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小さな国に、小さなおひめさまがいました。
おひめさまは、まいにち、おしろのゆうびんうけの前に立っていました。手紙がほしくてほしくて、たまらないのです。お父さんの王さまや、お母さんの王ひさまには、よく手紙がくるのに、お ひめさまは、いちども、もらったことがありません。
あたたかくて気もちのよい春の日でした。
ゆうびんやのおじさんのすがたが見えると、おひめさまは、いつものように、ささっと走っていきました。
「わたしへの手紙、きてた?」
「今日は、これだけでございます。」
おじさんは、気のどくそうに、ふうとうを一通、手わたしました。見ると王さまあてでした。がっかりです。すると、おじさんは、
「いいものあげましょうか。」
と、もってきた大きなバスケットをあけました。
中には、いちわのにわとりが入っていました。
「このめんどりは、手紙のたまごをうむのです。うまれたたまごをわると、小さなふうとうが出てくるのですよ。」
「手紙のたまごですって! いつでもうんでくれるの?」
「たまごをうませるには、まず、おひめさまが、めんどりに手紙を書いて、それを食べさせなければなりません。」
「わたしが、手紙を? なんて書けばいいの?」
「そうですねぇ、わたしに手紙下さい、と書けばいいのでは? 手紙を食べさせると、つぎの日の朝、へんじの入ったたまごが、うまれるのです。めんどりに水とパンくず、とうもろこしをやるのも、わすれないで下さい。」
「わかったわ。ありがとう。」
おひめさまは、めんどりをどこへつれて行こうか考えました。いきものをもちこんだのが見つかれば、とり上げられるかもしれないからです。
「そうだわ。おもちゃのへやなら、めったにだれも入ってこないわ。」
おもちゃのへやは、ベットのへやのとなりにあり、おひめさまのおもちゃばかりおいてある、ものおきのようなひろいへやです。
おひめさまは、めんどりをそこへつれていくと、うまれてはじめて手紙を書きました。そういえば、今まで、手紙がほしいほしいとばかり思い、自分が書くなんて考えたこともありませんでした。
めんどりさんへ
こんにちは。わたしは、おしろにすむ、ひめです。わたしは、てがみがほしくてたまりません。おとうさまは、わたしがこどもだから、てがみはこないっていいます。
どうか、わたしにてがみください。
ひめより
書きおわると、手紙を小さく小さくおりたたみ、おそるおそる、めんどりの口もとへもっていきました。すると、
パカッ!
いきおいよく、紙に食いついたのです。それから、ゴクリとのみこむと、あとは、なにごともなかったかのようにしらんかお。
よく朝、おひめさまは、いつもより、ずっとはやくおきました。そして、すぐおもちゃのへやへ行き、めんどりのちかくをさがしました。
ありました。見たところ、ふつうのめんどりのとまったくおなじたまごが、一つころがっていたのです。
さっそく、たまごをコンッとわると、
「まあっ!」
中から、てのひらにのるぐらいの小さな小さな、きいろいふうとうが出てきました。元気な字で、
おひめさまへ
と、書いてあるではありませんか。
「わたしへの手紙、はじめての手紙!」
おひめさまは、うまれてはじめてもらった手紙を、てのひらでギュッとだきしめました。
そして、いそいそと、ふうとうをあけました。
ふうとうとおそろいの、きいろいびんせんをひろげると、
おひめさまへ
おひめさま、てがみ、ありがとう。
あたしのなまえは、メリー。
あたし、おひめさまのことばは、わかるけど、てがみでしか、おしゃべりできないの。
だから、また、てがみちょうだいね。へんじ、たのしみにしています。
メリーより
メリーへ
メリー、おてがみ、ありがとう。てがみをもらうのは、はじめてで、とってもとっても、うれしかった。うれしすぎて、ごはんをたべるのを、わすれてしまいそうになりました。
また、てがみをかくので、メリーもくださいね。ぜったい、くださいね。
ひめより
こうして、おひめさまとめんどりのメリーは、文通するようになりました。
おひめさまは、まいにち、かかさず手紙を書いて、メリーに食べさせました。そうすると、よく朝、へんじの入ったたまごをうんでくれます。水とパンくず、とうもろこしをやるのもわすれませんでした。
おひめさまは、その日にあったできごとを手紙に書きました。
たとえば、こんなふうに。
メリー、きょうは、とってもいやなひだったわ。ピアノのレッスンがあったから。
わたし、ピアノにがてなの。いくられんしゅうしても、なかなかじょうずにならなくて、せんせいにしかられてばっかり。
メリーがうらやましいわ。ピアノひかなくていいもの。
ひめより
おひめさま、ピアノのれんしゅう、たいへんだね。あたし、おひめさまのピアノ、いつもきいてるよ。
おひめさま、だんだん、じょうずにひけるようになってるから、あんしんして。
せんせいにしかられようと、きにしない、きにしない。
メリーより
メリー、ありがとう。
メリーのてがみで、げんきがでました。これからも、ピアノ、がんばってれんしゅうします。
ところで、わたし、チョコレートがだいすきだけど、あんまりたべさせてもらえないの。
むしばになるからですって。チョコレート、たくさん、たくさん、たべたい!
ひめより
にんげんのこどもって、チョコレートがすきだね。あたしは、ぜんぜん、たべたいとおもわないよ。とうもろこしのほうが、ずっとすき。
でも、いちばんすきなのは、おひめさまからのてがみだよ。
メリーより
メリー、わたしだって、メリーのてがみがどんなにたのしみか。まいあさ、しんせんなてがみのたまごをわるとき、とってもしあわせ。
おかげで、はやおきになりました。だれにもおこしてもらわなくても、じぶんではやくおきられるようになったのよ。
てがみってもらうのもうれしいけど、かくのも、たのしいわね。わたし、てがみがだいすきです。
メリー、ずっと、おもちゃのへやばかりにいてたいくつしませんか?
ひめより
ぜんぜん、たいくつしないよ。
ここには、いろんなものがいっぱいあって、みてるだけでもたのしいよ。
それに、おひさまがよくあたって、あかるいしひろいから、うごきまわれるしね。
しんぱいしなくても、だいじょうぶ、だいじょうぶ。
メリーより
よかった。
メリーが、へやをきにいってくれて。
ずっと、きになってたけど、メリーは、どうして、てがみのたまごをうむようになったの?
ひめより
あたしは、てがみがだいすきで、ゆうびんやのおじさんちでかわれてたときから、てがみがほしくてたまらなかった。まいにち、ゆうびんうけのまえでうろうろしてたら、こどもがいたずらしてあたしにてがみをたべさせた。
そのときから、てがみにかいてあることばがわかって、てがみのたまごをうむようになったんだ。
おひめさまとぶんつうしてるのが、いままででいちばんたのしいよ。
メリーより
メリーは、ふだん、とてもおとなしく、なき声ひとつ出しません。おひめさまなんてしらないよ、というようにツンとしています。
でも、おひめさまは、まんぞくでした。
メリーと文通をはじめて、二しゅうかんたちました。朝ごはんのあと、王さまがおひめさまに、大きなおもいはこをわたしました。
「この中のは、ぜんぶ、ひめにきた手紙だぞ。」
「手紙? こんなにたくさん、わたしに?」
しんじられませんでした。
でも、手紙を一通一通見ていくうちに、おひめさまの目は、かがやきだしました。
「これも、わたしあて。これも、これも、ぜーんぶ、わたしにきた手紙! ゆめみたい!」
きれいないろや、かわいいもようのふうとうやハガキばかりで、見ているだけで楽しくなります。
ふうとうをあけたとたん、オルゴールみたいな音楽がながれたり、ふんわりといいにおいがするのもあります。
紙でできた、小さなおにんぎょうが入っているのもありました。りっぱなびんせんに、じょうずな字で書かれたのも、たくさんあります。
うれしそうなおひめさまを見て、王さまは、にっこりしました。じつは、手紙はぜんぶ、王さまが国の人たちにたのんで書いてもらったのでした。手紙をほしがるおひめさまのために。
手紙が大すきなおひめさまは、一通一通にていねいにへんじを書きはじめました。勉強ならすぐあきるのに、手紙を書くのは、何時間でも続けられます。
気がつくと、空はオレンジいろにそまっていました。へんじを書く手紙は、まだまだのこっています。
「ああっ、いけないっ!」
たくさんの手紙にむちゅうになり、メリーに書くのをすっかりわすれていたのです。もらったりっぱな手紙にくらべて、うすっぺらい紙の小さな小さな手紙。でも、おひめさまは、メリーに書きました。
メリー、きょう、てがみ、たくさんもらったの。うれしかった。それじゃあ、またね。
つぎの日も、おひめさまは、手紙のへんじを書き続けました。
はこいっぱいあるので、ぜんぶにへんじを書くのは時間がかかります。でも、楽しくてしかたありません。一日中、つくえにむかい、むちゅうで書きました。
そして、きのうとおなじ夕方ごろ、
「あー、つかれた……。ああっ、いけないっ!」
メリーからの小さなふうとうを見て、思いだしました。
びんせんをひろげると、
おひめさま、てがみ、たくさんもらえてよかったね。おひめさまのことだから、きっと、いっしょうけんめい、へんじをかいてるんでしょうね。
あたしへのてがみも、わすれないでね。
「あれ? 手紙の字が、なんだか……。」
でも、それほど気にせず、前の日と同じように、みじかいへんじを書きました。気もちは、他の手紙の方にむいています。
またつぎの日も、おひめさまは、手紙のへんじをせっせと書き続けました。
この日、たくさんの手紙のへんじをぜんぶ書きおわりました。
メリーへの手紙は、わすれなかったでしょうか。
だいじょうぶ、ちゃんと書きました。とてもみじかいですが。
それからも、また、まいにち何通か手紙がきました。おひめさまがへんじを書いた人たちからの手紙でした。
「また、わたしからも書かなくちゃ!」
メリーには、いつも、いちばんさいごに書きました。どんなにみじかい手紙しか書かなくても、まい朝、へんじの入ったたまごは、うまれていました。
手紙のたまごの字は、少しずつ、うすくなっていました。
たくさんの手紙をもらってから、一しゅうかんたちました。
メリーからの手紙をひろげると、
おひめさま、ほかのひとからのてがみのへんじに、いそがしそうだね。
へやのなかで、おひめさまそっくりのおにんぎょうをみつけたよ。めがまるくて、かみのけがきんいろで、あかいほっぺた。
あたし、おにんぎょうのそばに、ずっといるよ。
今までにないうすい字に、さすがにメリーのことがしんぱいになりました。
メリー、どこかぐあいがわるいの?
てがみのじが、とてもうすくなっていたので、しんぱいです。
おひめさまは、心のおくで、思っていました。
字がうすくなったのは、自分のせいではないかと。
メリーをわすれていたわけではないけれど、ほかの人たちからの手紙にばかり、むちゅうになっていたのですから。
手紙をパクッとのみこんだメリーは、あいかわらずツンとした顔で、とくべつぐあいがわるそうには見えませんでした。
つぎの朝、メリーがたまごをうんでくれたのを見て、少し、あんしんしました。
さっそく、びんせんをひろげると、
おひめさま、これが、さいごのてがみです。もう、これいじょう、てがみのたまごはうめないって、あたし、わかるの。いままで、かかなかったけど、にわとりは、しぬまでたまごをうみつづけることは、できないんだよ。
きっと、てがみのたまごばっかりうんでたからほかのにわとりより、たまごをうめるじかんがみじかかったんだとおもう。あたし、まだ、うめなくなるようなとしじゃないもん。
あたしは、もう、たまごは、いっさいうめない。あたしがいらなかったら、おじさんにかえしてもいいんだよ。
でもね、あたし、ほんとは、おひめさまと、もっと、もっと、ぶんつうしたかった。
おひめさまも、てがみも、だいすきだから。
おひめさまは、へたへたとゆかにすわりこみました。
メリーから、もう、手紙がもらえない……。
その日も、おひめさまへの手紙が何通かきました。
手紙に書いてあることは、どれも、さいしょにもらった時と、あまりかわりありません。
「かわいらしく、かしこいおひめさま……。」
などと、会ったこともないのに、おべっかばかり、ならべただけのもの。
じぶんがとくいなこと、じしんのあることを、じまんするように、ながながと書いてあるもの。
学校で行ったえんそくや、あそびに行ったことを、作文みたいに書いてあるもの。
メリーからの今までの手紙も、読みかえしました。
……せんせいにしかられようと、きにしない、
きにしない。
……いちばんすきなのは、おひめさまからの、
てがみだよ。
……しんぱいしなくても、だいじょうぶ、
だいじょうぶ。
読んでいるうちに、なみだがあふれました。
「メリー、ごめんなさい……。」
どうして、メリーへの手紙を、いつもあとまわしにしていたんだろう。
いいかげんなへんじしか書かなかったんだろう。
字がうすくなっても、しらんかおしていたんだろう。
おひめさまは、メリーに話しかけました。
「メリー、わたし、きれいなふうとうやびんせんのすてきな手紙、たくさんもらったわ。でもね、メリーからの手紙とは、ちがうの。メリーのは、はげましてくれたりして、読むと、元気が出たわ。いつも、わたしのことを思って、書いてくれたわよね。それなのに、あたらしくきた手紙ばっかりにむちゅうになって……ほんとうに、ごめんなさい。」
おひめさまは、まいにち、メリーのへやへ行き、話しかけました。
たまごがうめなくても、メリーは、メリー。いっしょにいられるだけでいい。
文通できなくても……。
ふと、メリーのさいごの手紙のことばを思い出しました。
あたし、ほんとは、おひめさまと、
もっと、もっと、ぶんつうしたかった。
おひめさまは、はっとしました。
「メリー、手紙、書きたいんじゃない?」
ツンとしたメリーの目が、キラリと光ったような気がしました。
おひめさまは、今、メリーに字を教えています。
どうやって、字を書くかといえば、くちばしにインクをつけて、大きな紙に書くのです。
教えるのは、なかなかたいへんで、書けるようになるのは、いつになることか。
王さまにたのまれて、手紙をくれた人たちとの文通は、いつのまにかおわっていました。
でもメリーとは、これからまた、はじまるのです。
ぼくは、いつものようにバタバタと学校の用意をしていた。
「タケルくん、学校、気をつけてお帰り。私は、しばらく、旅行して来ますね」
と、おばあちゃんはやさしい声でいった。
「えっ、どこ行くの」
「ほら、遅れるわよ」
ちょうどその時、となりの海斗くんが迎えに来たので、ぼくはあわてて家を出た。
でも、おばあちゃんの話が気になって、ぼくは休み時間のドッジボールにも気が入らず、すぐにあてられてしまった。
ぼくが学校にいっている間に、おばあちゃんは出かけていた。
「おばあちゃんが、旅行って、どういうこと?」
「時々、旅行するでしょ。いつものことよ」
たしかに、新幹線に乗って「おすしを食べてきた」なんていってたこともあったけど。
母さんが話しているのを、父さんは聞いていないふりをしているようにみえた。
ぼくは、いやな予感がした。
それってときどき、当たる。きっと何かある。
ずっと前にも、こんなことがあった……あとになってわかったことだがぼくは、三才だったらしい。
突然ぼくは、一人ぽっちになって……ワーワー泣いていたと思う。涙でかすんだ向こうに「タケルくん」と、呼びかける女の人があらわれた。
それが、おばあちゃんだった。
その時、父さんは単身赴任中で、母さんが急病で入院したんだ。それが思った以上に長引いて、それからというもの、ぼくはおばあちゃんの引っ付き虫になった。
一人暮らしのおばあちゃんが、一緒に住むようになったのはこの頃だったって父さんがいっていた。
「本当に旅行?」
「そう、しばらくね」
「しばらくって、どれくらい?」
「そうね、きっと、連絡あると思うわよ」
「連絡があったら、ぼくにも電話代わってね」
「タケルは、本当に心配性ね」
「きっとだよ」
何日か過ぎていった。
「おばあちゃんから、何かいってきた?」
ぼくが聞くと、母さんはスマホのラインを見せてくれた。
【元気ですよ! 心配無用】
「えっ、これだけ? 元気って、どういうこと? 何か、あるの?」
「タケルがあまりにも心配するからでしょ」
そして、一週間が過ぎた。
おばあちゃんはまだ、帰ってこない。
家の前で、ぼくは本をパラパラとめくりながら、ぼんやりしていた。
「タケル! 元気ないぞ」
「海斗くん! あのね、おばあちゃんがいないんだ」
「それで?」
「だってさみしい。つまんない」
「なんだ、それ……ここだけの話にしておいた方がいいぞ」
「なんで?」
「クラスの女子にきらわれるぞ。タケル、その本、何?」
「これ、図書館で借りた本だよ。いつもおばあちゃんと行くんだけど、もう期限が切れていて返さないといけないんだ。でも、一人じゃ……」
「ぼくは、一人で行けるよ!」
「……でも……」
「もう、しょうがないな。ぼくと一緒に行こう。次は一人で行けよ!」
「一人じゃ、受付で話せないよ」
「いつまでもめそめそしていないで、がんばれよ!」
四年生の海斗くんは、お兄さんぶっていった。
「うん……どうしよう」
ぼくがぐずぐずしている間に、海斗くんは、さっさと歩きだしていた。
おばあちゃんが今、どうしているかを知りたいだけなのに、ぼくがおばあちゃんのことを話題にすると、父さんと母さんは何だかさけているみたいにみえる。
「サッカーの練習は楽しいか」とか、「今晩はハンバーグにしましょう」とか、ぼくは、小さい子じゃない、ごまかさないで。
ある日、宅急便が届いた。
ダンボール箱に、大きな梨が入っていた。
「タケルくん、食べてね」と、プリントされたメッセージカードが入っていた。
【ぼくの大好きな梨が届いたよ。ありがとう!
おばあちゃんは、元気にしていますか?
ぼくは、元気です】
ぼくは、母さんにラインをしてもらった。
十日後また、宅急便が届いた。
今度はブドウが入っていた。これも、ぼくの好きなものだ。
プリントされたカードには、「こちらは、のんびりしています」と、書いてあった。
【おばあちゃん、ブドウもうれしいけど、
一番うれしいのはおばあちゃんとおはなし
することだよ。早く帰ってきてね】
今度も、母さんにラインをしてもらった。
「おばあちゃんは、いつ帰って来るの」
「いつかしらね、旅を楽しんでいるのかしら」
母さんは、普通に答えてくれた。
その普通がおかしい。
「母さんは、おばあちゃんが嫌いなの? 何で心配しないの? もう、何日も帰ってこないんだよ」
「おばあちゃんが、のんびりしているというのなら、そうじゃないの」
「だって、おばあちゃんがいないと、つまらないんだもの」
それからは、毎週月曜日になると、「富士山がみえます」とか、「夕日がきれいよ」とか、「 今、大きな虹がかかっています」と、短いメッセージカードが届くようになった。
「やっぱり何かある。本当の事を教えてよ。かくしごとはいけないって、いつもいってるじゃないの」
ドキドキしながら、ぼくは父さんに聞いてみた。
「おばあちゃんは、手術して入院していたんだよ。今は毎日、病院で治療を受けるために、その近くに住んでいるんだよ」
「手術? 入院? 治療? 住んでいる?」
驚きが大きすぎて、ぼくの心臓はバクバクした。
「こんな大事なことを、教えてくれないなんて……」
ぼくは、涙がポロポロこぼれた。
「タケル、大丈夫か? 父さんも、そばで見ていて心が痛む思いをしたんだ……でも今は、元気になっているよ」
「うん、父さん、それで……」
「病気の治療には、段階があって……毎日、通院しなくてもよくなったら家に帰って来るよ」
父さんは、ことばをえらびながらいった。
「本当に大丈夫?」
「タケルには心配をかけたくないっておばあちゃんがいうから、旅行してることにしたのよ」
「じゃあ、あのメッセージを書いていたのは、父さん? 母さん? おばあちゃんの字じゃないからおかしいって思った」
ぼくの心配は消えないけれど、父さんのことばを信じようと思った。きっと、ぼくにいっちゃいけないって思ったんだね。
それからぼくは、母さんに写メをとってもらっては、庭に咲いたサボテンの花や、田んぼの稲の花を、ラインで送ってもらった。おばあちゃんの、大好きな花なんだ。
きっと、喜んでくれると思ったから。
そうして三ヶ月。
おばあちゃんの治療が次の段階に入ったのをきっかけに家に帰って来た。
季節も夏から秋にと移り変わっていた。
ぼくが学校から帰ると、おばあちゃんの見慣れた靴があった。
「おばあちゃん! 帰ってきたの」
ぼくのテンションはマックスだ!
おばあちゃんは、ニコニコしてリビングにいた。
「おばあちゃんおかえりなさい!」
「タケルくん、ただいま」
ぼくは、聞きたいことがいっぱいあって「えーと、えーと」としかことばにならなかった。
「ゆっくりお話してね。おばあちゃんは、ここにいるのよ」
「本当に、本当にずっといる?」
「はい、はい いますよ」
「ぼく、頑張ったことあるんだよ」
「何かしら?」
「図書館に一人で行けるよ!」
「一人で? すごいね!」
「うん! おばあちゃん…… 元気にしてた? 何か雰囲気変わった? 髪の毛切った?」
「軽くていいわよ」
「ぼくね、おばあちゃんに気をつけてお帰りっていってもらえるのがうれしいんだ。あの朝、ぼくはおばあちゃんに「気をつけてね」っていわなかったから、おばあちゃんが帰ってこなかったって思った……」
「タケルくん、ありがとう! もう、大丈夫。だから、遊んできていいよ」
おばあちゃんは、やさしい声でいった。
「うん、わかった。海斗くんにはなしてくるよ」
「タケルくん、気をつけてお帰り」
「いててててっ」
頭がズキンズキンする。
なんでだろう、決まって二月になると頭が痛くなる。
正確に言うと頭にある変なタンコブみたいなのから、痛みの元がどくどくと吐き出されている感じ。
でも今日はそれだけじゃない。
悩み事があると、それだけでも頭が痛くなる。
痛みマシマシってやつだ。マシマシって、ましになるって意味じゃない。増し増し。
昨日、学校の帰り道で、突然犬に吠えられた。
低いうなり声をあげて、ものすごい勢いで吠えてきた。まるで恐ろしいものに出会ったみたいに。
その時、頭のコブがズキンズキンとして、ある思いがふつふつとわき出てきた。
私、もしかしたら……オニかもしれないって。
そう考えたら、全てが納得いく。
クリンクリンに巻いている、少し赤茶色い髪。
笑うと見える、オニのキバみたいな八重歯。
怒ると、ものすごいバカ力が出る。
ケンカだって、男子にも一度も負けたことがない。
ちょうどツノが生えてそうな場所にある、小さな二つの頭のコブ。
そして、きわめつけは名前。
私の名前にはオニがいる。
九鬼あかり。九鬼と書いてクキと読む。九の鬼だなんて、ほぼオニってことだ。
おかげで、男子は私のこと「アカオニ」って言っているらしい。
まさか、ほんとにオニだったなんて……。
「いててててっ」
思い出したら、また痛みマシマシ。
そう言えば、今日は節分だった。
「オニは〜そとぉ〜!」なんてやられるのかと思ったら、さらに気持ちがしずむ。
「ちょっとぉ、あかり! いつまで寝てんの? 早くしないと遅刻だよ!」
お母さんの怒鳴り声がひびいた。
私はノロノロとふとんからはい出すと、痛む頭を押さえながらリビングに向かう。
「もう! 四年生もあとちょっとで終わりになるんだから、朝くらいちゃんと自分で起きて……」
また朝からお小言が始まるのかと思ったら、私の顔を見るなり、お母さんの言葉がとぎれた。
「やだ。あかり、顔真っ青。具合悪いの?」
「うん、頭痛い」
お母さんの右手が、私のおでこにふれる。
「熱はなさそうね。吐き気は? どこか他に痛いとことかある?」
看護師のお母さんは、こういう時、少しもオロオロしない。
「頭がズキズキするだけ」
お母さんは、てきぱきと私の手首をにぎったり、口の中をのぞいたり、顔や身体をあちこちながめてから、、
「で、学校、行ける? 休む?」
と、聞いてきた。病院へ行くほどの問題はみつからなかったようだ。
私はがっくりとうなだれて、
「……休んでもいい?」
と、こたえると、お母さんは、さっさと学校に休みの連絡をいれた。それから早口で、
「一人で大丈夫? よね? ここに痛み止めの薬おいとくね。ひどくなったら飲んでちょうだい。なるべく早く帰ってくるから。じゃ、いってきます」
そう言い残すと、さっさと仕事に行ってしまった。
お母さんは、すごく忙しい。だからいつまでも私にかまってはいられない。
「一人で大丈夫じゃない」なんて答えが返ってくるとは、考えもしないのだろう。ほんとはちょっと心細い。
一人で取り残された家の中が、やけに広く感じる。
お母さんの診断どおり、重病ってわけじゃない。ちょっとがまんして、学校に行けば、痛いことも忘れていたかもしれない。
でも今日は、なんとなく学校に行きたくなかった。
昨日まで平気だったのに「オニかもしれない」「オニだとバレるかもしれない」そう思うと、クラスのみんなの視線が怖い。
昨日の犬みたいに、みんなが恐ろしいものを見るみたいな目で、私を見るかもしれない。そう思うと、どんな顔してみんなと話せばいいのかわからない。
昨日までも、髪は赤茶色くて、クリンクリンしてたし、笑うと八重歯がのぞいてたし、頭には二つの小さなコブがあったし、男子からは「アカオニ」って言われてた。
何も変わらないのに「ほんとに本物のオニかもしれない」そう気づいたことで、みんなの態度もまるで違って見える気がした。
明日から、どうしよう……。
明日から、どうなるんだろう私……。
不登校になんてなったら、お母さん悲しむかな……。
ああ、痛みマシマシ。
私は、少し頭を冷やそうと、ダウンジャケットを羽織るとベランダに出た。
冷たい空気のせいで、顔まで痛い。
下を見下ろすと、マンションの敷地にある小さな公園が見える。カラフルなプラスチック製のすべり台と小さな砂場。そしてベンチが二つ。
こんな寒い日に、小さな公園には、誰もいないだろうと思っていたのに、女の子が一人、ポツンとベンチに座っていた。
「あ! ヒライさんだ!」
うちのマンションの三階に住んでいるヒライさん。同じ学年なのに、学校でほとんど見たことがなかった。
「ヒライさんとこのお嬢ちゃん、あかりと同じ学年だよね? なんか三年生になってから、学校に行けてないみたいだよ」
お母さんから、前にそんな話を聞いたことがある。
「ってことは、不登校の先ぱいってわけだ」
なんだか急にヒライさんと話がしてみたくなって、六階のベランダから叫んでしまった。
「おーい! ヒライさーん! そっち行っていい?」
ハッとわれにかえって、大声で叫んでしまったことを後悔する。ヒライさんは、ちらっと一瞬上を見上げたけど、そのまま気がつかなかったようにうつむいた。
突然上から声をかけて、まずかったかな。でも叫んでしまったからには、下に降りるしかない。
公園に着いたら、ヒライさんから少しはなれて、隣のベンチに座った。
「ヒライさんだよね? 私、九鬼あかり。四年二組の」
ヒライさんは、ちらりともこちらを見ずに、
「知ってる。同じマンションだから」
とだけ、答えた。
気まずい空気が流れる。
「えっと、その、なんかごめんなさい」
私は、ヒライさんにあやまると、その場をさろうと立ち上がった。
「しーっ! 静かに! そのまま動かないで」
ヒライさんが初めて私の方に向いて、小さな声で言った。
私は、こくんとうなずくと、もう一度、そっとベンチに座り直す。
ヒライさんは、いったい何をしているのだろう。しばらくだまって見ていると、ヒライさんの視線の先に、スズメがいることがわかった。
「スズメ?」
私のことばに、少しこわばっていたヒライさんの表情が和らいだ。
「そ、スズメ。かわいいでしょ。この子は、私の一番のお気に入り」
スズメなんて、どれも同じにしか見えないけど……。
そう思っていたら、見透かされたかのようにヒライさんの言葉が続いた。
「スズメなんて、どの子も同じだと思ってるでしょ? でもよーく見ると、一羽ずつ、柄も体つきも顔つきも違うんだよ。毎日見てるから、ここにくるスズメは全部覚えちゃった」
ヒライさんが楽しそうに笑顔をうかべる。
「今、なんでわかったの? って思った?」
私はドキリとした。
「あ、えっ? うん」
「あのね、私、テレパシーが使えるの」
ギョッとした私の顔を見て、ヒライさんがクスクス笑った。
「なんてね。冗談だよ。冗談」
私はドギマギしながら、話を元にもどす。
「そ、それよりさ、スズメが見分けられるって、ちょースゴイね。私には、ぜったいにムリ」
「そんなことないよ。みんな見ようとしないだけ。興味ないから、スズメとひとくくりにして、全部同じにしてしまう。でもね、ちゃんと見ようとすれば、一羽一羽の違いも見えるんだよ」
「それにね、ずっと見てると、見た目だけじゃなくて、性格も違うの。臆病な子、慎重な子、大胆な子、人懐っこい子。みんな違うの。だから、ずっと見ててもあきないの」
ヒライさんの話は、まだまだ続きそうだったけど、聞いてみたいことがあったから、思わず口をはさんだ。
「ヒライさんが、こんなにしゃべってくれると思ってなかったから、おどろいたよ。それよりさぁ、なんで学校に行かなくなったの?」
ちょっといきなりすぎたかなと思ったけど、返って来た答えは、意外なものだった。
「あ、学校? 私、ウチュウジンだから……」
は? どういうこと?
「やだなぁ。ウチュウジンって。そんなわけないじゃん。私のことからかってる?」
そう言いながらも、私は頭のコブをさすっている。
オニがいるのだから、ウチュウジンがいてもおかしくはない。
「あれ? 聞いたことない? 学校でみんな言ってるでしょ」
ヒライさんにそう言われて、クラスの女子が、こそこそとだれかの陰口を言ってたのを、思い出した。
感じ悪っ! って思ったから、無視してたけど、空に向かって両手を上げて、一人でぶつぶつ言ってて気持ち悪いとか、UFOを呼んでるらしいとか。きっとウチュウジンにちがいないとか…… なんかそんなことを言っていた。
あれは、ヒライさんのことだったんだ。
「ウチュウジンだから、地球人の学校には行かない。だって、バカバカしいでしょ? ウチュウジンなのに、地球人みたいになりなさいって。決めたの。ウチュウジンはウチュウジンらしく生きるんだって」
ヒライさんは、スッと空に向けて両腕を伸ばすと、
「おーい、みんな、こっちに飛んでおいで!」
そう言ってにっこりとほほ笑む。迷いのない晴れやかな笑顔。
そっか、ウチュウジンはウチュウジンらしく、オニはオニらしくでいいんだ。
とたんに、さっきまでのどん底な気分は消え去った。
ズキンズキンと、コブから吐き出されていた痛みの元が、今はドクンドクンと、イキイキとした鼓動に変わっている。
「ヒライさん、ありがとう!」
ヒライさんが、キョトンとした顔をしている。
「え? 私なにかした?」
「まぁね。それよりさ、私と友だちになってくれない?」
ヒライさんのキョトンとした顔が、今度はおどろいた表情に変わった。
「ねぇ? 聞いてた? 私ウチュウジンだよ?」
「そんなの、いいに決まってるよ。私だってオニだし」
ヒライさんのまん丸な目が、さらにまん丸になった。
「えー! うそ!」
私はヒライさんの手をむんずとつかむと、コブのあたりに持っていった。
「ほら、これ、ツノ」
「うわー! ほんとだ! やったー! オニが友だちなんて、なんかすごくカッコイイ」
オニとウチュウジン。
なんだか、二人でいると無敵になれる気がした。
市の広報車がマイクのボリュームを上げて、静かな住宅街を走り抜けた。
町内の公共施設に設置された非常時警報装置からも、緊迫した女性の声が流れ、一斉配信されるスマホの緊急警報に、だれもが不安をつのらせた。
駅から続くメーン・ストリートには、パトカーが配置された。
『さきほどURS研究所から、猫が一匹逃げました。この猫は研究中のウイルスによる危険な症状が出ています。
見かけた人は、すぐに保険所か、または警察にご連絡ください。
決して捕まえようとしたり、近づいたりしないで下さい。咬まれる危険があります。
また、お宅で飼われているペットの外出は控えて下さい。もし飼われているペットが、外で傷を受けるようなことがあれば、ただちに110番に通報してください。
逃走中の猫は、大型のトラ猫の雄です』
このヒューマン・タウンの住人は、新設された一本の私鉄とマイカーで、職場や学校に向かう。 丘陵を崩して造成された広大な土地には、一戸建ての庭付き住宅が整然と立ち並び、規格化されたようなマンションが、同じ向きに並んでいた。
かつては先端を行くニュー・タウンだったが、今やオールド・タウンと呼ばれて、住人もまた高齢者が多くを占めるようになっていた。
だから昼のこの街には、お年寄りと小さな子供をもつ主婦が多い。
「ねえ、聞きました? ウイルス猫ですって。咬むって、狂犬病みたいなものかしら?」
「猫でしょ。それなら狂猫病ですわ。だから、訳の分かんないような研究所がある所なんて、住みたくないって言いましたのよ。それなのに主人ったら、先端科学の研究所がある学術都市っていうイメージに憧れて」
お年寄りの家の電話は、どれもお話し中。
「聞いたかね、病気持ちの猫らしいじゃないか。この分じゃ、今日のグランド・ゴルフはお休みだろう」
「まあ、外出はお控え下さいって事だからな。ところで、あんたんちの猫は大丈夫かい」
「うちのは外に出さないから大丈夫さ。でもさ、トラ猫なんてそこら中にいるんじゃないかね。ウイルス猫ですなんて名札でも下げているって言うのかい、ばかばかしい」
また広報車が回って来た。
『保育所、幼稚園、小中学校の児童は、
自宅までマイクロバスで送る事になりましたのでご安心ください。
繰り返します。猫に近づかないで下さい。
姿を見かけたら、直ちに通報してください。
ペット、特に飼い猫は、絶対に外に出さないで下さい』
「パパ、研究所からウイルス猫ってのが逃げたんですって。いま大変なのよ、この街」
「なんだい。そのウイルス猫って?」
「実験中の猫らしいのよ。ウイルスによる症状があるんだって。出会った相手を咬むみたい。人間も咬むらしいのよ。だから外出は控えるようにですって。しばらく外に出られないの。お願い、帰りに夕飯のおかず買ってきてね」
「おいおい、ぼくが帰るころまでには、その危険な奴は捕まえてくれるんだろうな」
「さあ、どうかな。とにかくしばらくは出られないから、よろしくね」
窓を閉ざした家々から、不安そうな顔が通りを覗く。庭に繋がれていた犬が、突然玄関に閉じ込められて、不満げな声で吠える。
「みーちゃん、みーちゃん」と、出歩いている飼い猫を探す声が聞こえる。
いち早く事件を聞きつけたマスコミの車が、半開きの窓からカメラを差し出して街の様子を映している。
異様に静まり返った、真昼のヒューマン・タウンだった。
パトカーのけたたましいサイレンの音がした。
家々の窓から一斉に覗いた人の目に、住宅街の道路を駈け抜ける茶色の塊が見えた。一瞬のことだった。
「トラ!」
「トラ、トラだっ!」
造成中の草むらに向って、風のように駆け抜けたもの。ちらりとでも見た人はみんな、一瞬それがトラだと感じた。並はずれて大きなトラ猫だったから。
(まさか!)と打ち消したものの、危険な生き物であるという点では、みんなが認識せざるを得ない大きさのトラ猫だった。
パトカーが追跡して行った。消防車や救急車も後を追いかけて行く。呼び出された猟友会のメンバーが、銃を持って参加していた。マスコミの車も一斉に動き出した。
そして一時間後、あっけない幕切れでこの騒動は終わった。
当のトラ猫は、造成地のはずれの林の中で、満足げな様子で寝ていたというのだ。
猟友会の人の麻酔銃でうちとられた問題の猫は、研究所に送り返された。
研究所のトップたちが並んで、薄くなった頭を下げている映像がテレビで流れ、事件は一応終了した。
この騒ぎに腹を立てた住人もいたが、向けられたマスコミのマイクやカメラに、たくさんの目撃者が登場し、みんなちょっとしたヒーロー気分で応えていた。
だが実際に放映されたのは、そのごく一部に過ぎなかった。
庭の犬小屋に暮らす犬は、また庭に繋がれ、気儘に出歩く種類の猫は、猫専用出口から出歩き、 人々はその日の午後、この振って湧いたような事件のおかげで、今まで話した事もなかった近所とのお付き合いを楽しむ事ができた。
「何しろ、咬むって言うのが怖いですよね。それによって病気が広がるなんてねえ」
「そりゃ咬まれたり、咬みかえしたりして、病原菌をばらまかれたら大変だ」
「それに、まるでトラみたいに大きかったんですって」
「巨大成長のウイルスなんて、あるんでしょうかねえ」
「遺伝子組み替えの巨大猫だったりしてねえ」
「どうも、すぐに始末されるって話だ。マスコミが追いかけているらしいけど」
このころ、塚原さんの家では、とんでもないことが持ちあがっていた。
事件の前から出かけていた飼い猫のトットが、首から血を流して帰って来たのだ。あの騒ぎの折に奥さんが必死で探していたけれど、見つからなかったのが、騒ぎが収まった夜になって、今にも死にそうな有様で戻って来たのだ。
首とお尻の辺りに咬まれたような傷があり、血が流れている。
「どうしよう……もしもそのウイルス猫にやられたんだったら……」
塚原さんの奥さんは、病院に連れて行くのをためらった。
もしも……ならば、トットも始末されるに違いない。
「大丈夫。お母さんが治してあげますからね」
トットの傷は、幸いなことに骨にまでは達していなかった。
「怖かったでしょ、かわいそうに」
奥さんは傷口を念入りに消毒してから、薬をぬりこんだ。トットはショックのせいか、とてもおとなしかったし、昼も夜もうとうとと寝てばかりいた。
一週間ほどして、人々があの騒ぎを忘れかけ、飼い猫も出歩く自由を楽しみ始めた頃、家の裏庭や造成地の草むらで、すさまじい猫の声がするようになった。猫の喧嘩だ。
声でけん制するうちに、取っ組み合いとなり怪我をする猫。目をぎらつかせ、毛を逆立てて飛びかかる猫。巴になって転げまわり、死にかけの傷を負う猫。日頃上品に家の中に居る血統書付きの猫までもがその声に苛立ち、隙あらばと脱出したがる。よれよれになってへたばって帰る、トットと同じような猫もいた。
ついに草むらや、裏庭に猫の死骸が見つかるようになって、問題は深刻になってきた。
「ウイルス猫の祟りだ」
「いえ、あのトラ猫が、ウイルスを撒いて行ったのよ」
「咬まれた奴が、また咬みかえすことで、広がっていくんだ」
「あの時咬まれた野良猫がいたんだわ。それが原因かも」
「だけどあの後、保健所や研究所の職員が、ここら一帯をすっかり調べただろ。けがをした猫や、死んでいる猫がないかって」
野良猫に餌をやる人もいて、このところ野良猫天国のようになっている。
確かにあの折、野良猫は捕獲され研究所に収容され、研究の一助になったらしい。それでも逃れたたくましい奴がいたのだ。
間もなく飼い猫の聞き取りが行われた。あの日、外で怪我をした猫は居ないかと。
「とにかく、今は猫だけで済んでるけど、まさか犬もなんてことになったら! そう、猫は全て保健所で調べてもらうべきですわ」
「そうなんです。あの声のおかげで、子どもは怯えますし、夜も寝られません」
「そうよ、狂った猫に咬まれたりしたら! ああっ、ぞーっとするわ」
塚原さんの家では、トットがドックハウスを作り変えた檻の中で、目をぎらつかせて唸っていた。あれからもう、体重が二倍ちかく増えている。餌をやる奥さんにも咬みつこうとする。猫トイレのシートを噛み千切る。特に喧嘩をする猫の声が聞こえると、興奮して暴れまわる。金網で囲ったハウスの中を、走り回るのだった。
子どもの居ない塚原さんの家では、完全に一部屋をトットのために使って仕舞っていた。
「ああ、トットちゃん、かわいそうに。ウイルス猫になっちゃったのね」
ついにこの問題は猫だけに留まらなくなってきた。被害が犬にまで広がる気配をみせてきたのだ。用心のために家の中だけで飼われている犬も、金網の檻の中で飼われている犬も、近ごろむやみに吠えるようになったと言うのだ。何時もイライラとしていると言う。
原因はあの猫に違いない。野良猫に感染したものが、空気中にばらまかれたのかも。
犬を飼っている人たちは、猫を飼っている人を悪く言うようになった。
「この際猫はすべて始末した方が、住民にとって安全である」と。
研究所の責任者が、住民集会に呼び出され、怒声を浴びせられた。
「あってはならない事でして。いえ、あれは猫だけのもので、犬は大丈夫のはずですが……はあ? 病気になった飼い猫の補償ですか。ですが、当日あの猫に咬まれたという届け出はございませんでしたし、当方としましても、すぐに野良猫の一掃をいたしました。いえ、あのトラ猫は一匹だけです。もちろん、あれは処分いたしました。あの日に怪我をした飼い猫をお持ちの方、いらっしゃいませんでしょうね……無いですよね」
飼い猫のいる人たちは、お互いを疑る様にチラチラと見た。犬の飼い主たちは、そんな人たちを憎らしげに見まわした。
「お宅の猫ちゃん、近ごろ見かけませんけどぉ」
「ええ、出しませんもの、外になんか。あら、ご心配して下さってるの。元気ですわよ。何なら連れてまいりましょうか?」
「そうさね、猫を飼っている人は、皆に見せたらいいんだ。元気だって証拠にさ」
「でも他の病気で弱っているって事もあるでしょ。それに年寄りの猫は我々と同様に、よぼよぼしてますからねえ」
「とにかく、猫は困るんだよ。治る手だてがないのなら、可哀想だけど始末してもらわないと」
「そうだそうだ。何も虐待しようって言うんじゃない。元気なペットを守るため、安らかな方法で始末してもらえばいいってことだ」
すでに何らかの症状が出始めた猫を持つ飼い主は、そっと話の輪から去って行く。元気な猫の持ち主も、不安をかくせないでいた。
ついに猫の捕獲に関する書状が回覧された。
咬む症状がたびたび現れる猫、同様のペット並びに生き物は、すべて保健所に引き渡す事。そのような症状がなくとも、目が異常にぎらついたり、すぐに興奮する様子がある場合、これも保健所に連絡して検査を受ける事。
猫も犬と同様に登録を義務づけ、違反するものには罰金が課せられる事。
塚原さんの家では、また一段と大きくなったトットを眺めながら、奥さんが泣いていた。
「こんなトットを見たら、あの時咬まれたって事がばれちゃうわ。トットが病気を広げるなんて、思っても見なかったもの。お母さんが悪いのよ。傷が治ったから、もう遊びに行ってもいいなんて外に出したんだから」
トットは小型犬ほどの大きさになった体を、ぐるりと丸めて眠っていた。
野良猫はもちろんのこと、地域猫と称する外猫や、飼い主のはっきりしない猫は姿を消して行った。涙ながらに引き渡された猫もいたが、飼い猫の多くは家の中でしっかりとつながれているらしく、保健所行きの数は少なかった。
それでも時々「家から猫の唸り声が聞えたと、通報がありまして」なんて保健所の係員が訪ねて回ることがあった。
皆が監視の目を光らせている。猫を飼っていてもいなくても、せっかく手にしたマイホームであり、学術研究都市というグレードの高いこの街を、こんな猫のために評判を落とすなんて許せない。住人の怒りが、研究所の責任から猫の飼い主の責任となって行った。
塚原さんの奥さんは、窓を閉め切り、厚いカーテンで覆い、部屋の中を段ボールで囲った。トットは暗がりを好むようになっていたし、唸り声が外にもれるのを恐れたから。
トットのぷっくりとしたお腹は、息をするたびに波打っていた。
「塚原さん、トットちゃん最近見ませんけど、もう登録はお済になったんでしょ」
お隣さんが聞いてきた。何時もトットが庭でおしっこをしただの、松の木で爪をといだのと、クレームを付けてくるお隣さんで、そのたび塚原さんの奥さんはお詫びのおしるしを持って伺っていたのだ。
「それが、トットはもう亡くなってますの。可哀想でしたけど、あの時亡くなってて良かったって思いましたわ」
「あの時って、まさか、あの?」
「いいえ、狂猫病じゃありませんわ。あの騒ぎのちょっと前でしたもの」
「はぁ、そうでしたかねえ。何だかあの後も見たような……」
「だって、ほら、ここに居ますのよ。死んでも近くに置いてやろうって」
奥さんは庭の奥の一隅を指した。人工芝で覆われた盛り土が庭の片隅にある。トットには申し訳ないが、いずれはという事で、秘かにご主人が穴を掘り、板を渡した上に盛り土をしておいたものだ。
「どこかで農薬を撒いたんでしょうねえ。ひどい苦しみようで、あっという間に」
猫害で頭に来ていたお隣さんは、時々境界のフエンスの下に、クレゾールを撒いていた。
「うちは農薬なんて、そんなもの使っていませんからね」
「まさか、お宅はそんなことなさるはずありませんでしょ。あの子も可哀想でしたけど、今はかえって良かったかと思いますの」
トットは運動不足と日照不足とストレスから、段々弱っていった。それでも食欲だけは衰えずよく食べる。せめても食事だけはと、奥さんは人間並みの刺身や赤みの肉など与えていた。大きさはストップしていたが、重さは増していて動きが鈍い。グレーのつややかな毛並みが塚原さんの自慢だったのに、今はばさばさで肌が透けて見える。ギラギラしていた目が、物憂げにどろんとしていた。
「ごめんね。お医者さんにも見せてあげられないし、お薬もあげられない」
塚原さんの奥さんと同じような人が、他にいるかもしれないが、少なくとも他人には分からなかった。いや、分からせなかった。自分の家族とペットを守るために。
それからしばらくして、ウイルス猫撲滅宣言が発表され、街はまた静寂を取り戻した。
そしてトットが、茶色いシマシマの子猫を一匹産んだ。
「トットちゃん、いつお母さんになったのよ……。あの時はまだ子猫じゃなかった。じゃあ、あの後遊びに出したとき?」
あのトラ猫の……そんなはず……。でもこの子どもは? 母子感染……。
奥さんは、夕方までキッチンから動くことができなかった。その夜帰宅したご主人と二人、遅くまで声をひそめて話し合った。トットに聞こえやしないかと用心しながら。
子どもをなめまわし、おっぱいをやるトットは、あの狂った時期が嘘だったように、もの静かで優しい顔をしている。
そんなトットから、子猫をとり上げるなんて事は……そんな事ができるのなら、とうの昔にトットを始末していただろう。
今の所、普通の子猫としか見えないものを、不確定要素を懸念して始末するのが賢明か……。
二人の長い話し合いの結果、現状維持でおさまった。
子猫が産まれて一週間がたった。そしてトットは死んだ。自分の役目を終えたかのように、静かに息を引き取った。
暗がりの中で、トットは庭に掘られた深い墓穴に葬られ、人工芝でおおわれた。ご近所中がテレビ観戦の時間帯に。
それからの毎日、塚原さんの奥さんの育猫が始まった。柔らかいスポイトで、子猫の口からミルクを流し込む。それを日に何回もしなくてはならない。お尻をこすっておしっこをさせる。寝床の温度に気を配る。
「あんたはトットちゃんの形見、置き土産よ。絶対に悪い子になんか、させませんからね」
奥さんは、自分の行く所、行く所すべてに、子猫を連れて行った。ペット不可の大型店をやめて、昔からある小さな個人商店に買い物に行く。籠の中に入れられた子猫は、か細い声で「みゅー、みゅー」と鳴く。
「猫騒動がおさまって、あんたはいい時に産まれたねえ」
子猫の愛くるしさが、見知らぬ人とでも話す事ができる架け橋となった。
「あら、また子猫を?」
子猫を抱いて庭に出ていた塚原さんの奥さんに、お隣さんが言った。
「ええ、研究所も対策を講じて行くそうですから、もうあんな馬鹿騒ぎは起きないでしょう。私も絶対外には出しませんし、家の中でもつないでいますので、ご安心なさって」
「ほんとうに、あんな事があると、何だか他人様の心が分かるってもんですね。誰かが怪しいとか、変な様子だとか、疑ったり告げ口したりしてねえ。でも、何だかあの時はみんなが団結っていうか、一緒になったみたい。あれからは、みんなが同じ話題で話し合うなんて事ありませんものねえ」
奥さんの腕の中の子猫は「みゅーっ」と鳴くと、眩しげに瞳孔を細めてお隣さんを見つめた。
五月にしては暑い日だった。
城天守を出た途端、先を行く女たちは、一斉に日傘をさし始めた。
この地は江戸時代、交通の要所として栄えていた。城も築かれ、歴代の藩主によって治められていたが、明治になって藩が廃止されてからは、藩主が去り、城は取り壊された。
その後、城があった形跡はわずかに石碑が示すのみだったが、一世紀半近く経った今年、天守が復元され城は再びこの地に甦った。
「新築で単に城の形をしているだけの建物って思っていたけど、結構見応えあったわね」
「展示がよかった」
「町のいいシンボルになるわね!」
女たちは城を振り返り、早速己の評価を披露し始めた。皆少し興奮気味なのがSにも伝わってくる。
彼女らは市民講座「郷土の歴史を学ぶ」の講師を務める彼の受講生たちだ。
高校で歴史の教師をしていたSに定年後、市民講座の講師の依頼が来たのは数年前。その後、彼の講座は一定の生徒が集まる人気講座として毎年開かれていた。
今年は復元されたばかりの城天守の見学を兼ね、史跡を巡りながらの講義を授業に取り入れてみたのだが、受講生たちにも好評そうだし、S自身も手応えを感じる。
(今年の講座は、後何回か外に出てみてもいいかもしれない)
行く手に見えてきた神社に皆を誘導し、説明を始める彼の声に自然と気合いが入る。
「ここが城主を祭った桜井神社です。ここには日本赤十字社の前身である博愛社の記念碑があります。最後の城主が、日本赤十字社の設立者の一人だったからです」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
境内に数人の人間が入ってきた。
一行が石碑に近づいてきたので、石楼の縁に寝そべっていたわたしは、あわてて裏側に隠れた。
「城主の家紋は桜でした。桜を家紋にしているのは、日本国中でこの家だけだと言われています。境内には立派な桜の木があり、花が満開になる季節には、軒先瓦の桜模様と融和して粋な風景が見られます。これからゆっくり観賞してもらいますが、是非満開の桜を想像しながら見て回ってください」
「軒先瓦、本当に桜だわ!」
屋根の先に連なる軒先瓦いっぱいに、うす桃色に着色された桜の花、花、花……。
話し声につられて、社の屋根を見上げたわたしの前に、花びらが一枚舞落ちてきた。
桜の花びら?
途端に視野がぼやけて、日傘の群れがかすみ、色が薄れ、やがて真っ暗になる……。
バランスが崩れてうずくまる。
しばらくしてゆっくり目を開くと、辺りは薄暗く寒くなっていた。
先程までわたしの前にいた人間たちの姿は跡形もなく消え、境内には誰もいなくなっていた。
不安にかられてきょときょとするわたしの前を、いきなり何かが通り過ぎて行った。
見るとおかっぱ頭の少女の後ろ姿。
彼女は社に着くと一心に神に祈る。
少女の後ろ姿に桜の花びらが舞う。
さくら……?
わたしはその時になって、境内の桜が満開になっているのに気付く。
少女は踵を返して鳥居まで戻り、またお社に戻って祈るという行為を繰り返す。
お百度参り……?
少女が横を通過するたび、彼女の思いがわたしの中に蓄積され、わたしは彼女の意図を知る。
少女には病に冒された四歳下の妹がいた。薬も手に入りにくい時代、妹の命はもう自身の生命力に頼るしかない状態だった。
少女は昔祖母に聞いたお百度参りを、誰にも告げず一人で実行しているのだった。
少女が通り過ぎるたびに、彼女の意志がわたしの中に入り込み、わたしはいつの間にかその少女と同化していた。
ああ、苦しい、苦しい、苦しい……
我慢できなくなって目をぎゅっと瞑る。
暗闇の中で、幼い手が見えた。横になって手をこちらに差し出していた。しばらく頼りなげに揺れていたが、力尽きたのか下に落ちていく。
わたしはあわててその手に触れる。
しかし幼い手は限り無く冷たかった。
わたしは大声で叫んでいた。何を言っているのかは分らないがとにかく泣き叫んでいた。
「あーあ、桜の季節だったら良かったのに」
「近くなんだし、来年是非見に来ようよ」
華やいだ話し声が聞こえてきた。苦しさは嘘のように消え、辺りはいつの間にか明るくなっていた。
見覚えある日傘の群れが境内に散り、青々と茂った桜の葉の間から漏れる日差しが、地面に揺らいでいた。
(いったい何が起こったんだ)
わたしは戸惑いながら、動かずにいた。
「まあ、かわいい」
わたしの頭をなでようと手を伸ばしかけていた女に、相方が声をかける。
「あそこでお守り売っているみたいよ。ちょっと見ていこうよ」
「そうね」
女たちが行ってしまった後も、わたしはまだしばらく動く事が出来なかった。
川を渡り数分歩くと、道路脇に古びた塀のある公園に着いた。
「この壁の傷、なんだと思いますか?」
講師が無数の穴が並んだ壁をさし示す。
「銃撃跡?」
誰かが自信なさそうに、遠慮がちに答えた。
「そうです、そうです。第二次世界大戦の時の米軍による機銃掃射の後です」
講師は説明碑をかいつまんで読み上げる。
「機銃掃射による弾痕が残る塀……」
壁は元小学校校庭の塀で、空襲の記憶をとどめるため、弾痕が残るこの塀を保存したと締めくくっていた。
しばし皆は黙って、横に不気味に並んでいる穴を目で追っていく。
わたしは吸い寄せられるように、一行の後を追っていた。
男が塀の説明を始めたのを、ぼんやりと聞いていた。
ドッドッドッドッドッドッ……ドーン!
辺りがいきなり暗くなり、大きな音が鳴り響く。
わたしはまたさっきの少女になっていた。
でもさっきより成長して、もう少女とは言えない年になっていた。
ドッドッドッドッドッドッ……ドーン!
爆撃機が焼夷弾を落とし、回りの建物が次々と炎に包まれ始めた。
逃げ惑う人、人、人……。
わたしは、人の群れに混じって、近くの小学校の防空壕目指しひたすら走っていた。
道ばたに少女が一人座り込んで泣いていた。
妹と同い年ぐらいの女の子。戦争が始まって、だんだん物資がなくなり、まともな治療も出来ないまま亡くなった妹。
わたしは思わず立ち止まってしまった。
その時遠くから今までと違った爆音がし始めた。振り向くと、小型の戦闘機がこちらに向かってきていた。
バッバッバッバッバッバッバ……
戦闘機が銃撃を始めた。操縦席の人影がはっきり見えるぐらい機体はあっという間に真近に迫って来た。
「逃げないと撃ち殺されるよ!」
わたしはとっさに少女の手をつかみ駆け出した。
小学校はもうすぐだ。防空壕にたどり着けばどうにかなる。
わたしは少女の手をさらに強くにぎり、必死で走った。
後ろで悲鳴が何度も聞こえ、バッバッバッバと大きな音が連続的に続いていたが、わたしたちはひたすら走った。
振り向いたら、立ち止まったら、絶対射ち殺される。
やっと校門にたどり着いた。急いで中に飛び込み、門柱に身を寄せる。でもここはまだ安心できない。防空壕は、校舎の向こう側にあったはずだ。
「もう走れない」
少女が座り込んで、弱々しい声を上げる。
「だめだってば!」
わたしは前を向いたまま、少女の手を必死で引っ張って前に進もうともがいた。でも少女の体は動かない。
振り返ると、少女は後頭部が割れて全身が血だらけになっていた。
思わず手を離すと、少女の体は糸が切れたマリオネットの様に、へなへなと地面に崩れて落ちていった。
「わあああ!」
わたしは腰を抜かして座り込んだ。そして断続的に悲鳴を上げ続けた。
「よく残ってましたね」
「ここで何人も亡くなったんでしょうかね」
人の声が聞こえて、ハッと気付き辺りを見回すと、そこは古びた塀の前。機銃掃射の跡を見入る皆の後ろで、わたしはまた猫に戻ってうつろに座り込んでいた。
でも、目を瞑れば、崩れ落ちた少女の姿が生々しく甦る。
安らかにお眠り……。
わたしは静かに黙祷した。
一行は寺町地区に入る。
「寺町は初代藩主戸田氏が、この辺りに寺院を集めて作った町です。江戸時代初期は二十の寺院が集まっていたと言われています。その後、移転や廃寺がありましたが、現在も十一寺が軒を連ねています」
石畳の道路沿いに立つ寺々を眺めながら歩き、ひときわ大きな寺の境内に入った。
「この寺には三つの重要文化財の建造物があります」
先を行く日傘の群れが揺れ、辺りの風景も揺らぎ始めた。
でももう戸惑わない。
瞬きすると日傘の群れは消え、わたしはまたさっきの女になった。彼女(わたし)はさらに成長し、大人の女になっていた。
境内でかくれんぼする子どもたちの姿が見える。
夕暮れなのか、辺りは少し薄暗くなりかけていた。
わたしはその中の一人の少年を目で追っていた。
わたしに気付き少年が駆け寄ってくる。
少年はわたしの子ども。
ほんわかとした喜びに満たされながら、わたしは少年を見続けた。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「あらこの猫、桜井神社にいた猫じゃないの? ずっと私たちに付いて来ていたのかしら」
受講生の一人が、列の後ろにいたキジトラの猫に手を差し出し、おいでおいでをした。
「そう言えば、さっきの塀の所にもいた気がする」
「この子も先生の講義聞いていたのよ、きっと」
「まさかあ。そう言えば猫をよく見かけたわね。この辺りは猫が多いのかしら」
皆の目が猫に向くと、猫は後ずさりし、あっという間にその場から姿を消した。
寺町の外れに、今時めずらしい古びたタバコ屋があった。
ばあさんが一人、店の奥で居眠りをしていた。
Sは店先に立って声をかけた。
「セブンスターください」
「はい、はい」
ばあさんが目を覚まし、どっこいしょと大儀そうに立ち上がり出てきた。
寺で現地解散後、Sは寺町のはずれのさらに先に向かった。
小学校に上がる頃まで住んでいた付近を尋ねるためだった。今はもうマンションが建っていて、当時の面影はない。家のあった正確な場所すら分らないが、何故か訪ねてみたくなったのだ。
Sの母は、この地の出身だったが、戦争で家族を亡くし身寄りはなかった。そしてその母も若くして亡くなってしまったので、他県に引っ越してからは、ずーっとこの辺りを訪れたこともなかった。
それがひょんな事でこの地の高校に赴任し、まさか郷土歴史家と言われるまでこの地に馴染む事となるとは、想像もしなかった。
今日回った場所は歴史の研究のため、過去に何度も訪れている。しかしさほど懐かしいと思ったことはない。
それが今日は違ったのだ。
特に寺の境内に立つに至っては、母の事を思い出し、感極まって涙がこぼれそうになり、皆に悟られはしないかとヒヤヒヤした。
幼少の頃、近所のお兄さんたちに着いていって、この寺の境内で鬼ごっこをした。夕暮れ時、帰ってこないSを、母は大慌てでやきもきしながら探しまわったはずだ。
しかし境内で彼を見つけた時、母は優しい笑顔で手招きした。
(こんな大事な思い出を今まで忘れていたなんて、とんだ歴史家だ)
Sは苦笑いしながら自動販売機でお茶を買うと、店先の長椅子に座って一口飲み、たばこの封を切った。
ニャア
いつの間にかキジトラの猫が側に来て、彼を見上げている。
さっき皆が話していた猫なのだろうか……まさかな。
Sは猫と目が合い、一瞬どきっとした。
「おや、帰ってきてるじゃないか。どこに行ってたんだい?」
鳴き声を聞きつけ、ばあさんが声をかけた。
ニャオン
猫は一声鳴くと、さっさと店に入り、ばあさんの横にちょこんと座った。
「いったいどこまで行ってたんだい? ヘー、城の辺りまで行ったのかい。そりゃあ、お疲れだ。でももう年なんだから、無理しちゃ駄目だよ」
さかんに猫に話かけていたばあさんが、いきなりSに声をかけた。
「先生、今日の講義は外回りだったんだね?」
「ええ、初めて外に出てみましたが、それなりの成果がありましたねえ」
「城が出来て、この辺りまで人がよく通るようになったよ。前は静かだったんだけどねえ。おかげでこの子も遠出するようになってねえ、いろんな話を聞かせてくれるんだよ」
ばあさんは、もう目が半分になってきた猫の背中を撫でた。
ばあさんの戯言か……。
Sは曖昧に笑って調子を合わし、たばこを吸い終わったのを機に、礼を言って店を後にした。
(でも、あのばあさん、なんで今日の講座の事や、俺が講師だって知っていたんだ?)
ニヤオーン
猫の鳴き声を聞いた気がして、Sは思わず振り返った。
しかし、軒先の庭木がゆらゆらと、アスファルトの地面に影を描いているだけで、そこには誰もいなかった。
「こてまり」では、トレーニングとして、その月の当番が課題を考え、練習作品を書いてきました。
Lesson 1「もうひとつのシンデレラ」
「シンデレラ」の登場人物になりきって、心理描写をしてみました。父親、継母、義姉、ネズミやトカゲの視点でワンシーンを描いています。
Lesson 2「俳句から……」
俳句を考えて、そこからストーリーを作ってみました。
Lesson 3「外に出かけよう」
実際に外に出て、見たもの感じたことからストーリーを考えました。同じ景色を見ていても、それぞれの視点で様々なストーリーが生まれるのは、興味深かったです。
Lesson 1「もうひとつのシンデレラ」
「シンデレラの父」
安田 夏菜
「ママは、どうしてパパなんかと結婚しちゃったのかな。あ、言っとくけど、今の継母のことじゃないよ。死んじゃった、わたしのママのことだから」
頬についた灰を手の甲でぬぐいながら、我が娘シンデレラがこちらを振り返った。
私はなにも言えない。ただ、うつむいている。
「いっとくけどパパ、すっごく評判悪いよ。あんな性格悪い人、奥さんにしちゃってさ。お金だっていいように使われてさ。実の娘のわたしがこんなにこきつかわれてるのに、なんにも言えずにさー」
冬の朝の、霜柱のような声だ。わかっている。娘は怒っている。当然だ。私が悪いのだ。
前の妻を亡くして、私はどん底に落ちた気持ちだった。いったいこれから、ひとりでどう生きていけばよいのだ。残されたこの子を、男手ひとつでどう育てていけばよいのだ?
よるべない、迷子の子どものように、しゃくりあげて泣き出したい気持ちだった。だから今の妻が、差し出してきた手を拒めなかった。むしろ、必死に握りしめた。
その手が、私そのものではなく、私の財産目当てであることを薄々知っていたくせにだ。
「パパって、ほんっと、情けない」
吐いて捨てるように、シンデレラは語気を強める。
「あんな人にころっとだまされて、でも、だまされてるほうが楽だから、めんどくさいことには、みーんな目をつぶって見ないふりして。そんなんで幸せになれると思う? なれるわけないじゃん。わたしはパパみたいにだけはなりたくない。今は、耐えて、忍んで、我慢するしかないと思うけど、このままじゃ終わらないからね、わたしは!」
昔からこの子は、私とはちがっていた。ニコニコと穏やかな微笑みをたやさず、周囲からは「やさしいお嬢さん」で通っていたが、実は岩のように強い意志を秘めている。そして、キレるとけっこう毒を吐く。
そのことを知っているのは、私と、今は亡きこの子の母親だけだ。しかし、シンデレラはほんとうにこの境遇から抜け出せるだろうか。
無理な気がする。新しい妻も、根性の悪さは筋金入りだ。こうと決めたら絶対にあとには引かない。しかも、ずるがしこく、抜け目がない。
今、うちの家のことは、すべて妻が牛耳っている。私が少しでも、「シンデレラにもやさしくしてやってくれ」などと言おうものなら、どんなしっぺ返しをくらうか、想像するだに恐ろしい。
「すまない……」
小さくかすれた声で、私はそう言うしかなかった。
「すまん。シンデレラ。こんな父さんで」
「……サイッテー!」
娘は軽蔑しきったような視線を、こちらへ向けた。
「結局、あきらめてるんだよね。なんにもやる気がないんだよね、ほんっと情けない。パパみたいな人のことをね、どてかぼちゃっていうんだよっ!」
どてかぼちゃ、どてかぼちゃ。
娘の声が、耳の中で鳴っている。
どてかぼちゃ。土手に植えられ、日に当たりすぎて割れて、使い物にならなくなったかぼちゃ。すなわち役立たず。
返す言葉もなく、私はうなだれる。
そうして柄にもなく強く強く、こう願った。
せめて、ふつうのかぼちゃになりたい。
この子の父親として、どてかぼちゃではなく、なにかに少しでも役に立つ、まともなかぼちゃになれたなら……。
なりたい、なりたい、なりたいーー。
次の朝、起きると全身が固まったように動かなかった。ベッドの上で私は、深緑色の表皮に包まれた、固くて丸いかぼちゃになっていた。
どこも割れたりしていない。しっかりと身の詰まった、大きめのかぼちゃだ。
「願いは、通じるものだなぁ」
かぼちゃの私は、驚愕しつつ、しかし意外にすんなりと、この現実を受け止めた。
「さて、これから、どうなるのだろう」
きっと私は死んだことになるだろう。
今の妻とその連れ子たちが、ますます傍若無人にならなければよいのだが。
その後、自分がかぼちゃの馬車となり、シンデレラを舞踏会に連れて行くことになろうとは、まだ夢にも知らない私なのだった。
「シンデレラの継母」
長谷川 由美
今日から、新しい夫とその娘と暮らす。
末の娘となる子はまだ幼い。なついてくれるだろうか。うんと可愛がろう。
二人の娘を連れて、その屋敷へ入った。夫が出迎える。
夫のうしろに女の子が隠れている。うながされて顔を見せた。
「はじめまして」
お行儀よく挨拶をする。色が白くて目が大きい。うちの娘たちも器量良しで評判だが、とてもかなわない。
新しい生活が始まった。末の娘は気立てが良く、何の問題もない。
「お母様」
早速、そう呼んで慕ってくれる。仲良くできそうだ。
ある日、末娘の部屋に入った時だった。
姿見の後ろに、白いシーツがかけられている物を見つけた。
なんだろう。引っ張り出してシーツをとってみると、立派な額に入れられた絵が出てきた。
実の母親と夫と末娘が、微笑んでいる。
母親の顔をよく見てみる。末娘と実によく似ている。
美しさだけなら、私も負けていない。
が、どこかが違う。
穏やかな顔。そのうえ、なんて幸せそうなのだろう。
前の夫との生活を思い出す。親が決めた家のための結婚だったが、私は温かい家庭を築こうと、一生懸命だった。
しかし、夫はそうではなかった。家にいないことが多くて愛などなく、冷え冷えとしたものだった。
絵のなかの夫の顔を見る。温かそうな笑顔。こんな満ち足りた顔を、私に見せたことがあるだろうか。
末娘の顔も、もう一度見る。
賢そうな顔。私に見つからないように、絵を隠しておいたのだろう。ときどき、こっそりと眺めていたのかも知れない、と思った。
きっと私のことも、「お母様と呼ぶのだ」と父親から言い聞かせられていたのに違いない。
「お母様」
廊下から末娘の声がした。慌ててシーツを絵にかけ、
姿見の後ろに戻す。
彼女は部屋に入ってくると、私を見つけて駆けより、抱きつこうとした。
気がつくと、私は彼女を払いのけていた。
「ハツカネズミとドブネズミとトカゲ」
松林 和子
「おい、だれか来たぞ」
「おれたち、もうおしまいなのかなぁ」
「そうだなぁ、連れて行かれて帰って来たやつらはいないからなぁ」
「運の悪い事よなぁ」
「あっ!」
「うわっ!」
「持ち上げられた!」
「死にたくないよー」
チュー チュー チュー チューとさわいでいる四匹のハツカネズミが入ったネズミ取りを、静かに下げてシンデレラは、ドブネズミをさがしに出かけました。
「ぎゃーぁー」
とさけんだけれども、シンデレラは袋をかぶせて、ドブネズミを一匹つかまえると、ハツカネズミの入ったネズミ取りの中へ入れました。
「おい、新入りが来たぞ」
「おれたちよりも大きいじゃねぇか」
「ちょっと、びびるぜ」
「こわいよ……」
ネズミ取りのすみにかたまっているハツカネズミたちに、ドブネズミはいばって言いました。
「なにぼそぼそ言っているんだよ。おれさまは、ドブネズミだ。おまえらとは格がちがう。ビクビクしないぜ」
そうこうしているうちに、シンデレラはトカゲを四匹つかまえて、妖精のおばあさんのところへ持っていきました。
妖精のおばあさんは、たちまちそこに置いてあったカボチャを金の馬車に、ハツカネズミをあし毛の馬に、トカゲは玉虫色に輝く制服を着た従者に、そして、ドブネズミは、口ひげの立派な太った馭者になりました。
ハツカネズミたちは喜んだのなんの、殺されると思っていたのに、立派な馬になれたのです。
「おれたち、ちっぽけなネズミだったのによ、こんな大きな馬の姿になれたんだ。まるで夢だぜ」
「ほんとほんと、泣けてくるぜ」
「世界がちがって見えるぜ」
「おれたちみたいな幸せなネズミはいないぜ」
喜んでいるのは、ハツカネズミだけではありませんでした。
トカゲも、びっくりぎょうてんです。
「うわぁー、ぼくたちが人間の姿になった」
「ほんとだ。地面をはいずりまわっていたのに、二本足でたっている」
「それにこの服、なんて素敵なんだろう」
「信じられないよ、ほんとにぼくたちトカゲかよ」
ハツカネズミもトカゲも、自分たちの姿にこうふんしていると、
「ふん」
と、鼻で笑うものがいました。
ドブネズミです。
「おれさまは、このすばらしい金の馬車を操縦する馭者だ。おまえたちとは、格がちがう」
と、でーんと、馭者席に座ってドブネズミはふん反り帰り、口ひげをなでて満足げです。
ボロボロの服を着ていたシンデレラは、妖精のおばあさんの杖の一振りで、美しいドレスを着たお姫様に変わりました。足には、ガラスの靴をはいています。
シンデレラが馬車に乗り込むと、
「さあ、お城の舞踏会へお行き」
妖精のおばあさんがそう言って杖を振ると、馬車はかけだしました。
ハツカネズミも、ドブネズミも、トカゲも、みんな、「へぇー、お城へ行けるんだ」
と、胸の内でわくわくしていました。
無事にシンデレラをお城へ連れて行く事ができると、ハツカネズミと、ドブネズミとトカゲは、
「うわぁー、ここがお城か、すばらしい所だなぁ、なんて広いんだ。あちこち見てみたいなあ……」
と、それぞれ思いましたが、魔法がかかっているせいか、自由に動く事が出来ませんでした。
でも、三日目の舞踏会の日、十二時の鐘の音とともに、お城の庭で魔法がとけました。
残念ながらハツカネズミもドブネズミもトカゲも、元の姿にもどりました。が、みんな自由に動く事ができ、立派なお城の中で暮らせる様になったのです。
なんと幸運なハツカネズミと、ドブネズミとトカゲなのでしょう。
「お下がりのドレス一枚さえ」
ますだ すみこ
「何だって? もう一度、言ってごらん!」
母さんは、声を荒げてあたしをにらんだ。今にも、ぶたれそうな勢いだ。
「だから、その、あの子、ちょっとかわいそうなんじゃないかって……。家の仕事なんて女中をやとった方が、よくやってくれると思うし、そんなにいじめなくても……。」
「わたしが、いつ、あれをいじめたって? あれが、生意気だから、いけないのさ!」
「母さんの言う通りよ。あたしもあの子、大嫌い!」
姉さんも、憎らしそうな顔をした。
「いいかい、今度、わたしにたてつくようなことを言ったら、おまえにもボロを着せて、こき使ってやるからね!」
母さんを怒らせてしまった。
言うんじゃなかった。
母さんは、小さい時から、口答えしたり、言うことをきかないとすごく怒る。一度怒ると、なかなか機嫌が直らず、家の中が暗くなる。
知ってたはずなのに……。
あたしの妹、シンデレラは、母さんが再婚した相手の娘。だから、あたし達とは、血はつながっていない。
母さんは、継子のシンデレラにボロを着せて女中のようにこき使った。姉さんとあたしも同じようにし、意地悪した。
「汚らしい、灰かぶりの娘。」
あたしは、だんだんわかってきた。あたし達は、シンデレラにすごく嫉妬しているってこと。だから、いじめるんだ。
あの子は、本当は、誰よりも美しい。ちゃんとした身なりをすれば、あたしと姉さんなんて、かすんでしまう。
見かけだけじゃない。気立ても、頭も良い。どんなにこき使われても、黙って素直によく働くし、物覚えもよく、優しい。
何もかも、自分の娘達より抜きん出ているのが、母さんは、許せなかったんだ。
姉さんは、自分の方が上みたいに振る舞っているけど、それは、コンプレックスからだって、気づいてない。心の奥底では、何もかも負けてるって、思っているはず。まあ、あの人は、自分の気持ちを深く考えるなんて、しない人だから。
あたしも、かなり嫉妬している。仲良くしたいなんて思わない。でも、あたし達のやり方は、ちょっとひどいんじゃないかって、最近思うようになった。意地悪しすぎるのは、いい気分ではない。
あの子の父親の新しい父さんも、母さんの言いなりだ。
それでも、やっぱり、母さんが怖い。怒られるのは、嫌だ、嫌だ、嫌だ!
それ以来、シンデレラをかばうようなことは、一切、言わないようにした。姉さんと二人で、母さんが喜ぶように、前と変わらず、いじめた。それが、正しいことでもあるかのように。
お城から、舞踏会の招待状が届いた。
王子様が、舞踏会に来た娘達の中から、お妃様を選ぶそうだ。
あたしと姉さんは、胸を躍らせた。
母さんも、
「お前達、頑張るんだよ。」
と、まるで、どちらかがお妃になれるかのように、ホクホクしている。
王子様と結婚するって想像しただけでも、ニンマリしてしまう。舞踏会も楽しみだ。
「お願いです。ほんの少しでもいいから、舞踏会に行かせて下さい。」
シンデレラが、母さんに土下座して、泣いて頼んでいる。こんなあの子を見るのは、初めてだ。よっぽど、舞踏会に行きたいのだろう。
「何、言ってる! お前は、家で留守番だよ! 第一、お前は、着ていくドレス一枚、持ってないじゃないか。」
「どんなドレスでもいいから、貸していただけないでしょうか。一度、お城へ行って見たいのです。今まで以上に、働きますから。」
「だめだよ! さっさと、仕事を片付けるんだね!」
お妃を決める舞踏会は、娘達の憧れ。みんな、王子様との結婚を夢見て、目いっぱいおめかしして、お城へ行くのだ。でも、あの子は、夢を見ることができない。
ちょっとぐらい、行かせてあげてもいいんじゃないの? 年頃の娘なんだし。
こんなこと、口にしたら、また、母さんに怒られる。もう、考えるのは、よそう……。
舞踏会の日が来た。
朝から、何だか落ち着かない。
そろそろ、準備しなくちゃ、とタンスを開けると、シンデレラのことが思い浮かんだ。
二年前に買った、一番地味なドレスを引っ張り出した。食べこぼしのシミがついたままだ。これを、あの子の部屋に、そっと置いておこうか……。
えっ、あたし、何、考えてるの? いや、これぐらい、かまわないじゃない。
ドレスを丸めて、あの子の寝起きする屋根裏部屋へ向かった。誰にも気づかれないようにしなくちゃ。
ドキドキ、ドキドキ、ドキドキ……。
息苦しくなってきた。
何してるの、あたし。やっぱり、やめようか、こんなこと。
でも……。
「あんた、そんなとこで何してるの!」
背中から、かん高い声が聞こえた。
姉さんだった。急いで、ドレスをぐっと胸に抱いた。
「まだ、着がえてないの? 遅れるわよ! さっさと着がえなさい!」
だめだ。できない……。
あたしと姉さんは、めいっぱいおめかしして、馬車に乗り込んだ。母さんも一緒だ。
母さんは、上機嫌だった。姉さんも、キャッキャと笑いながら、よくしゃべる。
あたしも、二人に合わせて、陽気にしゃべった。二人のご機嫌をとるように。
母さんに逆らえず、お下がりの地味なドレス一枚さえ、あの子に貸さなかった。
最低な人間。
一人で留守番しているシンデレラを思い出し、胸が痛くなってきた。
そんな気持ちをかき消すように、二人とにぎやかにおしゃべりし続けた。
カタコト、カタコト……。
馬車は、お城へと向かう。
「父の祈り」
渡邊 千砂
私は市の帰り道、ずっと頭を悩ませていた。
あの子がおみやげに望んだものが「私の帽子に触れた若い枝」だったからだ。
本当に……本当に枝なんかでいいのだろうか。あの子はいったい何を考えているのだろう。母親に似て欲のない子ではある。だが二人の義姉が高価なドレスや宝石を望んでいるというのに。
今ならもう一度、市に戻っておみやげを買いに行くこともできる。あの子に似合うドレスや宝石、あの子が喜びそうなものを買ってやるべきなのではないだろうか。
だがそんな思いも、あの妻の顔を思い出した途端に、何処かへ押しやられてしまった。
どうせ……どうせあの子に買って帰ったところで、きっとあの三人に取り上げられてしまうに違いない。それどころか、もっとひどい仕打ちに合うに違いない。
今だって、あんなにみすぼらしい格好させられて、あの三人に散々こき使われているではないか。
一度、妻に「あの子にも、もっと綺麗な服を着せてやったらどうか」と言ったことがある。
けれど妻はこう言った。
「やっぱり前の奥さんが忘れられないのね。私なんてどうせ愛されやしないのよ。私はあの子のためにやってるのよ。あの子が将来立派な花嫁として嫁ぎ先で困らないようにね。私の二人の娘だって、質素に慎ましく、そう育ててきたわ」
あの二人の娘、とてもそんな風には見えないが、それ以上何もいう気にはなれなかった。
妻はヒステリックなところがある。結婚前はしおらしく優しい女だったが、結婚してからは、人が変わったようにワーワーとわめき散らし、
「私なんてどうせ愛されていないんだわ。前の奥さんとの思い出だらけのこの家で、私はどんなに惨めな思いをしているのか、あなたにはわからないのよ。あの子を可愛がるのはあなたがまだ前の奥さんのことを忘れられないからなんでしょ。ああ、憎い。あの子が憎い。あなたの愛情を独り占めにしているあの子が憎い」
と、さめざめと泣き続ける。
怒らせると面倒だ。そしてますますあの子に辛く当たるだけだろう。
不甲斐ない父を許しておくれ。
せめて……せめて今から折るこのハシバミの枝が、あの子を守ってくれるように心から願っているよ。愛しき天国の妻よ。どうかお前もあの子を見守ってやってはくれないだろうか。
私は折ったハシバミの枝を胸に押し当てると、大切に帽子の中にしまった。
Lesson 2「俳句から……」
俳句から展開して物語、エッセイを書く。
まずは俳句をつくる。
尻から俳句
下五→腕時計を提案
中七→どんな腕時計(取り合わせ)
上五→季語
(例)
入学や赤いベルトの腕時計 一
卒業や赤いベルトの腕時計 二
季語の違いで、ドラマができるのではないか。
入学やとすると、生き生きした明るい未来が想像できる。赤いベルトから、女学生が見える。そこから、何かお話ができていく。
卒業やとすると、学校生活の終了によって赤いベルトも色あせているかもしれない。ベルトが切れかかっているかもしれない。そこにお話ができる。
星月夜母の形見の腕時計
植田 良枝
最近眠れぬ夜が続く
「チ、チ、チ、 チ、チ、チ」
やっと気付いた腕時計
「チ、チ、チ、 チ、チ、チ」
「もう、寝なさい」
「チ、チ、チ、 チ、チ、チ」
「寝なくていいよ」
一体、どっち
右を向いても
左を向いても
余計に目がさえ眠れない
窓の外の星空は、
「今夜はいいよ」
「寝なくていいよ」
ピカピカ光って答えている
時計と星の交信だ
決まって刻む時の音
ピカピカ光る星夜空
汗錆を残せし父の腕時計
松浦 信子
引き出しを整理していたら、古い腕時計が出て来た。小さなビニール袋の中に、鈍い金色をして納まっている。
亡くなった父が、戦前の若い頃に大枚をはたいて買ったという話を、生前何度も聞かされていた。
その頃、時計と言えば高級品であったらしい。特に名の知れた外国製品ともなれば、駆け出しの医者であった父には、高嶺の花であったろう。
戦争が終わり南方から引き揚げてきた父は、故郷の田舎町で開業した。
「医者の仕事ってものはな、時間との争いが、患者さんの命と関わるんだぞ」
小さな町医者の割に大層なもの言いだと、娘の私はそれをおかしく聞いていたものだった。
休日でも夜中であっても、請われれば住み込みの看護婦の富ちゃんを連れて出かけて行った。そして必ず左手首の時計で、時間を確かめていた。
思えば時計は、父にとって自分への戒めであり、褒美でもあったのかも知れない。
父の亡くなった後、アンティックとして結構おしやれだろうと、私はこの時計を貰って来た。
でもネジを巻いても振ってみても、秒針はピクリとも動かない。
それで時計屋さんに診てもらうことにした。
「古いものですね。これだとスイスの本社に送って診てもらわないと……でも果たして部品があるかどうか、何しろ珍しいものですから。動いたなら、相当の高値はつくでしょう」
時計の中の部品が、汗か何かで錆がでているそうだ。
父の日々の働きが、この時計の歴史を止めてしまったのだ。鈍い金色の外側にも、父の汗のにじみを感じる。
これはこのままでいい。
私はまた、時計をビニール袋に納めて、引き出しの奥にしまった。
花の雨祖母の声聞く腕時計
渡邊 千砂
開けられた窓から、サーサーと微かな音が聞こえてきた。よく見ると雨の細い糸が見える。
咲き満ちる桜の花を、いたわるように優しく降る雨。
私の手元では、祖母の形見の腕時計が静かに時を刻み始めたところだ。
探し物をしていて、ふと目にした腕時計。
十五年近く引き出しの奥で眠らせていたから、動くかどうかわからなかったけど、ゆっくりとリューズを回してみると、止まっていた時が一気に動き出した。
華やかで、おしゃれと花を育てる事が大好きだった祖母。
祖父が残した腕時計を、丁寧にメンテナンスしながら使い続けた祖母。
色とりどりの花が咲く庭で、にこやかに手を振る祖母の姿が目に浮かぶ。
淡いパープルに染められたグレーの髪は、綺麗に整えられ、大きなべっ甲のめがねに、唇には鮮やかな紅がひかれていた。
そんな格好いい祖母の筋張った細い腕には、黒い革ベルトの大きな腕時計がはめられていて、私の憧れだった。
そっと腕時計を耳に当てると、
ツッ、ツッ、ツッ……
サー、サー、サー……
静かな部屋の中で、腕時計が時を刻む音と雨音が重なった。
巻き上げられたゼンマイから歯車、針に伝わる一連の動きが、心地よい音を奏でる。
ツッ、ツッ、ツッ、ツッ、ツッ……
祖母の過ごした時間を刻み続けてきた音。
今度は祖母の声と重なる。
「大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫」
私が落ち込んでいると、そう言って、いつも背中をさすってくれた。
若さゆえに、トゲトゲしくて生意気だった私は、少しも素直になれなかったけど、祖母の「大丈夫」という言葉にどれだけ勇気付けられてきただろう。
そして私が母となった一年後、祖母の「大丈夫」は二度と聞くことができなくなった。
あの時赤ん坊だった娘は、もう高校生だ。
最近、うつむきがちで、不安気な表情を見せる娘。
あの頃の私も、きっと今の娘と同じような顔をしていたに違いない。
祖母のように、
「大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫」
そう言って背中をさすってやろう。
私は腕時計を手首にのせると、黒い革ベルトを締めた。
Lesson 3「外に出かけよう」
「おばけとちょ金ばこ」
ますだ すみこ
秋のおわりのさむい日、おばけのろくろっくびが、町をさんぽしていました。くびを何重にもグルグルまいているので、にんげんの女の人がマフラーをしているように見えます。
「なんか、おもしろいもの、ないかな?」
昼間、おばけとわからないようにへんそうして、ぶらぶらさんぽするのがすきでした。
『世界の貯金箱博物館』
と、かんばんが立った、たてもののまえで、たちどまりました。
(せかいの……、なんて書いてあるんだ?)
入り口からすこしのぞくと、受付のおねえさんが、やさしく声をかけてくれました。
「いらっしゃいませ。どうぞ、見学していってください。無料ですよ。」
中へ入ると、へやいっぱいに、いろんなものがにぎやかにならんでいました。
かわいいパンダや女の子、オルゴールのようなはこ。
ちょっときみのわるい、ぶたやぞうなどのどうぶつ……。
スーツをビシッときた男の人が、近づいてきました。
「いらっしゃいませ。ここには、せかい中のちょ金ばこが、そろっているのですよ。」
男の人は、ちょ金ばこについて、そのれきしなどを、くわしくせつめいしてくれました。
(そうか、ここにたくさんならんでるのは、ちょ金ばこってものか。それで、かねをためるものなんだな。)
帰りには、きねんひんとして、ちょ金ばこをひとつ、もらいました。
「ただで入れてもらったうえに、おみやげまでもらえるとは思わなかったな。」
ろくろっくびは、何年もにんげんがよりつかない、あき家にすんでいました。
帰ってから、もらってきた、たまねぎのようなかたちの白いちょ金ばこを、ずっと見ていました。
「そうだ、このまえひろった五円玉があったな。」
五円玉を入れてみました。
チャリン
「いい音だなあ!」
それから、お金を入れるのがすきになって、道で小銭をひろっては、ちょ金ばこに入れました。
おばけなかまのひとつ目こぞうと、のっぺらぼうがあそびにきました。
「いいもの見せてやろうか。」
ろくろっくびは、ちょ金ばこをチャラチャラとふりました。
ひとつ目こぞうが、キンキン声をだしました。
「ろくろっくび、その焼き物、なんだ?」
のっぺらぼうも、ききとりにくいくぐもった声でききました。
「どこで、ひろったんだ?」
「ひろったんじゃない。もらったのさ。」
ろくろっくびは、『貯金箱博物館』へ行ったことをふたりに話しました。
ひとつ目こぞうが、ニイッとわらって言いました。
「へーえ、ちょ金ばこか。おもしろそうだな。オレも、かねをひろったら、そこに入れてもいいか? ひとつしかないけど、おっきい目だから、小銭はよく見つけるんだぜ。」
のっぺらぼうも、たのしそうに言いました。
「ぼくも、入れるよ。このとおり、かねを見つけるのは、あんまりとくいじゃないけど。それにしても、きみはぼくとちがって、くびをまいて、よく町を歩くなあ。」
それから、三人は、道でお金をひろっては、ちょ金ばこに入れました。
チャリン
チャリン
チャリン
十円玉、五円玉、一円玉がほとんどですが、すこしずつ、たまっていきました。
ひとつ目こぞうとのっぺらぼうは、まえよりも町をよく歩くようになりました。
「オレ、きょうは、一円玉、十まいひろったぞ。」
「ぼくは、ほら、百円玉。ふみつけたから、わかったのさ。」
「あたしは、一円玉、一まいだけだよ。」
そんなある日、ひとつ目こぞうが言いました。
「オレたち、かねをためてどうするんだ? おばけは、かねなんかなくてもいきてける。食わなくてもいいし、すむとこも、きるものにもかねはかからない。」
「そういえば、そうだ。ほしいものもないし……。」
「あたしらは、ここにかねをためるのがたのしいんだから、それでいいじゃないか。」
「それはそうだけど、たまったかねは、このまま、ここにおいとくのか?」
ろくろっくびは、ふと、『貯金箱博物館』の男の人の話を思いだしました。「ちょ金ばこ」というなまえには、外国では、「人のために」「人びとを救う」という意味もあるのだと。
「かねがたくさんたまったら、人のために使ったらいいんじゃないか? なんていったかな、ほら……、き、き……。」
「寄付、寄付するってことか?」
「そう。こまってるにんげんに、寄付するのさ。」
「そりゃあいい。ぼくたちとはちがって、にんげんは、かねがなきゃ、いきてくのがたいへんなときがあるもんな。」
それからも三人は、ますます、ちょ金ばこに、ひろったお金をためるようになりました。
『世界の貯金箱博物館』のまえに、ひとりの男が立っていました。
「あのちょ金ばこ、いっぱいになったから、もうひとつ、もらわないとな。」
顔を描いた、のっぺらぼうでした。
「アメ屋のかんばん娘」
渡邊 千砂
華の暮らしている町に、お城ができる。
このあたりでよく見かける家電量販店の創業者が、創業の地に恩返しがしたいと、明治時代に姿を消したお城を私財を投じて再建し、市に寄贈するという。
来年の春に一般公開される。
市のシンボルとなるお城の完成が近づいて、ライターの華にも仕事の依頼がきた。
お城と周辺のお店や見どころを案内する城下町マップを作成することになり、その紹介文を書くことが華の仕事だ。
正月が終わり、春が近いとはいえ、まだまだ寒い。
Gパンにセーターの上にダウンコートを羽織ると、早速取材に出かけた。
神社、お寺、博物館、カフェ、定食屋さんなど、チェックしていたところを順番に巡って行く。いざ取材してみると、近くに住んでいても意外と知らないことが多いもんだ。貯金箱博物館なんてのも、今回初めて入った。想像以上にたくさんの貯金箱が展示されていて、館長さんの説明は台本でもあるのかと思うくらいに、途切れることなく話が続く。おかげでメモするのが大変だった。
一番歩きやすいスニーカーを履いてきたけど、町中歩き回ったら、さすがに足がパンパンだ。
あと一軒、最後は老舗のアメ屋さん。
震災後に建て替えられたので、真っ白な壁やきれいに乱れることなく並んでいる灰色の瓦が、新しさを感じさせるが、どっしりとしたたたずまいは、さすがに百年以上続く老舗の風格だ。入り口引き戸や飾り窓の木枠などは、創業当時のものを使っているのだろうか、時の流れを感じさせる落ち着いた飴色になっている。
飾られている色紙の入った額や、小さなタンスも長い月日を重ねてきたことを感じさせる。
お店のマークとなっているのは、琴柱。
お城が「琴城」と呼ばれていたことに由来しているらしい。
取材に来る前に下調べした資料に、さっと目を通す。
販売されているのは、水飴と固形飴のみ。砂糖を一切使わず、米だけで作られる水飴は、アナウンサーや歌手、落語家さんにも愛用されている。
現在の店主は四代目……。ふむふむ、なるほど。
地元では知らない人はいないくらいに有名なお店だけど、華はお店に入るのは初めてだ。老舗と言われると、敷居が高くて、こんなことでもないと、なかなか足が向かない。
少し緊張して、琴柱が描かれたのれんに手をかけると「いらっしゃいませ〜!」と元気な声がした。
こういうお店には似つかわしくないキンキンとした小さな子どもが出すような声だ。
「なんか、らしくないなぁ。どっかにセンサーかなんかついてんのかなぁ?」
華は一歩後ろに下がると、屋根の上にある看板から順番にセンサーをさがしてみた。
「どこ探してるん。あんた、さっきうちのこと、じーっと見てたやん」
また声がする。でもどこにもセンサーらしきものも見当たらないし、人の気配もない。
「さっき見てたって、この飾り窓?」
華が不思議に思って、飾り窓に飾られている色紙に目をやると、そこに描かれているスズメが、急に動き出した。
「うち、ここのかんばん娘。このお店ができてから、ずっと大事にこうして飾ってもらってるねん」
絵の中のスズメが嬉しそうにしゃべりだす。
華はあっけにとられて、ポカンとしていると、絵の中のスズメが楽しそうにペコリと頭を下げ、翼をパタパタさせた。
「あ! わかった! これってアレだよね。えっと……なんだったっけ? えーっと……そうそうプロジェクションマッピングってやつ!」
華は、少し前に見た動画を思い出していた。レストランのテーブルの上に姿を現した小人が、お皿の上でお料理をしたりと、リアルに動き回っていたアレだ。
ここまで間近で見るのは初めてで、どう見てもただの映像だとは思えなかった。こんなにリアルに見えるものなのかと感心する。
「しゃべっているのもAIかなにかかな? それにしてもこんな老舗で、こんな最新テクだなんて、ギャップが半端ない。これはいい宣伝だわ!」
華がつぶやきながらメモをとっていると、
「ちょっと! 何一人でぶつぶつ言うてるのん。ここの水飴美味しいねんで〜。おかみさんが味見させてくれるから、はよ店入り〜」
スズメに促されて、華はのれんをくぐると、引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
優しい声が出迎えてくれる。
歳は華の祖母くらいだろうか。ふんわりとしたほがらかな顔のおかみさんだ。
「えっとぉ、あのぅ……、今日は取材で来たんですけど……」
少しもじもじして話を切り出すと、
「あ、ちょうど今水飴が出来上がったところなの。味みてくださいな」
そう言って、おかみさんが店の奥に入って行った。
待っている間、お店の中をぐるりと眺めて見る。ガラスケースの中には、レトロなパッケージが並べられていて、どれもそれなりにいい値段が付いていたけど、商品に自信を持って売られているのがわかる。
「お待たせてしてごめんなさいね。出来立てで少し柔らかいから気をつけてくださいね」
おかみさんは、そう言うと、瓶の中の琥珀色に輝く水飴を、くるくると割り箸で巻き取ってくれた。
華が受け取った水飴を口の中に入れると、
「箸を抜き取らずに、口の中で飴を溶かしてくださいね。あわてて抜き取ろうとすると、飴が垂れてしまいますから」
おかみさんが、食べ方を教えてくれた。
「ん〜〜!」
できたての水飴は、ほんのりと温かくて、優しい甘さが口いっぱいにじんわりと広がる。なんとも言えない懐かしさとともに。それでいて食べ終わった時に甘さが残らない。すーっと消えていく。優しくてすっきりとした水飴に、華はすっかり魅了された。
「おーいしーいっ!」
「砂糖を一切使わずに、米だけで作ってるんですよ」
おかみさんが、嬉しそうに微笑んで言う。
「お米だけで、こんなに深い味が出せるなんて!」
驚いている華に、おかみさんは黙ってにこやかにうなずいた。
「そうだ。えっと、取材なので、写真いいですか?」
「どうぞ」
おかみさんが、写真を取りやすいように、ケースの上に商品を並べてくれる。
写真を撮りながら、華は一番気になっていたことを聞いてみることにした。
「ところで、外の飾り窓のスズメ、驚きました。こんなところでプロジェクションマッピングにお目にかかれるとは思ってもいなくて。スゴイですよね」
「え?」
華の言葉におかみさんが首をかしげる。
「スズメの動きが、あんまりにもリアルで、本物のスズメが飛び出してきたのかと思っちゃいました」
おかみさんは、少し困惑した顔をして、ふぅと小さく息をこぼした後、ちょっと耳を貸してと言うように、華に手招きをした。
華が手招きに応じて耳を近づけると、
「あれね、実は付喪神なの。お嬢さん、付喪神ってご存知かしら?」
おかみさんがささやき声で言った。
「ツクモガミ……付喪神! ほんと? 百年以上使い続けられた道具にとりつくってヤツですよね? うそ! え? 本物だったらプロジェクションマッピングなんかよりもずっとスゴイじゃないですか!」
華は、ライターという仕事柄、いろんなことを調べる。つい最近、妖怪の記事を書くことがあって、付喪神のことも調べたばかりだった。
「お若いのに、よくご存知ね。そうなのその付喪神。時々自分が気に入ったお客さんが来ると、ああやってかんばん娘になるのよ。お客さんを驚かせるなんて、ほんと困ったかんばん娘だこと。娘ってったって、私よりもぐんと年上なのに」
楽しそうな笑みを浮かべていたおかみさんの顔が、急に険しい顔になった。
「それでね、お願いなんだけど、どうかこの事は内緒にしてくれませんか?」
華は付喪神をこの目で見たのだと言う興奮で、少し頭がパニックになっていた。けど、これは内緒にしておくべきだと言う判断だけはできる。「はい」の返事の代わりに、大きく首をたてにふった。
「ああ、よかったわ。ありがとう。そうだ、外回りで冷えてるんじゃない? こちらをどうぞ」
おかみさんが、水飴をお湯で溶いたあめゆを出してくれた。
「ありがとうございます。いただきます」
包み込むような優しい甘さと、心地よい暖かさが身体中に染み渡っていく。ドキドキと早くなっていた鼓動が落ち着きを取り戻し始めた。
「水飴もこの店も……かんばん娘も大事にしてるんですね」
華の言葉に、おかみさんは目を細めてうなずいた。
「ごちそうさまでした。今日はありがとうございます。私いい記事書きますから、城下町マップができるのを楽しみにしててくださいね。また来ます!」
「おおきに。よろしゅうに」
あたたかい笑顔に見送られて、華は店をあとにした。
ひんやりとした空気に、キリリと身が引きしまる。
「よし! この町に来た人が、この町を好きになってもらえるように頑張るぞ!」
華の頭上をスズメが飛んでいくのが見える。さっきのアメ屋のかんばん娘が「楽しみにしてるで!」と言ってくれた気がした。
来年の春が楽しみだ。
増田 澄子
今回は、「手紙」をモチーフにしたお話を書きました。子供の頃から手紙が好きで、友達と文通を続けていました。今でも、手紙はよく書きます。
パソコン、スマホの普及などで、手紙を書く人は少なくなりましたが、これからも「手紙を書くこと」を大切にしたいと思います。
長谷川 由美子
今年の夏も、暑かったですね。
「ぼくの世界」は、初めて少年を主人公にして、描いてみました。「シンデレラの継母」は、あの意地悪なシンデレラの継母に、心を寄せて描いてみました。来年も作品が出せるように、と思っています。
大枝 良子
毎年春に人間ドックを受けているのですが、今年は思いもかけない診断をいくつか頂いてしまいました。まだまだ若いつもりでいたのですが、体は確実に老化しているのだなあと妙に感心。 自分の老いをおもしろがって過ごせればいいのですが、まだまだそこまでの境地には至りません。
それでも「今が一番若い」と自分に言い聞かせ、いろいろと新しいことにチャレンジできればいいなあと思っています。
松浦 信子
怠けぐせというのか、歳のせいというのか、物語を作るという事から遠ざかっています。
でも人様のお書きになったものを、読むという楽しみは続いています。
知らない事を、知る楽しみというのでしょうか。
昨年の暮れ、横断歩道を通行中、車にはねられました。ろっ骨三本を折り、しばらく入院していました。足腰頭が無事でしたので、おかげ様で日常に復帰しています。
ま、神様が一休みと思われたのでしょう。
でもそれにしちゃ、痛い休暇でした。
安田 夏菜
「ひとこと」の原稿を書くように、と言われてもう一年たったのかと驚いています。
去年の今頃、こてまりにエッセイの原稿を書きました。愛犬パセリが体調を崩し、「覚悟をしてください」と獣医さんに言われた話でした。
あれから一年。パセリは虹の橋を渡り……、ということにはなりませんでした。ヨボヨボながらも、毎日ご飯を待ちわびております。
目も耳も鼻もダメなので、ご飯のありかがわからず、お椀に首を突っ込んでやって、ようやく「これだ!」と認識する状態ではありますが。
とにかく一年前には考えられないくらい、元気な十五歳です。良い意味でも悪い意味でも、生きていると予想外のことが起こるものですね。
今後も予想外を念頭に、とりあえずは「今、自分ができること」をがんばろうと思います。
渡邊 千砂
今年の春、息子が中学生になりました。
ご多分に漏れず、恐怖の思春期&反抗期の到来です。
ただただ可愛かった息子はどこへやら。
口を開けば「ウルサイ、ウザイ、ダマレ!」です。
はいはい、もう何も言いません。勝手にすれば?
なんて強気な態度でスルーしてやるのですが、内心は悶々とするばかり。
「思春期になったら、親も子離れする時期」とか「反抗期は自立心が育った証拠」などとよく言われますが、これを納得するのが、なかなか難しい。
せめて、親離れして行く息子にエールを送ります。
「ガンバレ! 思春期。ガンバレ! 反抗期」
松林 和子
この夏、風邪をひき三日間声が出ませんでした。それから丁度一週間後、朝起きようとしたらめまいがして起き上がれず、床の中で寝返りしても、目をつむっていてもめまいが起きる。身体を動かすのが怖くなり、ひたすら眠っていましたが、熱中症かも知れないと、少しましになると水分を取りましたが、このままめまいが収まらなかったらどうしょう、目の前真っ暗になるかも……。
あくる日、内科に行くと熱中症ではなく、良性発作性頭位めまい症と言われ、耳石器の機能異常が原因だとか、完全にめまいが無くなるのに二週間ほどかかりました。
声が出ないのも、めまいがするのもつらいです。でも、今一番つらいのは、今年も文集用の作品が書けなかった事です。懲りもせず反省しております。
藤田 通代
窓を開けたら網戸にヤモリがいた。しかもこちら側に入り込んでる!
あわてて窓を閉める。どこから入ったのか……動揺しながら、ガラス越しに網戸の角にすき間がないか確認する。
はっきり言って蛇、トカゲ、イモリ、ヤモリのたぐいは苦手。早速、駆除剤がないか調べてみた。
調べていくうち、蛇•トカゲ•ヤモリは爬虫類だが、イモリは両生類で種族が違うらしい。同じ様にしか見えないけど。
さらにヤモリは家守。昔から家の守り神と言われているそうだ。
おとなしい性格で害虫を食べてくれる……臆病で驚くと狭い所に逃げ込む……なるほど、そんなに嫌な奴でもないのかも。でも家の中に入ってきて同居なんて事になるのはやっぱり勘弁願いたい。
それで、そーと網戸を移動させ、とにかく穏便に退場してもらうことにした。
しばらくして見に行くと家守くん、網戸から外側のガラス戸に移動していた。じっとしているけど、体がうっすら透けて見え、お腹がぴくぴく規則正しく動いていた。
あれ、なんか綺麗? ガラスに吸い付く四つの足の指もかわいい?
いつのまにか、もう気が済むまでそこにいてくれてもいいよって、寛大な気持ちになっていた。
どんな事でも考え方、見方次第ってこと……かな。
植田 良枝
今夏の気象は、異常でした。
身体にも心にも大きなダメージを受けました。
そんな中での発見でした。
稲の花のひそやかさ! サボテンの花の強さ!
誰に見てもらえなくても咲くんです。
どちらも、ひと昼、ひと夜限りです。
「見て、見て」と、主張しない美しさを知りました。
§ 編集後記 §
元号が令和に変わりました。
日々の生活が、急激に変化するわけではないのだけれど、ニュースを見れば、不安になるような出来事や悲しい事件が流れてきます。
Beautiful Harmony。お互いがきちんと相手の音を聞くことができたなら、きっと素晴らしいハーモニーを奏でられるのではないかなと思います。よき時代となりますように。
『こてまり』三十六号をお届けします。
令和元年の初発刊。
皆さまのご意見ご感想を糧に、これからも成長への努力を続けて参りたく思います。
伊丹市中央公民館のお力添えに、感謝致します。
「こてまり」同人一同
2020年11月 発行 初版
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今年度『こてまり』同人の活動
社規福祉法人 伊丹市社会福祉協議会 制作の冊子『マイウエイ物語』に参加。
誰かに支えられながらも、地域の中で自分なりの役割を持ち、自分らしく暮らしておられる方々の活動を物語に描き、地域社会に協力。
三十六年の活動と現状を読売新聞に掲載。
日本児童文学者協会編、おはなしピースウォーク『こすもすベーカリー物語』所収の
松浦 信子著『ハーモニカ』が㈱日本入試センターSAPIX小学部 五年国語「一〇月度 マンスリー確認テスト」教材として採用。
「第五十九回日本児童文学者協会賞」「貧困ジャーナリズム大賞2019」特別賞に
安田 夏菜著『むこう岸』が受賞。
同作品が、国際児童図書館から国際推薦図書『ホワイト・イレブンズ2019』に選ばれる。世界59か国、37言語、200作品中、日本からは8作品が選出。
伊丹市立図書館「ことば蔵」に於いて、「よむよむ工房」主催、市内高校生との『むこう岸』読書交流会と著者の講演会に参加。
児童文学者協会関西センター主催の「児童文学同人誌フェスタ」に参加。