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てきすとぽいとは、主に文章作品を募集したり、作品に感想や票を投じたりするイベントの、開催を支援するサービスです。また、ウェブ上で創作活動を行う方々に、競作/共作を通じて、新しい創作の可能性を発見していただける場になることを目指しています。
二〇一九年二月一六日(土)
第四九回 てきすとぽい杯〈てきすとぽい始動七周年記念〉
お題:「__泥棒」
空欄に言葉を入れ、作品中で使用してください。
三沢は神様と呼ばれていた。どんなに忙しくとも人の頼みは断らないし、頼まれてなくとも自発的に町のイベントを手伝う。困った人がいれば問題が解決するまで必ず寄り添い続ける。もちろん彼のことを悪く言う住民はいない。三沢が町に引っ越してきた当初、面白がって無理難題をふっかけていた人も、やがては罪悪感に負けて彼を尊敬するようになる。
三沢はお礼を必ず受け取る。物であれお金であれ、それが多くても少なくても当たり前のように受け取る。彼の善意には決まった価値がない。助けられた人の評価をそのまま受け入れる。三沢が住む古い木造アパートのポストは賽銭箱のように、子どもが投げ入れた十円や封筒に収められた紙幣などが詰まっていた。
なぜそんなことをするのかと訊いても三沢はニヤニヤ笑うだけで答えない。照れ隠しのように思えるが、本当に理由がないようにも思えた。金持ちの道楽だと考えている住民はいる。しかしヨレヨレの同じ服を着ている痩せた中年男は間違っても金持ちには見えなかった。
ある日、三沢の家に泥棒が入った。ドアノブを壊された開き戸が風に揺れて軋んでいた。近所の住民が気づき声を掛け合い総出で三沢を探した。田んぼで子どもとカエルを捕まえていた彼は、住民の説明を涼しい顔で聞き流していた。派出所へ行こうと勧める声に小さく頭を振る。急いで戻ろうと背中を押すがゆっくりと歩く。糠に釘を打ったような三沢の態度に、住民たちはだんだんと苛立ちを覚えた。なにを考えているのかまったく分からない。突き放す言い方でおばさんが怒鳴った。一緒にいた子どもは腕を引っ張られ三沢から離される。畦に落ちた虫かごからカエルが放り出される。稲にぶつかったカエルはそのまま水面に潜っていった。三沢はその場に屈んでカエルへ手を伸ばした。子どもがいらないと叫び、彼は宙で腕を止めた。
警察に届けることもせず、三沢は壊れたドアを放置したままアパートに住み続けた。住民は彼に願い事をしなくなり、となり町の工場で働き始めた彼は普通の人間になった。
彼の心の空白を盗んだ、住民による神様泥棒の話だ。
二〇一九年三月三〇日(土)
三月うさぎの「スイーツ感想」お茶会
お題:三月といえば、お花。とはいえお腹は花より団子。ということでスイーツ(広義)を食する描写を含む小説、エッセイを募集し、覆面お茶会を開きたいと思います。
わずかにしなった水色の柄杓がバケツの水を掬い出すと、縁から溢れた水流がカーテンみたいに広がり落ちた。こんもり盛り上がった波のコブがぶつかり合って、水の塊はまるで寒天のように弾む。重みで傾いた合の内側は海に似ていて、大きな波が縁まで押し寄せては雫を宙に飛ばしている。
手の甲に浮かぶ血管。お婆ちゃんが、手首を返した。
円弧の軌道を描き柄杓は空気を払う。細長い水の糸が束となり、独楽を投げた紐みたいに波打ちながら踊る。しゃざざ、しゃざざ、舞いの形そのまま、アスファルトに黒く刻みつけられた痕跡。土埃か、蒸気か、細やかな粒子が昇華し消えていく。
八月も下旬、日差しが空気を焼く朝。木陰の私、門の前で打ち水をするお婆ちゃん。頬を撫でる優しい風、遠く蝉の声。水が空気に溶けていく。すうっと確かな存在を残して、私の心から去っていく。
これは小学校へ上る前の忘れていた記憶。特別大事にしていなかったけれど、心の奥底へ刻まれていた風景。
有名レストランがプロデュースをしている十三階の社員食堂で、私はやたらとヘルシーさを謳った薄味の定食を食べていた。量が多いわけでもなく値段が安いわけでもない。盛り付けが綺麗で美味しいのかもしれないが、その満足感はあくまでも精神的なもので肉体が欲しているものとは違う。インスタに料理の写真を上げていそうと興味が無い男性から言われることもあるが、女性がすべてそういうタイプではないだろうと、いつも笑顔で不満を隠している。正直、自分にとって味や見た目なんてどうでもいい。おっさん臭いとカレシに咎められようが、安価で腹持ちが良いものならば私は充分に満足できるのだ。同じ部署のマネージャーに声を掛けられなければ、わざわざこんなところで昼食を済ませなかった。
「いつも独りでご飯を食べているけど、みんなとは馴染めない?」
「そんなことないです。ただ生活がキツキツなので倹約したいんです。みんな平気でランチにお金を使うじゃないですか」
それが馴染めないということだと、私は話しながら気づいた。苦笑いを浮かべたマネージャーは続ける言葉に迷っているようだった。
「そういった事情なら分からなくもないな。まあ、馴れ合っても別にいいことはないしね」
理解を示すような言い方だが、どこか歯切れが悪い。なんとなく私が同僚から疎まれていると察した。
「仕事は問題なくやってくれているからいいんだけれど、もう少し、くだらないことでもいいから周りと会話するとかさ、チームプレイじゃない? 雰囲気も大事だと思うんだよ」
覚悟を決めたのかやんわりと苦言を呈する。取りまとめる立場なら当たり前の忠告だと納得できても、私は不満が顔に出てしまう。
「ひとりひとりが仕事に集中すればチームとして結果が出るものじゃないですか。和気藹々とした雰囲気なんて、集中力を乱すだけじゃなく、頑張る人の足を引っ張るだけだと思います」
私を宥めるように何度も頷いたマネージャーは、お茶をひと口含むと寂しげに目を細めた。
「誰よりも努力して頑張っているのは知っている。疲れていても泣き言を言わないのも知っている。だけど気を張りすぎて、周囲が見えなくなっているんじゃないか? 雰囲気が悪くなれば効率も落ちるんだ。みんなの頑張りを期待しても、士気が落ちて覇気をなくす原因にもなる」
「私がみんなの足を引っ張っている原因だと言いたいんですか?」
後に引けなくなって気持ちと言葉を吐き捨てた。私は料理を写真に撮るような女じゃない。自分だけが譲歩する理由が分からない。違うのだから、お互いの違いを尊重して欲しい。
「甘いものは好きか?」
腕時計に目を送ったマネージャーがトレイを持って立ち上がった。気がつくと昼休憩が終わっていて社員食堂は閑散としていた。
「食べることは食べますけど、大好きってほどではありません」
たぶん、スウィーツは好きじゃない。コンビニに並んだ様々なプリンを見ても味の違いに興味なんかないし、特定の商品を選ぶ理由も見つからない。スウィーツとは単に糖分を摂取する手段であって、大切なのは砂糖の量だと思っている。疲れたら食べる、ただそれだけのものだ。
「このまま仕事してもすっきりしないからな。サボるの付き合ってくれ」
自分のためといいながらマネージャーは私に気を遣う。まるで私の欠点がそういうところだと言いたげに。
気温はおそらく三〇度を超えている。歩道の敷石が日差しを反射して目が痛い。汗で肌にブラウスが吸い付いて、少し気持ちが悪い。
Bizタワーを出て右、タリーズコーヒーがあるT字路を山王下方面へ真っ直ぐ進むと、緩やかな下り坂の先に、遠く日枝神社の白い鳥居が見える。マネージャーは二つ目の十字路で立ち止まり、振り返って私を手招くと、そのままセブンイレブンを右折して店舗の看板を指さした。
「ここの水羊羹がおすすめなんだ」
看板には塩野と書かれていた。筆のような字形がいかにも和菓子屋っぽい。
「あまり食べ物に興味がなさそうだから、あえてここに連れてきた」
意味ありげに微笑むマネージャーから目を逸らし思わず俯いた。自分が自分である理由に踏み込まれたようでなんだか怖い。
「私、そんなに水羊羹は好きじゃないです」
「まあ、騙された思って食べてみなよ」
街灯に寄り掛かり私はマネージャーを無視して黙っていた。支柱が熱い。後頭部もジリジリと焼けるようだ。
ただの和菓子になんの意味があるのだろう? 意図が分からない不安に包まれ、私はここから逃げたくてたまらなくなる。店内へ入ったマネージャーを横目で確かめて、次に自分の足元を凝視した。
「お待たせ」
ビニール袋から小さな四角いケースを取り出したマネージャーはそのまま私に水羊羹を差し出した。熱を帯びた手のひらにひんやりとした感覚が広がる。
マネージャーは隣のマンションの植え込みに座り、封を開けて食べ始めた。
「いいんですか?」
「いいから、冷たいうちに食べちゃおう」
つま先を日陰に踏み入れると頬が火照っていることに気づいた。血管が広がるほどモヤモヤした心の乱れを抱えていたと自覚する。
「疲れたから甘いものって訳じゃないんだよ。優れたものにはその本質以外にも価値あるものが含まれているからさ、それを感じて欲しいって言うか、仕事でも周りを見て欲しいって言うか、まあ、さっきの説教の続きだな」
溢れた笑みが妙に優しくて、私は釣られて笑顔を作る。膝の間に置いた水羊羹が冷たくて気持ちいい。
「たまにはサボるのも悪くないかもです」
同僚に負けたくないと私は思う。こんな風に仕事から逃げるのは負けだと思う。それでもいま安心しているのは、心のどこかで逃げたかったからなのだろう。
「性格を直せとか俺は言わないけれど、気を抜く場所をどこかに作りなよ。余裕があれば、なにか変わるかも知れないから」
プラスチックのスプーンの上で水羊羹が震えている。片手を添えて口元へ運ぶとほのかに小豆の香りがした。
私が逃げたい場所。
寒天が口の中で弾けて餡の甘さが広がる。しっかりとした甘さだがしつこくはない。上品な味と言うのだろうか? 鈍感な味覚の私には判断ができないし、なにかに例える知識もない。美味しいと言うより自分に丁度いい、そんな味。
不意に口内から味が消えた。すうっと確かな甘みを残して私の感覚から去っていく。記憶のどこかで覚えている情景。
お婆ちゃんの顔が脳裏に浮かんだ。
御菓子司 塩野
港区赤坂三-一一-一四(作中は旧住所)
二〇一九年四月一三日(土)
第五〇回 てきすとぽい杯
お題:三題「〇時五分」「異国情緒」「忘れ物」
これらの言葉を、タイトルまたは本文で使用してください。
ポケットや鞄の中、ひと通り探してはみたものの定期券が見つからない。改札の真ん前で体のあちらこちらを両手で叩いている私は疑いようのない不審者だ。こんなことになるのなら、月初めにモバイルスイカへ変えておけば良かったと後悔しても後の祭り。面倒だからと後回しにしてしまう私の悪い癖が、またしてもこんなところで顕になってしまった。
「よし、飲もう」
内ポケットには先日貰ったスナックの名刺がある。妻に悟られぬよう小さく折りたたんだ紙片を広げ、私は店の名前を確認し繁華街へと向かった。不思議なもので行くつもりがない名刺は後生大事に取っているのに毎日使う定期は失くす。おそらく忘れ物はデスクの上にでも置き忘れたのだろう。部長から残業を押し付けられないよう、慌てて会社を飛び出したのが、きっと間違いだった。
雑居ビルに辿り着くとマッサージ店のお姉さんたちが私の腕を次々に掴みエレベーターへと押し込もうとする。期待に溢れているその笑顔に微笑みを返しながら、私はお姉さんが選んだボタンの二つ上の階を押した。現金なことに彼女らは即腕を離すと、揃いも揃って不機嫌そうに舌打ちを連打した。気まずい。とても、気まずい。
スパイシーな香りが残ったエレベーターは、彼女たちを降ろした後も上昇を続ける。私はなんだか頭がぼんやりとしてきて壁に寄りかかり、しばしの間俯いていていた。肩に伝わる振動が眠りに誘う。頭を振って天井を見上げると乳白色の照明カバーの上を小さな羽虫が跳ねていた。
「楽園へ、ようこそ」
さっきのお姉さんとはまた違ったスパイシーな香り。薄い絹のカーテンの奥で女性が体をくねらせて踊っている。なんとなく私は、あの女性とセックスする予感がしていた。いつの間にエレベーターの扉が開いたのかまったく覚えていない。眼の前に広がる異国情緒溢れる景色が脳の大半を占め、記憶を辿ることを許してはくれなかった。
「切符をここに」
カーテンの隙間から褐色の腕がしなやかに伸びた。私の拳を包むように手のひらを重ねそっと引く。私は握り締めて皺くちゃになった切符を自動改札へ差し込んだ。キンと甲高い電子音が響き液晶画面に矢印が表示された。見知らぬ動物が彫刻された木製の両開きドアが軋みながらゆっくりと開いた。
舌打ちが聞こえると同時に肩を圧された。反動で揺れた体はピンポン玉のように左右に振れる。痺れているのかお尻が振動で痛む。自分のものか分からぬアルコールの匂いが鼻につき、腿の間からずれ落ちそうなカバンが視界に入った。
「すみません」
どこからが夢だったのか判断できない。意識が朦朧としていて一時一〇分の針が〇時五分に見える。背広の上から内ポケットに手を当てると定期入れの感触があった。車窓を流れる見慣れた街灯の間隔が帰宅途中だと教えてくれる。念の為定期を確認しようとポケットから革のケースを引き出すと、小さな紙片が足の間に転がった。
『帰っていいのか?』
名刺大の紙に書かれた問いかけは、一体誰に宛てたものだろう。寝起きだからか、私には判断できなかった。
二〇一九年五月一六日(木)
遊び場
文字数、ジャンルなど制限なし。書いて遊べる場所を作りたくて設置しました。
来たいときに来て、書きたいことを書いて、帰りたくなったら帰る。
気軽に書いて、自由に遊ぼう! というイベントです。
やわらかい頭! 自由な発想! スパークジョイ!!!
もし、なんの制限もないと難しいようでしたらお題をここに置いておきます。
「会話のみの小説」
「地の文のみの小説」
それぞれ挑戦してみたい方はぜひやってみてください。
それでは皆様、楽しんでくださいね、
……できれば!!
Andante
ああ、朝食の匂いがベッドルームまで漂ってくるわ。焼き立ての小麦とコーヒーの香り。明日は洋食にしようと呟いたのをあなたは聞いていたのね。
土曜の朝はわたしが当番だって決めたのに、なんであなたは起こしてくれないのかしら。大事にされるばかりじゃ嫌なのを、あなたは知ってるはずでしょう? 2人で生きていこうって約束したのは、お互いがお互いを助け合おうって意味だったじゃない。
リビングのドアが開く。乾いたスリッパの音。あなたがわたしを起こしにくる。今日もあなたはわたしに助けさせてくれない。
Segno
わたしの嫌なことをすすんでするのね。 ||
Fine
Adagio
||: 僕たちの宝物は今日も元気かい? 今朝はお腹を叩いてくれないのかい? :||
いつものご褒美を僕に頂戴よ。愛しててもいいって、僕たちに教えて頂戴よ。
Allegro
わたしは不安よ。愛されてもいいのかしら? 形だけの愛でさえ、あなたに届いてないみたい。
僕も不安さ。君に注いだ愛でさえ、水面を離れて雲になり、僕を濡らしているだけみたい。
Andante
僕を包むこの雨が、この子の愛だとどんなに嬉しいか。こんなに怖いのはなぜだろう? 君が注いだ愛を知っているはずなのに。
怖いの? 不安なの? きっとわたしたちは愛の行方をお互いに知らない。
だから、あなたは、
D.S.
二〇一九年六月一五日(土)
第五一回 てきすとぽい杯
お題:「鍵」
「鍵」をテーマに小説を書いてください。お題の言葉は使用しなくても構いません。
電気シェーバーの替え刃を探しながらフロアを歩いていると人集りが目に入り、何の気なしに覗いてみると新型ゲーム機のデモプレイをやっていた。
バッグを足で挟んだ高校生がVRゴーグルを装着し、両手のコントローラーで忙しなく空を切っている。モニターにはやたらリアルな怪物の姿が映し出され、高校生の腕が振り切られる毎に、体の一部からどす黒い血液を宙に舞わせていた。
微笑みを浮かべてプレーヤーの様子を眺めている制服の店員と目が合い思わず会釈をすると、ゲームに興味があると早とちりしたのか、その店員は微笑みを崩さぬままこちらへ向かって歩き始めた。
「最近のゲームは凄いですね」
ゲームに疎い振りをして冷やかしの客だとアピールするが、店員はまったく意に介さず、熱心にゲームの説明を始めた。
「あのVRゴーグルは、あっ、あの子が頭に被っているやつです。あれはゲームだけを楽しむものではないんですよ。失礼ですがお客様のお歳だと、以前に撮りためたビデオとか結構お持ちだと思うんです。もし、再生する機材があるのであれば、そのビデオの映像もですね、3Dの、眼の前にあるような臨場感で観ることができるんです。まあ、ここだけの話ですが、エロティックなものもリアルに再生できます」
別に、エロに惹かれたわけではないが、私はVRゴーグルを購入した。自分のためだけにお金を使う日々が、こんなくだらない物を買うだけの余裕をいつの間にか作り出していた。クレジットカードを差し出したときの、店員の満面の笑顔をいまでもはっきり覚えている。私が買うと決めたのはそんなはっきりした記憶のためではなく、いまではぼんやりとくすんでしまった大切な記憶のためだ。
妻と別れて二〇年近く経った。仕事にかまけて妻を蔑ろにしてしまった私にとって、離婚は当然の罰だった。やり直せることならやり直したいといまでも思っている。私は流れる時間のどこかで、間違ってはいけない選択をしてしまったのだ。
修理から戻ってきたVHSデッキをテレビに接続し、納戸の奥にしまったダンボールを開きカセットテープの背面の文字を読む。たくさん撮りためた映像のどこかに、間違った場所を示す鍵があるのだ。
「ああ、美沙子」
家を買って居間に入った日。心の弾みを隠せない妻が軽やかな足取りで調度品に触れている。ドアを開けて顔を出した私がやれやれといった様子で妻を眺めていた。私に気づいた妻が駆け寄り抱きついてくる。首に回された腕がくすぐったかったのか私は軽く頭を振った。
「あいつは誰だ?」
記憶を懐かしんで幸せな気分に浸るはずだった。目の前で妻と戯れ合う人物が私だと分かっているのに、苛立ちと悲しみが不意に湧き上がった。
「美沙子から離れろ!」
あの高校生のように私は両手を振り回して宙を掻いた。感触のなさが却って不安を増幅させた。私は私に妻を取られたのだ。間違える前のあいつは、間違って妻を失った私を笑っているのだ。
『私たちの記録をこれからもたくさん撮って、いつかあなたがお爺ちゃんになったときに一緒に笑って見ようよ』
来なかった未来ではなく、来るであろう未来を妻は選択していた。妻は私ではなくあいつを選択したのだ。私は誰が許せないのだろうか? この苛立ちをぶつけて傷つけるべき相手はいったい誰なのだろうか?
妻とあいつはノイズの奥へ消え、私の記憶は断絶された。私は拳を握り締め自分の頬へ当てた。思い切りぶん殴ってやろうと思う。間違えたあのときに殴れなかった私をぶちのめそうと昂ぶる。肘を引き、もう一度拳に力を込めた。顎を撃ち抜くはずの拳はカチッと顎骨を鳴らし止まった。錠前が開く音が聞こえた気がした。目を凝らしてノイズの中の妻と私を探すが、光の粒に溶けてしまったようで、なんにもない。ぼんやりと覚えていたはずの記憶もノイズに埋もれてしまった。妻があいつを選択して私がいまの私を選択しただけの話なのだ。どうやら私は、妻と私を失ってしまったらしい。
二〇一九年八月一七日(土)
第五二回 てきすとぽい杯〈夏の24時間耐久〉
お題:古今東西 著名人/物なりきり
歴史上の人物・文豪・神仏・妖怪・UMAなど、または名のある器物・芸術作品・人神仏像・遺跡・オーパーツなど、になりきって、千字ジャストのエピソードを創作してください。
心臓が車のエンジンみたいにボコボコと律動している。送り出された血液は全身を巡り、外部の刺激を受けて変質すると再び体の中心へと戻ってくる。薄汚れた血の色は二酸化炭素が原因だと幼い頃から勘違いをしていた。いまなら本当のことが分かる。女の血液は男たちの視線や欲望を受けて変質するのだ。肺は血液を浄化せず心臓は最初から情欲が自分のものであったかのように錯覚させる。脈打つ感情はわたしの秘められた欲望。男たちの嗅覚を狂わすフェロモン。わたしはきっと、男たちと同じように欲情している。
わたしの欲望を見つけて欲しい。本当の心を知って欲しい。着飾った服を脱がせて裸にして欲しい。こんな薄汚れた感情を持ってしまったわたしを許して欲しい。花嫁になる準備はいつだって出来ていた。心も体も掠め取って欲しいのに、わたしの唇を奪う男たちはいまだ現れない。花嫁衣装が分断する男と女の距離は想像以上に遠く、水平線の彼方まで離れていた。
ある日、司祭から給仕係まで様々な男たちが一斉に夜空を見上げ、女という銀河に心を奪われた。彼らは持て余した感情を吐露すべく様々な手段でその感情を合理化した。欲望の正体を探ろうと生まれた心をハサミで切断しグラインダーで粉々に砕いて漉し器に通した。最後に残った輝く結晶こそが純粋な自分の欲望で正義であると男たちは納得したがった。男たちは実に愚かだった。理解できるほど矮小化された心に価値などないと気づけなかった。理解など必要がないのに、自分の状況や立場なんて意味がないのに。拡大鏡で探さなきゃいらない程度の欲望は、当然、重力に勝てるはずもなく、空の途中で燃え尽き散った。
わたしの唇を奪う男たちはいまだ現れない。
結局、わたしは誰からも触れられないまま、花嫁として百年近く存在し続けていた。薄汚れた欲望を透明なガラスであらわにされたまま、永遠の処女としてここにいる。男たちも無駄で実現の可能性がない欲望の成就を相変わらず願ったままだ。象徴的ではあるが変化がない無意味な存在として、わたしたちはただここにいる。意味を持って作られたはずのわたしたちはいつしか意味を失っていた。
たくさんの目撃者がフィラデルフィアを訪れる。わたしたちの滑稽な姿になんらかの意味を求めようと、裸のわたしと愚かな男たちを網膜に焼き付ける。
我が父マルセル・デュシャンは天国でなにを思うだろう? あなたが未完で終わらせた作品を望む人々に。
二〇一九年一〇月一九日(土)
第五三回 てきすとぽい杯
お題:「神」を含む熟語
神の字を含む熟語を、タイトルまたは本文で使用してください。
例)神がかり、死神、神無月、など
まだその時ではないって野球の神様が教えてくれたんだと監督は涙ながらに記者へ呟いた。
クライマックスシリーズ進出を賭けたこの最終戦を負けたのは、七つの四球を出した先発投手の俺ではなくて、どうやらこの球場に潜む神様のせいらしい。もちろん監督に個人攻撃ができないことぐらい分かっている。それに俺を庇った訳でもないのも知っている。責任者として、今日の一戦だけでなくシーズンを通しての反省の言葉なのだろう。どうせしばらくは敗戦の責任を独りで抱え込むから、俺としては責められたほうが、いくぶん気が楽だったのだが。
それにしても今夜の雰囲気は異常だった。オールスター前まで最下位を独走していた俺たちが日本シリーズ出場を狙えるところまで来たのだから、本来なら俺たちに勢いがあるはずなのだ。試合前のムードも皆リラックスしていて悪くなかった。ビジターとはいえ何度も来た球場だから、人工芝の癖や照明の当たり方まで全員が把握していた。
初回、先頭の打者をキャッチャーフライに打ち取った俺のボールはいつになく走っていた。コントロールもアバウトなシーズン中と比べてキャッチャーが構えたミットの位置からたいして変わらない場所に投げられた。ひと言で言えばノリにノッていたのだ。
打者三人を抑えて初回を終え、二回表の攻撃でチームは三点をもぎ取り、一気に楽観ムードがベンチとブルペンに広がった。それでも俺たちは気を抜くことはなかった、はずだった。
相手チームの五番打者は俺を苦手としていた。シーズン中の打率は二割を切り、外野へボールを飛ばされたことがなかった。だから打球が高く上がっても安心していた。内角のストレートに詰まった打球はフラフラと天井へ向かって飛んでいった。レフトがゆっくり前進し、両手を広げて捕球の合図をした。初めて外野に飛ばされちゃったなと俺は唇を噛む。打者は頭から飛び込む勢いで一塁へ走っていた。ふとレフトが両手を下げた。打球はフェンス際まで伸びて人工芝の上にポトリと落ちた。打者は二塁を回っている。センターが慌ててフォローに行くが、すでに打者は三塁上で膝の土を払っていた。
「途中まで確かにボールが見えていたんだ。すまん」
ベテランの焦燥した表情に誰も文句は言えなかった。センターもレフトの守備位置にボールが落ちると途中まで認識していたと言う。とりあえず天井の色とボールが重ならないよう気をつけようとキャッチャーがまとめ、皆守備位置に戻った。
試合中に感覚が狂うことなど多々ある。普段なら本人やコーチが気づき試合中にある程度修正できるはずだった。ただそれは、原因が言葉で表現できる場合に限っていた。今日の試合のように説明できないミスは例外だった。いつしか出場している選手だけでなく、監督やコーチまで、原因が特定できない不安を無意識に感じていた。
スライダーが外角に大きく外れた。慌てて体でボールを止めたキャッチャーが心配そうに俺を見る。フォークがホームベースの手前で跳ねた。審判にタイムを要請したキャッチャーが駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
別に体の調子が悪くなった訳ではない。いつも通り、当たり前にミットをめがけて投げていた。
「あいつは歩かそう」
キャッチャーの提案に頷き、試合が再開する。俺は立ち上がったキャッチャーのミットへ敬遠を意味するスローボールを投げたはずだった。
エレベーターやエスカレーター、あるいは歩く歩道に乗った感覚とでも言うのだろうか? 足元が動いていないのに目に映る風景だけが変わる感覚。ミットの位置が動いていないのに俺の視野が変わる感覚。
ど真ん中に向かったボールはバットに一閃され観客の歓声に吸い込まれた。ソロホームランでまず一点。失投した意識はまるでないのに、狙った場所へ投げられたと確信できるのに、俺は混乱していた。
その後の説明はいらないだろう。俺は瞬く間に崩れ四回途中で降板した。
原因は自分でも分からない。イップスでも発症したのかと慌てた。心配になって球場内の練習場で投げてみたがなんの問題もない。ブルペンキャッチャーもコーチも俺も首を傾げた。
翌日、スポーツ紙に叩かれた俺は小さな記事を見つけた。俺たちのチームのバスが停まっていた場所に昔、小さな祠があったという。呪いだと新聞は大袈裟に書いていたが、俺は当然信じなかった。その後、この球場でチームは連敗するが、いまでも俺は呪いなんて信じていない。
二〇一九年一二月一四日(土)
第五四回 てきすとぽい杯〈紅白小説合戦・白〉
共通テーマ:料理・グルメ小説
白組のお題:「作る」
料理人、レシピ、調理の場面などが登場する小説。
残業を切り上げ急ぎ足で電車へ駆け込んだものの、駅に着いたらスーパーの灯りは消えていた。いつものように一五分くらい閉店時間が延びると期待していたのだが、どうやら僕の目論見は外れてしまったようだ。倹約しようとここしばらく自炊を頑張っていたのに、一ヶ月も経たずに計画は頓挫してしまった。なか卯で親子丼でも食べて帰ろうと諦めかけていた僕だったが、ふと、棚にしまったカップ麺の存在を思い出した。自炊を志す者にとってインスタント食品は逃げであり、敗北である。だが調理というひと手間を掛ければ、それはインスタントではなくなる。カップ麺を素材にした料理になるのだ。
意気揚々とアパートのドアを開けた僕はそのまま玄関で立ち尽くした。部屋の灯りが点いていたことも、ドアに施錠がされてなかったことも疑問ではあったのだが、そんなことが些末に思えるほどの衝撃が目の間に広がっていた。
「おかえり」
緑のたぬきを片手に部屋からひょっこり顔を出し、割り箸を軽く掲げて挨拶をする。僕が僕に。
「誰だ、お前は?」
「誰って、そりゃ僕だよ」
蕎麦を啜った勢いで汁が顔に跳ね、僕は忙しなく瞬きを繰り返した。いや、僕その2がだ。
「とりあえず、突っ立ってないで入りなよ」
呆れたような表情で僕その2は肩をすくめ、目線で部屋の中に上がるよう誘う。訳が分からなすぎて逆に冷静さを取り戻しつつあった僕は、言われたままに靴を脱いで框を跨いだ。
「お前は僕なのか?」
勝手に部屋着を着られているので、スーツを脱ぐべきか迷う。ネクタイだけ外した僕は僕その2の対面に、ここの主人は自分だと威圧するように肩を揺らしてあぐらをかいた。
「僕は僕なんだよな」
生年月日も経歴も家族構成も、僕その2は把握していた。僕しか知り得ない幼少期の思い出も、僕その2はまるで自分のことのように語っていた。一時間ほど繰り返した質問はやがて尽き、僕がもうひとりいるという実感だけが頭の中を占めていた。
「で、どうするよ?」
僕がこの世に二人いる必要はないし、対外的にとても困るので、当たり前の結論を求める。
「そんなに難しく考えるなって。交互に仕事へ行けば毎日が楽になるだろ。僕が抱えるストレスなんて、あっという間になくなるさ」
僕その2の言い分もよく分かる。仕事の失敗を重ね、ついには上司からだらしない私生活を直せと理不尽な介入が始まった。休日関係なくどんな一日を過ごしたか日誌を書いて毎日提出しなければならない。プレッシャーは悪循環を生み、失敗を恐れた僕は余計に過ちを繰り返す。自分を見つめ直す自由な時間を作れば多少は改善されるかもしれない。
「逃げちゃえばいいんだよ」
吐き捨てるみたいに僕その2は呟く。僕は僕だから、僕その2もプレッシャーに押し潰されそうになっているようだ。
「僕はやれば出来るって、お前も知っているだろ? いまのペースじゃ無理なんだ。もう少し、ほんの少しの余裕があれば、会社の連中が驚くぐらいの成果が出せる。美幸さんとだって付き合えるかもしれない」
自分が分かっていることを言葉にされると腹が立つ。なんだか未確定な状況を言葉によって確定されたみたいだ。
「じゃあ、僕の代わりにお前が働いてくれよ。口じゃいくらでも言えるんだから、実際にお前が証明して僕に見せてくれ」
「馬鹿だなあ」
緑のたぬきに箸を置き、僕その2は僕を冷めた表情で見据えた。
「証明するもなにも、それをするのは僕じゃないか」
反射的に拳を振り抜いていた。頬の内側が犬歯で裂ける。
「お前なら出来るんだろ? なにもかも上手くいくんだろ?」
薄ら笑いを浮かべた僕その2は真っ直ぐ僕を見つめたまま殴られ続けている。
「僕なら出来るよ。もう無理だ、出来ないと諦めているから僕がいるんだろ?」
僕その2は禅問答で話を逸らす。出来る証明を、その方法を教えるまでは、僕は腕の力を決して緩めない。
「簡単に諦めるなよ。手間隙かけて、自分で気づけよ」
顎の骨が折れて口の形が変わっているのに、僕その2はやたら饒舌だ。なんとか黙らせたいから近くに転がっている鉄アレイを喉仏に押し込む。全体重を掛けて潰してしまえば、もう僕を笑うことさえ出来ないだろう。
「いつから諦めたんだよ。新卒で入った頃はあんなに目を輝かせていたじゃないか」
髪の毛を引きちぎり頭皮を赤く染める。まばらに残った縮れ毛を爪切りで丁寧に切り落とす。僕の中に答えがあるなら、もう分解して探すしかない。鼻と耳に包丁を入れ凹凸をなくし下拵えを開始する。皮膚の裂け目に指を差し込み、型崩れをしないようにゆっくり剥がす。爪の間に黄色い脂肪が詰まって気持ち悪い。ビニール手袋をすればよかったと後悔するが、先に進めるしかない。新鮮なうちじゃないと、僕には答えが分からないような気がするのだ。頭蓋骨を揺すって眼球を落とす。神経の束は少し力を入れれば簡単に切れる。猿の脳みそってどうやって調理するのだろう? 頭頂部の筋に刃先を挿れて割ればいいのか? まあいいや。頭蓋骨を容器にすればそれらしく見えるだろう。ペットボトルの水を流し込んで血を洗うと、心臓みたいに鼓動しているピンク色をした脳が露出する。調味料はいるのか? 塩コショウを軽く振ろうか。どうやっても脳の皺に塩が固まってしまう。味が偏るからこれはいけない。余っているオリーブ油があるからそれで流そう。脳が鼓動している。僕の心臓とまったく同じリズムで。同じ、僕と同じ。
僕はようやく僕になった。いや、失ったものを取り戻したんだから我に返ったというのが正しい。夢か幻覚か、いまとなっては定かではないが、淡白な脳の味を僕ははっきりと覚えている。仕事は相変わらずダメダメだ。口煩い上司はすっかり呆れ果ててなにも言わなくなった。美幸さんは結婚退職をしてしまった。別支店のイケメンとだ。野望も願望もいまだ僕の中には存在しない。これからどう生きていくか展望もない。
まあ、それでもいいかと思えている。
2020年2月1日 発行 初版
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