる……。しかし使うには大量の能源を必要とする上、移板が通った跡には霊気の跡が残る。その跡をつけていけば、再び天路の従者らにも……そして鬼玉にも遭うことができるであろう」
神田明神の神霊は二人の神霊に説明した。
「なるほど……」
二人の神霊はそれを聞いてほくそ笑んだ。
*
夕暮れ時、とある人工林の中に直径一〇メートル程度の大きさの白い球体の光が出現した。その光はすぐに消え、その中から天路の従者の子どもたちと、新蘭、靖国神社の神霊、会社員の男性の姿が現れた。
「え、ここは……」
「すみません……、急ぎでしたので、また行き先は指定していません……、ですが何らかの霊的に関わりの深い場所であると考えられます……」
新蘭は淡水に言った。
「あ……そうだ、みんなの治癒をしないと……!」
淡水ははっと気づくと、急いで弘明の元に駆け寄った。
「た、淡水ちゃん……」
そのとき、同じように横たわっていた唯が淡水を呼んだ。
「唯ちゃん?、ご、ごめん、ちょっとだけ待って……」
「あっ、いいの、じゃなくて、私の光筒……。前の、香取のときから、筒爪がついてて……、これ、使って……」
「えっ……? あっ、うん、ありがとう……」
淡水は慌てて唯の手元の光筒を手に取り、その筒爪を自分の光筒に付けた。
「あの……この騒動は一体……」
そのとき、会社員の男性が恐る恐る新蘭に尋ねた。
「あ……、それは、あなたの行いに原因があるものと思われます……」
新蘭は淡々と言った。
「へ……俺の……?」
その男性は憔悴した。
「お主たち……それで逃げ切ったつもりか?」
そのとき、彼らの背後から日枝神社の神霊の声がした。淡水はびくっと震えて振り返った。そこに寛永寺の神霊もいた。その背後には黒い霧が展開していた。
「やはり神田明神の言った通りでしたな……」
「く……また末鏡の意思と一体化した神霊の誘導ですか」
新蘭が悔しそうに言った。
「その通りです……さて、天路の従者……残るはあなた一人ですね、これでようやく鬼玉をいただくことができます……、あなたには幽世に行ってもらいましょう」
寛永寺の神霊は勝ち誇った様子で右腕を上げた。
「――」
それを見た淡水は目に涙を溜め、震えながらその場で硬直した。
「寛永寺、待ちなさい……!」
そのとき、彼の眼前を一筋の神幹が通過した。
「な……」
「今度は誰だ?」
それを見た二人の神霊は、訝しみながらその神幹が来た方角を向いた。そこに、黄土色に近い黄櫨染(こうろぜん)の束帯を着用した男性がいた。
「……! 黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)?」
「天皇にしか着用が許されていないものを……、お主、何者だ!」
二人の神霊はそれを見て驚いた。
「それは……私がここ、明治神宮の神霊だからです。一九二〇年、当時の熱心な市民の皆様の要望で創建、東京で、あなた、日枝神社と並ぶ二つの官幣大社のうちの一つですね……。祭神は明治天皇と昭憲皇太后、二二万坪にも及ぶ境内は、戦後では自然と触れ合う機会など殆どない東京都心の緑地として皆さんから親しまれていますね……」
その男性は明治神宮の神霊と名乗った。
(明治さん……私の祖国台湾の日治時代の天皇さん……?)
淡水はまじまじと彼を眺めた。
「く……明治神宮ですか……しかし私たちの目論見を邪魔する者には容赦はしません…y…!」
寛永寺の神霊はそう言うと、明治神宮の神霊に向けて神幹を放った。
「……!」
明治神宮の神霊はそれをさっとかわすと、右手にしていた笏を振り上げ、そこから二人の神霊に向かって神幹を放った。
「な……!」
二人の神霊は慌ててそれをかわした。
「天路の従者殿、今です……!」
明治神宮の神霊は淡水に向かって叫んだ。
「あ……はい! 明治神宮さん、ありがとうございます!」
淡水は返事をするとじっと光筒を持つ手を前に出した。
(銃の扱いが下手でもいい……、でも、狙いをちゃんと見つめて……撃って!)
彼女は心の中で念じた。すると彼女の持っていた光筒から光弾が飛び出し、日枝神社の神霊、寛永寺の神霊二人の体を貫通した。
「あああ!」
「うう……」
二人の神霊は雄叫びを上げた。同時に彼らの周囲を煙が俟った。煙が散ったとき、二人の神霊の姿は消えていた。
「終わった……?」
淡水は恐る恐る呟いた。
「はい……二人の神霊の霊気破完全に消えました……」
新蘭が彼女に答えた。
「……?」
そのとき、淡水は自分の光筒が少し軽くなっていることに気付いた。見ると唯からもらった筒爪が消えていた。
(あれがなかったら、また危なかったのかな)
淡水はそれを見て苦笑した。
「あ……そうだ、みんなの治癒を……!」
直後に、彼女ははっとして弘明たちの元に向かって走っていった。
「あの……先ほど、この騒動の原因は私にあると仰いましたが……」
そのとき、会社員の男性が新蘭に話しかけた。
「はい……そうですが……」
「実は、私の会社の部署では、部下たちに法令違反の超過残業を強いていまして……それを指摘した者を逆に私は糾弾してしまい……あれがいけなかったのかもしれません……」
会社員の男性は項垂れた。
「ああ……、それは確かに鬼玉が発生しやすい状況にあると言えますね」
新蘭は淡々と、しかししっかりとした口調で言った。
「すみませんでした……。あ、あの……」
男性は詫びの言葉を口にするとともに、新蘭に呼びかけた。
「えっ……」
「皆さんには、これから後も、このような恐ろしい戦いが続くのでしょうか」
「それは……。否定できないです……」
彼女は俯いた。
「そんな……」
男性もそれを聞いて表情が曇った。
「あ、あの、僕に何かできることはないでしょうか」
「それは……。そうですね……、ええと、あの、謝さん、すみません」
新蘭は淡水を呼んだ。
「えっ……、あっ、弘くん……」
「うん……」
淡水の呼びかけに弘明は頷いた。それを見て淡水はすぐに新蘭の元に駆け寄った。
「すみません……光筒を出していただけないでしょうか」
「えっ、あ、はい」
淡水は掌に光筒を乗せた。
「この筒に軽く手を宛てて……祈っていただけないでしょうか。もしも、また、あなたと同じように、危険な目に遭う人がいたら、その人が、どうか無事でいられますように、と……。祈るだけでいいのです……」
「え、わ、わかりました……」
男性は新蘭に言われた通り淡水の光筒に触れ、そして目を閉じた。するとすぐにその光筒の頭部が数センチほど光りながら伸びた。
「……? これは……」
その気配に気づいた男性は目を開けて驚いた。
「これで……彼女の光筒は少し威力が上がりました」
新蘭は男性に説明した。
「そ、それはよかったです……。あの、他には何か……」
彼はさらに訊いた。
「それは……。今は、あなたの周囲で、あなたと同じように、鬼玉を発生させてしまいそうな方に注意をしていただくくらいしか……」
「そ、そんな……。わかりました。とはいえ、このくらいのことしかできずすみません……」
男性は項垂れた。
「あっ、いえ……」
そのとき、新蘭の傍にいた淡水が軽く声を出した。
「……?」
男性は不思議に思って再び顔を上げた。
「あの、応援してくださってありがとうございます、うれしく思いますっ」
彼女は少し紅潮しつつも微笑みながら男性に礼を述べた。
2019年2月3日 発行 初版
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※ アイコンの上半分の拾い物のイラストはつばさちゃんっぽいですが、小説の珠洲ちゃんの外見イメージにも近いです。