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社会人になると一人になれる時間が少なくなる。人と一緒にいるのが嫌いな訳ではないが、少し息苦しい。だからそんな私には、仕事が終わって、お疲れ様ですを言ってから、我が家に行くまでの一時間程度の時間が好きだ。
私は今は一人でいられる。SNSなんかも見ない。イヤホンをつけて音楽を聞きながら、自分の考えに浸れる。誰にも邪魔されたくない時間。
しかし、音楽が突然止まって、不快な通知音が響いた。
(またか、誰だろう……)
いつも通知で溢れている私のスマホに、点滅するマークが出ている。スマホの通知欄にエフマークのアラートが点滅していると気づいた途端、脈が早くなるのを感じた。緊急時の呼びかけを知らせるサインだ。今や多くの人が、スマホ画面の最も使いやすい目立つ位置に配置しているであろうこのアプリだが、来てほしくはない通知だ。
どうせ会社関係だろうけど。でも、親しい人ではありませんように。親しいフォロワーの名前、顔を思い浮かべて、私は少し祈りながら通知をタップした。出て来たのは、直属の上司である係長がシェアする告知ページだった。
『父親が余命半年と告知されました。皆様の販売をお待ちしています』
私は見慣れた光景に大きなため息をついた。もう悲しみや同情などしない。上司の親という、決してスルーできない関係性のせいだ。これだからSNSは嫌だ。
急いで別画面で検索サイトを開き、「上司 父親 寿命 相場」で検索し、さっと調べて元のページに戻り、私は早速アプリで売り出す登録をした。
『お察しします。少しですが販売させていただきます。値段設定は最低ランクにしました』
すぐに反映された。私が同僚の中で一番早い販売だったらしい。そんなことを確認しつつ、メニュー欄の『余命の販売』をタップした。『三日間』、『一日30円』を選んだ。確認画面を見て、この数値が適切かどうか一瞬ためらったが、これ以上私の命をあげる気はない。深呼吸をして、ようやく
『OK』を押した。
『滑川さんが三日間の販売を開始しました』
待ってました、と言わんばかりに、上司からの『いいね!』の通知がつき、メッセージを受信した。
『滑川さん、ありがとうございます。購入します』
そうして私の人生から、三日間が、ずっと先にあるはずの日々が消滅した。
でも、これが社会の人付き合いというやつだ。社会で生きていくには三日間を惜しむことは許されない。
昔、お金もメールも紙だったという。私は、そんな紙に価値があった時代は知らないが、どちらも紙で良かったと思う。ただ数字が増えたり減ったりする財産よりも、紙のお金は価値を実感できただろう。小説で読んだだけだが、紙の手書きのラブレターなんてロマンチック過ぎる。デジタルで全て管理されている現実はすごく楽だが、昔は不便ゆえに一つ一つの価値をはっきりと感じられたのではないか。
人間の命もそのほかのものと同様にデジタル化され、どこかで一括管理されている。個々の寿命は管理者の都合から明らかにはされないが、生まれたときから決まっているらしい。そして余命が一年を切った場合のみ、あのアプリから告知メッセージが届くように、法律で定められている。死にたくなければ、あるいは家族が死んでほしくないなら、アプリで命を売ってくれと頼むのだ。
大学で学んだ歴史の講義によれば、寿命のデジタル化、そして余命の告知は、それを互いに融通し合う慣習を生んだ。アプリ上に作られる告知ページで、繫がりのある人たちに命の売買を呼びかける。そして人々はで自らの命を削り、販売するのだ。その人が長生きしてほしい、というより、繋がりを示すために。時には、貧しい人が自分の命を売って生活をする金を得る。気がつけば、命や時間は私たちにとって軽いものとなった。
歴史の教授はそう言って今の文化を批判するが、私から言わせれば、昔の人の方が短い不確かな命を無駄にしていたと思う。昔の人のべたべたした人付き合いによって時間を費やすくらいなら、早く死んでも同じことだ。
「また売ったの?」
今回の販売を知った母は心細げにそう言った。また始まった…
「だいたいあなたは、人付き合いが多すぎるのよ……!」
専業主婦の母は、今どき珍しく、SNSにログインすることはほとんどない。当然アカウントはあるが、友達もごく少数で、一体これまでどう暮らしてきたのか、と思ってしまう。そんな母には命の販売行為が理解できないようだ。
「今までいったいどのくらい売ったの? 高校生の頃からずっとそうよね」
「……わからないよ」
自分が売買した総日数をアプリ上で確認することはできるが、私はあえてそれを見ないことにしている。誰にどのくらい命を売ったのか、はっきり言ってあまり興味がない。なくなれば通知があるし、そのときは買えばいい。別に無理して長生きするつもりもなかった。勉強と仕事と人間関係に縛られてきた私の人生。長生きはあまり考えたくない話題だ。
「こういうのはお互い様。お母さんとか、自分が余命わずか、もう死ぬ、そうなったときには、逆に助けてもらえるように」
「でも、突発的な事故や急病ですぐ亡くなってしまう場合は、告知される間もないわけでしょう? あなたはただ、何の見返りもなく寿命を闇雲にばらまいているだけなのかもしれないのよ? もったいないと思わない?」
母の真剣な顔。反論しても意味がないことを知っているから私は黙った。母はさらに念押しした。
「ねえお願い。寿命をこれ以上、変な義理や義務感でやりとりしないで。あなたがなくした三日間は、私にとってもかけがえのないものなの。お金に換えられるものではないの」
次の日、会社に行くと、係長が課内にお菓子を配っていた。その明るい顔と配っているお菓子の袋の量を見て、係長の父親の余命が十分に伸びたことがすぐにわかった。
「滑川さん! すぐに売ってくれてありがとう! 助かったよ。若いのに気を使わせて申し訳ない」
「いえいえ。お父様は大丈夫ですか?」
(大丈夫なことはわかってますけど)
「うん。本当にありがとうね」
形ばかりのこうしたやり取りにも、二年社会人をしていればすっかり慣れるものだ。学生の頃も少しあったが、社会人となると数ヶ月に一度は親の余命宣告の話がある。ある時は辞めた非常勤職員さんから、余命宣告がありました、申し訳ないけど…という風に依頼もあった。私の職場の人間関係が比較的密であることも理由の一つなのだろうか、それでも、まあこれが社会というやつか、と思っている。
命の販売に対して反対していた母の主張が一変したのは、それから間もなくのことだった。仕事から帰ってきた私に、母が青ざめた顔で見せた画面は、アプリの管理者からのメッセージだった。
『あなたの余命が一年を切りました』
メッセージ内には、母が現在患っている病状と死ぬまでの流れが詳細に書かれていた。それとともに、ページの一番上には『余命の募集ページを開設する』のボタンが大きく点滅している。
動揺を隠せないで泣いてくる母。私も何ともいえない気持ちでそっと背中をさすった。
「落ち着こう。明日病院に行こう。それから、募集のページを開設しよう」
「無駄よ。私は知り合いが少ないの、それに今まで寿命をあげたことなんて一度もしたことないから……」
「私がいるよ。私がお母さんのページを作って、たくさんいる友達にお願いするから。きっとたくさん集まるから安心して。こういうときのためにアプリをちゃんと使ってたの」
母は泣きながら少しだけ微笑みを見せた。
「ありがとう…」今まで私には見せたことのない表情だった。
こういうとき、私にも父親がいれば、と思う。父とは私が小さい頃別れたらしいが、どんな人か、どのような事情があったのか全く教えてくれなかった。大人になったらね、と言う母の顔があまりに悲しそうで、その話題に触れるのはやめた。父親がいなくても、母のおかげで私は幸せだったし、母もきっと幸せだった。祖父母の遺産があったらしく、お金に困ることもほとんどなかった。だけど、今、こういうとき。
(私だけでお母さんを支えてあげられるかな…)
母が眠ったのを見届けて、私は自分のアプリをチェックした。見たくない通知が一件来ていた。
『あなたのお母様の余命が一年を切りました』
もちろん少し不安で怖い。だが、アプリのフォロワーを見て確信した。もう顔を忘れてしまった小学校時代の同級生から会社の課長、一度も会社たことがないネットの友人まで、2000人以上のフォロワーが私にはついている。貯金の残高も十分だ。『余命の募集ページを開設する』ボタンをタップした。
私の予想を上回る勢いで、販売してくれる人が集まっていった。会社の課長は半年も売りますと言ってくれた。顔も覚えていない人からの三日も嬉しかった。アプリは嬉しい通知に溢れた。今日ほど人のつながりに、このアプリに感謝した日はない。
こうして、一年と宣告された母の余命は、一日もしないうちに八年近く伸びた。
「社会人の力、すごいな…」
「八年なんてすぐ過ぎてしまうわ、今日から一日一日大切にしないと、大変ね」
なんて言いながらも、母もすっかり元気になった。満面の笑みで私に言った。「ちょっとケーキ買ってくるから待っててよ。今日は私の二個目の誕生日だから」
「はしゃぎすぎ、早く帰ってきてね」
母は帰ってこなかった。
警察によれば、私の父親は精神的におかしい人だったらしく、殺人事件を起こして行方不明となっていた。その父親を恐れて母も多くを語らないまま静かに暮らしていたようだ。だが父親が突然現れて母の命を奪った。
「逮捕はしましたが、意味不明なことを言い続けています。申し上げにくいのですが…裁判になっても罪に問えるのかどうか…」
母の死はあまりに突然で理不尽なものだった。母がよく言っていた、「突発的な事故や急病ですぐ亡くなってしまう場合は、告知される間もないわけでしょう? あなたはただ、何の見返りもなく寿命を闇雲にばらまいているだけなのかもしれないのよ?」この言葉が母自身に降りかかった。
母は命の価値を伝えたくて、寿命を売る私にそう言っていたはずだ。だが、寿命を買ったのに突然死んでしまった母の言葉には説得力がない。
命の価値なんてあるんだろうか。たかが一日30円で売られている、この命に。これまで必要なら寿命を買えばいいと思っていた。今は、必要とも思えなかった。
何もかも虚しい気持ちになって、一週間仕事もサボってしまった。最近は読書ばかりしていた。生きる意味、私の命の価値を教えてくれる人はいないか。
私はデジタルを好まない母の影響か、昔書かれた小説や昔を舞台にした小説が好きだ。紙の時代にも憧れる。
そんな感じで読んだなかの一つで、自殺しようとする子どもに親が言っていた。「生きたくても生きられない人がいる。命を粗末にするな」
今の時代、生きたい人はお金さえあれば生きていける。そうでない人は売ればいい。
(そう…私も売ろうかな)
こんな気持ちで、知り合いに寿命を買ってくれと言っても買ってはくれない。かと言って、闇取引はしたくない。やり方もよくわからない。怪しい業者の広告は見るが、手を出そうとは思わない。
そう思いつつ、SNSでネットサーフィンを始めてみた。何という言葉で検索していたのか、もうわからない。一人の活動家のホームページを開いていた。
「世界にはまだ生きたくても生きられない人がいます。発展途上国の人たちに支援を。一カ月1000円の寄付で救える命があります」
こういう活動家には頭が下がる。寿命が管理されているこの国とは違い、貧しい国では今も不確かな日々があるのだ。まさに慈善活動家こそ寿命を多く購入して、健康で長生きしてくれた方が良いのではないか。
心の中で色々思いつつ、そのホームページを見ていると、発展途上国の子どものプロフィールと夢が書かれていた。その中に痩せこけた悲しげな表情のキャリーという名前があった。その女の子のプロフィールが目に留まった。
誕生日が、母の命日と同じだった。二個目の誕生日…母の言葉が蘇る。私は、私の命はこの子に捧げたい。
発展途上国で活動する活動家には、突然多額の寄付金が入ることがある。だいたい匿名で、何やら強い思いを乗せたメッセージがついてくることもあるという。
ある時、こんなメッセージとともに多額の寄付金が送られてきた。
「命をかけて、キャリーちゃんを支援します」
活動家はせっかく寄付をもらっても少し悲しい顔を浮かべただけだった。貧しい国で、辛く命をかけた活動家の仕事は続く。だが、仲間の数は一向に増えないのだった。
2019年6月2日 発行 初版
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