この本はタチヨミ版です。
◎赤根夕子………彩雲高等学校の2年生。この物語の語り手
◎春野香澄………夕子の親友
◎川風真紀………夕子のクラスメート
◎中田日出子……彩雲高等学校の教師
◎雪見まどか……麗朋学園高等部の2年生
◎久茂野未央……まどかの友だち
◎志水多香子……麗朋学園高等部の教師
いつものように橋の上で自転車を止め、夕陽に向かってカメラをかまえた。
川沿いにはマンションが建ちならんでいる。太陽が逆光となり、マンションは影絵のようなシルエットになっている。
──ん!?
マンションの屋上にだれかが立っている。スカートを穿いているのだろうか。風にあおられ、パタパタとはためいている。
カメラをおろす。
──なにをしてるんだろう? 私とおなじように、夕陽を眺めているのかな。
最初はそう思った。でも、すぐにおかしいことに気づいた。
──ふつうあんなところに人は立たない。
つまり、あの人はふつうじゃない。
──!?
その人が一瞬ふわっと宙に浮いた。そして、そのまま下に向かっておちていった。
──飛びおりた!?
飛びおり自殺。その瞬間を私は目撃したのだ。
心臓がどくんと脈を打つ。
──どうする!? 私はなにをすべきなの?
たすける? いや、あの人はたすからない。あんな高いところから飛びおりたら……。もう死んでる。
ちがう。
生きているかも。無傷ではいられないにしても、まだ息があるかも。早く病院へ運べばたすかるかもしれない。
──救急車。私が呼ぶべきでは?
119番にかけたことなんてない。そんな軽々しく電話していいものか……。
──なんで? 人の命がかかってるんだよ?
そうだよ。こういうときのための119番。そうでしょ?
──だったら、早く。
待って。ほんとに飛びおりた?
そもそもあれって人だった? 「あんなところに人は立たない」はずじゃない?
見まちがい。
そうなのかも。
たとえば、布みたいなものが引っかかって、それがスカートのように見えただけなのかも。そして、風にあおられて、吹きとばされた。それを見ただけなのかもしれない。
──いや、布じゃない。なにか重みのあるものがあきらかに下におちた。
たしかめよう。現場に向かおう。人が倒れているのを確認して、それから電話すればいい。
あわててカメラをバッグにしまう。自転車に飛びのり、ペダルを踏んだ。
数分走ると、マンションが見えてきた。
あの人が倒れているはずの場所がここからでも見通せる。
なにも見えない。人が集まっている様子もない。
──やっぱりまだだれも気づいていない?
いや。それは考えられない。
お母さんが小学生のころ、アイドルがビルから飛びおりる事件があった。そのとき、信じられないほど大きな音がしたという。
だから、だれも気づかないなんてあり得ない。
自転車は、現場に着いた。スピードをおとしながら、まわりの様子をうかがう。
とくに異常は見あたらない。
マンションの住人の姿もない。
──やっぱり見まちがいだったんだ。
布だ。アンテナとかに引っかかって、それがスカートを穿いた女性に見えて──。
──!?
だれかが自転車の荷台に乗った──そんな気配があった。うしろに重みを感じた。
ふふふふふふふふふふふ。
荷台に乗った人は、くぐもった声で笑った。女の声。
「だれ?」。そう言いながら振りむく。
だれもいない。
──もしかして、飛びおりた人の霊が……!
そう直感した。呪われる。取り憑かれる。
──逃げろ!
ペダルに足をかけ、踏みこむ。
重い。
すごく重いわけじゃない。自転車は走りだしている。
でも。
私以外のだれかが乗っている重さだ。ふたり乗りをしているときの感覚だ。
──ふざけるな!
恐怖というより怒りがわいてきた──いや、怒ることで怖さを紛らわそうとしていた。無意識のうちに。
もう少し進めば、大通りに出る。そこは車もたくさん走っている。人通りも多くなる。
──さあ、どうする、幽霊さん?
私がこのまま振りむかず、大通りにたどりつけば、あんたは消えるしかない。
そうなれば、あんたは存在しなかったのとおなじ。だって、私はなにも見てないのだから。気配は感じたけど、あとからそれは勘違いでカタがつく。
ほら。もう少し。あとちょっとで大通りに──。
きゃああああああああああああああああああああ。
鋭い悲鳴が鳴りひびいた。
「ぎゃあああああああっ」
今度は私が叫んだ。驚きのあまり、ブレーキをかけていた。
キィイイイイイイイイイイッ。
いつもはこんな音なんてしないのに、なぜかブレーキが不快な大音響を奏でた。その音もだれかの悲鳴に聞こえた。
──馬鹿野郎っ!
声に出したか、それとも心のなかで叫んだか。そんな悪態をつきながら振りむいた。
──いない!?
自転車の荷台にはだれも乗っていない。
──荷台からおりた? そして、すばやくどこかへ逃げた?
いや。そんな気配はなかったし、そんな時間もなかったはず。
気のせいだ。さっきの飛びおりとおなじ、勘違い。
「ふふふふふ」自嘲する笑いが漏れる。
薄暗くなってきたとはいえ、まだ陽のあるうちにバケモノが現われるなんて馬鹿馬鹿しい。
自転車をこぎだした。
少し走ると、漠然とした嫌な気持ちが心に巣くう。それは、家にたどりつくまでつづいた。
1
美雪先輩が死んでいるようには見えなかった。唇の赤みが消えているから、生きてはいない。そう頭では理解している。でも、感覚的に〈死〉をとらえることはできなかった。
先輩とあまり話をしたことはない。顔もはっきりとは思い出せなかった。今日、ここで初めてまじまじと美雪さんの顔を眺めた。
綺麗な人。顔が白いからなおさらそう思う。
哀しい気持ちがわいてこない。そんな自分が非情な人間のように思えてきて、少し自己嫌悪に陥った。
ひょっとしたら──。
じつは「人が死ぬ」なんていう異常な状況を前にして、理性が冷静さをむりやり保とうとしているのかも。
棺桶に入った先輩を眺めていたのは、ほんの数十秒だと思う。軽く手を合わせ一礼して、その場を離れた。
式場を出る。弔問客が次々とこちらに歩いてくる。
私とおなじ彩雲高校のコは制服を着ているからわかる。でも、そうでない人はいったい美雪さんとどういう関係なんだろう?
──私が死んだとき、こんなに多くの人がお別れに来てくれるのかな?
いつの間にか涙を流している自分に気づいた。
式場を出て、ほっとしたから、理性が働かなくなったのかも。
ふと──。
川風真紀が式場から出てくるのが見えた。
──やばいっ。
私はあわててハンカチを取り出し涙を拭った。そして、手早くポケットにしまう。
──泣いているところを見られたらまずい。
真紀が私に気づき、視線をこちらに向けた。
真紀も泣いていないみたい。だったら、私も涙を見せるわけにはいかないのだ。
真紀がこっちにゆっくりと歩いてくる。私の目の前で立ちどまる。
「……なに?」
「美雪さんが亡くなった理由……知ってる?」
真紀はいつもの明るい表情ではなかった──いや、お通夜だから当然だけど、見たことのない表情に、ちょっと戸惑った。
「理由……?」
知らない。そういえばなにも聞いていない。突然、亡くなったとしか……。
「……どうして?」
「殺された……のかもしれない」
「ちょっと! こんな場所で冗談は……」
ほんとは声を荒らげたかったけど、場をわきまえた。小さく、しかし重々しい声でたしなめた。
「美雪さんの妹さんと話をしたんだ。そしたら──」
「殺されたって?」
「いや……そうは言ってないけど」
「事件ってこと?」
「美雪さんは自分が死ぬのをわかってたって」
「自殺なの……?」
真紀がなにを言おうとしているのかわからなかった。私をからかっているのかもしれない。ふだんならそう思ったはず。
でも、さすがにそんな場違いなことはしない。真紀の真剣な表情が、話に真実味を持たせていた。
「なに言ってるの?」
真紀を非難するつもりはなかった。混乱のあまり、つい乱暴な口調になっただけ。
でも、その真意は伝わらず、私の言葉に真紀は顔を曇らせた。
「夕子じゃ話にならない。香澄は? 美雪さんと親しかったんでしょ?」
「……もうすぐ出てくるんじゃない?」
そっけない返事になった。不本意だった。そんな答えかたをした自分に腹が立った。真紀と話をするといつもこうだ。ついイライラしてしまう。
「もういい……」
ちょっと怒りのこもった声を出して、真紀は式場の出入り口のほうへ顔を向けた。
学校の生徒たちがぞろぞろと出てきている。
すぐに駅に向かう人。友だちを待っている人。出入り口の前はごった返していた。
「……いやああああああああああっ」
悲鳴がした。式場のなかから発せられたのか、くぐもっている。まわりの人のざわめきが聞こえる。
真紀のほうを見た。式場を凝視している。
〈美雪さんとすごく親しかった人が、遺体を前にして泣きさけんだ〉
そんな場面を想像した。たぶんほかの人も悲鳴をそう解釈したんだろう。だから、すぐに悲鳴に対する関心を失ったのか、ざわめきはすぐにおさまり、あたりは厳粛な雰囲気にもどった。
「ちがうっ……聞いてぇっ」
また叫び声。
式場から女のコが飛び出してきた。私とおなじ制服姿。
──あれは……!?
私の親友の春野香澄だった。泣きはらした顔をしている。
──さっきの悲鳴は香澄!?
香澄は小走りにどこかへ向かっていた。
「香澄!」
私は名前を呼んだ。しかし、その声は大きくなかった。お通夜だから大声を出すのをためらった。
私の声は香澄の耳にはとどかなかった。
あとを追いかけようと私は走りだした。でも、全速力ではなかった。心の底に追いつきたくないという気持ちがあった。
だって──。
なんて声をかければいいの? あんなに泣きさけぶぐらい哀しんでいる香澄に。言うべき言葉が見つからない。私じゃとても香澄の心を癒せない。
そんなあきらめに似た感情が私の足にブレーキをかけていた。
ご飯を食べているとき、お母さんにお通夜のことをいろいろ聞かれたけど、ほとんど上の空だった。
自分の部屋に入り、机に向かった。中間テストが近い。こんな日でも勉強はしなくちゃ。
──香澄になにか言葉をかけてあげたほうがいいのかな……?
なんて言えばいいかわからないけど、時間が経って、そんな気持ちになっていた。
そっとしておいてあげるべき──そんな考えかたもあるけど、こんなときのための親友なのでは?
スマートフォンに手をのばした。アプリを立ちあげ、メッセージを送る。
[大丈夫?]
1分も経たないうちに返事がきた。
[なにが?]
[泣いているの 見ちゃったから]
[ シ]
──ん?
奇妙な返信だった。打ちまちがいかと思ってしばらく待ってみたけど、反応はない。
[シってなに?]
[ シが く る]
香澄はどういうつもりなんだろう? 心配になってきた。
[文字がおかしいよ?]
[おまえも]
不具合かな……?
[夕子]
[私?]
[こっちに]
妙なイメージが頭にうかんだ。香澄でないだれかが香澄のスマートフォンをいじっている。
[あなただれ?]
[香澄といっしょに ]
[やめてください]
[ シに ]
[怒りますよ]
[ シに ]
[いたずらはやめろ]
[香澄と シに ]
[通報します]
[わたしは ]
[もういいです 通報します]
[わたしは ]
[やめろ!]
[美雪]
私はスマートフォンを放りなげた。
2
ひとりの生徒が亡くなっても、学校の様子はいつもと変わらない。
私もふだんどおり登校した。すぐにでも香澄のところに行きたかった。でも、昨晩のことが頭から離れずボーッとしていたせいか、したくに時間がかかってしまい、家を出るのが遅れた。学校に着いたのもギリギリだった。
休み時間に香澄に会いにいけばいいんだけど、こういう日に限って、体育とか音楽とか教室を移動しなければならない授業がある。
香澄の教室に向かうことができたのは、お昼休みだった。
お弁当を持って教室に入ると、香澄はいつもと変わらず自分の席で私を待っていた。
香澄には親友と呼べる人は私だけ。いっしょにお昼を食べる人は私しかいない。
香澄が私の姿を認めると、少しだけ表情を変えた。でも、案の定というべきか、元気がないように見える。
私はなにも言わず、机を勝手に動かし、香澄の前に置いた。ふたりが向かいあう格好になる。
香澄は無言でバッグから巾着に入ったお弁当箱を取り出していた。
「……昨日、どうしたの?」
私は口火を切った。ふだんたくさんおしゃべりをする相手と黙ったままでいるなんて耐えられない。そして、こういうとき、香澄から話しはじめることはない。私が口を開かなければ、ふたりで黙々とお昼を食べるハメになる。
「メッセージが変だったけど……」
香澄は目を伏せたまま、箸を動かしていた。
美雪さんが亡くなって、相当ショックを受けているんだと思う。香澄の憧れの先輩だったから……。
だから、私も香澄が答えてくれることを期待していなかった。ただ、気まずい空気を少しでも和らげようとしただけ。
「すぐ寝ちゃったから……」
香澄がやっと口をきいた。
「……そう……ごめんね……起こしちゃった?」
「夜は音が鳴らないようにしてるから……」
やはりアプリがおかしかったのだろうか? 私や香澄、美雪さんの名前が表示されたのが不気味だけど……。
「美雪さん、綺麗だったね」
励ますつもりだった。でも、あさはかだったかもしれない。
香澄は顔をあげて私を見た。鋭い目で射貫くように。
「ご、ごめん……」思わず謝っていた。
香澄はすぐに視線をおとし、食事をつづけた。
「人って……死んだらどうなるのかな?」
「へっ……!?」
香澄が突然口を開いたので、素っ頓狂な声をあげてしまった。香澄は水筒のお茶をカップ(フタ)に注いでいるところだった。私に返事を期待していないような感じ。
「天国かな……美雪さん、後輩の面倒見もよかったみたいだし」
人が死んだあとのこととか、死後の世界があるかとか、そんなこと、真剣に考えたことはなかった。だから、本心というわけではなかったんだけど、少しでも香澄の慰めになればと思って、そう答えた。
「……幽霊って……いると思う?」
「……なに?」
香澄は食事の手を止めていなかった。表情こそいつもより暗いものの、世間話をしているような雰囲気だった。
「さあ……見たことないし」
昨晩のメッセージの送り主は幽霊──そんな仮説が立てられないこともない。
この話題をいまここで出すべき?
ふだんなら、いい話のタネだと思う。でも、なんだか気が進まない。
「美雪さん……たぶん幽霊になったんだと思う。まだ成仏していないんだ……」
「ちょっ……」
なに言っているの! ──そう言おうとした。あまりに不謹慎だ、と。
でも、香澄の気持ちを考え、言葉を飲みこんだ。
それに──。
昨日、真紀も言っていた。美雪さんは殺されたかもしれない、と。だから、あの世に行っていない。そういうことなの?
「……どうして、そう思うの?」
私はつとめて明るい声を出した。おそらく香澄の精神はふつうの状態じゃないんだ。だったら、それを癒してあげるのが、いまここで私ができるただひとつのこと。
「今日、学校がおわったら、ちょっと付きあってくれる?」香澄が静かに言う。
「……どうかしたの?」
「……話したいことがあるの」
香澄は食事をおえ、お弁当箱をバッグにしまっていた。
話したいこと……? なにあらたまって……。
「次、音楽の授業だから」
香澄はそう言って立ちあがり、教材を抱えて、そそくさと教室を出ていってしまった。
放課後──。
学校を出た私と香澄は無言で歩いていた。いつもなら話題に事欠かないのに、いまはなにを話したらいいかわからない。
香澄が一軒の家の前で足を止めた。
いいや。家ではなくて……これは喫茶店。メニューの看板が目に入ったから、お店だとわかった。
お店の名前は〈カフェ アキコ〉。
なんのためらいもなく、香澄は扉に手をかけ、なかに入っていく。
カランカラン。
扉につけられた鐘が乾いた音を立てる。
喫茶店なんて、ほとんど入ったことない。チェーン店みたいなところなら何度かあるけど、こういう〝本格的〟なところは初めて。
かといって、ここで突っ立っているわけにもいかない。香澄につづいてお店に入った。
なかは太陽の光がたっぷり入っていて明るい。カウンターと、テーブル席が3つある。絵に描いたような喫茶店といった感じ。
テーブルのひとつに香澄が腰かけた。私もその向かい側に座る。
「学校の近くにこんなところがあるなんて、知らなかった」
「わたしも、つい最近知ったばかり」
香澄はそう言いながら、メニューを手にしていた。
……やっぱりコーヒーとか頼まなくちゃいけないんだよね?
どうしよう? 私、コーヒー飲めない。
「はい」香澄は注文するものを決めたのか、私にメニューを差し出した。おずおずとそれを受けとる。
いろいろな種類のコーヒーの名前が並んでいる。どれにすればいいかわからない……。
どうする? このピンチをどう切りぬける?
「夕子、コーヒー飲めなかったよね?」
「へ!?」
「紅茶とかでもいいんじゃない?」
なんだか香澄が大人びて見えた。ふだん可愛らしいぶん、よけいにそう思えた。
「……紅茶にする」
店長らしき人が注文をとりにきた。店長といっても、30代くらいの女の人だ。
香澄はブレンドコーヒー、私はホットのロイヤルミルクティーを頼んだ。
「で、話ってなに?」
なんとなく香澄に先を越された感じがして、それを打ちけしたくて、私は切り出した。
「これを見て……」香澄がバッグからノートを取り出した。香澄がイラストやマンガの下書きをしているノートだ。ときどき私も見ることがあり、感想を言ったりしている。
どこかのページを開き、ノートをテーブルに置いた。
イラストが描かれている。
ドレスのようなものを身にまとった女の人──のように見える。
「……どう思う?」
小学生のころからマンガ家をめざしている香澄の画力は、私の目から見ても、そうとうレベルが高い。
でも、この絵は別人が描いたように、線が乱れ、デッサンも狂っていた。
──う〜ん……あまりよくないね。
ふだんならそう言うだろう。香澄も下手なお世辞は求めていないはずだから。
しかし、いまの香澄の気持ちを考えると、慎重に言葉を選びたかった。
ふと──。
女の人の下に、なにか文字が書かれているのに気づいた。薄くてはっきりとはわからないけど、「シ」「いっしょ」「かすみ」という文字はかろうじて読みとれた。
──「シ」? 「いっしょ」?
ちょっと待った……。
昨晩の不気味なメッセージ。「シ」とか「いっしょ」とか言ってた気がする……。
「新しいマンガの登場人物?」
「これ……わたしが描いたんじゃない」
「……どういうこと?」
「一昨日の夜、キャラクターのデザインを考えているとき、つい机で寝ちゃって、すぐに目は覚めたんだけど、気づいたらノートにこれが書いてあった」
胸のあたりが少し苦しくなる。
理由はよくわからないけど、なんだか居心地が悪い。慣れない場所にいることだけが原因ではないと思う。
店長が飲みものを運んできた。花柄をあしらったカップが私の目の前に置かれる。
カランカラン。
だれかがお店に入ってきた。
──!? 真紀! 真紀もこのお店を知っていたのか!?
「香澄……」真紀はこちらに気づいて、香澄に笑顔を向けた。私のことは無視して、さっさと奥のテーブルについた。
「ブレンドコーヒーをお願いします」
真紀はメニューも見ずに店長に言った。
慣れてる。真紀はこのお店に何度も足を運んでいる。しかも、ブレンドコーヒー!? 真紀はコーヒーが飲めるのか!
「ねえ、〈自動書記〉って知ってる?」
「え?」香澄の声で我に返った。
「霊が人に乗りうつって文字とかを書くことなんだけど……」
香澄は幽霊のマンガも描いているから、オカルトなんかにもくわしい。
「聞いたことない……」
「これ……霊がわたしの手を使って書いたんだと思う」
そんな話は信じられなかった──というより、どうでもよかった。いまは香澄の精神状態のほうが気になった。やっぱりふつうではないと思う。
かといって「大丈夫?」なんて言葉をかければ、香澄は怒る。なんとか話を合わせながら、元気を取りもどしてもらわないと……。
「これを書いたのは美雪センパイ」
「お葬式であの世に送り出したのに……?」
「……この世に未練があったら、成仏なんてできない」
「香澄はいま大好きな先輩を失って──」
「ここを見て」香澄は私の言葉をさえぎり、ノートを指差した。
「『シ』『いっしょ』『かすみ』ってあるでしょ? つまり、わたしにも死んでほしいっていうセンパイからのメッセージなんだと思う」
もうダメ。我慢できない。なんとかしなくちゃ。香澄に言わなくちゃ。
「きっと時間が経てば、香澄も先輩の死を受けいれられ──」
「『死』じゃない」
──え!?
いつの間にか真紀が私たちのテーブルのそばに立っていた。
「『死』じゃない。『テンシ』」
香澄も呆気にとられたように、真紀のほうを見上げていた。「『天使』……?」
「香澄、美雪さんがどうして亡くなったか知ってる?」
「え……」真紀の言葉に香澄の表情が曇った。
真紀は、お通夜で私と交わした会話のつづきを始める気だ。
「やめなよ!」
真紀は私の声が聞こえないフリをした。
「美雪さんは自分が死ぬことを知ってた。〈テンシ〉に殺されるってこと──」
「真紀っ!」思わず大声を出した。
真紀はゆっくりと私を見た。
「夕子は黙って。あたしは香澄と話してるの」
真紀は立っているから、座っている私から見ると、見下ろされている格好になる。それが私の神経を逆撫でした。
「もういい! 香澄、帰ろっ!」
私は勢いよく立ちあがりながら言った。
「え? でも、まだコーヒー飲んで──」
「待って」
真紀が私の肩に手を置いた。
「あたしが消える。べつにあんたたちの時間を奪うつもりはないから」
そう言いながら、真紀は店長のところへ歩いていく。手早く勘定を支払い、お店から出ていった。
負けた。なんだか知らないけど、敗北感が強い。
ゆっくりと椅子に腰をおろした。
香澄はどうしてよいかわからないという表情で私を見ていた。
今晩もテスト勉強に励む。
あのあと喫茶店で、ミルクティーをいそいそと口に流しこみ、ひとことふたこと香澄と世間話をして、お店をあとにした。
〈『死』じゃなくて『天使』〉
真紀はなにを言っているんだろう? 香澄が言うならわかる。もともと夢見がちな女のコだし、心がふつうの状態じゃないなら、幽霊が絵を描いたとか、そんな話をしても、まあ不自然ではない。
でも真紀は……。
私が知らなかっただけで、じつは幽霊とか信じているんだろうか……。
それにしても、いまだに腹の虫がおさまらない感じだ。
〈夕子は黙って〉
そんな言いかたはないんじゃない? あきらかに私を邪険にした。香澄と話をしたかったのはわかるけど、もっと言葉を選んでほしい。「お願い。香澄と話をさせて」とか。真紀が攻撃的だから、私も反発するわけだし。真紀とは、べつに仲良くなりたいとは思わないけど、でも、不快な想いをさせるのはやめてほしい。
──ああ、ダメ、ダメ。真紀のことを考えていると気が滅入る。
コト。
机の上で物音がした。
コロコロ。
シャープペンシルが転がる。さっきまで私が文字を書いていたものだ。ペン立てにあたって、動きを止めた。
無意識にノートを見る。
〈あかねゆうこ わたしはここにいる みゆき〉
「ひいいいっ!」私は息を吸いながら、声を出した。
──な、な、な、な、なに!?
バサバサバサバサ。
ノートのページが勢いよくめくれた。風なんか吹いていないのに……。いや。吹いたのかも。窓は開いているし。そうでなければ、説明がつかないし……。
恐る恐るノートに近づく。
〈こわがるな〉
ノートにそう書かれているのが見えた。
「や、や、やめろっ」
声を出していた。だれもいない部屋で──ちがう。だれかがいるからこそ、私以外のだれかがこれを書いたのだ。私に見えないだれかが。
パサリ、パサリ。
今度はゆっくりとページがめくれる。もうこれはあきらかに風じゃない……。
「やめてっ、やめてくださいっ!」
そう言うしかなかった。幽霊を信じるとか信じないとか、私の考えとは無関係に、常識では説明のつかない現象がいま目の前で起きている。
ノートの動きは止まった。またしても文字が書かれている。怖いもの見たさで、つい目をやってしまった。
〈かすみといっしょにテンシにあえ〉
〈テンシがおまえたちをしあわせにしてくれる〉
3
彩雲高校の新聞部の部室──。
はっきり言ってあまり好きじゃない。部室全体に浮わついたムードが漂っているのが嫌だ。
みんな、べつに新聞づくりに興味があるわけじゃない。「なんとなくラクそうだから」とか、そんな理由でここにいる人ばかりだ。
マスコミ業界の勉強をするつもりで入部した私と、大きな温度差を感じる。
「きゃはははははは」
突然、大きな笑い声があがる。
真紀のグループだ。さっきから真紀のまわりに4〜5人が集まり、おしゃべりをしている。真紀は「やる気のない人」の筆頭だ。
新聞のネタをメモしたノートをめくる。私だけでもがんばらなければ。
となりに座る香澄のほうを見た。いつものようにノートを広げ、イラストや文字を書いている。香澄にとって、マンガの構想を練る大切な時間だから邪魔してはいけない。
だから、昨晩の〝怪奇現象〟のことも話せずにいる。
ガラガラガラ。
部室のドアがゆっくりと開く音がした。
中田日出子先生──新聞部の顧問が入ってきた。
いつものことだけど、動作が緩慢。まるで覇気が感じられない。もっとも「やる気のない人」は、この中田先生かも。
先生の気配に気づいているはずなのに、みんなはおしゃべりをやめない。
「こんにちは、諸君」先生が口を開く。かすれるような小さい声。運動部じゃないからいいのかもしれないけど、お腹から声が出ていない。
「今日は、みんなに大切なお知らせがあるんだ」
私も、ふだんは中田先生の話に真剣に耳を傾けることはないけど、その言葉にちょっと注目した。
「この新聞部だけど……もうすぐ廃部になるかもしれない」
──うそっ!?
部室が少しざわめいた。
「ほんとうですか!?」私は思わず立ちあがり、そう聞きかえしていた。
中田先生は眠そうな目で私を見た。とても大事な話をしているはずなのに、先生には真摯さが感じられない。
──やっぱり中田先生のこと、好きになれないな。
「……でも、それはみんなのがんばり次第」
「どういうことですか?」部員のひとりがたずねる。
中田先生はふだん、みんなの興味をひくような話なんてしない。でも、いまは部室中の注目が先生に集まっているのを感じた。
「みんなは麗朋学園という学校を知ってるかな?」
麗朋学園──都内にある、お嬢様学校の代名詞みたいな高校だ。偏差値も高いけど、授業料もバカ高いことで有名。通っている生徒も、お高くとまっているというか、私たち〝庶民〟を馬鹿にしている──という噂だった。実際に会ったことないから知らないけど。
「じつは麗朋学園と姉妹校として提携するという話がある」
姉妹校……。だから、なに? って気もする。ほかの人も同感だったようで、部屋の空気が弛緩していくような雰囲気が漂いはじめた。
「じつは、私、麗朋学園出身なんだ」
……知らなかった。とくに知りたくもなかったけど。
ということは──。
中田先生って、お嬢様なのか。
だったら……だとしたら、中田先生には、もっとそれらしくしてほしい。ふだん気品あふれるふるまいなんて、まったく見られない。「きっと育ちが悪いんだろうな」なんて思ってしまうほどだった。
つまり──。
麗朋の生徒も、実際はこんな感じなのかも。お嬢様なんて、ただのイメージなのかも。
「麗朋学園と、新聞部がなくなることと、どんな関係があるんですか?」
「姉妹校になることで、クラブなんかも合同でおこなう機会が多くなっていく。その関係で、やる気の感じられないクラブは廃部にしようということになった」
「私たちにやる気がないってことですか!?」
「ちがう?」先生は即答した。
驚きのあまり心臓が高鳴った。「廃部になる」ってことではなく、中田先生が自己主張をしていることにびっくりした。
いつもの先生だったら、私たちがなにを言っても「どうでもいいよ」という顔をするだけ。だから、みんな「中田先生はちょろい」と思っているわけだけど……。
「それは、ちょっと失礼じゃないですか?」
私は自然と声を出していた。クラブの部長として、反論しなければ──そんな使命感があった。でも、それはほんの少しで、混乱のあまり、自分でもなにを口走っているのかわかっていなかった気がする。
「ほんとうのことでしょ?」
う……。私のなかで、心が急速にしぼんでいく。
図星。だれよりも私自身がそう思っている。みんなのモチベーションの低さに嫌気がさしている。
だから、言いかえす言葉が見つからない。
「誤解するな。まだ廃部になるって決まったわけじゃない」
中田先生の口元が少し緩んだように見えた。
なんとなくだけど──。
ふだんの借りをここで返そうとしている。そんな気がした。いつも言いまかされている──私たちはそんなつもりはないけど──先生はそう思っていて、その報復手段として「廃部」を持ち出したのでは?
「どうすればいいんですか?」
すでに私は弱腰になっていた。なぜかいまの先生に勝てない気がした。
「話は単純で、あんたたちがやる気を出してくれればいいんだけど……その気ある?」
「も──」
もちろんです──そう言おうとした。しかし、言葉が喉につかえた。ほんとうにそう?
私はやる気はある。でも、ほかの人はどうだろう? ……ほとんどの人はちがうと思う。
「もう、私、疲れちゃったんだよね……」先生がため息まじりに話しはじめた。「クラブって、べつにあんたたちに『やってほしい』って頼んでいるわけじゃない。みんなで楽しみながら、なにかが得られればそれでいい。そのために学校が部室をつくって、顧問を置いて、支援している。でも、みんなはちょっとしたことでケンカもするし、かといって活動をしっかりやるわけじゃないし……正直、疲れちゃった」
これは……これは〝宣戦布告〟。もう私たちと折りあうつもりは先生にはない。敵対すると心に決めた態度だ。
となると──。
もう廃部は決定事項なのかもしれない。
そもそもみんなの「やる気」なんて目に見えるものじゃない。「やる気がないから」なんてことを口実にされたら、私たちに立つ瀬はない。
お腹のあたりからなにかがこみあげてくる気がした。そして、涙ぐんできた。
なんで泣きたくなってきたんだろう?
自分は一生懸命やってきたのに、ほかの人がついてきてくれない孤独感。部長としてクラブを守れなかった挫折感。いちおう味方だと思っていた先生に裏切られた絶望感。
そんな感情が渾然一体となって、頭のなかで渦巻いていた。
「もう決まりですか? 廃部は……」私はなんとかそれだけを口にしたけど、最後のほうは涙声になっていた。
部室内に動揺の空気が漂う。私が泣きそうになっていることに、みんな困惑しているようだった。
その雰囲気に少し先生がおされた。
「は……話は最後まで聞くんだ……条件がある。それをクリアすれば、もちろんクラブは存続できる。みんなのやる気を具体的なカタチで見せてほしい」
「……というと?」
「ここは新聞部だから、新聞をつくってもらう。ほんとは月に2回、全校生徒に配る約束なのに、最近は全然できていないでしょ?」
耳の痛い話だった。ほかの人はどうだか知らないけど、私はそのことをずっと気に病んでいた。
「麗朋と活動を始める前に、新聞を完成させよう。ただし──」
部室は静まりかえっていた。固唾を飲んで、先生の話に聞きいっていた。こんなことは初めてだ。
「それなりの内容のものをつくってもらう。彩雲として恥ずかしくないものを」
「スクープを載せろと……?」私の言葉にはまったく力がなかった。
「それができれば理想だけど……私が審査して合格しなければ、廃部だ」
クラブの時間がおわると、中田先生はそそくさと部屋をあとにした。いつもは魂の抜け殻のように、ゆっくりとした足どりで歩いている印象だったけど、今日だけは足の運びが軽やかだった。
そういうふうに見えただけかもしれないけど。
「ねえ、みんな。クラブ、つづけるよね?」
部員たちが帰りのしたくを始めているのを眺めながら、私は声を張った。
何人かは私を一瞥したけど、すぐにバッグのほうへ目をおとした。ほかの人は聞こえないフリをした。
「ちょっと! 聞いてるんだけど」語気を強めた。
「あきらめなよ」だれかが言った。
「なに?」
「さっきの先生の態度、赤根も見たでしょ? いくらがんばったって無駄」
「そんなの、わかんないじゃない!」
心のなかでは私も同意見だった。廃部はくつがえせない。でも、それを認めるのは悔しい。
「だったら、あんただけでやれば?」
クスクスクス。忍びわらいが聞こえた。
「決をとろう。廃部に反対の人は?」
「やめときなよ……」真紀がバッグを肩にさげながら、吐きすてるように言った。
だれも手を挙げようとしない──というより、私の言葉にだれも耳を貸そうとしない。
「どうでもいい人」真紀が自分の手を挙げながら、まわりを見わたした。
ひとり、ふたり、手が挙がりはじめる。
結局、ほとんどのメンバーが「どうでもいい」という意見だった。
「いいじゃない。先生がやめたいって言うんなら」
真紀は勝ちほこったような顔でそう言いすてると、ほかのメンバーといっしょに部屋を出ていってしまった。
またしても……またしても負けた。
どっちだろう? いま私の心がこんなに震えているのは、真紀に負けたから? それとも、新聞部がなくなってしまうのが哀しいから? たぶん、その両方──。
「わたしは廃部は嫌だよ」
そんな声が背後から聞こえた。次の瞬間、背中をたたかれた。
振りむくと、香澄の笑顔が目に飛びこんできた。
「香澄!」思わず香澄の手を握る。
よかった。香澄だけでも、私の味方になってくれて。
クラブのあと、香澄の提案で〈カフェ アキコ〉に寄った。2回目だったので緊張はしていない。よし。今日は話に集中できそうだ。
注文したのは、やっぱりロイヤルミルクティーだけど。
「ねえ、さっきの話、どう思う?」店長──あとでアキコさんという名前であることを知った──がカウンターにもどっていく姿を見ながら、切り出した。
香澄を新聞部にむりやり誘ったのは私。だから、香澄がほんとうに廃部に反対なのかはわからない。さっきは私を慰めるつもりでそう口にしたのかも。つまり、本心じゃない。
「あ、誤解しないで」落胆する気持ちが出てしまったのか、私の表情を見て香澄が言う。「夕子といっしょに新聞をつくるのは楽しいから……」
いいよ。無理に同情してくれなくても。
新聞部に未練がある人は、いなさそうだ。いまのままでは、廃部は避けられそうもない。
「ふうううっ……」大きなため息をついてしまった。
「それでね、夕子。わたし、考えたんだけど……」
「ん?」
「わたしね、じつはね、麗朋学園に友だちがいるんだ……といっても、最近知りあったんだけどね」
少し衝撃を受け、思わず顔を眺めた。香澄の交友関係はだいたい知っているつもりだったのに……。
「麗朋にも新聞部……あっちでは『広報部』っていうらしいんだけど、けっこう本格的にやっているみたい。どう? 麗朋の人に話を聞いてみない?」
「そうだなあ……」私が興味のなさそうな声を出したので、香澄の表情が曇った。
ごめん……なんだか気が進まなくて……。
なんでだろ? なんで気が進まないのか……。
なんとなく麗朋学園の人に会いたくない。そんな気持ちがある。どうして? なにか嫌なことをされたとか、そんな経験があるわけじゃないのに……。お高くとまっているから? それもただの先入観。だとしたら……。
ほんとうは自分でも理由はわかっていた。
〈負けたくない〉
香澄はいま「本格的」と言った。さぞかしご立派な新聞をつくっていらっしゃるんだと思う。それを目にしてしまったら、もう立ちなおれない。私がいくらがんばっても、努力だけではどうすることもできない。そんな世界があることを目の当たりにする。それが怖いんだ。
「ね? そうしよ? ね?」香澄が私の顔を覗きこむようにして言う。ここまで強引に迫ってくるのはめずらしい。
香澄の厚意に報いるには、この話に乗ってあげるべきだ。しかし、そのあと自分が不愉快な想いをするのが目に見えている。
「お待たせしました」注文したものが運ばれてきた。アキコさんが前とおなじように、しなやかな手つきでカップをテーブルに置く。香澄が頼んだのも、先日とおなじブレンドコーヒー。
淹れたてのミルクティーを口に運ぶ。甘い液体が喉をとおり、お腹に流れていくのを感じる。とてもいい気持ち。
なにを悩むことがあるんだろ? そんな気分になってきた。
「わかった。会ってみよ? 新聞づくりのヒントが見つかるかもしれないし」
香澄が満面の笑みで私を見た。
4
麗朋学園の最寄り駅は小さかった。ホームにおりた人は私たちのほかは数人。
改札口を出ると、そこはふつうの住宅街だった。人の姿はほとんどなく、車のとおる音もしない。
「えーっと、どっちだっけ……」香澄がスマートフォンを取り出し、道のりをたしかめる。
「こっちだね」
目の前に坂道がのびていた。
「うへ〜」香澄がため息まじりの声をあげる。私も香澄も運動は得意じゃない。ここをのぼっていく辛さを想像して、そんな声を出したのだ。
それでも、ここでじっとしているわけにはいかない。私たちは麗朋をめざして歩きはじめた。
少しのぼったところで、遠くから人がおりてくるのが見えた。
学校の制服姿──麗朋の生徒だ。
──出たな。お嬢さま気どりめ。
心のなかで悪態をついていた。
実際、なんだか歩きかたが私たちとちがっている。足の動かしかたが洗練されている気がする。
私たちに近づいてくるにつれて、姿がはっきりしてきた。
長いストレートの黒髪。さぞかし時間をかけて手入れをしているんだろう。私なんか、朝は忙しくて、そこまで手間をかけていられないんだよ。
制服もいかにも高そうだった。デザインもどことなくおしゃれ。もう、着ているものだけで、私たちは大きく差をつけられている。
もっともいけ好かないのは、彼女の表情だ。ただ歩いているだけなのに、微笑みを浮かべている──ように見えるだけかもしれないけど、でも、幸せいっぱいって感じが顔からにじみ出ている。
こっちは新聞部のこととかいろいろ悩みがあって、笑ってなんかいられないんだよ。
私たちも制服を身に着けていた。学校を訪問するわけだから、正装のほうがいいと思った。
見慣れない制服の女たちが気になったのか、麗朋の女がこちらに目をやった。
「まどか〜っ!」香澄が素っ頓狂な声を出した。
「香澄〜!」女も嬌声をあげる。
へっ!? 知りあい? ……なるほど。これが香澄の友だちか……。さっき心のなかとはいえ悪口を言ってしまったことにちょっと罪悪感を覚えた。でも、思ってしまったものはしかたないよね……。
突然、香澄が女に向かって駆けだした。女は、手を大きく広げる。次の瞬間、香澄がその胸に飛びこんだ。
ふたりがガシッと抱擁する。
「ごめん。ボーッとしてた」
「こっちも。コンタクトがずれて、香澄たちがよく見えなかったの」
ふたりはすぐに体を放した。
「紹介するね。このあいだ話した赤根夕子。新聞部の部長」
唐突に私を紹介されて、戸惑った。「よ、よろしく」そう言って頭をさげる。
「雪見まどかと申します。本日は、どうぞよろしくお願いします」まどかもお辞儀をする。私より深い角度。やるじゃない……。
「ようこそ。私立麗朋学園高等部へ」
学校の正門の前でまどかが立ちどまり、私と香澄に向かって声を張った。
──なんだ? その芝居がかったふるまいは?
一瞬、そう思いかけたけど、すぐにべつのことに気が向いた。
麗朋学園の校舎。
──なに、これ? お城!?
といっても、西洋のお城じゃない。もちろん、日本のでもない。東洋にあるどこかの国の豪華な邸宅──私の頭の引き出しに、校舎の外見をうまく言いあらわす言葉は入っていない。あえて形容すれば、そんな表現になる。
基本は、ふつうの高校とおなじように、直方体の建物に窓が並んでいる感じ。でも、窓枠とか壁にちょっとした彩飾がほどこされている。過剰に飾れば悪趣味なデザインになってしまうけど、ワンポイントにあしらっているから、上品さを失っていない。「勉学の場」であることをわきまえた設計になっている。
「ぐふ〜」思わず変なため息が漏れた。われらが彩雲高校は、制服だけじゃなく、校舎も麗朋に負けている。
「はい。こちらが広報部の部室です」
まどかが立ちどまり、ドアを指ししめした。
ドアは木製のように見えた。でも、スティール製のドアに木目のカバーを貼っているみたい。どっちにしても、おちついた印象を受けるのは変わらない。
まどかがドアに手をかけ、横にゆっくりとスライドさせる。うちの学校みたいな下品な音はしない。
「どうぞ。お入りください」部屋のなかに一歩進んだまどかが、こちらに体を向けて言う。
「ようこそ」「いらっしゃい」「こんにちは」
部室には、十数人の生徒がいた。
私たちの姿を見て一斉に立ちあがり、あいさつをする。
──ちょっと待って。今日は正式な訪問じゃないのに……。
私たちの通う彩雲高校は週5日制で土曜日の今日は休み。麗朋学園は土曜日も活動しているってこと?
この部室は、どこか洋館のリビングルームを思わせる。美術にくわしい人ならナントカ様式とかわかるのかも。
部室には長いテーブルが用意されていた。それがコの字形に並べられている。それぞれに4〜5人の生徒がついていた。まるでちょっとした〝国際会議場〟といった雰囲気。
「さ。こちらにおかけください」
席が2つ空いていた。私たちはおずおずとそこに腰をおろす。それを見たほかの生徒たちも椅子に座った。
──やば。こんな大げさなことになってるなんて……。
「それでは、ただいまより彩雲高校の新聞部さんとの非公式交流会を始めたいと思います」
部長らしき生徒がよくとおる声で宣言した。
パチ、パチ、パチ、パチ。部屋に拍手の音が響く。
「では、まずご紹介しましょう。窓側におかけになっているのが……えっと部長の赤根夕子さん」
パチ、パチ、パチ。また拍手。
「あっ、どうもっ、よろしくお願いしまっす」思わず立ちあがりながら、ぎこちなくあいさつをしていた。
「そして、そのおとなりが……春野香澄さん」
「……よろしくお願いします……」香澄も緊張しているのか、か細い声になっている。
パチ、パチ、パチ。
「え〜と、みなさんもすでにご存知のとおり、麗朋学園と彩雲高校はもうすぐ姉妹校として、いっしょに活動していくことになります。今日は、それぞれの活動内容について、情報交換をしたいと思います」
──うわ〜。聞いてないよ。先生にも話していないんだよ?
思わず右どなりに座る香澄を見た。うつむいて体を固くしている。香澄もこんなことになるなんて思ってなかったみたい。
部室のドアが開き、生徒が入ってきた。お盆のようなものを手にしている。
私たちの席に近づき「失礼します」と言って、お盆に載っていたものをテーブルに置いた。
──コーヒーだ!
「失礼します」香澄の前にも、慣れた手つきでカップを置く。
「……あ、ありがとうございます」役目を果たし、席にもどろうとしていたその生徒に声をかけた。私のほうを見て、ニコリと微笑む。
目の前のカップを眺めた。複雑な紋様が側面に描かれている。どことなくこの校舎の彩飾にデザインが似ている。麗朋学園専用のカップなのかな……。
そんなことより、いまはべつの問題がある。
コーヒー。よりにもよって。
見まわしてみると、みんなの前にもカップが置かれている。こんな場で替えてほしいなんて言えるわけがない。
カチャ。
香澄がカップを手にとり、口に運んだ。一口飲んで、ゆっくりとお皿にもどす。
──なんかサマになってる。この部屋の雰囲気になじんでる。
自分だけが取りのこされた気がして、寂しさを覚えた。それを解消するには……。
意を決して、私もカップを手にする。そこに入った真っ黒な液体をなんとか口に流しこむ。
──うっ。苦い。熱い。
「あら。赤根さんはブラック? さすがですね」
私の左に座っていた人が話しかけてきた。
カップの置かれていたお皿をよく見ると、砂糖とミルクがある。
香澄のほうにもおなじように砂糖とミルクが載っているけど、香澄は使わなかったので、私もそれを真似したのだけど……。
「い、いえ……最初のひとくちだけ、香りを楽しむんです……」苦しまぎれに思いついたことを口にした。
「わは。すっご〜い。わたし、コーヒー飲めないので、尊敬しちゃいます」となりの人は無邪気に言った。
──え? あなたも飲めないの?
たしかにその人のカップに入っているのは、紅茶のようだった。レモンの細切りがお皿に載っている。
妙な見栄を張ったことを後悔した。
「それでは、まずは私たちの活動内容を赤根さんたちに見ていただきましょうか」
部長のその言葉を合図に、ひとりの生徒が私たちのほうに近づいてきた。そして、手に持っていたものを差し出す。
「ど、どうも」そう言いながら、受けとったものを見た。
B5サイズのノートぐらいの小冊子。ツルツルした紙が使われている。
──うっ。
心のなかでうめいた。予期していたこととはいえ、実物を手にすると衝撃が大きい。
なかを開くと、学園祭らしきイベントの様子を報告するページが見えた。カラー写真が見やすくレイアウトされ、それぞれについている見出しも面白い。
パラパラとページをめくると、ミュージシャンのインタビュー。私は知らないけど有名な人なのかな?
ほかにも、社会問題に関する論文、プレゼントコーナーなんてものもある。
冊子を持つ手が震えた。
もし私たちがこれだけのものをつくったとしたら、中田先生も納得してくれるはず。廃部はまぬがれる。
──こんな立派なもの……私たちにつくれるはずが……。
鼻の奥がむずむずしてきた。やば。泣く。とてつもないものを目にしたショック。私とおなじ歳のコたちがこんなものをつくっているという敗北感。自分たちには無理だという絶望感。いろいろな想いが頭をぐるぐるまわって、混乱して、それで涙が──。
「彩雲さんの新聞はどんな感じなんですか?」
部長の横にいた人が口を開いた。たぶん副部長。その声で我に返り、涙がこぼれる寸前で踏みとどまった。
「えっと、すみません、じつは今日は持ってきていなくて──」私は立ちあがりながら言った。
よかった。知らなかったとはいえ、恥をさらすことにならずにすんだ。
その代わり、じつは香澄のイラストを切りぬいたスクラップブックを持ってきていた。新聞に掲載したカットを中心に私が気に入っているものを貼ってある。これなら麗朋の人に見せても恥ずかしくない。
「はい。こちらにあります」
──えっ!
香澄がバッグをまさぐり、大きな封筒を取り出した。なかから見覚えのある紙が出てきた。
──私たちの新聞!
だめっ! 香澄! なんで持ってきたの!? この人たちに見られたくない。馬鹿にされる。彩雲高校の名を汚すことになる。
心のなかでそう叫んだけど、もちろん、声にはならない。香澄が立ちあがり、みんなに新聞を配ってまわる様子を呆然と眺めていた。
私は力が抜けたように、ゆっくりと腰をおろす。香澄のスクラップブックを取り出すタイミングを逸してしまった。
──やっぱり来なければよかった。こうなることはわかっていたのに……。
私たちの新聞は安っぽい紙に印刷した貧相なものだ。
でも、そんな体裁のことはどうでもよかった。私たちだって、たくさんお金が使えるのなら、この麗朋の冊子みたいに、高級な紙にカラー写真を載せることはできる。
だから、気にしているのはそこじゃない。
いま香澄が配っている新聞は、ほとんど私が書いたものだ。ほかの人に原稿を催促しても、なかなか提出してもらえず、締め切りに間に合わせるために、しかたなく私ががんばったのだ。
つまり、いまこの部屋の人たちが見ているのは、私の作品──いや、私のがんばりそのものなのだ。新聞への評価はそのまま私への評価になる。
みんなは彩雲の──いや私の新聞に見入っていた。なぜか黙々と読んでいた。
──さあ、笑え。遠慮なく馬鹿にすればいい。
「雪見さん……どう思いますか?」部長がまどかにたずねる。
「赤根さん……」まどかが私のほうを見て言う。「これは何人のかたで書かれたのですか?」
「ほとんど私ひとりです……恥ずかしい話ですが、ウチの部員は、あまりやる気がありません。ですから、私ががんばるしかないんです」
ここは正直に内情を言ってしまおうと思った。取りつくろっても、あとで自己嫌悪に陥るだけだから……。
ちがう……。
「ひとりで書いた」と言えば、出来がよくなくても、納得してもらえると踏んだのだ。自分でも小賢しいと思ったけど、私は必死だった。
「ひとり……」まどかがそうつぶやくのが聞こえた。と同時に、部屋のなかがざわめきはじめた。
「わたくしは……わたくしは、ショックです」そう言いながら、まどかがゆっくりと立ちあがった。
──え……なに?
「わたくしは、広報誌というのは、とにかく文字が入って、写真があって、イラストが入っていれば、それでいいと思っていました。イベントの様子や起こった出来事を正確に伝えさえすればいいと思っていたんです。でも、彩雲高校……いや、赤根さんのつくった新聞を読んで、こんな書きかたもあったのかと、衝撃を受けました。たとえば、この号ですけれど……通学途中の駐車場に子犬が捨てられていた。冬の雨の日で、車の下で寒そうにして自分のほうを見ていた。そこで、飼ってくれる人を探そうと、赤根さんたちがいろいろ手を尽くすお話が載っています。どうなるんだろう、どうなるんだろうと読みすすめ、最後に飼い主が見つかったときには、思わず涙ぐんでしまいました。それにくらべて、わたくしたちのつくったものはどうでしょう? たしかに、お金をかけて印刷屋さんに頼んで、製本もしてもらっていますから、見てくれは立派です。でも、中身をどれほどの人が読んでくれているんでしょうか? というより、読んで心を動かされる人が何人いるんでしょうか? 正直言って、わたくしがこの小冊子をわたされても、パラパラと写真を眺めたら、本棚にしまっておしまいです。でも、赤根さんの新聞はちがう。たぶん、何度も読みかえすと思う。読むのが快感。そんなリズム感があります。そして、なにより、この文章から赤根さんの素敵なお人柄が伝わってきます。優しい眼差しで物事を見つめているのがわかります。広報誌づくりに必要なのは、お金とか印刷の技術とかではなく、書く人の人間的な魅力です。それが今日はっきりとわかりました。ありがとうございます。赤根さん。勉強になりました」
パチパチパチパチパチパチパチパチ。
びっくりするほど盛大な拍手が部屋中に響いた。
「ううっ……」私は嗚咽を漏らしていた。新聞をつくっていて空しいことはあっても、満足感とか手応えを感じることはなかった。あくまで学校の活動として、新聞というカタチにしているだけだったから……。先生からはなにも言われない。生徒からも感想を聞いたことはほとんどない。でも、この人たちは……。
さっき塞きとめたはずの涙が、一気にあふれ出た。思わずハンカチで目をおさえていた。体面なんて気にしている余裕はなかった。
パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ。
拍手はまだつづいている。
グスッ、グスッ、ス……。
香澄のすすり泣く声が聞こえる。
私たちにつられて、麗朋の人も何人か泣いていた。
「こっちこそ、ありがとうございます」
私は立ちあがりながら、そう言って、深々とお辞儀をした。
麗朋学園はなんかおかしい。こんなにいい人がそろっているなんて。ふつうじゃない。
でも、嬉しい。
まどかに見送られながら、私たちは麗朋学園をあとにした。
陽が傾き、あたりは薄暗くなっている。どこかの家に植わっている木から漂ってくるのか、酸っぱい果物かなにかの匂いが鼻をつく。
足どりが軽い。自分の足ではないみたい。気分が高揚しているのを感じる。心臓も脈打っている。いまの自分はふつうの状態ではない。
第一印象がちょっと悪かったせいで──それは私の先入観だったんだけど──まどかへの好感度が私のなかでグングンあがっていた。
香澄が横で麗朋の校舎や広報誌の話をしているようだ。でも、私はほとんど上の空だった。
「……ねえ、ねえ……」
香澄が私の袖を引っぱる。そこでやっと我に返った。
「あれ……」香澄が道の一角を指差す。
20メートルぐらい先に人がいる。その人は塀に向かって、ただ立っている。
紫の服を着ていた。ワンピースのように見える。髪の毛が長いし、体つきから女性なのはまちがいない。
電話をしているのでも、タバコを吸っているのでもなく、ただ突っ立っている。それは異様な光景に見えた。
私たちは無言で歩きつづける。女性との距離が縮まる。
女性から靄のようなものが立ちのぼった──ような気がした。女性のまわりの空気が揺らめいているように見えた。
白い煙が女性の全身から出ていた。
──うそっ!?
咄嗟に思ったのは「燃えている」。火が女性に引火したのでは!?
「香澄……!」少しかすれる声を出しながら、香澄を見た。
女性のほうを凝視していた。わずかに唇が震えている。
視線を女性にもどす。
煙の量が前より増えている気がする。
──たすけなきゃ!
私は駆けだした。
──こういうときどうするんだっけ!?
そう思いながら、制服のブレザーのボタンに手をかけていた。
──映画とかでは、火の点いた人に布をかぶせていたよね?
走りながら違和感を覚えた。
──ほんとうに……燃えている?
炎は見えない。白い煙が女性にまとわりつき、ゆっくりと上のほうへのぼりながら消えていっている。
なにかが燃えている様子ではない気がした。
私は走るのをやめた。その場で女性のほうに目を凝らした。
服は煙に覆われ紫色は見えなくなっている。
女性の頭が動いた。
ゆっくりとこちらのほうを向こうとしている。
──やばいっ!
本能的に危険を感じた。関わってはいけない。そう直感した。
かといってすばやく動けなかった。水のなかを歩いているように、力を入れても体がうまくいうことをきかなかった。
「ひっ!?」
肩をだれかにつかまれた。驚きのあまり、息を吸いこみながら声を出していた。
「あの人やばいよ! 逃げようっ!」
香澄がうしろから私の肩をつかんでいた。恐怖のためか、力が入っていて、少し痛みを感じた。
「うん」
びゅううううううううう。
突然、強い風が吹いた。あたりの木々や電線が音を立てる。
さっきまで女を覆っていた煙はなくなっていた。その代わり、白いドレスのようなものを身にまとっていた。
ドレスの裾が風になびく。
──あいつだ!
いつか見た光景が脳裏に甦った。
マンションの屋上に立っていた女。そして、飛びおりた女。
あげくの果てに、自転車の荷台に乗ってきた。
──私の家で悪さをしていたのもおまえか!? 香澄のノートにいたずら書きをしたのもテメエだな!
なぜか勇気がどんどんわいてきた。恐怖のあまり、感情に対するブレーキが働いていなかったんだと思う。
女に向かって早足気味に歩いていた。
「夕子っ!」香澄の叫び声が聞こえた。
──大丈夫。私が守ってあげる。
女が飛んだ──いや、飛んだところは見えなかったけど、体がふわっと浮いたかと思った瞬間、姿が消えた。
──!?
あたりを見まわす。だれもいない。私のすぐうしろにいる香澄をのぞいては。
『やっと〈テンシ〉様に出会えたんだ。このチャンスをムダにするなよ』
え……!?
耳元でだれかがささやいた。
「美雪さん?」思わずその名前を口にしていた。
次の瞬間──。
「ひいいいいいっ!」香澄の金切り声が響きわたった。
──えっ!?
背後に気配があった。反射的に振りかえる。
女の顔。私の目の前に。
黒くて長い髪が垂れさがり、表情は見えない。
「ぎゃあっ」自分でも驚くくらい低い声を出していた。
きゃああああああああああああああ。
悲鳴のような甲高い声が木霊する──いや、私の頭のなかで鳴りひびく。
なぜか柑橘系の果物の匂いがした。目の前の女から臭っている!?
女が両手を振りあげた。
10本の指は、なにかをつかもうとするかのように鋭く曲がっている。
次の瞬間、女の手がすばやく振りおろされる。
体に衝撃。
「うっ」喉の奥から息が漏れた。
私は正面から女に両肩を鷲掴みにされていた。
──たすけて!
さっきまで私を突きうごかしていた勇ましい心が一気に消えうせた。
そして、恐怖心が膨れあがった。いままで打ちけしてきたぶん感情が増幅された。
「ううううう……」全身が震えだした。
──ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
私は目をつむり、謝罪の言葉を呪文のように唱えつづけた。
「ぐわっ」
私の口からうめくような声が漏れた。背中に痛みを感じた。立っていられなくなり、地面に手をついた。
私にだれかが抱きついていた。
「夕子!」香澄の叫び声で我に返った。抱きついていたのは香澄だった。
「香澄……」私の声を聞いて、香澄が体を放す。
「ひっ、ひっ、ひっ」香澄がすすり泣くような声をあげた。「怖かった……怖かった……」
私はゆっくりと立ちあがった。香澄はしゃがんだままだった。
あたりを見まわしたけど、バケモノの姿は消えていた。
香澄が私のほうを見て、手をのばしてきた。
その手を握る。
温かかった。こんなに人の手って温かいんだとあらためて思った。
5
「わたしたち、お祓いをしてもらうしかないと思う」
いつものように、ふたりで机をくっつけて、お弁当を広げたところで、香澄が切り出した。
「除霊ってこと?」
少し前だったら「馬鹿馬鹿しい」とか「胡散臭い」とか答えたと思う。
でも、いまでは怪奇現象が存在することに疑問を持つのが難しくなっていた。少なくとも、私たちが奇妙な体験をしていることは事実だから。
「美雪さんがこの世に未練を残して死んだから、あんなバケモノになってしまったんだと思う」香澄が話しながら興奮しているのがわかった。
昨日襲ってきた女。あれが美雪さんだと言うの……? でも、マンションから飛びおりる影を私が見たのは、美雪さんが亡くなる前だ。
「これを見て」香澄がスマートフォンの画面を私に見せる。香澄がよくアクセスしているオカルトのサイト。「弦田紀子」という霊能力者が除霊をおこなっている様子が紹介されていた。
「この人に頼んでみたらどうかな?」香澄の声が少し弾んでいる。
香澄は怪奇現象が起こらないようにしたいのではなく、除霊というイベントを楽しもうとしているようにも思える。
まあ、元気を取りもどしてくれたのはいいことだけど……。
ほんとうに効果はあるのかな? でも、このままなにもしなければ、またあんなことが起こるかもしれない。
やはり放置しておくわけにはいかない。霊能力者の除霊がその突破口になればよいのだけど……。
私は香澄といっしょにお祓いをしてもらうことに決めた。
クラブの時間になった。
まどかに私の書いた記事を褒められ、そのときは有頂天になったけど、部室にいると気が滅入るのは変わらなかった。
麗朋の人たちが評価してくれた新聞は、出来上がったときに顧問の中田先生も見ている。でも、なにも言ってくれなかった。ということは、私がいくらがんばっても、新聞部の成果にはならない。つまり、このクラブは消滅するということ。
新聞部でやる気のあるのは、私と香澄ぐらいだけど、部室にはつねに何人かメンバーはいる。といっても、時間をつぶすため、おしゃべりをしに来ているだけで、新聞をつくろうとしているわけじゃない。
真紀も毎回、顔を出してはいる。
「私の記事、麗朋学園の人が褒めてくれた」。そう真紀に言ったらどんな顔をするかな。ちょっとは私のこと見直すのかな……いや、そんなのまったく想像できない。「あ、そう」と鼻で笑うだけだと思う……。
香澄は例の霊能力者の本を食いいるように読んでいる。
私はバッグから新聞のネタ帳を取り出した。
どう考えても、中田先生が納得するようなものはつくれそうもない。みんなが協力してくれなければ……。
ガラガラガラ。
部室のドアが開いて、中田先生が入ってきた。例のごとく、まるで生気のない表情。覇気の感じられない足どり……。
「どう、順調?」ほんの少しだけ笑顔を浮かべて、先生がたずねる。
順調なわけがない。それは一目瞭然。先生もわかって言っている。意地悪だ。もともと先生は新聞部に対する情熱なんて1ミリも持っていなかったけど、廃部のことを伝えてから、それが露骨になっていた。
──できれば先生の鼻をあかしてやりたい。でも、それは夢のまた夢……。
先生の質問には、だれも答えようとしない。それはいつもの光景だから、気にする人もいない。先生本人を含めて。
「先生」だれかがそう言いながら立ちあがった。
──香澄……!?
先生は意外そうな顔をしていた。クラブの時間、生徒のほうから先生に話しかけることは滅多にない。だから、先生も驚きを隠せなかったのだ。
そして、ほかの人たちの注意も香澄に向いた。
「なあに?」
「わたしたちがスクープをとってきたら、廃部になりませんよね?」
部屋のなかにしばらく沈黙の時間が流れた。
「……もちろん、みんながあっと驚くようなものであれば……でも、あんたたちにそんなネタがあるの?」
「お祓いです」
──えっ!?
「わたしと赤根さんは、亡くなった美雪さんの幽霊に取り憑かれています。先輩は残念ながら成仏してないんです。だから、霊能力者に頼んで、あの世に送りとどけてもらいます。その様子を新聞記事にしたら、面白いんじゃないでしょうか」
タチヨミ版はここまでとなります。
2019年5月25日 発行 初版
bb_B_00159741
bcck: http://bccks.jp/bcck/00159741/info
user: http://bccks.jp/user/129274
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp