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【一】 5年程前、当時の知人から上野霄里の『単細胞的思考』(明窓出版刊)という本をいただきました。著者は『北回帰線』『ネクサス』等で知られる作家ヘンリー・ミラーと親交のあった数少ない日本人、そして劇作家・上野火山の実父である―という情報しか知らないダメな僕ではありますが、この本の前半は日本最古の和歌集『万葉集』の賞賛に割かれています。
● 実に一つ一つの短歌が激しさに溢れているのだ。貴族が編纂したとは言え、それは決して貴族のあそびではなかった。乞食さえ、堂々とうたっているではないか。
和歌とか俳句に無関心だった自分の中にこの一説がどういう訳か埋め込まれ、とはいえまだこの頃はそんな難しいもんに手を出す勇気も余裕もありませんでした。一方その頃買ったAmazonのKindle用に青空文庫から大量のフリーテキストをダウンロードした際、歌人・正岡子規のテキストの中に『万葉集巻十六』というのを偶然見つけました。
● 萬葉第十六卷は主として異樣なる、即ち他に例の少き歌を集めたる者にして、趣向の滑稽、材料の複雜等其特色なり。併し調子は皆萬葉通じて同じ調子なれば如何に趣向に相違あるも其萬葉の歌たる事は一見まがふべくもあらず。
様々な雑念の一つに過ぎなかった『万葉集』への関心が、日に日に興味へと成長し、ついにある日、梅田・かっぱ横丁の古書店で万葉学の権威・中西進訳の『万葉集』文庫本4冊+万葉集事典セット1800円とご対面、金もないのに即購入。昔取った杵柄で読破したる!と息巻いたのですが、文法知識も語彙力も受験生の頃より大幅ダウンは否めず、通読するのに半年以上かかってしまいました。
【二】 さて改めて『万葉集』とは、7〜8世紀にかけて編纂された日本最古の和歌集で、全二十巻・約4500首の和歌が収められています。中国から伝来した漢字の音を日本語に当てはめて使った、いわゆる「万葉仮名」で書かれています。8世紀前半に成立した『古事記』と並び称される、日本語最古の姿をとどめる貴重なテキストと言えるでしょう。今回はこの場を借りて、個人的に気になる歌をいくつかご紹介します。なお誌面の都合上、現代語訳は載せられません、あしからず。
《海女さんを詠んだ歌が何かエロい!》 貴族が船で任地へと向かう時、ふと浜辺に目をやれば、海水に潜って陽気に仕事に励む海女さんたちの姿が。
● 漁(あさり)する 海未通女(あまをとめ)らの 袖とほり 濡れにし衣 干せども乾かず(巻七1186) ● 潮満たば いかにせむとか 方便海(わたつみ)の 神が手わたる 海未通女ども(巻七1216)
十二単に身を包み、多くはお顔も隠す貴婦人たちを見慣れた身分の殿方にとって、海女さんたちの姿は、一体どう映ったのでしょう?きっと衣の中に埋もれて生涯を送る貴婦人たちとは真逆の、女性ならではの生命力に対する感動、賞賛の意識のような何かがあったのではないでしょうか。で、それは何かと尋ねたら……まさに「エロス」やおまへんか?
《こんな高度なやり取りしとったんか!》 失礼しました。お口直しに藤原広嗣と娘子との間で交わされた、桜の花を詠むことに関するやり取りはいかがでしょうか。
● この花の 一枝(ひとよ)のうちに 百種(ももくさ)の 言(こと)そ隠(こも)れる おほろかにすな(巻八 1456) ● この花の 一枝のうちは 百種の 言持ちかねて 折らえけらずや(巻八1457)
一枝の桜を言い表す無数の言葉のバリエーションに注意して詠めと、高度に諭す広嗣。しかし娘子は、無数の言葉の重みで枝が折れてしまったではないですかと、高度なツッコミを入れるのです。近代化以前の段階にあっても、後世にウイットだのエスプリだのと賞賛される粋な感覚が、既にこの時代に現れてたんですね。
《音読するとわかる、旋頭歌のグルーヴ感》 旋頭歌とは五七五五七五という形式の和歌。今では殆ど廃れてしまいましたが、このミニマルな形式が、意外と面白い効果を生むのです。
● 山城の 久世(くせ)の社の 草な手折りそ おのが時と 立ち栄ゆとも 草な手折りそ(巻七1286)
「な〜そ」という表現は、「決して〜するな」という強い禁止を表しますが、2回繰り返されることで旋頭歌ならではのリズム感が醸し出されます。ここでは「草な手折りそ」のリフレインが、神社における人の振舞いへの強い戒めとして響いてきます。
● 朝づく日 向ひの山に 月立てり見ゆ 遠妻(とほづま)を 持ちたる人し 見つつ思(しの)はむ(巻七1294)
前の句で立ち現れた風景に、後の句で反応するというパターン。朝日の昇る山に月を見て、遠く離れた妻を思う人もいるだろうと空想しつつ、己の妻を恋しく思っているのでしょうか。嗚呼、今も変わらぬ単身赴任者の嘆き。
● 住吉の 出見(いでみ)の浜の 柴な刈りそね をとめらが 赤裳の裾の 濡れてゆく見む(巻七1274)
前の段で作業を止めろと命令し、その訳を後の段で語る構成の旋頭歌。実はこの歌もエロいんです。柴草の露が娘らの赤裳の裾に付くのを見たいという……万葉のおっさん心と言えるでしょうか?
《笑いの原点を巻十六に見た!?》 失礼しました。さてここで正岡子規が激賞する ”巻十六” に収められた歌をいくつか。
● 仏造る 真朱(まそ)足らずは 水たまる 池田の朝臣(あそ)が 鼻の上を掘れ(巻十六3841) ● 小児(わらは)ども 草はな刈りそ 八穂(やほ)蓼を 穂積の朝臣(あそ)が 腋草を刈 れ(巻十六3842) ● 何所(いづく)にそ 真朱(まそ)掘る岳(をか) 薦畳平群の 朝臣が鼻の 上を穿(ほ)れ(巻十六3843) ● 法師らが 鬢(ひげ)の剃杭(そりくひ) 馬繋ぎ いたくな引きそ 僧(ほふし)は泣かむ(巻十六3846)
随分とお行儀の悪いジョークが並んでます。偉い人やら坊さん等をからかう歌すらも収録する度量の深さが、巻十六の魅力。茶化しから始まって風刺に至る今日のコメディの原点が、さりげなくこれらの歌にちりばめられてるような気がします。
《不意に出くわすキャッチーな言葉》 巻十六からはこの歌も紹介しときましょう。
● この頃の わが恋力 記(しる)し集(つ)め 功(くう)に申(まを)さば 五位の冠(かがふり) (巻十六3858)
ひと昔前のチューハイか何かの甘いお酒のCMで、当時トレンディだった女優さんが「〇〇を飲んだら恋力(※こいりょく)が沸いてくる♡」とか言うてたやつを何か覚えてます。就活で問われる「人間力」、女性どうしで競い合う「女子力」等など「〇〇力」という造語は何でこんなに抑圧的なニュアンスを帯びるのだろう。それに「恋力」というこの言葉、めっちゃあざといわ……等とCMが流れる度にぼやいてましたが、まさかこの言葉を『万葉集』に見つけるとは。ちなみに「恋力」の、万葉での読み方は「こいぢから」です。恋愛に費やした労力という意味。惚れられるより惚れさせたいのが万葉的恋愛、自発的でいいですね。
【三】 小説とかエッセーなどと比べると、詩は文字数の長短に関係なく、個々の作品の「ポエジー」に向き合わないと、単に文字列を素通りするだけに終わってしまいがちです。『万葉集』も、そのような詩の厄介さを帯びた岩盤の固い歌がごまんとあるのですが、現代社会に生きる我々にも通じる下世話さ、滑稽さ、あるいは思わぬ知性の閃きを感じさせる歌が、不意に飛び込んできます。遠い昔の人と今の自分とが似たような感覚を共有してることが、何だかとてもありがたいのです。そんな訳で解釈はテキトーに表層的なノリで突っ走る僕の邪道な『万葉集』との付き合い、まだまだ続いておりますが、それはまた別の機会に。
10年代文化論』という本をずっと読んでいた。これは発売当時の2014年に2010年代の全体の総括を行うという野心的な本だ。自分は、著者の『ニーツオルグ』や『Hang Reviewers High』というテキストサイトやブログにとても影響を受けていたので「これは決定的なものになるぞ!」と大きな期待をよせていた。発売から遅れること半年、やっと手にすることができた。いざ、と興奮しながらページをめくる。しかし、思わぬ事になった。驚いたことに、どうしても第二章から先に進むことができない。なんど挑戦しても何か恐ろしくなって引き返してしまう。しかたがないので、思い切って飛行機の中に持ち込み、逃げ場をふさいでからむりくり読んだのだった。
そうして読み終えたあと、なにか茫然としてしまった。これは自分にとってまさかで、完全な不意打ちだった。つまり、読んだけどわからなかった。「わからない」というと語弊がある。書いてあることの理解はできるけど、書いてある以上のことは理解できなかった。おかしな表現だけど、言うならば「自分なりの把握」ができなかった。それは誰かの感想を読んでも内容の紹介や要約以上のことは見つけられなかった。『10年代文化論』について何も言うことができないこと。それがどうしても悔しかったし、なによりも、何か大変なことをされた気がするのに、どうしてみんな平然としていられるのだろう、と不思議に思った。だから、この本について絶対なにか言ってやろう、そう決めた。それから、何遍もくりかえし読み返した、それでも何も言えないから、参考文献も全部読もうとした。そして、なぜあんなにも読むのが怖かったのか、その原因を突き止めたかった。
しかし、ふと思う。そのような動機を切実に思いながらも、自分はどこかで、著者やそのファンから、ちょっとした関心を買うために努力してはいないか?ふたつみっつのRTやいいねをもらって気を晴らしたい。そういったエゴが潜んではいないだろうか?もし、そうだとしたらそれはとても恥ずかしいように思う。願わくばそうでありませんように。しかし、そういったあらかじめ決められた“答え”を当てるような、そんな読み方そのものが間違っていることに気づいた。「10年代」と聞くと、つい「期間」や「世代」の問題だと考えてしまう。もちろんそれらも重要だけど、その問いの出発点を見誤らせてしまう。つまり、「私たち」の問題ではなく、まず「私」の問題として考えはじめないといけなかっ た。
この本には、著者が個人的に完結させた論理だけがある。「2007年に起きた変化が2010年代に大きな影響を与える」という枠組みが提示され、あとはその変化の事実だけが積み上げられていく。そこに「だからこうなる」という期待や不安などは一切言わない。だから、目新しいわかりやすい“答え”を探していると気づかずに通り過ぎてしまう。しかし、その平静につづられた普通文には「時代は変わった」という主張が一貫して流れている。自分はすでに明示されている単純なことを素直に受け取ることができていなかったのだ。「時代が変わった」ということを個人的な問題とする、とはどういうことか。それは「これまでのものの見方は役に立たなくなった」という危機である。僕が第二章から先に進めな かったのはこのせいだ。今までの経験や自信は葬られ、ノスタルジーすら許さない。実際に著者はそのように記し、そのように自身を変え、まだわけのわからないものの世界へ身を投げた。自分は、遠くからその蛮勇をみてふるえていたのだった。
結局、参考文献の全部を読むことはできなかった。この本によれば、2007年には2010年代的なものが登場しはじめるので、2017年の現在は2020年代がすでにはじまっている。だから『10年代文化論』について考えるのはタイムアウト、おしまい。この本についてずっと、わからない、けど気にかかる、絶えずなんか意識していた。すると、気がつけば自分は90年代や00年代の思い出に捕らわれずに済んでいた。そして、読むはずのない本を読んだし、考えるはずのないことを考えた。それらは、苦しかったけど楽しかった。すべては自分の勝手な思い込みかもしれないけど、自分なりに「10年代」を楽しんだ。だから、もういい。もう怖くはないから大胆に次へ行く。また「20年代」がやってくるけど、同じように突き詰 めていくかといえばそれはしない。これからも現在と向き合っていくけど、同じことはしない。そして、ぜんぜん違うことをするよ。ありがとう。
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さやわか『10年代文化論』(星海社新書)
それでさ『10年代文化論』はすごい恐ろしい本なわけです、すべてを空っぽにしてしまう感じ。やっぱice9、ほんと。たとえばさ、ここに出てくる初音ミクや友達、アイドル、オタク、インターネット、社会通念から言葉の意味まで、今までなんとなく無意識に信頼していたものがさ、実は中身のないがらんどうで、それらは分離できて可塑的で、もうガンガン変わっていくっしょ、みたいな話。じゃあ単純に「すべては無の無、空の空なんだね。」ではなく。空っぽにしか感じられなくなった現実に、ひとつの時代の輪郭を与えて人格のあるものに仕立てた。そうして作られた「10年代像」そのものもまた虚構みたいな。
うん。10年代の若者文化がそうであるように、若者文化はいつの世も徒花で空虚さを含むものですよ。でも、あらためて自分が慣れ親しんできた90年代や00年代の文化も同じだよねって突きつけられれば、それはもう自分の構成要素をバラバラにされるに等しい。二次元のイメージや友人関係、人間という存在、ジャンルの定義、ネットインフラも。ぜんぶバラバラに崩れ去って使い物にならない。しかも、バラバラにしてかつ放置だからね、この本。自分で組み直さないといけないじゃん!も~超時間かかったよ、昨日までやってたもん。そうこうしてる内にあれでしょ。「2007年には2010年代的なものが登場しはじめる」から、もう「20年代」来ちゃったよ。また!またバラさなきゃいけない、こんどは自分で。 まあ、どう組み直せばいいのか実験しがいがあるけどね。またゼロからやり直すのめんどくさいけど、そこ怠るとなぁ・・・・・・。また誰かがおもしろいことを起こすのをただ口開いて待ってるみたいになるの嫌だし。つーわけで、変身!
2020年代を生きのびる人間、どんなのがいいかなぁ。
モコモコスリッパ
ただいま、一旦途絶えてしまった民俗芸能を継承するプロジェクトに一昨年の2016年から関わっています。
そこで関わる全ての人がたびたび見失いそうになること、「内部」と「外部」それぞれの使命が相容れない事実として、
これは、継承'事業'だということがあります。
芸能をただただ継承することと継承'事業'は違うわけですね。
その為、継承という言葉を括弧に閉じる必要があります。
言わずもがなかもしれませんが、
私は、毎年役名(ゲストアーティストとか専門家とか助成元の予算項目によって)は違うにせよ、名目上も実質上も外部から参加する者です。
内部だけでは復活、続けることが困難であるがゆえ、
内部が抱える問題(と言うべきかわかりませんが)と事業主のニーズ(行政区画内の魅力のひとつとして芸能を活用することの効用を期待)がマッチして、この継承事業は起こせるのですね。
やってみて体感できたことは、内部が考える「外部」、外部が考える「外部」は異なるということです。外部が新たな「外部」をうみ、そしてまた等しく内部をまた別の「内部」と認識するのです。
つまり何が言いたいかというと、最大限望ましいことは、集落内部だけで完結する形で維持されるということですね。それは内部としては。私という「外部」の者でもそう思います。
しかし、立ち行かなくなった現在より少し前、ある時点で上記ニーズがマッチした瞬間があったのでしょう。そして、プロジェクトという事業が始まった。
事業主の大元はその集落を抱える行政で、事業主つまり外部が考える「外部」は行政区画外のことを指し、内部が考える「外部」は先述から察してもらえる通り、集落外のことです。
内部だけで立ち行かなくなった今、将来的に集落内で行えるようになるためにも、なんとかおおまかな振りだけは記録、記憶しようとする役割が私などの「外部」の者、とりわけ実際に習うためにきたアーティストということになります。
去年習っていく中で、集落内の当事者たちは、熱心に習い継いでいく意思があるのならば、それは「外部」の者だとしてもいてもらえたらいいのではないか、という意見をうかがったことがあります。
確かにそのことは3年にまたがり彼ら集落の人、いやその民俗芸能をやってきた、やれる方々と接する距離感やムードの変容からもそれは伝わってきています。
話を少し前に戻すと、行政区画外を「外部」とし行政区画内こそが、少し極端な言い方になりますが、正統にほど近い継承者と見なす、つまり私たちアーティストは部外者であると見なす者、加えて予算との折り合いもあるのでしょうが年度ごとに招く人数などを変更せざるを得なくとも変更する立場を取る者
、それに対して行政区画内でも集落外を「外部」としながらも一旦は途絶えてしまった芸能を定着させるまでは、はたまた定着してからでも継承してもらえるならばいても良いよとする者の間で、私は揺れていました。
それぞれのミッションが同じように見えながらも、かなりズレている。
それは、民俗芸能そのものでない、'事業'だからです。
私は、事業であるならば、事業として成功しているかどうかを内部はじめ、外部の者が評価・判断し、成功できていない現状があるならば舵をきれなければならないと考えています。
しかし、現状は、どこを成功と置くかの目標設定すらも曖昧であり、予算確保も単年度ごと、しかも採択がわかるのが6月という国の助成金のみに頼っていることは、この事業そのものがいつまで続けられるか毎年日々感じなければいけない不安な中、ただ事業主からも継承という大きな課題解決というミッションを差し出され続けているこの構図は、本当の意味で搾取だと感じています。
私は、この事業がなくともひとつの民俗芸能として存在することを最終地点としたい、しなければいけないと考えるようになりました。その意思が共有しきれているかというとまだ私の力不足でそうはなっていません。
表面的には事業の上での奉納(本番ということですね)が昨年でき、今年を迎えています。
現場にいる人はこの芸能のことが好きです。これまでも、やりたい人が自由に参加するスタイルでこの芸能は続けてきた、続けるという意識を持たないまま、自然にして存在していたとききました。
集落の彼らもはじめは事業主から焚き付けられ、「外部」の人を調達し、できるかわから
ないどうやって進めれば良いかもわからないプロジェクトに戸惑いながらも、この「好き」から想いが少しずつ触発され、この集落の芸能として捉えながら、演奏、舞う喜びを感じています。いや、いるのだろうと推測します。(僕はそのような気持ちになっています。)ただ、事業ということでこの期間においては支えられている面は否定できず。それが基盤を持つ、今まで通り集落だけで行えるようになるまで支援が続かなければ、はしごを外され、元に、続けられない状態に戻ってしまう恐れを抱きながら。その辺りを事業主は何を思うのか知りたいところです。
今年度は、集落出身者の若手が2名参加することが決定し、まだまだ将来のことを考えると継ぎ手は足らないものの、素敵な出来事が起こりました。
しかしながら、まだ定着、つまり集落だけで芸能を続けるには、現在の継承者たちが高齢である不安を鑑みれば、難しいと言わざるをえない状態です。ご本人たちもそうよく僕ら(アーティスト)におっしゃいます。
事業を起こしたことで、このひとりひとりの人生(の最期)をも左右する、再び復活させいびつな継承を行うといういわば歴史を作りかえる行為の責任を事業主はどう考えるのか。
「予算がなくて今年は支援できなくなりました」というのは、どれほど罪深いのか。高齢に関わらず熱心に身体の不調をおして教えてくださる継承者の方々、実際に稽古で無理をし身体を悪くされた方もいます。その方の生き死に、つまり、期待させ動かしてきたのに、予算がなく定着までの継続支援が途絶えてしまった時、一気に芸能の継続が難しくなってしまう、と。そうすることでこの事業に参加することは本当によかったのかと死ぬ前の諦念を残してしまう結果になるかもしれないことを事業主はやっているわけですよね。そこに自覚があるのでしょうか?もっと対話し、活路をともに見いだしていかなければならないのではないでしょうか?
行政区画内を「内部」とするならば、その「内部」でこの芸能を定着させるまでの間支援を行う体制をもっと模索するべきではないのでしょうか?
そんな事業主の無自覚な暴力性に精神をおかされてしまいそうな時間を過ごしながらも、事業ではない民俗芸能そのものとしての姿がより強くあらわれることを夢想しています。
2017.7.12 タカハシ 'タカカーン' セイジ
こんにちは、野口ヤブカといいます。
関西で「ファクトリー京都」というアート・イベントなどをしている団体(現在は活動休止中)に属しながら、普段は創作活動を主にしています。
今回、僕が用意してきたのが、2000年に公開された岩井俊二監督の映画「リリィシュシュのすべて」に関するテーマです。
何故、今この映画なのかというと、主人公の市原隼人演じる中学2年生の蓮見やクラスメートの14歳の登場人物たちと同じく、僕も公開された2000年当時、同じ14歳の中学2年生だったのです。
今年2017年に満31歳になる“リアル・リリィシュシュ世代”の自分が、ふと中学2年生だったころを思い返してみて、
「本当にあの頃の僕らはあれで大丈夫だったのだろうか?」
「もしかしたら何か大切なものが欠けたままでいるんじゃないんだろうか?」
とそんな“何か空虚なもの”を感じていたときに、この『リリィシュシュのすべて』をヒントに色々なことについて考えてみようと思いました。
この映画は公開当時、生々しすぎるいじめのシーンや14歳の心の痛みをリアルに描いた映像が大きく話題になりました。
あらすじを簡単に説明すると、
主人公の少年・蓮見はリリィシュシュというカリスマ的な女性歌手の音楽と出会い、その世界観にのめり込んでいく一方で、そのリリィシュシュを教えてくれたはずのクラスメートの星野から陰湿ないじめを受けるようになる。蓮見は自らリリィシュシュのファンサイトを立ち上げて、そこに心の寄り処を求めていくようになる…。
実際、そのファンサイトが映画のラストに起こる事件へとつながっていくのですが、このリリィシュシュという歌手はこの映画の中では最後までその姿を見せることはなく、主人公のような熱狂的なファンの〝偶像崇拝〟的な形として最後まで描かれている。
下手な映画監督ならストーリーにうまく絡ませながら、大きな話へ発展させていくんだろうけど、この映画では主人公ら登場人物やストーリー自体に何かを“付与”するような形で存在している。
では、星野から陰湿ないじめを受けるようになった蓮見や、援助交際を強要されたクラスメートの女の子など、彼らの中で欠けていたものとは、いったいどういうものだったのだろうか?
映画の中では過激ないじめの描写や、重苦しい空気をまとった教室の様子が多く描かれているが、一方の現実の僕らが中学2年生だった頃は、どちらかといえば明るい話題のほうが多かったような気がする。
ちょうどTBSの『学校へ行こう』のような大きなバラエティー番組や音楽番組が増え始めた頃で、もちろんいじめなどの社会問題も多かったけれども、どちらかというと僕らより少し上の年代(1997年から99年ごろにちょうど中学生ど真ん中だった世代)の方がそういった深刻なニュースや暗い話題が多かったように記憶している。
おそらく、そういった時期に、監督である岩井俊二がインターネットのチャットで一般の人たちと交流をしており、そこからストーリーの元になるアイデアを集めていたことが年代の重なりとして表れていたんじゃないかと思う。
現実の生活では、この映画のような大きな出来事は起きることもなく、ただ平凡に日々を過ごしていたけれど、それでも何かが欠けていたような“大きな不安”というのは、2001年のニューヨークの同時多発テロが起こり何かがはじけた飛んだように、あの頃、中学生だった僕らの誰もがきっと感じていたのではないのかと、今になって思うようになった。
国内の政治に対して「しらけムード」が蔓延していて、特に親や教師など近くにいる大人に対するしらけがひどくあって、小泉元首相やドラマの『GTO』のような型破りな大人の登場を期待するムードがあった。
そんな時代を生きていた中学生にとって、リリィシュシュのようなカリスマ的な女性歌手の存在は確かに大きいものだったし、そこに希望の光を見出すことは当然のことだと思える。
リリィシュシュの音楽を読み解くうえで、重要なキーワードに「エーテル」というものがある。
これは人間の精神を満たすオーラのようなものを指していて、母親の子宮の中で赤ちゃんが育つときの羊水にたとえられるものである。
ただ“母性の象徴”としてリリィシュシュが描かれているように感じられるものの、蓮見ら登場人物たちにとっては、母性というのはこの映画の中ではあまり重要ではないように思えてくる。
それは時代のうねりの中で何か得ようとする力が、星野のように突然教室の中で暴走したり、リリィシュシュの音楽の中に何かを見出そうとする蓮見の姿に形を変えていった結果なのではないのだろうか?
同じ生活の中で何気なく付き合っていたものの、反抗期を迎えたことがないまま中途半端に堕落した大人になっていく。
表には見せない本当の姿というのを、お互い知らないまま僕らは大人になっていったんじゃないかと改めて振り返ってみて思ってみた。
実のところ、僕はこの映画のストーリーがあまり好きではない。
映画の触れ込みなどによく「リアルな描写がすごい」と書かれてはいるけど、ゴシップ紙の三文記事のようなエピソード(援助交際やレイプシーンなど)が無意味に目立っているだけで、実際はほとんどが〝中学生あるある〟のようなシーンの羅列でしかない。映像がかっこいいだけで、主人公・蓮見の描写以外はどのエピソードも決してリアルといえるものではない。
取って付けたような現実味のある設定(蓮見が万引きをしたレコード屋の店員が引き取りに来た学校の先生と実は同級生だったとか)が出てくるたびに、毎回「あぁこの監督、本当に話作るの下手だなぁ」と思ってしまう。
そんな、たとえ取って付けたようなストーリーでもそれを跳ね返すだけの映像の力が岩井俊二の映画にはあるんだなぁと思った。
あれから17年たって、今になって思うと僕らは常にリリィシュシュ的なものに囲まれていたし、リリィシュシュ的なものを求めていたと思う。
ただ、それはとてもバーチャルな存在ではあるけれど、僕らにとっての本当にバーチャルな存在とは、もしかするとすぐそばにいた友人であったり家族であったり、もしかしたら自分自身がそうだったのかもしれない。
そういった虚像を抱えたまま僕らは2000年代、2010年代という時代を生きてきて、きっとどこかにそんな虚像を抱えたまま、これからも大人になっていくのかもしれない。
芸術が好きです。一生出会わない才人や墓標の下の奇人と対話できる、芸術が好きです。ペラペラと解説できるほどの知見やセンスがないと、胸を張って「好き」と言ってはいけない雰囲気がありますけど、芸術が好きです。
でも、芸術家が伝えたいことをどこまで理解できているのか。いつも不安です。芸術家の名声に振り回され、解説文に酔いしれて、芸術をわかった気になってほくそえんでいる。せいぜいそんなところです。
幼い頃から、人と違うことをするのが好きでした。人と違う自分を見せることで、存在を認めてもらいたかったのかもしれません。芸術ぶりだしたのは16歳くらいのことだったでしょうか。人の目を気にして、他人との比較からでしか何かを生み出せなかった僕は、幹の太い強烈な個性と切っ先の鋭いセンスを握りしめ、自分が選んだ表現方法に脇目も振らず突っ込んでいく、芸術家のようなタイプの友人にいつも憧れていました。
僕にも、芸術家になりたいというみみっちい夢があります。詩人を名乗っていた時期もありました。一番こわかったのは、批判。書きたいことを書く強さなんてありませんし、そもそも何が書きたいのかもわかりませんでした。
りっぱな芸術家の岡本太郎は、「何も恐れずにぶつけるんだ!」 って励ましてくれます。「わかりました、思いっきりぶつけてきます!」 そう言って辺りを見回しても、ぶつけるための何かはどこにもなくて、僕の周りには茫漠とした空白がただ広がっているだけでした。
期限が近づくと、芸術風な言葉の輪郭だけをつらつらと並べ立て、詩のような格好をしたハリボテをせっせせっせと組み上げる。「芸術はオナニーだ」って、芸術家はよく言います。
射精すらしたことがない、勃起しているふりをしたサオなし人間。それが僕の正体でした。
大先輩たちに近づこうと作品を読んでも片っぱしから内容を忘れ、孤独と戦って自分を見つめる作業もせずに、欲望に負けてまた街で酒をのむ。創作に行きづまると、音楽、デザインと違う表現方法へ逃げ込んで、一流と言えるものは何もない。
そんなサオなし人間がつくった作品のようなものに、優しさをかけてくれる人もいました。「すごい」 「応援してる」 その場をかわす方策だとわかっていても、そんな賛辞にすがりつき、調子に乗り、調子に乗っている自分にふと気がついて、器の小ささに絶望して。ラスコーの洞窟に牛を描いた人は、他人の時間を奪い取る罪悪感に苛まれたりしていたのでしょうか。
こんな鬱屈とした気持ちを芸術として表現できたら、もしかしたら作品になるのかもしれませんけど、僕にはそのすべがわかりません。
……まだ。
☆第1回☆
楽をするほど、後が豊に。
叩かれ、投げつけられなど、せずに
みんな、横綱なれます。
ロシアの哲学者
モルゾフ ノルチェレン
prrrr…ガチャ
タケル:もしもし、たぶん指紋とられちゃったー
M先生:えぇー!!残さずにとれるのー!!
タケル:そうなんです、何だか夢を見ているようで…
M先生:なるほど、それは自慢ですか
タケル:うっふっふっふ
M先生:こっ怖いーーー!!!早く電話を切りたいー!
タケル:待って下さい!こんなところで躓く訳にはいかないんです!!
M先生:当たり前だろ?ナマ言ってんじゃないわよ
タケル:さすがモフモフ先生!それでこそボクの憧れだー!!!!
M先生:憧れですか…
タケル:もちろん!恨んでも仕方ないですし、だからと言って武者になりたいなんて思いません!
M先生:それでこそ、里帰りで「弟子の政所」へと続いていくべき道標です。
タケル:村おこしには必需品ってね!
M先生:いやいや、ふわっとしたこと言うなーーーー!!!
タケル&M先生:わっはっはっはっは
F先生:もう、おなかいっぱいですぅー
こうしてタケルは安堵の表情を浮かべ、一日で百年分老いた…
迷いがない。それは素晴らしい。
真っすぐで、泰然としていて、かっこいい。
これはまさに、俺のことである。
いつ覚えたのだろう。迷うことなく、二本の電車を乗り継ぎ、数え切れない無数の人人を掻き分け、道を行く。スタジオへと続く道をだ。
ここ2、3年で増えたコンビニと青果店を合わせたような、逆に一昔前の田舎にありそうなグロッサリー風のコンビニで途中、ネーブルを一玉買う。これも知らぬ間に習慣になっている。このネーブルの、皮に含まれる油分。これが大事なのだ、後々、重宝する。
後は急ぐだけだ。もう、メンバーは大体やって来ているだろう。
やっぱりコイツらのプレイは最高だ。このグルーヴは他とない。ビートのつながり、織りなすノート、迷いがない。格好いい。
そして、俺はどうだ。ほんとうに、伸び伸びやらしてもらってます。歌うことの気持ち良さを教えてくれたメンバー、そして歌えた俺。最高と最高が合わされば大きな最高になるんだね。1+1=2なんかじゃなかった。
1+1=何か?
それは見たことのない大きな1。ワンネス。
そのワンネスの俺は一部。なんたるハピネス。
でも、正直に言うと、そんなにハピネスでもない。正確に言うとスランプ。端的に言うと、歌詞が浮かんでこない。書けなくなってきたのである。焦っている。泰然としていられない。俺は迷いまくっているのだ。
練習後、スタジオの受付の通路挟んで左手奥にある3畳ほどの大きさの休憩スペースでメンバーと談話。俺はここでネーブルを食う。
メンバーは俺以外みな喫煙者で、俺はタバコをやらない。喉に悪いから。で、代わりにネーブル。豊かな果汁が喉を潤すのは、言うにあらず、また、その鮮烈なシトラス香気がタバコの煙たさを緩和してくれる。
俺は、ネーブルを楽しむのもそこそこに、剥いてちぎれちぎれになった皮クズを、ギターのアスカ、ベースのKAORUに手渡す。
ネーブルの皮に含まれるオイルが、楽器を磨くのにちょうどいいからである。
アスカとKAORUは皮クズを無言で受け取り、丹念に各々のギターを、ベースを、磨いていく。その作業を見ているのが好きだ。
こっちまで綺麗になった気がする。
練習後の熱い喉を癒し、タバコの臭気を排し、楽器たちをきれいにする。
ネーブルは、一石三鳥の代物だ!
そんなネーブルでも、どうにもならないのが今の俺の作詞スランプだ。
こいつらと最高のワンネスであらんためには、このスランプから抜け出さなくてはならない。
俺は作詞をする。そのため、よく本を読む。でも、どうしても退屈に感じてしまう時がある。そんな時俺は、あっさりと雑誌に切り替える。雑誌は楽だ。ホントに楽。何も考えずにパラパラ。適当に開いても、数ページ飛ばして読んでも苦にならない。
メンバーたちとフレンドリーな別れ、再会の約束を交わし、スタジオを後にした。
真っすぐに家に帰るわけではない。これからあるところへ電話をしないといけない。
メンバーには秘密にしているが、俺には作詞について種々様々なことをアドバイスしてくださる先生がいる。それが、モフモフ先生だ。
スタジオから15分ほど歩いた所に奈良山大社という神社がある。大社という割にはコンパクトな造りで、あまり流行っていないのか、この大社で参拝客というものを見たことがない。神社にも流行りというものがあるのだ。この神社は流行っていない、が、しかしそれがいい。ホンモノって感じがするじゃない。経営?が逼迫しているのだろう、修繕費用も儘ならなく、管理も疎かで、ざっと全体を見渡してみて、汚い。が、それがまたいい。枯れ。飴色。ヴィンテージの味わい。俺もこんな風に歳をとれていけたら、と願う。
セッション終わりにメンバーと来たこともあるが、大抵は俺一人で来る。詞案を巡らしたり、余ったネーブルを食べたり、ただ、ぼんやりと過ごしたりする。俺は、ここが好きなのだろう。他のメンバーはあまり来たがらず、アスカとKAORU、ドラムスの鈴下君と3人で連れ立って駅前のどこにでもあるような繁華街へと流れていく。まったく、風情、情緒というものがないのである。凡凡凡凡、母凡凡凡凡。頭の中でランニングベースが鳴っている。母凡。
スタジオの面している道は実は、この神社の参道なのだ。ゆるい上り勾配になっていて、その、参道を歩き、しばらくすると左へ切れ込むように小径が現れ二叉路になる。
その小径はさらに急な上りになっており、進んで行くと、やや森のようでもあり、そこを抜けると奈良山大社に出る。ここで、俺はいつもモフモフ先生へ電話をする。
神社の境内に入ると心が洗われる。
頭もすっきりする。視界もワイド。
モフモフ先生とお話をするときは、真っ白な自分でいたいのだ。
やや、指先が冷たくなっているのを感じながら、俺はモフモフ先生に電話をかけた。
「もしもし、あ、俺です」?
「ぅもひもひ、ん?どこの俺ですかあ?」
「タケルです、いつもお世話になります」
「あいあいあいあい、声聞いたらわかりますよってにひひひひひ」
「すふっ。またなんかダメっぽいんすよ」
「そんな時のための僕たちですよひひ」
「偉大っす」「僕たちが?」「はい」
「今、君が話している僕は、僕の知らない僕だよね」「でもー、声の奥で呼んでるじゃないですかあ」「どっち?なんて?まって、」「冗談は短めにして貰えたら有難いっす」「いっひっひっひっひ」「ナンボ煮込んでも輪ゴムは輪ゴムや!」「いつも、すんません」「中腰?」「いえ、なんでしょう、石の上に腰掛けてます」「なにて?い、イスゥ?イスゥ?」「いえ、石です」「家?」「いや、石のというか、狛犬の」「アノコノテマエミソ」「あ、せやせや、狛犬の石やんな!ほんに、豪胆な、ホッホ」「快適っすね」「で、今の僕はどっち?うん?」「フッフッフ」「マスカットつまみたい」「よっしゃ、やろか」「紙とエンピツーー!!」「もうあれなんすよ、虹とか見ても色ばっかり気になってしまって、なんかちゃうよなーって」「可愛げないでそれは」「はい、なんというか、越えていかないんですよ、ここんとこ」「古今亭!」「オーバーザレインボー響いてこやへんねやな」「志ん生!」「ええ、言葉が降ってこないって言う感じですか」「ジェットコースターやで、作詞は」「感じが」「穴ぐら坊や、出ておいで?」「引っ張りだしてくださいよ!先生!」「AM弾けるGALs」「転がしてばっかりで、ちゃんと勉強してるう?」「読んでます、読んでます」「雑誌パラパラもしてるう?」「パラパラに切り替えてもしょぼんです」「そうか」「ゲイバー三軒ハシゴして、太陽も少し?Uh?Ha?Ah」「あれ知ってる?」「ええと、なんでしたかね」「太陽ずっと見るやつ」「ずっと見るんですか」「そうそう、太陽をな、じっと見るねん、見つめるねん」「いや、知らないですねえ、てか、」「今夜をもっと、もっと、明日もずっと、ずっと」「太陽じいーっと見つめますやん、ほんなら目の中っちゅうか、頭の中っちゅうか、なんやわからんけどワァっとなってブワァっとなってスピピピーン!ってなりよるやん」「ほんまにそうか?ドキドキ止まらない!」「あんまり見たらあかんと思ってたというか、そんなんなるんですか?」「うん」「で、それがなんかあるんですか」「お湯が冷めて水になりましたよ、過ぎてくぬるま湯」「あ、知らんか、ほんならあかんなあ」「見た方がいいですか、やっぱり」「本は何も教えてく?れ?な?い」「いや、せんでええ、目悪なる、阿保なる」「大学という戦場、食え食え」
「要するにこの感覚やねん、作詞って」「本と距離おかしてもらうで候」「なんとなくわかりますよ」「うそ?わかる?うそぉおお!?」「セナカにツバサ、あってもいいじゃない」「はい、なんかおもろいっすね、なんか」「ハッハッハ!ほんまに定説どおりでんな?ウワッハッハ」
「巴里で迷子、あなた見つけてウィ、しるむぷれ」
「ほんま、なんなんすかね、なんやったんすかね」
「jajajajajaja?」
「鯨ベーコンちょーピンク」
「なんか、出来そうっす」
「ほんまか?jajajajajaja?」
「先生またまたありがとうっす」
「付けまつげにも興味もてもてー!」
体の底ってどこなんだろう。
モフモフ先生、(正確に言うとモーさんとフーさん。多分、森田さんと藤井さんかなんかそんなとこだろう)との電話会談を終えた俺は、体の底の方からアツいものがこみ上げてくるのを感じ、またそのアツいものを逃さないように、と必死になるあまり、もーお、離さない!と叫んでしまった。幸い境内には俺以外に人はなく、ホッとしたあと、間髪おかず、笑みが溢れた。可笑しかった。枯れ葉が仔細らしく風に舞っている。
傑作だ。傑作ができてしまう。間も無く。
紅潮している時、テンション上がってるとき、嬉し楽しい時、人はあえて恥ずかしい表現を使いたくなってしまう生き物だ。俺はルンルンだった。自動販売機にある飲んだことのない飲み物、というか、誰が買うねん?とツッこまさせられるようなヤツ、たとえば、冷やしあめとか、プリン牛乳とか、あご出汁入り天然水とか。それらを子供たちの前で、合コンへ向かう女子大生たちの前で、エリートバンカー、大手商社マンたちの前でルンルンで、欲しくて欲しくてたまらない、という顔で勇みよく購いたい。そして、自動販売機のまえで、速攻でそれを飲む。光速で飲む。咽せる、そこそこ溢す、鼻腔へ逆噴射される。シャツごっつ濡れる。構うもんか。驚愕のち蔑視及び恐怖の目で見られる。構うもんか。シッティングオントップオブザワールド。の余裕感。と、少しの虚無感。狼狽するのはお前らだぜ。
しかしほんと、先生との会話は、霹靂だ。
天啓そのものだ。マジ強烈。マジ恐悦。
ほんまにそうか?モフモフ先生(フーさんの方)にそう言われた時、ドキッとした。そして、確信的に、やっぱり救われたと思った。本当にうまい、心を脱がすのが。心のオールヌード。
本を読んでいるから詞が書ける、雑誌やと適当に扱ってもいい、ネーブルの皮で楽器を磨いたら、トータル的に全てがキレイになって気分がいい。それ、ほんまにそうか?
返す言葉がなかった。自分の内側が外にめくれ、沸騰とも、炎上にも似た、身体が燃焼、融解していくような感覚。視界が、焦点が、どんどん遠いところに向かっていくような映像イメージ。暑いような緩いようなやっぱり暑いような、そんな一連が俺を包み込んだ。俺が後退していく。裸魂。ヒューストン。
ピンポン、ピンポン。全く正解でございます。モーさんの電話口からでもわかる、軽妙で、滑稽、そして、酔狂でアジるようなテンポについつい、身の上ばなし、今日あったこと、気持ちよかったこと、アホやなと思ったこと、嫌だったこと、などを話してしまう。
モーさんはそれらの一語一句を聞き漏らさず、たまにラーメンを食べ終えるために席を外したりしながらも、追従、同調して笑ったりし、顧慮してくれる。ええ人。
そしてその奥で、それらの会話をオンフックで聞いているフーさん。ちょっぴり冷淡なところはあるけれども、天才的とも言える洞察眼で人間の深層を曝け出し、この世の喜怒哀楽を無意味に昇華させる異端の才能、かの阿久悠をして、フーさんにはプロレスルールでも勝てないよ、と言わしめた人物。物腰はぞんざいで不躾だが、真意を射抜く言葉、そして極めて難解あるいは無内容クソナンセンス(これは、モフモフ先生方両方に言えることだが)な言葉を、気づきを与えてくれる。ええ人。
カラスが鳴いている。結構近いところでないている。アイガッタフィーリン。
夕刻、神社の境内、カラスの囀り。吉兆だ。傑作だ。でけた。早よ帰ろ。
俺は、阿吽の吽の方の花崗岩で出来た狛犬の台座から、バッと飛び降り、元来た小径へと歩いた。
小径にはいり、雑木林を抜ける途中にある、社もなにもない、野良天の地蔵を見て足が止まった。ここにこの、裸のうすら汚れたなで肩の地蔵があるのは知っている。行きしなも見た。お供え物もなにもない、元は朱色だったのだろうか、永年の雨風をまともに浴び、もちろん自然乾燥、日中、炎天にさらされ続けた結果、色はまだらに褪せ、白と朱色と無限のピンクの前掛けがだらしなく垂れ下がっている。ただ、いつもと違うのは、その地蔵の足元に、明治ブルガリアヨーグルトプレーン味の450mlが、いかにも食べかけって感じで、簡易のプラスチックのスプーンが突き刺さった状態で置いてあるのだ。
善悪、徳不徳の判断がつかぬ心に支配されそうになりながら、なんとも珍妙、ポップ、カワイイこのシュールな光景に目を奪われ、自分のやるべき事、天命、使命を忘却し、洞然となりそうになる自分を必死に振り払い、俺は、駆け出した。家路へと続く道を。ハイエナジーダッシュ。
完
良納 善生
坂上 重基
Buffalomckee
モコモコスリッパ
高崎冬十
黒いオパール
OBAKEKOUBOU(オバケ工房)
タカハシ 'タカカーン' セイジ
野口ヤブカ
塩尻 寄生(Kisei Shiojiri)
イジリーかまやつ
四面モフモフ
表紙デザイン May MARLY
紙版発行日 2017.10
編集・発行 月面(getsumen)
2019年4月13日 発行 初版
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