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Mon essai わたしのエッセイ2

シナリオ・センター大阪校

シナリオ・センター大阪校



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 目 次
  ゆめの続きは動物園で         円窓宮緒
  宝物の処分              道本葉子
  とろみ食               北村光子
  人生でちょっとだけしくじった思い出                               名無野権子
  情熱と忍耐の間            辻沙友子
  知らんけど              ゆめのかけら
  食、病を癒す。             奈良野めだか
  父の記憶               吉田酔女

ゆめの続きは動物園で          円窓宮緒

 エッセイ教室が終わり、私はフェスティバルホールへ走って向かった。大好きなアーティストのライブに行くためである。
 一瞬たりともアーティストの声を聴き逃さぬよう、動きを見逃さぬよう、全神経をステージに集中させた。
 ステージは重低音に迫力があり、音楽と声が立体的に迫ってくるような刺激的なもので、ライティングが美しく、私はライブ序盤から何度も何度も感極まった。
 アーティストがそれまで弾いていたピアノの上に立ちあがり、狂気のモンテクリスト伯を彷彿とさせるという場面があった。その時の狂気の表情と視線に心打ちぬかれ、あの狂気の視線で夫を捨てるように迫られたら、ほいほい喜んで何度でも捨てまくるだろうし、もっと恐ろしいことを言われても、私は実行してしまうかもしれないと思いながらステージに見入ってしまった。

 世の中には男と女の馬鹿げた事件があって、中でも女性が男性にいれあげた挙句の凄惨な事件を見聞きするたびに、『いい年こいてあほちゃうか』と思っていたけど、私自身が『いい年こいてあほちゃうか』になる可能性があるとふと思った。

 終演後、家に帰ると夢のような時間が消えてしまう気がして、まっすぐ帰る気にならなかった。興奮を冷ますというより、一人で今日の公演を味わっていたくて、周辺を何周も歩いた。肌寒かったけれどコートの前を開けて冷たい夜風にあたるのは心地よかった。

 フェスティバルホールの正面にそびえ立つ、コンラッドホテルは今まで一度も行ったことなはく、これから行くこともないだろうと記念にスマホで撮影した。周辺をうろついていると、アパホテルについた。ここは夫と喧嘩した時、私が家出する定宿だ。連泊することもしょっちゅうで、連泊プランでミネラルウォーターをよくもらう。
 非日常の夢を見せてくれるフェスティバルホールのすぐ近くに、私のくだならい人生をやり過ごすホテルは建っていたのだと改めて見上げた。

 夫が寝静まった頃合いを見計らって家に帰った。玄関で靴を脱いでいると狭い家のこと、玄関すぐ右手の寝室から夫のいびきが聞こえてくる。きっとカバがいびきをかくとすれば夫と同じ音量だろうと思った。ふっと先程までの夢のひとときが色褪せ、私は脱力感に襲われた。

 今日だけはモンテクリスト伯の魅惑的な声と、美しい姿を私の脳から消したくない。夫のいびきで汚されたくない。
 私はしょうもない決心をし、寝室から自分の布団を別室に運び、寝ることにした。

宝物の処分          道本葉子

 幼いころ、家にオルゴールがあった。縦5センチ、幅10センチ、高さ5センチぐらいの箱型で、まわりは刺しゅうで装飾されていたように思う。マグネット式になっている上ぶたを開けると「エリーゼのために」が流れた。箱の中に小物を入れることができたので、小さな人形の靴などを入れて遊んでいたが、子供のおもちゃにしては、子供っぽくない。
「これ、どうしたの?」
 と聞くと、母が、
「好きな人からもらった」
 と、そっけなく言った。
(えっ)
 好きな人って? 衝撃が走った。何故だかわからないが、それ以上聞かないほうがいいと神様に言われたような気がした。
 それでも気になって、後日前に聞いたことを忘れたかのように、同じ質問を繰り返したが、答えは相変わらずで、それ以上のことは聞き出せなかった。
 自分のことをほとんど話さない母だが、その「好きな人」というのは冗談で言ったのではないだろう。そして、その「好きな人」は恐らく「父」ではないだろう――と子は推察する。
 私が6歳のとき、父が建売住宅を購入した。オルゴールは、新居先への引っ越しのタイミングで、他のおもちゃと共に何のためらいもなく捨てられた。
 だからといって感傷的になったり、落ち込んだりはしない。淡々と暮らすのが母流だ。
 いいか悪いか、そんな「ばっさり切り捨てる」母の性格を、私は半分だけ受け継いだらいしい。
 あの6歳の引っ越しから今に至るまで、私は何度も住所を変えた。根なし草の生活は、物が多すぎるとよくない。新天地に向かう度に容赦なく物を捨ててきた。
(私は、身軽なのだ)
 そんな矢先、アクセサリー類を整理していたら…… ああ、出てきてしまった。
 二十年前に彼氏からもらった指輪。
 今まじまじとその指輪を見る。明らかに安物だ。サイズも全然合わないから箱の片隅に追いやられていたのだろう。気付かなかった。
 実はこれ、買ってもらったものではない。当時貧乏真っ盛りの彼が、立川駅前の松屋の深夜アルバイトの帰りに、道で拾って持って帰ってきたものなのだ。
「ねえ、これ見て」疲れ顔の彼氏の前に赤く光る石。
「わあ、何これぇ!」
 買ったものじゃないのに。本当は交番に届けなくちゃいけないのに……。そんなことは構わず、初めてもらった指輪に、やたらテンションが上がった。あの日が懐かしい。
(これ、ポイするの?)
 ああ、心が痛い。捨てたらバチが当たりそうだ。
(見なかったことにする)
 私はそっとアクセサリーケースにしまった。

とろみ食          北村光子

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。川端康成の名作「雪国」の一文である。普段は東京で過ごしている主人公が、芸者駒子に会うために、新潟に時々赴くのだが、トンネルを抜けると別世界が展開しているという下りである。そう言えば、イギリス生まれの人気映画の「ハリーポッター」シリーズでも、ハリーポッターが現実世界から、魔法魔術学校に入学するために、魔法界に移動する時のシーンが面白いのを思い出す。あれは、確か駅の構内の壁にぶつかって行くと、その向こうは驚くべき魔法の世界が目前に開けていて、映画館で見ているこちらも息を飲んだ事を思い出すものだ。
 さて、こうした世界が変わるという光景を見たのが、今年の春のある日のことだった。母と一緒にエレベーターに乗ってビルの4階まで行った。ドアが開くと、そこは多勢の車椅子に乗った人々が各々の表情で過ごす別世界だった。髪は白髪、苦虫を嚙み潰したような表情の人、ひどく瘦せた人、下を向いたままの人、興味深げにこちらを眺める人、人、人。
 この春から、私の父もこの施設にお世話になることに決めたのだ。只、幸いなことに父はまだひょろつきながらも、何とか杖を使って自分で歩ける状態だ。それで、ここにずっと入所しているわけではなく、隔週で施設から出て家に滞在する方法にしている。家にいるときは、隔日でデイサービスを使っている。
 先日の事、近くの別の老人ホームで料理の担当をしている妹が夜も更けた折に、電話をしてきた。父の件でひどく怒っていた。
「お姉ちゃん、どう思う。私がせっかくトロミ剤を使って呑み込める食事を持っていってるのに、二人で肉じゃがそのまま食べてるんやで。コンニャクも。もう呆れて、何にも言わんとそのまま、帰って来てしもたわ。わざわざ運んでんのに。お母さんもお母さんやわ。もう、何考えてんのやろ」
「ああ、そう言えばお父さん、クルミと雑魚の佃煮、冷蔵庫から勝手に出して食べてしもたって。もう知らんって、お母さん怒ってたで」と、私。
「ええ、あんな硬い物。信じられへん。何考えてんのやろ。せめて、細かく刻むとか何とかしたらええのに、お母さんもお母さんやわ。それに老人は、水分補給が大事やのに、朝からコップ一杯の水も飲み切ってないんさ。ほっといたら、飲まへんのに」
「もう死んでく人間に、食べたいもん食べさしてくれって、お父さん言ってたで。お母さんも世話が大変なんとちがう」
「もう、誤嚥したらどうするんやろ。死ぬよ。夏の間は暑いし危険やから、ずっと老人ホームに入れよと思う。ちょっとお金かかるけど、お姉ちゃん、ええやろ」
「ええと思うよ」
 昨年の冬に、父は誤嚥性肺炎で入院して本当に死にかけたのだが、何とか回復した。以来、誤嚥を避けるため、お茶を飲むのもとろみ剤を使わなくてはいけないのだが、家に居る時、度々冷蔵庫から勝手に食べ物を持ち出す。ところが、施設では勝手なことができないというわけである。
 父は今年で88歳になる。私が柔らかいお饅頭を持っていってあげると、まるで子供のように顔をほころばせて喜ぶ。でもお父さん、7月に入って、勝手に甘いものが食べられない別世界に入ってしまったね。

人生でちょっとだけしくじった思い出     名無野権子

 どうしてあんなに私は機械に弱いのだろうか?
 私は十五年位前、某有名カレー店で働いていた。
 その店は、お客さんの注文をハンドというケータイ電話の様なもので手元操作し、それが料理人の元に送られるごく一般的なシステムだった。
 そのハンドが、どうしてもマスターできず、忙しい昼時にトンチンカンな連絡が送られると、とんでもない迷惑になってしまうのだ。それで、あきらめて店長に、店をやめたいと申し出たのだけれど、ちょうど宅配の人が空いていて、そちらに回して下さった。
 宅配も少しはハンド操作があるけれども、店の奥でややおちついてさせてもらえるので宅配の仕事自体は私の性分に合っていてなんとかやってゆけた。
 しかし、それでも、最低限のレジ操作位は人前でできないと仕事にならない場合があった。そこで再び事件を起こしてしまった。
 どう操作すればそんなことになるのか? それがわかっていたらそんなこと決してするはずないのだが、接客レジにレジ上からラベルが噴水のようにあふれ出し止まらなくなってしまった。
 店長が飛んできて止めてくれなかったら、ラベルの噴水はあふれ続けただろう。
 正直に告白すると噴水は後二回位起こった。これで首にならなかったのは、店長が人生の修行をしておられたか深刻な人手不足をかかえておられたか、の、どちらかであろう。
 機械というものは、犬のようなものかもしれない、と、私は感じる。
 こちらが嫌だ、キライだと思っていると瞬間向うに伝わり『アンタの言うことなんか、きいたれへん』と、思わぬ動きを生じるのではないだろうか?
 とにかく、なるべく忘れていたい思い出だ。おそらく店長にとっても。

情熱と忍耐の間(あいだ)          辻沙友子

「絵が上手くなりたい!」と、絵画教室の門を叩いたのは、今から4年前。2015年の春だった。今はもう行かなくなった。教室のホームページでは、開講スケジュールが更新されている。先生は今も、お元気でおられるようだ。
 京都四条の、マンションの一室。初めて入った時、「すごく落ち着いた所」という印象を受けた。3帖くらいの部屋が4つ。歩くと軋む木の床。木製の机と椅子。ジャズやクラシック音楽が流れ、生徒さんが10人くらい、熱心に絵を描いている。各々、描いているものは様々だ。壁一面を埋め尽くす、デッサンや抽象画などの作品の数々。反対側の壁際の棚には、石膏像や人形、ぬいぐるみ、鳥の剥製、空のワインボトル、造花などが、所狭しと並んでいた。
 先生、スキンヘッドで、白髪交じりの髭を蓄えている。定期的に生徒の絵を見て回っている。奥様も、先生の横で絵を描き、アドバイスを貰っておられた。一般の受講生に加え、美大受験を控えた学生さんもいた。
 私はこの教室で改めて、絵の奥深さを知った。輪郭線ではなく、陰影で物の形が分かるように描くこと。思い込みで描かないこと。描いている途中で、モチーフを見る角度を変えないこと。難しいと感じても、必ず最後まで仕上げること。
 フランス人形のデッサンの時、チェック柄のスカートが難しく、どの線がどの線か分からなくなった。途中で投げ出したくなったが、なんとかこらえて、最後まで仕上げた。
 デッサンを続けるうちに私は、自分の絵を直されるのが嫌になってきた。ある日先生に、こう言った。「わけのわからん絵が描きたいんです! 実際にあるものを、そのまま描くんじゃなくて、色んな物を組み合わせたりとか!」後にそれを、「イメージ画」と呼ぶと知った。
 1か月かけて、イメージ画を完成させた頃、趣味のバンドを2つ掛け持ちすることになった。忙しくて、絵画教室に行かなくなった。
 2年ほど経ち、「自分のスケッチブックを取りに行かなくちゃ!」と思い立った。ドキドキしながら、教室を訪ねた。
「今日は、何か描いて行く?」と先生に言われたが、自分には、以前のような根気がないと感じていた。先生と奥様は、「また何か描きたくなったら、いつでもおいで」と言ってくれた。それがとても嬉しかった。
 この教室の生徒さんは、年齢、性別、職業も色々で、描いているものも、みんなバラバラ。初めて来た人もいれば、20年通っているという方もいた。水彩画、油絵、色鉛筆画、デッサン、日本画など、様々な作品を観られて楽しかった。休憩時間には、学校の話、仕事の話、趣味の話、縁談の話、旅行の話など色々な話が飛び交っていた。先生が家で焼いてきたパンを振舞ってくださったり、タコ焼きパーティをしたり、教室向かいの、山鉾(祇園祭で使う)の町屋で作品展をやったりと、とても楽しかった。
 近い将来、何かを描きたくなった時は、また、あの温かい場所に顔を出すのもいいかもしれない。

知らんけど          ゆめのかけら

 私は大阪のおばちゃんが好きで嫌いだ。
 十年前のイタリア料理教室。そこに、ゆりちゃんはいた。
 先生の食材についての説明にいちいち大阪弁のノリでツッコミを入れるのだ。
「結局はいただけるものならなんでも〜。ホホホ」
 というゆりちゃん。
 試食の準備もテキパキ動き回る。その手際の良さといったらない。
 お料理のことについてもよくご存知だ。
 おすましの若い人たちも、ちょっとー、とひき気味だったが、レッスン毎に、ほんわかムードに変わっていった。
 何ヶ月かレッスンは続き、先生のオススメの京都の有名店に、みんなでランチに行こうとゆりちゃんが十名分の予約をしてくれた。
 だが、食事会の前日、ゆりちゃんから電話が入り、
「予定していた人が各々行けなくなったのだけど、行く?」
 ということだった。十名も予約していたのにとても気の毒になり、もちろん私は行くわよ、と返事をした。
 待ち合わせの場所では「良かった! 来てくれて感謝!」と私に抱きついた。
 京都のお店は八人分をキャンセルした私たちに、何もなかったかのように存分のホスピタリティを持って、目にも美しく、心を豊かにさせてくれる美味しいコース料理を振る舞ってくれた。
 そして、ゆりちゃんとの会話もどんどん進んだ。
 彼女は新聞記者になりたかったこと。本を読むことが何より好きで、たくさんの経験を積み、今は、有名な陶芸家に嫁いだこと……ちっとも自慢したりせず、ゆりちゃんのユーモアたっぷりの高尚な話に魅力さえ感じた。私にとって、その会話こそが、コース料理と同じ、いや、それ以上に、心を豊かにさせてくれる「料理」だった。私たちは「料理」を通して、たった二人のランチ会ですっかり打ち解けたのだった。
「生まれ変わったらな、私は大地にボーンと根っこ張って身動きせんと全部見据えれる大木になりたいわ」
 というゆりちゃん。ヒメは何になる? という質問に
「うーん、私はやっぱり風かな? 動けないのは嫌だし、自由に何処へでも飛び回りたい」
「抗生物質飲まれたら死んでまうで、その風邪ちゃうか、ガハハ、ほんだら、あんた妖精なって私の木の上にでも茶しばきにきたらええやん」
 というゆりちゃん。京都からの電車の中でも喋り続け、すっかり優しくあたたかい大阪のおばちゃんにハマってしまった私。
「それ、何々やろ! 知らんけど!」
 という大阪のおばちゃん会話もいいなあと思えるし、このおかしな人、ゆりちゃんが大好きになった。
 あれから十年、一緒に舞台を観に行ったり、シャンソンを聴きに行ったり、美術館の案内もしてくれる、万能なゆりちゃんは、今では私の心のマネージャーになった。
 今日も、
「ゆりちゃん、私、チケットどこにしまったかなー」
「またかいな! 荷物持ったるからゆっくり探し! どうせまだ時間あるやろ、知らんけど」
「知らんのかい!」
 いやー、ほんま大阪のおばちゃん、やっぱたまらんわ!

食、病を癒す。          奈良野めだか

 食べることの好きな夫がいる。
「お昼、何を食べよかなぁ」出勤前の夫の独り言である。私は問う。
「今晩何食べたい」すると夫は、
「さあ?」で終わる。夫の夕食への思考は、さあと短命である。
 そんなある時、夫の体に異変が起きた。
 前年の健康診断でも、引っかかっていたが本人自覚なく見逃したようだ。
(善良なるアホである)
 翌年の検診では、しっかり要精査とあり、結果なんと胃癌と宣告された。
 私の胃がキリキリと舞いだした。当の夫は淡々としている。考えてもどうしようもない事は、考えないらしい。
 思考の異なる夫が話しかけてきた。
「焼肉はやっぱり鶴橋や、」「そや、この間テレビで見たあのラーメン何処やった?」「うーん、お寿司もええなぁ行こう」と。
(夫よ、なんの話、それ意味わからんけど)
 だが、夫は続く。
「胃を切る前に美味いもん食べに行かな」
(一理ある、しかし今はセカンドオピニオンやで。まったく夫には往生する)
 しかしなぜか、私は食べ歩きにお供した。
 そして晴れて? 入院日を迎えた。
 よく食べ、よく寝、よく笑い、見た目、夫は普通である。(究極のアホか、まさかの賢者か、摩訶不思議な生命体である)
 その後、手術は無事終了し、時間をおいての抗がん剤治療が始まった。
 夫は徐々に壊れていった。
 もともと手先が器用な夫である。ひとたび料理に向かうと、食材選びから、下ごしらえ等、手間暇かける。味見する舌も繊細である。夫は美味しそうに良く食べる。
 それが、今や不食の日々が続いている。病院の特別メニューも、不味いと受け付けない。どうやら味覚も阻害されているようだ。主治医の笑顔も心なしか曇って見える。にっちもさっちも、お手上げだ。
 病室から窓の外を見やると、遠くに生駒山が見えた。
「なぁ。いま何、食べたい?」と私。
 しばらく考えていた夫は、ゆっくりと、
「おかいさん」と呟いた。
(分かった、合点、私にお任せ!)
 夫が言うおかいさんとは、茶粥の事だ。
 紀州生まれの夫は、子どもの頃、年中茶粥を食べていたらしい。夏は、冷してサラッと食べる。
 薫り高いほうじ茶で炊く茶粥に、金山寺みそや、古漬けを添えて食べたい。
 夫の食への意識は、まだ壊れてはいなかった。
 早々私は主治医に掛け合った。すると以外にも、あっさり許可が下りた。(医は仁術なり。主治医とは、こうでなきゃ)
 私は、家に戻り張り切って、茶粥を焚き糠床から、うんと漬かったキュウリやナスの古漬けを取り出した。
 もちろん故郷の金山寺味噌も一緒だ。
 そしてあの日。
 ほんの一口、箸をとる様子を私は、じぃ❘っと見つめていた。
(どう?)
「うん。美味いわ」
(食べた。食べました。それも美味いと。先生~。食べましたで……)
 あれから丸二年。夫は復職も果たしている。医学の進歩は目覚ましい。癌は完治する時代に向かっている。
 そして、いつもの朝。
「今晩、何食べたい……」
「さあ?」
 帰宅した夫に、またしても私は問う。
「今日、お昼なに食べてきたん?」
 すると夫は、
「さあ……それは、言われへんなあ」不敵にも夫はニヤリ。(なんでやねん)

父の記憶          吉田酔女

 心にもないことを言って男を振った私は、相手が立ち去るまで睨みつけていた。憤懣やるかたない男が、ようやく背を向ける。私の眼に一杯涙が溜まって、彼の背中が朧になる寸前に踵を返して立ち去る。一方では、別れ話を持ち出した男に、動揺を押し込めて「いいわよ」と応じる私。男は満足げな笑みを浮かべ、くるりと向きを変え、背中を見せて去っていく。私が見つめているのを承知してか、軽く片手をあげ、バイバイ、をする。「なによぉ!!」と地団太踏む私……。私の人生にそんなドラマは、残念ながらなかった。
 「背中」といえば、「子は親の背中を見て育つ」とよく言われるが、浮かぶのは、夜道をとぼとぼと歩き続ける、背広姿の父だ。それを実際に見たかどうか、は怪しい。
 そもそも私には、親の背中を見て育った、という記憶がない。いつだって私は、親と食卓で向かい合っていた。というか、食卓でしか親と顔をあわせることがなかったのかもしれない。キッチン、リビング、などというシャレた名前の部屋がなかった時代、長方形の座卓が置かれた四畳半が食事の場所だった。父は、奥の六畳間を背に座卓の短い辺に座り、母は台所を背に長い方の辺に座る。母が台所を行ったり来たりする中、私は父の向かいの場所に座って食事した。私の場所が定番になったのは、兄たちが家を出た後のことだったろう。
 営業で地方回りをしていた父は、月の大半を出張で留守にしていた。父は、書斎などというシャレたものもなかった家で、在宅中はいつも座卓の前に座っていた。母も家事の手が空くと定位置に陣取って、テレビを見たり新聞を読んだりしていた。親の留守以外、子供たちがその席に座ることはなかった。冬は座卓が炬燵になり、両親の間に練炭火鉢が置かれた。
 父は毎晩晩酌をした。会社の帰り道にある市場で、自ら肴を調達していた。そうしてゆっくり時間をかけて日本酒を飲み、〆は大きめの茶碗に盛られた熱々のご飯を、はふはふ、と頬張る。いつだったか、母が「食事が長くて困る」とぼやいたことがある。見慣れていた父の食事を、母が不満に思っていたとは!? 唖然としたが、母の愚痴を聞いたのは、後にも先にもその時だけだった。
 そんな父も、外で飲んで帰ってくることがある。我が家は街外れの、ちょっとした山の中にあった。幹線道路からS字のカーブを描くアスファルト道を昇り詰めると、木々に囲まれた広いスペースに出て、三方向に分かれる。少し下っていく道を進むと坂の片側に家が並び、そのうちの一軒が我が家だった。父は食事の時と同様、ゆっくりと歩く。背は低く、ちょっと小太り、帽子をかぶる習慣はなかったが、背広は懇意にしている洋服屋で誂えたものだ(当時はつるしの背広などなかったのかもしれない)。手には何も持たず、ネクタイは外されている。肩を落として、街灯の薄明りの中、とぼとぼ、とぼとぼ……、三途の川へ向かっているのだろうか、というような歩きだ。酔って帰宅する父の姿と、私の頭に浮かぶ父の姿が重なる。父はいろんなしがらみを背負って、黙って歩き続ける。嘆くでもなく、怒るでもなく、ただ坦々と、一定の速度、一定の足運びで。時々、「はあ」とか「ふう」とか息を漏らしながら……。
 食卓で向き合っていながら、私は父と話らしい話をしたことはなかった。父が自分を語ることも、私が自分の話をすることもなかった。私の頭の中に浮かぶ父の姿は、言葉にならなかった父の生き様なのかもしれない。

Mon essai わたしのエッセイ2

2019年11月1日 発行 初版

著  者:シナリオ・センター大阪校
発  行:シナリオ・センター大阪校

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シナリオ・センター大阪校

シナリオ・センター大阪校は、創立43年目の、シナリオ作家や小説家を育成するための学校です!

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