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写真師 江田晃陽氏に敬意を込めて
この本を江田写真館におくる


昭和26年 夏
昭和25年 夏
昭和28年 夏
昭和27年 8月
昭和36年 8月
昭和36年 8月 元名海岸
昭和29年 夏
昭和31年 8月
昭和29年 夏
昭和36年 8月 
昭和26年 9月 魚集会所
昭和26年 9月 魚集会所のアジ
昭和25年 夏
昭和27年 8月 
昭和27年 8月
昭和25年 夏
昭和36年 8月
昭和25年 夏
昭和29年2月9日 大相撲大会 保田神社
昭和29年2月9日 大相撲大会 保田神社
昭和26年 2月16日 大雪
昭和26年 2月16日 大雪
昭和26年 2月16日 大雪
昭和31年 8月7日 浮島
昭和29年 夏 森永スイートガール
昭和29年 夏 森永スイートガール
昭和36年 7月 駐車場
昭和26年 金谷・鋸山
昭和27年 8月 鋸山
昭和26年 金谷・鋸山
昭和26年 夏 
昭和29年 夏
昭和30年 11月 亀ヶ崎
昭和28年 ギスガウラ
昭和25年 夏
昭和25年 夏
昭和27年 夏
昭和35年 5月
昭和36年 7月 
昭和29年 夏
昭和29年 夏
昭和26年 冬

1905 - 1985
写真師江田晃陽氏とその時代

私の撮影法は、唯形容ばかりを寫すのでなく、皆様の個性を自然に芸術的に寫眞畫として表現するので、今までの寫眞に満足出来ず、高雅な趣味の寫眞を求めらるゝ御方は、私に御共鳴下され、ゼヒ一度御来寫を、お待ちいたします。 海岸へも出張致して居ります。
「寫眞撮影のしをり」より

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 昭和初期に避暑地・保養地として栄えた保田町に写真館を開いた江田晃陽氏(以下敬称略)という写真師がいた。「写真師」とは、職業として写真撮影から現像、焼き付けを行う技師である。写真師たちは自分だけの特色を全面に出し、他の写真師との差別化を図った。冒頭の「寫眞撮影のしをり」の一節には、写真師江田晃陽の哲学が謳われている。創業した写真館は保田写真館といい、現在の江田写真館の前身である。写真館は戦争で一時中断したが、晃陽は現役を退くまでのおよそ40年間、写真館の主として行楽客や町の姿を写し続けた。晃陽にとって、保田の浜はスタジオであり、広い砂浜の奥に横たわる鋸山は保田を象徴する雄大なホリゾントであったのかも知れない。写真に写る、明るい日差しの保田海岸の風光は、まさに「晃陽」という名を思わせる。
 明治38年に、栃木県の日光に近い農村に生まれた晃陽は、はじめ宇都宮の写真館で働いた後、大正末期に皇宮、皇族を撮影する写真師になることを志して上京した。本名は又一郎といい、号・晃陽の「晃」の字は郷里の「日光」から取り、もう一字の「陽」は写真の師から受けたものだという。
 大正時代から昭和初期にかけての日本は、工業化を基盤として急速に経済が発展し、社会は大衆化が進んだ。富裕層と庶民との格差が大きかった明治のころには、一握りの人にしか享受されていなかった西洋的な生活文化が、庶民の手にも届きはじめていた。帝都・東京では、サラリーマンが急激に増え、「文化」「モダン」と呼ばれる西洋的なスタイルが姿を表しはじめた。多くの一般人が海水浴や旅行を楽しむようになったのもこのころだった。写真界では富裕層以外にもアマチュアカメラに興じる者は増えたものの、まだまだこれは少数派で、一般の間では写真師に撮影してもらう事が多かった。上京した晃陽は、いくつかの写真館を転々として写真界に身を置いた。ある写真館に在籍していたときに、房州の保田町への出張を決めた。海のない土地に生まれた晃陽は、海辺の町での仕事に惹かれたのだった。
 大正6年に保田駅が開業してからというもの、昭和11年頃のピークに向かい保田を訪れる人はうなぎのぼりに増えていった。晃陽が保田に来たのもこの上昇期の最中であった。このころの保田は、素朴な漁村と都人士が訪れる保養地としての顔をあわせもつ町だった。保田の南、鱚ヶ浦周辺に実業家や学者が集中して別荘を構えたのもこの時期である。保田を気に入った晃陽は、東京の写真館から勝山町にあった「板倉写真館」に移った後、当時の保田町長の重田氏の薦めもあって、保田駅前商店街に自身の写真館「保田写真館」を開業した。当時、保田海岸には明治製菓や森永製菓などがキャンプストアを開き、日中の海岸はまさに芋を洗うような混雑ぶりであった。日暮れになれば、夕涼みに多くの避暑客が海岸や小道に再び出てきて、町には下駄の音が響いていたというくらいだから、当時の賑わいは推して知るべしだ。
 晃陽は、海岸に出張して海水浴客を相手にポートレイトを撮影し、写真館で焼いた写真を郵送するサービスを行っていたほか、地域行事や冠婚葬祭、避暑客や別荘人などを撮影する仕事をしていた。海岸には同業者も出張していたという。

 戦前の好景気に花開いた海水浴などの行楽も、戦争の影とともに徐々に下火になっていった。写真業界は、材料の大半を輸入に頼っていたためその活動は萎縮した。昭和12年の盧溝橋事件の直後に軍機保護法が全面改正され、およそ軍に関係するすべての対象が撮影禁止となった。明治以来、房総半島と三浦半島の東京湾沿岸部は、帝都東京を防衛するための要塞地帯とされていたが、同法改正後は、一般人が風景を撮影することが固く制限され、罰則罰金が強化された。水陸の地形情報が敵国に流出するのを防ぐためである。例えば東京湾沿岸の鉄路では、海沿いにさしかかると車窓のブラインドを下げるよう命じられ、東京湾の景色を見ることさえも許されなかったし、海で泳ぐ際には軍部の発行する木製の札を首から下げることが義務付けられた。撮影する場合は事前に軍部への届出が義務付けられた。写真師による撮影は許されていたが、撮影したものを世に出すには印刷物に軍部の検閲を受ける必要があった。晃陽は写真館で紙焼きしたものを館山の検閲所に持参し許可を得ていた。戦争の時局が進むにつれ、保田写真館には召集された町の青年たちが、戦地に赴く前にポートレイトを撮りに訪れるようになった。

 やがて晃陽の元にも召集令状が届くと、従軍写真班として南太平洋のソロモン諸島に浮かぶ「ブーゲンビル島」に出征した。ソロモン諸島では、昭和17年から終戦まで日本軍と連合国軍の間で激しい戦闘による島の争奪が繰り広げられた。中でもガダルカナル島とブーゲンビル島は激戦を極めそれぞれ「蛾島がとう」「墓島ぼとう」の異名がついた。ブーゲンビル島は、日本軍が占領していたが、昭和18年に米軍が上陸して戦いが始まった。その後米軍が同島から引き揚げると、次いで豪州軍が戦線に立った。山本五十六が撃墜され死亡したのもこの島のブイン飛行場近くである。ブーゲンビル島では65000人ほどの日本陸海軍の将兵が援軍もなく補給も絶たれ、そのうちの約33000人が命を落とした。死因の大半は戦死ではなく餓死や熱帯病などによる病死だった。これに対し米豪両軍総勢126000人の兵力のうち戦死者は1243人。そもそもが勝ち目のない戦況であった。2000メートル級の険しい山やジャングルが多いこの島には、南国特有の木々が生い茂り、歩行さえも困難な湿地には蚊が媒介するマラリアやアメーバ赤痢、チフスなどの熱帯病の病原体が蔓延していた。昭和19年の2月に物資補給が途絶えると、栄養失調の兵士が続出し、伝染病で命を落とす者や餓死者が後を絶たなかった。やせ細った日本兵たちはヘビやトカゲ、ネズミや雑草を食し飢餓をしのごうとしたが、多くのものが熱帯病に感染した。晃陽は炊事の任務についた事でなんとか生き延びることができたという。ちなみに、この島に配属された防疫給水部隊は最初100人程の人数がいたが復員したのは約20名。悲惨な状況は想像に難くない。晃陽の所属した部隊で復員したのは16名ほどであったという。
 昭和20年9月3日にブーゲンビル島の日本軍が降伏すると、多くの日本兵が豪州軍の捕虜となった。晃陽もそのうちの一人であった。日本兵の捕虜は同島における連合国軍の拠点であったタロキナに集められた後、同島南のファウロ島の捕虜収容所に連行された。この収容所の環境は劣悪で、全体の一割がマラリアなどの熱帯病で命を落としたという。昭和21年2月から復員が開始され生き残った日本兵は氷川丸と空母葛城に乗り日本へ向かった。晃陽はその1年後に復員し、江田写真館は戦争の中断を経て、営業を再開したのだった。

 戦後の混乱期を経て、昭和25年ころからは朝鮮戦争による特需景気が起こり、国内経済は復興期に転じ始めた。本書に収録された写真では昭和25年が最も古いが、この年の写真を見ると、後年に比べ砂浜に建つ売店の作りが簡素であることがわかる。翌年以降の写真を見ていくと、年々海水浴客が増えていく様子や、海岸売店の建てつけがよりしっかりしていく様子がわかる。高度成長期を迎え、昭和30年頃には国民の所得が戦前の最高水準(昭和15年)並みに回復。保田では戦前に集客をけん引した森永乳業と明治製菓の海の家も営業を再開したほか、東京浅草の仲見世商店街の青年部が夏季限定で海の家を運営するなど、多くの東京の業者が店を構え、海岸は賑わいを取り戻した。
 昭和40年代に入ると、大阪万博に象徴されるように日本は世界に類を見ない経済成長を遂げた。都市部から房州への交通においては汽船の競争力が落ち、マイカーと電車の陸路交通が主要となった。時同じくして、安価なカメラとカラーネガフィルムも普及し、一般家庭でも写真撮影が楽しまれるようになった。レジャーのあり方がより大きく大衆消費の方向に変化していった時代である。その最中の昭和43年頃、晃陽は病のため現役を退くと、約17年の入院生活の末にこの世を去った。
 写真師として、一己の人間として、江田晃陽が生きたのはまさに激動の時代であったと言わざるを得ない。気に入った海辺の町に写真師として暮らし、写真館は軌道に乗っていたところに召集がかかった。行楽を楽しむ健康的な景色から、人の死に直面する極限の風景に対峙せざるを得なかった。「保養地」と「戦地」という対局的な空間で写真師として生きた晃陽は、日々何を思いファインダーをのぞいたであろうか。

昭和25年頃

あとがきにかえて

 私が江田写真館に初めて行ったのは、今から約30前年、私の7歳の節句の時だったと思う。半ズボンの背広に白いタイツと妙な黄色い靴を履かされて家族で写真を撮りに行った。撮影の時、最初はかなり緊張していたが、ご主人の江田晃一さんの明るい感じの声に促されて、幼心に気分が乗ってしまったのを覚えている。たしかその時の写真は後に写真館のショーウィンドウに飾られていた。飾られた写真に写っているのは紛れもなく自分であるのに、舞台に立つ人物を見ているような気がした。恥かしくありつつも、なぜか嬉しい不思議な気分で眺めた記憶がある。幼心に特別な体験だった。学校の卒業式や入学式、お祭りにも江田さんはカメラを持って現れた。見かけるたび「あの時僕を撮ってくれたおじさんだ」と思う。鋸南町で育った人にとって「江田写真館のおじさん」は、きっと共通の思い出的な存在なのではないかと思ってしまう。私の娘は小学2年生になるが、昨日の夕食の時、「このあいだ学校に江田さんのおじさんが来た」と言っていた。私は中学生の頃には、日常的にインスタントカメラを持ち歩いて、気になった風景や日常で面白いことを見つけると、写真を撮るようになっていたのだが、今振り返ると、それも江田写真館での体験が影響しているのかもしれない。

 避寒避暑の保養地としての保田の古いエピソードを収集していた私は、成人式で撮影してもらって以来、10数年ぶりに江田写真館を訪ねた。ご主人は変わらず明るくお元気で嬉しかった。お店の歴史を尋ねると、創業者であるご尊父の江田晃陽氏の残した沢山の写真を見せていただく事ができた。中でも大判の印画紙にプリントされた倒立をする人物の写真を見たときには衝撃を受けた。夏の昼間の日照を受け、浅黒い肌が汗でジリジリと光っている。まるでブルース・ウェーバーの作品を彷彿とさせる質感。理屈抜きにかっこいいと思った。こんな素敵な写真を撮る人がいたのかと感動と驚きを禁じ得なかった。他にも、お洒落をしてポーズを決める女性など、生き生きとしたポートレイトがたくさんあった。
 小さな印画紙の束には、賑わう砂浜、風向明媚な元名や鱚ヶ浦の海岸、避暑客、七五三、結納、兵隊の出征、地域の祭りの集合写真など、町の様子が写っていた。一枚一枚手に取り、そこに写っている人の表情や服装、背景の街の様子などをみて味わっていく。ある枚数を越えると、手に取っている写真の存在がとても尊く思えてきた。写真に写る人々の表情や風景たちが、まるで交響曲のように在りし日のこの土地の空気を伝えている。ブラインドの隙間から昼の陽が差し込む写真館のスタジオで、江田さんと2人で古い写真を取り出して見ていると、江田さんは「写真はさぁ、やっぱり、あとだよ」と呟いた。「あとってどういうことですか?」と聞くと、「後になって、出て来るもんなんだよね。良さがね」と返した。私はその時「写真」の持つ底力に触れたような心地がした。
 本書に収録されている写真は、江田写真館からお借りしたネガからスキャンしたものだ。ネガは紙製のカバーに保存されて、小さな段ボール箱にぎっしり詰まっていた。戦後に晃陽氏がプライベートで撮影したものが入っているのもので、家族を写したものもある。紙製のカバーは90束ほどあり、フィルムは全部で500枚以上はあった。もし戦前の写真が残っていたら、戦争前後のものを対比して見てみたい。当時の世相や保田の姿をより立体的に認識できるだろう。
 沢山のフィルムの中で「大切に」という文字が手書きされていたものが一つだけあった。カバーを開けてみると、汽船を撮影したフィルムが入っていた。都市部からの行楽客を乗せた汽船は、港に着くや人を乗降して、再びゆっくりと沖に去っていく。汽船はこれから過ごす避暑地への期待や、そこから帰る人の思い出を混載してゆったりと進む。汽船は海浜保養地における「賑わい」と、「別れ」の両方を内包するフォトジェニックな象徴的存在に思えた。そんなことを考えながら、写真の中の保田港に浮かぶ汽船を眺めていたら、まるでタイムマシーンのように見えてきた。煙を上げ汽笛を響かせる船に、気持ちを移入して乗船してみる。想いは時空を超えて当時の保田の砂浜に着く。太陽に照らされた砂が足裏を熱してくる。パラソルの下で寝そべる一人の写真師を見つけたら、勇気を出して「写真を撮っていただけませんか」と声をかけてみたい。

 晃陽氏が亡くなったのは私が生まれた翌年の事だから、私はお会いした記憶がない。しかし、晃陽氏の残した写真は、戦前の保養地としての保田のことを調べる私にとって、当時の保田の記憶を雄弁に語ってくれる貴重な証言者であるし、この土地が多くの人に親しまれたてきた魅力的な場所であったことを改めて教えてくれた。この写真を眺めるたびに、保田で生まれ育ち、生活する一人の人間として、この土地の風景を大切にしたいと思うのである。

本書を作るにあたり、貴重な写真を提供くださった江田写真館主人・江田晃一氏と奥様に心より感謝を申し上げます。また写真の画像補正作業や編集については田村仁氏に多大なるご尽力をいただきました。心より御礼を申し上げます。         

保田文庫 前田宣明

群像 保田海岸

2019年 8月 発行 初版

編 ・ 著 :前田宣明
発  行:保田文庫

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