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 女渡世人、やさぐれ同心、錺簪師、お庭番に酌女・・・
武士も町人も、不器用にしか生きられない男と女。男が呻吟し女が慟哭する・・
 剣が舞い落花が散り・・・時代小説の愉しみ

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時代小説の愉しみ

齊官英雄

啓英社



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次

第一話 女渡世人

第二話 やさぐれ同心

第三話 錺簪師

第四話 お庭番と酌女

 第一話 女渡世人

          (一)

 大川沿いの通りには、今を盛りと咲き誇る桜の木々が両側に立ち並んでいた。時折、そよ吹く風に花弁がひらひらと舞い落ちる長閑な暖かい夕暮れであった。
宿場から少し離れた大川原で、遊び人風の男三人を相手に立ち回っている若い女が居た。
立ち回るというよりは、男の振り回しているドスの下で、一瞬、逆手に持った撥をさっと一閃させて、忽ちのうちに稲妻の如くに三人を斬り伏せた。女はそのまま裾についた土砂を払うと、傍らに置いた三味線と小さな振分け荷物を小脇に抱えてゆっくりと立ち去りかけた。川面にきらきらと照り映える煌きよりも速い瞬時の出来事であった。川原には、眼を切られて転げまわる男、耳の下の血筋からどろどろと血を流してのた打ち回る男、喉元を掻っ切られて既に息絶えた男が居た。屈強な男三人で一人の若い娘を手篭めにしようとした外道に対する女の憤怒のような仕打ちであった。
 女は半月形の編み笠を少し上に傾げて、ゆっくりと空を仰いだ。
歳のころ二十三、四歳、切れ長の涼やかな眼にツンと先の尖った鼻、鬢のほつれ毛が二、三本、額から口元へ風に揺れて、惚れ惚れする艶やかないい女であった。が、女の顔にはもの悲しい暗い表情が貼り付いていた。
傍らで慄きながら様子を見ていた十七、八歳の若い娘が、我に返ったように、慌てて女の傍へ駆け寄った。
「危ないところをお助け頂き、有難うございました」
娘は深々と頭を垂れた。
「わたくし・・・」と言いかけた娘の言葉を女が遮った。
「名乗るのはお止しなさい。有ること無いこと、何処でどんな噂になるやもしれません。
嫁入り前に差し障りがあってはいけませんからね」
「いえ。是非、我が家へお立ち寄り頂いて、お父っつぁんやおっ母さんからもお礼のご挨拶をさせて頂きたいと思います」
「わたしゃそんな大それたことをした訳じゃありません。どうぞもうお気遣い無く」
「それでは、あんまり・・・。では、せめてお名前だけでも」
「堅気のお人に、名乗るほどの者じゃござんせんよ、お嬢さん」
微笑んだ女の色白の両頬に、小指が入るほどの笑窪が浮かんだ。
女は、ふわっと春風に吹かれるように歩き出した。その後姿に孤愁の翳りが漂っている。孤独に生き、日々流離って来た流れ者、渡世人特有の雰囲気であった。
堤の上の通りには数人の見物人がそれまでの様子を眺めていた。
女は何処を見るとも無く視線を伏せて急ぎ足に川岸を歩き出した。やがて川沿いの右向こうの山の麓に小さな寺が見えた時、女は立ち止まってきらきら輝く水の流れに見入った。西に傾きかけた陽射しが赤く水面を照らしていた。沈黙を守る山寺と悠久の流れを見せる大川、その自然が人に語りかけるのは無常の寂寥感であった。女は虚無的な眼で川面を流れて行く桜花を追った。
 堤の上の川沿いの道に出て足早やに歩き始めた女の後を、ずうっと従いて来る微かな足音があった。
「其処の姐さん、一寸お待ちなせぇ」
声をかけたのは土地の博打打ちで柴宿の富蔵という親分であった。丁度所用からの戻り道で川原の一件に出くわし、余りに見事な遣り口を見て声を掛ける気になったのだった。
「どうです?あっしの処へ草鞋を脱いで、ゆっくりなすっちゃ貰えませんか」
聞いた女は直ぐに小腰を屈めた。
「お言葉有難う存じます。が、わたくし、ちと急ぐ旅でございますれば、ご辞退させて頂きます」
其の儘、名乗りもせずにすたすたと脇道へ折れようとした。
「まあ、待ちねぇな。あっしの処が不都合なら、こう致しやしょう。この先の宿場にあっしの懇意にしている旅籠がござんすが、其処へ泊ってやっちゃ呉れませんか、もうおっつけ日も暮れる頃ですしね」
「そうですか。そうまで仰って頂いちゃあ、痛み入ります。とても旅籠に泊れるほどの身じゃござんせんが、親分さんのお言葉、有難く頂戴させて頂きます」
そこで初めて女は顎の紐に手をやって編み笠を外り、自分から名乗った。
「人様のご門前で合力を乞う鳥追いの倫と申すしがない旅渡りでございます。以後宜しくお見知り置きを願い上げます」
「それじゃお前さんが鳥追いのお倫さん、否、あの居合いのお倫さんなのか」
富蔵は吃驚したように改めてお倫の顔を繁々と眺めた。
旅籠への道すがら、二、三歩後ろを離れて歩くお倫に、富蔵は上機嫌で話し掛けた。
「それにしても大した腕だな、お倫さん。仕込みの刀にゃ手も掛けねぇで、撥一つでああもあっさりと三人もの相手をやっちまう。これほど腕の達者な女が居るものかと俺ぁ吃驚するよりも感心しちまったぜ、全く」
お倫は何も言わずに軽く受け流す態だった。
 旅籠の暖簾を潜るなり富蔵は中へ大きな声を掛けた。
「お~い、富蔵だ、亭主は居るか」
出て来た妻女らしい女が丁重に出迎えた。
「これはこれは、富蔵親分、ようこそいらっしゃいました。ささ、どうぞお上がりになって下さい」
「いや、今日は俺じゃねぇ、お客人は此方の姐さんだ。大事なお客人だから粗相の無いように十分気をつけろよ。部屋は一番奥の静かな所を、な、頼んだぞ」
「はいはい、いつも有難うございます」
「お倫さん、勘定は俺が払っとくから、気兼ね無くのんびりしておくんなせぇ」
富蔵はそう言って得々として帰って行った。
宿の主に勧められて入った湯の中で、たゆたう湯煙の向こうに、夕間の川原で助けた娘の姿と重なって、五年前のあの忌まわしい出来事がゆらゆらと甦って来た。お倫の心は今夜も激しく逆立った。

          (二)

 五年前、お倫は未だ十八歳になったばかりであった。
雲ひとつ無いよく晴れた一日、仲の良い町家の娘三、四人と、城下外れにある県神社の秋祭に出かけた。神社へ続く道の両側には食べ物や細工物、身の回り品や子供の玩具等の露店が所狭しと軒を連ね、境内には幟や旗が立ち並んで、城下一の大祭とあって大勢の見物人が押し寄せ、ごったがえしていた。
 お神楽を見物し、神輿の練り歩きを見、餅撒きの餅を拾い、おみくじを引いて、露天を覗いているうちに、気がつけば仲間たちと逸れてしまっていた。日は既に西に傾きかけている。お倫は慌てて仲間達を探したが、溢れかえる人混みの中では見つけようも無かった。
お倫は急いで家路へと歩を進めたが、参道を抜け、村を抜けて、商家の並ぶ我が家まで帰り着くには、小半刻を要する道のりであった。
 参道を出て、田圃や畑が両側に拡がる広い道に差し掛かった時、酒に酔った二人の浪人者に道を塞がれた。爪楊枝を口に咥え、濁った眼でお倫を見た二人は、やにわにお倫を桑畑の連なる脇道に連れ込んだ。道には未だかなりの通行人があったが、酔った食い詰め浪人二人を相手にお倫を助けてくれる者は誰一人として居なかった。誰もが見て見ぬ素振りで急ぎ足に遠ざかって行った。
 お倫は必死に抗った。赤い鼻緒の草履が脱げ、髪飾りの根掛が落ちた。しかし、屈強な侍崩れの男二人に若い娘が一人では到底抗い切れなかった。お倫は地面に押さえつけられた。直ぐに帯が解かれて長く延び、着物は肩からずり落とされた。お倫は凄まじい叫び声で助けを求めた。一人の男がお倫の口を塞いだ。お倫は眉根を寄せて激しく首を振ったが、男は両膝でお倫の左右の腕を押さえつけた。後の一人がお倫の足を一本ずつ持って拡げ、着物の裾を捲った。赤い襦袢の中からお倫の白い太腿が露わになった。お倫は男達の手を逃れようと必死に足を蹴り上げようともがいたが、押さえられた男の力でそれも敵わなかった。左右の腕を押さえていた男がお倫の上に被さって来た。
「嫌やあ~!」
お倫の絶叫が虚しく夕暮れの空に吸い込まれて行った。
 事が終わって、淫猥な笑い声を残した男達が立ち去った後、身も心もボロボロになったお倫は、そのまま、桑畑の向こうを流れる大川に身を投げた。お倫の身体は、川筋が大きく右へ折れ曲がる溜りで対岸へ流され、川の水が白く砕けている石岩の根元に引っかかって止った。
 対岸で悠ったりと釣り糸を垂れていた老剣客菅谷十内が川上へふっと視線を投げた時、石岩の根元に何かが引っかかっているのが見えた。
黒く流れているのが髪の毛、引っかかっているのが赤い着物、白く漂っているのは女の裸身と解った途端、十内は川岸を走り出した。齢五十半ばの老客とは思えぬ素早い身のこなしと疾走であった
ああ、陵辱されたな、と一目で判った。長襦袢を腰から下に巻きつけて、両足をしっかりと腰紐で縛り、覚悟の入水であろう。腰に巻いた白い襦袢の腿の付け根の辺りに血痕が残っていたが、他に外傷は無いようであった。
 十内は娘を川原へ引上げると、防寒と雨除けに羽織っていた厚手の陣羽織を脱いで、その身体をすっぽりと包んでやった。更に十内は、丁度折良く堤の上を通りかかった荷車を引いた農夫に頼んで、娘を直ぐ近くの自分の庵へ運び込んだ。娘は二十歳くらいであろう、色の白い柔らかな肌の解けてしまいそうな美人であった。
「お光、お光は居らぬか」
「は~い、先生、お帰りなさい」
庵の奥から二十二、三歳の若い女が走り出て来た。
「まあ、お倫ちゃんじゃないの!」
顔を確かめたお光が眼を見張った。娘は庵から少し離れた先の宿場で、最も大きい土産物屋を営んでいる「福元屋」の姉娘であった。
「この娘を知っているのか、お光。それじゃ直ぐにその福元屋とやらに知らせてやってくれ。必ず主人かかみさんに直接知らせるのだぞ。店の者に言うのじゃないぞ」
「解かりました、先生。では、一走り知らせに行って来ます」
 程無くしてお光は福元屋の主人善右衛門と妻の美禰を連れて戻って来た。
善右衛門と美禰は驚愕した。何が起こったかは一目瞭然であった。
妻の美禰は取り乱したが、主人の善右衛門は、さすが大店の主人で、直ぐに落ち着きを取り戻した。
「菅谷先生、誠に勝手なお願いで恐縮ですが、この娘を暫く此方様で静養させてやっては戴けませんでしょうか」
「当方は一向に構わぬが、じゃが、何故にかな?」
「はい。身体は程無く回復するでしょうが、精神的な痛手は計り知れないほど大きなものがございましょう、心身が少し癒えるまで暫くの間、誰にも会わせないでそっとしておいてやりたいと思いまして。店には奉公人も居りますし、お客様も大勢いらっしゃいます。何かと口さがないことも有りますので・・・。勿論、お礼の方はきちんとさせて頂きます。どうぞ宜しくお願い致します」
十内にも特段異論は無かった。むしろ、口さがない他人の好奇の眼に晒すより、この庵でゆっくり静養させてやる方が娘にとっては良かろうと考えた。
福元屋夫婦が引き返してから一刻ほどして、十両の金子と娘の着替えを妻女の美禰が持参した。
 お倫は七日ほど寝込んだ。善右衛門の言った通り、身体は間も無く回復したが、精神的な衝撃が酷くて病人同然であった。食欲も無いし誰にも会いたがらない、無理も無いことであった。
無論、本人は何があったのかを喋ろうとはしなかった。が、誰が見ても何が起こったかは一目で判った。福元屋の主人善右衛門はこの不慮の出来事を隠し通すことに全力を注いだ。使用人たちには、娘は身体をこわして転地療養に出かけていると言った。他に事実を知っているのは娘を助けた菅谷十内とお光だけであったが、善右衛門はこの二人の人柄にはそれなりの信頼を置いたようだった。
 程無く、善右衛門夫婦が徹底して隠し通そうとする理由が判った。お倫の婚約が既に整っていたのである。相手は隣の宿場で手広く商いをしている太物問屋の次男であった。今年の暮には、その次男を福元屋の婿に迎えることになっていると言う。この出来事が先方の耳に入れば、お倫の縁談は破談になるし、理由が世間に知れ渡れば、お倫は外へも出られなくなる。
「お倫、此方がお前を川で見つけて、助けて下すった菅谷先生だよ」
数日経った或る日、母親の美禰が見舞いに来ていた部屋へ十内とお光を招じ入れて、改めて、二人をお倫に引き合わせた。障子を開けた部屋の夜具の上に、お倫は寝巻きに羽織という姿で座っていた。
お倫は慌てて眼を伏せた。たとえ相手が老客であっても、手篭めにされた後に、半裸で川に浮いていたに違いない自分の姿を、気を失った無防備な様で見られたことは、若い娘にとっては耐えられないほどの羞恥であるのは当然のことであった。
 しかし、お倫は間も無く、お光に親しげな態度を示すようになった。何故かお光と居ると心が和むようであった。それは女同士、最も恥ずかしい姿を見られて羞恥の限界を晒したことによる解き放たれた心情のようであった。
「お光さん、一寸一緒にその辺の里を歩いてくれませんか?」
起き上がるようになって五日ほどが経った頃、お倫がお光を誘った。
「外へ出る気になったんですか、お倫ちゃん」
それには答えずにお倫はさっさと草履を履いた。
十内も、少しは気晴らしになるだろうと、遠くへ行かないことを条件に、お倫の外出を許した。
外へ出ると初秋を思わせる陽気であった。庵を出て少し歩くと、辺りはもう田畑と山の連なりで、空の青と木々の紅葉の対比の絶妙さに二人は見惚れた。
お倫は小高い峠に連なる細い山道を登り始めた。街道とは違って人の往来は全く無かった。四半刻ほど歩くと道は峠の中腹に出た。西北の眺望は山に囲まれて視界を遮られていたが、東南は下の方に宿場が見え、帯状に光る大川の流れも見て取れた。お倫とお光は枯れ草で覆われた斜面に腰を下ろした。木々の梢は風に揺れていたが、二人が腰を下ろした斜面には風は殆ど無かった。
「わたし、お光さんと一緒に居ると何だか心が休まるんです。安心して傍に居られるんです」
「・・・・・」
「わたしってもう、普通に暮らしている人とは一緒には居られないような気がするんです。負い目を感じてしまって・・・」
「お倫ちゃん、済んだことは忘れることよ。いえ、忘れなきゃいけないわ」
「お父っつぁん達は、このまま予定通り祝言を挙げさせる心算でいるようですけど、わたしはとてもそんな気持にはなれないんです。相手を騙すことになるし、夫婦になれば騙し切れるものではありません。汚れている自分を隠す毎日なんて、苦しくて気が狂ってしまいます」
「お倫ちゃんは汚れてなんかいないわよ。あなたが汚れているとしたら、わたしなんぞはこうして傍に居ることも出来やしないわ。私なんぞの生き方は、まるで溝鼠だったんだから。良い思いなんて何一つ有りゃしなかった。過去から逃れたくて毎日ほっつき歩いているようなものだった、先生に拾われるまではね」
「お光さんは先生の娘さんではないのですか?」
問われたお光は、一瞬、寂しそうな眼差しをお倫に向けた。
「わたしが先生の娘だなんて、夢のまた夢の話だわよ。わたしは貧しい水呑み百姓の娘だったの。先生に救われてこの庵へ来てからは、先生の身の回りのお世話や毎日の暮らしのお手伝いをしているの」
お光は、この傷ついた娘に何とか立ち直って貰いたいと、これまで十内以外には誰にも話さなかった自分の来し方を初めて話して聞かせた。

          (三)

 お光の村は助郷のために破壊した村のひとつだった。嘗ては、戸数が百数十軒あって本高八百石、新高二百石、計千石の上がりと決められていたが、助郷のために家数が次第に減って、お光が十七、八歳になった頃には僅か七十軒、三百人そこそこになってしまっていたし、耕す田圃も二十数町歩しか無くなって、あとは荒地と化していた。従って、年貢さえもなかなか納められず、まして助郷など及びもつかない仕儀であった。七十戸から五十人の働き盛りの男を助郷役に取られては、五百石はおろか三百石も収穫出来はしない。助郷に出なければ、一人につき七百文、馬一匹につき一貫文という法外な金を問屋場へ支払わなければならない。一年に延べれば千両にも及んだのである。問屋場は先ず、その金の三分の一以上を差し引いた上で、雲助を安く雇い、余剰金は宿役人の得分とした。
 村では助郷のために、爺婆は首を括ったり山へ捨てられたりしたし、娘は皆、売られていく羽目となった。五十人の男が毎日、宿場人足として務めさせられ、街道の掃除を初め丁場や路普請に使役させられたので、田畑を耕すのは老幼や女子の手に委ねられて、作物の豊作など望むべくも無かった。
 とうとう村では、莚旗を押し立てて問屋場を襲う算段が持ち上がった。
が、その算段は実際に一揆を起す前に露見して叩き潰されてしまった。愈々明日蜂起という前日に代官が指揮した役人隊に踏み込まれて、集まっていた全員が斬り殺された。仲間内に誰か密告者が居たのである。
 その頃、お光には吾作という将来を言い交わした幼なじみが居た。同じ村で子供の頃から一緒に遊んで育ち、互いに気心の知れた間柄だった。だが、こともあろうにその吾作が代官の口車に乗せられて仲間を売ったのだった。
「一揆の不穏な動きを事前に知らせれば、士分に取り立ててやるぞ」
お光との先行きが今のままではどうにもならず、何とかしたいと焦っていた吾作は、愚かにもその言葉に乗ったのである。
「吾作の分別ある殊勝な申し立てにより・・・」という代官所役人の言葉を聴いて、自分の言い交わした相手が村の百姓達を裏切ったのだと知ったお光は、痴呆のように自失し、涙も無くただ呆然と立ち尽くした。お光は何も信じられなくなって、絶望の淵に沈んだ。そして、宿場女郎に売られるよりは、いっそ、男に化けて渡世人になってやれ、と自棄の気持ちで村を出奔した。

 一年後の春、未だ桜が蕾の寒い季節に、若い渡世人が一人、宿外れの茶店で憩うて居た。三度笠に合羽を着込み、手甲脚絆をつけて一端の無職の格好を気取っているようであった。笠の下の顔は未だ二十歳に満たぬ眼元の涼しい優しい造作だった。頬や口元には子供の幼さが残っていた。
 と、その時、遠く馬の蹄の音が起こったと思う間も無く、その音は茶店の方へ近づいて来た。
渡世人が、至急の知らせでもする使い番かと首を伸ばして見やると、陣笠に野袴の馬責めの侍だった。
丁度折悪しく、茶店の前を、荷車を引いた老爺が通りかかっていた。
老爺は、疾駆してきた騎馬を避けようとした弾みに、慌てふためいて、路傍の野仏の供物石に車輪を引っ掛け、積荷を引っ繰り返してしまった。地面に散乱したのは収穫したばかりの芋や稗や大根や菜っ葉の類であった。百姓にとってはこれからの飢えを凌ぐ貴重な食料だった。
馬を飛ばして来た侍は、地面に散らばった積荷を蹄で踏み潰したばかりか、駆け抜けざまに、
「邪魔者めが!」
と一喝すると同時に、老爺にぴしゃりと一鞭くれて走り去った。
「畜生!何てことをしやがる!」
叫んで飛び出したのは、店の端の床几で甘酒を飲んでいた旅姿のあの渡世人であった。
渡世人は直ぐに老爺を茶店の中へ運び入れ、振分け荷物の中から傷薬を取り出して手当をした。老爺の額から唇までの鞭痕は酷いもので片目は既に潰れていた。
それから、渡世人はせっせと路上の積荷を拾い集めて荷車へ乗せていった。
積荷を拾い終えた渡世人は茶店の婆さんに尋ねた。
「あの気狂い野朗は何処のどいつだ?」
怒気を含んだきつい表情であったが、その声音は幼かった。
「あれは代官所の次席役人で、名を高田軍之丞と言い、手のつけられぬ暴れ者で、地下の者は皆、どんな酷い目に合わされても泣き寝入りするより他は無えんだ」
頭を振って老婆が答えた。
「くそ!畜生!代官所の役人が、なんでぇ、外道め!」
渡世人は憤怒に燃えた眼差しを街道へ送って、叫んだ。
「戻って来やがったら、どうするか見てやがれ!」
 やがて、再び馬蹄の音が聞こえると、渡世人はぱっと往還へ飛び出した。
「代官所の役人が怖くて渡世人になれるけぇ!」
そう叫びつつ、黒三の帯をぐいと押し下げて、左手で長脇差の鯉口を切った。
見る間に、騎馬は半町の向こうへ戻って来ており、渡世人は「来やがれ!」と長脇差を抜き放った。
駆け戻って来た高田軍之丞は、行く手を塞いだばかりか長脇差を抜いて、真っ向う、刃向かって来ようとする博徒の姿をみとめると、此方も何か怒号して、ぎらっと宙に白刃を閃かせた。
渡世人と騎馬の距離は、あっという間に縮まった。
が、高田軍之丞の白刃が三度笠めがけて振り下ろされようとした刹那、茶店の中から甘酒茶碗が飛んで来て、軍之丞の額に当った。軍之丞は上半身を仰け反らし、そのまま逆落としに五体を地面へ叩きつけられた。軍之丞は昏倒して、それ切りびくとも動かなかった。主を落とした馬は、渡世人がめくら滅法に振り回した長脇差で馬体の何処かに薄傷を負ったのか、一旦棹立ちになってから、狂ったように駆け去って行った。
渡世人は息を弾ませながら、
「ざまぁ見やがれ!この糞ったれ野朗!」
と、軍之丞の顔へ唾を吐きかけた。
その時、茶店の中からゆっくりと往還へ姿を現したのは五十歳半ばの老剣客、菅谷十内であった。
渡世人の傍へ歩み寄った十内が声を掛けた。
「娘だてらに博徒の身形をして、あのような無謀な振る舞いに及ぶとは、呆れ果てた奴じゃな」
言われた渡世人は、へん、と言わんばかりの貌を十内に向けた。
「渡世人は侍と喧嘩をしてはならぬと言う渡世の掟があるのを知らぬのか?お前だけではなく継場の親分衆にも迷惑が掛かるのだぞ。ましてや、相手が代官所の役人とあらば尚更詮議は厳しくなる。暫く、わしの処で身を隠しなさい」
十内はそう言って宿場外れの自分の庵へ渡世人を連れ帰った。
「お前の名は何と申す?」
「へい、光次と申しやす」
「馬鹿者、いつまで気取って居るのじゃ。真実の女名だよ、お前の」
「えっ?・・・はい、百姓の娘で、みつ、と云うだ」
「そうか、光、お光か」
それから十内は、お光を洗い髪の娘姿に還えさせた。おかしなもので、そうなると自然に物腰もしおらしくなり、言葉遣いも改まったものになった。
お光は十内に言葉遣いだけでなく、挨拶や礼儀作法、それに読み書きをも教え込まれ、そのまま庵に居着いて、十内の暮らしの手伝いや身の回りの世話をするようになった。
既に三年の歳月が流れている。

          (四)

 お倫は床板を激しく踏み鳴らす音や木刀がカンカンと打ち合う音で目覚めた。辺りは未だ仄暗く、夜は明け切ってはいない。音は庵の表の方から聞こえて来るようであった。
お倫は夜着に外衣を羽織って、そおっと、音のする方へ足音を忍ばせて様子を見に行った。それほど広くは無いが剣術の道場が有った。
そこで老客十内と若い剣客風の男が激しく打ち合っていた。ピーンと張り詰めた厳粛な空気が流れ、二人の気迫がそっと見詰めるお倫の身体に圧し迫まって来た。思わずお倫は跪きその場に正座して二人を凝視した。
半刻ほど激しく打ち合った二人は、やがて、蹲踞の姿勢をとり一礼を交し合って、朝稽古は終わった。



  タチヨミ版はここまでとなります。


時代小説の愉しみ

2019年2月5日 発行 初版

著  者:齊官英雄
発  行:啓英社

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齊官英雄

80歳の恋愛小説家
経営コンサルタント

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