日常の隙間に差し挟める、ちょっとした笑いを短編集にまとめてみました。
片手間に笑いをひとつ、軽やかに――
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今日は大事な日だ。だからいつもより早く起き、身だしなみは何度も確認した。体の調子もいい。整体で定期メンテナンスもしたばかりだ。足取りは軽く、どこまでも歩いてしまえそうなほどのエネルギーに満ちている。
しかし胸の中は緊張のせいか、鉛を飲み込んだかのように重く感じる。
――気に入ってくれるだろうか。
僕は鞄を持つ手に力を入れ、玄関チャイムを鳴らす。
「はぁい」
という聞き慣れた優しい声がして、扉が開いた。
「待ってたわ。あの子ももうすぐ帰ってくるから」
迎えてくれた彼女は、いつも以上に美しく見えた。
「あら、ずいぶん大きな鞄ね、もしかしてお仕事?」
彼女が僕の鞄に目を留めて言った。
「いや、これは娘さんへのほんの手土産でね、気に入ってくれるといいんだけど」
正直、不安だった。年頃の女の子が何を喜ぶかなんて想像もつかない。街中で流行っているというものを奮発したけれど……
ガラス球のような瞳を輝かせる彼女に、僕は鞄をそっと開いて中を見せた。すると、
「わぁ」
彼女は感嘆の声とともに、喜びの色を顔いっぱいにたたえた。その様子に、まずは安心した。
「喜ぶわ、あの子、ずっと欲しがってたの。工場勤めの私じゃとても買ってあげられる余裕がなくて」
彼女の瞳が潤んでいる。僕は愛おしさでいっぱいになった。
「これからは君に苦労はさせないよ。僕が君と、君の大切な娘さんを守る。いい夫に、いい父親になれるように頑張るから」
「ありがとう、あなた」
その時、玄関扉の開く音がして、元気のよい足音が近づいてきた。
「ただいまぁ」
赤い鞄を背負った小さな女の子が帰って来た。彼女によく似た、可愛らしい娘さんだった。しかし僕の姿を見るなり、立ち止まってしまった。表情も読み取れない。
「おかえりなさい。この方はね……」
彼女が説明しようとすると、娘さんは、ぷいと背中を向けてしまった。
「はじめまして」
できるだけ笑顔を絶やさない雰囲気で声をかける。まだまだ小さいとはいえ、微妙な年頃の女の子だ。この方が今日からお父さんよ、なんて簡単に受け入れてくれないことは覚悟の上だった。
「ほら、ご挨拶は? あなたのためにプレゼントもあるみたいよ」
彼女が助け舟を出してくれた。さすが母親だ。その言葉に娘さんがちらりと僕の方を見た。今だ。
「プレゼントっていうほどのものじゃないんだけどね、ちょっとした手土産を持ってきたんだ。気に入ってくれるといいな」
僕は鞄を開いて、娘さんがよく見えるように、中からゆっくりと取り出した。ピンクのリボンで巻かれた、二本の腕を。
それを見た娘さんは母親と同じ色をしたガラス球の目を輝かせて腕に飛びつき、もどかしそうにリボンをほどく。銀色に光る滑らかな左右の腕のパーツが姿を見せた。
「このモデル、今学校でみんなが取り付けてる腕だよ。いいの? あ、しかも二の腕部分にハートの模様がある最新式だ。嬉しい、ありがとう」
娘さんは、今体に付いている腕を肩の付け根から自分で外すと、僕の持ってきた新品の腕に付け替えた。そして肘を曲げてみたり指を動かしてみたりと、その付け心地を試してから僕の方を向き、頬をピンクに染めた。それはとても喜んでいるというサインの表情だった。
最近若い子の間では、もともと胴体に付属している手足よりも、腕や脚などのパーツごとに好みのものを新調して付け替えるオシャレを楽しむのが流行っているらしい。悩んだ末に、街で一番人気という最新式の腕パーツを選んだ。女の子向けの店だったから入るのも少し恥ずかしかったけれど、こんなに喜んでくれるとは、頑張って奮発して本当によかった。
「あなた、ありがとう。お土産に手なんて高価な部品を」
彼女も本当に嬉しそうだ。
「たいしたことないよ。僕も自分の古くなった耳パーツの交換をしたついでにたまたま見つけただけだから」
男ならここで恩に着せるような言葉は使用しない。最近脳内にダウンロードしておいた『できる男ロボ台詞集』が役に立った。
本当に便利な世の中だ。昔、生モノの人間という種族が生きていた時代を不思議に思う。我々のように機械仕掛けでなかったのなら、どのように何万とも何億とも言われる幾多の言葉を覚え使っていたというのか。状況に応じて適切な言葉を引き出し、発するという奇跡のようなシステムが備わっていたとでもいうのだろうか……
などと考えていた時、彼女の言葉で思考は中断した。
「さあ、せっかくだからみんなでお食事にしましょう」
彼女はテーブルへ誘うと、茶色い液体をカップに注いで言った。
「ごめんなさいね、安物しかなくて。工場の残り物を貰ってくるものだから」
恥ずかしそうにカップを渡してくれる彼女も愛おしい。
「君がくれるものは何でもおいしいよ」
僕は微笑みサインを顔いっぱいに表示すると、機械油の入ったカップに口をつけた。
「騙されたと思って行ってみて」
会社のロッカールームで、いつものように同期入社の彼女と愚痴を言い合っていると、胡散臭い話を聞かされた。
「そんな、行くだけで幸せになれるセミナーなんて危ないに決まってるじゃない。そんな怪しいところ行きたくないし。気になるなら自分で行って」
すると彼女は、心底あり得ないといった表情で、
「何言ってるの? 私、今幸せだもん。もうすぐ結婚するし、最近、週末は式場の準備で大忙しだけど、嬉しいから仕方ないかな。だからそういうの必要ないの。これ以上幸せが増えたら罰が当たっちゃうわ」
と、当然のように言った。それじゃまるで私のことを不幸だと思っているように聞こえるじゃない。でも幸せの絶頂にいる彼女から見たら、誰でも不幸に見えてしまうのかもしれない。
「でもそれって、自己啓発みたいなものでしょう。そもそも私、そういうの信じてないから」
面倒なことになる前に、ばっさりと断るのが一番だ。
「ちょっと違うって聞いたよ。なんとかっていう大学の研究チームが開発した、幸運を引き寄せる法則みたいなものを発表するんだって。それでその法則に従って行動して、本当に幸せになったかどうかをアンケートするって。モニターみたいなものだから、無料だって」
彼女が、いいポイントをついてきた。無料という言葉には弱い。
「しかもこれ、誰でもってわけじゃないの。このモニターを募集するのに広告は一切出してないから、クチコミだけ。私も彼の妹さんから聞いたの。誰でも知ってるわけじゃないっていう限定感が本物っぽいよね」
限定という言葉にも弱い。胡散臭いところから、気になる存在になってきてしまった。
「そうそう、その発表会みたいなセミナーね、今月の開催は今日が最後なんだって。確か時間は……」
そういえば彼女は営業部で優秀な成績だった。彼女の実力を今、体感した。
「で、場所はどこ?」
そして着いたのは、駅からほど近いビジネス街の一角。さまざまな講習などが開かれている公共ビルのようだ。指定された部屋へ行くと、年齢も性別もバラバラな二十人くらいの人が座っていた。私も空いている席へ腰かける。隣の人も、ちらりと見えた後ろの席の人も、なんとなく暗い表情をしている。みんな幸が薄いのだろうか。
「皆さま、本日はお越しいただきありがとうございます」
眼鏡をかけ、白衣を着た男性が入ってきて、説明し始めた。
「突然ですが皆さんは、何かの拍子に思い出す、といったことや、何かの拍子につまづいてしまって、といったことが、これまでに一度か二度はありませんか」
ああ、あるかも、と思って周囲を見ると、他の人たちも小さく頷いているようだった。
「我々の研究チームは、その、拍子、について長年研究していました。何かの拍子とは一体なんなのか。その拍子は、日常の中でどのようなタイミングで起こるのか、何が起因して発生するのか、その偶発的と思えるメカニズムを解明できれば、私たちの日常は劇的に変わります」
何を言っているんだろう、この人は、と思って周囲を見ると、他の人たちも首を傾げているようだった。
「大事なことなのに忘れてしまった何かも、何かの拍子を意図的に発生させることで思い出すことができる。これは認知症の患者さんに役立てると思います。そして何かの拍子につまずく、というのも、事前に回避することができれば、不用意につまずくことも避けられる。特に高齢者の皆さんの安全に繋がるでしょう」
何か画期的なことを言っている気がする、と思って周囲を見ると、やはり他の人たちも真剣に話を聞いているようだった。
「そしてこの拍子の研究中に、副産物といいましょうか、別の、ある効果的な拍子を発見したのです」
ここまで盛り上げておいて大したことがなかったら、まさに拍子抜けと言いたい。
「その拍子とは」
ここで男性は、もったいぶって一息つくと、顔を上げて言った。
「とんとん拍子です」
男性は胸を張り、目を輝かせているものの、会場は、一瞬にして静まり返った。しかしそんな様子に気づいているのかいないのか、男性は続けた。
「物事が順調に進むことを表すたとえ言葉、と思われている方がほとんどではないでしょうか。しかしこのようなたとえ言葉も、もともとは何かがなければ言葉として生成されませんよね。つまり、物事が順調に進んでいる際には、本当に鳴っているのです、とんとん拍子が。ただ、皆さんが意識していないせいで、耳が感知していないだけなのです」
男性は、だんだん早口になり、声も大きくなり、顔も上気してきた。
「皆さん、ここぞという時にとんとん拍子を耳にすることができるなら、私たちの運気が、日常が、そして何より人生が変わると思いませんか。思いますよね。実は私たちは、よい気の流れを生む、そのとんとん拍子を人工的に作り出すことに成功したのです」
恍惚とした表情の男性は、演説のクライマックスを迎えたのか、両手を大きく広げ、天を仰いだ。蛍光灯の明かりが顔を照らしている。
「以上が概要となります」
突然、男性を押しのけて話し始めたのは、眼鏡をかけた白衣姿の女性だった。今度の人は笑顔がなく、事務的な口調だ。
「皆さまにはこの後、とんとん拍子を聴いていただきます。これまでのデータから、その効果が現れるまでは、個人差があることがわかっています。ただ、現在のところ、遅かれ早かれ、すべての人に良い結果が出ています。これまでにもう充分確実なデータが取れていますので、今回の皆さまのモニターが最後の実施になると思います」
また、後日ネット上で簡単なアンケートに答えることを条件に、全員が納得し、ついにその時がやってきた。
「それでは皆さま、携帯機器など音の出るものはあらかじめ電源をお切りください」
半信半疑のまま、とりあえず言われた通りにした。
「では、流します。効果を最大限に高めるために、ぜひ目を閉じてお聴きください」
静まり返った室内に、パソコンのキーを押す、カチッという音がした後に、それは聞こえてきた。
とんとん、とんとん。
とんとととん。
思わず、えっ、という声が出てしまいそうになる。聞こえてきたのは、本当に、ただ「とんとん」という音だった。扉をノックするような、木製のまな板で千切りをするような、まさに「とんとん」としか形容できない音が、何かのリズムを取るように室内に響いた。
三十秒か一分くらい鳴っていただろうか。音が途切れたところで、先程の事務的な女性の声が終了を告げたので、恐る恐る目を開けた。室内の明るさに、一瞬目が眩む。
一体何だったのだろうか。こんな音を聞いただけで本当に色々うまくいくなんて、やっぱり騙されているんじゃ……
「あっ」
その時、会場にいた誰かが声を上げた。声の方に目をやると、前の方に座っていた男性が、手元で何かを見つめて喜んでいる。
「どうされましたか」
女性が声をかけると、男性は嬉しそうに、
「今電源をつけて、メールをチェックしたら、前に応募していた懸賞の当選のお知らせが入っていたんです。ぼく、くじ運なんてまったくないんですけど」
そう言って笑った。
「さっそく効果が出たみたいですね。きっとこれから次々といいことが起こりますよ。もちろん、皆さまにも必ずです」
女性が私たちに向かって声高らかに言った。
世の中にはまだ解明されていないことがたくさんある。もしかしたら本当にこれは画期的なものなのかもしれない。他の人たちも驚いたり、笑ったり、当選したという男性に話しかけて一緒に喜んだりしている。皆、明らかに最初、この部屋に入った時に見た雰囲気とは変わっていた。気のせいか、部屋も入った時より明るく感じられる。これが、いい気の流れ、運気の上昇なのだろうか。私にはどんないいことがとんとん拍子にやってくるのか、なんだか楽しみになってきた。
翌日、さっそく私にも効果が現れた。
ささやかな幸運だけれど、まず朝、家から駅までの道にある三つの信号に、一度もぶつからなかった。これは初めての体験だ。毎朝必ず一つ、または二つの信号待ちが必要なのに、今朝はすべての信号が、まるで私のために青になってくれているかのようにスムーズに渡ることができた。
さらにいつもより早い電車に乗れたせいか、偶然席が空いていて座ることができた。
気持ちのいい朝のおかげで、出社してからも仕事がはかどり、おまけに新規顧客の開拓にも成功。今月営業成績が悪かった私にとって、まさにとんとん拍子にいいことが続いた。
昼休み、同期の彼女にそっと報告した。彼女も驚きとともに喜んでくれた。
「へえ、朝からいいことばっかり続いているのね。よかった。最近元気なさそうだったからちょっと心配してたんだけど」
言いながら私の肩をばんばん叩いた。
私、そんな風に見えていたんだ……でも、もう平気。これからは何でもうまくいきそうな気がする。私は笑顔でお礼を言った。
「素晴らしい検証データが揃ってきたね」
都内某所。とある大学の隣にある雑居ビルの一室。白衣を着て眼鏡をかけた男女が数人、パソコン画面に向かって密談している。
「はい、今日もたくさんのアンケートが届いています。これまでのデータだけでもう充分論文が書けますね。私たちの地味な研究もついに認められる日が……」
うっすらと涙を浮かべる女性に、別の女性も眼鏡を外して目頭を押さえて続けた。
「実は私、この実験を始める前は半信半疑でした。だって、プラセボ効果って、効く薬だと言われて飲んだら、ラムネだって本当に効いてしまうようになる心理的な作用のことじゃないですか。飲む薬ならまだしも、とんとん拍子って、そんなダジャレみたいなものがまさか本当に効くなんて……というか信じる人があんなにいるなんて」
すると男性が、胸を張って
「何言ってるんだ。そもそも病は気からっていうじゃないか。我々の研究はただのプラセボ効果の実証なんかじゃない。聴覚を刺激するのみならず、日本が誇る美しきたとえ言葉を国民に浸透させるという意義ある行為でもあるんだ。それに我々は騙しているわけじゃない。人間の可能性を広げているだけだ。よく言うだろう、信じる者は救われるって。とにかく感謝されているんだから素晴らしい人助けで、最高の研究じゃないか」
天井を見上げながら、目を細めて言った。
「完璧なデータをもとに完璧な論文を作成し、大々的に発表すれば、我々はこんな場所ではなく、ちゃんとした研究室にも入れるだろう。もう本当に俺たちこそ、今まさにとんとん拍子じゃないか」
とんとん、とんとん。
とんとととん。
「ん? 気が利くね」
男性がにやりと笑顔を見せた。
「なんのことですか」
他のスタッフが顔を見合わせた。
「いや、今、流しただろう? とんとん拍子を」
「何言ってるんですか。誰も装置なんて動かしてませんよ」
「え?」
とんとん、とんとん。
とんとととん。
「ほらまた」
すると他のスタッフは皆、顔を見合わせ首を傾げた。
それは突然やってきた。
最初にそれを目撃したのは、早朝、犬の散歩に公園を訪れていた初老の男性だった。
「おい、ハチ、待て。どこへ行く。こら」
ハチと呼ばれた柴犬は、猛烈な勢いで駆け出すと、草むらに向かって吠えだした。
不審に思った男性が草むらに近づくと、それはのそっと顔を出した。
「犬……いや、パンダ……?」
男性は、一度目をこすってから、持っていた老眼鏡をかけると、再び凝視した。そんな男性の視線に気づいたのか、パンダは草むらから四つん這いでのそのそと出てきた。
「やっぱりパンダ……だよなぁ。パンダにも野良がいるもんだなぁ」
それは大人のパンダにしては小さすぎ、ぬいぐるみにしてはやや大きい、そう、ふわふわもこもこの子パンダであった。
パンダは、もこもこ進むと、こけた。転がった。そしてまるで「だっこ」とでも言いたげな顔で、両手を大きく広げると、男性の脚にしがみついた。
もふっという感触を得た男性は、自分の膝あたりに顔を埋めているパンダの頭をなでた。すると、パンダはゆっくりと顔を上げ、男性の顔を見た。
「こ、これは……」
男性は、ハチが吠えたてるのも耳に入らない様子で、いつまでもパンダの頭をなで続けた。
その後、パンダの目撃は相次ぎ、瞬く間に全国規模に広まった。
塀の上で猫に威嚇されるのもお構いなしで笹をくわえるパンダや、駐車していた車のボンネットで寝ころぶパンダ、電柱の下に置かれたミカン箱の中で通行人に何かを訴えるパンダなど、その勢いは留まるところを知らなかった。
地域の駐在所には迷子パンダが溢れるほど持ちこまれ、お巡りさんはパニック状態となった。
ある時、善良そうな笑顔をたたえた青年がパンダを抱えてやってきて、
「すいません、道でパンダを拾ったんですけど」
と言えば、お巡りさんはこれまた善良そうな笑顔でこう返答する。
「ああ、落としパンダですね。ではこちらの……」
「あ、僕の名前と連絡先を書いておけば半年後に拾い主である僕がパンダをいただけるっていうやつですね?」
青年が先回りしてそう言うと、お巡りさんは少し困ったような笑顔で「いいえ」と答えた。
「いえ、落としパンダなのか野良パンダなのかわかりませんが、最近、あちこちでパンダが異常に発生していましてね、半年と言わずにそのまま引き取っていただいてるんですよ。ですからこちらのパンダはもうあなたのパンダです」
見ると、お巡りさんの背中にはパンダがしがみついており、足下には別のパンダがうずくまっていた。
「あはは。こらこらやめないか。仕事中だぞ」
お巡りさんは首を回して背中のパンダに声をかけた。笑顔はふにゃんとゆるくなっている。もはや青年の姿は目に入っていないようだった。
青年も、抱えたパンダに頬をすり寄せ、お巡りさんの姿は目に入っていないようだった。
駐在所の電話が鳴る。鳴り続け、鳴り止まず、突然切れた。パンダが電話線をかじっていた。
パンダは交通にも影響を与えた。
バス停には、背広姿の男性に交じってパンダが並び、混雑は通常の倍に。
駅では、改札をその見た目のかわいさゆえに押し切って通過したパンダの群れが押し寄せ、ホームはごった返した。電車から大量に降りたパンダの代わりに、また大量のパンダが電車に乗り込んだ。吊革につかまって足をぶらぶらさせるパンダや網棚の上に寝そべるパンダ、座っている乗客の膝の上にそっと乗るパンダ……というよりも乗っ取るパンダが急増した。混雑は混雑を極め、ぎゅうぎゅうもふもふの状態となった。そんななか、ミニスカートを履いた若い女性が悲鳴を上げる。
「きゃあ。ち、痴漢っ!」
お尻に触れているそれを掴んだ女性は、一瞬にして別の種類の悲鳴を上げ直した。
「きゃあ……パンダだったのねぇ。かわいいおててっ」
パンダは得意の上目遣いで女性を見ると、その脚にしがみついた。女性は、パンダの爪によってストッキングが伝線していくのも気づかずパンダに釘付けとなっていた。
それでも電車は停車駅に無事停車する。しかし発車させようとする駅員にパンダがくっつき、運転を妨害。電車はどんどん遅れていき、何万人という通勤、通学の足に影響を与えた。
そしてパンダは交通機関を使うことによって行動範囲を拡大していった。
都心の小学校では、詰めかけたパンダの影響により、飼育していたウサギがショックを起こし、鶏がけたたましく鳴いた。教室に乱入してきたパンダによって授業は進まず、解剖に使われる予定だったカエルが命を長らえた。給食室はパンダの襲撃で、大鍋にすべて笹を入れられたため作業不能に。気づけば、あらゆる学校は休校とならざるを得ない状態に。子供たちはパンダ喜び状態となり、一人一匹パンダを背負うのが当たり前となった。
「ランドセルを捨てよ、パンダを背負え」
そう宣言し、喜々として通学路を闊歩する子供たちが急増した。
企業では、その規模に関わらず、遅かれ早かれパンダの占領化に置かれていった。コピーを取ろうとした事務員の脚にパンダがまとわりついたり、パソコン画面に体当たりしたり、床を這う配線にかじりついたり、会議室ではパンダが笹生産の戦略会議を開いていたり、社長室の椅子で椅子取り合戦をしたりと精一杯のパンダアピールし放題。
民間企業のほとんどは、人間の営業停止となった。
テレビでは、すべてがパンダ速報となり、全国各地のパンダ状況が生放送で伝えられていた。しかしその多くが、現地に行ったリポーターが、群れるパンダを前にして顔をゆるませ、笑みをたたえて状況を伝えるだけだった。
「ただいまこちらではパンダ渋滞が起きています。見てください。高速道路でたむろするパンダたちを。車は身動きとれません。でも、かわいいですねぇ」
「今、街のあちこちではパンダを抱っこする人たちで溢れています。ではちょっとインタビューしてみましょう。パンダが大量発生していることについてどう思いますか?」
リポーターに突然マイクを向けられた街の人は、
「かわいいですね。いいんじゃないでしょうか」
「超なごむ」
「若い頃は、パンダっていえば、上野の寝ころんだ奴しか知らんかったが。いやあ、いいもんだなぁ」
などと、笑顔で口々に答えた。中には、
「実は私、毎日の生活に疲れて、さっき、ふらっとマンションの踊り場から身を乗り出しちゃったんですけど、このパンダロウさん……あ、さっきつけたこのパンダの名前なんですけど、私がいざ飛び降りようとした時、なんか視線を感じて、振り返ったらこのパンダロウさんがじっと私のことを見つめてるんです。それがこのタレ目で、私に生きろって言ってるみたいで……私、私……」
と言ってパンダを抱きしめる女性もいた。彼女のこの告白に、リポーターを始めとする周囲の人々はあたたかい拍手を送った。
「パンダ万歳」
「ありがとうございます。私、もう少し生きてみます。パンダロウさんと一緒に」
彼女の言うパンダロウさんは、彼女の裸足のままの足の上にのっかって顔を上げ、じっと彼女を見つめていた。
そのうちテレビは、砂しか映さなくなった。テレビ局もパンダに占拠され、ディレクターもアナウンサーも誰もかれも骨抜きになってしまったようだった。
駅も商店街も高層ビル群も何もかもがパンダで埋め尽くされ、人々はパンダによって動きを封じられた。
政府もパンダが大量発生している原因究明と、現状を打破するための対策を連日協議していた。上野などの動物園からパンダ飼育員や、動物の生態に詳しい研究者、獣医、生物学者など、全国からありとあらゆる知恵が集められたが、有効な解決策は出なかった。日頃議論を戦わせている与野党の議員たちも皆、パンダを前にすると一様に言葉が出なくなってしまい、国会内を徘徊するパンダを捕まえては撫でることに集中するという事態さえ起きた。
海外からも事態収束の応援やメディアなど多数の人間が駆け付けたが、駆け付けただけで、二度と祖国の地を踏むことはなかった。日本は、ある種の鎖国状態に陥った。
パンダが与えた社会的影響は大きく、国家の存続をも揺るがす大惨事となったが、不思議なことに、ほとんどの人間は怒ったり不満を表したりすることはなかった。むしろパンダに囲まれた者たちは、誰もが恍惚にも似た安らぎの表情を浮かべていた。一度パンダに魅了された人間は、パンダのこと以外何も考えられなくなってしまうようだった。
パンダは人を狂わせる。
「成功しましたね。面白いくらいに」
「まったくだ。試しに小さな島国で実験してみて本当によかった」
ここは宇宙船。いまやパンダまみれとなった一つの国の様子を、人間によく似た風貌の生命体がふたり、モニターで観察していた。
「そういえばずっと抵抗していたウエノとシラハマ、あとコウベ地区はどうなっている?」
「はい、どこも先程ようやく崩れ落ちました。しかし、この国ではその三か所のみが本物のパンダを飼育していたため、職員によるパンダ慣れには参りました。最後までパンダのかわいさに屈せず、勤務時間終了後も、柵に入れようと必死の形相でしたから」
「そうか。日本という国の人間が勤勉で働き過ぎだという情報は正確なようだな」
「ええ。それに、みんながそうしているから自分も、という集団行動に弱い特性のおかげで、一人、二人と崩れてからは一気に広がってくれたのが好都合でした」
「では次の作戦に入ろう。この国はもう機能を停止したも同然。他国から侵攻されないうちに進めるぞ」
「はい。この国を足がかりに、この星を……予想以上にスムーズにいきそうですね。次は隣の、かなり広い領土のあるこの国を落としましょう」
「そうだな。でも、最後まで油断するな。何があるかわからないからな。とりあえず、あいつらのイメージ通りに体を銀色にしておけ」
「はい!」
しかし、なんだかもじもじした動きをしているひとり。
「ん? どうした?」
「……あの……」
ためらいがちに口をもごもごさせる。
「どうした?」
「自分、ウエノから回収した本物のパンダを……ちょっとだけ触ってみたいのですが」
「なんだ、そんなことか。いいだろう。この星の生命体の気持ちを体感するのも勉強だ」
そこで、ふたりは檻に閉じ込めてあるパンダを触ってみることにした。
檻の扉を開くと、パンダはまるで、待ちかねた、とでも言わんばかりに外へ出てきた。その数、一匹、二匹、三匹。
「実はツリ目くせに模様のせいでタレ目に見えるこの動物のどこがそんなに……って、おい、どうした?」
「隊長……自分、こやつに腕をかじかじされております。はわわわ」
一匹目のパンダを抱っこするその顔は、幸福に満ちていた。二匹目のパンダは、もうひとりの脚にまとわりついてくる。
「こら、やめない……か。か、かわ、いい。これが本物の誘惑か、負けるものか。まったく、なんてかわいさだ。ふざけるなっかわいいじゃないかっ」
ふたりはパンダを抱きしめたまま立ち尽くし、いつまでもいつまでもパンダと戯れていた。そんななか、三匹目のパンダは宇宙船内をとことこと歩き回ったり転んだりと、パンダを存分に発揮。いつの間にか、宇宙船内の操縦パネルの一部が赤く点滅していることになど、誰も気づかなかった。
パンダは、すべてを狂わせる。
友人の様子に気づいて、
「おい、どうした」
と、思わず声をかけたら、不思議そうに聞き返された。
「どうしたって、何が」
「いや、目が泳いでいるみたいだったから大丈夫かと思って」
「なんだ、だからか。さっきから、なんか目が疲れるなと思ってたんだよ。左右で違う風景が見えてるしさ。俺の目、今どうなってる?」
「右目が背泳ぎで、左目がバタフライかな? 競泳してるみたいに見えるけど」
「さすがだな、左の方が視力いいんだよ」
「へえ、左右でそんな違いがあるんだな。でもその左目、なんか大きくコース逸れてるみたいだけど、放っておいていいのか?」
すると友人は急に立ち上がった。
「それは困る。俺、方向音痴だからさ、この間なんか、トンダメニ……悪いけど、じゃあまた」
そう言うと、友人はおぼつかない足取りながらも、左目を追いかけて去って行った。
「飛んだ目? 目がいい奴は本当に大変だな……」
ひとり呟くと、僕は眼鏡をかけ直した。
「ただいま、……駅で発生しました人身事故の影響で、この電車は運転を見合わせております」
停車駅に留まったまま、扉が閉まることもなく、なかなか発車しない電車内に、アナウンスが響きわたった。
車内は、軽い嘆息と共に、時計に目を遣る人や、スマートフォンに指を滑らせる人、開いたままの扉から外へ出る人などで、少し騒がしくなる。
しかし、続いて次のアナウンスが流れると、人々は一斉に静止した。
「お急ぎのお客様には、大変ご迷惑をおかけしております。現在、線路内より、おおよその回収作業が終わり、飛び散った血液及び肉片の洗浄作業に移行しております。発車までもうしばらくお待ちください」
これを聞いた乗客たちは顔色を変え、隣の人と顔を見合わせたり、話し始めたりと、急にざわめきだした。
それから数分も経たずして、ネット上では、このアナウンスを引用した投稿が大量に流れ始めた。
――何考えてるんだこの電車!
――具体的に教えてなんて頼んでない。気持ち悪い。
――人として最低。
――当事者のことを考えろ!
――ありえない。
などなど、大多数は非難だったが、一部では、
――人身事故って飛び込みってことだよね。ナシだわ。
――これまで考えたこともなかった現実を知った。
――気づかなかったけど、こんな後始末してたなんて……
といった、人身事故そのものに対する意見も寄せられた。
当日のニュースでも、大きく取り上げられた。それを受けて、翌日、鉄道会社が会見を行った。
会見場には、多くの報道陣が詰めかけた。通常、このような「事故」の会見は行われないこともあり、テレビは生中継で放映し、ネット上でも同時中継で動画が流れた。
鉄道関係者が三人、用意された壇上へ行くと、それぞれパイプ椅子に腰を下ろした。真ん中に座った年輩の男性が、卓上のマイクを口元へ引き寄せる。
そして、鉄道会社名と自らを名乗ると、淡々と話し始めた。
「今回の騒動についてご説明いたします。まず当該の駅ホームより、成人男性一名が、線路上に転落。その瞬間、ちょうど当該駅を通過する快速電車がホームに入ってきたため、男性と電車が接触する事故が起こりました。この人身事故をアナウンスするにあたって、通常のアナウンスではなく、今回の具体的な作業と進捗を含めた内容のものにすることは……」
ここまで言ってから、一度咳ばらいをした。そして、
「例の判断によるものでした」
と、はっきりとした声をマイクに響かせた。
「我々はそれに従ったまででございます」
最後の言葉を言い終わらないうちに、会場からはどよめきが起こった。
「そうだったのか。例の判断なら、仕方ない」
「恐ろしいが最善策なんだろう。納得するしかない」
など、口々に声が発せられ、会見は、記者たちの用意していた質問が浴びせられることもなく、開始わずか二分で終了した。
アナウンサーやテレビのコメンテーターも、会場で人々が漏らしたのと似た感想等を述べるに留まった。
「これが今後どういう結果を生むのか、興味深い」
そのような声も聞こえるなか、結果は、しばらく後になってから誰もが実感することとなった。
最初に気づいたのが誰だったかは定かではない。しかしある日、ネット上にこのようなコメントが反映された。
――最近電車が遅れなくていい感じ。
そこから、ふと思い出したかのように、いくつものコメントが流れた。
――そういえば電車がずっと止まってるってことがないかも。
――この間、信号機トラブルっていうのはあったけど、一番長く止められるアレがなくなった気がする。
――人身事故がなくなった。
――生きてるって素晴らしい。
このネット上の盛り上がりを受け、テレビでも取り上げられることになった。
「そういえば皆さん、お気づきでしょうか」
ある局の番組が始まってすぐ、司会のコメンテーターが声を上げた。
「最近、電車での人身事故が起きていないことを。交通省に調査を行ったところ、なんと、ここ一ヶ月の発生件数は、ゼロ件。一ヶ月前には、人身事故のアナウンスが話題となりましたが、やはり、例の判断に間違いはなかったんですね。このような未来を見越して、あのような施策を鉄道会社に命じられたということでしょう。我々は、最上の未来を得るために、これからも信じ続け、従っていきましょう」
とうとうと話し終えると、スタジオに呼ばれていたご意見番のような有識者のゲストも
「そうですね、もしかしたらあの一見非情とも思える具体的すぎる放送は、近年想像力が退化してきた我々現代人に相応しい警鐘だったのかもしれませんね。犯罪や事故だって、自分の行動がその後に及ぼす影響を具体的に想像することによって、発生自体を減らす、もっと言えば無くすこともできるかもしれません。例の判断はいつだって我々の先を行く、まさに希望の光ですね」
と物知り顔で発言した。
スタジオ内がひとしきり盛り上がった後、画面は切り替わり、いつもの情報番組が始まった。
この放送をリビングのテレビで見ていた小学生の男の子が、一緒に見ていた父親に訊いた。
「ねえ、例の判断ってなあに?」
「そうか、小学校じゃ教えないのか。例の判断っていうのは、AIだよ。お前も知っているだろう、人工知能のことだ。そのなかでも最高のAIが我が国にあって、お前が生まれる少し前からかな、法律が変わって、国の重要なことを決める時、最後の判断をAIがすることになったんだ」
男の子は驚いたように目を開いた。
「すごいね、映画みたい。ロボットが決めちゃうなんて」
「ロボットっていうか、ううん、まあ、そうだね。だから今回は鉄道会社もAIの判断でやることを決めたってことだったみたいだね……いつの間にか民間企業にも指示を出すようになっていたんだな……例の判断でリストラされたらどうしよう」
最後の方は半ば独り言のように呟いた。その呟きが聞こえたかどうか、男の子は無邪気に訊いた。
「ねえ、お父さん。じゃあ、例の判断が地球を壊しちゃおうって思ったらどうなっちゃうの? みんな言うことをきくの?」
すると父親は笑って答えた。
「そんなことにはならないよ。AIはバカじゃない。自分のいる星をそんな簡単に失くすなんてことはしないだろう」
そんななか、テレビでは速報の文字が画面に現れ、アナウンサーが話し始めた。
「番組の途中ですが緊急速報をお伝えします。ただいま例の判断による最新のお告げがあったと政府から公式発表がありました。今度は我が国のみならず全世界が注目……」
カウンターに、皿が置かれる。
「はい、お待ち。ほらふき大根ね」
と店主が言うと、すでにグラス二杯ほどのビールを空にしていた客が聞き返した。
「え?おやじさん、今、ほらふきって言った? 面白いねぇ。ふろふき大根じゃなくって、ほらふきだなんて」
客は店主の言い間違いをからかったつもりのようだった。しかし今度は店主が首を傾げて笑う。
「お客さん、うちのは、ほらふき大根で合ってるんですよ。しかもこいつは結構大きなほらふくんで」
と店主が言うと、どこからか小さな声が聞こえてきた。
「あした……」
店主が指さしたのは、小皿に載って湯気を上げている、よく味が染みているのだろう、いい色をした大根。ちゃんと面取りもされている。
店主に促され、客は大根を見つめる。
まもなく大根から、声がした。
「あした、せかい、おわるってよ」
それからしばしの沈黙の後、店主が口を開いた。
「ね、結構でかいほら、ふくでしょう? うちのほらふき大根。ささ、冷めないうちにどうぞ」
客は、再びビールグラスをぐいっと空けると、大根に箸を入れた。とてもやわらかく煮えていた。
作家気取りであとがきも書いてみた。
自分の書く作品で、ジャンル不明なものが多数ある。現実から一センチほど浮いてしまっているかのような物語だ。
メルヘンといえるほどハッピーエンド過多ではなく、ブラックといえるほど陰惨でもない。それならば、ちょっとだけゆるめて「ブラックめルヘン」と呼ぼう。ほんの少し頬をゆるめて読んでもらえたら嬉しい。
そんな種類の物語を、新旧寄せ集めて作ってみたのが、この短編集。週末に書いたものが多かったせいか、終末を書いたものがいくつか入ってしまった気がする。しかし世界には今のところ何の影響もないので、よしとする。
2019年8月24日 発行 初版
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第7回文芸思潮現代詩賞 奨励賞・同第8回佳作/第14回メトロ文学館文学の部 入選/第5回恋の五行歌入選/第32回日産童話と絵本のグランプリ 童話の部 佳作・同第35回佳作/第8回ポプラ社小説新人賞2次選考通過……という数々のあと一歩ならず二歩という様相の惜しい受賞経験をもつ。
掲載:『短歌ください』(穂村弘編・メディアファクトリー)に一首/東京新聞に300文字小説二編/『文芸思潮』(アジア文化社)に小説一編