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文藝MAGAZINE文戯8 2019 Fall

浅黄幻影 伊守梟 大沢愛 川辺夕
小伏史央 酔歌 ひやとい みや鴉
MOJO

書房AJARA



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次


巻頭企画 「旅」

◆ベンダー・ベンダー  大沢 愛


◆辰雄のこと  MOJO


◆となりの地球は青く見えた  浅黄 幻影


◆米子駅のナジャ  小伏 史央


◆妖精  ひやとい


◆眠らない悪女と聡明な破壊者  伊守 梟


◆地平面へ至るグランツーリスモ  川辺 夕


◆アワー・ウォーク  酔歌


◆ひとと生きた鴉  みや鴉



連載

◆美恵子さんと。 第八話  大沢 愛


◆鳥が飛ぶ時~四分割のあなた~ 前編  川辺 夕



◆著者紹介(五〇音順、敬称略)










ベンダー・ベンダー




大沢 愛

 朝の陽射しが、はるか上空を通過していく。稜線に遮られて、黒く続くアスファルトの舗面までは届かない。針葉樹に覆われた山肌を左に見ながら自転車のペダルを漕ぐ。小学校に上がってしばらくして、おばあちゃんの買ってくれた二十四インチの子ども用自転車は、上り坂に差し掛かるたびにハンドルががくがくと左右に振れる。両手で懸命に抑え込もうとするけれど、速度が落ちるにつれて車体が倒れそうになる。
 身体のすぐ右横を自動車が追い抜いてゆく。国道一八〇号線のこのあたりの制限速度は時速六〇キロだったけれど、見通しがよくなったせいかどの車も思うさまスピードを上げていて、通過するたびに風圧でよろけそうになる。私たちが走っているのは道路の左端の白線の外側、路側帯だ。もしかすると、こんなところを自転車が走っているなんて誰も思っていないかもしれない。長距離ドライブの車内でくつろいだドライバーは、カップホルダーの飲み物に手をやったり、カーナビのパネルに手をやったりで、前方から目を離すことだってあるだろう。そんなとき、私の自転車が道路左端に現れたとしたら。ハンドルを握りしめる。
 私のすぐ前を走る二十六インチの自転車は振り向きもしないで進んでいく。私のとは違って変速機がついている。それだけでも上り坂は楽なはずだ。どんどん差が開いて行って、追いつけなくなったらどうしよう。諦めて引き返すか。でも、そうなったらあとで何を言われるか分からない。
「遅れたら置いていくからね。絶対についてきな」
 私の三つ上の姉・琴葉ちゃんは私にそう言い渡して、返事も待たずに走りだしていた。

            〇
 国道一八〇号線は、山と高梁川に挟まれて南北に伸びている。一日のうち、日の差す時間はたぶん、六時間にも満たない。太陽が山に隠れる午後三時、渓流から集落にかけては空気が湿ってくる。見上げる夏空は雲一つなく、稜線に切り取られた太陽のない濃い青だった。空は遠い、と思う。この集落が、県南の倉敷や岡山からはるか遠く隔たっているみたいに。
 国道一八〇号線沿いに、自動販売機を集めた「お店」がある。私が物心ついたころには木造の木目がクリーム色に塗られていた。それがいつの間にかライトブルーになり、いまではピンク色になっている。県北に近いこの一帯は、冬になると一メートルを超える積雪がある。自動販売機が埋もれてしまわないためには必要な建物だった。雪が解けて、また降り始める間の半年あまり、建物の中にはいつも悪臭が漂っている。紙コップで販売しているコーヒーが捨てられたゴミ箱が源だった。基本的に自動販売機を置いている業者さんが補充に来たついでに回収してくれるはずだったけれど、いつの間にか間遠になってしまっていた。以前はおばあちゃんが毎日、お店の中を掃除していたけれど、両膝、さらには脊髄を悪くしてからは箒を持てなくなってしまった。土日や長期休暇になると、おばあちゃんはなんとなく私にもの言いたげになる。掃除をして欲しいのだ。以前、何度かやってみたものの、機械の下から這い出るゴキブリやムカデ、ゴミ箱の中に放り込まれた嘔吐物を入れたコンビニ袋やファストフードの飲み残しボトル、腐敗した残飯を見て、半日くらい吐き気が止まらなかった。申し訳ないけれど、ときどきは知らんぷりをする

 一週間に一度、お母さんから電話がかかってくる。ゴミ箱のひどさを訴えると「誰かが掃除しなきゃならないんだから。双葉がやらなきゃ、身体の悪いおばあちゃんがやることになるでしょ。お手伝いしなさい」と言われた。山間の村落暮らしが嫌で、ひとりで倉敷に住んで働いているお母さんは、電話口ではとても「いいこと」を言う。うちは父がいない。それなら私と琴葉ちゃん、それにお母さんの三人が一緒に倉敷に住めばいいと思う。でも、お母さんに言わせるとそれはとても無駄なことらしい。倉敷はここに比べると家賃が高い。独り暮らしならともかく三人で住めるアパートとなると、お母さんのお給料の大半が飛んでしまう、という。「だから双葉たちは高梁のおばあちゃんの家で暮らすのが一番いいの。家賃もかからないし。ママはお仕事頑張るからね」それならお母さんも高梁に住んで、倉敷まで通えばいいと思うけれど、JR伯備線は本数が少なく、自家用車で通勤するには毎朝六時に起きて、帰ってくるのは十時過ぎるそうだ。「それだと、ママは病気になっちゃう。そうなると物凄くお金がかかるの。双葉たちも何もできなくなっちゃうよ。そういうのって厭よね? だから、頑張らなきゃ。新しいパパができるまで、ね」電話でのママの声は優しい。直に会っているときは、どこか疲れた声だったり、苛々と早口だったりする。早口のときにはそのうち必ず怒り出す。初めから怒ると決めているみたいだ。以前、私が「新しいパパっていつできるの」と訊いたときは凄かった。だからたまに顔を合わせても、あまり喋らないように気を付けている。
 自動販売機のある建物の中には、飲み物やアイスクリームに交じって、食べ物を販売する機械がふたつある。ひとつはハンバーガーの自動販売機だ。一度、自分でお金を入れて買ってみた。箱に入った熱々のハンバーガーは、蓋を開けるとなんだか不思議な感じがした。倉敷でファストフードで食べたものとは違い、バンズがびしょびしょに湿っている。挟まれたハンバーグは、なんというか厚揚げみたいだった。これは何なのだろう、失敗したのだろうか、と思いながらも、食べ残してしまうとゴミ箱の異臭の源を増やしてしまうので、一生懸命に食べた。お腹の中の空腹が萎えただけだった。ところが、このハンバーガーはなぜか人気があった。お店の前には県外ナンバーのオートバイや自動車が横付けされて、お客さんが入ってくる。みんな、スマートフォンを翳して撮影しながら、ときどき自撮りまでしている。自動販売機から取り出した箱入りハンバーガーを大喜びでテーブルに載せ、撮影。蓋を開けて、また撮影。手に取って、さらに撮影。かぶりついたあと、歯形の残る齧りかけまで撮影。「お客さんのいるときにはお店に入っちゃいけないよ」とおばあちゃんに言われていたので、建物の周りをぐるぐる回りながら、小さな窓や入口の扉越しに中を窺う。もしかすると「インスタグラム」とか「ツイッター」に載せる目的で買っているだけじゃないか、と思った。確かにそれはあるみたいだけれど、撮影が終わったらお兄さんやおじさんたちは手早くハンバーガーを食べてしまう。外箱や中の包み紙はゴミ箱に捨てて、お店から出てゆく。よく分からないけれど、どう考えても美味しくない自動販売機のハンバーガーを喜んでいるみたいだ。
 もうひとつは、「天ぷらうどん」の自動販売機だった。お金を入れると、しばらくしてから取り出し口にかき揚げ天ぷらとかまぼこ、刻み葱を乗せた熱々のうどんが出てくる。もともとは自動販売機を置いて行った会社が管理していたらしい。でも、いつの間にかこのうどんの自動販売機は取り扱わなくなった。ところが、ここにやって来るお客さんの大半はうどんの自動販売機の前に立ち、「販売中止」の貼り紙を持てはがっかりした様子を見せる。それなら、とおじいちゃんが、自動販売機の本体を開けて、中の造りを調べて、うちで必要なものを用意して機械に装填して営業を始めてしまった。うどんの出汁はおばあちゃんが、うどん麺は初めのうちはおじいちゃんが打っていたそうだ。本格的な手打ちうどんが自動販売機で数百円で食べられる、と話題になり、毎日毎日、あっという間に完売したらしい。やがておじいちゃんの身体が利かなくなり、手打ちうどんから既製の茹で麺に変えたものの、うどんの自動販売機そのものがめったに見られなくなったためか、今でも売れ残りはゼロだそうだ。その昔、うどんの丼はプラスチック容器で、洗って再利用していたという。いまでは発泡スチロールの使い捨てで、ビニール袋をかぶせた段ボールのゴミ箱に捨てるようになっている。夏はハエがたかることもあるけれど、おつゆの飲み残しはほとんどない。おばあちゃんが作った出汁を全部飲んでくれているのだ、と思うと、なんだか嬉しい。
 オートバイや自動車は国道一八〇号線を南、北へと走り去ってゆく。南なら倉敷、北なら新見、さらには広島県や鳥取県だ。どっちに行ったとしても世界的なチェーンを誇るハンバーガーショップはあると思う。それなのになぜ、うちに寄るのだろう。おばあちゃんに訊くと、いつになく険しい顔で窘められた。
「そんな失礼なことを言っちゃいけないよ」
「お客さんの事情を穿鑿するなんて、やっちゃいけないことだ」
 でも、もし誰も来なくなったら「どうして来ないの?」と訊くことはできない。
 「どうして来るの?」と訊けるのは、お客さんの来てくれているいまのうちだけだ。
 それが駄目ということになると、なぜうちに来てくれるのか・来てくれないのか、どうやって知ればいいのだろう。

            〇
 八月二十日だった。夏休みももうそろそろ終わる。今朝、朝ご飯を食べ終わると、琴葉ちゃんは私の腕を掴んで廊下に連れ出して囁いた。
「きょう、行くから」
 そう言うと、東部屋に向かって廊下を歩きだした。私はしばらく立ち尽くしていたけれど、茶の間に戻っておばあちゃんに言った。
「あのね、きょう、新見までお出かけするから、お店の手伝いできない」
 卓袱台の上を布巾で拭いていたおばあちゃんは、うんうん、とうなずいた。足が悪くて、家から「お店」までは手押し車を押して歩く。私が押してあげると、うれしそうに後をついてくる。農道から木橋を渡って、百メートルほど歩く。小学四年生の私より、ずいぶん遅い。それでも、「お店」に着いたときには苦しそうに身を屈めてしばらく休む。国道一八〇号線に面したお店にはお客さんがいることもあれば、がらんとしていることもある。「お店」とはいうけれど、木造の建物の中には自動販売機が並んでいて、あとはテーブルと椅子があるだけだ。その中の一つのカギを開けて、家から運んできた、おばあちゃんの手作りの出汁と、うどん麺をセットする。かやくは減った分だけを補充して、蓋を閉める。最後に、割り箸と七味唐辛子の小袋を入れ足す。ときどき、いたずらなのか、床一面に割り箸や小袋が撒き散らされていることがある。そんなとき、おばあちゃんは何も言わない。苦しそうに腰をかがめて火箸で拾い集め、ゴミ箱じゃなくて手押し車の袋に入れる。「ゴミ箱に入っていると、見た人が真似するからね」そう言って、道を引き返してゆく。
 東部屋に行くと、琴葉ちゃんは着替え終わっていた。ピンクと白のタンクトップにハーフパンツ姿で、顔や手足に日焼け止めを塗っている。中学校に入ってから私よりも二十センチくらい背が高くなった。ハーフパンツから覗く足は柔らかそうで、運動部の練習に明け暮れている女の子とは異質だった。
「早くしなよ。こんなに早く出るのはアンタのためなんだからね。夕方までに帰って来られなくなるから」
 日焼け止めをつけた両手で太腿を撫でまわしながら、言う。私もあわてて衣装箪笥からシャツとパンツを取り出した。
「そうそう、自転車の空気、入れてる?」
 ソックスを穿いて、立ち上がる。ふだんあまり乗らないから、もちろんタイヤの状態なんて見ていない。
「ちゃんと空気入れときなよ。途中でパンクしたって自転車屋なんてないんだから」
 鏡に向かってキャップを被り、ポーズを決めている。急に不安になってくる。
「もしパンクしたらどうなるの?」
 鏡の中で、琴葉ちゃんはにっと笑った。
「見捨てる」
 いつもと変わらない、と思った。琴葉ちゃんは意地悪だ。私が不安がることを言っては、反応を楽しんでいる。しかも、助けてくれない。同じ小学校に通っていたころから一緒に遊ぶこともなくなっていた。たいてい、泣かされるから。一緒にお出かけなんて何年ぶりだろう。
「あと十分で支度しな。待たないよ」
 琴葉ちゃんはそう言うと、ポーチを手に部屋を出てゆく。最初はワンピースにしようかと思ったけれど、やめた。道端で一人ぼっちになったとき、スカートだと耐えきれない気がする。デニムのショートパンツに足を通す。これなら、自転車のサドルに何時間座っても大丈夫だ。転んだときのためにマキロンとバンドエイド、虫刺され用にキンカンの小瓶をポーチに入れる。あと、お小遣いとして千円札を二枚、ショートパンツのお尻のポケットに押し込む。もし自転車が壊れてどうしようもなくなったら、これでバスか電車で帰って来られるだろうか。
 納屋から引き出した自転車は埃まみれだった。耕耘機用のタオルで拭いて、ようやく乗れそうな状態になる。タイヤはぺったんこになっていた。空気入れを探す。琴葉ちゃんの自転車のそばにあった。中学校は最初のうち自転車通学だったけれど、自転車置場に止めていた自転車が何度かいたずらをされていたそうで、それからは歩いて通うようになっていた。後ろの泥除けに中学校の校名入りの通学ステッカーが貼ってある。学年・クラス・番号を示す四桁の数字部分は削り取られていた。誰かにやられたのか、自分で削ったのかは分からない。



  タチヨミ版はここまでとなります。


文藝MAGAZINE文戯8 2019 Fall

2019年9月10日 発行 初版

著  者:浅黄幻影 伊守梟 大沢愛 川辺夕 小伏史央 酔歌 ひやとい みや鴉 MOJO
発  行:書房AJARA

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