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シロトラ。

黒谷

イシャー・シェラ・モレク出版



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  この本はタチヨミ版です。

/0

問題は
暴力で解決するものだ。


 夕暮れに染まる世界の中。
 閑静な住宅街から、少し離れたひとけのない公園の真ん中。
 高校三年生、もしくは大学一年生といったところの青年数名が、ぞろぞろと二人の少女を取り囲んでいる。
 夕暮れであろうとなかろうと、その公園には人通りが少ないこともあって、こういう『いざこざ』の収拾場所にはひそかにうってつけとされている。
 少女の容姿は異様なものだった。
 黒いファーつきのポンチョ。わずかに見える制服のスカートからは、これまた黒いタイツに包まれた細身の足が見えている。
 白髪は長く、夕日に反射してオレンジ色に輝いていたが、しかし無造作にそれは後ろで一本にまとめられていた。
 身長は一四五センチほど。華奢な体躯は、中学生だといわれても、小学生だといわれても、まあ納得できるほどである。
 透けるように白い肌は、どこか病的だ。
 それでいて顔立ちは整っている彼女は、しかし決して告白を受けようとかそういうつもりでここに立っているのではないのだった。
 少女の後ろには申し訳なさそうに、あたかも小動物のように震えている制服姿の女子高生が立っていた。
 白髪の少女は、その琥珀色の綺麗な瞳をじつに不機嫌そうに歪めて、じっと目の前の男を見つめている。
「白ウサギみてーな面してよぉ。一体なんなんだてめぇは」
「………」
 青年の問いかけに、白髪の少女は無言で答える。
「そこ退けや。オレらはよぉ、そこのオンナに用があるんだよ。お前なんかにゃ用はねーんだって」
「どーしてもっていうならあ、ま、お前も含めて相手してやってもいいけどよお」
 ぎゃはははは、という下品な笑い声が少女らを取り囲んだ。
 数名の青年が、これ見よがしに木刀やら金属の棒をちらつかせる。
 脅しなのか、はたまたこれから殴るという宣告なのか。
 しかしながら、白髪の少女にとってはどうでもいいことなのだった。
「……ぞろぞろと、まるで蟻みたいですね。実にお似合いです」
 空気を切裂くように、笑い声を遮って、少女はぽつりと呟いた。
 刹那、少女のものとは思えない、まるでトラのように鋭い眼光が、青年達をさっと一撫でする。
「……!」
 たったそれだけの行為で、青年たちはぴたりと動きを止めた。
 否、止められたのだ。
 呼吸まで止まってしまいそうになって――青年たちはハッとした。
「……な、ナメやがって」
 わずかにかいた冷や汗を自ら否定して、青年たちは強く、その手に持つ武器を握り直す。
 対する白髪の少女は、身じろぎ一つしなかった。
「誰が蟻だこのクソアマああ!」
 少しの沈黙をおいてから、脇に立っていた男が顔面蒼白のまま襲いかかる。その手には木刀。修学旅行の思い出を思わせる品物とは思えないほど凶悪に振り回す。
 それは先程までの膠着状態を打ち破る、最初のペンギンのような勇気ある行動だった。
 向かってくる男を、琥珀色の瞳が捉えた。
「古いですね、その単語」
 クソアマ、でしたっけ?
 と、続けて少女は向かってくる男の手首を蹴り飛ばす。
「ぐぁう!?」
 べきりと響く鈍い音と共に、少女はひゅんひゅんと振ってくる木刀を片手でぱしりとキャッチした。
 ニタリ。
 口元を得意げに歪めて、木刀を向かってきた男に向ける。
 男は真っ赤に晴れ上がり、あからさまに変な方向へ曲がってしまった手首を抱えて、少女を見つめている。
「木刀の使い方も知らないんですねえ。では、わたしが教えて差し上げましょう」
 言葉とほぼ同じくして――少女が動く。
 動く。動く。動く。
「ひっ――」
 男の悲鳴など響く間もなく、木刀が線を描く。
 それは一切の無駄を省いた、能率的な『舞』だった。
 フェンシングのそれや剣道のそれとはまるで違う――『居合い』独特の、美しい動き。
 竹刀一本だけで竹刀、金属の棒、そして青年らの身体すらも破壊する。
 青年の誰一人もが少女に触れることもないまま――その舞は静かに終わりを告げた。
「……ふう」
 周囲を取り囲んでいた青年たちを一人だけ残して叩き伏せた少女は、そこで呼吸を整えた。
 手に持っていた木刀を投げ捨てる。
「……あ、あああ……」
 一人残されたリーダー格らしい青年は、嗚咽を漏らした。
 青年の目に映る少女は、たしかに少女であったはずだ。
 血に飢えたトラでは――なかった――はずだ。
「……おおおお、おお、おま、お前は……」
 青年には少女の正体に心当たりがあった。
 この函館市に存在する噂の一つ。
 ふらりとぬらりひょんのように現れては向かい来る『敵』を殲滅してしまう『白いトラ』。
 少女はふん、腰を抜かし口をぱくぱくさせる青年を一瞥した。
「ほんと、情けない連中。口ほどにもない」
「……ひぃぃっ……」
 それから少女は、周囲を一瞥する。
 倒れたままぴくりとも動かない青年たちを確認してから――再度、少女はその琥珀色の眼光を青年に向けた。
「まあ――でも、最後はお前ですよ」
 無表情での死刑宣告。
 少女の身体がふわりと浮いて、青年の腰付近にまず一撃。
 回転して――二撃目。
 何か声をあげるまえに、青年の身体は凄まじい轟音を立てて吹き飛び――遠くに立てられたジャングルジムにぶつかって停止した。
 土煙が青年の姿を隔てる。
「……あっけない」
 生死を確認することもなく、少女は女子高生に向き合った。
 女子高生は目前で起きた現実を必死に飲み込もうとしているのか、その大きな瞳を見開いている。
「終わったんですけど」
「あ、ええあ、う」
 琥珀色の眼光が今度は女子高生を襲って、彼女は思わず退いた。
 そんな様子など見飽きた、というように少女はため息をついて目を伏せる。
「……もうバカどもはいないんです、どっかに消えていいですよ」
「あう、えっと、その」
「なんですか」
「ひうっ!」
 何か言いかけた様子の女子高生は、再び眼光を受けてすくみ上がった。
 しかし今度は目をそらしたりせず、少女はじっと女子高生を見つめている。
 女子高生はわずかに視線をそらして、口を開いた。
「……えええ、ええと、その、ありが」
「こぉらシロトラァァァァ! お前またやらかしやがったなあああ!」
 言いかけた女子高生の声を遮るように、遠くから男性の怒鳴り声が響いてくる。
「へ?」
「……やれやれ」
 手慣れたように、少女はその声に背を向けた。
 てくてくと歩いていく。
「あ、あの、ちょっと……!」
「あんたが助かったのはただの運でしょう。さよなら」
 ぽつりと拒絶を口にして、少女はついに走って去っていった。
「あ……」
 言おうとしていた言葉が出口で詰まって、女子高生は追いかけるにも追いかけられず、立ち止まる。
 そうしている間に、後ろから、先程の声の主がどたどたと走って現れた。
 女子高生に気がついたらしく、少し先で足踏みしながら止まって、振り返る。
「あー、ごめんねえ! 苦情ならね、ええと! 彩酉中学のね、谷垣校長に言ってくれぇ!」
 一瞬だけ女子高生に向かって笑顔を作ると、男性は再び正面に少女の姿を捉えて怒鳴りだした。
「おーいシロトラぁぁぁ!」
 どたどたと走っていく。……近所迷惑もいいところである。
 しかもこの様子から察するに教師らしいと推測しつつ、女子高生は後ろ姿を見つめる。
 ついでに倒れたまま動かない青年らを数名踏んでいったが、男は一度も振り返らなかった。
「……シロトラ、さん」
 一人、たくさんの沈黙する青年と取り残された女子高生は、立ち尽くして呟いた。
 前方に見えるその小さな背中はすでにさらに小さくなって、まもなく見えなくなろうとしている。
「……いつかお礼、言わなきゃ」
 たとえ、どんなに教師から追われるような女の子であっても。
 たとえ、どんなに凶暴な女の子であっても。
 自分を助けてくれたということは、疑いようのない事実だ。
 運だとか言ってはいたが、そんなことは無視しよう。
 きっと照れ隠しに違い無い。不器用なだけなのだ。
 女子高生はきゅっと胸の前で両手を握って、決意する。
 そんな彼女が、実はアレが函館市全体で噂になるほどの問題児、『ホワイトタイガー』、『シロトラ』こと蘆屋虎子だったと知り、そしてその黒いポンチョの下にまとう制服が自分と同じ制服だったと知り、しかも同じクラスメイトだったと知るのは――これまたずいぶんと後の話である。
 遠くから響く声を聞きながら、彼女はゆっくりとその公園を後にした。
「いいから止まれええ! オマエの行為はなあ、強盗とか通り魔と変わらないんだぞおおお!」
「知らないです。そんなこと」
「知らないなら知れぇえええ!」
「それにわたし、今回は何もとってな」
「先生には見えた! オマエは攻撃しつつ財布を奪ってる!」
「なにっ! 何故バレた!」
「先生は全てお見通しだ!」
「うわー、無茶苦茶です!」
「オマエが無茶苦茶なんだ阿呆!」
 徐々に、夕日が傾き始める。

/1

未来いこーる、不安。
不安いこーる、未来?

 中学校生活最後の秋を迎えた。
 まだ完璧には色づかない山々を見つめて、わたしはため息をつく。
 この中学校は、学校自体がどこにでもありふれる平凡かつそれほど平和でもない。
 時折上級生に絡まれたり、普通にいじめが横行しているような、そんな学校。
 その名も――私立彩酉中学校。
 たいへんヘンテコな名前をしているが、そんなことは生徒も先生も校長も当然自覚済みだ。
 そんなとてつもなく平凡な中学校に通うわたしも、やはりとてつもなく平凡な中学生で。
 普通に、人間が大嫌いだった。
「あのなあ、トラコ。オマエ進路どうするつもりだ?」
 山々とは違い、限りなく明るいオレンジ色に染まった教室の中。
 キョウラクの声が響く。
 キョウラクはわたしを半ば哀れむように見つめていた。
 現在、いわゆる『進路』について絶賛面談中。
 正直なところ、わたしにとっては死ぬほどどうでもいい時間である。
 たとえるなら、カップ麺についてくるあの乾燥した歯ごたえのない小ネギほどにどうでもいい。
「あ―……」
 言葉に詰まって、わたしは唸る。
「おいおいおい。わかってるのかオマエ。わざわざ一番最後に時間とって、一番時間かけてるんだぞ?」
「……そりゃ、ゴ苦労サマデスネ」
「なんでカタコトなんだよ。なんかすっげー腹立つわ……」
 呆れ顔に多少苛つきが混ざり込んで、キョウラクはパタンとファイルを閉じた。
 京洛 言葉(ことは)。通称、キョウラク。
 わたしのというよりはわたしの祖父の古くからの友人で、現在はわたしの担当教師である。
 個人的な関係があるからか、わたしへの干渉がひどい。
 ……とまえに告げたら、公私混同はしない主義だと言われた。どこがだ。

「いいか? 確かに高校に進学することもできるぞ。中高一貫性だしな。でもオマエ勉強嫌いだろう」
「ああ、うん、そうですね」
「だったらよ、ほら。オマエ運動神経いいし、もっと他にできることもあるだろ。やりたいこととか、ないのか」
「ああ、うん、そうですね」
「……オレは今、無性にオマエを殴りたい。ていうか教師という立場さえ無ければ殴ってた」
「そりゃ、幸いです」
 視線を再び窓に戻す。
 夕暮れの世界は嫌いじゃない。
 真っ赤な炎に包まれたように、世界が燃えてみえるからだ。
 ――別に、世界が滅んで欲しい、なんていう世紀末論者じゃあないのだけれど。
 例えば、わたしが今、三十人ほど誰かを殺したって、世界は何も動かない。変わりはしない。わたし一人が屋上で何を叫んだって、誰一人も動かないだろう。また腹を切って自害しても、たいしたニュースにもならないだろう。
 世界はあまりに広すぎる。
 そんな箱の中で、やりたいことなんて。
 漠然としすぎていて、想像もつかないことばかりだ。
 たかだか十五年生きただけで、将来を決めろだなて、そんな無茶な。……と、言いたいことは山ほどあったが、口に出すほどのことでもない。
 キョウラクにそう呟いたところで、何も変わらないだろう。
 こういうのは、多分。
 わたし自身に、問題があるのだから。
「ていうかトラコ。オマエ、進路希望欄に『始末屋』って書くことねーだろ。厨二病はそろそろ、卒業してくれ」
「ヤです。……あ、別に必殺シゴト人でもいいですよ。わたしの憂さ晴らしさえできるシゴトなら」
「始末屋も必殺シゴト人も憂さ晴らししてるわけじゃあないんだけどな」
「同じようなもんですよ。要するに、自己満足ですから」
「オマエの言っているような人間のことは、ただの『殺人鬼』と呼ぶ」
「じゃあ殺人鬼でいいですよ。気さくで爽やかお人好し。笑顔のすてきな殺人鬼になります」
「よくねーから! 進路希望に『殺人鬼』って、校長にそれを提出するオレの身にもなれ!」
 怒鳴られて、わたしはわずかにしゅんとした。
 函館市一の問題児などといわれるわたしには、ぴったりの職業だと思ったのだけれども。
 だがしかし自覚はない。これっぽっちもない。
 ただ髪が生まれつき銀髪で、目が琥珀色で、容姿の色がホワイトタイガーカラーだっただけで、上級生にはよく絡まれた。
 それを撃退していたら、いつの間にかついた二つ名は容姿からか、『ホワイトタイガー』やら、『白虎(しろとら、と読む)』。
 別に喧嘩が好きなわけでも、反骨精神を持っているわけでも、ない。
 まあ、気に入ってないわけでもないが。
「それからなトラコ。お前、いい加減制服、着用してくれ。教頭から毎日小言言われる」
「知らないですって。仕方ないでしょう、寒いんですから」
 夏場はともかくとして、冬場は寒いことを理由に、わたしは教室内でも体育館でもどこでも、常時黒いファーつきポンチョを着て登校し、そのまま過ごしている。
 当然理由があってのことだ。
「わたしが体温調節苦手なの、知ってるでしょう」
「うっ」
 生まれつき、容姿の異変があるように。
 わたしの身体には、いろいろと異常点が存在するのだ。
 例えば、百メートルなんて本気で走れば七秒だし、全力を出せば鉄だって蹴りで折れる。
 代償なのか、体温調節は全く駄目。ついでに睡魔に弱い。
 それから、太陽光と蛍光灯――つまるところ光にも。
 アルビノではない(紫外線そのものは弱いだけで平気)らしいが、だったらなんなのかって話だ。
「そりゃ、そうなんだけどさ……」
 ―――そうして、それゆえに。
わたしは両親に捨てられた。
 物心ついて、まもない頃だったような気がする。
 記憶が定かではないので、なんともいえないが、そんな捨てられ者のわたしを拾ったのは、物好き酒豪、なまくら神主だった。
それが今、唯一の保護者であり、祖父であり、通称じじいである。
 じじいとキョウラクはどうやら古く長い付き合いらしく、それゆえに、わたしとキョウラクとの付き合いも長い。遊び(という名のいじめ)相手だったこともあるし。
 ただ、こいつが教師だということだけは現在、非常に残念な点だ。
 しかも知らないでこの中学校に入学してきたおかげで、最初はずいぶんと、びっくりした。
 多分知らなかったのはわたしだけで、じじいとキョウラクは知っていたようだったが。
「……なあ。本当に、やりたいことないのか」
 諦めたのか、心境が変わったのか。
 ずいぶんと真剣な表情で、声音で、京洛は呟いた。
 昔を回想していたわたしも、一度思考をストップする。
 それからコクリ、と一度だけ頷いた。
 キョウラクはため息で答える。
「そうか。……まあ、なんだ。まだ時間はあるから、なんかあったら、連絡してくれ。景生さんもな、すっげえ心配してんだぞ?」
「まさか。だって毎日飲んだくれてるじじいですよ?」
「飲んだくれなきゃ景生さんじゃない」
「なん…だと……」


■□■□


 いつどこで誰に聞いた話かは忘れてしまったが、人生をもう一度、最初からやり直す人間が、ごく稀にいるのだという。
いわゆる、タイムスリープ。
彼らは生前の記憶を持ったまま生まれ、そして同じ時をもう一度、過ごす。
 しかしながら、それを求む人間は、どれほどいるだろう。
 自らの過去、失敗を取り消そうと、やり直そうとする人間は。
 ――少なくとも、わたしには必要ない。
 何回やり直したって、同じ選択をすると確証が、あるからだ。
「ほほう? それで、お前っていう子は謝らない、と?」
「はい。だって絶対、やると思いますし、いつかは落としますから」
「俺の大事に大事にしていたっつー、サボテンの鉢をぶっ壊しといて?」
「ええ。わたしじゃなくたって、野良猫にでもやられてたかもしれないでしょう」
「まあそうだよな。うんうん、でもお前が壊したっていう事実は、真実だな」
 ……なんて、先ほどまでじじいと罵り合っていたわたしは現在。
函館山北麓にある神社へ使いっ走りに行かされたその、帰り道。
 五稜郭でぶらぶらと散策をしている。
 帰宅して早々、神社にきていた狐と遊んでいたら、サボテンの鉢を見事にぶっ壊してしまったからだ。
 でも反省はしていない。後悔もしていない。苛立ちは、多少残ったが。
「疲れました……」
 函館市内でもわりと外れにある神社、柚原神社が、わたしの自宅。
 そこに帰るには、どんなにがんばっても、電車かバスに乗らなければならない。
 が、残念ながらわたしが北麓にある陽上大神宮から帰った時には、もはやそれら交通機関の出発時刻は過ぎていた。
 湯ノ川にゆく市電はしばらくなさそうだし、バスもしばらくない。ならば散策が一番。
 ……と、そういうことである。
 や、本当のところ歩いてでも帰れる。
 ていうか歩いていればそのうちバスの時間になるからだ。
 もうすでに陽はすっかり暮れて、道を行く人も少ない。
 たまにぽつり、ぽつりと帰宅途中のサラリーマンとすれ違う程度だ。
 平日とあってか、観光客は少ない。
 外人らしき観光客はたくさんみえたが、まあ、そんなものだろう。
「おっ! お嬢さん、そこのお嬢さん! 今ここの公園でね、サーカスやってるよ! みていかない?」
「えっ」
 ぼーっとしながら歩いていたわたしは、突如腕を強引に掴まれて立ち止まった。
 相手はいわゆる客引きのお兄さん。
 その顔は子犬のように無邪気で、一切の悪気がないことを証明している。
(……うーん、ちょっと困りました)
 悪気がない相手には、こちらも悪気を出しづらい。
 つまるところ、暴力で追い返すという選択肢がないのだ。
 なにしろ向こうはあくまでも善意で動いているのだから。
 しかしまあ、サーカスなんてみていたら、遅くなるどころか帰り時刻は一体何時になるんだか……。
 考えもつかない。
「……湯ノ川まで帰らないといけないから無理ですね」
 しれっと、わたしは今考えついた言い訳を口に出す。
「そんなこといわずに! 大丈夫大丈夫、タクシー代くらい出すから!」
「ええ……」
 なにっ、ぬかったか!
 引き下がらないお兄さんに、わたしは心底困り果てた。
 正直疲れているから、鯛焼きでも買って帰りたい。
 とは思っているものの、わたしの腕を彼はガッチリと掴んでいる。
 ちらりとみえる横顔はやはりきらきらと輝いていた。
 観光客じゃあ、ないんだけどなあ……。
「ほらほら! もうすごいよ? 種も仕掛けも一切なしだから!」
「お金ないですよ」
「たらららったら~♪ 初回無料サービス券~」
 なぜだろう。
今一瞬だけ、いらっときた。
「ほうら、楽しんでおいで! すっごいおもしろいから!」
 強引にチケットを手渡されて、背中を押される。
 目の前には大きな白いドーム。
 周囲に人影は、まるでない。それどころか、騒音も、小さな音一つも、聞こえない。
 なんだか騙されたような、本当はサーカスなんてやってないのでは、という疑念が生じる。
 空では星が瞬き始めて、月がゆっくり上へのぼっていた。
「……なんだかなあ」
 シロトラ、なんてかっこよく呼ばれる自分が、こんなに流されやすい性格だということは、わりとコンプレックスだったりする。
 ああやって無邪気な笑顔で、強引に迫られると、困ってしまう自分が、嫌だ。
 しかしこうなってしまっては流されるしかないので、わたしは一歩踏み出して、ドームの中へと入った。
「──!」
 ドームの中は。

「さあ、今宵お集まりのミナサマ!
 you達全員に、とっておきの奇跡、ご覧にいれましょう!」

――わああああああ!

 ……なんて、歓声で埋め尽くされていた。
 ドーム周囲には一切音など、漏れていなかったはずなのに。
 そこには、サーカス特有の大音量の音楽やら、爆発音やらが、溢れていた。
「な、なんですかこれ……」
 思わず腰を抜かしそうになってしまった。
 なんていっても、観客も観客なのだ。
 日本人とは思えない髪色の人間から、狐耳の生えた着物の少女まで、多種多様である。
 もしかしたらというか、おそらく、多分。
 彼らは、人間ではないのかも、しれない。
(とりあえず、座らなければ)
 手近にあった空席に腰を下ろして、ステージに視線を落とす。
 ステージ中央にはシルクハットをかぶった仮面の男が、そのマントからいろいろなものを取り出していた。
 大きな机から、大量の鳩まで……本当に、どこからどうやって出しているんだか。
 しかし周囲のこともあってか、胡散臭さは微塵もない。
「いやー、『FAITH』のサーカスがこんな場所でみられるなんてなあ」
「なんだお前、知らないの? 最近じゃ魔界でやってることの方が珍しいんだぜ」
「え、そうなの? 俺はてっきり、帝王の方針なのかと」
 ………。
 ………魔界?
 ぼーっと仮面の男をみつめていたわたしの耳に、奇妙な会話が届いて、わたしは目を細めた。
 ちらりと前方をみると、背中から真っ黒な翼をはやした男と、頭にぐるぐると包帯を巻いた男が、楽しそうに談笑している。
目を二、三回ぱちぱちしてみたが、見間違えではなかった。幻覚でもなかった。
 うーん。疲れているのか。
 はたまた、狸か狐に化かされているのか。
 それとも、これがただの現実なのか。
「まあ最近じゃあ、俺たちも『悪魔』呼ばわりだもんなあ。妖怪って言葉を忘れないでほしいもんだ」
「ゲームの世界じゃ、なんでもかんでも悪魔悪魔。嫌になるよなあ」
「君たちなどまだマシな方だ。私は悪魔でも妖怪でもなく、神格の存在、マカミなんだぞ」
「あれま。マカミの旦那もきてたの? 物好きだねえ」
 もう一人、真っ白な着物に、獣耳をはやした男が、会話に参加し始めた。
 あれ? ここはもしかして、コスプレ会場なのか? とも思ったが、そうではないと、信じたい。
 そりゃ、神社に住んでいるので、多少の知識はある。マカミくらい知っている。じじいがなんか話してた。
 ていうかわたし、場違いじゃないのか? 一応、人間なんだけど。
 様々な思いが一挙にわたしの胸に去来する。
「おっ。見かけない顔のお嬢さんだなァ? もしかして帝王の娘さんか?」
「は?」
 前方をみつめていたわたしの顔を、のぞき込む顔があった。オレンジ色の、ぼっさぼさの髪の毛を後ろで一つに束ねた、ひげ面。
 あと少ししたら冬を迎えるというのに、その男は薄っぺらい着流しを着ていた。
 ていうか外の気温、確か十度以下なんだけど。
 澄んだ暗い緑色の瞳が、わたしを見つめる。
「その髪と目、確か、えーと、なんだっけな……。ああ、そうそう! ゼロだかいうせがれと同じカラーだろ?」
「ぜろ?」
 何を言っているんだ、こいつは。
「しらばっくれなくてもいいぜえ? 俺はデスと悪友同盟くんでる、ただの遊び人だからよ。ああ、ちなみにな、趣味はセクハラだ」
 まったく何を言っているのかはわからないが、わたしには一つ、思うことがあった。
 こいつを無性に殴りたい。
「何をいっているのか全然わかりませんね」
 すっと席を立つ。
 ここらが潮時だろう。
 客引きのお兄さんには悪いが、それほど目を惹くサーカス内容、というわけでもない。
 これ以上ここにいても胸がもやもやするだけだろうし、第一にこの男、うざい。
 すみやかに消えるか死ぬか失せるか、してほしい。
 切実に。

がしっ。

 ……何故か、立ち上がったわたしの腕を、男の手が掴んでいた。
「へえ? 帝王の関係者でもない、ただの人間が、ここをうろついてるっての?」
「!」
 せつな、わたしの背筋を悪寒が走った。
 緑色の瞳が、暗い光を内包したまま、わたしを見つめる。
 こんなふうに威圧、はたまた圧倒されるのは初めてで、わたしは言葉を失った。
「周囲見渡して、わかんねえ? ここにいる連中、誰一人人間じゃあないんだぜ?」
「……それが、何でしょうか」
 ややあって口から絞り出た言葉は、それが精一杯だった。
「気がつかれたらお前――、どうなるんだろうな?」
「………ッ」
 ククク、と嫌な笑い声が、耳に届く。
 腹の底にたまっていた鬱憤がはじけて、わたしは男の手をふりほどいた。
 瞬間、走り出す。
「あーあ……」
 背中越しにため息が聞こえた気がしたが、気にする余裕はなかった。
 急いでドームの中から飛び出して、さらに走って、走って、走る。
 わたしは風になる! とか、ノリで言えそうだ。
 足音も、一応、羽音もしないので、追いかけては来ないようだが……、胸騒ぎが止まらない。
 気持ちの悪さに駆られて、走る。走る。走る。
 ……と、そこで、気づいた。
「……あれ?」
 確かに街の中だった、そこは。
 気がつけば、森の中へと変貌していた。
 サイレンが鳴るホラーゲームばりの変わり様だ。
「一体何が……」
 乱れた呼吸を整えながら、わたしは周囲を見渡す。
 夜ということもあって、辺りは真っ暗。何も見えない。
 遠くに街頭の光も見えないことから、ここは街から離れた場所なのだということがわかった。
 あとは北極星でも頼りに、位置情報を特定するしかなさそうだ。
 まあそんなことはできないので、どうしようもないのだけれど。
「………」
 夜の森は、しんと静まりかえっていた。
 時折聞こえる虫か何かの音が、かえって気味が悪い。
 月明かりだけでは足元までみえず、ぺきりぺきりと小枝の折れる音がする。
 おそらくそれなりの時間なのだろう。
 月があがりきっているし。
 一体どれだけの時間、あのサーカスにいたというのか。体感時間にすれば数分もいなかった気がするが、こうなってしまうとよくわからなくなる。もしかしたら一種の異次元か何かだったのかも、しれない。
 脳裏に現れては消える、先ほどの光景を振り払いながら、わたしはある予感を抱いていた。
 ――あれ? これ、わたし迷子じゃね? ……的な。
「………」
 無言で歩いているうちに、予感は不安へと変わっていく。
 どれだけ歩いても、光がまったく見えないということも、それを加速させた。
「…………」
 不安はついに、確信へと変わっていく。
吹き付ける風が冷たい。
 こうして独り言を心の中で呟くのも、そろそろ悲しくなってきた。
 ついでに、わたしはこういうホラー、いわゆる幽霊が大嫌いだ。
「―――あれ?」
「!」
 とぼとぼ歩いていた、わたしの背後。
 聞き覚えのまったくない声が、響く。
 少なくとも先ほどのひげ面の声では、なかった。
 ……おそるおそる、振り返る。
 まさか幽霊とかじゃあないですよね……。まさか。
「あー!」
「っ!」
 そこに立っていたのは、くるくるした黒髪のピエロだった。
 目と目があって、ピエロは声を上げる。
 わりと大きな声だったので、わたしはびくりと肩を奮わせる。さきほどまで無音だったせいかもしれない。
「うわあ、覚えてる? オレだよオレ! ロウ! うっひゃああ! 大きくなったなあー!」
 ピエロは満面の笑みで、わたしに歩み寄った。
 新手のオレオレ詐欺なのか、と思うほど、彼には悪いがわたしの記憶にはないのでわたしはわずかに後ずさりをする。
 ていうかどれだけ無邪気なのこいつ。
「トラコでしょ? その髪と目! 特徴的だもんなあー。また会えると思わなかったよー!」
「………えーと……」
 なんだか話がどんどん進んでいっている気がして、わたしは言葉を詰まらせた。
「あれ? トラコもしかして、困ってる? オレのこと覚えてない?」
 言葉に詰まったわたしを見かねて、ピエロは「あれれ」と首をかしげる。
 覚えてるも覚えてないも、一度みたら忘れない容姿だ。
 それが記憶にないのだから、全くの初対面ではないのか、というのがわたしの見解である。
 うん、当然だろう。
 が、わたしの名前を知っているという点が、どうにも腑に落ちない。

 わたしが知らないのに、向こうがわたしを知っている……なんて。
「……覚えてないっていうか、知りません」
「がーん! ……え、だって、蘆屋虎子でしょ? あの景生っちのとこの」
 景生っち? ……ああ、もしかして。
「じじいの知り合いですか?」
「ぴんぽーん! その通り!」
 思い当たった可能性は、やはり正解だったようだ。
 だとしたら思い当たるふしがある。
 大抵本当に小さい時に会っているので、何らかの加減で忘れてしまったのだろう。うんうん。
 冷静に納得するわたしとは対照的に、ピエロはオーバーリアクションで笑う。
「小さい時、よく遊んであげたじゃんー。ほら、トラコったら刀振り回して……って、あれ? 刀は?」
 キョトン、とした顔でピエロはわたしの背中を指さした。
 それ以前に慣れ慣れしいことがとても気になるが、わたしは口を開いて返答。何だか答えたくない質問だったので、つい無表情になる。
「あー、刀ならじじいが持ってますけど。今は」
「昔は肌身離さずだったのに……」
「今、別に使用する必要もありませんし」
 ずっと、昔。
 小学校高学年くらいの頃だったろうか。
 わたしはそれまでじじいから刀を預けられていて、その刀と衣食住を共にしていた。だから平然と学校にも持って行ったし、喧嘩にも峰打ちや鞘だけ、使ったこともある。
 が、卒業間近。
 当時高校一年生だった先輩相手に、わりと本気で刀を振り回したところ、クリーンヒット。
 それ以来、じじいは刀をわたしから取り上げて、居間に飾るようになった、というわけである。
 先輩もわりと大怪我をして入院までしたわけで、それなりの罪悪感は……いや、なかった。
 だが刀だとやり過ぎる、ということを学んだので、わたしも素手を勉強したわけだ。
 愛刀だったし、ちょっと特殊だっただけに納得はいかなかったが。
 そして、現在に至る。
「へえ……。ま、いいや。トラコこんなところで何してんの?」
 一通り説明を終えると、やはり無垢な表情で、ピエロはわたしを見つめた。
「ちょっと迷子しています」
「は?」
 ぽつりと呟いたわたしの返答に、ロウはポカン、と口を開けた。数秒間、固まる。
「ぷっ……あっははははは! 迷子? 迷子になったの? こんなとこで? しかも地元で?」
「うるさい黙れ死ね!」
 笑い転げるピエロに、回し蹴り、一撃。
 べきりといい音がした。
「いったァァァァァ! ちょっ、ひっど! これ折れたんじゃね?」
「ああ折れたんじゃないですか」
「うわああトラコが暴力的になってるうう」
 わめき声がうるさいので、もう一撃。
「うぎゃああああ!」
 さらにうるさいので、追加の一撃。
「……ご、ごめんなさい……」
「素直でよろしいですね」
 やっと大人しくなったので、わたしは足を、元通り、定位置に戻した。
 ピエロはよたよたと足元がおぼつかなくなっている。
 わたしの蹴りを三発もくらったのだから、当然といえば当然だ。
 常人ならば形も残っていなかっただろう。
「それもうトラコ人間じゃないレベルよ?」
「………」
「ああ今のは違うって! ただのツッコミ! ちょっ、待ってもう蹴りはやめて蹴りは……ぎゃああああ!」
 勝手に人の心を読むのは、犯罪です。
 気をつけましょう。
 ……という意味を込めて、もう一撃。
「う、ううう……さすがにつらい……」
 立っていられなくなったのか、ピエロの背中から、蝙蝠の翼が出現した。
 わずかにピエロの身体が、空中に浮かんだ。
 うーん、今度は羽根に何か攻撃をくわえようか。
 わたしは羽根へと視線をずらす。
「なに? オレの羽根、そんなにめずらしい?」
「まあ、それなりに」
「ていうか羽根自体めずらしかったり? あっ、触ってみてもいいよ?」
「遠慮します。ヘンな細菌とかついたらいやですし」
「トラコの中でオレはどんな存在なの?」
 わずかにピエロの目尻には、涙が溜まりはじめた。
「そういえば、あなた、えーと……」
「ロウ」
「ああ、ロウ。ここはどこですか? ちゃんと、函館市内なんですか?」
 大体遊び終わったので、わたしは話を本題へと戻す。
 そろそろ帰らなければ、じじいではなく、もう一人。
 神社に住み込みのような感じで居座っている存在が、わたしを心配しはじめる。それだけは避けたい。そちらにもう迷惑はかけたくない。死んでも。
 なんていったって、そちらはじじいよりも口うるさい。それでいて反抗するのが難しいのだ。
 人ではない――というか、元が人であって、しかも古くから生きているせいだろうとわたしは推測している。
「もちろんそうだよ。ただ森の中なだけで」
「どこのでしょう?」
「函館山」
 ピエロ改め、ロウの発言にわたしは気が遠くなった。
 どんな思いで五稜郭まで来たと思ってんだ、と逆ギレしたくなる。
 まさか来た道を戻っていたとは。
「サーカスみてたんでしょ? ウチのサーカスは途中退場するとねえ、時空枠とか空間枠が歪んじゃって、少しおかしなことになっちゃうんだよね」
 まるでネットカフェのシステムを説明してくれるお兄さんのような態度で、ロウはさらっと告げる。
 軽く異次元へ飛ばされていたとか、不思議空間にいたとか、そんなことは当然、非日常だったわたしは、呆然としていた。
 これがありなら、某有名大御所漫画の『精神と時の部屋』も現実で可能になっちゃうし、何よりもマトリックスの世界や、プレデター、フレディ、ジェイソン、マイケル。ついでにサイレントヒル、バイオハザードなど、ホラー映画でよくある異常なシチュエーションも不可能ではなくなってしまう気がする。
 ……ん? ウチの、サーカス?
「ロウ。あなた、サーカス団員なんですか?」
「うん。そうだよ?」
「……あなたこそなんでここにいるのでしょう」
 あっさり返答したロウを、わたしはきつく睨んだ。
 確かわたしがいた時はまだ、サーカスは開演中だったはずなのだ。
 とすれば、こいつはサボりだということになる。
 中学生の分際でいうのもなんだが、給料を貰っているシゴトだとすれば、サボるのはよくない。
 まあ魔界に通貨があって、なおかつこのロウが働いているのかは、さすがにわからないけれど。
「ああ、団長がね、人間が森の中に迷い込んじゃったみたいだから、捜索してきてくれって。オレ以外だと、みんな人間嫌いなヤツらばっかだからさあ」
 ああ、なんだ。そんなことか。
 なんだか複雑な気持ちになる。
「……それは、ご苦労サマです」
「いえいえ? おかげで、トラコに会えた」
 すっと、ロウの手が伸びてきた。
 真っ白い、死人のような手。
 所々に縫い跡があって、ツギハギだらけの手だった。
 わたしの頬に触れる。
「ねえトラコ。覚えてる? 小さい時の約束」
「だからわたし、ロウのこと覚えてませんって」
「大きくなって、また出会えたら、結婚しようって」
「ブータンの国王夫妻? ……知りませんよわたし」
 なんだってこいつはこんなしつこいんだろう。
 ぷい、と思わず頬をふくらませてみる。
 しかし、すぐにロウが頬を押して、ぶふっと空気がはき出される。
 当然頬はふにゃりとへこんだ。
 再び、頬に空気をいれる。
 が、またロウが押して、空気がはき出された。
「……嫌がらせですか?」
「いや、だってさ。そのままでもトラコは昔から可愛いんだけど、笑った方が、もっと可愛いし」
 ふにっと、今度はわたしの両頬を、掴む。
 それからロウは、ぐっと横に引っ張った。
 無理矢理、笑わされる形となる。
「ひょっとやめふぇふぇくふぁふぁい」
「何言ってるかわかんなーい♪」
 空気が口の端っこから漏れて、言葉にならない。
 しかし楽しんでいるロウの表情をみていると、どうにも、怒る気にも振り払う気にもなれなかった。
「あー、楽しいなあ。ほんっと、楽しい。ね、トラコ。もう遅いしさ? うちのサーカスに泊まっていきなよ。オレから団長にはうまく言っておくから」
 不意に、手が外された。
 うーん、ひりひり頬が痛い。
 よくわからないことを発言しているので、わたしが返答せずに頬をさすっていると、再びロウの手が伸びてきた。
「ごめん。痛かった?」
 じつに罰の悪そうな顔をして、ロウはわたしの顔をのぞき込んだ。
 するすると、頬をロウの手が撫でる。
 どことなく冷たい、死人のような、手。
 声音が優しいせいか、しかしそこまでいやにひやりとはしなかった。
 気のせいだろうか。
 しかしこれだけ反省しているふうにされると、わたしも怒鳴り散らすに怒鳴り散らせない。
「まあまあ、ですね。わたしもやって差し上げましょうか」
 かわりに両手をロウの頬に伸ばした。
「いや! 遠慮しておくよ! ……それよりほら、いこうよ? 案内するから」
「どこにですか」
 伸ばした手をやんわり握り返してきたロウをじとっと睨んで、わたしは尋ねる。
 段々と気温が冷えてきたのか、さすがに、肌寒くなってきた。
 思わず身震いをするわたしとは対照的に、ロウはたいして厚着ではないが、平然としている。
「もちろん、うちのサーカス!」
 何の迷いもなく、本日何撃目かの回し蹴りが炸裂。
 どうやら先ほど、わざわざ聞き流して差し上げた発言は、本気だったようだ。
「ぐぶふっ!」
 今回は結構強めに力を込めたせいか、ロウは派手に吹き飛ぶ。
 ――ごん。
 ついでに、道ばたにあった石碑に激突した。
 激突したロウは多少頭から流血している程度だったが、激突された石碑の方は、粉々に砕けていた。
「公共のものを壊すのは、よくないですよ」
 家柄のせいもあってか、あまりこういうことは、よろしくないと思う。
 明確な確信があるわけでは、ないのだけれど、例えば。ホラー映画やドラマなどでも、こういうことをしたがために、よくないことに巻き込まれる、というのは定番で定番すぎる、定番のストーリー構成だ。
 嫌な予感はどうあってもぬぐえない。
「いったた……、トラコのせい…」

カッ!

 突如、ロウの声を遮るかのように、光が溢れだした。
 ああ、やっぱり、フラグだったか。
嫌な予感、的中。
『……我の封印を、眠りを妨げたのは……どこのどいつだ……!』
「……!」
 聞こえた声は、低く腹の底に響く、声。
 間違いなく光りも、声も、粉々になった石碑から聞こえていた。
 その声でさーっとロウが青ざめていく。
「うわわ! やっべえ! もしかしてこれっ、牛鬼の!」
「ぎぎぎぎぎ牛鬼?」
「鬼だよ、鬼! ここに眠ってるとかはきいてたけど、うっわあツイてねえ! っていうかトラコどうしたの? なんか顔真っ青だよ!」
 あたふたとロウは立ち上がって、わたしの隣に並ぶ。
 何故だろう。身体が言うことを聞かず震える。
 幽霊じゃないとはわかってるんだけど震える。
 理由はきっと、わたしの愛刀がないからだ。
 素手で幽霊とやりあって勝ったひとの話なんて聞いたことがないからだ。多分。
「別になんでもありませんよ。ただの武者震いですから」
「うっわガタガタじゃん!」
「そんなことよりも牛鬼とは一体なんですか。幽霊ですか」
「幽霊じゃあないけど……」
 ロウの返答をきいてわずかにほっとする。
 なんだ、幽霊じゃないんだ。
 妖怪……といったところだろうか。とするならば、じじいの専門。
 妖怪なら、わたしでも勝てるかもしれない。
 刀があれば、一番いいんだけど。
『どいつだときいている……!』
 光はやがて一つへと集まり、大きな牛の形を象った。
 やはりいわゆる妖怪の一種だろう。
 声音は怒りに震えていた。
 どうやら相当寝起きが悪いらしい。
「寝起きだとかの話じゃないよね! 絶対違うよね!」
「……もしかしてこれもサーカスの一環ですか?」
「違います!」
 集まった光は、やがて収束していく。
 みえたのは、暗闇の中にたたずむ、真っ黒な巨体だった。
 まさしくファンタジー。……ああ、うん。やっぱり、これなら、こういう感じなら大丈夫だ。
 いわゆるRPG、ゲームのような世界が、現実とは到底かけ離れた世界が、わたしの眼前に広がっていた。
 今すぐしびれ生肉でも仕掛けてみたい。
 もしくは、しびれ罠とか、落とし穴とか。
「モンハン感覚? ふざけてる場合じゃないよ!」
「だが断る」
「ネタやってる場合なのかな!」
 ロウは顔に焦りをみせながら、わたしの腕をとる。
「ほら、走るよ! こんなもん、武器無しで戦えなんて、無茶だ!」
「わたしも刀が欲しいところですが……素手でも平気そうですよ?」
「んなわけない!」
 どおおおんっとすさまじい地響きが鳴った。
 刹那、ロウに引っ張られて移動したわたしの、すぐ背後に、大きなクレーターが出来上がる。
 クレーターのすぐ上には、振り下ろされたであろう、棍棒があった。
 うわあ、これは一撃必殺だろう。
 さすがに脚力で壊せるほど、わたしの脚力はレベルが高くない。
 うーん、残念。
「でもこういうやつは、大体わかりやすい弱点があります。そこを狙えば……」
「牛鬼の弱点なんか知るかあああああ!」
 わたしの言葉には耳も貸さず、腕だけ引っ張って、ロウは走る。
 常人のスピードよりは遙かに速かったが、そのあたりは、わたし自身の生まれ持った力で、なんとかついていくことができた。
 そんな間にも、


どおおおんっ、どおおおおおおおんっ。
ずどおおおおおおんっ。


 大きな棍棒が落下しているのであろう音が聞こえる。
 いつの間にか、土煙すら舞っていた。
『いつまで逃げ回る気だ臆病者め!』
 牛鬼の声が、わたしの耳に、入った。
 ……臆病者? 誰が?
 ………。
 …………。
 わたし?
 わたし=、臆病者?
「わたしは臆病者では、なあああああいッ!」
 べきり。
 怒りにまかせて、わたしは腕をふりほどいて、飛び上がる。
そのまま勢いを生かして、思い切り牛鬼の腕に回し蹴りを放つ。
ちょうど当たった瞬間に、わたしの右足が、堅い肉の感触を得た。
それと骨が折れる感覚。
「トラコ!」
 ロウのびっくりした声が、わたしの耳に届く。
『があああああっ!』
 牛鬼の悲鳴。
 よくみると牛鬼の腕は、ヘンな方向に曲がっていた。
 おおっ、やっぱりやればできそうだ! 
「どんな馬鹿力! って違う! ダメだよトラコ! 悪いのオレたちなんだよ?」
「知りません。わたしは臆病者ではないからです」
「あんな安い挑発乗っちゃらめえええええ!」
「ロウ、気持ち悪いです」
「……ご、ごめん」
 牛鬼は曲がった腕を一、二度さすった後、ゴキリと腕を元の方へ戻し、ギロリとこちらを睨み付けた。
 どうやら怒りのボルテージが上がったようだ。
 というか、どうやら牛鬼は骨が折れても戻せるようで、全く問題はないらしい。
 ――しかし。
しかし、悲鳴は聞いた。わたしの回し蹴りが、効いた。
 だとするならば―――勝てる!
『ナメるな小娘ええええ!』
「!」
「トラコっ!」
 どごおおおおおおんっ。
 わたしのすぐ目の前を、牛鬼は、ただ、殴った。
 それだけで地面が抉れ、崖へと姿を変貌させる。
 棍棒攻撃よりも、遙かに威力が高い。
 もし今集中豪雨でも降ったら、やばいことになるかもしれない。
ていうか何で今まで棍棒使ってたんだろうこのひと。ハンデだったのかな……と大きなクレーターをみつめていたら、不意に身体がぐらりと傾いた。
 ぐいっと、わたしの腕を、再びロウが引っ張る。
「ああもう、ほら、逃げるよ!」
 おお、なんとしつこい臆病者だ。
「何故です。わたしは戦います。ロウは一人で逃げてください。それに、倒したらわりといいアイテム、そして賞金が手に入りそうです」
「ダメだって! こんなところでガッツリ戦ったら、街にも被害が出ちゃうって! ここっ、そんなに街から遠いわけじゃあ、ないんだよ! ……っていうかトラコ? まだゲーム感覚でしょ!」
「平気です。街に到達するまでに、倒して、手に入れて見せます」
「だからね? ゲームじゃないからそんなお金とか宝とかは手に入らないんだよ!」
 ぐ、とわたしは腕に力をいれてロウの腕を、再び振り解こうとした。
 が、どうにも振り解けない。
 わりとロウの力が強かったせいだ。
 なんだこいつ。痛くないのに振りほどけないなんて、どんな握り方をしているんだろう。
「きいて、トラコ! ヤツは人間の悪意を吸収するんだ。魔を断ち切れる『刀』か、魔法とか、打撃以外の違う方法で倒すかしないと、倒せない!」
「! ……鬼切、ですか」
 ロウの言葉に、わたしは奥歯を噛みしめた。
 愛刀の名。鬼切。
 妖刀と畏れられるその刀は、魔を断ち切るチカラを宿すという、じじいがどっかの神主より譲り受けた刀だ。
 今、わたしの手元にはない刀。
 かつて、わたしの手元にあった刀。
 地面を見つめるわたしをみて、ロウは気まずそうにする。
「……まあ、あったら、多分、倒せたけど。でも今、ここにはないでしょ!だからっ! だから、もし街にでも牛鬼が出たら、何万人もの犠牲者が出るんだよ!」
 頭上から降ってきた声は、真剣な声音だった。
 ロウは、悪魔みたいな姿をしているくせに。
 ピエロみたいな、くせに。
 わたしよりも、人間のことをよく考えていた。
 ズキリと胸が痛む。
(――「よく聞け、トラコ。自分を守るために、他人を傷つけるのは、弱者のすることだ」――)
 頭の、彼方。
 遠くの方で、懐かしい声が聞こえた気がした。
 小さい頃の、うつろな記憶。
 いつだって側にいた。でも今はいない。
「……わかりました」
 わたしは渋々頷いた。
 確かに鬼切がない今、どうしようもない。
 わたしがどうにかできない以上、少なくとも『魔』であるロウに頼った方が良さそうだ。
 振り解こうとチカラを入れていた腕から、チカラを抜く。
「じゃあ、いくよ。足ひねったりしないようにね? 足元、暗いから」
 それをうけて、ロウはわたしの手をもう一度ひいた。
 まったく、心配性なピエロだ。
「余計な心配ですよ。ロウこそわたしに突き飛ばされたりしないでくださいね」
「それトラコが気をつけたりすることじゃない?」
 こんな危険な場面におかれているのに、わたしの気分はどうしてだか晴れていた。
 おそらくこいつのせいだろう。他でもない、こいつに言いくるめられているこの感覚が……なんだか、本当に、懐かしいような、そんな気がしてくるから本当に不思議なのだ。
 握った手すらも、記憶にないことが違和感のような。
 そんな、気が……。
『死ねえええええい!』
「!」
「ちょっ……!」
 さすがに二人同時に、振り返った。
「あら……」
 しまった、と思った時には、もう、遅い。
 振り下ろされる、どこから持ってきたのかわからない、大きな岩。
 何故わたしたちは立ち止まってこんなに話し合ってたんだか。
 牛鬼は目前に、迫っている。
「トラコ……っ」
 不意に、ロウがわたしを押し倒した。
 ドッと背中に衝撃。
 手に土の感触。
 目の前には、ロウと、ロウの背中越しに――、岩。
 ああ、岩で押しつぶされる――のか。
 不思議なことに、わたしは死ぬかもしれないというのに、笑っていた。
 口角が、頬の筋肉が、あがっているのがわかる。
 ――所詮は、拾われモノだから……。
 どうせ、拾われなければ、あの時に死んでいたはずなのだ。
 どうせ、拾われて長らえている命なのだ。
 生への執着はない。
 だから、目は閉じない。
 ただ、その一瞬を、みていたい。
 死への一瞬を、みてみたい。
 変わっている?
 ……そうなのかもしれない。

「ぶっとべええええええええッ!」

 刹那、空気を、空間を切り裂くような怒号と共に、激しい爆発音が響き渡った。
 目前までせまっていた岩が、一瞬。
 停止して、刹那、粉々に砕け散った。
『何!』
 牛鬼の声がする。
 続いて再び轟音。
 砂埃が周囲を覆う。
「こらこらレオンさん。ダメですよ、破片が飛び散って danger じゃないですか」
 頭上で、また別の声。
 少し前に聞いた気もする、別の声。
 わりと大きな塊で砕けた岩を、声の主は。
 ぱっと一瞬で消してしまった。
 まるで、手品だ。
 なにをしたのかは、残念ながら、わたしの視界からうかがうことができない。
 このロウが、いまだにわたしに覆い被さっているせいだ。
 別に重いわけではないが、どいてほしい。
 いきなりめまぐるしく変わったこの状況を、はやく把握したい。
 が、ロウは一向に退く気配は無い。
 気絶しているのか、寝ているのか――よくはわからないが。
「知るかよ。人間と、このアホがどうなろうと、俺の知ったことじゃねえ」
 怒号を放った声と、同じ声が再び響く。
 どうやら二人ほど――、ロウの知り合い、がきてくれた、ようだった。
「……さて、牛鬼さん? 悪いのは完全にこちらのようですが……、貴方には、 disappear していただきましょう」
『貴様……! 西洋の『悪魔』め……!』
 どうやら吹き飛ばされたらしい牛鬼は、どこか少し遠い場所でゆっくりと立ち上がったようだった。音が聞こえる。
「ええ、ワタクシの from は Britain です。ま、こちらの三人は、ちゃんと japanese ですけどね」
『戯言をっ、抜かすなッ!』
 どどどっと、牛鬼の走り出す音が聞こえた。
 先程よりもわずかに、怒りに満ちあふれた声。
 ああ、本当に、怒り心頭って言葉はこいつのためにあるな、みたいな。
「―――さあ、楽しい show のハジマリですよ」
 対照的に、涼やかな、爽やかな。
 秋晴れのような、しかし楽しげな。
 そんな、顔をみなくても微笑んだことがわかるような声が、聞こえた。
 数秒するうちに、足音は、聞こえなくなった。
 それは、勝利を認識するのには十分すぎる状況だった。



  タチヨミ版はここまでとなります。


シロトラ。

2019年6月30日 発行 初版

著  者:黒谷
発  行:イシャー・シェラ・モレク出版

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