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香りたつコーヒーは
恋のあじわい(下)

土方足腰

Jirokudo Studio



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次


第二章

エピローグ

あとがき

香りたつコーヒーは恋のあじわい(下)

第二章



 シンジは、電車に揺られていた。車窓からはどこまでも青い空が見える。そして気分も晴れやかだった。ミキからのメールで、
「大切な話があるから聞いてほしい」
 とのことだった。
「女子が大切な話なんて、愛の告白以外に何があるのだ」
 おれにもようやく春がきた。そしたら、なんて答えようかしら? と頭をめぐらせる。
 新宿駅で電車を降りて南口改札を出る。ミキの姿をさがすが、まだ到着していなかった。
「舞い上がって、早くきてしまったな」
 少し待たせるぐらいが、ちょうどよかった。流れる人々に目をやる。母親に手を引かれた幼児と目が合ってにっこりと微笑む。ふだんはこどもに興味がなく、無愛想なオトコもいまに限っては微笑む余裕さえあった。
「お待たせ」
 その声に振り向くと、ミキが立っていた。きょうはまた一段と可愛く見える。
「おそくなって、ごめんね」
「いやいや、おれもいま着いたところ」
 ふたりは遊歩道にあるカフェへ入っていく。そしてコーヒーを手にテーブルを挟んで向かい合って坐る。
「きょうは天気がいいねえ」
「うん、ホント気持ちいい」
 早く本題に入ってくれえ、とシンジは思いながらも他愛のないお喋りを楽しむ。ガラス越しに暖かい陽射しの中を人々が遊歩道をのんびり歩いている。店内もだいぶ利用客でにぎわってきた。ミキはコーヒーをひと口飲むと、急に真剣な眼差しになる。
「ねえ、聞いてほしいことがあるんだけど」
「な、何?」
 ついにきた。
「このあいだ、鎌倉へいったとき思ったんだけど……」
「う、うん」
「やっぱり、あたし……」
「…………」
「……世界中を旅してみたい」
「へ?」
「どうしてもチャレンジしてみたいの」
 なんだ、愛の告白じゃないのか、とシンジは心の中でがっかりする。
「旅をとおして自分をさがしてみたい」
「はあ……」
「だから、おねがい。一緒にいこう」
「え、おれも?」
「シンジくんしか、頼りになるひとはいないもん」
「まあ、旅行はきらいじゃないけど……」
「ちがうの。ただの旅行じゃなくて」
「?」
「バックパックひとつだけ持って、バスを乗り継いで世界各国を旅するの。中国から出発して英国までユーラシア大陸を横断。そしてアルゼンチンからアラスカまでアメリカ大陸を縦断してゴール。おカネはなるべく持たない。基本は野宿。野宿ができない場合だけ安宿を利用する」
「…………」
「いく先々で出逢う異国のひとびと、壮大な自然や見たことのない景色。おそらく予期しないハプニングも起こる。だけどそれらを経て、はじめて人間的に成長できる、と思うの」
「…………」
「どう? おもしろそうでしょ?」
「うん、がんばって」
「いや、がんばって、じゃなくて。一緒にやろうよ!」
「ムリムリムリ」
「ムリじゃない! シンジくんはロサンゼルスで生き抜いた知恵と根性があるでしょ」
「根性なんてないもん、おれ」
「それは自身で意識したことがないだけ」
「それに、あの空腹や孤独は、もういやだし」
「あたしがいるからだいじょうぶ!」
「…………」
「もう一度、何かに向かってみようよ。一緒に」
「でも、もう三〇半ばだし、そんな気力も……」
「年なんて関係ない。いくつになってもハートは老いないの」
 ミキは、ねえ、と云って彼の目をまっすぐ見つめる。
「あたしもシンジくんも、ゴールしたとき、きっと何かをつかめるはず。だから、やってみようよ」
 キラキラした目で見つめられると、もう好きになりそうだ。
「……わ、わかりました」
 こんな可愛いオンナからそこまで云われて、もはや断ることもできない。
「よし、それじゃあ、出発は三ヵ月後!」
 なんだか愛の告白どころかスケールのでかい話になってしまったな、とシンジは心の中で呟く。

 浜松町駅近くのダイニングバー。
 午後七時を過ぎて、仕事を終えた社員たちがぞくぞくとやってくる。きょうはこの店舗を借り切って歓送迎会がおこなわれるのだ。カオリのうしろをメグミもついてきた。正社員でないメグミは、正直なところ参加したくないのだが、カオリに半ば強引に連れてこられたのだ。
「適当なところで、さっさと帰っちゃおう」
 と心に決めていた。
 全員に飲みものが配られたところで、中年の男性社員が前に出てきてあいさつを述べはじめる。
「あのひとって、だれなの?」
 メグミはカオリの耳もとに顔を近づけて訊く。
「営業部長」
「ああ、そう。ところで、話長くね?」
「うん、長い」
 営業部長は内輪ウケを狙った話ばかりで、まったくおもしろくない。メグミは、早くしろよ、と思いながら社員たちを見まわす。すると向こうに立っているカズヒロと目が合う。彼は、よう、と云うようにあごを軽く上げる。メグミも軽く会釈する。
「それでは、かんぱーい」
 営業部長はグラスを掲げる。それにつづいて全員、かんぱい、とグラスを掲げる。
 ブッフェには、おいしそうな料理がずらりとならんでいた。それぞれに料理を味わい、お酒を飲みながらお喋りを楽しんでいる。メグミとカオリはテーブルにならんで坐って、料理をつまみながらお喋りを楽しんでいた。そこへカズヒロが近づいてくる。
「よう、おつかれ」
「カズさん、おつかれさま」
 カズヒロは椅子に腰かける。
「どう? メシ、うまい?」
「おいしいですよ。まだ食べてないんですか?」
「うん、まだ」
「何か持ってきましょうか?」
「おねがいしてもいい?」
「もちろん」
「じゃあ、適当に頼むわ」
「はーい」
 とカオリは立ち上がってブッフェへ向かう。カズヒロはメグミを見る。
「何を飲んでいるの?」
「オレンジジュース」
「アルコールは?」
「入ってない」
「酒は飲まないの?」
「きょうはね」
「なんで?」
「早く帰りたいから」
「だれか待っているの?」
「そうじゃないけど、あまり居心地よくないし」
「そっか」
「そうだ、このあいだ借りた傘、ちゃんと返すから」
「いつでもいいよ」
「忘れなければ」
「しかし、歓送迎会ってつまんないね」
「うん」
「ねえ、ここを抜け出して、ふたりで飲みにいかない?」
「いかない」
「はっきり云うね」
「もしかして、それを云うために、カオリに料理を取りにいかせたの?」
「まあね」
 メグミは思わず笑う。こいつ、ばっかじゃねえ、と思った。が、その愚直な誘い方に悪い気はしなかった。カズヒロもつられて笑う。そこへ料理を持ってカオリがもどってくる。
「何、ふたりして笑ってんの?」
「なんでもない」
「カオリちゃん、ありがとう」
 とカズヒロは料理を受け取って、ひと口食べる。
 午後九時をまわって、歓送迎会はお開きとなった。ぞろぞろと社員たちはダイニングバーから出てくる。そしてメグミとカオリも肩をならべて出てくる。ふたりのうしろにはカズヒロがいた。
「これから、どうする?」
 とカオリが訊く。
「帰るよ」
「もう帰るの?」
「あしたも仕事じゃん」
 カオリは振り向いて、
「カズさんは?」
「おれも帰るよ」
「そっか、じゃあ、あたしも帰るか」
 三人は駅までやってくる。改札には家路につく多くのサラリーマンの姿があった。
「カオリちゃん、家はどこなの?」
「あたし、赤羽」
「京浜東北線か」
「そう」
「メグミちゃんは?」
「中目黒」
「恵比寿で乗り換え?」
「うん」
「カズさんは?」
「おれも渋谷方面」
「あたしはこっちだから、じゃあねえ」
 と手を振って、カオリは階段を下っていく。メグミはカズヒロと三番線のホームへ向かう。待つこともなく電車がやってきて、ふたりは乗り込む。
 メグミはつり革につかまり、流れる夜景を黙って見ている。カズヒロも黙ってつり革につかまって電車に揺られていた。やがて電車は品川駅に到着する。
「メグミちゃん」
「うん?」
「恵比寿にさ、いいバーがあるんだ」
「そう」
「寄ってみようよ」
「まだ云ってる」
「ちょっとだけ」
「帰ります」
「サクッと一杯だけ」
「いかないよ」
 と彼女は云ったものの、まあ、一杯ぐらいならいいか、と思う。
 電車は恵比寿駅に到着してメグミが降りると、カズヒロがうしろにつづく。
「渋谷までいくんじゃないの?」
「まあ、地下鉄のホームまで見送らせてくれよ」
 ふたりは改札を出て地下鉄へ向かう。
「ねえ」
 とカズヒロが云う。メグミは、やっぱりきた、と胸で呟く。
「何?」
「もう帰るの?」
「帰るよ」
「バーがさ、この近くなんだ」
「そうなんだ?」
「寄ってみない?」
「寄ってみない」
「一杯だけ。どうしてもダメ?」
「まあ、どうしてもダメ、ってことはないけど」
「おごるからさ」
「一杯だけね?」
「一杯だけ。もちろん気が変わったら何杯でも」
「じゃあ、いいよ」
「それでは、ご案内します」
 ふたりは雑居ビルの地下にあるバーにやってきた。薄暗い店内には、カウンター席のほかにテーブル席もある。カズヒロにうながされて、メグミはカウンター席に腰かける。彼はその右どなりに腰かける。
「何を飲む?」
「ジントニック」
 カズヒロはバーテンダーに向かってジントニックをふたつ注文する。
「カズさんはどこに住んでいるの?」
「明大前」
「だから、渋谷で乗り換えか」
「そう」
「ひとり暮らし?」
「そうだよ、あそびにくる?」
「いくわけないじゃん」
 とメグミは笑う。ジントニックがふたりの前に差し出される。
「それじゃあ、かんぱい」
「かんぱい」
 ふたりはひと口飲む。
 入店してから一時間ほど経過したところで、メグミは四杯目を飲み終えようとしていた。カズヒロは彼女のグラスをちらりと見る。
「次は、何を飲む?」
「酔わせて、どうするつもり?」
「どうもしないよ。でも、おれとこうして飲むのも悪くないだろ?」
「まあね」
 メグミは微笑む。すっかりお喋りが盛り上がってしまった。カズヒロは話のネタが尽きない。メグミは、スクリュードライバーをください、とバーテンダーに向かって云う。
「そういえば、メグミちゃんってカレシいるの?」
「もちろん、いるよ」
「だろうね。けっこうモテるんじゃない?」



  タチヨミ版はここまでとなります。


香りたつコーヒーは恋のあじわい(下)

2019年7月23日 発行 初版

著  者:土方足腰
発  行:示禄堂スタジオ

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土方足腰

1975年東京都生まれ。
都立高等学校卒業後、監督を目指して自主映画を制作。のちにハリウッド映画にも参加。また日本でも映画、テレビ、CMなどにちょっぴり出演。他の著書に「童顔の暗殺者」。

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