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この本はタチヨミ版です。
プロローグ
コーヒー(珈琲)とは、コーヒーノキの実の種を炒って挽いたもの。または、それを湯もしくは水で抽出した飲みものである。
語源はアラビア語のカフワ。もしくはエチオピアにあった産地カッファからきている、ともいわれている。
コーヒーは世界でもっとも多くの国で飲まれている嗜好品である。そして石油に次いで貿易規模が大きく、経済の上でも重要な役割を担っている。
消費量が多い国のひとつ、アメリカ合衆国の朝のようすを見てみよう。
午前六時〇三分。カリフォルニア州サンタアナ。
カーテンの隙間から薄く射し込む陽光で目覚める白人主婦。となりには彼女の夫がまだ眠っていた。彼女は眠い目をこすりながらキッチンへ向かうと、淹れたてのコーヒーを飲んで頭を活性化させる。
午前八時三九分。ワシントン州シアトル。
オフィス街では多くのビジネスマンがせわしなく歩いていた。ひとりの中年男性は、新聞を片手にいつものコーヒースタンドへ入っていく。カウンターでコーヒーを受け取って、砂糖とミルクをたっぷり入れておいしそうに味わう。
午前九時二二分。ジョージア州アトランタ。
アフリカ系の市営バス運転手は、顔見知りの乗客と笑顔であいさつを交わす。彼のハンドル横のホルダーには、いつも大きなタンブラーに入ったコーヒーがある。
午前一〇時〇五分。イリノイ州スプリングフィールド。
プライベートスクールでは、アジア系の留学生たちが集まって、コーヒーを片手におそわったばかりの英語でお喋りを楽しんでいる。
午後一二時三六分。マサチューセッツ州ボストン。
ヒスパニック系の警官はパトロールを終えてオフィスにもどってくると、まずコーヒーをマグカップに注いで、ひと口飲んでホッとする。
午後四時四五分。アリゾナ州セドナ近郊。
壮大な赤い岩山を背景に疾走するアメリカンスタイルの大型バイク。ぽつんとたたずむ古びたダイナー前にバイクがやってきて停まる。ヘルメットをはずすと、頭髪や口髭にだいぶ白いものがまじった年配男性である。彼はダイナーへ入ってコーヒーを飲んで長旅の疲れを癒すのだった。
このようにコーヒーが愛されていることがわかる。
芳醇な香りがたつ美しく深い琥珀色。そこに真っ白なミルクが絡み合い、ほろにがさとミルクのコク、そして砂糖の甘さが絶妙なハーモニーを醸し出す。それを味わった瞬間、まるで魔法にかかったように人は至上のよろこびを感じるのである。
東京都江東区臨海副都心、東京港沿いにある青海南ふ頭公園。みどり豊かなこの公園には、一軒のカフェがある。なまえは「スターダスト・カフェ」。
扉を開けて店の中へ入ると、まずレジカウンター。そのとなりにはガラスのショーケースがある。中には焼菓子、デザート、サンドイッチ、パッケージフードが陳列されている。おすすめはホワイトチョコチップクッキーだ。
清潔に保たれたフローリングは落ち着いたブラウン。壁には、色彩豊かな近代美術の絵画がかけられている。ガラス張りからは東京港を一望できる。そこから射し込む陽光がとても心地いい。客席は全部で五〇席ほどあり、カウンター席、テーブル席、カウチ席がある。そして店内に漂うコーヒー豆の最高の香りと優雅なひとときを提供してくれる。
そんなスターダスト・カフェには、さまざまな人がおとずれる。中にはデートで利用するカップルも。はじめてのデートには、コーヒーを飲みながらお喋りを楽しむのがいい。
そのむかし、中東諸国ではコーヒーは秘薬とされていた。コーヒーに含まれるカフェインが脳を覚醒し、眠っていた本能が恋に目覚めるのだ。
スターダスト・カフェのコーヒーを飲めば、ステキな恋の出逢いがおとずれるかもしれない。
ブラックではほろにがく、砂糖とミルクを足せば、甘くてまろやかなコクが生まれる。コーヒーとは、まるで恋愛のようである。
シンジ(三五歳/オトコ/独身/無職)
青海南ふ頭公園では、やわらかい陽射しが草木を照らし出している。もうすぐ桜の花咲く季節がやってくる。とはいえ、まだ空気はひんやりと冷たい。
シンジは、大型バイクに乗ってスターダスト・カフェへやってくる。ヘルメットをはずすと、鼻水を垂らしていた。
「おー、寒い」
彼は身長一七〇センチぐらいで細身、目鼻立ちははっきりとして、レザージャケットにジーンズを身につけている。
レジカウンター前に男女のカップルがいた。鼻をすすりながら彼は、そのうしろにならぶ。
「お待ちのお客さま、こちらのレジへどうぞ」
もうひとつのカウンターから女性スタッフが声をかける。
「コーヒーがひとつ。それから、ホワイトチョコチップクッキーをひとつください」
「コーヒーは、ホットでよろしいですか?」
「はい」
東京港を見わたせる椅子に腰かけると、コーヒーをひと口飲む。
「ああ、からだが温まる」
ホッとする。クッキーを手で割って口の中に入れる。おもてはサクッとして、中はもちもちとしている。ホワイトチョコレートのまろやかな甘味とマカデミアナッツの食感がおいしい。すかさずコーヒーをひと口飲む。すると、コーヒーのにがみがクッキーの甘さと絶妙に絡み合って口の中に広がる。
先ほどのカップルがお喋りしながらうしろを通り過ぎてカウチに腰かける。シンジは振り向いて女性を見ると、目が合ってすぐに逸らす。
「オンナか……」
と心の中で呟く。
シンジはこの七年間、恋人がいない。三五歳にして、結婚どころかカノジョの「カ」の字も見えてこない。そうかといって、これまで何もしなかったわけではない。ふたりの女性に恋をしてはフラれていた。
顔はブサイクではないし、腹だって出ていない。もちろん人柄が悪いわけでもない。恋愛に対してはまじめに向き合ってきたつもりだ。
酒の席はつき合い程度だが、友人知人から女性を紹介されたこともある。しかし、どれもうまくいったためしがない。モテない理由は何だろうか。見た目なのか、性格なのか、それとも職業や収入なのか。
職業といえば、五ヵ月前に仕事を辞めた。しかも退職してから今日まで求職すらしていない。まったくやる気が出ない。おまけに、数年前からひとり暮らしをやめて実家にもどった。そしてそのまま現在まで住んでいる。出ていく気もさらさらない。
貯金ナシ、収入ナシ、恋人ナシ。唯一の財産は、勤めていたときに購入したあの英国社製の大型バイクだけだった。
メグミ(二六歳/オンナ/独身/派遣社員)
メグミは銀座の中央通りを闊歩している。すると、すれちがう男性が思わず目で追ってしまう。
彼女は、身長一六八センチで細身、髪はつややかなボブ、大きな瞳とぽってりとした唇が印象的な顔立ちである。カジュアルだが素材に高級感があるものを身につけ、手には高級ブランドのバッグを持っている。その姿はまるでモデルのようだ。
停まっている高級外車までやってきて助手席に乗り込む。
「そろそろお昼でも食べようか?」
運転席の男性ハルトが、彼女に訊く。
彼は三四歳、さわやかな印象の細身で、都内に三店舗あるダイニングバーとレストランを経営していた。
「そのまえにドライブして、お茶したい」
「わかった」
車は首都高速都心環状線でレインボーブリッジを疾走していく。彼女はよく晴れた日に東京港の上から眺める台場の景色が好きだった。
車を停めて、ふたりはスターダスト・カフェへやってくる。
「いらっしゃいませ」
女性スタッフが迎える。
「甘いもの食べる?」
「食べようかな。でも、お昼まえだしな」
ふたりは肩を寄せ合ってメニューを眺める。
「ドーナツは?」
「あ、ドーナツはダメ。肥るから。ラテにしようかなあ」
レザージャケットを着た男性が入ってきて、うしろにならぶ。
「でも、キャラメルマキアートにしようかなあ」
「おれもそうしようかな」
「あと、ニューヨークチーズケーキ。いや、やっぱりストロベリースコーン」
うしろにならんでいる男性が、スタッフに声をかけられてとなりのカウンターへいく。
「ハルトは、何にするの?」
「おれは、コーヒーでいいや」
「あたし、やっぱりキャラメルマキアートがいい。それで、スコーンはやめて、シュガードーナツ」
「ご注文は以上でよろしいでしょうか? お会計は九七〇円になります」
メグミは支払う気はないが、いちおう財布を出そうとする。
「いいよ、おれが払うから」
「ありがと」
ハルトは支払いをすませて、トレイを持って彼女についていく。
「どこに坐る?」
「どこでもいいよ。メグが好きなところにしなよ」
「外が見えるほうがいい?」
「いいね」
「やっぱ、カウチにしよう」
カウチに腰かける。メグミは何気なく見上げると、レザージャケットの男性がこちらを見ていた。が、すぐに目を逸らす。
「ドーナツ、食べな」
「うん」
シュガードーナツを頬張ってキャラメルマキアートをひと口飲む。
店の中は利用客もまばらで日中の穏やかな空気が流れている。ふたりは昼食なんてすっかり忘れてお喋りを楽しんでいた。そのとき、バッグの中から着信音が流れる。
「ちょっと、ごめんね」
彼女はスマートフォンを取り出す。
「もしもし……」
うんうん、と黙って聞いている。そして通話を切る。
「ハルト、ごめん。ちょっといかないといけない」
「仕事?」
「そうなの。表参道まで乗せてってくれる?」
「いいよ」
ふたりは店を出ていく。
夕陽に包まれた表参道は多くの人が往来していた。交差点付近に車を停める。
「ありがとね」
「そうだ。もうすぐメグの誕生日だろ? そのときは、ふたりでお祝いしようよ」
「うん、そうだね。また連絡する」
「じゃあ、気をつけて」
彼女が降りると、車は走り去っていく。それを見送ってスマートフォンを取り出す。
「もしもし。いま着いた。どこにいる? あたしは交差点のところ。わかった、待ってるね」
通話を切る。しばらくして、ひとりの男性がメグミに近づいてくる。
「メグミ」
その声に彼女は振り向く。
男性はケンイチ、二九歳の長身でさわやかな笑顔の持ち主である。田町にある大手外資系企業に勤務している。
「ケンちゃん、待たせて、ごめんね」
「そんなことないよ。少し早いけどさ、メシ食べる?」
「そうしよ。お昼を食べてないから、お腹すいた」
「きょうは仕事だったの?」
「そうなの。でも、ケンちゃんに逢いたかったから、早く上がってきた」
彼に寄りそって手をつなぐ。
「そういえば、この辺にオーストラリア産のワインを出すレストランがあるんだけど、そこにいってみる?」
「料理は、どうなの?」
「もちろん、料理もうまいよ」
「よし、そこにしよう」
表参道から路地をまがったところに、落ち着いた雰囲気のシーフードレストランがある。夕食をするにはまだ早い時刻のせいか、利用客はまばらであった。
ふたりはテーブルを挟んで坐ると、まずはワインを注文する。ウエイターがグラスに赤ワインを注ぎ、一礼して立ち去る。ふたりは口に含んで味わう。
「おいしい」
「だろ?」
「これだと、いっぱい飲めちゃうかも。甘口で飲みやすいね」
「うん、飲みやすい」
「今夜は、いっぱい飲んじゃおうかなあ」
「飲もうよ」
「でも、酔っちゃったら、ちゃんと送ってね」
もちろん、と彼は微笑む。
ハジメ(三七歳/オトコ/独身/正社員)
港区東新橋の高層ビル四一階にあるレストラン。
ハジメはテーブルを挟んで女性と向かい合って坐っていた。ふたりは食事をすませたばかりだった。
緊張しっぱなしのハジメは、身長一七五センチぐらい、体重は九〇キロ前後だろう、お腹がぽっこりと突き出ている。そしてくたびれたビジネススーツを着ている。
「このあと、お酒でも一杯どうですか?」
彼は控えめに訊いてみる。
「いいえ。けっこうです」
と答える女性は、浜松町で勤務する二七歳のカオリだ。きょうは母親の友人の知人の同僚の紹介で、ハジメと食事をすることになったのだ。いわばブラインドデートである。
「……それじゃ、またこんど水族館にでもデートしにいきませんか?」
「ムリです」
彼女の経験上、こういうオトコにはきっぱりと断らないとダメ、というセオリーがあった。いい顔をして曖昧な態度をしていると、どんどんつけ上がってくる。それに、きょうの食事にしても始終退屈だった。ハジメはまじめで人柄もいいのはわかるが、まったくもっておもしろくなかった。そもそも待ち合わせ場所にあらわれた時点で、彼女にとっては「ナシ」だった。そうなれば、やっつけ仕事をとっとと終わらして、さっさと帰ろう、ということなのである。これで少なくとも母親の顔が立つ。
こうしてブラインドデートは終わった。ハジメは駅へ向かってとぼとぼと歩く。空はすっかり暗くなっていた。そして空気はひんやりと冷たい。
「うまくいかないものだな……」
ぽつりと呟く。電車に揺られながら流れる夜景をぼんやりと眺める。
タチヨミ版はここまでとなります。
2019年7月23日 発行 初版
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1975年東京都生まれ。
都立高等学校卒業後、監督を目指して自主映画を制作。のちにハリウッド映画にも参加。また日本でも映画、テレビ、CMなどにちょっぴり出演。他の著書に「童顔の暗殺者」。