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オードトワレ

戸田 鳥

翻車魚舎



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次

オードトワレ

Last Message

あとがきのようなもの


こちらは紙本のサンプルです。

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 オードトワレ

  一

 咲ちゃんは香り豊かな花が好きだった。クチナシ、金木犀、カサブランカ。部屋の花瓶が空になることはなかった。
 食品製造の仕事だから香水の類いは身につけられない、そう言っていた叔母に近寄ると、生花のみずみずしい芳香が漂ってくる気がしたものだ。香りを身にまとうというより、彼女自身が花を感じさせる人だった。少なくとも冬花にとって、叔母はそういう女性だった。
 どうしてもと頼んで、棺にはカサブランカを一本だけ入れた。眠りについた白い顔がほんのわずか和らいだかに見えた。


 ひとり暮らしの叔母の家に冬花が入ったのは、彼女が亡くなる直前だった。意識のない叔母の身の回り品を持ち出すためだ。叔母はすでに人工呼吸器によって生かされている状態で、時間の問題だろうと聞かされていた。冬花は医師の宣告から逃げたくてこの役目を名乗り出たのだった。鍵は彼女のバッグから借りた。病院の外では、この数日の間に季節が移っていた。桜の花びらが風に運ばれて歩道の隅に溜まっている。
 鍵を回すと、切ない懐かしさがこみ上げてきた。十代の頃はよく押しかけたものだが、冬花が大人になるにつれ訪ねる回数は減っていった。靴箱に手をかけて靴を脱いでいると、若い頃の叔母とのおしゃべりが記憶の底から浮かびあがってくる。年頃の娘にありがちなひとりよがりな恋の話。自分の話ばかりで、彼女の昔話など聞いたことがあっただろうか。聞き役ばかりさせていたのだと、いまになって気付く。
「咲ちゃん、ごめん」
 詫びる言葉が静寂に吸い取られる。ここで謝ってもしょうがない。
 主のいない部屋はよそよそしく、冬花は気まずさを感じながら叔母の寝室に入った。引き戸を開けて、おやと思う。沈み込んだ部屋の空気に、見知らぬ香りが混じっている。叔母の匂いとは明らかに違う人工的な香り。ベッド脇の鏡台に、匂いのもとはすぐ見つかった。丸みをおびた立方体のガラス瓶。金色の蓋を引き上げてスプレー部分に鼻を近付けると、それは冬花の苦手なフローラル系の香りではなく、茶葉を思わせるさらりとしたグリーンノートだった。金色の液体は半分近く減っている。咲ちゃんにそぐわない、と冬花は思った。あの叔母がいつ、どのような場面で使っていたのか想像もできなかった。姉のように身近だった彼女が、ふいに遠ざかった気がした。
 咲子叔母はその翌日、眠ったままこの世を去った。

 葬儀は二日後に行われた。喪主は湯江家の長兄である伯父が引き受けた。咲子の突然の死を悼む言葉のひとつひとつに黙礼を返している。末の妹を可愛がっていた伯父の頭は、この数日で白くなっていた。
 出棺の時間となり、棺をかつぐ男性親族が少なかったため、弔問客から何人かの男性が歩み出た。沈黙に見送られて棺が出ていく中、冬花は「あ」と声を上げた。
 この香り。
 叔母の部屋にあった香水の匂いが鼻をついたのだ。いまこの中に、棺をかついでいる男性の誰かが同じ香水をつけている。母親が怪訝な顔で呼び止めなかったら、思わず棺のあとを追い、ひとりひとりの首をくんくんと嗅ぎに行くところだった。棺が霊柩車に乗せられると男たちは散ってしまい、香りの痕跡も春の風に消えてしまった。
「ふゆちゃんどうしたの?」
 従姉妹が心配そうな目を向けた。叔母に可愛がられていた冬花がショックでおかしくなったと思われたのだ。冬花は大丈夫と頷いた。心労のための行動だと誤解してくれたので恥をかかずにすんだ。
 調べたところ、咲子の部屋にあった香水は男性用オードトワレだった。ではやはり、叔母が自分で使っていたわけではないのだ。香水の持ち主は冬花たちの知らない男性で、その人物が咲子の恋人だったと考えてもおかしくない。
「咲に彼氏なんていたのかしらね」
 妹と恋愛話などしたことがない、と冬花の母は言った。姉妹と言えどひと回りも年が離れていると、打ち明け話もしないものだと。よく考えればそれは当然で、母が結婚したとき、叔母はまだ小学生だった。
「四十過ぎまで誰もいなかったとも思えないけど、長く付き合った人はいないんじゃない」
 咲ちゃんはそういう人、と冬花も思っていた。ただ一度、ショッピングセンターで咲子が男性と歩いているのを見かけたことがある。中学入学をひかえた春休みだった。恋愛というものに興味津々な年頃だった冬花は、当時はまだ実家暮らしだった若い叔母に突撃したのだった。
「ねえ咲ちゃん。日曜日デートだったの?」
 何のことかととぼける咲子に、冬花は畳みかけた。
「一緒にいた人、カレシ?」
 色白の叔母が耳まで真っ赤に染めて否定したことを覚えている。手を繋いでお出かけしていた頃からずっと、咲ちゃんは清廉潔白なイメージだった。汚れのない花のような。

  二

 叔母の勤務先は、冬花の通勤沿線にあった。咲子の私物を引き取ってくるよう母に頼まれたのだった。毎朝電車から眺めている場所だから迷うことはないだろうと思っていたら、工場を併設した建物は予想以上に大きく、冬花は来客用の入り口を見つけるのに手間取った。トラックの搬入口でようやく人を捕まえ、正しい入り口にたどり着いたときには汗だくだった。
 届け出の期日ででもあるのか、事務室の窓口には白衣や制服の従業員たちが列をなしている。冬花が気後れして壁際に退くと、中のひとりが列を離れて近付いてきた。
「事務室にご用ですか?」
 男性の言葉に冬花は目を丸くした。声とともにあの香りが降ってきたからだ。叔母と同じ年頃の男性が冬花を見下ろしている。ベージュ色のジャンパーの胸には社名の刺繍があった。男性はもう一度同じ質問をした。
「あ、はい」
 冬花は慌てた。叔母の名前を出すとその人は「ああ!」と叫び、それにまた驚かされた。
「このたびはご愁傷様でした。湯江さんと同期だった飯塚です」
 叔母がお世話に、と冬花が返すより先に飯塚は列に割り込んでいき、ほどなくして出てきた。
「すいません立て込んでて。総務の者が荷物をお持ちしますので、それまでお茶でも」
と、エレベーターのボタンを押した。
 昼前の喫茶室は空いていた。飯塚は自販機の缶コーヒーを買うと窓際の席を勧めた。貰った名刺には『営業部主任 飯塚陸也』とある。
「葬儀に来ていただきましたよね」
 匂いでわかります、とは言いかねた。
「ええ。咲さんにお別れができてよかったです」
 叔母の下の名が呼ばれたので、冬花は思わず相手の顔を凝視した。
「入社してしばらく同じ部署だったので、ずっと親しくさせてもらってました。僕のほうが年下なので、子分みたいだと周りに言われて。咲さんは姉御肌だったから助けてもらうことも多かったんです」
 飯塚は遠くを見る目で楽しそうに語った。
 五人兄妹の一番下で甘えっ子だったという叔母が、このがっしりした男性に親分扱いされる姿はぴんと来なかった。
「そうだ」
 飯塚はポケットから小さな包みを出すとコーヒーの横に置いた。
「よかったら味見してください。今度出る新商品なんですよ。ミルク味」
 包み紙に見覚えがあった。叔母がときどき分けてくれていた菓子の味違いだ。
「そうなんです。咲さんも開発に携わっていたんですよ」
 冬花は菓子を口に運んだ。コクのあるクリームがコーヒーを含むと柔らかくほぐれた。ほっとする味だった。
「叔母は練乳が好きでした」
「どおりで咲さんは味見ばかりしてました」
 飯塚と目が合って、互いに笑った。咲子がいかに頼もしかったかという話を聞かされているところへ、総務課長だという女性が紙袋を手に入ってきた。
「このたびは急なことでお力落としでしょう。私どもも非常に残念です。咲さんは皆に慕われておられましたから」
 訝しげな冬花に、飯塚が説明した。
「入社した頃、由井さんて先輩がいましてね。紛らわしいでしょう、由井さんと湯江さんじゃ。それで後輩の咲さんを名前で呼ぶようになったんですよ」
「ああそれで」
 冬花は内心がっかりした。
 受け渡しのサインを貰うと総務課長は戻っていった。紙袋には衣類と、花柄のポーチが入っている。そのカーディガン、と飯塚が指をさした。
「彼女の昇進祝いに部署の皆で贈ったものですよ。休憩時間にはおっていました」
 飯塚の表情に懐かしさとは別の影がさした気がして、ふいに気持ちが緩んだ。目が潤んできたのを隠すように立ち上がると礼を言った。
「いやいやとんでもない」
 飯塚が冬花のために喫茶室のドアを開けたとき、その腕がふと目についた。
「時計、止まってます」
「えっ」
 冬花がついと発した言葉に飯塚が腕を放したので、支えられていたドアがごつんとその肩にぶつかった。
「ほんとだ。朝は動いてたのに」
「いい時計ですね」
 高級ブランドではないが、以前人気だった老舗メーカーのモデルだ。
「汚れててお恥ずかしい。兄のお下がりでしてね。古いし傷だらけで。もう必要ないかもしれないな。スマホのほうが正確な時間がわかりますからね」
「もったいないです。頑丈で精度の高い時計なのに」
 冬花は真面目に言った。
「スーツにはやっぱり腕時計があったほうが様になります。男性にとっては数少ないアクセサリーですから」
 急に饒舌になった冬花を飯塚は面白そうに見た。



  タチヨミ版はここまでとなります。


オードトワレ

2019年9月25日 発行 初版

著  者:戸田 鳥
発  行:翻車魚舎

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戸田 鳥

神戸生まれ。 学生時代より児童文学を学ぶ。 長い休みを挟みつつ創作を続け、2014年より、Webサイト「note」を中心に作品を公開。

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