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jacket



ERIS/エリス 第26号

Eris Media


























NO NUKES




  この本はタチヨミ版です。


C O N T E N T S  ●  E R I S Vol. 26


アズベリー・パークからブロードウェイまで
 ブルース・スプリングスティーン 46年のロング・ディスタンス・ラン
    ……………………………………………………………………………… 萩原健太

「俺には自分が見えていた」
 シャルル・アズナヴール頌 …………………………………………………… 向風三郎

僕のニュー・アルバム『FRESH』を全曲〝ネタバレ解説〟します!
    ……………………………………………………………………………… 高田 漣

音楽の未来を探して 第6回
 国境のファンダンゴとソン・ハローチョ …………………………………… 北中正和

オレに言わせりゃクラシック 第9回
 クラシックのチャレンジングな〝今〟を実践する、ザ・ナイツ
    ……………………………………………………………………………… 能地祐子


旧聞ゴメン 第19
 総師なきファンク集団、ザップの新作『Ⅶ』 ……………………………… 鷲巣 功

僕のリズムを聞いとくれ(Oye Como Va) 第14
 ニューヨーク・ラテンの新風を次々に送り込んだパルミエリ兄弟
    ……………………………………………………………………………… 岡本郁生

どうしても聴いておきたいアメリカン・ポップス 1001 第19
    ……………………………………………………………………………… 亀渕昭信

ピーター・バラカンの読むラジオ 第25
 貴重音源発掘 ジャズ・プロデューサー
 ゼヴ・フェルドマン インタヴュー ……………………………  ピーター・バラカン

Gジャン放浪記
 楽器オタクの雑記帳 第10
 DIY:第4回~〝ベンダー〟の魔力………………………………………… 高田 漣


ブロードウェイまで12時間と45 第19
 NYミュージカル・シーンの音楽的動向
    ……………………………………………………………………………… 水口正裕

執筆者紹介


編集後記 …………………………………………………………………………… 萩原健太

いままでにない電子書籍版音楽雑誌「ERIS/エリス」。
編集長は萩原健太。個性豊かな著名執筆陣が音楽を熱くマニアックに語ります。ジャンルも、ジャズ、ロックンロール、ポップス、フォーク、カントリー、ブルース、R&B、クラシック、ミュージカル、ワールドと幅広く、音楽を読む楽しさ満載。年3回(3、7、11月)発行です。詳しくはホームページをご覧ください。
http://erismedia.jp/

special article

アズベリー・パークから
ブロードウェイまで


ブルース・スプリングスティーン
46年のロング・ディスタンス・ラン


〈ソングライター・ファイル:特別編〉









萩原健太


 トニー賞特別賞を手にした〝ボス〟

 去年、2018年の6月10日の夜、ニューヨークのラジオ・シティ・ミュージック・ホールで第72回トニー賞授賞式が催された。日本では翌11日の朝のこと。寝不足の目をこすりつつ、その生中継をテレビで眺めていたぼくは、まじ、ぶっとんだ。
 水口正裕氏の連載を楽しみになさっている読者の方はもちろん、米国文化全般に興味をお持ちの方ならばきっと誰もがご承知のことだろうが、トニー賞はブロードウェイで上演されたミュージカルなどを対象とする米演劇界の祭典。そんな由緒ある授賞式でこの年、米ロック界を代表する男、われらが〝ボス〟、ブルース・スプリングスティーンが特別賞を受賞したのだった。

トニー賞授賞式のスプリングスティーン。


 スプリングスティーンは2017年10月から、ブロードウェイの劇場街にある1000席弱のウォルター・カー劇場で週に5日間、ギターあるいはピアノのみを伴った弾き語りによるショー『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』を上演してきた。当初8週間の期間限定でスタートしたショーだったが、コンサートとも、朗読とも、もちろんミュージカルとも違う斬新な弾き語りパフォーマンスが話題を呼び、翌1812月まで大幅に公演期間が延長された。最終的には全部で236回のショーが行なわれ、1億1300万ドル、つまりだいたい125億円くらいを稼ぎ出した。その功績が評価されての特別賞受賞だった。
 授賞式には、もちろんスプリングスティーン本人も出席。ビリー・ジョエルの発表を受けてトロフィーを受け取った。さらに1曲だけ、演奏も披露された。そのシーンでぼくは思いきりぶっとんだのだった。眠気もすっかり吹き飛んだ。忘れられない授賞式になった。パフォーマンスへの導入スピーチを担当したのは俳優、ロバート・デ・ニーロだった。登壇するなり、彼は開口一番、こう切り出した。
 「まず最初にひとこと言わせてくれ。F**K、トランプ!」

 ご存じの通り、デ・ニーロは事あるごとにドナルド・トランプ米国大統領の言動を激しく批判し続けてきた反トランプ派の急先鋒。この夜もテレビの生中継が入っていることなどおかまいなし、いわゆる〝Fワード〟をノッケから使いつつ「クソくらえ、トランプ」とぶちあげたのだった。多くの舞台制作者や俳優たちで埋め尽くされた会場は一瞬息をのみ、しかし直後、熱いスタンディング・オヴェイションでデ・ニーロの発言に応えた。喝采は40秒続いた。
 10秒遅れで中継映像を流していた米CBS局は音声を全面カットして対処したらしいが、日本のWOWOWはそのまま生中継。オーストラリアでも音声は消されずに流れ、それらがネット上の動画投稿サイトを通して世界中に拡散した。
 「もはや打倒トランプとか、そんなことを言っている段階じゃない。F**K、トランプだ」
 デ・ニーロは改めてそう強調し、ガッツポーズを決めると、ようやく予定されていた紹介スピーチに移っていった。
 「ブルース、君は他の誰よりも会場を揺るがす。この危険な時代に、君は自分の言葉で真実を歌い続けている。政府の透明性と統合性のために闘い続けている。それこそが今、われわれに必要なものだ」
 舞台へと招き入れられたスプリングスティーンは、ピアノの前に座り、淡々とふたつのコードを繰り返し奏でながら静かに語り出した。

スプリングスティーンのソロ演奏と独白で進行する『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』。  ©Rob DeMartin
『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』唯一の助演者は妻パティ・スキャルファ。©Rob DeMartin

 「俺はニュージャージーの小さな町で神に囲まれて暮らしていた。神と多くの親戚と。人々はこの町で暮らし、踊り、ささやかに楽しみ、野球をし、痛みに耐え、心砕かれ、愛を交わし、子供を持ち、死に、春の夜に酔う。自分たちを、家を、家族を、町を破滅させる悪霊を寄せつけまいと最善を尽くす。心臓を止め、ズボンをずり下げ、人種暴動を蜂起させ、いかれた者を嫌い、魂を揺るがし、愛と恐怖を生み出し、胸を張り裂かせるこの町、ニュージャージーのフリーフォールドで…」
 長い語りを終えると、80年代の名曲「マイ・ホームタウン」へ。
 「8歳だった俺を膝に乗せ、髪をなでながら、親父が言う。よく見ておけ、ここがお前の故郷だ、お前の故郷なんだ、と」
 感動的な歌声だった。ひどく直截で感情的なデ・ニーロのスピーチにせよ、きわめて内省的で抑制の効いたスプリングスティーンの表現にせよ、そこには、今、自分たちが大切に育んできたはずの何かが大きく音を立てて崩れつつあることへの明確な抵抗と切実な祈りがあった。

 スプリングスティーンの到達点

 こういうパフォーマンスで全体が埋め尽くされたショーが『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』なのか。すごいな。デビュー直後から現在まで、さまざまな時代に作られた楽曲が、もしかしたらこういう形で演奏されるべきだった、その最終形にたどり着きながら舞台上に集約されているのかもしれないなとすら思った。これは見たかった…。
 実は競争率がとてつもなく高かったこのショーのチケットを入手できそうなチャンスが2度ほどあった。競争率が高いことがあらかじめ予測されていたため、買いたいファンは事前にオフィシャル・サイトにEメール・アドレスを登録しておけた。そのうえで、新たなショーがアナウンスされるたび、順番にチケットを優先的に入手できるチャンスが与えられるというシステム。あとは1クリックさえすればチケットが手に入るというところまで、2度、到達したのだが。残念ながら、もろもろの調整がつかずチケット獲得を断念せざるを得なかった。どうにかして見たかった。

アルバム『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』

 まあ、今となってはショーの模様をまるごと記録した映像が「Netflix」で配信されているし、音盤化もされているので、気持ちはだいぶ落ち着いたけれど。とはいえ、そうやって改めて全貌を味わってみると、それはそれで、このショーこそある意味でスプリングスティーンが到達したひとつの高みだったのではないかという思いも強くなり。またまた悔しさが増す。困ったものだ。トニー賞授賞式を見ながらぼくが感じた、これこそがある種の最終形なのかも…という予感も、けっして当たらずとも遠からず。16年に日本で翻訳出版された『ボーン・トゥ・ラン~ブルース・スプリングスティーン自伝』も、この画期的なショーのために用意されたものだったのだろう。自伝の記述に即した、熱さと深さが渦巻く語りを1曲1曲のイントロ部に添え、それぞれの楽曲の奥底に潜む真意のようなものをえぐり出して聞かせてくれるステージを展開してみせていた。
 表現者としてのブルース・スプリングスティーンのピークを記録した素晴らしいライヴ・アルバムの誕生だった。

 シンガー・ソングライターの特質を超えて

 スプリングスティーンの表現力は群を抜いている。異を唱える人はいないはずだ。自らソングライターとして紡ぎ上げた極上の物語を、誰よりも効果的に、有機的に表現するパフォーマーとしての力量。それが凄まじい。凄まじすぎるせいで、むしろなんだか暑苦しいとか、過剰だとか、強圧的だとか、なんだかやけに曖昧かつ感情的理由から毛嫌いする音楽ファンも少なくない。ただ、逆に、いったんこの表現力の虜になると、もうたまらない。抜け出せない泥沼というか。圧倒される。溺れる。やはり、表現力があってなんぼ。その歌い手がどんなに魅力的な物語を提示していようと、その表現自体が稚拙だったら、少なくともポップ・シーンにおいては意味がないのだから。
 拙著『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』をはじめ、様々な原稿やラジオ番組などで何度も繰り返し触れてきたことなので、またその話か…と、呆れられる方がいらっしゃるかもしれないが。申し訳ない。またその話だ。題材としては少々古いものになるけれど、米国の人気TVドラマ『Xファイル』の何シーズン目の何話だったか。1940年代の米マイナー・リーグで大活躍した黒人野球選手が実はエイリアンだったんじゃないかという、まあ、なんというか(笑)、そういう突拍子もない謎をテーマに据えたエピソードがあった。主人公のフォックス・モルダーFBI捜査官は、謎を解明するために当時の事情を知る元保安官のもとを訪ねる。少々いかがわしい、調子のいい老保安官。彼の述懐を聞きながら、人柄がどうにも信じきれないモルダー捜査官は何度か疑念を口にする。すると、老保安官はこんな台詞を口にするのだった。
 〝Trust the tale, not the teller.〟(物語を信じるんだ。語り手ではなく。)

 この言葉はしみた。『Xファイル』ファンとして、というより、音楽ファンとしてのぼくの心に深く、思い切りしみ込んできた。ぼくなりの曲解も含めて噛み砕くと、要するに〝語り手に真実を求めるな。語られている物語の中に潜む真実こそをつかみとれ〟ということ。特にシンガー・ソングライターの、一見パーソナルに聞こえる歌声にハマることが多いぼくにとって、この言葉はやけにぐっときた。
 曲を作って歌っているシンガー・ソングライター本人がどんな人間で、どう日々を過ごしていて、その曲に何を託したのか。それを聞き手としてあれこれ推測しながら受け止めるのも、もちろん楽しい作業ではあるのだけれど。それよりも重要なのは、その曲それ自体に聞き手としての自分の胸を震わせてくれる〝物語〟なり〝真実〟なりが潜んでいるかどうか。そして、その物語をソングライターでもあるパフォーマーがいかに巧みに語ってくれているかどうか。この点こそ、その曲が自分にとって大切な存在になりうるかどうかの分かれ目だ。
 『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』のライヴMCでは、多くの自叙伝的な自作曲がけっして自らの体験そのままを綴ったものではなく、様々な形で脚色がほどこされている、というか、かなり話を〝盛って〟いることも告白されている。「レーシング・イン・ザ・ストリート」なんて曲を作っているけれどあのころ自分はまともに車なんか運転できなかった、「ボーン・イン・ザ・USA」でベトナム帰還兵のやり場のない思いをシャウトしているけれど、現実の自分は汚い手を使って徴兵を免れた、などなど。当たり前か。私小説と同じ。ドキュメンタリーではないのだから。そこに作家性が加わり、さらに演技者としての表現も加わって初めて、楽曲に潜む〝物語〟に命が吹き込まれポップ・エンタテインメントへと昇華する。
 結局、シンガー・ソングライターという一見素朴かつノン・コマーシャルに思える文化も、やはりそれが聞き手という他者との関係の中で一定以上の力を持つためには、底辺にボップ・ミュージックならではの完成度や、密度の濃さが流れていなければならないということだ。いくら衝撃的な私的/内的告白だろうと、それがプロの表現としての完成度を備えていなければ優れたポップ・ミュージックとして生き残ることなど到底不可能なのだから。

 70年、ジェイムス・テイラーの「ファイア・アンド・レイン」のヒットあたりをきっけに、米音楽シーンにシンガー・ソングライター・ブームが巻き起こった。「ファイア・アンド・レイン」は、飛行機事故か自殺か、様々な説を耳にしているが、いずれにせよ不慮の死をとげた療養所時代の女友達を思いながら作ったというきわめて私的な思いを下敷きにした作品だ。火と雨の混乱を潜り抜けたあとの空虚さをクールに表現したこの曲は、その真意はともあれ、ロックで世の中を変えることができるかもしれないという楽観的な共同幻想が渦巻いた激動の60年代後半を過ぎ、当時の流行り言葉で言えば〝シラケ〟が蔓延しはじめた70年代初頭の気分にぴたりとハマった。〝個〟の時代の到来を結果的に予言してみせた。
 きわめて私的な物語を手軽なアコースティック・ギターに乗せてつぶやく。ジェイムス・テイラーは、ざっくり、そういう方法論で成功を収めたわけだが。これは多くの若者たちにとって気軽にアプローチしやすいものだった。ブロードウェイ/ハリウッド~ティンパン・アリー~ブリル・ビルディング・サウンドへと連なるアメリカン・ポップ・ミュージックの伝統に対する草の根的アンチテーゼ。それゆえ、以降、我も我もとばかり、多くの新人アーティストたちが洗いざらしのジーンズにカントリー・シャツを無造作に着こなし、ナチュラルなアコースティック・サウンドに乗せてごく私的な体験や内面の揺らめきをつぶやくように吐露し始めた。レコード会社もこぞって青田刈り。当時、〝自称〟も含めると、とんでもない数のシンガー・ソングライターたちがシーンを賑わした。
 が、消えるのも早かった。生き残ったのは、たとえばボブ・ディラン、キャロル・キング、ジェイムス・テイラー、ポール・サイモン、ニール・ヤング、ジャクソン・ブラウン、ランディ・ニューマン、トム・ウェイツら、ほんの一握り。彼らはブームの衰退気運に巻き込まれることなく新時代を生き抜き、今なお現役感を存分にたたえた活躍を続けている。彼らが作家として、演奏家として、表現者として、ずば抜けていたからこそだ。ディランはやがてノーベル賞まで受賞してしまうほどの言葉の操り手だった。キャロル・キングは60年代からプロの作曲家として無数のヒット曲を生み出してきた才女。ポール・サイモンやジェイムス・テイラーはフュージョン系の腕ききミュージシャンと対等にセッションできる素養を持った音楽家でもあった。ランディ・ニューマンは無数の傑作映画音楽を生み出してきた血筋。トム・ウェイツもまた、ディランとは別のやり口で私的な体験をブコウスキーやケルアックを彷彿させるドラマティックな神話へと再構成してみせる文学性を持ち合わせていた。現在は闘病中ながら、洗練されたコード感覚や、ホール・トーン・スケール寄りの奔放なメロディ感覚を誇っていたジョニ・ミッチェルも忘れてはならない。

 が、こうした者たちのように優れた才能とセンスを持ち合わせた例は、やはり稀有だった。だから、私的な告白もすぐに種が尽き、多くのシンガー・ソングライターもどきが袋小路へと迷いこんだ。内へ内へと向かうエネルギーも涸れ、歌うべきテーマを見失いはじめた。たとえ歌うべき私的な告白があったところで、それを表現するためのパフォーマーとしての能力に長けていなければもはやインパクトもなかった。というわけで、72年ごろをピークにシンガー・ソングライターのブームは収束に向かう。ありのままでいいんだ、という彼らの静かな主張はティンパン・アリーの伝統を打ち砕くまでのパワーを持続することができなかった。76年にリリースされたボズ・スキャッグスの『シルク・ディグリーズ』あたりをきっかけに盛り上がった〝ソフト&メロウ~アダルト・コンテンポラリー〟の波や、77年の映画『サタデーナイトフィーバー』のバカ当たりをきっかけに襲来した狂乱のディスコ・ブーム、あるいは同じころに英米両国で火の手をあげた一連のパンク/ニュー・ウェイヴ・ムーヴメントの中で、朴訥とした味だけを売り物にするタイプのシンガー・ソングライターたちは次第に行き場を失っていった。
 そんなふうに収束していくシンガー・ソングライター・ブームとクロスするようにして徐々に存在感を増していったのがブルース・スプリングスティーンだった。もちろん、彼は生き残った。その表現者としてのタフさゆえに。

 〝ロックンロール〟の未来を担う表現者

 デビューは73年。スプリングスティーン本人はソロ・アーティストではなく、あくまでもバンドを従えたロックンローラーとして活動したいと望んでいたようだが、まだシンガー・ソングライター・ブームの残り香が漂うシーンにあって、レコード会社側はディランのような弾き語り系のシンガー・ソングライターとして売り出したいと目論んでいた。〝第二のボブ・ディラン〟。それが当初のスプリングスティーンに付加されたイメージだった。『アズベリー・パークからの挨拶』(Greetings From Asbury Park, N.J. )、『青春の叫び』(The Wild, The Innocent & The E Street Shuffle)という2枚のアルバムがまずリリースされた。しかし、多大な期待に比してレコード・セールスは思うように伸びなかった。レコード会社側とスプリングスティーン本人との意識のすれ違いが悪い影響を及ぼしたことは想像に難くない。
 が、次第にスプリングスティーンの熱いライヴが評判を呼び始めた。徐々に状況は好転。そして74年、以降のスプリングスティーンの活動にとって重要な存在となる音楽評論家/プロデューサー、ジョン・ランダウとの運命の出会いを経て、いよいよ快進撃の第一幕が切って落とされた。『ローリング・ストーン』誌に掲載された〝僕はロックンロールの未来を見た。その名はブルース・スプリングスティーン〟というランダウの記事は、当初のレコード会社の目論見を粉砕し、スプリングスティーンを新たな地平へと送り出した。こんなふうに、シンガー・ソングライター隆盛期と衰退期の狭間、フォーキーなニュアンスとロックンローラー的なニュアンスと両方をたたえながら登場してきた点がスプリングスティーンの面白さでもある。
 そんな時期に制作されたアルバムが『明日なき暴走』(Born To Run)だった。過去2作ではまだ妥協せざるを得ない部分も多かったスプリングスティーンだが、ランダウとの共同プロデュースによるこの新作のレコーディングでは持ち前の完璧主義を貫いた。おかげでずいぶんと完成が遅れることになったのだが、この空白をスプリングスティーンはライヴ活動で埋めた。レコーディングと並行する形で熱狂的なライヴを繰り広げ続けることで、むしろ完成の遅れを聞き手にとっての飢餓感へとすり替えた。誰もがスプリングスティーンの新作を待ち望んだ。ようやくアルバムが完成し、75年8月にリリースされることが決定したころには、すでにスプリングスティーンは米ロック・シーンの新たなヒーローとして注目されるホットな存在になっていた。『タイム』誌や『ニューズウィーク』誌が彼を表紙にしたのもこのころだ。
 一連のシンガー・ソングライター・ブームが収束していこうとする中、スプリングスティーンは、まるで米国の現代小説のような饒舌かつスピーディなレトリックに満ちたクオリティの高い自作曲群と、それらをいきいきと表現する圧倒的なライヴ・パフォーマンスでシーンを生き抜いていくことになる。アルバムの発売に少しだけ先駆けてスタートした〝ボーン・トゥ・ラン・ツアー〟の中で、最強のバックアップ・グループ〝E・ストリート・バンド〟の顔ぶれも勢揃いした。各地でのライヴの熱狂ぶりも知れ渡り、スプリングスティーンはいよいよ文字通りアメリカン・ロックの未来を担うスーパー・ヒーローへの階段を急激な勢いで駆け上っていった。

 『ザ・リバー』から受けた一撃

 後年の話になるが、87年、ロイ・オービソンがロックンロール名誉の殿堂入りを果たしたとき、授賞式で紹介スピーチをしたのがブルース・スプリングスティーンだった。そのとき彼のコメントは有名だろう。
 「75年、『明日なき暴走』を作るためにスタジオ入りしたとき、ぼくはボブ・ディランのような歌詞を持つ、フィル・スペクターのようなサウンドのレコードを作りたかった。そして何よりも、ロイ・オービソンのように歌いたかった」
 以前、大滝詠一氏とラジオ番組でご一緒した際、このスプリングスティーンの言葉を聞いて大滝さんはひとこと、「欲張りな人だね」とつぶやいていたっけ…。大滝さん一流のとぼけたツッコミではあったが、でも、この〝欲張り〟という形容こそがブルース・スプリングスティーンというソングライター/パフォーマーの特性を実に的確に言い表している気もする。そんな持ち味が最大限、魅力的な形で結実したのが80年のパワフルな2枚組『ザ・リバー』だった。このアルバムを聞いて、ぼくはようやく思い知った。この人は何ひとつ捨てない。すべての影響、すべての伝統を背負い込み、そこにさらなる伝統からの影響なり新奇な刺激なりを取り込む形で、どんどん膨張しながら前に進んでいく。そうしたスプリングスティーンの姿が『ザ・リバー』には詰まっていた。

   『ザ・リバー』の頃のライヴ・パフォーマンス。   ©Joel Bernstein

 ぼくが彼の歌声と初めて出会ったのは先述した73年のセカンド・アルバム『青春の叫び』が出たころ。少し遅れて74年、大学の先輩の勧めで耳にしたそのアルバムに対して、しかし、正直なところぼくは特に何とも思わなかった。まだまだ未熟なロックンロール・ファンだった。〝第二のボブ・ディラン〟という当時のキャッチコピーも、すでにディランにはぞっこんだったぼくの癇になんとなく障った。人間としても小さかった。心が狭かった。そんなこともあって以降しばらくの間、スプリングスティーンに関してはノー・マーク。『明日なき暴走』に対してさえ、リアルタイムではさほど熱心に耳を傾けることなくぼんやり日々を送っていた。
 仕方ない。ぼくの場合、基本的にはチャート・ヒット周辺を中心に音楽を愛好する脳天気なポップス・ファンだった。その段階ではまだ全米トップ20ヒットを放ったことがなかったスプリングスティーンの存在感は薄かった。が、そんな情弱なぼくにブルース・スプリングスティーンという名前を決定的に意識させることになる大ヒット曲が80年に登場した。彼にとって初の全米トップ5シングルとなった「ハングリー・ハート」。もともとはラモーンズのために書かれたという強力にポップでロックな一撃だった。

 「ハングリー・ハート」がチャート上位に食い込んだのは、確かジョン・レノンの突然の訃報が世界を駆け巡っていた時期だったと思う。個人的にはすでに大学を卒業して某出版社の編集者としてサラリーマン生活2年目を送っていたころ。ニューヨーク・パンクは嫌いじゃなかったけれど、ロンドン・パンクには今ひとつ反応できず、折からのニュー・ウェイヴ旋風にも馴染めず。ポップ・ミュージックってこれからどうなっちゃうのかな…と、なんとも寂しい気分に浸っていたころの話だ。ジョンの死も何かの終焉を象徴しているようで、寂しさに拍車をかけた。そしてぼくは、そうした空虚感を埋めるかのようにオールディーズ・ポップの世界に埋没していた。
 そんな時期のぼくに「ハングリー・ハート」は、いやいやロックンロールもまだまだいけるぞ、と。新しい音楽の波に乗れないからどうした、と。最先端の気分だの流行などに関係なく、伝統を堂々と受け継ぎながら時代に仁王立ちする頼もしいアーティストだっているんだぞ、と。思い知らせてくれた。
 なにせ、あの時代にいきなりのスペクター・サウンドだ。60年代に奇才プロデューサー、フィル・スペクターが構築したこの上なく魅力的な〝音の壁〟サウンドからのストレートな影響を的確にたたえた音像。これにまずやられた。強烈なドラム・フィル。C→Am→Dm→Gという黄金の循環コード。切れ味鋭いバリトン・サックス。豊かなエコー感。声質を少し若く聞かせるためにテープ・スピードを落としてレコーディングされたというスプリングスティーンの青い歌声。うなるハモンド・オルガン。客演したフロー&エディによるビーチ・ボーイズ的なハーモニー。そして間奏での短3度上への転調。完璧だった。
 同時に、このハッピーなサウンドに乗せて歌われる歌詞にもしびれた。心の安まる居場所を求めながらも、けっしてひとつところに落ち着くことができない自分に対し必死に言い訳をしているような、切実で、しかし同時にこの上なくわびしいパラドックス。ぼくはここに、かつてスペクターがプロデュースしたクリスタルズの楽曲に描かれた階級違いの恋物語や、彼に殴られることが愛情の証しだという歪んだ女の子の複雑な心象を重ね合わせた。と同時に、やはりスペクターが手がけたロネッツの楽曲から時を超えて溢れ出し続ける抗いようのないロマンチシズムをも聞き取った。
 ぼくは慌てて全アルバムを取り揃え(といっても、この段階ではまだたったの5作だったが)、それまで誤った先入観によってフィルターされていたスプリングスティーンの凄みを味わい直していった。そして、「ハングリー・ハート」を含む2枚組大作『ザ・リバー』のすごさを、なんとかぎりぎり同時代的に感じることができたのだった。
 2枚組、全20曲。E・ストリート・バンドの演奏も乗りに乗っている。5060年代のロックンロール/R&Bの精神を本能的に体内にしたためた男が、自由に、伸び伸びとその持ち味を発揮。サウンド的にはフィル・スペクター、エルヴィス・プレスリー、ザ・バーズ、ボブ・ディラン、ロイ・オービソンなど、彼が敬愛するロックンロール・ヒーローたちへの熱いオマージュが、過去発表したアルバム4作のどれよりもくっきりと、随所に散りばめられていた。歌詞的にはカントリーやフォークの影響が色濃くにじみ出していた。その世界観が見事に屈強のロックンロール・サウンドと融け合っていた。
 『青春の叫び』収録の「ロザリータ」の続編とでも言うべき「愛しのシェリー」(Sherry Darling)や「アイ・ウォナ・マリー・ユー」など、ごきげんにハッピーなロックンロール・チューンから、義弟にまつわる実話を下敷きに米国の労働者階級の間にくすぶる切ないフラストレーションを淡々と綴った「ザ・リバー」や、やけに不吉な「ポイント・ブランク」のような曲まで、何から何までが2枚のLP盤の中にランダムに渦巻いていた。「表通りにとび出して」(Out In The Street)、「タイズ・ザット・バインド」、「二つの鼓動」(Two Hearts)などで他者との絆、共同体へとの欲求をぶちまけ、しかし「独立の日」(Independence Day)では一人にならなければいけないんだ、と確信をもって訴え…。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているわけじゃない。その両方、両極を激しく揺れ動きながら、スプリングスティーンはすべてのパラドックスをありのままぶちまけ、混乱と喧騒に満ちたとてつもないアルバムを作り上げてみせた。
 この圧倒的な〝欲張り〟感。〝全部のせ〟感。これこそが彼のソングライターとしての特色であり、パフォーマーとしての最大の魅力だと思う。ぼくのような〝遅ればせ〟なリスナーも多かったということだろうか。本作でスプリングスティーンは初めて全米アルバム・チャート1位を獲得。世界的なスーパースターの座を手にした。以降、ここで本格的に露わになった個性を世界のロック・シーンに向けて炸裂させながら、変わることなく世紀を超え、最新作『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』へと至る。

 繰り返しになるけれど。タフな表現者だと思う。激しさだけでなく、繊細さすらタフに表現する男。『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』を聞きながら、この人が紡ぐ物語をリアルタイムで味わい続けることができた幸せを、ぼくは改めて噛みしめたのだった。



●ブルース・スプリングスティーン主要アルバム・ガイド──萩原健太・選/解説


1 Greetings From Asbury Park, N.J. (1973)

 〝第二のボブ・ディラン〟のキャッチコピーのもと、世にお披露目されたデビュー作。郊外に暮らす若者たちの苛立ち、退屈、喧噪などを洪水のようにたたみかけるイメージ豊かな歌詞は確かに第二のディランの名にふさわしいが、ディランほどシニカルではなく、よりロマンティックでヒロイック、そして何よりも映像的だ。オルガンを含むバンド編成も60年代半ば以降のディランに近いが、曲によって50年代ロックンロール的な粗いグルーヴを伴ったサックスがフィーチャーされている点が大きな相違か。一見ワイルドでラフなロック・サウンドを目指しているようでいながら、実は各楽器のオブリガート/フィルインまで隙なく精巧に指定されているのでは…とさえ思える楽曲全体のダイナミックな構成に至っては、むしろディランと正反対。すでに独自の圧倒的な個性を発揮している。

2 The Wild, The Innocent & The E Street Shuffle (1973)

 前作から1年足らずで発表されたセカンド・アルバム。日本ではこれがデビュー盤となった。セールス的には前作同様惨敗だったようだが、内容は充実。舞台を地元に特定したことも功を奏したか、前作以上に生々しく、強い意志をもってやり場のないティーンエイジ・ストリート・ライフが描かれている。一気に駆け抜けるアナログB面3曲が特に素晴らしい。一般的には、デイヴィッド・サンシャスとヴィニ・ロペスを含む本盤までのバンドは、その後ロイ・ビタンとマックス・ワインバーグにメンバーチェンジしたバンドに比べ演奏能力が劣るという認識があるようだが、そんなことはない。ライヴでどうだったかは別にして、少なくとも本盤でのバンドの切迫した演奏ぶりは、まだ青さをたっぷりたたえた楽曲群の世界観に見事合致している。その後の諸作に比べて〝薄い〟印象があるのは録音のせいだろう。

3 Born To Run (1975)

 前作が、ある種〝出会い頭〟の傑作だったとすれば、本盤は強い意図のもと、生まれるべくして生まれた傑作だった。74年にディオンのアルバムをプロデュースしていたフィル・スペクターのセッションを体験したことも大きかったのか、楽曲自体もアレンジもスケールアップ。レコード会社とのトラブルもあって新作をリリースできなかった時期、それならばと熱いライヴ活動で評価を急速に高めていったスプリングスティーンが、新作を求めるファンの飢餓感をも味方に付け、ここぞのタイミングでこれぞという快作をシーンに投じてみせたわけだ。〝ロックンロールの未来〟と評されたスプリングスティーンだが、本盤の素晴らしさはハイR&B、スペクター、ボ・ディドリー、デュアン・エディ、ロイ・オービソンなど、限りない愛をもって随所に埋め込まれた〝過去〟からの遺産の数々だ。

4 Darkness On The Edge Of Town (1978)

 元マネージャー、マイク・アペルとのもめ事が訴訟に発展。おかげで3年のブランクを余儀なくされた後の1枚。基本的には前作からの流れを受け継いだ鉄壁のロック・アルバムだが、前作では上り調子の勢いのせいかさほど目立たなかった暗く閉塞したムードが本盤では表面化している。裁判疲れのせいか。ぐっとこもった感じで発声するようになったスプリングスティーンの新唱法のせいか。あるいはかっちりとまとまりすぎたバック演奏のせいか…。歌詞に登場してくるのは、デビュー以来変わらず歌い続けてきたタイプの主人公たちだが、希望と挫折とが交錯する裏通りに集う彼らも、かつてのアルバムで描かれたようなたわいもない夢めがけてやみくもに突進するのではなく、より切実な救いを求めてもがいているかのように聞こえる。初期のヒロイックさを捨て、より冷徹な表現にこだわるようになったスプリングスティーンの姿がここにある。

5 The River (1980)

 74年に13曲入りの新作を完成させたものの、内容が〝十分に私的ではない〟との理由でお蔵入り。よりテーマを研ぎ澄ます形で録音を継続し、翌年発表されたのが本傑作2枚組だ。5060年代のロックンロール精神を体内にしたためた男が奔放に持ち味を発揮。前作のダーク感を払拭してみせた。壮大なストリート・ライフ・シンフォニーも、片田舎にくすぶる切ないフラストレーションを淡々と綴る楽曲も、ハッピーなロックンロールも、何から何までが2枚のLP内にランダムに渦巻いている。ある曲では他者との絆、共同体への欲求をぶちまけ、しかしある曲では一人にならなければいけないと確信をもって訴え…。どちらも真実。両極を激しく揺れ動きながら、スプリングスティーンはすべてのパラドックスをありのままぶちまけた、混乱と喧騒のロックンロール・アルバムを作り上げた。

6 Nebraska (1982)

 50年代、10人を次々射殺し逃避行を続けた19歳の殺人犯の視点で歌われた表題曲を筆頭に、前作、前々作あたりから顔を見せ始めた、冷徹/簡潔にディテールのみを綴る作風が頂点をきわめた1作。マルチ・カセットで録音されたシンプルな演奏とくぐもった音質とあいまって、スプリングスティーンの諸作中もっとも個人的な手触りを聞かせる。ある種、過剰の極みを記録した『ザ・リバー』に続く盤だっただけに、この急激な変化にぼくも当時かなりとまどった覚えもあるが、今はこれがいかに重要な作品だったかを十分思い知っている。反宗教的な表現も含む宗教観、罪あるいは救済という概念など、スプリングスティーンにとって重要なテーマが過去のどの作品よりも色濃い存在感を主張している。このアルバムを読み解くことなしにスプリングスティーン作品の理解はありえない。

7 Born In The U.S.A. (1984)

 84週間連続で全米トップ10に居座ったモンスター・アルバムだ。スプリングスティーンの名声を確立する代表作となった。表題曲はあまりにもパワフルな歌声と演奏ゆえか、愛国ソングとも誤解されたが、実際はベトナム帰還兵の苦悩を『ネブラスカ』同様の視線で綴った楽曲。他の曲にも旧作同様の切実なドラマが散りばめられ、母国への愛憎入り乱れるスプリングスティーンのメッセージが渦巻いていたが、多くは独特の感傷と郷愁によって直截さががほどよく抑えられ、それがヒットにつながった。とはいえ、この時期以降のライヴなどを振り返ると、スプリングスティーン自身必要以上に自らの存在感を大きく見せようとし始めた感は否めない。さすがのボスもあまりの名声に惑ったか。以降の活動には徐々に迷いが見え隠れし始める。良くも悪くも重大な分岐点となった1枚だった。

8 Live / 1975-85 (1986)

 訴訟問題など様々な要因から新作アルバムの発売が意のままにならないことが多かったスプリングスティーン。そのため、アルバムが出ない間、ファンは3時間、4時間は当たり前、時には5時間にも及んだという彼のパワフルなライヴを見に出かけ、渇きを癒した。ライヴに行けた者も行けなかった者も、その模様を収めた海賊盤を必死に探し求めた。おかげで市場には玉石混淆、レコード、ビデオ取り混ぜて多くの海賊ライヴ盤が出回りファンを混乱させてきたのだが。その混乱をひとまず落ち着かせたのが本盤だった。LP5枚、CD3枚に詰め込まれた7585年までの全40曲。完全に年代順に並んでいるわけではないが、大ざっぱにA~C面が70年代、ロキシーで収録された初期の音源。D~E面が8081年の〝ザ・リバー・ツアー〟。以降が8485年の〝ボーン・イン・ザ・USAツアー〟。やはり70年代の音源が特に痛快だ。挫折を経験しながらも、まだどこか楽観的に夢を追い求める者たちの姿をスピーディに描写する若きスプリングスティーン&E・ストリート・バンドの勢いが泣ける。〝ザ・リバー・ツアー〟の音源の充実ぶりもすごい。さすがはライヴ・シーンで鍛え上げられてきたバンドだけに、スタジオ盤とは違う展開を見せる楽曲も多く、むしろこちらのほうを完成形と言うべきかも。これからスプリングスティーン入門を目論む人がいるならば、最初の1作は迷わず通常のベスト盤ではなく本ライヴ盤を選ぶべきだ。そのほうが早く魅力の核心に近づける。自作以外の興味深いカヴァーも含め、未アルバム化曲も多数。中でも最後を飾るトム・ウェイツ作の「ジャージー・ガール」は秀逸。ウェイツ版とは違う、壮大なスケールを伴った郷愁に胸が震える。6分に及ぶこの曲のラスト、〝シャララ…〟と繰り返すスプリングスティーンの切ない歌声にかぶさって故クラレンス・クレモンズのサックスが雄叫びを上げる瞬間、この「ジャージー・ガール」という曲に漂っていた愛と憎しみ、夢と諦観、優しさと空しさ、聖と俗など、様々な情感が一気に絶頂へと向けて登り詰める。ほんの30秒足らずの咆哮なのだが、この一瞬のカタルシスを味わいたくて、何度、このアルバムに針を落としたことだろう。

9 Tunnel Of Love (1987)

 新作を待望するファンの予約購入によって全米1位には輝いたものの内容は地味。『ザ・リバー』の後の『ネブラスカ』、『ボーン・イン・ザ・USA』の後の本盤。激しい揺り戻しが聞ける1枚だ。テーマは愛。家族あるいは恋人どうしの関係性。アリーナ・ツアーを繰り返すカリスマが、ロード生活に疲れ、ふと足下に目を向けたような私的な手触りがどの曲にも漂う。『ネブラスカ』同様の簡素なアコースティック・サウンドをベースにした楽曲も数曲。バンド・アレンジによる曲も激することのない落ち着いたサウンドに仕上げられている。が、どの曲でも主人公は打ちひしがれている。自身の最初の結婚生活の破局を予感させる曲もあるし、名声を得たことに対する複雑な心情吐露もある。本盤発表後のツアーを経て40歳を迎えたスプリングスティーンはE・ストリート・バンドを解散した。

10 Human Touch (1992)

 前作から5年、新作2枚が同時発売された。ひとつめが本盤。E・ストリート・バンドからはロイ・ビタンのみ残留。デイヴィッド・サンシャスが返り咲いたほか、ライチャス兄弟のボビー・ハットフィールド、サム&デイヴのサム・ムーアらも参加。車ものあり、ギャンブラーものあり。ロックンロールあり、ミドル・オヴ・ザ・ロードものあり。米音楽の何から何までを胃袋にしまいこみ一気に吐き散らかすパワーはさすがと再確認させられるものの、そんなスプリングスティーン像を自らデフォルメしている手触りも。歌詞では〝一人前の男〟〝本当の世界〟といった語句が耳につく。ベトナムの亡霊を湾岸の勝利で覆い隠そうとしていた当時の母国の混迷に対する彼なりの回答か。それともこれまたデフォルメの一環か。〝賞賛されるのはいい気持ちだった/いい気になりすぎたかもしれない〟と歌われる「ザ・ロング・グッドバイ」が胸に痛い。


11 Lucky Town (1992)

 1年がかりで『ヒューマン・タッチ』を仕上げたところで、スプリングスティーンは新たな創作意欲に駆り立てられアルバムもう1枚分の新曲を書き上げてしまった。それをまとめたのが本盤だ。やはりビタンも参加しているが、基本的にはスプリングスティーンのギターとキーボード、ランディ・ジャクソンのベース、ゲイリー・マラバーのドラムが核。短期間で一気に仕上げられたせいか、かつてのE・ストリート・バンド的勢いがより強く感じられる。感傷的な楽曲の仕上がりもいい。歌詞面でも、得意のストーリーテリング形式を多用。アメリカ現代小説を読むような気分にさせる畳みかけるようなレトリックはこちらにより多く詰まっている。ここにもカリスマとして祭り上げられたスプリングスティーンの複雑な思いが透けて見えるような楽曲がいくつか。悩みは深かった。


12 In Concert: MTV Plugged (1993)

 92年秋、『MTVアンプラグド』出演時のライヴ盤。もともとは93年のヨーロッパ・ツアーに合わせて欧盤のみが限定リリースされたものだが、97年になって他の国でもリリースが実現した。コーラスでも参加している愛妻パティ・スキャルファのことを歌ったらしき冒頭の未発表曲「レッド・ヘッデッド・ウーマン」のみアコースティック・ギターでの弾き語り。あとはセッション系のミュージシャン中心のバンドを従えて、〝アンプラグド〟ではない、アンプに思いきりプラグを突っ込んだフル・エレクトリック・パフォーマンスに突入する。収録された13曲中8曲が当時の最新盤『ヒューマン・タッチ』と『ラッキー・タウン』からのナンバー。ジョーン・ジェットとマイケル・J・フォックスが同名映画の中で歌ったスプリングスティーン作品「ライト・オヴ・デイ」の本人ヴァージョンはこれが初出。その他3曲は過去のアルバムから。もともと弾き語りものだった「アトランティック・シティ」はバンド入り。逆に「涙のサンダーロード」はキーボードとハーモニカのみのバックアップ。興味深い。ただし、現在では実際に放映された番組にボーナス映像を加えてDVD化されており、そちらのほうが収録曲が多い。

13 The Ghost Of Tom Joad (1995)

 長い迷いの時期を経て、スプリングスティーンはついに、より大きな視点で自らの足下を見つめ直し始めた。折しもアメリカ各地で様々なルーツ・ロック系、あるいはアメリカーナ系のアーティストたちがそれぞれのやり方で存在感を放ち始めたころ。スプリングスティーンはスタインベックの小説『怒りの葡萄』の主人公に着目し、彼なりの方法で歌の原点回帰を実践してみせた。ここで描かれるのは、ひとつの象徴としてのハイウェイとそこを行き交う人々。移民、失業、飢え、放浪、犯罪…。米フォークの原点、ウディ・ガスリーの世界観だ。『ネブラスカ』同様弾き語りアルバムだが、衝動的な表現も多く記録された『ネブラスカ』に比べ、より緻密に、抑制された音作りが聞かれる。

14 Tracks (1998)

 ボブ・ディランで言えば〝ブートレグ・シリーズ〟、あるいは〝ベースメント・テープス〟。ディラン同様、膨大な未発表録音の存在が周知の事実となっていたスプリングスティーンだが、彼のデビュー以来25年にわたる活動をそうした未発表音源や、アルバム未収録のシングルB面曲、デモ版、別アレンジ版などで綴ったCD4枚組裏ベストだ。パティ・スミスやサウスサイド・ジョニーに提供した楽曲の本人ヴァージョンも含まれている。ディスク1は72年の伝説的オーディション音源から『闇に吠える街』セッションまで、ディスク2は『ザ・リバー』から『ボーン・イン・ザ・USA』セッションまで、ディスク3は『ボーン・イン…』から『トンネル・オヴ・ラヴ』セッションまで、ディスク4は『ヒューマン・タッチ』『ラッキー・タウン』から『ザ・ゴースト・オヴ・トム・ジョード』セッションまで。あまりブートレグとしても流出することがなかった90年代の未発表曲を満載したディスク4も興味深いが、やはり聞いていて圧倒されるのはディスク1と2だ。特に、若々しい切れ味を聞かせるデビュー前のアコースティック・デモ群や、70年代のライヴではおなじみだった「サンダークラック」、ボックス発売にあたってホーン・セクションが追加された「ギヴ・ザ・ガール・ア・キス」など、躍動的な名演が詰め込まれたディスク1が素晴らしい。ブートレグなどで体験した限り、この時期にはもっともっと多くの未発表音源が残されているはずなのだが。今後何らかの形で公式に世に出ることを期待したい。翌99年、このボックスからセレクトされた15曲に、「トラブル・リヴァー」「ザ・フィーヴァー」「ザ・プロミス」の3曲を追加した1枚もの『18トラックス』もリリースされた。


15 Live In New York City (2001)

 ファンの誰もが夢見たE・ストリート・バンド再結成ツアーが解散から10年を経て実現。1年以上続いたそのツアーのハイライトとなった2000年夏のマディソン・スクエア・ガーデン公演の模様を収めた2枚組だ。未発表音源集『トラックス』で初お披露目された「マイ・ラヴ・ウィル・ノット・レット・ユー・ダウン」で幕開け。初お目見えの「ランド・オブ・ホープ・アンド・ドリームス」「アメリカン・スキン(41ショッツ)」なども含め、時にはかつての演奏と大きくアレンジを変えながら、いかに長いブランクがあろうとE・ストリート・バンドは永遠であることを思い知らせてくれる熱いパフォーマンスが展開する。『…トム・ジョード』で足下を見つめ直し迷いを吹っ切ったスプリングスティーンは、過去の自分が作り上げた楽曲やパフォーマンスが今なお現役の音楽として通用するのだという絶対的な自信をも取り戻したのだろう。本盤にもDVD版があり、収録曲が5曲多い。もちろん迷わずDVDをおすすめする。


16 The Rising (2002)

 同時多発テロを受けて放たれたスプリングスティーンなりの声明。再結成ツアーによって完璧なコンビネーションを取り戻したE・ストリート・バンドを率いての新作だ。この黄金のタッグによるフル・アルバムは『ボーン・イン…』以来実に18年ぶり。といっても、けっして往年のアンサンブルを再現しただけではない。不変の部分はそのまま。しかし、盟友どうしが世紀を超えて遂げたお互いの成長ぶりを再度持ち寄り、遠慮なくぶつけ合っている感触もあり、絆の強さに胸が熱くなる。そんな絆についての見識こそが本盤最大のメッセージなのだろう。パキスタンのアシフ・アリ・ハーンを迎えた曲など、新境地を示すものもあるが、スプリングスティーン特有の愛すべき楽観をたたえた「ウェイティン・オン・ア・サニー・デイ」「メアリーズ・プレイス」などにこそ救いを感じる。2000年の暮れ、地元アズベリー・パークで行なわれたベネフィット・コンサートで初披露された地元の地域振興のための新曲「マイ・シティ・オヴ・ルーインズ」が、ここで別の意味を持って存在感を放っているのも印象的だ。


17 Devils & Dust (2005)

 再びE・ストリート・バンドを離れ、アコースティックなアプローチで作り上げられたアルバム。80年代、サウスサイド・ジョニーに提供ずみの楽曲や『…トム・ジョード』発表後のアコースティック・ツアーで歌われていた楽曲なども交えた12曲。様々な場ですさんだ時を送りつつ、それぞれの〝悪魔〟と闘う者たちの心情を淡々と綴っていく。表現されているテーマもシーンもまるで違うとはいえ、東海岸出身のイタロ・アメリカンとして、先輩格のディオンを通り越し、偉大なフランク・シナトラと肩を並べる優れたストーリーテラーへとスプリングスティーンが成長したことを思い知る。ここでの経験が『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』へと直結しているに違いない。

18 We Shall Overcome: The Seeger Sessions (2006)

 初のカヴァー・アルバム。フォーク音楽の探求者、ピート・シーガーにゆかりの曲を集め、自宅で、腕きき演奏家とともに、完全アコースティック編成で、ほぼ一発録りされた1枚だ。シーガーは自作曲を歌うだけでなく、古い労働歌、霊歌、反戦歌など重要なトラディショナル曲を熱心に発掘/伝承し続けた偉人。つまり、シーガーに捧げるアルバムという体裁を取りつつも、本盤はスプリングスティーンによる米トラディショナル名曲集というか、歌うアメリカ史というか。そんな色合いが濃い仕上がりだ。年輪を重ねたスプリングスティーンにとって、今やその歌を誰が作ったかなんてこと関係ないのかもしれない。むしろ作者不詳という形で世代から世代へと歌い継がれ、歳月を乗り越えてきたトラディショナル楽曲にこそ誰の心にも深く染み入る真実がある、と。ボブ・ディランが出した2枚の弾き語りカヴァー・アルバム『グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー』と『奇妙な世界に』に近い。伝承への同化。自らの活動を米音楽史の大きなうねりへと冷静に位置づける作業というべきか。



  タチヨミ版はここまでとなります。


『ERIS/エリス』第26号

2019年3月7日 発行 初版

著  者:ERIS
発  行:Eris Media LLC

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