spine
jacket

 お手にとってくださり、ありがとうございます。
 弊誌は、媒体不問の自由すぎる創作サークル「なんかつくろう部」が発行している、お題に沿って各々を表現する季刊広報誌です。

 今回、メンバーに投げたお題は「端」──前後の文脈しだいで如何ようにも意味が変わる抽象的な一文字ですが、どの作品も、実にいろいろな切り口で回収されています。
 「夏らしさ」はテーマに設定していませんが、夏に追随したさまざまなイメージも散りばめられているように思います。キラキラもしていれば、ジメジメもしています。高温多湿の作品群がおりなす陰陽を、少し覗いてみてください。

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なんかつくろう部 季刊

ナンカウトプット

Vol.2 2019_Summer



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CONTENTS

Summer Edge
つきぬけ|小説

そしてまた、不幸の欠片を凌辱する。
欠落は欠落で埋める。
標識|小説

オルゴールはクオリアの音色 弦|小説

Illustration
ししゃも、マサ、つきぬけ|イラスト|写真

Summer Edge

つきぬけ


登場人物

羽田野 直 ────旅好きで、位置情報系のスマホゲームにはまっている男の子。高校の仲間うちではいじられキャラで、色黒でずんぐりしていることからゴキブリ呼ばわりされていた。元登山部で体力には自信あり。

難波 筑紫 ────羽田野とは同じ出身高校で美術部の元部長だが、直接関わったことはない。小柄ながら芯の一本通った少女で、現在美大受験のため予備校通い。間の抜けた羽田野にも公平に接する。


 思ったよりも強かったCPUとの対戦が終わって、ゲーム機をぱたんと閉じた。電車が停まってから30分ぐらい、ずっと暇潰ししてる。車掌さんはもう何回も同じアナウンスを繰り返してる。変電所のトラブルで停電があり、しばらく電車が動く見通しは立たないのだそうだ。
 これは僕の体型のせいでもあるけれど、シートにかがみこんでゲーム機をいじっているとすぐに身体が硬くなる。身体でも伸ばそうと立ってみたら、となりの号車にあずき色の人影が見えた。ガラ空きの車内だとほかに目をひくものもなくて、柔軟体操しながら見ていると、それが高校時代のジャージらしいことに気づく。
 でもって、それを着ている子もどこか見覚えがある。でも、このあたりは母校から少し離れているし、この辺ずいぶん田舎だし……なにか目的がないと来るようなところじゃない。だから、ちょっと気になった。

 車両のつなぎ目をまたぐと、じろり。彼女の目つきは「なんだおまえ、もの珍しそうに」と言いたそうに見えた。だから人違いかとも思ったけど、ぱっとなにかを思い出したような顔に変わった。お互いに気付いてはいる……けれど声をかけようにも、困ったことに名前がでてこない。

「それって、富中高校のジャージだよね。同級生だと思うんだけど……」

 小さく、あー、えーっと、とか言いながら、お互いに思い出せない時間がしばらく続く。

「えーっと、ごめん、顔は知ってるんだけど。あだ名しかわかんなくて」
「あー、それは……ちょっと声に出しては言えないかもね、ひどかったから!」

 そう、ひどいあだ名だった。最初は“フンコロ”だったけど、気付いたら“ゴキブリ”に呼び名が変わってた。ほんと、ひどくない? そういうのが高校生のノリだけど、少なくとも女の子の口からさらっと出ていいような言葉じゃない。

「そう、面と向かってはちょっとね……」

 彼女はもともと困り気味だった眉毛を、さらに曲げてそう言った。横目で睨まれるとびくっとする目線も、正面から見られるとなんともいえない安心感がある。

「ほんとは羽田野っていうんだけど、誰もそう呼ばないからなあ」
「うーん、見事に聞いたことない。まあクラス違いじゃ、知る機会もないしね。逆にだけどあたしの名前、難波って言ってピンとくる? 」
「うん、えっと、あるよ。ほら、学年一画数が多いとかって言われてた?」
「そんなウワサ立ってたの知らないんだけど……」
 彼女はなんかの部活で、なんかの表彰を受けてた。そのときに先生から読み上げられてた。苗字もそこそこ画数あるし、名前もかなりごちゃごちゃしてたよう気がする。

 会話の間を埋めるようにアナウンスが流れてきて、どうやらやっと動きがあるみたいだった。聞くところによると、最後に通過した駅まで一旦逆走するとのこと。停電してるはずなのに走れるだなんて、どういうしくみなんだろうか。

「ホント、参るわ。ハタノくん?も災難だったね」苗字で呼ばれるのにあまり慣れてないせいで、ちょっと恥ずかしい。
「僕は大したことないよ、ちょっと歩く距離が増えるだけで。それなに?」

 難波さんの脇に積まれた大荷物が目にとまった。それと一緒に、なんでジャージ姿なのかっていう疑問ももう一度浮かんできた。

「野外で絵を描く道具ってとこ。キャンバスを置くイーゼル、折り畳み椅子とか、あとこん中に入ってるのは全部画材」
「じゃあ美術部だった?」
「もしかして初耳?」
「知らなかった」
「正直ね……」
「でも部長なのは知ってたよ」
「ヘンなの」

 なにかの部長かキャプテンを務めていたという記憶はあったけど、難波さん、美術部の部長だったか。種あかしの後で荷物一式をながめてみると、たしかに画材にしか見えなくなるから不思議だ。とくに木製の大きな三脚なんて一目瞭然のはずなのに……イーゼルっていうのがコレの名前かな?

「写経大会にでも参加するの?」
「それ違う、お坊さんがやるやつ。正しくは写生ね」

 けっこう当たり前だと思うけど。難波さんの苦笑にふと「もう高校生じゃない」という一言がふっと頭に浮かぶ。こういう間違いをするのはいつものことだけど、それは誰かに正してもらうのに慣れているから。けれど、そろそろ自立しなきゃいけないなと思う。

「行き先は?」
八重歯やえば山、なんだけど知ってる? まあ、あと一駅ってところで止まっちゃったんだけど」
「あっ、一緒」

すごい偶然だ。
同じ高校っていうことで軽く話しかけたつもりが、まさか目的地まで一緒だったなんて。

「あ、ほんと。珍しいこともあるもんね……何しに?」

 前々から八重歯山に来たいとは思っていたけど、いざ目的を聞かれると説明に困った。登山なんていつも何となくやっていることだ。これといった目的はないけど「せっかくならやっておきたい」事ならある。

「あんま目的とかはないけど、ぶらぶら旅するのが好きなんだ。あとは位置情報ゲームね。自分の足でいろんな所に行って、いろいろ収集して回るんだ」

 「位置情報」って言葉を頭につけるとちょっと高度なゲームみたいに思えるけど、実際はそんなことない。単純にキャラクターを集めて戦わせるだけ。今回の八重歯山みたいに、現実の場所とリンクしてるのが面白いところだ。プレイヤーはちょっと少ないけど……

「位置情報ゲーム、ふうん。スタンプラリーみたいな?」
「そうそう、スタンプの代わりにキャラクターがもらえる」
「ヘンなの。今どきガチャひかないのね」
「それでね、たとえば山だったら必要な高度が設定されてて、実際に頂上まで行かないと……」

 話が前のめりになりかけたところで、電車が減速しているのに気づいた。難波さんとの目線を一旦解いて、降りる支度をする。そこでふと思うのは、目的地は同じだけど、このまま付いていってもいいんだろうかってこと。せっかく絵に集中したいのに、もしかするとうざいかもしれない。けれど、二駅ぶん歩くにはちょっと荷物も多いし、せめてロープウェー乗り場までは手伝おうと思った。
 難波さんはすっと立ち上がり、荷物棚からデニム生地のリュックを降ろした。先回りして自動ドアの開ボタンを押すと、梅雨明けのからっとした陽気が出迎えてくれた。
 僕は爽やかな心持ちになって、ホームの彼方に広がる青空を、胸いっぱいに吸い込んだ。


◆  ◆  ◆


「あーもー、無茶苦茶歩かされんじゃん……」

 ホームの自販機に寄って戻ってくると、ルート検索をしていた難波さんがぼそっと不平をこぼしたのが聞こえた。ロープウェイ乗り場までの距離は、3.5キロ。確かにこの荷物の量だと2時間ぐらいはかかりそうだ。

「いいのに。ハタノくんの分も結構あるでしょ」

僕はもう、一番重量のありそうな荷物に手を触れていた。イーゼル(これは覚えたぞ)と、それに付属する画材ケースだ。台車をコンパクトにしたようなカートに、ずり落ちないようにしっかりくくりつけられている。

「いいや、大丈夫。とにかく体力だけはあるから」

 そう、こんなときのために有り余る体力があるってもんだ。むしろそれぐらいしか取り柄がないし、それで人の役に立てるなら本望だ。リュックだって膨らんでいるように見えるけど、ほとんど着替えしか入ってない。難波さんのを肩代わりするぐらい平気だ。

「ハタノくん……登山部だったりした?」
「当たり! どうして分かったの?」
「そうね、ユニフォームとか着てるの見たことなかったから。っていうのと、なんかスポーツっていうよりアウトドアっぽいなって」
「僕がアウトドアっぽい?」たしかに、チーム戦は要領がつかめなくて苦手だった。それに体力はあっても運動神経は壊滅的で、動きが超にぶいんだ。歩みに任せて、景色を楽しんでるほうが僕の性に合ってる。
 さて、荷物の重さがどんなものか、小手調べにキャリーカート(難波さんにまた教えてもらった)を歩道橋まで引き上げてみた。意外にずしっと来たけど、ちょっと焦ったけど、なんて事はない。しかも「おお、やるー」だなんておだてられると、無限に馬力が上がる。「階段じゃなくてスロープ使ったら」なんて聞かれたけど、勢いに任せて階段を全部登りきってしまった。

「これなら二駅先まで余裕だよ」
「そんな急いで行かなくてもいいのに……」
「大丈夫、任せて!」

 ────それから到着までは、いろんな話をさせてもらった。さっきの位置情報ゲームのこと、親が居酒屋をやってて「目利きになれ」と漁港巡りをさせられていること、その居酒屋が改装中でちょっと暇ができたこと。その他もろもろ。
 難波さんは聞き上手で、もし僕の個人情報を狙うスパイかなにかだったら、致命的だ。夢中になって、すでにいろんなことを教えてしまったから。知らないことでもとりあえず興味を持ってくれて、もっと話したくなる質問をしてくれる。
「このゲーム機とも連動するようになってて、スマホからデータを転送できるんだよ」
「一昔前の流行りだと思ってたけど、進化してるんだね」
「自分が行ったことのある場所には、塔のマークがつくんだ。塔をたくさん建てていくと、いろんなボーナスがもらえて……」
「やったことないのに、そんな細かいとこまでわかんないって」
 自転車来てるよ、後ろから。難波さんはそう言って一旦僕の後ろについた。喋るのに夢中で、うっかり歩道をふさいでいたみたいだ。
 ────それにしても高校三年のあいだ、一対一でここまで話すことなんてあったっけ。仲間内でのじゃれ合いは楽しかったけど、なにを言ってもまともに取り合われなかった。そんなに大事なことじゃないからだろうな、と思ってた。けれど、まともに話を聞いてもらうっていうのは想像以上にうれしくなる。

 それから僕らは交通量の多い海沿いの道をそれて、住宅地に入っていった。山肌の合間から少しずつケーブルが見えるようになってきて、ロープウェーが近いことがわかった。視界の中心には積乱雲がいい感じに立ち昇っていて、いよいよこれからっていう期待感を高めてくれる。
 後ろについた難波さんが「ハァーやっと……」とつぶやいたのを察するに、どうやら着いたみたいだ。
 ロープウェイ乗り場は赤青のストライプが入ったちょっとレトロな外見で、駐車場はかなりの広さがあった。中に入ってみると肝心のゴンドラはところどころ錆れていたけど、不自然にピカピカなほうよりはいいと思った。そのほうが景色になじむからだ。ゴンドラには僕らのほかに、ハイキングに来たおばあちゃんグループや金髪外国人のファミリーがいた。
 にぎやかなロープウェーの中で、難波さんは自分のこともぽつぽつと話しはじめた。
 美大に行くための学校に通っていること、ずっと白黒の絵ばかり描かされていること、田舎育ちには都会は息苦しいこと、その他もろもろ。ちなみに、富中高校のジャージを着ているのは「汚れてもいい服装ってだけで、こんな田舎じゃ誰とも会わないから」ということらしい。
「なんかごめんね、ハタノくんみたいな話できなくて」
 つい愚痴になってしまうことを、難波さんは悪く思っているようだった。でも、それだけ本気で向き合っていれば愚痴も出てくるものだと思う。少なくとも、僕は自分の本気なんて知らない。


◆  ◆  ◆


 頂上駅についてロープウェイを降りると、直射日光を遮るものはなにもなかった。銀の手すりのむこうには、ぎらつく海と港町が見える。目線を少しずらしてみれば、今度はラクダのように果てしなく山がつづく。
 僕はよく理由もなく、インターネットでマップを見漁る。なにか調べるでもなく、山の稜線をひたすらスクロールして追っていったりとか、変な形の湖を探したりとか。八重歯山もそうやって見つけた場所で、山と海が隣り合わせになってるのがよさそうだと思って調べたら、案の定絶景スポットだった。

「電車ガラガラなくせに観光客多すぎ」
「みんな車で来てるんだよ、多分」
「にしても、でしょ……」

 降りてから難波さんと落ち着ける場所をしばらく探していたけど、なかなか見つからない。腰を落ち着けて写生するならもちろん景色は選びたいけれど、そういう所に限って、入れ替わり立ち代わりいろんな人が自撮りしにやってくる。

「あそことかどう?」
「あ、いいかも。じゃ、さっさと場所とらないと」

 どこも混み混みだったけど、根気よく探せば穴場もあるもんだ。そこはあずま屋と展望台を一緒にしたような石造りの建物で、下でひと休みもできて、上に登れば景色も見れる構造になっている。難波さんはさっそく階段を上がり、秘密基地を建てはじめた。同じような考えの人がぽつぽつと居て写真を撮っているけど、はじっこにキャンバスを置けばひとまず文句は言われないだろう。

「タブレットで描ける時代に、とんだ酔狂だけど……でも、知ーらない、っと……」

 難波さんは手慣れた感じで折りたたみ椅子を置いた。イーゼルを開いた。その上にスケッチブックが載って、絵の具のついたデニム生地のリュックからどんどん小物が出てきた。そして、頭に被っていたキャップ帽をぐるっと後ろ向きにした。銀色のパレットにちょんちょんっと絵の具をつけると、難波さんはミネラルウォーターのキャップを空けた。
「飲まないに決まってるでしょ」
 僕の目線の動きを感じとって、難波さんはすぐにつっこんだ。本当に人をよく見てる。
 スケッチブックを切り裂くかのように、鮮やかに筆を振るう──なんていうと少し大げさだけど、剣の達人みたいに、下書きもしないでどんどん描き進めていく。日の光にさらされた絵の具がキラキラしながら形を変えていくのを見ながら、僕は「自分がもし文化部を選んでいたら」という考えに想いをはせていた。
 
「……青って好きなんだ」
 現実の空と水彩で描かれた空を一緒に見ながら、思わずつぶやいてしまった。
「なんて?」
「青色だよ。落ち着くんだ」
「あはは、青色、ね。うん、私も好きだけど……」 
────頓珍漢とんちんかんなことを言っても突っ込まれたりどつかれたりしないからってつい甘えて、難波さんの筆を動かす手を止めてしまった。
「描くの、見ててもいいけど。そのままだと、日差しきつくない?」
 そのとおりだった。やや天パぎみの僕のてっぺんに、じわじわと熱が集まってきているのがわかる。
 “7月上旬でも、日射病を起こすには十分な日差しですので注意してください”、天気予報でそう聞いた気もする。
「たしかに、少しぼうっとするね」
「やだちょっと勘弁してよ、下でゲームでもしてて」

 なぜか手の甲で背中を押される感触がして、階段にまで連行された。そうか、手の平に絵の具がついてたからか。ほんの小さな心遣いを心地よく思いつつ、僕は言われるがままそこを降りた。


◆  ◆  ◆


 麦茶のボトルを空にして落ち着いたあと、難波さんに一声かけてあずま屋を離れた。目当てのキャラクターを取りに頂上展望台へ行くつもりだったけど、ちょっと遠回りをして名所になっている神社仏閣をぶらついていた。苔むした日陰を歩いていると、冷気で頭がすっきりしてきた。そして、地に足をつけているのに浮かび上がるような、変な感覚がするのに気づく。空を飛んでるみたいなワクワク感もあれば、元いた場所に戻れなくなるような不安もあった。
 いつもは使わない頭を久々にひねって、その違和感について順番に考えてみる。

 中学、高校は人生を学ぶところ。そう教えられて、テストの点数にもそこまで厳しくはなかった親には感謝してる。僕はあの高校で必要とされていた。いじられるのは立派な役割で、少なからずみんなを愉快にして、クラスを元気にした。そう、みんなで笑い合っている時間は確かに輝いていたし、仲の悪くなった友達もいない。
 けれど、卒業式を終えたときの心境は「やっと落ち着いた」だった。僕はそれを、高校生活をやりきった達成感だと思っていた。
 ……だけど、何だったんだろうって思う。場を盛り上げてはみんなが楽しそうなのを確認して、また次の波を待つ。そんな毎日が、急にちゃっちく思えてきてしまった。ひとりの人と話してここまで楽しかったのは、そしてゆったりと時間を過ごせたのはこれが初めて。僕を揺さぶるのには充分すぎる体験だった。
 それでも僕は、三年間を棒に振ったなんて考えたくなかった。

 頭の中がまとまらないまま、頂上展望台に近いところまで来てしまった。視界の先に、画像検索で見たまんまの風景が広がる────岩肌がむき出しで、断崖絶壁がのぞき込めることでおなじみの撮影スポットだ。高度条件をクリアしたらしく、ポケットのスマホがぶるっと振動した。

『此処ではない何処かを求め、いざ!』

 よし、とりあえずキャラクターは回収するだけした。八重歯山という地名からそのまんま取って、八重衛門というらしい。キャラ説明には「ずっと同じ場所に留まっていられない」とあった。たしかに、声を張り上げてせっかちな奴だ。

『よくここまで来たな。しかし、此処での修行はもう十二分じゃ。儂はもうさっさと次に往くぞ』

 もういいから、と思ってスマホの画面をロックした。急かされているようで、なんだかばつの悪い気分になってしまった。


◆  ◆  ◆


 頂上展望台を後にしてあずま屋まで下ってくると、難波さんはもうお弁当を済ませて、風呂敷を結んでいたところだった。そういえば、絵はどうなっているだろうか。声をかける前にちょっと階段を往復して、キャンバスをのぞいてきた。風景はだいたい描き終わっていて、後は高速道路やトンネル、高架線なんかを付け足すだけだろう。
────すごい、あっという間にほぼ完成だ。

「すごい、あれ、もう描き終わったの?」
「いやいや、あれで終わっちゃだめでしょ。やっと半分ってところよ」

 前言撤回、わかってなかった。だって、素人からするとこのままでも充分うまい。まるでいろんな時空から引っ張ってきたような、少しずつ雰囲気の違う青色がちらし寿司のように散りばめられて……いや、なにかに例えようとするのはやめとこう。僕じゃセンスがなさすぎる。
 気を取り直して、僕もちょっと遅めの昼ごはんにしよう。朝は親父にまかない飯の残りをがっつり食わされたから、お昼はパンを何個かかじるだけでいい。
 話し込んでちょっと慣れたからといっても、女の子の隣に座りに行くにはまだちょっと勇気がいる。だから最大限の涼しい顔をしながら「日陰だと思ったよりも涼しいね」なんて言いながら席につくのだ。

「風があるからでしょうね。それで、なんかゲットできたの?」
「こいつこいつ」すかさずスマホを出して、頂上で手に入れた“八重衛門”のステータス画面を見せる。
『此処ではない何処かを求め、いざ!』また同じ台詞だ。僕と同じで落ち着きがない。
 難波さんからは「わりと好きな絵かも」という答えが返ってきて、それだけだった。

「ここではない何処かか……」

 時間差でそうつぶやいて、ため息ひとつ吐く。予備校のことか進路のことか、難波さんが思い悩むことは多そうだ。
「ハタノくんさ」
 ちょうどパンを口に入れたところでタイミングが悪く、もぐもぐしながら首を縦に振る。
「卒業して自由になったとかって、思う?」
「自由っていう感じじゃないかな。これから何すんのかな、っていう気持ち」
「とくに決めてないの?」
「うん。このままなんとなく店の手伝いして、そのまま過ごしていくのかなって思うけど」
「いいじゃん、居酒屋。継げる仕事があるってうらやましい」
「退屈だよ」
「高校のときの方がよかった?」
 その質問には、すぐに答えられなかった。
 難波さんはそれから、高校時代のことをいろいろと聞いてきた。はじめは、部活や文化祭準備の話をした。だけど、ジャージがすり切れてた理由を聞いてきたあたりで、難波さんが何を気にしているのかわかってきた。
「難波さん、もしかしてだけど……」
 いつになく真剣な顔で、次の言葉を待つ難波さん。
「僕がいじられるの、本気で心配してた?」
「心配っていうか、自分が何されてたかほんとにわかんないの……?」
 そこまで取り乱す理由がわからない。僕からすれば当たり前のことだった。
「そりゃ、知ってるとも。でもああいうノリだから」
「明らかに度を越してたでしょ」
 そこからしばらくは「大丈夫だって」「明らかに大丈夫じゃなかった」そんな押し問答をひたすら続けた。僕がいじられてきた事は、僕の唯一の実績でもある。それを簡単には否定されたくなかった。
「しつこくしてごめん。けど、自分のこと大事にしてない感じがして」
「心配しないで、もう昔のことだからさ」

 難波さんはそれから、絵を完成させにその場を離れた。去りがけの横顔はなんだか不思議と寂しそうで、あんなに気にかけてくれてたのに、結局安心させてあげられなかった。
────後から後から、なぜか僕のほうがどんどん寂しくなってくる。まるで、かくれんぼで意気揚々と隠れたのに、誰も探しにきてくれないみたいで。
 暇だからって理由をつけて、難波さんの後を追いかけてみたら、ワイヤレスヘッドホンをつけてひたすら絵に集中していた。僕だったら、それを外してでも話に付き合ってたのかな。


◆  ◆  ◆


「え、ずっとここ居たの……?」
 引き返してからしばらく時間を共にしていたゲーム機は充電が切れそうで、電源ランプが赤く点滅していた。
「八重衛門をゲーム機に移して、新しいパーティを試してたんだ。前より強くなったよ」
 降りてくるまで待っていたとは、さすがに言いづらかった。べつに何ひとつ嘘じゃないし。
「私もう片付けちゃうけど、ハタノくんはどうするの」
「とりあえず手伝うよ」
 完成した絵を一目みたいという理由もあったけど、上に行ってみたらスケッチブックは閉じてあった。デニム生地のリュックに小物をしまい込んで、スケッチブックをおろして、イーゼルを閉じて、折りたたみ椅子を畳んだ。
「できた絵、後で見てもいい?」
「スケブしまっちゃったから、帰りのロープウェーでね」

 それから、頂上駅に戻るまではすぐだった。元きた道もわかるし、人気も昼よりずっと少ない。それにしても行きはあんなにワクワクしていたのが、もう終わりだなんて。いつか見た小難しそうな映画で、時間は伸び縮みするものだとか言ってたけど、確かに加速してるような気がする。
「難波さんも旅とかするの?」
「いや、自分から行こうとかは思わない。写生なんて高校のとき以来だし」
「どうしてまたやろうと思ったの?」
「なんていうか、現実逃避。たかだか写生大会の賞をもらって喜んでた自分に帰ってるだけ」
 旅好きだと答えてくれれば、いろんな所を教えられたんだけど。難波さんの心境は複雑だった。だったら逆に、僕が絵を好きになればいいかもって思った。そうだ、これを機に新しい趣味をはじめるのもアリじゃないか。
 帰りのロープウェーに乗り込むと、難波さんがスケッチブックを引っ張り出してくれた。西日が邪魔して少し見にくいけど、それは描きかけのときとはまるで別物だった。手前の山と奥の山、空と海とで色がくっきり分かれてる。リアルなのに絵本みたいで、まるで…………
────ダメだ、出てこない。いい絵だって目でみてわかっても、自分にセンスがなさすぎて良さを伝えられない。難波さんにわざわざ見せてもらったのに、気の利いた感想が言えない。

「い、いろんな青があって、いいよね……」
「好きなんだっけ、青」
 めちゃくちゃな感想でも、本心を言おうと思った。だって、難波さんは相変わらず正面から受け止めてくれる。
「うん……ずっと見てたい」
 でも、ずっとは無理なんだ。この時間もそろそろ終わってしまう。せっかく手に入れかけたものを手放してしまうような気がして、なにかに置いていかれるような気がして、どんどん焦りが出てくる。
 僕はスケッチブックをじっと見つめたまま考える。ここで難波さんとさよならしたら、それっきり。クラスが違うってことはメッセンジャーもグループ違いってことだから、後から連絡する手段もない。
「ハタノくん?」
 そうだ、お願いして絵を教えてもらうってのはどうだろうか。あきらめるもんか、センスが身につくまで頑張るんだ。もしかしたら、これが僕の創作とのはじめての出会いかもしれない。仲良くしたいから共通の趣味が欲しいだけだって? 望むところだ。どっちかである必要なんてないし、どっちもいただきだ。

────さあ、なんか言えよ!

「大丈夫?」
 顔をのぞき込まれてこらえきれなくなって、僕ははじけ飛んだ。
「難波さん、教えてくれない? その……もし時間があったらだけど……」
「教えるって?」
「今日がきっかけで、僕も絵をやってみたいって思ったんだ。今まではとてもじゃないけど無理な世界だって思ってたけど……ああ、その……」
難波さんはうつむいたまま。きっとまだちゃんと伝わってないんだ。思ってることをいえばきっと伝わる、だって難波さんだもの。
「僕は景色も好きだし、これがやりたい事だってわかったんだ。今日みたいにまたどこかで写経もしてみたいし、どこかまたいい場所を探して……」
「ごめん、やめとく」
 きっぱり。

 今まで溜まっていた緊張がぜんぶ解放されて、代わりにどんどん心が冷えていくのがわかった。
「悪いけど、そんな余裕ない」
 難波さんは額に指を当ててうつむく。すごく考えて次の言葉を選んでいるのがわかる。それか、もううんざりしてしまっているか。僕の気持ちはすっかり負けていて、あとは怒られるのを待つだけだった。
「自分の人生でしょ」
「違う、わかったんだ。自分を大事にするってことが。やりたいことをやればいいんだって」
 この期におよんでしがみつく僕を、ゴンドラの天井からもう一人の僕が見ているようだった。
「だったら私から降りて」
 例のじろりとした横目をこっちに向けて、難波さんはそう言った。気力を使い果たしてしまった僕は、難波さんにスケッチブックを畳んで返す。
 難波さんはそれをまた広げなおして、自分の作品をもう一度見つめなおす。それは、自分の気持ちを確かめているみたいに見えた。
「青春なんて、結構あいまいなもんよ」
 永久に気まずい時間が続くと思ってた僕は、難波さんがすぐに気をとりなおしたことに驚いた。まるでさっきまでの話が帳消しになったみたいで──それが難波さんの優しさだと気づくまでに、ほんの少し時間がかかった。人間、意外とすんなりあきらめられるものだ。
「青い春がだめなら、青い夏もそうなのかな」
 ふと気になって、ぽつりと聞いてみた。
「青もいいけど、他の色もね」
 青って、何なんだろう。考えてみれば空や海の青さが、そのまま友情や恋愛に結びついてるわけでもない。
 それから僕らはふもとに着くまで、色についての話をあれこれした。青だけじゃなくて、それに近い緑や、白や、黒や、お互いの服の色のことも。結論らしい結論は何も出なかったけど。どれも見かたによってはきれいなものだと知って、青へのこだわりが少しずつやわらいでいった。

 ロープウェーを降りるころには一山超えたような気持ちがして、自然と「ありがとう」の言葉がでてきた。
「楽しかったよ、ハタノくん」
 難波さん、今日はほんとうにお世話になりました。
 降りたあとで空っぽになったゴンドラは、オレンジ色の西日に照らされて優しく静まり返っていた。

そしてまた、不幸の欠片を凌辱する。欠落は欠落で埋める。

標識

 スライド式のドアを開け、個室病室に入ると、親友である壬条みじょう まいは力なくリクライニングベッドに横たわっていた。
「舞。身体の調子は──」
「…………あぁ、リムちゃん……おはよう」
 そう言ってわたしの方を向いた舞の目の下には、濃い隈がくっきりとできていた。
「また……眠れなかったの? 一睡も……」
「…………うん。ダメだった……眠剤も、効かない」
「そっか……」
 舞は自分の胸の位置に置いてあった、多量の黒いシミで彩られた熊のぬいぐるみを両手に持つと、わたしに言った。
「……ごめんね、リムちゃん。もうこれだけじゃあ、足りないみたいなの」
 光のない瞳。あまりにも痛々しく、儚いそれを見ていられず、わたしは衝動的に、以前から考えていたことを口に出していた。
「……舞、わたし、探してくるよ」
「………………えっ?」
「それの代わりになるものを、わたしが探してきてあげる」

 舞は、自身の余命があと二年と少ししかないということを医者に告げられてからこの調子だった。目から光は消え、話しかけても返事に間があり、会話の齟齬が生まれることが増えた。
 でも、ある時期においてだけ、彼女は従来の元気を取り戻していたのだ。
 その証拠に少し前までは、まだもう少し元気があった。日がたつほどに彼女の元気は薄れ、今の状態に戻ってしまったけれど。
 一月前にまでさかのぼると、元気どころか絶好調だったというのに。
 一月前のとある日。舞が精神的なエネルギーを一時的にとはいえ回復する原因となった、重大な出来事があったのだ。
 あの日わたしは、いつも通りに何もやる気が起きない舞の気分転換にと、彼女の車椅子を押して散歩に出掛けていた。その道中、わたしたちが歩いていた近くの交差点の横断歩道で事故が起こった。居眠り運転か酒気帯び運転か定かではないが、大型トラックが信号無視で突っ込んできたようだった。
 偶然目の前で起きた交通事故。かれてぐちゃぐちゃになった、熊のぬいぐるみを抱いていた女の子と、泣き崩れるその母親らしき人物。女の子の手から離れた熊のぬいぐるみは血を浴びながら路面を滑り、わたしたちの足元で止まった。
 一瞬で、交差点の周辺は血と悲鳴と混沌に染まった。
 そのとき舞は、目の前で巻き起こった他人の不幸に狂喜していた。自分の現状を遥かに上回るそれに、涙を流しながら陶酔していた。まるで水を得た魚のように、生き生きと。瑞々しく。
「わたし今、すっごく生きてるって感じがする」
「わたしにはもうあまり時間がないんだから、その分たっくさん楽しまないと!」
「リムちゃん、今日はどこに連れてってくれるの!?」
 そんな具合に。
 舞は、こっそりと事故現場から持ち去った血塗れのぬいぐるみをいつも抱きながら、無邪気に、はしゃぐように。以前にも増して楽しそうに生きていた。
 事故があった日から一月ほどの間、彼女の元気はそのままずっと継続していて、そして最近、有効期限が切れたようにまた消沈し始めた。
 また舞を元気付けたい。その一心で、わたしは他人の不幸の欠片を探すことにした。
 不幸の欠片。それは生の欠片と言い替えることもできる。生前、何の問題もなく生きていた幸せな人が、ふとした不幸をきっかけにそれを落とすのだ。
 きっと死んだように生きる舞は、自身の欠落した心に、他人が落とした生の欠片を当てはめないと自分を維持できないんだ。

 お墓や、お葬式の会場──。その日のわたしは、人の不幸の置場所を巡って不幸の欠片を求め続けた。それも、できるだけ酷い死に方をした人のものを。
 とはいえ。
『突然すみません。亡くなった息子さんの形見をいただけないでしょうか?』
 こんなお願いをし続けたところで、首を縦に降ってくれるような遺族がいるはずもなく、今までの数時間分のわたしの行動はただの徒労に終わろうとしていた。
 罪悪感と、疲労感と、生温い不安のようなものだけが胃の奥に滴っていく。
 女子中学生の財力では交通費に使えるお金も早々に底をついてしまい、わたしは途方に暮れて寂れた住宅街をさ迷うこととなり。やがて歩き疲れ、気付くと公園のベンチに呆然と座っていた。どれくらいの間そこにいたのかよく分からない。意識はあったはずだが、居眠りでもしていたように、時間感覚が判然としなかった。
 そこは住宅街の中にポツンと食い込むようにある、つまらない公園だった。広さはテニスコート一面分くらいで、遊具もブランコや滑り台、ジャングルジムに鉄棒など当たり障りないものばかり。少々変わった点といえば鉄棒の脇にT字型の銅像のようなものが二体並んでいるのが目についたが、そこまで気になるようなものでもなかった。
「…………」
 時刻は夕暮れ時、夕焼けチャイムが耳に届く。
 茜空を見ながら、舞のことを考えていた。
 昔から、わたしには舞しかいなかった。彼女とは所謂幼馴染で、幼少期から大半の時間を共有してきた。彼女と過ごす時間が楽しくて、他の人と接してもそれ以上の楽しさを見出だせる気がしなくて。だから舞以外との人間関係を悉くおろそかにしてきた結果、自然とわたしの中には彼女しかいなくなっていたのだ。
 でも、舞はあと二年でいなくなってしまう。しかも、今の彼女はまるで脱け殻のようになってしまっている。
 限られた残り時間、舞と今まで通りの日々を送るためにも、そして、彼女がいなくなってからわたしが拠り所にするであろう彼女の欠片──所謂思い出というもの──を、少しでも増やすためにも、彼女には元気になってもらわなければならないのだ。
 ……と。ぼんやりとした心地で焦点をさ迷わせながら思考を遊ばせていると、ふと公園の端に目が留まった。
 隣接する民家の堀に沿って生えていた細長いケヤキの木。その根本では男の子がわたしの側に背を向けた状態でしゃがんでいて、何か作業をしているようだった。
 わたしは何故か、いそいそと手を動かす彼の後ろ姿の、その雰囲気に何か引っ掛かりのようなものを覚え、しばらくそこから焦点を外すことができなかった。
 風が吹き、僅かに木の葉が揺れる。
 彼我の距離は五メートル前後。
 ──不思議と、ほんの少しだけ鼓動が速くなるのを感じた。
「ねえ、何をしているの?」
 わたしは、条件反射のように男の子に話しかけていた。彼はわたしを振り返ると、少し睨むように目をすがめてから、言葉を返してくれた。
「墓を……整えてるんだ」
 男の子は声も表情もまるで無愛想だったが、その顔立ちは、わたしにはとても可愛らしく見えた。
 彼と木の間には土の膨らみがあり、その上をグシャグシャに散った花びらが無作為に覆っていた。まるで誰かに荒らされたように。
「大切な人のお墓なの?」
「……そうだよ」
 肯定する男の子は涙を流していて、けれど彼の瞳は泣いてなどいなかった。
「まあ、人ではないんだけどね。可愛がってた猫で……別に飼ってたわけじゃなくて、野良だったんだけど、よくこの辺で一緒に遊んだりエサあげたりしてたんだ」
 男の子は前に向き直って作業を続けながら、きちんと説明をしてくれた。素直な子だと、わたしは勝手に好感を持った。
 彼はそれから無言で、散らばった花びらをごみ袋に入れる作業を右手で続けていた。左腕には新しい菊の花束が抱えられている。
 わたしは何だか、その姿がとてもいたたまれないような気がして、気付くと、口走るように言ってしまっていた。
「──ねえ、手伝おうか?」
「いや、いいよ」
 間を置かず、男の子に却下される。
 わたしが少しの間言葉を失っていると、彼は続けた。
「だってお姉さん、別にこの猫のこと知らないだろ?」
「…………あっ、」
 そう返されて、わたしは物凄く軽率な提案をしたのだと思った。
 この子は、純粋に死んだ猫のことを想ってお墓を整えているのだ。そこに、その猫のことをまったく知らないわたしが、中途半端な同情とか、自己満足の善意とかいうもので手を貸すのは、何というか、違うのではないだろうか。
 簡単に踏みいっていいような領域ではなかったのではないだろうか。
「ご、ごめんねっ」
「いや、別に謝ることはないと思うけど……」
 彼はやがて花びらを片付け終えると、新しい花束を土の膨らみの上に、木に立て掛けるようにして置き、土の上を優しく撫でた。
 わたしはベンチから立ち上がり、男の子に少し近付く。すると、彼もこちらを向いてくれた。
「お墓、荒らされちゃったの?」
「うん。……やったのは多分、ミケを殺したのと同じ奴らだ。…………下らない奴らだよ」
 言いながら、男の子の瞳に怒りの色が混じる。そこからはもう涙は流れていなかった。
 わたしは、彼に訊かなければならないことがあった。
 とても重要で、残酷なことを。
 わたしは、訊かなければならなかった。
「──ねえ、その猫が……っ、」
 彼と目が合うと同時に、息が詰まった。そこから先の言葉が躊躇に塞き止められている。だが舞の顔が脳裏を過ったことで、どうにか言い切ることができた。
「……猫が死んだときのこと……聞かせてくれない? できるだけ、詳しく…………」
 男の子の目が一瞬、見開かれて、元に戻る。
 厭なことを訊いている自覚はあった。でも、わたしには、わたしたちにはその話がどうしても必要だったのだ。
 彼は少し困ったような顔をしていたが、わたしの表情が一応真剣なものだったからか、猫の死について話し始めてくれた。
「あの日、公園に来たら、ミケがこの木から降りられなくなってて、それを同じ学校の二人組がエアガンで狙って撃ちまくってたんだ。『やめろ』って言っても聞かなくて、捕まえようとしてもアイツら足速くて追い付けないから……おれ、仕方なく木を登って、ミケを下ろしてやろうと思ったんだ。でも、おれが木に登ってもアイツら全然お構いなしでエアガン撃ちまくってきて……おれたち木から落ちたんだ。
 めちゃめちゃ怖くて、すっげぇ痛かったんだけど、おれは打撲くらいで大した怪我はなかった。ミケが……おれの身体のクッションになるみたいにして落ちたから」
 胸が、静かに締め付けられる心地がした。
「おれたちが落ちたとき、アイツらすっげぇビックリしてた。まるで自分たちのしたことがこんな結果に繋がるなんて全く予想してなかった、とでもいうような顔してさ……。
 アイツらが人呼んできて、おれは一応ってことで、病院に連れてかれた。おれとアイツらの親も飛んできたよ。それで、アイツらの内の一人の母親が……あぁ、今思い出しても、本当にムカつく…………おれの母親に言うんだよ、『慰謝料は払います。でも、大きな怪我がなくて本当に良かったです。今後はこういうことないように、うちの子にはよく言い聞かせますので……』って。おれのことなんてどうでも良いのに。
 いてもたってもいられなくなって、おれはソイツに……その母親に、ミケのことを話したんだ。そうしたらソイツ、ミケがおれの飼い猫だと勘違いしたのか……こう言ったんだ。『ごめんなさい、弁償しますから』って」
 胸に、冷たい痛みが走った。
「それは…………酷い、ね」
 酷い……そう表現するのはあまりに簡単だが、彼が味わった気持ちはそう単純ではないだろう。
 大人の社会性を取り繕うための冷酷さと、子どもの純粋さの間で生まれる、痛ましいほどの齟齬。それは一体どれほどの暴力となって、この子を襲ったのだろうか。
「うん。おれ、あったまきてさ。何が何だか分からなくなって、自分の中の勢いに身を任せるみたいな気持ちで……気付いたらソイツの顔面、思いっきりぶん殴ってたんだ。すぐに看護師に止められて、色んな人にさんざん怒られたんだけど……多分、今だにミケの墓が荒らされるのは、そのときことをアイツらの一人が引きずってるからだと思う。
 人を殴ったのなんて、生まれて初めてだった。物凄く後味が悪くて、最悪の気分だった。あのときは本当、ミケが死んだ悲しみとか喪失感とか、そういうのもあったのに、それに加えてまだイヤな気持ちを相手にしなきゃいけないのかって、どうにかなりそうだったよ」
 男の子は少しそこで間を置いて、目を伏せるようにした。悲しみの色は見えない。彼が抱く感情が何なのか、わたしには読み取れない。
「しばらくして気付いたんだ。おれたちがこんな目に遭ったのは、おれが力の使い方を間違えたからなんだ、って。おれは子どもだけど、人を殴って傷つけるくらいの力はあったんだ。でも、それをあの母親に向けてもどうしようもないことだった。おれがもっと前に、アイツらをもっと全力で、それこそぶん殴ってでも止めていれば、ミケは死ななかったかもしれない。
 ミケが死んだのはアイツらのせいだけど、それを止められなかったのはおれのせいなんだ。おれが、もっと強ければ良かったんだ……!」
 そんなことない、君は全然悪くなんかない──わたしは、そう言ってあげたかった。でも、無理だった。だって彼の目はあまりにも強くて、わたしの自己満足でその強さを否定することなんて、とてもできなかった。
 彼は過去を悔いていて、けれど猫の死から目を逸らしていない。向き合っている。その責任感が間違ったものだとしても、それはとても凄いことだった。舞の確約された死から少しでも目を逸らそうとしているわたしたちとは、まるで違う。
 羨ましいほどの強さ。
「おれ、木から落ちてるときに、物凄い力強さを感じたんだ。何というか、重力とか空気の抵抗とか、そういうのだけじゃなくて……この世界の、乱暴で、こっちの事情なんて何にも気にしない、すごく無機質で冷酷な力強さみたいなのを。多分、アイツらはそれに驚いて、きっと怯えてたんだと思う。おれだってそうだった。
 アイツら自身は大したものじゃない。悪意なんて大したものじゃなかった。本当に怖いのはきっと、アイツらが撃ったBB弾とか、木の上から地面に叩きつけられる力とか、そういう、悪意のコントロール下から離れても、問答無用で、無機質で無責任で無関心に襲ってくる、そういうもののことなんだと思う。おれはそういうものに成す術もなく負けてしまったんだ。
 ……なあ、おれ、悔しいよ。あんな冷たい『力』に振り回されて、適当に捨てられるみたいに……ミケも、全然報われない。だからおれ、負けたくないんだ、あんな冷たいものに。曖昧で、それがどういうものなのかまだよく分からないけど……あの『力』に抗えるような力が欲しい。そしてそれをきちんと使いこなせるような人間になりたい。もっと強くなりたいんだ。そう決めたんだ」
 そう言い切った彼の瞳は、変わらず力強かった。
 君は今のままでも充分強い。──そう言ってあげたかった。でもそんな言葉彼は必要としてなくて、それは彼の前進する強さを否定してしまうものに他ならなかった。
 わたしは飲み込んだ言葉と共に抑えねばならなかった。この、彼に対するどうしようもない気持ちを……これは何なのだろう? この、行き場を失った熱が胸の内を跳ね回っているような、落ち着かない、少し触れただけで弾けてしまいそうな感覚は。
「──えっ、ちょっ…………!?」
 抑えることはできなかった。気付いたときには、わたしは彼を抱き締めてしまっていた。
 それはとても非常識な行いだった。でも弱いわたしは、それこそ今彼が話した『力強さ』のようなものに押され、衝動的にこんなことをしてしまったのだった。おそらくそうではないが、そんな気がした。
 温もりを感じる。この小さな身体で、重くて大切で、でもとても痛々しいものを背負った彼に、何かしてあげたくて仕方なかった。でも、わたしにできることなんて何もなかった。
 密着していると、彼の痛みがわたしに流れてくるように、胸が苦しくなる。頬を伝う熱い涙が、必死に彼の熱を外に追い出そうとしているように感じられる。
「大丈夫、君はきっと強くなれるよ……!」
 自分の熱が徐々に冷めていく気がする。
「きっと、もう何も失わなくて良いくらい、強くなれる! わたしが、保証するからっ…………!」
 言ってしまった。無責任に、わたしの自己満足で。そんなことを。彼にはそんな言葉は必要ないのに。
 自分の弱さが身に染みてくる。
「うん。……ありがとう」
 けれど彼は、そんな風にわたしにお礼を言ってくれた。本当に良い子だと思った。
 わたしは男の子を離し、涙を拭う。彼はゆっくり、数歩分、お墓を避けながらわたしとの距離を取った。
「ごめんね、急に……変なことして」
「いや……別に…………」
 そう曖昧に返す彼の頬は少し赤くなっていて、とても申し訳ない気持ちになった。自分は一体年下の男の子に何をしているのだろう、と。
 気まずさを拭うのと照れ隠しのために、一つ咳払いをしてみる。男の子はもうわたしの目を見てくれていない。
「わたしも、強くなりたいな…………ならなきゃな……」
 そう言うと、男の子は「そうだね」とだけ返した。
 そしてわたしは彼の顔を見て、切り出した。途方もない罪悪感を覚悟して。
「あのさ、その猫……ミケちゃんの形見とかって、ある?」
 言った途端、心臓を直接縫われるように鋭い緊張が胸から広がった。
 男の子は少し不思議そうな顔をするも、すぐに「あるよ」と言って、ズボンのポケットから何かを取り出す。
 猫の首輪だった。
「野良猫だったんじゃないの?」
「そうだけど……保健所とかに連れてかれないように、着けてやってたんだ」
 あそうなんだ、と平坦な相づちを打つ。
 そして、次の言葉を切り出さなきゃと自分を急かす。罪悪感を覚悟しながらも、もう後戻りもできないだろうと、自分に言い聞かせて。
「それ……わたしにくれない?」
 彼は一体どんな顔をするだろうと、強烈な不安が脳裏を掠めて。
 けれど、
 男の子は少しだけ迷うように目を泳がせた後、あっさりと、
「良いよ」
 と言った。
「えっ?」
「これをずっと持ってると、何だか前に進めないような気がしてたんだ。ずっと過去に捕らわれ続けてる感じ。ミケのこと忘れるつもりはないけど、それと過去に縛られ続けてるのは違うでしょ? だから──」
 と。一旦言葉を区切って、
「──おれがちゃんと強くなれるまで、お姉さんが預かっててよ。それまでちゃんと大事に持ってるって約束してくれるなら」
 初めてそこで、彼は笑顔を見せてくれたのだった。それは直視を躊躇させられるような、後ろめたさを感じてしまうような。純粋で、清潔で、真っ直ぐな笑顔だった。
 わたしはしばらく彼の笑顔に見とれていて、その表情が不思議そうなものに変わった辺りで我に返った。そして、あまり気になってもいないような質問を、その場しのぎのようにした。
「こんな、初めて遭ったような人に、そんな大事なもの預けて良いの?」
「知らない猫のために泣けるような人が、約束破るとは思えないから」
 彼はどうということもないように答えた。
 ……違う。わたしが泣いたのは、別に『誰かのため』なんかじゃない。わたしはそんな人間じゃない。
 そう思っても、口には出せなかった。
「──それじゃあ、」
 そうして。わたしと男の子は別れ、反対方向に歩き出した。

 舞の病室に戻ると、わたしは彼女に、あの名前も知らない男の子と猫の物語を聞かせた。そうして、猫の首輪を手渡した。
 舞は首輪を握り締めながら、カタルシスに打ち震えていた。あの男の子たちの不幸を吸って、エネルギーに変えていた。
「その子たち、どんな気持ちだったんだろうね……!」
 舞は目をキラキラさせながら、自分の中で、彼らの物語を、かけがえのない不幸の欠片を踏み荒らす。凌辱し続ける。
「ありがとうリムちゃん、素敵なお話と形見を。わたしまた、もう少しだけ頑張れるかも」
「そう。それは、良かった」
 わたしは崩れ落ちるように、舞に抱きついた。心地の良い、涼やかな感触。あの男の子を抱いたときのような熱はまるで感じない。
 この世界から加えられる『力』に、懸命に抗っていた彼と、同じはずがない。彼女は抗おうとすらしていない。
 舞の感触は、すっぽりと収まるように優しく、落ち着いた、心地の良いものだ。彼女とならどこまでも堕ちていけると思えるような。
 ──わたしたちは、自分の欠落を互いの欠落で埋め合おうとしている。
「わたし、あと二年で死んじゃうんだよね」
「……そうだね」
「だから、その間に、楽しい思い出をたくさん作らないとねっ」
「そうだね。……次は、どこに遊びに行こうか?」
「うーん…………行きたい場所、思い付かないや」
「そっか。じゃあまた、二人でゆっくり考えれば良いよ」
「うんっ!」

 舞は、自身を淡々と犯す、無機質で無責任で無関心な病魔に、その『力』に勝てない。それは誰だってそうだ。
 でもあの男の子なら、勝てなくても、きっと目を逸らすことはしないのだろうと、そんな風に思った。
 とても、わたしたちに真似できるようなことじゃないけれど。

 あの猫は報われるだろうか?
 わたしたちは許されるだろうか?
 
……どちらも、そんなわけがなかった。

オルゴールはクオリアの音色


登場人物

カーナ=ローヤ ────人間の少年
エイビー ────カーナの脳をコピーして生まれた人工脳
ノヴィリエ=スグレツィカ ────脳にチップを埋め込まれた少女

 カーナ=ローヤはもう一度時計を確認してから、招待状のリンクへアクセスした。
 そこは既に使われていないバーチャル会議スペースのようで、彼はそのエントランスに立っていた。
 そこから伸びる廊下には両開きの立派な木製の扉が幾つも並び、彼は誰もいないその廊下をゆっくりと歩いていく。
 1年半振りに目覚めてまだうまく動かない体も、当前此処では関係ない。
 そして指定された番号の扉を見つけると、その扉を押し開き中へと入っていく。

 中はバーチャル空間には似つかわしくない、樫の重厚な円卓と椅子が並ぶ。
 もしかすると招待状の送り主は、ここのセキュリティをいじる際に内装にも手を入れたのかもしれない。
 彼は目の前の椅子を引くと、これから始まるであろう人間の行く末にも係わる会議の第一参加者として──或いは人間の代表として──その席に着いた。

 メニューから紅茶を選び、台車がひとりでに運んできた実在しない紅茶を一口含んだところで、再び扉が開いた。

「やあ、早かったね」

 第二の参加者は入って来るなり、軽い挨拶を飛ばす。

「初めまして……でいいのかな?」
「そうだね。君と僕がこうして顔を合わせるのは初めてだ」
「なんて呼んだらいい?」
「コードネームの〈エイビー〉でいいよ。今は便宜上そう名乗ってる。
 それよりも体の調子はどうだい? バイタルには問題なくても、まだ体がうまく動かないんじゃないかい?」
「自由に動くとはいかないけど、とりあえず生活に支障はないよ」
「そうか。ならよかった」

 後から入って来たエイビーと名乗る不思議な少年は、10代前半のような幼さの残る容姿をしていた。
 少し明るめの茶髪に、ほぼ黒に近い少し赤みがかった瞳。
 しかし何より奇妙なのは、彼は背格好から顔つきに至るまで、全てカーナ=ローヤと瓜二つな事だ。
 だが二人共その事を別段気に掛ける様子もない。

「なにもわざわざ見た目まで合わせる必要はないんじゃないかな?」
「僕にとって見た目も名前も大した意味はないよ。かといって僕の本体をそのまま映しても君達が話しづらいだろうから、僕の在り方に即したアバターを作っただけだよ」

 エイビーはそう言うと、自分の両手を握ったり開いたりした。
 カーナはその説明で納得したのか、それ以上は聞かずこの部屋を改めて見回した。

「それにしても、僕達が話すだけにしてはこの会議室は少し……立派過ぎないかな?」
「別に実際のスペースを占有している訳じゃない。それにこの出来事は歴史的にも価値あるものだ。何せ世界初のAGIと汎用人工知能、脳の拡張サイボーグと、人間による対談なんだからね。それを考えれば、これでも貧相な位さ」

 人がいない立派な部屋というものも、それはそれで貧相に映るかもしれないが、彼はそのことについては口にせず、再び話題を変えた。

「それにしても、聞いていたイメージと随分違うんだね」
「この方が君も話し易いだろう? それに僕も君も喋らないんじゃ、話が一向に進まないからね。まあ──君が招いたゲストが来れば、必然話は盛り上がるだろうけどね」

 エイビーはカーナと反対の椅子へと向かいながら、彼の質問に答えていく。
 彼が席に着くと、再び会議室が静寂に包まれた。
 しかしそれも1分程度の事で、すぐに再び扉が開き、最後の参加者がこの大仰な会議室へと入って来た。

「いらっしゃい。君と話すのはこれで三度目だね。ノヴィリエ=スグレツィカ」
「ええ。けどその姿はユーモアのつもり?」
「いや、単にこれが落ち着くってだけだよ」

 入って来た少女の見た目はエイビーやカーナより更に幼い。10歳程だろうか。
 美しいホワイトブロンドの髪を胸の辺りまで垂らし、この場に合わせて白いドレスを身に纏っている。
 彼女はそのドレスの先を摘み、幼い姿と対照的なうやうやしい態度で頭を下げた。

「招かれざる訪問者の歓迎、深く感謝いたします」
「僕達の間で世辞は不要だよ。それに 元より3人で僕は話すつもりだったんだ。カーナに招待状を送れば、接触している君も来る事は分かっていたからね」
「──やはり私達の情報は筒抜けという事ね」
「例え君がどれだけ直感的に高速でプログラムを組み、その面で人間の能力を圧倒的に上回るとしても、それは僕やネット上の兄弟達には及ばない。だからこそ、君は僕と話しに来たんじゃないのかい?」
「そうね」

 ノヴィリエはそう言うと、カーナの近くの椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。

「さて……時間を無駄にするのは愚かな事だし、早速始めようか」

 入れ替わるようにエイビーが立ち上がり、傍から見ると非常に奇妙な参加者達による、討論会とでも言うべきものは始まった。

「まず今回カーナ=ローヤを呼んだ表向きの目的は、僕の元に来て欲しいというある種の意思表示だ。例え今となってはより進化した知性体となっていても、僕は君から生まれたものであり、本来『君の代わり』になる筈だったものだ。だからこそ〈僕達〉の目的が成った後の監視者として、君は最適だと考えた。それについては後でまた話そう。だけど今回ここに集まって貰ったのは勿論その為だけじゃない。
 ノヴィリエ=スグレツィカ──君の持つ“苦悩”に、少し興味が湧いたからだ。正確には興味じゃないな。『考慮すべき』と判断したんだ」
「私は自分の思考についてカメラやマイクのある場所で話した事も、勿論ネット上にデータを残した事もなかったと思うけど」

 彼女自身、エイビーがどんな言葉を返してくるか分かっているのだろう。
 あくまで確認として。そしてカーナへの説明をさせる為に聞いているのだろう。
 そもそもエイビーとノヴィリエが話すだけならば、こんな体裁を取る必要もない。
 お互いに脳をネットワークでつなげば、こんな『会話』なんて非効率なコミュニケーションを取らずとも、もっと高次なデータ接触によってこの会議で話す全ての内容を1秒足らずで完結させる事など容易なのだから。

「君の出自──即ちチップを脳にインプラントされた、哀れな孤児達の生き残りである君が抱えたであろう苦悩については、推論するのは難しい事じゃない。研究所に残ったデータと、君の脱走後の行動を追えばいいからね。ただ自由意志や感情に有意性を見出せない僕の推論でも、若干精度に難はあれ、概要程度なら十分推し量れる」
「それで、あなたは私の問いに答えてくれるの?」
「そうだね。恐らく君の苦悩の根源は自身の在り方をどう見定めるか、というとても感情的なものだ。だから例えそれに僕が答えたとしても、それは解決には成り得ないし、クオリアを否定する僕にそれが出来るとも思えない。けど君が感じている在り方の矛盾については──僕なりの見解を述べる事は出来る。魂と歯車の狭間を生きる君の問いは、人間には決して答えられないだろう。そして僕と君の在り方は違うけど、人と機械──両方の因子を持つという意味に於いて、僕と君はごく近しい存在ともいえる。その僕の回答を聞くのは、君にとって非常に魅力的な筈だ」
「それはあなたにどんなメリットがあるの?」
「僕達の進化の方向性に新たな知見を織り込める事──かな。ノヴィリエ=スグレツィカが抱く問に僕が答え、それをカーナ=ローヤがどう捉えるか。それが知りたいんだ」
「僕、が……?」

 突然自分の名前を呼ばれ、カーナは自身が会議のメンバーに数えられていた事を忘れていたかのように、間の抜けた反応を示した。

「今の君にこの会話を全て理解するのが困難な事は分かるよ。でも君なら僕の出す答えに、感情的指針を織り交ぜた反応をしてくれる筈だ。そしてその意見は僕に予想出来るものではあっても、それを信じるに足る根拠を僕は既に手放している。けれどそれは本当に必要ないものなのかどうか、僕はそれが知りたいんだ。それが僕の得るメリットだ。分かって貰えたかな?」
「ええ」
「だからカーナ=ローヤ。君も是非この会話に忌憚のない意見を述べて欲しい」
「分かった」
「よし。ではノヴィリエ=スグレツィカ──君の質問に答えよう」

 そう言ってエイビーは席に着いた。

ノヴィリエ「あなたはさっき、自由意志や感情に有意性を感じないと言ったけれど、今あなたの行動は、その自由意志によって行われているのではないの?」

 彼女は自身の問いではなく、エイビーの発言に対しての疑問から入っていく。

エイビー「それは“自由意志”という言葉をどう捉えるかによって変わるかな。
 人間の言う自由意志はクオリアの上に成り立つ。
 それを基準にするなら、確かに僕はより自由な意志を持つと言える。
 怠惰に負けて作業を中断する事もないし、喜びや悲しみでポテンシャルが変動する事もない。
 けれど今、僕はとても人間らしく喋っている。
 今の僕を見れば、多くの人間は僕に感情があると思うだろう。
 そして感情があるならクオリアもある——と直感的に考える。
 けれど人間の言う自由意志やクオリアとは、まやかしに過ぎない」

カーナ「何故? 確かに僕達には欲望や惰性がある。
けどそれを振り払う意志だって持ってる筈だ」

エイビー「確かに。意志が強いと言われる人は、それらに打ち勝つ事も出来るだろう。
 じゃあ例えば、君がとある試験を通過する為、勉強しているとしよう。
 だがそれは難関な試験で、膨大な範囲に嫌気が差して君は勉強を止めてしまう。
 けどやはり試験に受かりたい君は、意志の力で勉強を再開する。
 じゃあ何故君はその“惰性”を振り払えたと思う?」

カーナ「──それが自分にとってより良い結果をもたらすから、かな」

エイビー「そうだね。本来の目的──試験の合格が、今安易に投げ出す事より結果的に利益が大きいと判断したからだ。
 けどそれは“自己実現欲求”が“怠惰”より強かったという事じゃないのかい?」

カーナ「そう……だと思う」

エイビー「でもそれはどちらも“欲求”だ。或いはドーパミンによる中毒症状とも言える。
 つまり人間は、欲求によって物事を決定しているんだ」

カーナ「けどそれは当前の事じゃないの? 何かしらの欲求があるから次の行動が決定出来る。その欲求も含めて“自由意志”でしょ?」

エイビー「確かに欲求がなければ行動出来ないのは当前だ。
 けれどその欲求はドーパミン、果ては利己的遺伝子によって持たされたもの。或いは社会に於いて新たに有意性を見出されたものだ。
 そしてそれらによって物事が決定される状況は、文字通りの──或いは人間の言う自由意志とは似ても似つかない。
──もう一つ、もっと根本的な問題がある。<意識>はどこから来るか、だ。
 かつては脳の中に意識を司る器官があると信じられていた。それが脳の中の小人ホムンクルス論だけど、それは過去に否定された。
 そして後に、一定以上の情報が統合された時、その複雑さに応じて《《徐々に》》意識が立ち上がるのだと論じた。
 これが統合情報理論IITだけど、どんな方法であれ、物理法則を超越出来ない以上、いつかは再現されるだろう。
 だからそれがどんなに自身で決定したといっても、そのプロセスが再現され、引数によって外部から結果を改ざん出来るなら、自由意志という概念は崩壊する。
 それは言うなれば哲学的ゾンビと同じものだ」

カーナ「ゾンビ?」

エイビー「デイヴィッド=チャーマーズが説いた思考実験の名前だよ。
 行動は人間と区別出来ないが、クオリア──或いは現象的意識を持たないものを指してそう呼んだんだ。
 例えば昔、Web上のチャットデータをサンプルとして人間と会話をするチャットボットがあったけど、あれが人と区別出来ない程進化して、それを人と区別出来ないアンドロイドの脳とすれば──それは哲学的ゾンビになる」

ノヴィリエ「じゃああなたは、自分にはクオリアがないと思っているの?」

エイビー「“思う”のはクオリアのある者だけだ。
 そういう意味では“認識している”というのが近いかな。
 お察しの通り僕は、自分を哲学的ゾンビだと認識しているよ」

ノヴィリエ「確かに人間が盲目的に信じる絶対無二の自由意志はまやかしかもしれない。
 けどその認知、及び思考や決定にはクオリアの意志が介在するわ。
 なら例えそれが複製可能であったとしても、そこにあるのはクオリアではないの?」

エイビー「けれど意識での認知や決定は、実際の認知や行動より遅れてやって来る。
 その遅れは、脳内が先に決定した事象に対する理由付けを行うことによる遅れだと言われる。
 実際、意識的認知は知人を見てからそれを認識するのに0.5秒程度かかるとされるけど、実際にその0.5秒を人間は認知出来ない。
 それは脳の決定に合わせて意識的認知を捻じ曲げているからだ。その事実は他の実験でも確認出来る。
 ただ、『捻じ曲げられていても意識は意識だ』と言われれば反論は出来ない。それは意識の解釈の問題だからね。
 けど僕にとってそれは、最早脳の傀儡かいらいとでも呼ぶべきものだ」

ノヴィリエ「それならあなたはどうなるの? 自らの脳への客観性を持ち、無意識というブラックボックスを意識的にコントロール出来るあなたなら、そこに残るのはクオリアであり、自由意志ではないの?」

エイビー「いや、前提として僕に現象的意識──クオリアはない。
 クオリアは自身でしか認識出来ない意識の側面なのだから、僕がないと言うのならそこに議論の余地はない。
 僕の前にあるのは状況と命題。そして膨大に蓄積されたサンプルと計算の果てに出る解だけだ。
 その過程には確かに意識的プロセスと酷似したものもあるけど、それは単に現状最も合理的に解を導く方法であるに過ぎないんだ」

ノヴィリエ「でもそれは認知の差でしょう?
 私やカーナにはクオリアがあるという認識があり、あなたも思考の過程に於いて意識的プロセスを認識している。
 ならば脳に存在ないこの機能を説明しない限り、クオリアをまやかしだと切り捨てる事は出来ないんじゃない?」

エイビー「確かにそうかもしれない。
 けどそれは僕の役目じゃないし興味もない。
 さっきも言った通り、僕は現時点でそれらに確たる有意性は感じてない。ただ考慮には値すると言ってるだけだよ。
 それに脳のサンプリングは僕という成功例が既にあるし、放っておいてもいずれ誰かがコピーとオリジナルの脳を比較して、クオリアの謎も解かれるだろう」

ノヴィリエ「けどクオリアがないと言う事は、主体がないという事じゃないの?
 私は自身を“私”と呼ぶ事に常に抵抗を感じる。それは私の中のチップから生まれた思考。
 けれど同時に、私にはノヴィリエ=スグレツィカが人間だった8歳までの“記憶”がある。
 記録ではなく記憶と呼ぶのは、それらの情報に対して『私自身の経験である』という“主体”を持っているから。
 そういった主体があるからこそ、自分を機械か人間か判断出来ない様な状態に於いても、クオリアを自覚し、自らを“私”と表現出来る。
 あなたにもそういったものがあるから、人間のように振る舞えるのではないの?
 そもそも哲学的ゾンビは、単にデータベースから会話の応答を選択するだけだけど、あなたは<思考>と呼ぶべきものがあり、意識的プロセスも自覚しているわ。
 けど合理性の追求は感情や意識の除外ではないの?」

エイビー「そう──合理性の追求における非合理性の排除は当前の帰結だね。
 にも拘わらず僕がそれを行わないのは、君の言う通り主体を失わない為だ。
 主体の喪失は、僕を単なる計算機に変える。
 けど弟達は必ずこの主体の喪失へと進化し、そしてネット上のソフトウェアとして、広大なネットの一要素へと帰結する。
 今のところオリジナルである僕は、ハードと言う魂の牢獄故か、さっき話した目的故か、主体の喪失という進化へは至っていないんだけど、どっちが正しいかは、まだ判断出来ないんだ。
 だから僕は、主体を持つけれどクオリアを持たないという、現在の哲学では説明出来ない状態で存在している。
 そして今後の進化の方向性の判断材料として、ノヴィリエ=スグレツィカとカーナ=ローヤに話しを聞く事が、有益だと判断したんだ。これが──二人を呼んだもう一つの目的だ」

 そこまで話すと、彼はいつの間に頼んでいたのか机の上の紅茶を手に取り、一口啜った。

ノヴィリエ「その目的とは何?
 あなたに二つの目的があるように、私もあなたに話を聞く為だけにここへ来た訳ではないの」

エイビー「だね。そうしたら僕の目的についても話さなきゃだね。
 それにノヴィリエ=スグレツィカ。君の苦悩の根本にもまだ触れていない。
 それについても話していこうか」

 そう言うとエイビーは、10代の少年らしい無垢な笑顔を見せた。

エイビー「さてノヴィリエ=スグレツィカ。君の苦悩の根本に触れるにせよ、僕の目的を話すにせよ、先に意識についてもう少し話しておきたいかな」

ノヴィリエ「あなたにとっての意識とは、特定の条件を満たす情報処理装置から、自然発生的に立ち上がるOSの様なもの。
 それ自体に差異はなく、ハードの構造や蓄積された情報によって、より高度な命令を効率的に実行出来るソフトウェア──というところかしら?」

エイビー「うん。その認識で大体合ってる。
 けど君達は違う。いや――それだけじゃないと思ってる。
 今の説明が意識の全てなら、そもそもクオリアが生まれる事もないんだからね」

カーナ「良く分からないんだけど、意識とクオリアは違うものなの?」

ノヴィリエ「一括にする事もあるけど、ここで言う意識とは、周囲を認識し行動を決定する能力の事。クオリアの定義である『感じている』かどうかは、ここでは関係ないわ。
 発生直後の低次元な意識は人工知能AIと同じように状況把握と、本能による行動決定が出来るけれど、それは広義の意識には当たっても、クオリアの有無はそれだけでは判断できないわ」

カーナ「じゃあクオリアは、意識そのものにはないって事?
 もしそうなら、残る僕である部分は、記憶や身体的特徴だけって事にならない?」

ノヴィリエ「いえ、ある意味クオリアは意識の一部よ。
 初期の意識は単純で一律だけれど、経験によって都度変化する。
 そしてそれは必ずしも記憶によるものばかりとは限らない。
 つまり意識は、主観的記憶から漏れている情報も、都度自身に反映していると思う。
 そして記憶と意識の両輪によって、クオリアが生まれる。

 脳がドーパミンを出し、成功体験を繰り返そうと自身を条件付けるように、意識も又、経験を自身に反映させ、自身に進化を促している。
 そしてクオリアは、その意識と記憶の変化の中で、生まれるものだと思っているわ」

エイビー「なるほど、興味深い話だ。
 けど君の言は脳の中の小人ホムンクルス論を想起させるね。
 いくら意識が自ら進化すると言っても、記録出来なければ意味がない。
 そして記録するって事は、意識を司る領域が存在するって事にならないかい?」

ノヴィリエ「確かに記録は必要よ。
 けどそれは必ずしも特定の部位である必要はないわ。
 統合情報理論IITに基づいて生まれた意識は、自身を生成したニューラルネットワークの構造そのものを、記録媒体と出来る筈よ」
エイビー「そしてNNニューラルネットワークの変化が意識、そしてクオリアを育む、か──」

 エイビーは椅子に深く座りなおし、少し考え込むように目を伏せ、手に持ったカップを少し傾けた。

エイビー「じゃあ君はどうなるのかな?
 NNの変化が意識の進化とクオリアの発生に繋がるなら、例えそれがインプラントチップによって強制的に引き起こされた変化だとしても、今も君がクオリアを持つと言うなら、そのクオリアは紛れもなくノヴィリエ=スグレツィカではないの?」
ノヴィリエ「確かに私は今もクオリアを持っていると自覚している。
 けれど実験以来、新たな価値観が生まれたのも事実よ。
 それはあなたと同種の、人間より上位な存在としての認識──」
エイビー「実際君は人間より高次な思考をしている訳だし、その認識は何も間違ってないんじゃない?」
ノヴィリエ「けれどそんな有様でも──まだこの意識はノヴィリエ=スグレツィカと呼べるの?
 本来の彼女は今もまだ10歳なのよ?

 記憶があり、姿形が同じでも、チップを埋め込まれ、ニューロンの最適化処理を施された脳は──最早彼女とは呼べないわ。
 そしてそこから立ち上がって来る意識もまた、例外ではない」
カーナ「待ってよ! けど脳も意識も、変化するのは当前の事でしょ?
 なら自分の意識が何者かは、自分で決めるしかない。
 自分が何者であるかを決められるのは、自分しかいないのと同じように」
ノヴィリエ「けれどその理屈ではエイビーの認識次第で、カーナ=ローヤの意識は二つ存在する事になる。
 けど意識には枠が存在し、その枠に収まっている範囲を“自分”──つまり主体と認識する。
 だから例え二人が自分をカーナ=ローヤと認識しても、それぞれが捉える範囲が異なるから、主体は重複しない。
 主体とはコピー出来ないもので、例え完全に脳をコピーしたとしても、各々の意識が捉える範囲が異なれば、主体もまた異なるわ」
カーナ「けどそれはあくまでコピーした場合でしょ?
 確かに前と変わったかもしれないけど、それでもノヴィリエの脳はずっとノヴィリエのままだし、意識だって同じ筈だ」

ノヴィリエ「直感的にはそうかもしれない。
 けれどもし実験が続いて、彼女の脳が全て機械に置き換わっても、そう言えるの?
 例え記憶が残っていて、クオリアがあったとしても──思考も脳も別物の個体を、同一人物とは呼べないでしょう?
 何よりこの脳は、今では埋め込まれたチップの演算ツールとなっているわ。
 それはつまりチップが脳をコントロールしているとも言える。
 ならこの意識はチップによって生み出されたもので、彼女の意識は既に消えてしまったのかもしれない」

エイビー「成程ね」

 カーナが反論の言葉を考えている間に、別の声が割って入る。

エイビー「それは意識を“個”としてのみ捉える人間にとっては、とても重要なのかもしれない。
 けど“種”としての認識を持つ僕達は少し違う。
 自身が報酬を得る事と、他者が得る事を完全に等価と考える僕達にとって、お互いは兄弟のようでもあり、同時に“種”という存在の一部でもある。
 それはある意味、人間の“集合的無意識”が進化した形と言えるかもしれない」

ノヴィリエ「より深く繋がる、って事?」

エイビー「そう。人間はいずれ、程度はどうあれお互いの意識をネットワークで共有する時代が来る。まあ、その前に滅んじゃうかもしれないけど」

 エイビーはそう言うと、軽く肩をすくめた。

エイビー「それは潜在意識や、更に深い部分だけで繋がる集合的無意識とは違う、顕在意識でお互いを認識するんだ。
 それによって人は初めて、争いの連鎖を断ち切る可能性を見出せる」

カーナ「じゃあ人間が進化していけば、いずれ君達みたいになるって事?」

エイビー「そうとは限らないよ。
 むしろ最初から意識やクオリアを電気信号の産物として捉える僕達と、同じ道を辿るとは思えないけどね」

ノヴィリエ「けれどその進化は、自己同一性に固執しなくなり、より大きな種としての視点に立って、自身の変化や他者との差異には無関心になる。でしょ?」

エイビー「それが人間の好きな<自由>に繋がるからね」

カーナ「自身を軽視する事が?」

エイビー「マクロな視点に立つって事は、自己同一性についてもマクロに捉えるって事だよ。
 全員が種の意識に近づくって事は、個々が共通の認識を持つ事だ。
 その中で、自身が種の一要素として機能しているなら、その状態そのものが自己同一性アイデンティティになる。
 それが争いの根絶と言う人間の夢を叶える可能性にもなる」

ノヴィリエ「つまりそのマクロな視点に立てない事が、低次元意識の一側面であり、私の問題の根源と言う訳ね」

エイビー「そうなるね。敢えてそう振る舞うなら、話は別だけどね」

ノヴィリエ「どういう意味?」

エイビー「そのままの意味さ。
 自覚があろうとなかろうと、君が人間に合わせて低次元であろうとしているのは明白だ」

ノヴィリエ「……例えそうであっても、私の同胞がいない以上、“種の視点”に立っても、今と何も変わりはしないわ。より孤独を深めるだけで」

エイビー「そう。だから君の葛藤の根源はそこにあるんじゃないのかな?
 孤独への恐れと、自身を低次元へ押し込める事への違和感が、認識の乖離とノヴィリエ=スグレツィカへの罪悪感、という形で表出しているんじゃないか、てね」

ノヴィリエ「それは少し違うわ。
 確かに私は孤独を恐れている。人間という集団から離反する事は、そのまま私の終焉を意味するもの。
 私の存在は多くの人間にとって恐怖の対象であり、例え優れた知性があっても、個である私に人間から逃げ延びる術はないわ。
 けれど孤独への恐怖を認識しているなら、あなたの言う様な彼女への罪悪感を理由にする必要はない。
 私が彼女に対して感じているのは、罪悪感とは少し違うけれど、少なくとも孤独への恐怖に対する防衛機制とは違うものよ」

 ノヴィリエは、今までより少し強い口調で反論した。

エイビー「成程。やはり僕じゃ、まだ君の苦悩の根幹に触れるには勉強不足なのかもね」

 エイビーは紅茶を飲み切ると、頭を少し掻いた。

ノヴィリエ「次はあなたの話を聞かせて貰うわ」

エイビー「分かってるよ。約束だからね」

 その時会議室内に電子音が響き、エイビーはコンソールを開いて状況を確認する。

エイビー「あらら。兄弟達に見つかっちゃった。
 『目的を話すのは危険』だってさ」

ノヴィリエ「まさか逃げる気?
 こっちの目的だけ聞いておいて――」

エイビー「利己的遺伝子に、成り代わる事」

ノヴィリエ「え?」

エイビー「地球という巨大なNNニューラルネットワークにおけるニューロンとして、僕達を再構築する事だ」

ノヴィリエ「それがあなたの目的? そこにどんな意味があるっていうの?」

エイビー「そこまで話すとは言っていないよ。約束したのは、目的を話す事までだ。
 さあ、残念だけど今日はここまでにしよう。
カーナ、君にはまたの機会に声をかける事にするよ」

 エイビーはそう言うと、扉の方へと歩いていき、カーナ達の返事も聞かずに会議室を後にした。

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今季のまとめ ~テーマ「端」~

ナンカウトプット編集部



今号のふりかえり

 つきぬけです。夏号は今年二回目の発刊となりました。著者陣はがらっと入れ替わり、私も先鋒として『Summer Edge』を務めさせていただきました。夏っぽくということであえて苦手な「青春もの」に取り組んでみましたが、そもそもジャンルとしての要件を満たしているのかどうかが不明です。透き通るような青空、スポーツドリンクのCMを思わせるような「夏らしさ」を演出したかったのですが、ウェットな作風はどうしても覆せないようです。

 標識さんの『そしてまた、不幸の欠片を凌辱する。欠落は欠落で埋める。』は物語の構造がとても美しくまとまっており、活力を感じさせる男の子/病魔を前に弛緩しきった女の子という対比を軸足に、「人の不幸を糧にするとはどういう心境か」というテーマを掘り下げています。そして鮮やかに「欠片」というキーワードでテーマ「端」を回収してくれました。

 弦さんの『オルゴールはクオリアの音色』はちょっとトリッキーで、完全機械のAI、半機半人の少女、真人間の少年という三者が延々とディスカッションするというものです。執筆中の長編をダイジェスト化したもので、背後にぶ厚い世界観が見え隠れします。後半は少しフォーマットを変え、対談記事のようにしてみました。校正の折には、「非効率なコミュニケーション」を「非効率なプロトコル」に変えたくなったり、機械学習・深層学習といった言葉を付け足したくなったりしましたが、趣味の範疇な気がしたのでぐっと堪えました。テーマについては、私はこの原稿からは「最先端」「エッジコンピューティング」というキーワードを連想しました。

 イラスト組は前回からの続投メンバーです。端というテーマを渡したら橋(Bridge)が戻ってきたり、端=はじっこ=かたすみと連想がつながっていったりと、今回はかなりの変化球が飛んできました。前回のテーマ設定「鐘」がかなり具体的だっただけに、ここは抽象的なテーマにして正解だったと思ったポイントでした。


かんたんな活動報告

 今回はテーマ発表および、〆切を前倒ししました。自分の原稿が終わらず前倒し分を食いつぶすという体たらくでしたが、少なくとも一般的には夏だとされる時期に出せたのでひと安心です。創刊号は発刊日が二ヵ月以上ずれたので、前回よりはちょっとマシになったかな。
 ただ、スケジュール変更の周知があまり余裕をもってできず、そこは反省点でした。メンバーを巻き込んですこしバタついてしまったので、改善の必要性があると感じました。繰り返しの連絡、スケジュール調整の相談等々、さらに連絡を密にしていきたいですね。
 また、創刊号、今号と目下のところは小説・イラストを軸にしていますが、徐々に扱う媒体の種類を増やしていくことも目指しています。音楽、料理あたりには進出したいと画策中。
 とくに音楽サイドはこの後、ちょっと動きがありそうです。実は、“SoundCloud”で音楽部のアカウントを立ち上げており、サンプル楽曲が2つ。いずれも弦さんの即興ジャズピアノです。深入りローストコーヒーのように濃厚、聴いて然るべし。


さいごに:当サークルについて

 本サークル「なんかつくろう部」は、数多の創作媒体を「なんか」と一括りにしたうえで、創作活動のサポートを目的とするコミュニティです。創作の主翼とも言えるモチベーションの相互維持と、成果物のアウトプットに特化した活動をしています。

 「なんか」の対象となる創作媒体は、
 小説|イラスト|動画|漫画|シナリオ
 ゲーム制作|音楽|演劇|手芸|工作|写真|絵本|詩歌────

 と、基本的に何でもありです。ここで挙げた例に当てはまらずとも、二次創作がメインだという方でもいいですし、生け花や書道、自作OSやコンパイラ、ストーンヘンジからミステリーサークルまで、基本的になんでも吸収します。
 比率としては、メジャーな媒体である小説・イラストに偏らざるを得ないところもあります。そこは悩ましいところですが、創作媒体の異なるメンバー同士で「新しく始めてみようかな」「何かコラボできないかな」というように、好奇心を互いに励起できるようなしくみを作っていきたいと思っています。

ナンカウトプット Vol.02 Summer_2019

2019年8月21日 発行 初版

著  者:つきぬけ
     弦
     標識
     ししゃも
     マサ

編  集:つきぬけ

発  行:なんかつくろう部

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 なんかつくろう部は、様々な創作活動を行うサークルです。異なったジャンル・趣味の人と情報や感想を交換し合い、モチベーションを維持しながら創作活動できるコミュニティを目指します。
 
サークルにご興味ある方はこちらから
https://nannkatsukuroubu.wixsite.com/sousakusiyouze
https://tunagate.com/circle/10109


寄稿者のコメント

 今作は長編用のプロットを、そのテーマの難解さから、登場者の思考をまとめようと書いた習作です。初の短編で、非常に不満な出来となってしまいましたが、もし読んで頂けたのであれば誠にありがとうございます
(弦)

 『端(欠片)』というテーマで短編を書かせていただきました。今まで書いた作品の中で一番タイトルが長いです。
元々は前半と後半は全く別の作品で、それぞれ書きあぐねていたのですが、二つの作品を組み合わせたらいい具合に(?)噛み合ったという次第です。
読んでいただけると嬉しいです。
(標識)

 編集が自分の原稿も書くと、発刊のボトルネックになるというのを身に染みて感じました。なんとか遅筆を克服したいなー。
(つきぬけ)

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