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この本はタチヨミ版です。
さあさ、ご覧くださいね。
こちらにあるのは、猫の毛皮。みごとな毛並み、風になでられた稲穂のような光沢でしょう。首に巻いて腰に巻いて、猫の鳴き声もいたします。
そちらは夜霧の香水。深海のような森の、冷えた香りが漂うことでしょう。ええ、だれかをあざむきたい時におすすめです。ええ、どうぞ、どうぞ。
はいはい、そちらは目玉の卵です。卵を割っていただきますと、目玉がころりと生まれます。焦げないように注意してフライパンで焼いてお召しあがりください。正真正銘の目玉焼きですよ。
おや、おやおや。
お客様、あなたはお目が高い。実に高い。それは大変めずらしい。
大変貴重なムーンドロップ。
ウサンクサイ。
という言葉が喉にぶらさがった。
わたしに声をかけてきたのは、祭りのひとごみを避けた神社の裏手へランタンを灯し、トランクを広げて子供を集める露天商だった。団子鼻に金縁メガネを載せたそのひとは、本物なのか偽物なのか、レンズの奥の左目だけが金色だ。嘘としか思えない売り文句を、手品師が旗を帽子から引き出すみたいに、べらべらと垂れ流していた。砂色のコートの下に黒シャツ、その胸元にはきらきら光るシルバーのネクタイ。お肉たっぷりの体のせいで、ボタンはちぎれて飛んでしまいそう。あんまり太りすぎていて、性別も年齢もよくわからない。信用できそうなポイントがひとつも見つからない。そんな露天商がもっともらしく声をかけてきたので、呆れた。だって、その瞬間に嘘が確定したから。
わたしはまるい石の入ったガラスの小瓶を手にしていた。
それは、隣にしゃがむキツネのお面をつけた男の子が浴衣の袖から出して、トランクへこっそり置いたばかりの小瓶だ。その子のかわいいイタズラを目撃したからこそ、わたしはそれをつまみあげた。だから露天商の言う「大変貴重なムーンドロップ」なんてまったくのでたらめだ。
キツネの子をちらっと見ると、お面の下の黒飴みたいな目が、なんだか愉快そうだった。イタズラの成り行きをおもしろがっているのかもしれない。
露天商は即興の売り文句をするすると喋った。
「月の石なら巷でも手に入りますが、ムーンドロップが手に入るのは、世界をくまなく探しても、今ここだけでございます。今宵の祭りのために、わたくしが特別に用意いたしました」
「ふうん、飴なのね。じゃあいらない」
わたしは小瓶をトランクへ戻した。
すると、もちもちした手がそれを拾いあげ、ずずいとわたしの眼前へ近づけた。ちょっとななめに顔を逃したけれど、小瓶を持った手が追いかけてきた。いやでもそれが視界に入る。飴というより、やっぱり石に見える。古びたクリーム色の石だ。食べても大丈夫なのかな。
「ただの飴ではありませんよ。ムーン、」
露天商は厚ぼったいくちびるをすぼませ、呼吸をためてから、ろうそくの火を消すように声を発した。
「ドロップ、でございます」
「英語にしたって意味は変わらないでしょうに」
「ムーンの味に興味はありませんか」
「デリケートな舌なので、珍味は求めません」
「ムーンの効能に興味はありませんか」
「健康には自信があるし、今の自分に満足してます」
「今夜なら特別にお安くできますよ」
露天商は上目遣いで小瓶を振った。
まったく、なんてうすっぺらい嘘つきだろう。
もう不毛な冷やかしはやめて帰ろうと思った。
そう。
そもそも、こんなところに立ち止まったのはただの時間つぶしだ。
来るべき時間、来るべき場所に、来るべきひとが来なかった。待つのも帰るのもいやだった。だからあてもなくお祭りをぶらついただけ。神社裏の暗がりにほのかな灯りを見つけて、虫が光を求めるように寄せられてしまっただけ。わたしはサミシイ虫だから、まぶしい祭りのお囃子よりも、陰にそっと灯る光に吸われてしまった。それだけのこと。さみしさがさみしさに吸着されたのだ。
そう、サミシイ虫はしつこさなんて求めていない。
わたしは腰をあげた。キツネの子がわたしを見あげていた。きみのイタズラのせいで、からまれちゃったじゃない。と、責めたい気分だ。そんなの知らないその子は、ひとなつこく手を振ってきた。わたしは振り返さずに背を向けた。
この手は今、ひとにやさしくなれない。
もともと、
「来年帰ってくるかわからないから、今年は一緒に行こう」
そう言って祭りに誘ったのはあいつのほうだ。
海を越えなきゃ通えない学校に進むなんていうのを、いつのまにかひとりで決めてしまった。わたしはあいつを許していない。ずっと拗ねている。距離っていうのは時間とお金で測れる。わたしにとって海を隔てる距離は月に行くのと一緒。
いつまで行くの、いつ帰るの、いつ戻るの。
同じ質問ばかり繰りかえして呆れさせた。
「連絡するよ」
わたしを置いて行こうとするあいつは、やけにすっきりしていて、冷静で、涙なんか知らなくて、風の抜ける空みたいにあっけらかんとしていた。
子宮の中で仲よく手をつないでいたのは、目がくらむくらいに遠い昔の話。ふたりきりの世界から順番に生まれ落ちた後、ふたり並んでいるようで実はお互いひとりだった。もっと窮屈な世界に、手をつないでいるしかない場所に、足をからめているしかない空間に、閉じこもってしまいたい。そう思うのはわたしだけ。あいつはいつだって飛び出したい。新しい世界を冒険したいのだ。生まれたのだって、あいつが先。あいつが先に出たから、きっとわたしは追いかけたに違いない。
朝にお出かけの挨拶をした時も、先に進んでゆくあいつだけが楽しそうだった。
「じゃあね、行ってくるね。あのね、模試の後に行くからさ、神社前で待っててよ。家まで戻ると足が疲れちゃうから」
朝に弱いわたしの憂鬱なんておかまいなし。鞄へ参考書を詰めこんで、さっさとあいつはキッチンを出て行った。
わたしは返事なんてしてやらずに、にわとりタマゴの目玉焼きを八つ当たりの八つ裂きにしていた。どうせバイクで行くくせに、それで疲れる足ってすばらしく軟弱だ。模試なんてつまらないはずなのに、ピクニックにでも行くみたいに浮かれちゃってばかみたい。だいきらい。模試も、買ったばかりの原付バイクもだいきらい。そう思いながら白と黄色を細切れにしていると、あいつが戻ってきた。プチトマトを横取りして、わたしとよく似た顔をきりっとさせた。
「ちゃんと神社に来てよ。家で待ってないでよ」
「さあねえ。どうしよう」
「むむ、躊躇されるとは。ではおまじないをしておこう」
あいつはわたしのこめかみにこぶしを当てて、グリグリと回した。
「イタタタタッ」
「来たくなーる、来たくなーる」
「行くよう、行きます。必ず行きます」
「うん、よろしくう」
バイクのキイを指に回し、くりっと笑い、あいつは出かけていった。空を抜ける風みたいに。
本当は、外でなんて待ちたくないのに。
確実に家からふたりで出かけたかったのに。
あいつは外で会うことに、わたしを慣れさせたいのだ。よそよそしくなることに。そんな必要がこの世界のどこにあるっていうの。わたしにはわからない。納得できない。
白い皿に広がる目玉焼きの無残な姿が、わたしの気持ちそのものだった。
まったく。
そんなふうに約束させたくせに、あいつは来なかった。家を出るって決めてから、あいつはわざと時々こういうことをする。自分がいないことにわたしを慣れさせたいのだ。荒っぽくて意地悪な方法だと思う。でも、そうまであいつにさせているのはわたしだ。それはわかっている。
行き違いにならないように、わたしは二十分も前に待ち合わせ場所へ着いた。神社の門すぐ側の電柱。それから一時間も待った。はしゃいだ浴衣姿の群れが、風船やら綿飴やらを手にして神社を出入りした。
まるで恋人にすっぽかされたみたいだった。恋人なんかじゃないのに。
通りすぎる群れからしたら、きっと振られた女の子に見えるかな。かわいそうな子って同情されるかな。そう想像するとみじめだったけれど、実際のところ、だれもわたしなんて見ていないって知っていた。電柱と同じ存在。風景の一部。認識されないもの。たったひとり、わたしを見つけてくれるはずのあいつが来ないのだから。
たとえば二・〇の視力を誇ったとしても、優秀な探偵より勤勉に見張ったとしても、いないひとは探せない。
わたしはさみしさに負けて、それ以上あいつを待てなかった。
そして、ひとりでふらついたお祭りの雑踏でも、たださみしさが増えるだけだった。
胡散臭い露天商にさよならしたわたしは、出口へ急いだ。
金魚が尾を水にゆらめかせるような提灯に照らされ、サルやヒツジやタヌキの顔をしたひとたちが影を重ねている。わたしは影を切るようにして足早に歩く。 まもなく、お囃子も届かない、暗く広い道に出た。ぽつんぽつんとロウソクみたいな電燈がまっすぐつづく。わたしのほかにはだれもいない。前にも後ろにも。車も通らない。風も吹かない。もうみんな消えてしまったのかと思うくらい、音もない。匂いもない。空まで、いやに真っ黒い。
ただ、月がひとつ浮かんでいた。
厚ぼったい雲の間に。
ああ、月がまるい。
まんまるい。
おいしそうには見えない。ひんやりして、うすっぺらく尖っている。指を滑らせたら、するどく切れてしまいそうだ。
月は電線の間にひっかかり、屋根の後ろを通過する。ときどき、雲に飲みこまれて、ゆっくりと吐き出される。
ムーンの味に興味はありませんか。
わたしは舌の上で想像する。
月面はきっとごつごつして、じゃりじゃりしている。なめらかじゃないし、甘くない。しょっぱいかもしれない、苦いかもしれない。あんなウサンクサイひとから、あんなウサンクサイ飴を買うひとなんているのかな。わたしが背を向けた後も、出所のあやしい品物のお伽話みたいな由来を語りつづけているのかな。キツネの子供は飴の小瓶をどうしたのかな。
ああ、やっぱり。
ウサンクサイ。
月は月だ。うさぎはいない。蟹もいない。旗はなびかない。大きな石のかたまりだ。願いなんて叶えてくれない。神様なんていない。ちょっとずつ、地球から遠ざかる。宇宙に放り投げられてゆく。水のない暗い海に、さらわれてゆく。地球から遠くなる。わたしから遠くなる。
いつ来るの。いつ戻るの。いつ帰るの。
月は沁みる液体に満たされて、輪郭がぼやける。上を向いても、落ちるものは落ちる。限界を超えたら流れてしまう。
涙がこぼれる。月がにじんで、溶ける。
ああ、こんな日は泡風呂だ。
*
アパートに帰るなり、お風呂場へ駆けこんだ。
ひとり分の時間で泡の消えてしまう贅沢は、お母さんとあいつから批難を浴びること必至だけれど、それはあとのわたしに任せる。ぴかぴかにお風呂掃除して許してもらおう。密かに所持していた入浴剤を浅く張った浴槽に入れ、勢いよくお湯をそそぐ。ぶくぶくわぷわぷと泡が生まれてふくらんでゆく。白い匂いがお風呂場を満たす。涙で濁った鼻の通りがよくなる。お湯がたまるのを待ちきれず、次々と服を脱ぐ。汗のにじんだシャツも、微妙にお腹を締めていたジーンズも、下着もぜんぶ放り投げる。お湯はまだ足りない。でももう浸かってしまう。お腹がやっと隠れるくらい。全開にした蛇口からあふれるお湯の、大声で泣くみたいな音。便乗して、わたしも涙を流す。どうしてだか、おかしいくらいに涙が流れる。ちょっとすっぽかされただけなのに。だんだんにお湯が浴槽に満ちてきて、胸も肩もあたたかく保護される。白い泡と熱い温度がわたしを溶かして包んでくれる。とろとろに、お風呂がわたしをかわいがってくれる。
おおかた涙が流れ終わった時、ドアが開いた。
冷たい風が泡をゆらした。よく知った声がお風呂場に響いた。
「あーあ、また泡で遊んでる」
あいつが立っていた。
不満たっぷりな声音のくせに頬はゆるめて、あいつは浴槽の側にしゃがんだ。わたしはそっぽを向いた。だって、わたしは怒っているし、怒っていいはずだ。合計一時間二十分も待ったんだから。それに、涙で赤く腫れた目を知られるのはいやだ。
「ほら、おみやげ」
顔のすぐ近くに手が伸びてきた。冷たいものが頬に触った。びっくりした。だって、見覚えのあるガラスの小瓶だったから。わたしが振り向くと、あいつはいつものくりっとした笑顔で言った。
「ムーン、ドロップだよ」
その途端、もっと怒りつづけるつもりだったのに、つい笑ってしまった。同じ子宮で一緒に十ヶ月を過ごした人物が、同じ場所に行き着いて、ぜんぜん別の行動を選んで帰ってくるなんて。
「どうして笑うの」
「だって、わたし。わたし、冷やかしで見たもの。それ。神社の裏で買ったんでしょ」
笑いの間に、なんとか答える。どうしよう、お腹の筋肉も脂肪も内臓もよじれてしまう。湯船の泡がゆれて、ぷっくぷっくとはじける。
しごく大真面目に、あいつはわたしに問う。
「ねえ。ちゃんと聞いた? これの効能」
「知らないよう。どうしよう、きみってば、ばかだあ」
「ばかじゃないさあ」
あいつは小瓶をシャツの胸ポケットに入れると、止める間もなく、浴槽をのふちに両手をかけてそれをまたいだ。どどぶん。泡の波がわたしの顔にぶつかる。あいつははしゃいだ声をあげる。
「大波だあ」
「ちょっと。被害とてつもないんだけど」
「うん、泡だらけで、サンタさんみたいだね。メリークリスマスだね」
直訳すると白髭のおじいさんだね、だ。にくたらしいなあ。
わたしは湯船の表面をおおう泡を息で吹き分け、まっさらなお湯でサンタの髭を流す。ついでに涙のあとも消す。
お湯をさらっていると、大きな手につかまれた。似たり寄ったりの遺伝子のはずなのに、どうしてこんなに違ってしまったのかな。ふたりの手は、あんまりにも違う。向こうは骨と血管が浮いて、日焼けしていて、肉が厚くてあたたかい。わたしも握り返す。わたしの手は、骨も血管も白い脂肪の下へ隠れ気味だ。手をつなぐのは小学校以来かな。お風呂に一緒に入るのも。それに、認めるのはしゃくだけれど、この子の足はわたしよりずっと長い。その足は浴槽の中で窮屈そうに折られている。シーソーするみたいに、わたしたちは手をつないで向き合った。あいつはゆるゆると笑っている。お風呂の湯気みたいな顔だ。手をつないで、すぐ側にいる。全身が泡になったみたいな、この幸福感は一体なんなのかな。また涙があふれそうだった。ただ、今度の涙はあたたかい。でも、それを流したらいけない。なぜだかわからないけれど、涙を流すのはなにかを認めることになる。そう感じた。自分をごまかすために、わたしは言った。
「泡風呂なんかで遊んで、ごめんね」
「いいよ、そんなの。また、こうしてみたかったしね」
「こうして? 泡風呂に? だって反対派でしょ?」
「そうじゃなくてさあ。なんか、思い出さないかなあ」
ゆるゆるとした笑顔がさらにゆるむ。骨ばった大きな手が、胸ポケットから小瓶を取り出してコルクを抜いた。離されたわたしの手が、少しさみしがっている。
「舐めるの、それ。大丈夫? お腹壊さない?」
「あれれ。ムーンの味に興味はありませんか」
ムーンドロップをひとさし指と親指でつまみ、胡散臭いことを言った。露天商と同じセリフなのに、この子のほうが、だんぜん清潔な感じがするのはどうしてかな。
「ただの飴だもの。その色は、きっとミルク味だね」
「そんなのわからないよ」
「ねえ、どうして買っちゃったの?」
「おや。興味あるでしょ? ムーンの味と効能にさ」
「ないなあ。だって嘘だもの。だまされたくない」
わたしは膝を抱えた。だんだんさみしさがふくらんでいた。この子がムーンドロップを買ったと知った最初はおかしかったのに、今は悲しい。わたしたちは違う。同じひとに会って、同じことを言われても、違う化学反応が起こってしまった。
「ひとってさあ、だまされたいものにだまされたらいいと思うのね」
「わたしはいやだよ」
「必死で目を凝らしてるのに、うまく生きられないタイプだよねえ、きみは」
しみじみと嘆かれてしまった。
そうは言うけれど、なんでもあっさり受けいれてしまうのは、生きてゆくには注意力が足りないと思う。そんなだから心配になる。そう、心配。だから、遠くになんて行かないでほしい。わたしの短い足でも歩いて届く範囲にいてほしい。いっそ、この浴槽くらいの近くにいてほしい。いつでも手をつなげるように。いつでも、ゆるゆるとした笑みを見られるように。
ああ、そう、これはきっと子宮の中の距離。
ふたつの胎盤からホースみたいに伸びた臍帯が脈打って、羊水に浮かぶわたしとこの子をからませていた。あたたかい肉に包まれた海で、赤い宇宙で、永遠に似た時間の進化を一緒に遂げた。それは記憶にはない懐かしい思い出だ。
「ねえ」
「なに」
「行かないでよう」
わたしは泡に沈みそうになりながら、お願いしてみた。ずっと言いたかった。ひきとめたかった。旅立つ準備を着々と整えるこの子には、みじめったらしくて言えなかったけれど。ずっとずっと一緒にいてほしい。
なのに、
「それは無理だよう」
迷いのない答えが返ってきた。ずばりと、からりと、あっけらかんと。そう答えるだろうって、わたしは知っていた。やっぱりその通りだった。わたしは泡風呂に沈没した。泣きたい気持ちなんて、泡になって溶けたらいいのに。
やがて湯船から浮上したわたしの鼻先に、ムーンドロップが近づけられた。
「舐めてみる?」
わたしはうつむいて首を横に振る。頬の泡を涙が流し落としている。
大きな手のひらが、わたしの頭をやさしくなでた。顔をあげると、黒飴みたいな目が近くにあった。その甘そうな目が好きだ。つまんで舐めたくなる。
「じゃあ、おれがいただきましょう」
顔を天井に向けて、あいつはムーンドロップを舌へ落とした。キツネみたいな細いほっぺたが、むぐむぐと動く。涙と泡をぬぐい、わたしは尋ねる。
「どんな味?」
「あれ、知らないの?」
「知るわけないよう」
「ふうん、秘密だよう」
そう言って、少しちいさくなったムーンドロップを、舌の上にのせて覗かせ、
「もちろん、効能もね」
イタズラばかりしていた子供の頃の顔つきで、つけ加えたのだった。
*
「ほら、起きて。ほら」
激しく肩をゆさぶられて、わたしは目を開けた。
髪の乱れたお母さんがわたしを心配そうに覗きこんでいて、その向こうに水滴のついた天井が見えた。降りそそぐシャワーがほてった熱いからだを急速に冷却していた。お湯が渦を巻いて排水口に流れている。わたしは浴槽のふちに首を預けて、仰向けに伸びている状態だった。換気扇が回っている。
「お母さん、どうしたの」
「どうしたのじゃないでしょ。あんた、湯当たりしたんだわよう。何時間入ってたのよ」
どうやらのぼせて気を失ってしまったみたいだった。お母さんが仕事から帰ってくるまで浸かっていたのなら、確かにずいぶん長湯をしたことになる。あいつはいつお湯からあがったのだろう。わたしを残していなくなるなんて、あんまりな仕打ちだ。そうまでしてわたしをひとり立ちさせたいのかな。
「お母さん、あいつはどこに行ったの」
「あいつって?」
「だから、わたしがあいつって言ったらひとりしかいないじゃない。ねえ、もうシャワーいらないよ」
お母さんはぽかんとして、シャワーをわたしに浴びせつづけた。まるで宙に空洞を見つけてしまったみたいな表情だ。そして、なにを血迷ったのか、シャワーヘッドをわたしの顔めがけて向けてきた。とっさに目をつむったけれど、鼻には水が流れこんた。細胞がぷちぷちはじけた。体を起こし、顔を両手で防御してお母さんに抗議する。
「ちょっと、お母さん、娘をどうしようっていうの」
「正気に戻すのよ」
お母さんは怖いくらいに真剣そのものだった。
「いたって正気だよ」
「まだ戻らないの」
お母さんはわたしの頭を腕に抱えて、シャワーを浴びせた。お母さんの痩せた胸にも冷たい水が浸みてゆく。お母さんの心臓が、乱暴に波打っている。わたしの耳に直接鼓動が響く。お母さんに抱きかかえられるなんて久しぶりだ。最後に抱きしめられたのは、いつだったかな。それほど昔でもないような、ひどく昔のような。確か、その時もお母さんの胸は内側から激しくノックされていた。
「もう、いないでしょ」
それだけを、聞きとりにくい声で言うお母さんの、わたしを抱く腕に力がこもる。
お母さんの言う意味がわからない。まるで音だけでできた、言葉の殻。
もう、いないでしょ。
変な答えだ。聞き間違いかもしれない。でも、これ以上、お母さんに喋らせたらいけない気がする。わたしはお母さんの背中を、なるだけやさしく叩いた。
「大丈夫。お母さん、もう大丈夫だから。お母さんも風邪ひいちゃうよ」
「ああ、うん。そうだね」
ようやく、お母さんの腕がゆるむ。
わたしは立ちあがって脱衣所へ出る。うっすらと目眩を感じた。吐き気がする。とりあえずバスタオルを巻いただけの格好でリビングの床へ転がった。テーブルに置いていたミネラルウォーターを引き寄せて飲む。その時、視界の端に木製の戸棚が映った。ちいさなチョコレート色の戸棚だ。扉は両開きで、中にはままごとのおもちゃみたいなお茶碗と、一箇所欠けた黒いマグと、ポテトチップスのコンソメ味、壊れた腕時計、そして写真立てが置かれていた。
わたしはその〈チョコレート色の戸棚〉へにじり寄った。
わたしはその〈仏壇〉へにじり寄った。
そう、仏壇だ。
仏壇の写真立てにおさまっているのは、あいつだった。
どうしてかな。
わからない。
どうして、こんなものがうちにあるのかな。まるで映画のセットだ。
わからない。
さっきまで、手をつないでいた。
目の前でゆるゆると笑んでいた。
あいつとお母さんの仕組んだ冗談かな。
「あんたったら、そんな格好のままで。もう夏じゃないんだからね。風邪ひいたって同情しないわよう」
お風呂場から出てきたお母さんは、わたしにもう一枚大きなバスタオルをかぶせて、着替えを取りに行こうとした。でも、行かなかった。行けなかった。わたしが尋ねたからだ。
「ねえ、なんで、こんな風に写真を飾るの?」
「なんでって」
お母さんは、言葉をなくした。
写真には覚えがある。その中のあいつは、わたしの双子とは思えないほど、きれいな顔で笑っている。写真嫌いなあいつなのに、撮ってほしいと自分から頼んできた。覚えている。買ったばかりの原付バイクと一緒に記念撮影。すばらしく幸福な笑顔。
「どうしてこんなものがあるの」
わたしは仏壇を指さした。
最悪の冗談。黒すぎる冗談。冗談にならない冗談。
お母さんはフィルターをかけたみたいに顔を白くさせた。口元をわななかせ、目をつむってうつむいた。両手をぎゅっと握る。緑色の血管が浮く。膝がふるえた。お母さんのひとつひとつの体の動きが、わたしの目にはっきりと映った。でも、そういう動作の意味を理解したくなかった。
「しっかりしてよう、あんた」
お母さんは質問に答えてくれなかった。
わたしも、答えを聞きたくはなかった。
たぶん、知っているから。
寒気が背筋を這いのぼった。一気に、全身へ鳥肌が立った。
寒い。
どうして、こんなに寒いのかな。
お母さんはシャツの上に厚手のパーカーを着ている。カレンダーは黄色と赤茶色の季節。リビングの端にはオイルヒーター。わたしの髪は、肩を越えて伸びている。
もう夏じゃない。
とっくに、冬が来ている。
じゃあ、今日の祭りはなんだったのかな。
金魚の尾に似た提燈が並んで、キツネやサルやタヌキのお面が楽しげに遊んでいた。
夏祭りだった。
夏祭り、わたしはあいつと待ち合わせをしていた。
待ち合わせを。
でも、
あいつは来なかった。
どうして来なかったのかな。
記憶をたどる。
キッチンの戸口で、片手を振ったあいつ。
あいつのくりっとした笑顔を覚えている。
その後、その後は。
さっき。
さっきのお風呂場。
ううん、違う。
記憶をたどろうとしても、キッチンとお風呂場の間が暗い。祭りの待ち合わせにあいつは来なかった。それは確かだ。
空を渡る月を覚えている。そのあと。うちに帰って、わたしは泡風呂をつくった。ううん、なんだかおかしい。キッチンとお風呂場の間に暗闇がある。そこに月が点滅している。
片手を振ったあいつ。
その先が、思い出せない。
「もう、いなくなっちゃったでしょう。どうして急に、わからなくなるのよう」
お母さんが言葉をしぼった。無理やりに喉をふるわせた。
「一緒にお別れしたじゃないよう」
「いつ」
「あんた、本当に忘れたの? お祭りに行く途中で、トラックに」
お母さんはそれ以上言葉をつなげられなかった。ぎゅぎゅうっと、更にこぶしを硬く握った。
タチヨミ版はここまでとなります。
2019年12月29日 発行 初版
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