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ぼくは太陽、きみは月
楠 深海
ははそはのねこ
豊増 美晴
猫が人のフリして作曲家している
Hiro
猫の見る夢
禎祥
銀河鉄道の猫
猫目 青
天使ねこ
蒔田 莉々
ラビレの恋愛事情~第二王子と妃の夫婦事情番外編~
巴月 のん
守田 うせき
甲斐 千鶴 TAMA
父ちゃん。どうして、雨が止まないの? いつ、空は晴れるの?
ざあざあごうごう、雨が降る。ごうごうざあざあ、すごい音。
葦の舟が回る。回る。回る……。
あたり一面、「ウミ」みたいだと、父ちゃんが言った。
見渡せばほんとに、水。水。水だらけ。ざんざん降りの雨の中、細長い葦舟に乗ってる父ちゃんは、ボクをぎゅうっと抱きしめた。
「どうした俺の太陽、目がまん丸だな。びっくりしてんのか?」
あははと、父ちゃんはボクを撫でながら笑った。渦に巻かれて、くるくる回る舟の上で。
笑いごとじゃないよ。
大体、「ウミ」ってなに? よくわかんないよ……
おとといから、ずうっと雨が降っている。だからどうなるんだろうって、ボクはオロオロしてた。今朝起きたら、地主さんの畑がすっかりなくなっていた。畑のそばを流れていた川から水が漏れてきて、あっというまに水びたし。思いっきり駆けてもなかなか、はじっこにつかない畑だったのに。それがすっかり、ものすごい勢いで流れる水の底に沈んでしまった。
だから悲しくて、ボクはにゃあにゃあ、声を枯らして泣いた。
だって父ちゃんもボクも、これじゃあ失業してしまう。
父ちゃんは毎日一所懸命、地主さんの畑を耕していた。
僕は毎日一所懸命、畑でネズミを捕っていた。幸い、収穫が終わってだいぶ経ってて、とれた小麦は全部、丘の上の倉庫の中。畑には何も生えてなかったけど。
「おいおい、なんだその情けない声は。この世の終わりみたいな声出して。あ、そうかおまえ、去年の洪水覚えてないんだな?」
えっ? 去年のコーズイ? なにそれ?
盛大に首を傾げると、父ちゃんはぐりぐりと、ボクの頭を撫でてきた。
「そういえば、あの頃はまだ赤ん坊だったもんなあ。そうかそうか、おまえが俺んとこに来て、ちょうど一年経ったってわけか」
イチネンっていうのはたしか、三百と五十回ぐらい、昼と夜とを過ごすことだ。毎日見回りに来る地主さんと父ちゃんとの話で、ボクはそのことを覚えた。二人の話で知ったことは、他にもいっぱいある。
「心配いらないよ、俺の太陽。このあたりじゃ毎年、大きな白星が北の空に輝くころに、雨が何日も降り続く。そんで必ず、畑が水浸しになるんだ」
でもそれでいいんだと、父ちゃんは雨雲に覆われている天を見上げた。
「雨はじきに止む。数日経てば水が退いて、畑には、恵みの土が残るんだ。栄養たっぷりの土がな」
この洪水は、川の女神様からの贈り物。だからこわがることも悲しむことも、しなくていいらしい。
「地主さんが言うには、異国では、毎年同じ所で麦を育てられないらしいぜ。二年ぐらいは、土地を休ませないといけないんだとよ。でもな、ここら辺の畑は、洪水が運んでくる土のおかげで、毎年麦が作れるんだ。俺たちは水が退くまで、ちょっと辛抱するだけでいいのさ」
へええ、そうなんだ。じゃあボクらはまた、畑で働けるんだね。
でもどうして父ちゃんは、わざわざ舟に乗ったんだろ? こんなにごうごう、激しく水が渦巻く中を。
「じっとしてろよ、俺の太陽。これから家出っ子を助けなきゃいかん」
イエデ? なにそれ? あ、うねる渦の中にだれかいる。水に呑まれてもがいてる!
父ちゃんはボクを懐の中に入れて、思いっきり櫂を漕いだ。
「ネフェル! ほら掴まれ!」
そうして大きな手を差し出した。めちゃくちゃ太い腕を、ぐんと伸ばして。
舟は流れに揉まれてひどく廻ったけど、父ちゃんはうまいこと、もがいている奴を引っ張り上げた。ごろっと舟の中に転がったのは、毎日ボクらと一緒に畑で働いている子どもだった。がりがりで、すぐに泣き出してしまう、めちゃくちゃ弱い奴だ。赤ん坊の頃かかった病気のせいで左足が萎えてる「アワレナミナシゴ」で、小作人専用の共同部屋に住んでいる。
「まったく無茶しやがる。洪水のどさくさに紛れて、逃げようなんて。ほんと馬鹿だなあ」
父ちゃんはバンバン子どもの背中を叩いて、水を吐くのを助けた。子どもはゲホゲホしながら、ひとしきりまくしたてた。もううんざりだとか、鞭は痛いとか、パンだけじゃ足りないとか。それから、いきなりボクを父ちゃんの懐から奪い取った。
「このネコをくれよ、おっさん!」
「おいまて、なんだいきなり。大体、おっさんて。俺まだ、二十歳になってな……」
「ネコの飼い主は、肉や魚をもらえるじゃないか! だから、こいつをくれよ!」
「あほ! お前にくれてやったら、俺が困るだろうが」
父ちゃんは子どもの頭に一発、でっかい拳を落とした。
ネコ。
ボクらは、とても神聖な生き物だと信じられている。
オスのネコは太陽神の化身。メスのネコは月女神の化身とされているそうだ。
そこそこ豊かな人しか飼えないらしくて、飼い主は他の人から一目置かれる。父ちゃんはボクがいるおかげで耕し組の組長を務めてるし、地主さんから毎日お酒を配られてるし、自分の家を持っている。
「ネコが欲しいってんなら、神殿に行けよ。神官様が売ってくださるぜ。小麦の預かり証が、ちょいと必要だけどな」
父ちゃんがそう言うと、子どもはぐしぐし、悔しげに顔をこすった。ボクがしょっちゅうやるみたいに、顔を洗ってる……んじゃなかった。預かり証なんて一枚も持ってないって、ぐすぐす泣き出す。
預かり証っていうのは、町の倉庫に小麦を預けたことを証明する紙切れだ。相手に渡せば、倉庫に預けた小麦をあげたことになる。父ちゃんは、町の倉庫に給料としてもらった小麦をたんまり貯め込んでて、預かり証を何枚も持っている。
「ネコ、くれよお」
父ちゃんは甘えんじゃねえと、もう一度、子どもの頭をごんと殴った。
「俺もおまえのように、ちっさい頃から片足が不自由だが、こつこつ働いて、給料貯めて、ネコを買ったんだ。おまえも、ろくに走れないなんて文句ばっか言ってないで、がむしゃらに、真面目に働けばいいんだよ」
がんばれ。さあ、家に戻ろう。ああもう、泣くんじゃねえ。
父ちゃんはぶっきらぼうに言って、懐から青い石をひとつ出して、子どもに押しつけた。
「本物の宝石だぜ。ネコの代金の足しにしろや」
「ちくしょう、あ、あとで倍にして返せとか、言うんだろっ」
「はん、利子はつけねえさ。そいつは、俺のもんじゃねえんだ。俺もおまえと同じ親無しでなあ。昔、脱走しかけたことがあったんだ。でも地主さんが俺を連れ戻して、そいつをくれたんだ。ネコを買う足しにしろって」
「え……」
「鞭は使うが、俺たちの地主はいい奴だぜ。俺たちみたいなのにも、ちゃんと給料くれるんだからよ」
手のひらに載せた青い石をじいっと見下ろした子どもは、顔を真っ赤にして、突然、石をきつく握りしめた。
「う……う……あ、あんたの助けなんか、要るもんかっ! 自分ひとりで、ネコ代稼いでやる!」
「ははっ。昔の俺と同じこと言ってらあ。まあ、その石はいいから持っておけよ。お守り代わりにな」
葦の舟が、くるくる廻る。
舟はごうごう流れる水の上を滑っていって、家からかなり遠いところまで流された。都の近くまで行っちゃったので、ボクらは街道を通って家路を急いだ。足が悪い父ちゃんと子どもは、肩を組んで、お互いを支え合って歩いた。
「お互いがお互いの杖になるって、便利だな。ぐんぐん進めるぜ」
「う……そう、だね」
街道には人があふれていて、両脇に小さな屋台がえんえんずらりと並んでいた。焼いた魚。甘いナツメヤシ。キラキラ光る護符。他にも色んなお土産ものが、売られてた。父ちゃん曰く、洪水が起こると、都とその周辺でお祭りが開かれるんだそうだ。
「せっかくだから菓子でも食うか」
父ちゃんは焼いたお菓子をしこたま買って、子どもに渡した。
「おいしい……」
「太陽も食え。うまいぞ」
ボクらはお菓子を頬張りながら、無事に戻ることができた。水が引きかけている、広い畑に。
それから丸々三年、ボクらは畑を耕し続けた。
ネフェルが他の奴より弱いのは、足が萎えてるせいだけじゃなかった。実は、「オンナノコ」っていう生き物だったせいもあったらしい。父ちゃんがそのことを地主さんに言うと、ネフェルはめったに鞭で打たれることがなくなった。
気づかなかったすまん、って、地主さんは驚いてた。ボクはニンゲンにもオスとメスがあるんだと、そのとき初めて知った。地主さんは落ち穂拾いぐらいでいいって、ネフェルの仕事を減らそうとしたけれど、ネフェルは率先して、給料がいっぱいもらえる力仕事に加わった。
「ネコを買うには十年ぐらいかかるかもなー」
父ちゃんはいつも、冗談めかしてネフェルをからかっていたけど、ネフェルはかつてボクを買った父ちゃんより一年早く、ネコを飼うお金を手に入れた。もらった小麦の預かり証をうまいこと売って、ぴかぴかの宝石を極力、貯めこんだからだ。
洪水が起きたあと、ネフェルはお祭り見物もかねて、父ちゃんとボクと一緒に王都の神殿へ行った。
だだっ広い参道。その両脇に、高い木がえんえんと植わっていた。境内の真ん中にでっかい黒ネコの像がそびえ立っていて、そこにはびっくりするぐらいネコがうじゃうじゃ。そこかしこに、ボクの同類がいた。大体がボクと同じ、しましま模様のやつだったけど、真っ黒とか真っ白いネコもちらほらいた。
「ネコたちの餌代は、参拝者の寄付でまかなってるそうだぜ。神官様にたっぷりあげれば、性格のいいやつを斡旋してくれるんじゃねえかな」
父ちゃんのアドバイスを聞きながら、ネフェルはきらきら目を輝かせて、自分のネコを探した。
どれにするかだいぶ迷ったあげくに、あれにするって指さしたのは、黒ネコの像のふもとにうずくまってる、まっ白いネコだった。
でも神官様は、そのネコはやめた方がいいと言ってきた。まっしろでうつくしいけれど、そのネコは目がみえないんだという。
「きれいな蒼目なのですが。残念ながら、他のネコより働けませんよ?」
ネフェルは始め、どきりとしていたけれど、まっしろいネコをしばらくじっと見つめて、それからやっぱりこの子にすると言った。
「いいのかよ?」
「いいよ。だってこいつ、あたしのことじっと見てるんだもん。見えない目で、じっと」
ネフェルは、五体満足じゃないって聞いてますます、このネコにするって決めたようだった。
そのネコを拒否することは、自分を否定することだと思ったのかもしれない。
神官様は相場の半額でいいよってネフェルに言ったけど、ネフェルは寄付の分も入ってるって言って、持ってる宝石を全部神官様に押しつけて、まっしろなネコを手に入れた。
「よろしくな。あたしが飼い主だよ。名前は……そうだね、〈あたしの月〉にしようかな」
メスのネコだったから、ネフェルはそう名付けた。
こうして、白ネコの飼い主になったネフェルは、お酒を配られる身分になって、地主さんから小さな家をひとつもらった。
真っ白いネコは本当に美しかった。月の女神の化身。嘘偽りなく、そう思えた。
「ふうん、あなたもネコなの?」
性格はおっとりしていて、のんびり屋。心配した通り、畑では全然役に立たない。
神官様にかなり大事にされてたようで、ネズミどころか虫すら全然関知しないし、さわれない。
「おい月! バッタぐらい捕ってくれよ!」
「え? どこ? きゃあ! 今なにか、鼻をかすめていったわ」
「くそ! そこどけ! うりゃあ!」
ああもう、ボクばっかり、忙しいったら。
「ありがとう太陽、月の面倒を見てくれて」
ネフェルは毎日、ボクに感謝してくる。父ちゃんも世話してやれと言ってきたから、ボクは仕方なく、白ネコにいろんなことを教えた。
「太陽さん! こ、これでいいですかっ」
白ネコは視力以外の能力はずば抜けていたから、ほどなく狩りに挑戦するようになったけど。なかなか、バッタ一匹獲ることもできなくて、ついには、他の小作人たちに目が見えないことがばれてしまった。誰かが草でじゃらそうとしても、耳をピクピク動かすことしかできなかったからだ。
「神殿に戻したら?」
「まともなものと、取り替えてもらうといい」
誰もがネフェルにそう薦めた。ボクの父ちゃんと、地主さん以外。ネフェルは必死に、白ネコをかばった。
「この子は耳がいいの。だからきっとすぐに、ネズミを狩れるようになるってば」
たしかに白ネコは物にぶつかったりしない。物音を聞いたりヒゲを上手く使って、他のものとの距離を正確に測っている。だからごくごく、普通に歩いてる。走るのはちょっと、無理だけど。
「太陽、お願い。月に狩りを教えて」
教えてるよネフェル。でもやっぱり難しいよ。君の月がネズミをとるのは、無理じゃないかな……
白ネコが来て三ヶ月経った。洪水の後に撒いた麦の種が芽吹いて、畑は青々とした草原になっている。
父ちゃんたちは、雑草取りで忙しい。
ボクは根気強く、白ネコにネズミのとり方を教えていた。もういくらやっても、ダメかもって気分で、腕の伸ばし方とか、気配の消し方とか、なんとか伝えようとしていた。
数日前に他の小作人がネコを買って、そいつがずいぶん有能なもんだから、白ネコもボクもすごく落ち込んでいた。やっぱり役に立つ奴はありがたがられるし、かわいがられる。新しくきたネコは一躍、みんなの注目と賞賛を浴びていた。
「ごめんなさい、太陽」
「なんであやまるのさ、月」
「あたしにとらせようとして、ネズミを目の前に誘い出してくれたんでしょ? でも、新しく来た子が颯爽とそれを退治しちゃったから。あたし、あなたの好意を無駄にしちゃったわ」
「気にするなよ。新入りは空気読まないで、君の獲物を奪ったんだ」
白ネコはめそめそ泣いた。役に立ちたいって悲しそうに。ネフェルは優しいから、一生白ネコの飼い主でいるだろう。でも今は、役に立たないネコを飼っているって、小作人たちに馬鹿にされている。
「母さんが笑われるの、耐えられないわ。あたし、神殿に帰った方がいいわよね。新入り君にも、面と向かって言われちゃったし」
「くそ、あいつ、君に? それは――」
そのときだった。白ネコがハッと突然、耳をピクピク動かして、石のように固まったんだ。
「どうしたの?」
「なにか、来る」
「えっ?」
「なにか来る。空から何か。逃げて。逃げて太陽。逃げて‼」
白ネコは走り出した。もうどのぐらい大きいか知り尽くした畑の中だから、全速力で走れるようになっていた。美しい彼女は、しっぽをぼうぼうと爆発させて、みゃあみゃあ叫んだ。
「なに? どうしたの、あたしの月」
「そんなに騒いでどうした?」
「なにか来るわ‼ 空から来るわ‼ 逃げて! 逃げて‼」
白ネコの異常な様子に、ネフェルが息を呑んで、ボクの父ちゃんを呼んだ。
白ネコはぐるぐる二人の周りを回って、天を睨んだ。
ボクも空を見上げた。ああ本当に。太陽でも雲でもない、何かが見えた。
あれは――
次の瞬間、畑にそれが落ちてきた。
ものすごい音を立てて。大地をぐわんぐわんと、揺らしながら。
僕らは思いっきり上下に跳ねた。
「太陽!」
父ちゃんが血相を変えて、ボクを拾い上げようとした。でもボクは、あほんと立ち止まって空を見上げている新入りのネコが、彼方にいるのを見つけた。そいつは空から落ちてきたものの近くにいたから、ボクはできるだけ遠ざけようと、走って。走って。走って。そして新入りのネコを、突き飛ばした。
瞬間。落ちてきたものから砕け散った破片に、ボクはぶっ飛ばされた。
そして……
「太陽ううううっ!」
そしてボクは、気を失った。畑がごうごう燃えだすのを、どこか遠くで、感じながら。
畑に落ちてきたのは、燃えさかる星だったらしい。
それは畑に大穴を開けた。実のところ、畑の半分がふっ飛んでしまった。
畑は真っ黒。すっかり焼け焦げたけど、幸い、死んだ人はいなかった。白ネコが凄い勢いで走って鳴いたから、畑にいた人たちは何事かと、みんな彼女のところに集まりかけていた。おかげで星が直撃したところからは人がすっかり退いていて、誰も怪我一つ負わなかった。
うん……ボク以外、誰も。
新入りをかばったボクは、しっぽと片耳を焼かれてしまった。打ち所が悪かったんだろう、それ以来、耳があんまり聞こえなくなったんだけど。
「太陽、右よ!」
ネコの言葉は、声だけじゃない。耳がいい白ネコがヒゲをぴくぴく動かして、ボクに獲物の位置を教えてくれるようになった。
「おまえら、いいコンビだな」
父ちゃんが褒めそやすほど、ボクらの息はぴったり。ボクは前にも増して、たくさん、虫やネズミを捕れるようになった。
星が落ちてくるのをいち早く察知した白ネコは、誰からも一目置かれるようになった。まこと、女神の化身じゃないだろうかって噂が広がって、都からわざわざ、会いに来る人まで現れた。ついにはお金持ちが白ネコを見に来て、すごいすごいと褒めて、白ネコを欲しがった。
むろん、ネフェルは断った。これからも、どんなに大金を積まれようが、白ネコを売ることはしないだろう。お金持ちはとても残念がっていたけれど、最後には気前よく、畑を復興するお金を寄付してくれた。みんな、めちゃくちゃ大喜び。白ネコは、やっとみんなの役に立てたと感激していた。
寄付をもらった父ちゃんたちは、一所懸命、畑を蘇らせようとがんばった。その年の収穫は悲しいぐらい少なかったけれど、次の年にはなんとか、いつもぐらいの収穫に戻すことができた。
そして、その次の年の、収穫が近づいたころ。つまり、ボクが三百五十日を六回と半分ぐらい過ごしたころ、地主さんが亡くなった。
畑が半分吹っ飛んでもめげなかった人は、ドクシンで、血縁のソウゾクニンがいなかった。
そのため地主さんは、驚くべき遺言を残していたらしい。
「土地が配られたぞ、太陽!」
畑はすべて、小作人たちに分け与えられるように。
地主さんは、ほんとにいい人だった。小作人はたくさんいるから、ひとりひとりがもらえた畑は、そんなに広くない。でもみんな、自分の土地と家を持てるようになったから、文句を言う人はいなかった。
「ああこれで。晴れて次の一歩を踏み出せるなぁ」
父ちゃんは、晴れ晴れとした顔をして。そうして、ネフェルの両手をとって、言ったんだ。きらきらと、目を輝かせながら。
「なあ、俺と結婚してくれ!」
ネフェルは優しい。でも、いきなり言われて、はいそうですかって、うなずいてしまう子ではない。
「なあ、俺たちは今まで、肩を支え合って歩いてきた。おれはずっと、そうしたいんだよ。おまえと、足りないものを補い合って生きたいんだよ」
ネフェルがいいよって答えるまで、結構時間がかかった。
それまで彼女は、なぜか、つんつんいらいら。そわそわもひどかったな。
そうしてなぜか白ネコも、つんつんいらいら。飼い主と同じ様子を見せていた。
「先輩、鈍いっすね」
後輩ネコにニヤッとされて、やっと気づいたその夜。ネフェルは父ちゃんの家で晩ご飯を食べて、なんだか色々いっぱい、二人で話して。それから、同じ寝台で眠った。
ボクと白ネコも、その寝台の上で丸まって眠った。
飼い主たちに負けないぐらい、ヒゲを動かして、たくさん喋って。
「これからもずうっと、一緒に生きようよ。できれば、おんなじ家に住むのがいいな」
最後にボクがそう願ったら、白ネコはうんとうなずいてくれた。とても嬉しそうに。
次の日、ボクらはさっそく、結婚式を挙げた。
黄金色の麦の穂が揺れる中で。
父ちゃんとネフェル。それから、ボクと白ネコは、もと小作人の人たちや、友達たちから、いっぱいいっぱい、花びらを浴びた。
ボクは太陽、きみは月。ずっと一緒に、幸せに毎日を過ごそう。
足りないものは、補い合おう。
昼と夜が合わさって、一日になるように。
ボクらは、二人でひとつなのだから。
これが、ボクの生い立ちの話だ。
つまりボクはごく普通に、ネコとして、生まれたということなのだけれど。
なぜに今、いまだによく聞こえない頭部以外は人の体を持ち、赤と白の冠を被り、黄金の杓を携え、黄金の玉座に座して、毎日人々を眺め降ろすようになったのか。
それは今度また、話すことにしよう。
海に彼方より来たりし異邦人たちよ。
我が名は、パミ・メリアメン。
ファラオにして、ネコ、である――
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※パミ・メリアメン:史実ではエジプト第二十二王朝、七代目の王。
第二十二王朝はリビア人王朝であり、バステトを主神とするブバスティスが王都であった。
1
ひやっとしてきもちいいな
いままでぎゅうぎゅうの
あたたかいうみのなかにいたけれど
とてもせまいきゅうくつなところから
うみのないところにでてきたようだ
ざらざら でもあたたかいもので
ぜんしんがきれいにされていくみたい
となりからちいさなおとが
かさなってきこえてくる
いきをすって
いき
うみじゃない
みずじゃないものをすっている
はいたら
みゃあって
となりとおなじおとがでた
お母さんはきょうも呼んでいる。いなくなったこうちゃんと、けんちゃんのことを。ずっとずっと呼んでいるけれど返事はない。
お母さんの声はとてもやさしい。こうちゃんとけんちゃんはまだ赤ちゃんで、わたしのお兄ちゃんたちだ。お母さんはかくれんぼが好きなこうちゃんと、怖がりのけんちゃんに早く出てきて返事をしてほしいから、やさしく細い声で何度もなんども呼んでいる。こうちゃんは草むらのなかへ行ったきり、けんちゃんはあの建物の角を曲がっていってしまってから、そのまま帰ってこない。
2
「あの猫はどうしてあんなに悲しい声で何度もないているのかな」
「母猫なんだけど、三匹の子猫のうち、二匹がいなくなったからなの」
今日の納品伝票をつけながら、千晴さんはちょっと顔をしかめて言った。
「からすかもしれないよね」
「からすって猫食べるの?」
初鰹の鮮度を確かめるために冷たい氷水に突っ込んでいた手を引き上げ、視線も上げて聞いた。声は魚屋の建物の横から聞こえてくるようだ。覗いてみると白ぶちの猫がないている。
「赤ちゃんはときどき食べられちゃうよ。去年は三匹生まれたんだけどどこかへ行ってしまったり、からすに食べられたりして、二週間くらいでいなくなってしまったの。今年も三匹生まれて、一匹は一昨日いなくなって、実はもう一匹は昨日お客さんが、母猫が見ていない隙に連れて帰ったのよね。どうせいなくなったり食べられたりするなら、飼われた方が幸せだよね」
田んぼに囲まれているとはいえ人の出入りが頻繁にあるのに、からすが赤ちゃんをさらっていったりするのか。
「飼われるのが幸せかはわからないけれど、からすに食べられるのは確かにかわいそうだね」
3
まぐろを切る包丁というのは柄も刃渡りも本当に長く、まるで日本刀のようだ。会長はもう八十を超えるほどの年齢のようだが今日も威勢よく、まぐろ包丁をふるっている。
会長は建物の奥の方でまぐろを解体しているが、ときどき私が買い物をしているあたりの表のほうに出てくる。
月一で星一徹似の会長のくれるコーヒー金色のBOSS
従業員を呼びつけ、「お姉ちゃんに一番上等なコーヒー持ってこい」と、月一回くらいのペースで金色に輝くBOSSをくれる。夏は氷柱のように冷たく、冬は持てないほど熱い。缶コーヒーは内容量が少なく、男性がひと息に飲めて、すぐに仕事に戻れるくらいの量だ。BOSSのパイプをくわえたキャラクターは、本当はコーヒーをふたつきのものでゆっくり飲みたいような私のことを、どう思っているのだろうか。
「会長はあんな強面だけど、実は魚をこまめに裏で撒いて、鳥や猫を餌付けしてるのよ」
BOSSは今月から冷やされるようになったらしく、千晴さんが冷たい缶コーヒーをくれる。
「鳥ってもしかして、さっき裏の田んぼのほうでばさばさ羽ばたいていた青鷺?」
「そうそう。いつも決まった一羽で、会長が出てくると寄ってくるみたいよ」
青鷺とからすだとどちらが賢いのだろう、からすは犬くらいの知能があると聞いたことがある。個人的には青鷺にはもっと不思議な力があるようにも思える。どこからかの使いのようなイメージ。たくさんの青鷺が出待ちのように毎日並んでいた市場の魚屋は先日、急に倒産してしまった。
4
お母さんはなくのを急にやめたかとおもうと、太い声の方へふらふらと向かっていった。いつもこのあと、おいしいお魚をもってきてくれる。なんでだろう。どこにいくのかな。ついていってみよう。
あたまにそよそよと
くろくてながいかざりばねきれい
青鷺ねえさんは
はねをひろげると
ほんとうに大きくて
わたしのちっぽけさを
かわいそうだという
わたしには大きいことがしあわせなのか
わからないな
ちいさいことがふしあわせとも
いまのところおもわないし
わたしもそのうち
青鷺ねえさんみたいに
大きくなるだろう
だって毎日
おなじ魚をたべているんだもの
かいちょーのくれるまぐろが大好きな青鷺のおねえさんは、いつもわたしに対してマウントを取ろうとしてくる。
「私にくれるまぐろのほうがいつだって高級なんだから。あなたが食べるのは普通のまぐろ。わたしが食べているのは上等なまぐろなのよ。だってわたしのほうが背が高くてずっと美人でスタイルもいいし、遠くにも行けるでしょ」
「わたしだって遠くに行ける」
お母さんがいなくなって二ヶ月が経とうとしていた。お兄ちゃんたちがいなくなって連日ないていた母さんだったが、一週間ほど泣き続けて、ふと何かのお告げを受けたかのように、わたしを置いてどこかへ消えてしまった。わたしは魚屋のかいちょーから毎日、魚をもらって幸せに暮らしている。どの魚もぜんぶおいしい。青鷺ねえさんは高飛車だが、実はツンデレ系らしく、なんだかんだわたしの悪口をいいつつ、やたらと世話を焼こうとする。もらう魚を独り占めすることはないし、ときどき寄ってくるからすたちを追い払ってくれる。青鷺ねえさんは少々面倒くさくて重い存在だが、嫌いではない。昨日はわたしの好物のぶりを譲ってくれたから、むしろ、どちらかといえば、ねえさんのことは好きなほうだ。
5
岐阜中央卸売市場は高齢化が進んでいて、しかも男が多いところであるから、石原裕次郎のようなダンディーさを男らしさとする男でいっぱいだ。これにも二タイプあって、女を性的な征服対象としか見られないクズタイプと、女は弱いから守ってあげなければいけないという気持ちが強い、「強いだけでは生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」みたいな、チャンドラータイプに分かれる。
どちらも女性を低くみる思想が根底にあるのは間違いないが、前者は嫌いでも後者はむしろ好きだ。カリオストロの城のルパンみたいな感じ。それとなく重い荷物を運んでくれたり、気前のいい人は販売機の紙カップ入りの、豆から挽くコーヒーを飲めと100円玉をそっとくれたりする。
私は何かというと女性蔑視と騒ぎ立てる女たちをあまり美しくないと思う。女性が全員、吉田沙保里のような強い人で構成される社会ならともかく、そうではないのだから、男性と女性の完全な平等を求めると女性が辛くなることだってある。そこをいたわってくれる男性たちまで一緒にして、セクハラと叫びつつ駆逐している女性を見ると、生きにくくないのかなと勝手に心配になってしまう。
競りのあと魚市場のかたすみで青鷺七羽は朝食会議
市場には青鷺がたくさんいる。魚屋が閉店前に餌をくれることがあるようで、アイドルの出待ちのように何羽も並んで待っていることだってある。私は市場に買い付けに来るようになって五年ほどになるが、そういえば最近の市場には猫の姿を見かけない。この白い子猫はどこから来たのだろう。あのたくさんいた猫たちはもしかしたら保健所に連れて行かれたかもしれない。この猫は店舗の方へ行きそうだ。誰かに捕まらないといいけど。
青梅雨や腰ひくく道渡る猫
6
あの橋を
わたってみよう
トラックが
たくさんとおる
あの橋のむこうは
きっと虹のむこう
あか、あお、きいろの
おおきな魚がたくさん
たべられるはず
橋をわたって魚のにおいがするほうへやってきてみたものの、においだけで魚はない。にんげんもいないようだ。そこに奥の方から青いバケツを持ったにんげんが現れた。するとうしろから、たくさんの青鷺が飛んできた。こんなにたくさんにつつかれたらきっとひとたまりもない。「ねえさん!」と心でさけんだとき、
「いま心のなかで私を呼んだでしょ」
と一羽の青鷺が囁きかけてきた。
青鷺たちはわたしの横をすりぬけ、青いバケツに集まった。にんげんがバケツから魚をまくと、青鷺たちはおいしそうに食べていた。
「ほら、あんたのぶんも」
青鷺ねえさんが魚をもってきて、わけてくれる。
「このあたりは危ないから、これ食べたら帰るわよ」
7
「今年は初鰹早かったね」
青魚の鮮度はみるみる間に落ちていく。それを防ぐため海水の氷水に浸かり、鰹やいわしは入荷する。この氷水は真水のものよりかなり冷たい。買い付けに来始めの頃は手を入れるのに本当に勇気がいったが、春の終わりに手を突っ込むくらいなんでもなくなっていた。手を入れて腹のあたりを触り、鮮度を確かめる。
魚屋に親猫のなく声のまた
ふと小さな声に気づいて建物の横をのぞいてみた。そこには白い猫がいて、目があった。猫はすぐ建物の裏側へと逃げてしまったが、また小さく細い声でなきはじめた。去年は白ぶちだったような。
「今年も猫、産まれたの?」
千晴さんは親の介護のために、今月いっぱいでこの魚屋を辞めてしまう。こうやって従業員もだんだん入れ替わっていき、ここ数年の猫の歴史を知る人も少なくなっていくだろう。
「今年は二匹で、もうもらわれていったの。またしばらく親猫がなくと思うわ」
はつ鰹はははそはのはは猫の声ことしもひびくこころもとなく
我が輩は猫である。
名前は個人情報の観点から伏せさせてもらう。
幼き頃に女教師をしている主に拾われ、すでにいくばくかの歳月をともに過ごしている。
我が主は人間にしてはなかなかの器量良しで、さらに頭脳も明晰と、まさに才色を兼ね備えた人物である。
ただ、いまだ番の一匹も見つけることができず、『猫を飼うと婚期が遅れる』と自らの不甲斐のなさを我が輩のせいにしようとするのは困ったものだ。
理不尽な汚名をそそぐためにも、我が輩が相手をみつくろってやらねばなるまい。
我が輩は自らの父を知らぬ。どこでどう生まれたのかもよくわからぬ。ただ、乳をくれた母の温もりは微かに覚えている。それを失った日のことも……。
幼き日の我が輩は、昼時の授乳を終えると、兄弟たちとともに軒下に移されるのが常であった。そこに置かれたダンボールにイモのように並べられると、その前を通る人間たちへの見せ物とされていたのだ。
当時から人間を疎ましく思ってはいたが、可愛いだけの毛玉でしかない子猫では逃げることもかなわず、無断で写真を撮られたり、いきなり抱きしめられたりと、執拗なほどのアニマルハラスメントを受けていた。
振り返ってみると、それは我が輩らの飼い主を探すための宣伝であったのだろう。実際、我が輩の行き先はそれで決まってしまったのだから……。
運命の岐路は唐突に訪れた。
我が輩の魅力にとりつかれた一匹の女児が、当時の飼い主に断りもなく我が輩を連れ去ったのだ。
計画性のない衝動的な犯行だったのだろう。女児は自宅に我が輩を連れ込むと、そのときになって初めて女親に我が輩を飼うことを告げた。
しかしながら、女児の願いはかなえられず、女親は我が輩をもとあった場所に返してくるように命じた。
女児は必死に訴えたものの、アレルギーをもつ弟の存在を理由に断固拒否され、泣きながら自宅で飼うことをあきらめさせられたのだ。
それで問題がより深刻化した。
ちゃんともとの場所まで返してくれればよかったものを、女児は屋根もないような空き地に我が輩を隠し、無謀にも自分ひとりの力で養おうと企んだのだ。
女児に悪気などなかったのだろう。しかし、そのせいで我が輩は地獄の底にたたき落とされた。
女児は我が輩を動くヌイグルミ程度の認識しかもっておらず、ずいぶん手荒い扱いをされた。
なにより困ったのは食事だ。
餌どころか、水すらロクに与えようとはしなかった。翌日になって、ようやく給食なるものの余りをもってきてはくれたが、まだ小さかった我が輩はそれを上手く消化できず、そのまま下痢便の海に沈むこととなった。
愛しき母の母乳もなく、他で栄養を得ることもできなかった我が輩はそのまま力尽きようとしていた。
――このまま常世と別れることとなるのか。
苦労して産み落としてくれた母には申し訳ないが、これ以上幼き我が輩が生き続けるのは困難だと覚悟した。
だが、どういう経緯を経たのか、次に目を覚ましたのは女教師である今の主の手のうちであった。
女児に泣きつかれ、死にかけた我が輩を助けてくれたと知ったのはあとからのことだった。
病院なる場所に運ばれ、手厚い看病の末になんとか我が輩の物語は潰えずに済んだ。
もっとも、病院で行われた数々の所行は我が輩を長く人間不信にしたが……いまとなっては過去のことである。
主のもとで飼われ、いくばくかの時が経ち、我が輩も立派な猫へと成長を果たした。
幼き頃の我が輩を、無知な女児から救ってくれた恩を返すためにも、なにか仕事をしようかと考える。
毎日疲れ果てて帰ってくる主のもとで、ニートさながらの待遇で暮らしているのはいささか居心地が悪い。
ここは猫らしくネズミでも捕まえようかと思いもしたが、交番でネズミを買い取るような時代でもない。そもそもこのあたりでネズミをみかけることすら滅多にない。ゴキブリならみかけ、時折は捕まえるのだが、主が恐慌状態に陥るので見つかるまえに処分することにしている。
犬畜生の真似をして、住処の警護にあたるのも性に合わない。そもそも道を通る輩に吠えかかるだけの、なんの生産性もない行為を仕事と呼ぶのには抵抗がある。本人……もとい、本犬の自己満足も甚だしいものだ。
そこで思いついたのが作曲家である。
小説家や漫画家とおなじで、名乗ってしまえば成れるものである。別段免許も必要なければ学識も要らない。知識はあったほうがよいかもしれぬが、そこはやりながら覚えていけばよい。
人間にできるのだから、猫にだってできぬ道理はないだろう。
作曲には主が使っているパソコンを借りることにした。
パソコンでの作曲(DTMと呼ぶ)は主が興味本位ではじめたものであるが、最近は帰りも遅く、ロクに電源を入れられることもない。
パソコンも使われぬうちに旧式になるよりは、使ってやったほうが功徳が積めるというもの。主に断りは入れなかったが、孝行の一環なのだからと見逃してもらうことにした。
作曲作業は実に簡単に終わった。
DTMソフトを起動させ、爪を収納した手でキーボードを叩いているだけで曲が作れる。とても簡単だ。これなら、ワンワンと吠えるしか能のない犬畜生にでもできるのではないだろうかと思ったほどだ。
主はうんうんと唸りながら作曲していたので、実は犬程度の能力しか持ち合わせていないのではないだろうかと不安にもなった。
いいや、我が主は優秀なお人である。故にこれは、主が劣っているのではなく、我が輩が猫の中でもかなり優秀な存在ということなのだろう。まぁ最初からわかっていたことであるがな。
そんな我が輩ではあったが、いちおう謙虚さというものも携えている。
作った曲を、さあ買えと迫ったところで買ってくれる者など早々はおらぬだろう。
故に、最初は無料で公開することにした。
それが成功の秘訣となり、我が輩の作った曲は多くの人間の耳に入り、やがて音楽プロデューサーなる人物から声がかかることとなった。それからは金を稼ぐことのできる名実のともなった作曲家をしている。
紆余曲折あり、報酬は電子マネーで支払われることとなった。作曲は猫にもできるが、困ったことに猫では銀行口座がつくれないのだ。主の口座を借りるという手段もあったのだが、当時はまだ相手のことを信じきれてはおらず、万が一にも迷惑をかけてはいけないと配慮したのである。
作曲家としての報酬は、普段、主の食べさせてくれないネコ缶に姿を変える。また去年のクリスマスなるイベントには主に靴下をプレゼントで送ったりもした。配送屋からソレを受け取った主は、不思議そうにしてはいたが、冬場にはカラフルな厚手の靴下を履いてくれている。
ちなみに宅配の受け取りは主に一任している。我が輩が作曲家をしていることを知らない主は、そういった届け物を不思議そうにしながらも深くは考えず受け入れていた。
あるいは我が輩の犯行とウスウスは気づきながらも、決定的な証拠を押さえるまで泳がせている可能性も考えられるが……いまのところ尻尾は捕まれずに済んでいる。
依頼主との打ち合わせはもっぱらメールでおこなう。納品は楽譜を送る者もいるそうだが、我が輩は音源データをアップローダーにあげ、パスワードとアドレスを先方に知らせるだけである。
こうして一連の作業はネットを経由して行われるため、先方と顔を合わせたことはない。よって先方は我が輩が猫であることに気づいてはいないだろう。
もっとも相手の素性を知らないのは我が輩も同様だ。ひょっとしたら我が輩がやりとりしている相手が狐か狸ということもありえる。
まぁ、なんであったとしても、仕事と報酬を用意してくれるのだからかまわないだろう。
我が輩は時折、猫の集会に参加する。
群れるのは趣味ではないのだが、主のための情報収集を行う必要があるのだ。
人間の番探しにはインターネットで出会い系なるものの利用を考えもしたが、それらの宣伝文句ははなはだ胡散臭いものばかりで、利用するのを躊躇させた。
集会に集まるのは我が輩を含め四匹の猫である。
いまのご時世、猫の数は少なくないものの、外遊びを許されたものは限られている。我が輩も主に心配をかけぬよう、不在時にこっそりと窓の鍵を開け、出歩くようにしていた。
集会の中心人物は寿司屋の看板娘であるユキさんである。
彼女は由緒正しき和猫であり、全身を見回してもシミひとつみつからないきれいな白い毛並みの持ち主だ。
彼女は首輪とヒモでつながれていて、いささか不自由な身の上である。参加者たちは、この囚われの美猫に惚れ込んで集まっていると言っても過言ではないだろう。
ユキさんは春先になると家中に隠されてしまうため、ここしばらく姿を見ることがかなわなかった。久方ぶりの彼女は一段と毛艶がよくどこか優雅にも見える。
次は暑苦しいほどの長毛に、キジトラ柄をまとったシルヴァー。
恰幅がよすぎて猫らしさにかけるのだが、本猫は脂肪は富の証だと誇っている。おそらくは脳の中身まで脂肪が入り込んでいて正常な思考ができないのであろう。
シルヴァーの飼い主はユーチューバーである。我が輩も動画をみたことがあるが、なかなかに笑いというものがわかっていて、人間にしておくのが惜しいと思ったほどだ。
三匹目はマロ。額に横並びの丸い柄があるのが由来らしい。
マロは特定の家には住み着かず、餌だけを貰いに複数の家をわたりあるく、いわゆる通い猫というヤツである。野良とは思えぬ毛艶をみれば、かなりのやり手であることがうかがえる。もっとも、我が輩は人間に媚びて餌をもらう行為には興味がないが。
そして最後は、女教師の主をもち、作曲家をしている我が輩である。
この四匹が集会の主要メンバーだ。ほかにも時折顔を見せる輩もいるが、別段紹介の必要はないだろう。
そこでの話題は、誰の主がなにをしたとか、最近なにか変わったものを食べただとか、とりとめのないものばかりである。我が輩も我が主に見合うような、活のいい人間の雄はいないものかとたずねることもあるが、それが有効に働いたことは残念ながらない。
そんな中、話題が『誰の飼い主が一番えらいか』というものに移った。
職業に貴賤などないというが、それは人間どもが上っ面で口にする建前である。それを我が輩ら猫の爪で、ひっぺがしてしまおうというのだ。
論議を交わすと、一番は寿司屋であるユキさんの主ということになった。
かの御仁は、気のよいお人で、我が輩らにも生の魚を馳走してくれるのだ。猫缶とはちがう大自然の味わいに何度となく舌包みを打たせてもらった。
また、会の中心であるユキさんの飼い主でもある。その評価に不満を持つ者はいなかった。
逆に最下位なのはマロであろう。彼は特定の主を持たぬため不戦敗で、本猫もその評価を素直に受け入れていた。
そんなわけで二位争いは、我が輩とシルヴァーの一騎打ちとなった。
シルヴァーは女教師よりもユーチューバーの方がえらいにちがいないと主張する。
稼ぎが良いし、今時の子どもたちはみなユーチューバーになりたがるという。また主の動画が人気で、大勢の者たちがそれを観ているのもその理由だと。
収入の多さなどと、どうやって判断するかと思えば、彼の体脂肪率の高い身体こそがその証拠品だという。なるほど、それに関しては確かに説得力がある。
対する我が輩の主張は、女教師の方がえらいにちがいないというものである。
ネット検索をすれば、女教師ものというジャンルで大量の動画が存在することは一目瞭然。自らなりたいという者こそ少ないかもしれないが、皆のあこがれを集める職業でまちがいないのだ。
収入に関しては、カリカリばかりの生活を振り返ればよくはないだろうが、その代わりに人望がある。
以前、こっそりと主の仕事姿を覗き見したことがあるが、大勢の人間を従える姿は人望の高さを示していよう。
なにより、教養がある我が輩の主人なのである。このなかで収入のある猫は我が輩だけなのだから、その価値は計り知れないものであろう。それを育てた主の価値も相応のものにちがいない。
猫の価値は毛艶と体格であるとシルヴァーは主張し、我が輩はそれ以外にも価値はあると主張する。
だが、ここで我が輩が迂闊に反論すれば毛艶のよいユキさんの美点を否定にもつながりかねない。そう思うと、上手く言葉がつなげられなかった。
雑種デブの後陣を喫するのは腹立たしいことこの上ないが、貴猫を貶めるような発言は紳猫としてできようハズもない。
――ここはユキさんの顔を立てるべく引き下がろう。
そんな決意を出しかけた我が輩に、助け船を出してくれたのは当のユキさんであった。
彼女は猫の身でありながら所得を得ている我が輩のことをことさら評価していてくれたのだ。
それを聞いた我が輩は天にも昇る気分だった。
さすがにシルヴァーも、ユキさんの判断にケチをつけるような真似はせず、女教師が上であると渋々ではあるが認めた。
かくして、我が輩とシルヴァーの争いは我が輩の勝利に終わったのだ。
だが、話はそこで終わらない。
なんとユキさんは、我が輩を見込んで頼まれて欲しいことがあると言うのだ。その内容と言えば……
「今度生まれる子のために、欲しいものがあるの」
「子ってぇのは誰の子だい?」
「もちろん、私のよ」
質問したシルヴァーもろとも、我が輩らが凍りつく。
なんでも、ユキさんは家に引きこもっている間、飼い主たちの手引きで見合いをしたらしい。そして、その相手を気に入り、子をはらんだのだそうだ。
そのことを聞いた我が輩らは、それまでの討論の結末も忘れ呆然とするしかなかった。
――さてどうしたものか。
先日の集会がどのような形で終わったのか、いささか記憶が曖昧なのだが……どうやら我が輩は、ユキさんからの頼みごとを了承したらしい。後日、彼女から礼を言われ、そのことに気づいた。
惚れた相手の赤子のためというとやや気が落ちるが、一度した約束を反故にするのも猫が廃るというもの。
また、その代わりにと、ユキさんから提示された対価も我が輩にとってそう悪いものではなかった。
寿司屋の次男坊を彼女が紹介してくれるというのだ。
寿司屋の次男坊は、活のいい人間の若者で、バイクをまたぐと夜も猫のように活発に散歩をしている。その様子は我が輩も目撃したことがあった。
なるほど、彼の者とであれば我が主も丈夫な子を宿せるであろう。まだ学生の身分ではあるが、子を作るには十分な体格をしている。
だがそうなると、今度は別の問題が生じる。
先月、マタタビを少々注文しすぎたがため、いささか手持ちが心許ないのだ。
いかに我が輩が名作曲家であっても、依頼がこなければ金を稼ぐことはできぬ。
――いっそ、我が輩のほうから依頼人に営業でもかけてみるか?
相手に頭をさげるような行為に抵抗がないわけでもないのだが、主とユキさんのためである。仕方あるまい。
そう考え、メーラーを開くと一通のメールが届いていることに気づかされる。それは丁度良いことに仕事の依頼であった。
依頼主は初めての相手であったが『これも我が輩の作曲家としての名が世に広まった証拠であろう』と、気にはしなかった。
そういえば、ユーチューバーと女教師ではどちらが上かという論争はしたが、ユーチューバーと作曲家では話さなかったな。
まずまちがくなく作曲家のほうが上である。
何故ならユーチューバーは自分の作った動画を、みなに売りこまねばならないが、作曲家はこうして人からお願いされて曲作りをするのだ。となれば、どちらがえらいかなど一目瞭然であろう。
それはさておき、新曲を作らねばならない。それも相手から急かされているため早急にだ。
だが、十月十日の人間とちがい、猫の妊娠期間は二ヶ月程度。納期が短いのは大変だが、その分の収益が早くなるのは我が輩にも都合が良い。
主が仕事に出ている最中や、就寝したあとを見計らって曲作りにはげむ。
追い込まれたのが効いたのだろうか。
近年まれにみる名曲が生み出された。
指定された納期にもまだ余裕があるし、さすがはデキる猫はちがうのである。
アップローダーに完成したデータをあげ、そこにつながるアドレスを依頼主に報告する。
返事は二日ほどしてから帰ってきた。こちらを急かしておきながら、この対応の遅さはどういうことか。
今回は助かったが、後のつきあいは考えたほうがいいかもしれない……などと、悠長なことを考えていた。
だがしかし、今回の依頼主は我が輩が想像したよりも遙かに愚劣であった。
なんと我が輩の生み出した名曲に『深みが足りない』などとケチをつけリテイクを要求したのだ。
しかも期日までにリテイクが完成しなければ、違約金を要求するとまで言っている。
我が輩は激怒した。
前金もよこさぬような輩に違約金もなにもあったものか。
我が輩は詐欺の類にひっかかったのではないだろうかと疑うが、一応向こうも必死らしい。メールに並べられ文字からそのあたりは察せられた。どうも相手は企業の先兵でしかないらしく、後ろに控えた大将の命令を伝達する役目でしかないようだ。
――それにしても腹が立つ。
ユキさんと主のためでなければ、依頼を投げ出していただろう。不満を心の内に押しとどめ、我が輩は曲に変化を加え、依頼主に送る。
しかし、またも訂正が入った。
我が輩の作り上げた猫神曲に二度もだ。
ここまでくると、もはや辱めである。規約で修正回数に条件を設けておかなかった自分の迂闊さを恨みつつも『あと一度だけ』と要望にこたえてやった。
するとまたも修正要求だ。
繰り返された陵辱に見る影もない。
ホトホトあきれ果てた我が輩は、最初にアップロードした曲のアドレスをもう一度送ることにした。
あんなにも歪な曲を我が輩の名で世に出すくらいなら、依頼を破棄してしまった方が良い。
予定の納期はとうにすぎているし、むこうさんも我が輩にやる気がないと知ればあきらめるだろう。あとのことなど知ったことではない。
そう投げやりにメールしたのだが……返信内容は大絶賛であった。こともあろうに『どうして最初からこれを送ってくれなかった』とまで書かれている。
我が輩は、その曲は最初に送った曲そのままであることを伝えようとしたが……やめておいた。すでに相手がロクでなしであることは十二分に理解している。だったら、これ以上、労力を割くのは無駄の極みである。
トラブルが続き、入金もあやしいのではと思われたが、幸いにもそちらはきちんとしていた。
これでユキさんとの約束を破らずに済みそうである。
やがてユキさんが無事出産を終えたと聞いたときには、プレゼントの準備はできていた。
プレゼントをくわえて、ユキさんのもとをたずねると、偶然にもシルヴァーと居合わせた。
あやつも我が輩に対抗してプレゼントを用意してきたようだ。
ここでも張り合う我が輩らであったが……ユキさんのいないところで争ったところで意味はない。勝敗の判断はユキさんの反応で決めることとなった。
彼女は無事に四匹の子猫を出産していた。
子猫のうち三匹はユキさんによくにた真っ白な猫である。ユキさんと見合いしたという猫も白猫だったので当然の結果であろう。
だがしかし、最後の一匹だけはなぜか毛色がちがった。
一匹だけがこの場にいない誰かに似た麻呂眉の子猫なのだ。
その誰かはこの場に姿を見せてはいない……。
プレゼントを渡した我が輩らは、本当に良い雄とはどんなものなのかを、マタタビをはみながら明け方近くまで討論していた。
さして仲のよくなかった我が輩とシルヴァーであったが、それを機に意気投合することが増えるようになった……。
子猫たちが乳離れを終えたころを見計らい、ユキさんに報酬の件を相談しにおもむく。
我が輩ら猫の手により、我が主と寿司屋の次男坊を引き合わせさかりをつけさそうと企んでいたのだが……計画は中止となった。
なんでも次男坊がバイトをはじめたとかで、帰ってくるのが遅くなったという。さらにはロクに遊びにも出なくなったため、いま引き合わせても子作りにはげむ体力はないのではないかということだった。
――あの活きだけはよい若者が、疲れ果てるとはいったいどんな職場なのか。
疑問に思いたずねてみると、我が輩とおなじ音楽関係だという。
そういえば、件の依頼担当の名前に聞き覚えがあったような……いや、まさかな。
それにしても、我が主はつくづく縁にめぐまれないお人のようだ。このままではいつまでたっても番を見つけることはできそうにない。
ここは観念して、我が輩が娶ってやるしかないのだろうか?
眩しいほどの日差しが差し込む縁側。その日差しに室温は温められ、外はまだ肌寒い季節だというのにポカポカと心地良い。
この縁側からは庭が一望できる。あなた自慢の庭を眺めながら、ここでうたた寝をするのがわたしの日課。
――やぁ、お茶にするかね。
――はい、そうしましょう、あなた。
ぼんやりと微睡んでいるとおやつを持ってきてくれる優しいあなた。おやつを食べながらその腕にそっと身体を預け、庭を眺めながら他愛ない話をする時間が何よりも幸せで。
春には鳥が巣立ち、夏は青々とした木々が強すぎる日差しを和らげ、秋には可愛らしい実りを楽しむ。冬だってさまざまな花が庭を彩る素敵な庭。
同じ毎日を過ごしながら、毎日が新鮮で幸せで。
それでも、変化はやってくる。
――子供達も大きくなって、ちっともこの家に寄り付かなくなった。お前も寂しいだろう?
――いいえ。いいえ。あなたと一緒ですから、ちぃっとも寂しくなんてないのですよ。
それはわたしの本心ではあったけれど。
そっと目を閉じれば、子供達の笑い声が聞こえるようで。バタバタと走り回る音まで蘇ってくるようだった。
目を開ければそこにはあなたの姿だけ。
――大丈夫。わたしはずぅっと一緒にいますよ。
いつだったか、あなたの部屋で挙げた二人きりの結婚式で誓い合っていた言葉が頭を過ぎる。
病める時も、健やかなる時も――……。
それはとても遠い日の記憶。
二つ並んだベッドの一つは、もう何年も空いたまま。
お互い歳だからいくらも一緒にいられないな、と笑い合っていたお二人の別れはあっけないほどに早く。
時折ため息をつきながら空のベッドに触れているあなたを見る度に、わたしの胸はきゅぅっと苦しくなるの。
大丈夫。わたしだけはあなたの傍にいましょう。あなたを決して独りになんてさせないわ。
口には出さないけれど、あなたが本当はとっても寂しがりだって、わたしだけは知っているのですもの。
そんなわたしの言葉に答える代わりに、そっと宝物に触れるかのように優しく触れてくるあなたの手。
わたしの好きな人がわたしを大事にしてくれる。ずっと傍でこうして庭を眺めて一緒にうたた寝をする。
共に過ごして、同じ思い出を積み重ねて。それはとても温かな時間。
この日々がずっとずっと続けばいい……それは決して叶わぬ願いだと知ってはいるけれど。
幾度も季節は廻り、あなたの自慢だった庭はだいぶ様変わりしたわ。
風に乗って薫るのは花ではなく土の匂い。小鳥の唄う声も虫の音も聞こえなくなったわ。
変わらないのは、降り注ぐ光とあなたの温もり。共に過ごす、大切な時間。
――この庭も、だいぶ寂しくなったなぁ。
――ええ、でも、あなたが決めたことですから。
子供達にこの家を譲る時のことを考えて、庭木の手入れは大変だから、とあなたは全て切ることにした。
甘い香り漂う金木犀も、小鳥が多く集まるサクランボも、トゲトゲが痛い山椒も。
生まれた日に、入学の日に、卒業の日に……子供達の記念すべき日に植えたと優しい顔で語っていた思い出深いはずの木々も、全て。
トットットット、と大きな音を響かせて、再び生えてくることのないよう根まで掘り起していたわね。
あんまり一心不乱に食事も忘れて作業をするものだから、倒れてしまわないか心配していたのよ。
――根を掘り出す時に腰を痛めてしまったなぁ。
――あなたったら、休んでくださいと言っても聞かないのですもの。
木陰がすっかりなくなってしまっても、わたしたちの暮らしは変わらない。
この光が注ぐ縁側で、あなたの傍で眠りにつくの。
遮るものがなくなった縁側は、以前よりも更に温かく。老いて盲いたこの眼でも光を感じられるのが嬉しいわ。
もうあなたの顔もよく見えなくなってしまったけれど。寂しげなのはわかるから。
――大丈夫。わたしはずぅっとあなたと一緒にいますよ。
この想いがあなたに伝わればいい。
少しでも、あなたの寂しさを癒したいから。
あなたの膝に頭を預け、わたしはこの身を委ねるの。
それだけが、あなたのためにわたしができること。
「なぁ、親父。頼むから俺達と一緒に暮らすって言ってくれよ」
「そうですよ、お義父さん。この前も倒れたって病院から連絡をもらって、皆心配しているんです」
ある日ふと目が覚めると、聞き覚えのある声がした。
これはあの子の声ね。いつの間にか帰ってきたんだわ。
あら? でも、なんだか空気がピリピリしているわね?
せっかくあの子が帰ってきたというのに、ちっとも嬉しそうじゃないみたい。それどころか……。
「だが、お前達の所はアパートだろう。都はどうするつもりだ?」
「貰い手を探すにしたって、目も見えない、自力で歩く事もできない老描だろ? どうせ親父ももう碌に世話できていないんだし、いっそ保健所で安楽死させてやった方が」
「バカなことを言うな! 都を何だと思っているんだ!」
あらあらまぁまぁ。珍しい。あなたがあんなに大声を出すなんて。
わたしの名前が出たけれど、やっと帰ってきてくれて嬉しいはずのあの子と、こんな喧嘩をしているのはわたしのせいなのかしら?
まぁ、どうしましょう?
争うのはやめて、と言ってみるけれど、大きな声を出す二人には届かないみたい。せめて、この体が自由に動いたら良いのに。
――ごめんな、びっくりしただろう?
あの子達が帰っていくと、わたしのところへ来て優しく背中を撫でてくれた。
でも、元気がないみたい。やっぱりあの子がいなくて寂しいのね。
本当は、あの子と一緒に暮らしたいのでしょう?
ねぇ、わたしではだめなのかしら?
ずっと一緒にいると決めたけれど。結局あなたはいつも寂し気で。
わたしではあなたの寂しさを癒すことはできないのね。
それなら……。
――あいつもなぁ、一緒に暮らすって言うなら、ここに来て暮らしたらいいのに。職場が遠くなるから嫌なんだと。
――あの子のところに行っても、良いのですよ?
――大丈夫、お前を置いてどこかへ行ったりはしないさ。
せっかく片付けたっていうのになぁ、と庭を眺めながらため息を吐くあなた。
ねぇ、今あなたはどんな顔をしているのかしら?
愛しいその顔はもうよく見えないけれど。寂しそうなのはわかるから。
――ねぇ、わたしを置いて、あの子の所へ行ってちょうだいな。
――おぉ、腹が減ったのか? そういや今日はまだ何にも食べてなかったな。
違うわ、と言ってもやっぱり伝わらないのね。
本当に、この声が、この思いが伝われば良いのに。
まったく、あなたときたらいつだって鈍感なんだから。
それからは、たびたびあの子が来るようになったわ。
そうして、いつも行く行かないの怒鳴り合い。
あの子が帰るといつもわたしの頭を撫でて、ため息をついているあなたがとても悲し気で。
――ねぇ、あなた。あの子の所に行ってちょうだいな。
――大丈夫だよ。お前をどこにもやったりしないし、お前を置いてなんていかないさ。
あなたの答えはいつもこう。
思えばあなたはわたしと出逢った時からこうと決めたら曲げない人だったわね。
わたしをこの家に連れてきた時も、あの子と言い争っていたわ。
結局あの子が折れて、わたしはこの家に迎え入れてもらえたの。よく覚えているわ。
ふと昔、花咲き乱れるあなたの庭に、死に場所を求めて迷い込んできたお爺さんの姿を思い出す。
何日彷徨っていたのか、長い毛並みはボロボロで。髭も折れて尻尾も垂れ下がり、痩せて骨が浮き上がったお爺さん。
――あの子のために家を出て、こんな素敵な場所で眠れる。あぁ、良い猫生だった……。
そう言って息を引き取ったのだったわ。
あの時はまだ、どうして最期の瞬間を家で迎えないのか不思議だったけれど。
今ならわかる気がするわ。
わたしがいなければ、きっとあなたはあの子の所に行けるから。そうすれば、きっとあなたは寂しくなくなるから。
――わたし、行きますね。
風を感じる。今日は暑いから、と開けていってくれたんだわ。
行くなら、今。
震える足に力を籠めて、這いずるように外に出る。土の匂い、風が髭を揺らすのをはっきりと感じるわ。
ざらざらの固い場所に降りた時に何かにぶつかって落としてしまったけれど、許してちょうだいね。
段差になっていたみたいでまた落ちる。
柔らかいサラサラした感触に、鮮明な土の匂い。今度こそ地面に降りられたんだわ。
力の入らない下半身を引き摺り、這い進む。お腹が擦れて毛が引っ張られて痛むけど、気にしたらダメ。
見つかる前に、姿を消さないと。
――さようなら。あの子と幸せになってちょうだいね。
さようなら、大切なあなた。
さようなら、大切な場所。
名残惜しくて振り返る。盲いた目ではやっぱり何も見えないけれど。不思議ね。何となく、見える気がするの。
探さないでちょうだいね?
わたしさえいなければ、あなたはまた幸せになれるの。
早く隠れないといけないのに、隠れられそうな木の匂いがしない。……あぁ、そういえば全部切ってしまったんだわ。
動かない足を引きずって、わたしはどこに行きましょう?
「都!」
ふいに体が宙に浮く。
あなたの匂いに包まれる。体を撫でる、愛しい大きな手。
ああ、どうして……。
――お前まで、いなくなってしまうのか。俺を置いて……。
いつもより近いあなたの声。
悲し気で、まるで迷子のよう。
そうね、そうだったわ。一緒にいるって、約束しましたものね。
――大丈夫、わたしはずっと一緒ですよ。
あれから幾日経ったのでしょう?
死に損なったわたしは、相変わらず温かな場所で、温かな光を浴びて微睡んでいる。
あれからもう窓が開けられることがなくなったわ。
心配しなくても、もう出ていこうだなんて思わないし、そんな体力もないのに。
いつものように、あなたの声を聞いて。
いつものように、あなたの手からおやつを食べて。
いつものように、あなたに体を預けて眠って。
そうして、時折やってくるあの子とあなたのやり取りを聞いて。
あの子と言い争うことが減って、代わりに、あの子が来る回数が増えたの。
このところ、毎日のようにやってきて、あなたはあの子とでかけるようになって。
わたしと一緒に日向ぼっこをする時間が減ってしまったのは少し寂しいけれど。これで良いのだわ。
だって、あの子が一緒だもの。あなたが寂しくなくなれば、わたしはそれで良いの。
あなたが帰ってくる時間がだんだん減って。あの子だけがこの家にいることが増えてきて。そしてとうとう、あなたは帰ってこなくなった。
きっと、あの子の家に行ったのね。やっと、寂しくなくなったんだわ。だから、これで良いの。
わたしを置いてあの子の家に行ってちょうだいって、わたしが言ったんですもの。これで良いんだわ。
わたしは一人、あなたの言葉を思い出しながら眠るの。
不思議な香りで目を覚ます。
何だか不思議な歌も聞こえるわ。
知らない音、知らない匂い、たくさんの人の気配。
あのたの匂いもするのに、どうしてわたしの傍に来てくれないのかしら?
こんなにたくさん人がいるのに、わたしのことは誰も気がつかないみたい?
――ねぇ、あなた。そこにいるのでしょう?
――ねぇ、この匂いは何かしら? 何だかとっても懐かしい気がするの。
「ねぇ、何だか猫の声がしない?」
「放っておけ。こんな時に。それよりほら、出棺だぞ」
「ああ、急がないと。さぁあなた達も、車に乗って」
ざわざわと言葉が遠ざかっていく。
人の気配がなくなっていく。
たった今まで騒がしかったからか、静けさが痛いほどで。
――ねぇ、あなた。どこにいるの?
呼びかけてみても、反応はなく。
あなたに何かあったのかしら。
探してあげなきゃ。きっとあの部屋ね。
静かすぎる家の中、奥様のベッドで泣いている気がするから。
――大丈夫、わたしが今行きますよ。
よいしょ、と思い通りにならない体を奮い立たせて引きずるように廊下へ這い出たわ。
わたしがこの家を出るのに失敗した日、あなたが縁側に用意してくれたわたしのベッド。
少しだけ高さがあったから、出る時にひっくり返ってしまったけれど。
大丈夫。もうあなたが帰ってきているのだから、また優しく抱いて部屋に戻してくれるわ。
ああ、でも何故かしら。
身体が、いつも以上に、動かないの……。
わたしは……あなたの所へ、行かなく……ちゃ……。
――都、都。
――ふふっ。寝ているところを起こしちゃ可哀想ですよ、あなた。
優しく撫でる大きな手。
懐かしい笑い声。
温かな日差しと、葉擦れの音。花の甘い香りと、小鳥の囀り。
――奥、様? 奥様だ!
――あらあら、どうしたの? 甘えん坊さんね、みゃーこ。
目開けば、いつもの光景。
花が咲き乱れる、自慢の庭。
わたしを挟んで座る、ご主人と奥様。
こんなにも懐かしいと感じるのは、何故でしょう。
――奥様、奥様。聞いてくださいまし。不思議な夢を見ていたのですよ。
――あら、どんな夢かしら?
――奥様がいなくなって、わたしが奥様のようにご主人を「あなた」って呼んで……。
あら? それで、どうしたのかしら?
どんな夢だったか、思い出せないわ。
涙が出てくるのは、どうしてでしょう?
――そんな悲しい夢など忘れてしまいなさい、都。
――ふふ、そうよみゃーこ。もう頑張らなくて良いの。
抱き上げてくれる大好きなご主人。
優しく撫でてくれる優しい奥様。
――あら? 奥様、ご主人、わたしの言葉が通じているのね?
――ああ、わかるぞ都。
――そうね、わかるわみゃーこ。
不思議なこともあるものね。
あのね。お話ができたら言いたかったことがたくさんたくさんあるの。
――そんなに慌てなくても大丈夫だぞ。
――そうよ、みゃーこ。時間はたっぷりあるもの。
優しく微笑むお二人に抱きしめられて、涙が溢れてくるわ。
わたしは理解したの。もうお二人はいなくならないって。ずっと傍にいてくれるって。
大好きなご主人、大好きな奥様。
――ずっとずぅっと、お傍においてください。
――ええ、勿論。
――もう置いてなどいかないさ。
今日も明日も明後日も、温かな光の注ぐ縁側で、素敵な庭を眺めながら眠りにつくの。
大好きなご主人の膝の上で、大好きな奥様に撫でてもらいながら。
あぁ、なんて幸せなんでしょう。
銀河鉄道には、猫の特急便がある。猫しか乗れないし、猫は気まぐれなのでいつ発車するか誰も知らない。
その特急便に乗ると、生き別れた猫や主人に会えるそうだ。猫の寿命は二十年ちょっと。人の寿命が八十過ぎまであることを考えると、人は生涯に四度ほど猫を家に迎えることができる計算になる。
ペットレスという言葉が表すように、家族である猫を失った人々の悲しみは深い。また、主人や召使である人を失った猫の悲しみも深い。
死は、猫と人どちらにも深い悲しみをもたらすのだ。
そんな猫の特急便に乗るべく、あなたは宮沢賢治の故郷である花巻にやってきている。時間は深夜の零時。花巻駅には誰もおらず、無人のプラットホームには何匹かの猫がいるだけだ。
夢枕に猫が立った。数年前に亡き猫となった、愛猫だった。ご主人、ご主人、会いたいからどうぞ猫の特急便で私に会いに来てくださいな。
銀河を想わせる綺麗な三毛柄を翻しながら、愛猫は足にすりより懇願する。ごろごろと喉を鳴らすその愛らしさに、あなたは泣きそうになっていた。
愛猫が亡くなって早数年、あなたは抜け殻のような生活を送っていた。朝起きて、布団で一緒に寝ていた猫がいない。それだけで、胸が痛む。
朝食をねだる猫がいない。遊んでと喉を鳴らす猫がいない。
猫がいない生活は、ぽっかりと穴の開いた洞窟のよう。その洞窟に孤独という名の音は響き渡る。
それでもなんとか会社に行って、少しでも猫を見かけようものなら、あなたは眼に涙を浮かべる毎日を送っていた。
猫がいない。それがどんなに地獄なのかあなたは知っている。
猫がいない。それがどんなに寂しいことなのかあなたは知っている。
だからこそ、あなたは猫に会いに来た。愛しい愛しい家族に会いに来た。
猫こそあなたのすべてだったから。
『銀河鉄道特急 猫町行き! 銀河鉄道特急 猫町行き! ただいまホームに参ります。どうぞ線より内側にておまちくださいにゃー!』
そのときだ。雑音と共にアナウンスが響き渡ったのは。
本当に、夢枕に立った愛猫の言うとおりになった。猫町って宮沢賢治じゃなくて、萩原朔太郎じゃないかと思いつつも、あなたはホームに滑り込んでくる列車を見守る。
列車は猫だった。正確には、とてつもなく大きくて長い猫だった。
ながーい胴体を持つ猫の眼がライトのように光っている。大きな胴体には穴があいて、ふかふかの内部には藁の敷かれた椅子が並ぶ。車輪の代わりに猫にはえるのは無数の足。愛らしい、つま先立ちのあんよだ。
みゃー。みぃー。にゃー。
猫たちは鳴きながら猫の列車へと乗っていく。うろたえながらも、後ろの猫たちがにゃーとせかすので、あなたはしぶしぶ猫の列車に乗った。
にゃーにゃーと鳴きながら、猫たちは藁の引かれた座席に寝転がる。あなたも猫たちに倣い、座席に寝転がってみた。内部は薄暗く、室内を光り輝く蝶が照らしている。夜光蝶というやつだろうか。その蝶はふかふかの毛が生えた車両の壁のランプの中にも閉じ込められ、猫たちの列車を暗く照らしているのだ。
そんな暗い室内で、猫たちは伸びをしたり欠伸をしたり、好き放題にくつろいでいる。なんだか居心地が悪くなって、あなたは居住まいを正していた。
人間はいないのかとあなたの眼は車両内をうろうろする。めぼしい人影は見当たらない。猫、猫、猫。いるのは猫ばかりだ。
あとは、猫人間。
宮沢賢治のイーハトーブの世界に紛れ込んでしまったのだろうか。
枕元に立った猫が言っていた。列車に乗ってくる猫人間は、猫と人間の魂が融合した存在だと。人を忘れられない猫と、猫を忘れられない人が共に一つとなり、別の世界で生まれ変わるのだそうだ。
それが、宮沢賢治の描いた世界なのかあなたには知るすべもないし、知る由もない。
どうにもこうにも、世界は不思議なことばかりでそれが解明されるのはずっと先だったり、はるかな未来だったりするのだ。
でもな、猫に会えるというけれど、それは本当なのかとあなたは思う。あなたの悩みを感じ取ったのか、じっと見つめている夜光蝶の光がなんだか弱々しい。
「車内販売でーす。猫缶。キャットフード。チュールはいかがでしょうか。猫用牛乳、煮干しもございます」
そろそろと車内販売の小さなワゴンがやってくる。おもちゃかと思えるほど小さなワゴンを押しているのは、黒い二足歩行の猫だ。体重は七キログラムほどだろうか。ミックスの黒猫は大きくなる傾向にあるから、もしかしたら雌猫かもしれない。
猫人間たちが、猫に銀の鈴や金の鈴を手渡し、代わりにワゴンに乗った商品を貰っていく。どうも鈴がお金替わりらしい。
「猫缶いりませんかぁ!」
黒猫があなたに声をかけてくれる。
「ごめんなさい。鈴がないの」
「じゃあ、あたまなでなでで!」
あなたが猫に謝ると、猫は四足歩行になって頭をあなたの足に擦りつけてくる。あなたは苦笑しながら、そんな猫の頭をなでていた。
ぐるぐると猫が喉を鳴らす。首筋をなでてやると手に顔を擦りつけてくる。あなたは猫が何ともかわいくなって、尻尾の根元も叩いてやった。
通称、猫ドラムとも呼ばれるそこは、猫が快感を感じる敏感な部分なのだ。
「きゃぁああ! セクハラよぉ!」
だが、猫たちにとってそこは恥ずかしい部分でもあったらしい。黒猫は騒ぎながら、あなたのもとから逃げ去っていく。周囲の視線が一気にあなたに集まるが、あなたはただ苦笑を顔にうかべることしかできない。
「ちょっとそこの人、いいですか。あ、君じゃなくてこの人間さんね」
車掌と思しき猫人間が、あなたに声をかけてくる。びくりとあなたは肩を震わせ、彼を見つめた。こちらも見事な黒猫さん。鋭く金の眼を細め、猫人間はあなたに問いかける。
「人間さん。猫にも『恥ずかしい』という感情はありますからね。ご注意お願いしますよ」
「はい……」
重々しい猫車掌の言葉に、あなたは頷くことしかできない。よろしいと猫車掌は頷いて、その場を去っていく。それでも周囲の猫たちが放つ冷たい視線はなくならない。
一匹、また一匹と猫たちはあなたを一瞥しながら、隣の車両へと移っていく。あなたはなんともやりきれない気持ちになって、持っていたカバンから亡き愛猫の遺影を取り出していた。
「お前も、ああいうことはセクハラだと思ってた?」
普段は全裸で過ごしているのに、セクハラも何もあったもんじゃない。そう思いながらも、あなたは空になった車両を見て少しばかり心を痛めていた。
猫たちにとって抱っこやなでなでは嫌な場合だってあるのだ。それが黒猫の場合は猫ドラムだっただけということだろう。
それでも頭はなでたからと、あなたは猫缶のマグロ味とチュールを一つ失敬した。このくらいは別にいいだろうなと思いつつ、ツナ缶を開けるといつもにゃーと駆け寄ってきた愛猫のことを思い出す。
猫缶の離乳食で育てたせいか、本当に猫缶が好きな猫だった。人の食べる缶詰と、猫の食べる缶詰の違いは分からなかったようだけれど。
猫を拾ったのはいつだったか。たぶん、あなたが中学生ぐらいの時だ。雨に打たれて家の前でみゃあみゃあ鳴いていたのを、あなたが見つけた。
がりがりにやせた猫は可愛いとは言えなかったが、あなたは猫を家に入れた。家族に反対されたが、見殺しにするのかと言ったらみんなが黙った。
そのぐらいには、あなたの猫は可愛かったのだ。
あなたの手で、猫はすくすくと育つ。生後三カ月になる頃にはあなたの朝食の目玉焼きを盗み食いするほどに、元気で小憎らしいお猫様に成長していた。
とんっと猫缶を膝の上に乗せて、あなたは猫について考える。
散歩についてきた猫。途中までは一緒に来るのに、縄張りの外になる小学校まで来ると途端に鳴きながらあなたを追いかけるのをやめた。
いつも学校から帰ってくると、あなたを迎えてくれた猫。大概がえさの催促だった。
あなたが会社に行く頃には、猫は歳を取ってあまり動かなくなる。話しかけても耳をぴこぴこ動かすだけ。そんな猫があなたは可愛らしくて、同時に心配でもあった。
猫は、確実に歳を取っていたから。
すっとあなたの頬を涙が伝う。猫と過ごした日々を思い返して、なんだか感傷的になってしまったようだ。気を取り直して、外の景色を見てみる。
真っ赤なアンタレスの炎があなたの視界に映りこみ、それは三角標によって形作られた蠍の形になっていくのだ。その横をケンタウロスが横切っていく。
そのケンタウロスを猫が追いかけていて、なんでかあなたは苦笑していた。
ずっと待っているのに、猫は来ない。ここで会えると夢枕に立ったのは彼女なのに。
この光景も、猫と一緒に見たかった。それもかなわず、あなたは肩を落とす。
「せっかく猫缶買ったのに」
かちりと猫缶を開けてみる。いつもはこの音でやってくる猫なのだが、さすがに今は来ないだろう。
無性にさみしくなって、あなたは涙を袖で拭っていた。この車両にはあなた一人。他には誰もいない。
そう、あなたは猫が死んでからずっと一人っきりだった。
あなたにとって、猫はかけがえのない家族であり、たった一人の心許せる友だった。
「うぁーん」
聞きなれた、訛声がする。大山のぶ代の声みたいな訛声が。猫の、あなたの猫の鳴き声だ。
「ご主人様ぁ! 猫缶。猫缶!」
死んでもお前はそれしかないのかよと、あなたは苦笑していた。それでもあなたは、開いた猫缶をふさふさの床に置いてみる。あなたのミケネコは嬉しそうに尻尾をゆらし、猫缶へと食らいついた。
はぐはぐと元気よく食べるミケネコを見ていると、弱っていた晩年が嘘のようだ。猫は缶のすみずみまで綺麗に肉を平らげ、げっぷをしてからこちらへと顔を向けてきた。
「チュールもください!」
膝に乗せてあったチュールを求め、猫は二足歩行になってあなたの膝に前足をかける。ぶにゅーとチュールをだしてやると、猫は嬉しそうにそれにむしゃぶりついた。
舌を巧みに動かして、チューブからひねり出されるチュールを食べる。
ちゅうちゅうちゅう。
仕事でいらついたことがあると、こうやって猫にチュールをやって、ストレスを解消したことを思い出す。猫に愚痴をたくさんいって、のんきににゃーと返されることで、嫌なことを忘れることができた。
ひょいっとミケネコは膝の上に乗ってくる。あなたそんな猫を、優しくなでていた。ぐるぐると猫が喉を鳴らして、あなたに顔を擦りつけてくる。
久しぶりの再会だというのに、やっていることは昔と何も変わらない。ご飯をねだられて、甘えられて、そんな猫に癒される。
その猫が、遠くに行ってしまってもうだいぶたつのに自分はよく生きてるものだとあなたは思う。
「猫、このままおうちに帰ろうか……」
外に咲き乱れる蒼い竜胆を眺めながら、あなたは口を開く。猫のお墓の上にも、竜胆を植えた。毎年、花が咲くと猫が自分に会いに来てくれたような気分になって、それであなたは悲しみを忘れることができたのだ。
その竜胆が、二人の再会を祝福するように咲き乱れている。これは、猫が家に帰ってくる予兆なのだと、あなたは都合のいいことを考え始めていた。
「それはできないにゃん。ご主人様……」
そっと猫が言葉を紡ぐ。
「吾輩はもう死んだから、体がないから地上にはもどれないにゃん。新しいお母さんの所に行くにゃん」
それは、新しい主人のもとへ行くということだろうか。あなたは、そっと猫を見る。緑色の、けれど時々金の光を放つ猫の眼は、しかとあなたに向けられていた。
「さよらなの、また会おうだにゃん。ご主人様……」
悲しげに眼を伏せて、猫はそっとあなたの膝を降りていく。通路を足早に進み、猫は車両から出ていこうとしていた。
あなたは慌てて猫を追いかける。隣の車両を開けてみても、夜光蝶の美しい光がかすかに飛びかうだけで、そこには何もいなかった。
暗いくらい、暗黒惑星のトンネルへと特急便は突入する。
あたりはもう本当に暗闇になって、夜光蝶の光すらわからない。あなたは涙を流しながら、その闇の中で猫のことを思った。
ぐるぐと足元で喉を鳴らしている猫がいる。小さくてガリガリに痩せたミケネコだ。仕事帰りのあなたは、びっくりしてその猫を抱きあげていた。
――さようならの、また会おうだにゃん。
そう言っていた猫の言葉を思い出す。あのくらい暗黒惑星のトンネルを抜けて、猫は地上へとやって来ていたのだ。また、あなたに会うために。
「お帰り、猫」
「にゃぁ!」
あなたの言葉に、猫は嬉しそうに鳴いてみせる。そっと猫を抱きしめて、あなたは家路を急いだ。
そうそう、帰る前に猫缶も忘れずに買わなければいけないね。
猫の背中には小さな白い翼が生えていた。猫を膝の上で撫でる少女の背中にも白くて大きな翼が生えている。彼らは天国の住人であり、天使である。
天使にはいくつかの神様から与えられた使命があるが、その中の一つに義務研修というものが存在する。より正確にいうのであれば、研修は格の低い天使の義務だ。天使は何度か人間の世界――下界で人に転生し、修行を積まなければならない。そうして人としての生を何度か終え、条件を満たしたら一人前の天使として認められる。
少女は猫の頭を撫でながら下界のとある女性を見つめていた。彼女は少女の前世において縁があって双子の姉妹だった人だ。少女は一足先に義務研修から解放されたが、彼女はまだあと一回残っている。
少女は彼女の魂と心根が好きだった。同時にこの度の彼女の研修をとても心配していた。彼女は、天使たちが行きたがらなかったとある夫婦の下に生まれたのである。
基本的に、前世での度を越した失敗がなければ天使は生まれる家族を選ぶことができる。もちろん己のスキルを試すためより困難な家庭への転生を望む者もいる。だが、研修を終えたあまたの天使に言わせればそれは自殺行為だ。
よほどのことがない限り、悪い家庭で幸せに生きることはできないし、課題をこなすことも大変難しい。幸せになれると予想された家族さえ、なんらかの悪条件が重なれば不幸せな家庭となり得るのである。実際、人間の人生が苦しすぎて心が折れ、羽根が黒ずみ天使をやめ他の動物界へ行く子どもたちは後を絶たない。
少女が見守る彼女は、神からその家族を指定されたわけではなかった。
見た目には幸せそうな家庭だった。しかし危険レベルはX。最悪レベルの範囲内に入っている。それだけの苦労が待っているということである。
それだけの苦労をする家族というのは、その家族の構成員である人間も軒並み不幸であることが常である。
だから彼女は、その家族の夫婦を幸せにするために降り立ったのだ。
自分の力試しではなく、利益のためでもなく、ただかわいそうな人生を送りそうな二人を幸せにしたいと、天使の基本理念あるいは理想を心から抱えてその二人の子供に生まれることを望んだのである。
少女が前世で幸福に死ねたのは、彼女が自分のことを顧みず妹を幸せにしたからだった。だから少女は、かつての姉を心配していた。
猫は、彼女が前世で飼っていた子だ。彼女は猫を天使にするためにあと一度の転生を志願した。
「……そろそろおまえも行ける? まだ眠いかな」
少女は膝の上で伸びをした猫の天使に声をかけた。猫はガラス玉のように綺麗な目で少女を愛らしく見つめ、左右にゆっくりとしっぽを振った。
「そう。行きたいのね。わかったよ」
少女は虹の上に猫を連れていった。
「行っておいで」
猫は返事をするようにしっぽを振り、一度だけあくびをするとゆっくりしなやかに歩き出した。
猫は少女の前では一度も鳴いたことがない。彼女が呼びかけるのは、愛した彼女のママだけなのだ。
猫は虹の麓を過ぎ、森の中を歩いていた。
草がぼうぼうに生い茂り、そこは庭というよりも森であった。木々の枝は絡み合い、日の光がほとんど射さない。それでも可愛らしい花がいくつか咲いているし、中には実がなっている木もあった。……熟れすぎて甘ったるい匂いがしている。
猫はしばらく空気の匂いに鼻をひくつかせ、今度は寄り道をして花の匂いを嗅いだ。
それまでいるように見えなかった虫が猫のそばを飛んでいく。猫はしばらく虫を追いかけて遊んだ。
ひとしきり運動して満足した猫は、柔らかい草を踏みしめ、背高の草をかき分け、先へ進んだ。
しばらくすると、日の光がスポットライトのように射し込む一角に出た。ここは少しあたたかい。猫はしばらくその光の中に腰を落ち着けあたたまった。見える先にはガレージのシャッターのようなものがある。ガレージは蔦で覆われていた。シャッターが開かれなくなって長いのだろう。
猫はしばらくしっぽの先を揺らして考えていた。体を休めているように見えて、その丸くて大きな目でどこから入るか入り口を探していたのだ。
しばらくして、猫はシャッターに近づいた。かつて猫がドアを開けてほしい時にしていたように、後ろ足で立ち、前足二本でシャッターをカリカリと叩いた。
しばらくそうしていたが、足が疲れたので座り直す。しっぽをゆるやかに振りながら待つことしばらく。
シャッターは開かなかったが、左手で青い光が灯った。ラムネの香りが漂う。猫はくんくんとその匂いを嗅いだ後、光の側に駆け寄った。
それはセンサーのようだった。青い光はセンサーの上で小さく点滅している。
しばらく首をかしげた後、猫はそっと鼻をその黒い板の上にくっつけた。
彼女がよく自分と鼻を合わせたがったことを思い出したのだ。
センサーは、猫の鼻紋を正確に読み取った。蔦についていた蕾がじわじわと花開いていく。猫はしばらくその花をじいっと見つめていた。やがて、がが、がこん、がこん、と音がして、ジーという音と共にシャッターが開き始めた。猫はその音にひとしきり驚いた後、シャッターが開ききる前に薄暗い中に飛び込んだ。シャッターはその瞬間止まり、しばらくして壊れかけの機械のようにぎこちなく閉まった。
中は、ところどころ小さなランプが点灯していた。光がなくとも猫は夜目がきいたが、その色はいくつか見覚えがあった。辺りを見渡すと、蜘蛛の巣が床から壁、天井にまで所狭しと重なり合っていた。巣には食い散らかされた虫の残骸も見える。
きっと、この蜘蛛は今までこのガレージを清掃する唯一の存在だったのだろう。けれど猫にとってはこの蜘蛛はおもちゃであり、害虫でしかなかった。彼女が蜘蛛を見る度に悲鳴を上げていたことを覚えている。
猫は器用に蜘蛛の巣をまたいで、慎重にその存在を探した。
嫌なにおいがしたので、存外すぐに見つけることができた。蜘蛛はでっぷりと太っている。
猫は逃げる蜘蛛を追いかけ回す。しばらくの攻防の後、蜘蛛はばらばらになった。口に入れてみたがまずかったので吐き出した。
猫には蜘蛛の巣を片づける力はなかった。せいぜいしっぽでからめとるくらいしかできない。けれど彼女は猫の尻尾を触るのが好きだったから、猫はそれも諦めた。
奥に進むほどにダンボール箱が増えた。上等の棚はほとんど倒壊していた。何をどこに入れているのかもわからない、ただしまわれたものたちが積み重なっていた。でも猫は楽しかった。高い所や登りにくい所に登るのは大好きだ。猫は身軽にジャンプを繰り返し、時に自慢の爪を繰り出しててっぺんまで登り詰めると、下を見下ろした。
ダンボール箱の隙間に、それはあった。
薄荷色に光る水晶玉のような何かだった。それはほこりをかぶり、表面は小さく細い傷まみれで不透明に見えた。猫はがんばって降りた。
冷たく、押せば転がるそれの匂いを嗅いだ。懐かしい匂いがした。にゃあん、と喉を鳴らす。
猫はその表面をいたわるように舐めてやった。舐める度に転がって逃げるから、両足で支えて綺麗に舐めた。
一度には全部を舐めきれなかった。けれど猫の顔が十分に映るくらいの面積が綺麗になった。
水晶玉は、まだ綺麗だった。
猫はもう一度ぺろっと舐めた後、尻尾と体で水晶玉を包み込み、寄り添って体を横たえた。
ふう、と息を大きく吐いて、目を閉じる。猫の体温を分け与える。猫の喉からはゴロゴロと癒しの音が響いている。
きっと、彼女はあと少しがんばって、ちゃんと戻って来られるだろう。
ラビレはそろりと地に足をつけた。久しぶりに見た桃色に輝く空。懐かしさについ背伸びしてしまう。あの頃と変わらない『ブラパーラジュ』皇国の空気は懐かしくもあるが複雑な心境にもなる。多分過去の事件が影響しているせいだろう。
ラビレは検問を抜け、ここ数年の流れで最初に行くことが決まっている『ポールルル』に足を向けた。
「あ、ラビレちゃん!」
「こんにちは~」
最早顔見知りとなったギルドの受付のお姉さんに挨拶を。この国は結界によって守られているけれど、一歩外に出れば魔獣がたくさんいる。そういう魔獣を退治したり、他国に行く商人を護衛する役割を持つ傭兵のまとめ役がこのギルド『ポールルル』。ここ数年は私も御世話になっていて、よくここで依頼を受けたりしている。
「そっかもうこんな時期になったのね……早いものだわ」
「お蔭様で後一年ぐらいで終わります」
「まぁっ、やっとなのね……」
このギルドにはとあることでお世話になっていたため、ギルドのほとんどの人が私の事情を知っている。やむを得ないとはいえ、見守ってくれている人がたくさんいるのはありがたかった。
「で、例によってギルドマスターに会いに来たんですけれど」
「あーマスターならちょっと所用で出かけていないんですよね」
「あちゃ~。じゃ、また明日にでも来ます」
「そうしてくださると嬉しいわ」
お互いに頷きあった後別れる。そのついでに掲示板を確認して、薬草集めの依頼を受けておく。今日はとりあえず、宿探しのために待ち合わせをしているからとギルドを出た。
一応、あの人が手配はしてくれるって言っていたから大丈夫かな~。
てくてく歩いているとリュックの方から鳴き声が聞こえた。その声に気付き、急いでリュックから出す。真っ白なふわふわな毛に青い目をした『猫』はものすごく貴重なので飼い猫である証に青い首輪をつけている。ワンダーギフトで時折現れる異世界の動物はかなり珍しく、国へ届け出ることが必須になっている。でも、私は昔、この届け出を怠ってかなりの大ごとになってしまったことがある。お陰で私が起こした事件は国でも割合と名前を知られていた。しかし、皮肉にもその縁でいろんな人と出会い、『猫』も最終的には私が飼うことになった。その時の『猫』がこの子だ。
「ごめんね、パール。お腹すいたでしょ」
返事をするように鳴いたパールを抱きかかえて商店街へと向かう。八百屋、肉屋、万事屋などいろんなお店が並んでいる。その中でいつもよくいく店へ顔を出すと、おじさんが気付いてくれた。
「おお、久しぶりだなぁ」
「久しぶりです。あの、パールの食事が欲しいのですが」
「おう、いつものやつだな。まいどありぃ」
慣れた感じでパールの餌を用意してくれるおじさんに感謝しながら代金を渡す。パールも嬉しそうに餌を見つめていた。
「そのパールちゃんも大人しいよな~なんだっけ、ネリアとかいう魔獣なんだっけ」
「は、はは……そ、そうです」
……さっきも言ったように『猫』は貴重な生物なので一度見つかれば解剖もしくは密売のために悪用されてしまうことが多い。幸い、見た目がネリアという魔獣とよく似ているので周りにはそっちの方で通している。ゆえに、パールが『猫』と知っているのはごく一部だけ。
ともかくこれ以上追及されたくないので、さりげなく離れて中央の噴水広場へと向かった。
危ない危ない……。
パールがジタバタと暴れ始めた。慌てて抱えなおそうとするが、するりと腕から逃げられた。幸いにも一本道だから大丈夫だろうと慌てて追いかけていく。噴水が見えたその時、分かれ道が見えた。それにやばいと思ったその時、パールを捕獲してくれた人がいた。
「あっ……!」
「やっぱりパールっスか。こら、暴れるな」
「ら、ラティスさん、久しぶりです」
「久しぶりっスね、ラビレ」
ラティスの手にいなされてすっかり大人しくなったパールはリュックへと入れられた。久しぶりに会った彼はあの時と同じ兵士姿だった。本人曰く、自称平凡というが、私からみればすごく大人だよ。茶色の髪に、焦げ茶色のきりっとした目。あの頃と変わらない彼の姿に心が踊る。そういえば、最初に会った時も噴水広場だったなと思いながら、ラティスに誘導されたベンチへと座った。
ラティスさんはぱっと見そうは見えないけれど、実はスゴイ人なんだよね。なんと、首都の領主の息子さんな上に聖女の護衛隊長でもある。パールをきっかけに知り合ったこの人とは本当に色々とあって大変だった。裏切られたと思ったし、敵だと思っていた時期もあった。色々あったけれど、ふたを開けてみれば、この人が一番優しかったってオチだった。
「何をぼーっとしている」
「あ……うん、あの時の頃を思い出して」
「はは、そりゃしょうがないっス。君はまだ十四歳だったしね」
「むー」
「……もう十七……いや、十八かな」
「そうっ、明日で十八歳になるの!」
やっと十八歳になれたの。だから嬉しいと告げると、ラティスに頭をなでなでされた。
「ははは、そうか」
「……毎回聞いてるけれど、ラティスは何歳なの?」
「んー、毎回言っているだろう? 当ててごらんって」
「ずるい~いっつもこうなんだもの」
ラティスには何度か年齢を聞いているけれどなかなか答えてくれない。見た目よりは年上だとは聞いているから、童顔なんだなとはわかるけれど。そろそろ宿が開く時間だからと立ち上がったラティスについていく。
しばらくすると宿に着いたので入る。一階が食堂、二階が宿というシンプルかつ平均的な宿だった。ラティスはすぐにおかみさんと何やら話をしはじめた。ソワソワと待っていると、話し終わったラティスが鍵を渡してくれた。
「じゃ、俺は仕事に戻らないといけないから行くっスね。その代わり、明日は一日一緒に遊べるっスよ」
「えっ、本当⁉」
「ははは、噓じゃないっスよ。それと、明日は君の誕生日ってこともあるし俺がエスコートするっス!」
「……う、嬉しい……すごく楽しみです!」
「ん……じゃ、宿に九時半に迎えに行くから待ってて」
手を振って宿を出ていったラティスになんとか頷き返した。興奮で火照った頬を押さえて部屋へと向かった。
……嬉しいけれど……あの様子じゃ、約束なんて覚えてなさそう……ちょっと寂しいかな。
部屋にあった鏡を覗き込むと、相変わらず耳がぴんととがっていていて、エルフ族に伝わるピアスもちゃんとついている。ラティスと初めて会った時はフードを被って隠していたけれど、今ではエルフ族であることを隠す必要なんかない。
エルフ族はかつて戦争の時に一番犠牲になった一族で、一時は奴隷扱いだった時期があった。それを知っていた父親から必ずフードを被るように言われていたのだが、あの四年前に色々とあって自分がエルフ族だと知ったときはかなり衝撃だった。
それもこれも全部、パールとの出会いから始まっているが、あの時は自分の出自が衝撃過ぎて何もかも考えられなかった。
過去を思い出しつつ、リュックからパールを出して自分もベッドにダイブする。はぁとため息をつくと、パールが顔をペロペロと舐めてきた。
「考えてみれば、パールのお蔭だよね。ありがとう」
パールがいたから、ラティスに会えたのだ。そう思うとあのいろいろあったことも無駄じゃなかったと思う。
「でも、ごめん。明日は留守番でお願いっ」
おかみさんにはお願いしておくからと言うと、抗議するようににゃーにゃーと鳴くパール。もちろん、恋で頭がいっぱいなラビレがそれを聞き届けることができないのはいわずもがな。
***
次の日の朝、鏡の前で服装チェック。シンプルながらも一張羅のワンピースを着て、フード付きのマントも念のために羽織る。よしと気合いを入れて、玄関に向かうと、すでにラティスが待ってくれていた。
「あっ、待たせてしまってごめんなさいっ!」
「大丈夫、俺がちょっと早く来すぎただけだから」
店の時計を指さすラティスにほっとするものの、一応頭をさげておく。両三つ編みにしておいた金髪が揺れる。
「さて、いきますか!」
外に出た時、なぜかラティスが手を差し出してきた。一瞬何がと思ったものの、エスコートということを思い出して、慌てて自分の手をのせた。すぐに握りしめられて手つなぎしている状態だ。嬉しすぎて震えそうになるのを必死に抑える。が、そこはラティス。
「はは、昔もこうやって手つなぎしていたっスね~懐かしい」
……うん、そうだよね。ラティスから見れば私は子どもなんだろうな……そりゃ、出会った時におじちゃんって言った私も悪かったけれど……!
せめて、せめて空気読もうよ。私、もう十八歳だよ……!
なんて、言えるはずもなく、はぁとため息をついたラビレは気付いていなかった。隣のラティスの耳が真っ赤になっていたことに。
「ら、ラティスさん、ここ……っ……」
「大丈夫大丈夫、姉の店だし」
みるからにでかいブティックに尻込みしていると後ろから押されてついに扉を開けざるをえなかった。
入ってすぐに目についたのはおしゃれなマネキンがまとっていたワンピース。
店の中も貴族のお嬢様が着るような服ばっかりで値段なんて考えたくもない……でも可愛いし綺麗と思う気持ちには抗えず、ふらふらと陳列している服を一つ一つ眺め出した。
「はは、やっぱり女の子っスね~」
「当たり前でしょう、ラティス」
「げっ……ね、姉さん……!」
「ふふふ~この首都にいるあたくしになかなか顔を見せないやつが来るとはね」
突然現れた美女はラティスの頬を扇でピタピタと叩いている。後ろめたくラティスが目を逸らしたが、姉はお見通しとばかりに扇で服を見ている女の子――つまりラビレを指した。
「あれって四年前のあの子よね。ずいぶんとまぁ綺麗に育っちゃって。金髪の長い髪、少し黄色みのかかった目。エルフ族というだけあって手足も細いし、かわいらしい顔立ちだこと。しかも、皇妃様と同じエルフ族の中でも希少な子と聞いているわ。よく出会えたものね」
「……姉さん、ソレ以上はもう」
「別に反対しているわけじゃないわ。むしろ、あんたにはもったいないぐらい」
「ぐっ」
「ま、セイゼイ頑張るのね。面白いものを見せてもらった褒美に少し安くしてあげる」
ふふんと楽しげに消えていく姉の後ろ姿を見たラティスが言葉にできたのはたった一言。
「姉ってコワイ」
いや、解っていたんだけれどね。
「ラティスさん?」
「あ、ああ……なんでもないよ。それで、いいなって思うのあった?」
「え、あ、あったけれど高いので……その……見てるだけでいいなって」
「ふーん、じゃあ、俺が選ぶっスね」
えっと返事する間もなく、慣れたように服をいろいろと選んでいくラティスにラビレは慌てふためいた。
そしてあれよあれよという間にコーディネートされていった。
淡いグリーンの幾重にも重なったレースがついたワンピース。後ろには大きなリボンもついているし、三つ編みをほどいておろした髪も服と同じ色のリボンのバレッタでくくられている。靴やピアスなどもワンピースに合わせ、全体的にふわふわしていて可愛らしい。
「……あのう……これは……」
「大丈夫、俺からの誕生日プレゼントだから気にしなくていい」
「そうよ、子猫ちゃん。弟に請求しておくから遠慮なくね」
ラティスのお姉さんは試着している時にひょいとやってきて、あの有名なランジェリーショップで下着を買ってきたわと宣ってくださった。返品なんてできるはずもなく、恐れ多くもその下着もちゃんとつけている。
すべてにおいていつものワンピースより高級な生地だとわかるそれに迂闊に触れられるはずもない。
ふるえながらもラティスに連れられて店を出た。
「……うう……嬉しいけれど……なんだか……」
「大丈夫、似合ってるっス」
……我ながら現金だ。ラティスさんから言われるとそうかなと思えてしまう。
でも、こういう服を着ているし、せっかくだからと繋いでいた手を離してラティスの腕にそっと腕を絡めてみた。ラティスは最初びっくりしていたものの、振りほどこうとはしなかった。だからいいよってことなんだろうと思うけど……。ラティスはそのままラビレの好きなようにさせてくれたし、その後もいろんなところに連れて行ってくれた。アンティークショップでは、可愛い髪飾りを買ってもらったし、美味しいランチのお店やデザート専門のカフェにも連れて行ってくれた。嬉しいことにそこではラティスの部下たちがいて誰もがラビレを覚えていてくれた。
それにちょっと不機嫌そうだったラティスもデザートを食べたら落ち着いたのか笑っていた。……男の人って良くわからないなぁ。
それから鳥が集まる公園では、餌をあけすぎたラティスが鳥に追いかけられているのを見て笑ったり、ボードに乗って、魚を眺めたりもした。
「わあぁあああ、スゴイですね」
「うん、綺麗だな」
「陽が暮れていく様子がなんだか寂しく感じるけれど、綺麗……」
少し歩くけれど公園の高台へと連れて行ってもらった先で見たのは、丁度、陽が落ちる頃の夕焼け。オレンジ色から紺へと染まっていくその瞬間はお父さんと見た時のことを思い出して懐かしく思った。
「お父さん……私、少しは……成長できたかな」
お父さんだったらきっと笑ってまだまだ子供だって言いそうだけれど、自分としては少しずつ成長していると思いたい。
ぼーっとしていたら、いつの間にかラティスの顏が目の前にあった。距離のあまりの近さに慌てていたら、なぜか彼の唇が――自分の唇に当たった。
「え……」
「言い忘れていたけれど、誕生日おめでとう」
「あの……い、今の何デスか……」
「ん~。さて、そろそろ帰ろうか」
「え……ま、待って、なんで、き、キスなんかを……っ」
慌てて後を追うが、ラティスは教えてくれなかった。それどころか、真っ赤になったラビレをにやにやと眺めているだけ。
「ヒドイ」
「ほら、いい加減機嫌を直すっスよ。ほら、宿についた」
「んむぅ……」
「あ、その不貞腐れた顔は昔と変わらないっスね~」
けらけら笑った彼をぎろりと睨むが効果はこれっぽちもないことは明白。それどころか、わしゃわしゃと髪を撫でられて宿の中へと押し込められた。しぶしぶとさよならと言おうとしたら、ラティスが思いだしたように質問してきた。
「親父さんには明日会うの?」
「あ、うん。そのつもり」
「その後は?」
「依頼があるから、それが終わったら……帰るつもりだよ」
帰ることを考えると寂しくなる。でも、お父さんのことがあるからこの国に移住なんてできない。そうなったのは浅はかな自分のせいなのだから仕方がないとため息をつく。頭の上から名前を呼ばれたのに慌てて見上げると、ラティスが珍しく唸っていた。
「あ~じゃ、帰る時は見送りたいから……検問で待っていて」
「え、あ……うん。珍しいね? いつも仕事だからって見送らないのに」
「っ……た、たまにはイイかなって」
「ん、解った」
検問で待っていればいいというのは、ラティスが検問の兵士とも顔見知りだから。何しろ首都の領主の息子さんだ……その顔を知らない人間なんて多分いないんだろうなと思う。
じゃあ、またと手を振って消えていくラティスを見送って影が消えるまでずっと眺めていた。……キスした意図は結局最後まで教えてもらえなかったなと思いながら、宿の部屋の扉を開けた。ただいまと声をかけた……が、開けてみても誰もいないし、声も聞こえない。
「えっ……?」
おかしい。だって、朝はちゃんとパールがいたのに。どういうことなのと慌てて、階段を下りた先にいたおかみさんに説明するとびっくりした顔で話し始めた。
「え……おかしいねぇ、昼頃にラビレちゃんの頼みだからってとりに来た人がいたよ」
「その人ってどんな姿でしたか?」
「兵士さんだったよ。ラティス様と同じような服だったから……油断したね……すまない」
真っ青になっていく私の顔から察したのだろう、おかみさんはすぐに通信用の魔術陣を動かしていた。
ラビレはいてもたっていられず、リュックを持ち出し外に飛び出していた。おかみさんが慌てふためく声も耳に入らないまま。
「ラビレちゃん、ちょっとおまちっ……いま……!」
ラビレは慌ててあたりを見回し、パールがいそうなところをあちこち探して回った。できれば、逃げていてほしいという一抹の希望を込めて。そんなラビレに近づいた男が一人。普通なら怪しむべきだが、パールを探すのに精いっぱいだったラビレには警戒する余裕もない。
「おーい、白いネリアがいなくなったのってあんたか」
「ご存知なんですか? そうです、そのネリアはどこに」
「ああ、保護している奴がいるよ。連れて行ってやろう」
パールが見つかったことに安堵したラビレはほっとしてその男についていった。それが罠だと気付く間もなく。こうして、ニヤリと口元をゆがませた男はまんまとラビレを連れ去ったのである――。
***
連絡を受けてすぐに宿へ戻ったラティスを待っていたのは宿のおかみからの報告だった。
「どういうことだ」
「ごめんよ、ラティス様。まさか突然飛び出していくとは思わなかったんだ」
「っ……ラビレのやつ……あの時と変わってないな」
眉間の皺をつねりながら呟けば、周りにいた兵士たちはけらけらと笑っている。
「そりゃ、そう簡単にかわりゃしないさ、あのラビレちゃんだし」
「そうそう、あの時とおなじだ。親父さんが捕まったときもああやって飛び出して」
「そうそう。ラティス様に最低って叫んでどなってひっかいて泣いて暴れて……」
「お前等、そこまでだ。それ以上はしゃべるな」
威圧すれば、一気に静まる空気。最初からこうしていれば良かった。
「どうせ、情報はすぐに入ってくる。だが、ラビレの容姿は密売に最適だからさっさと探さないとヤバいことになる。ということで、我が一族が誇る精鋭部隊の諸君……解っているな?」
口調を意識する余裕もないんだよと言外に告げると部下たちは一目散に玄関から散った。
「うう……油断した‼」
「いやぁ、騙されやすいね、お嬢ちゃん」
確かにパールは見つかった。檻の中に閉じ込められて。見つかったと安堵したのがまずかった。その場で拘束されて、手足に縄を掛けられて動けない。何をと思う間もなく、影から出てきた複数の男達。
声をかけてきた男がそっと耳に触れてくる。ぞわっと気持ち悪い感覚が走るが、身動きできないので逃げられない。
「このとんがった耳がエルフ族の証拠だっけ」
「しかし、昼間にネリアをおっかけていたのを見た時から目を付けていたとはすげーな」
「そりゃ、これだけ可愛ければね。……つまみ食いもしたかったし」
「うわ~悪いヤツだな」
「お前達だってそうじゃないか」
彼らの会話からして、私が目当てなのはすぐに察せられた。当然ながらこいつらの慰み者なんかになりたくないし、なる気もない。ラビレは震えを抑えるように必死に言葉を絞り出した。
「……解放して。私はここであんたたちの獲物になる気はない……!」
「その気の強さもどこまで持つかな~」
睨みつけても、男達のにやにやは止まらない。それどころか、手を伸ばして服を引き剥がそうとしてきている。
ふらつきながらも、床を這って逃げようとするが、髪の毛を掴まれ、服をびりりと破られた。必死に動ける口で噛みつくけれど、それも多勢に無勢。手足を押さえつけて、股を開こうとする男どもを見て思いだしたのはあの四年前。
状況は少し違うけれど、あの時もこうだった。
手足が動けなくて、抵抗も思うようにできなくて。
必死に噛みつくも、叩かれて身体が動かなくて悔しかったあの時。
あの時もこんな風に覆いかぶさられて思わず叫んだ。
当時を思い出して思わず涙が出る。あの時と同じようになるなんて嫌だ。だから、助けを求めた。
「やだっ……ラティスさん……ラティスっ……!」
その瞬間、ドォンと扉が崩れる音が響いた。ぎょっとした男達が扉の方を見やる。そして、ラビレもなんとか視界にとらえることができた。その目の先にいたのはさっき別れた人。……私の大好きな、大好きな人……っ……!
「ラティスさんっ!」
「ああ、良かった。ラビレ、少し目を瞑ってくれっス」
「……でも」
「大丈夫、すぐ終わるよ。あの時のように、ね」
へらりとした表情なのに目が笑っていない。そんなラティスを見るのはあの時以来。ラビレは一瞬迷ったものの、頷いて目を閉じた。その瞬間、風が吹いた気がした。ふわりと髪の毛が揺れるのがわかる。突然の風圧にビクッとなったものの、すぐに温かい温もりに包まれたのが解ったのでほっとした。目を閉じていてもわかる。これはあの時と同じ、ラティスの腕の中なのだから。
「お仕置きは後にしてやる。だから、ひとまず休め」
その声を最後に安心した私は目を閉じて、意識を手放した。
怖かったのだろう、涙の痕が痛々しい。そっと拭って、部下が差し出してきた布で彼女の身体を覆った。全部じゃないとはいえ、わずかに見えた胸とボロボロになった服はラティスを怒らせるに十分だった。ラティスが放った剣の衝撃波で気絶した男はある意味幸せだったかもしれない。その場にいた部下たちは全員、男達の末路にそっと手を合わせた。だって、あのラティス様が手を出すなっていうことはご自身でヤるってことだ。そりゃそうだろうな。だって、ラビレちゃんはラティスのお気に入りの子なんだし。
「哀れな男どもだ。せめてパールで我慢していればよかったのに」
「いや、それでもアウトだろう。パールがいないと分かれば泣くラビレちゃんのために動いたと思うよ」
「……聖女至上主義のあいつを動かしたラビレちゃん半端ないっ~」
「そんなのいまさらだろう」
笑いあっている部下を他所にラビレを誘拐した男達は地獄を味わっていた。悲鳴を上げ、命を懇願するも全てスルー。鬼神と化したラティスによって楽しい楽しい罰を受けたことは言うまでもなく。やつらが倒れ、全員が動かなくなった頃にようやく部下たちがラティスに制止の声をかけた。
「そこまでに。……不服でしょうが、我慢してください、やつらは法律で裁かねばならないのですから」
「解っている。解っているが、腹立たしい……う~ザン様に相談するっスかね」
「ヤメテクダサイ。さー、お前等、こいつらをさっさと拘束、引き渡すぞ~」
法律で裁くために命をとらなかったあたり、まだ冷静なようで良かったと、部下一同は思った。
「それより、さっさとラビレちゃんのところへ」
「そうだな。俺は宿へ行く。お前たちは手続きを」
「言われるまでもないです。お気をつけて」
「それこそ愚問っスね」
すっかり口調が戻っていることに安堵した部下一同は快くボスを送り出した。
「ん……」
目を開けると、宿の天井が見えた。思わず起き上がると横から声がした。思わず振り返ると、ラティスが椅子に座っている。一体どういうことだ首を傾げる。ふと見下ろすと、服も寝間着に変わっていた。
「えっと……」
「ああ、おかみさんが着替えさせてくれたんスよ。ボロボロになっていたからって」
「……あっ、そうだ、パールが!」
「大丈夫、パールもそこにいる」
ラティスが言っていた通り、パールもベッドの端で寝転がっていた。話しかけても反応がないことから寝ているのだろうと分かる。ほっとしたラビレは深い息を吐いた。と、その時、ラティスががしっとラビレの頭を掴んだ。
「さて、お説教の時間っスね?」
……四年前の……悪夢再び。けれど、ラビレに拒否権はない……ようである。そのままラティスの説教にひたすらひたすら頭を下げて不動だにせず固まっていることしかできなかった。
「……ってことで、もう少し落ち着いて行動する! 何かあったら俺に連絡する! 前にも言ったけれど、この街じゃ、誰もが俺の顔を知っているから何かあったときは魔法陣で連絡が取れるっスからね!」
「はい……」
「……反省したっスか」
「うん……気を付ける」
涙目になりながらもしゅんと落ち込んだのは当然といえよう。ラティスははぁとため息をついた後、ラビレを引き寄せた。あれ? と思ったラビレだったが、ラティスの声がさっきより重かったからここで何も言えるはずもなく、再び謝罪の言葉を口にした。
「心配……したんスよ」
「……ご、ごめん、なさい」
一度強く抱きしめられた後、解放された。さっきまでの雰囲気が噓のようにぽいっとベッドに押し込まれ、布団をかけられる。流れるようにアッという間に終わった一連の動作に思わずラビレは目を丸くした。
「あれ……?」
「今日は寝るっスよ。俺はもう帰るから、今度こそここから出ないように」
「でも……ひっ、はい、わか、解りました!」
「それでよいんスよ。あと、このことは親父さんにも伝えておくっス」
「い、いやぁあああ! それはお願い、やめて!」
起き上がろうとするところを押されて、再びベッドへと縫い付けられた。父に怒られると涙目になるラビレだが、すぐに固まった。ラティスがなぜか額にキスしてきたから。
「……おやすみ、ラビレ」
硬直が解けたのはラティスが出てってから数分後。
思わずぎゃあーーーーと叫んだ私は悪くないと思う。……心配して上がってきてくれたおかみさんには怒られたけれど。
***
ラティスを待つために検問の休憩所にあるベンチに座っていたラビレはぐったりしていた。
結局、面会したお父さんにも怒られるわ、ギルドのみんなからも心配され、ギルドマスターからも説教を受けたことでライフもゼロに。色々あったものの、ラビレを誘拐した男たちは刑罰を受けた。一生会わなくてもいいというお達しが唯一の安堵材料であろうか。
ふと、荷物の一つに視線を向ける。そこに入っているのはボロボロになった服。せっかくラティスにもらったプレゼントということもあり、捨てるにも捨てられず、持ち帰ることにした。
「うーん……なんかリメイクとかできたらいいかな」
服の使い道に悩んでいると、ラティスの声が聞こえた。それに振り返ると、ラティスは珍しく普段着だった。
「あれ……仕事は? それに、その箱は……」
「今日は休みっスね。あと、この箱はその服の代わり」
「えっ? こんな勿体ない!」
「いいから受け取れ」
笑いながら箱を荷物へと押し込むラティスに呆然となる。なんで……と呟いたラビレの耳に入ったのは次の一言。
「ラビレは子どもじゃないっスから」
「えっと……うん?」
「それと、もう一つ、これも渡しておくっス」
なんだかはぐらかされた気がする。首を傾げていると手のひらを掴まれた上に箱をのせられた。小さい箱を疑問に思いながらもラティスに目を向けると、開けてみてと言われた。何も説明しないんだ……としぶしぶながらも、そっと開けてみるとキラキラと輝く指輪が一つ鎮座していた。
「……え?」
「もうラビレも十八歳っスから……そろそろ約束の時かなと……うわっ?」
指輪を見た時点でもう涙がぽろぽろと零れ落ちている。夢かもと混乱するのと同時に、こんな顔を見られたくないと入り混じった気持ちをかかえながらラティスに抱きついた。ひっくと泣いていると、しょうがないなとばかりにラティスの腕が腰にまわってきた。……俗にいう抱き合いってやつですね、コレ!
「約束……覚えてくれていたんだ」
「あーまー最初は……あんな約束、すぐに忘れるだろうなと……高をくくっていたっスけれどね」
目を泳がせたラティスにきょとんとしていると、頬を撫でられた。優しい視線に耐え切れず、頬が火照るのを感じたラビレだが、振りほどくことなどできなかった。
「目は口ほどにものを言うって……本当だったなと思って……とりあえず、それで予約しておく」
「予約……?」
「そう。来年になったらちゃんとプロポーズするから、ちゃんと全部まとめて帰っておいで」
次はもう帰してやれないからと耳元で囁かれたらもう何も言えない。今度は勢いよく零れ落ちる涙を隠すようにラティスの胸元を握り締めた。ラビレが震える声でやっと口にできた一言を聞いたラティスは嬉しそうに笑った。抱きしめあった二人の足元でにゃーと鳴くパールもしょうがないなとばかりに座っている。
「……っ……あ、たりまえだよ。だって、私は、ラティスのお嫁さんが夢だったもん……っ……」
『ラビレ、泣くなよ~もうほら、目が赤くなってるっス』
『だって……もう、会えなくなるもん』
『また親父さんの面会に来るんだろう。その時は連絡くれたらいつでも遊んでやるっスよ』
『遊ぶだけじゃやだ……ラティスと一緒にいたい』
『……それはお嫁さんとかじゃないと無理っスねぇ』
『じゃ、お嫁さんになる! だから、忘れないでね、絶対ラビレとずっと一緒にいて』
『……えっとぉ……』
『頑張って綺麗になるから、忘れないで、約束!』
『……はは……覚えていたらな』
……この一年後に約束は果たされる。パールと共に再び戻ってきたラビレはそのままラティスの下へと向かった。今度はおじちゃんでもなく、さん付けでもなく、名前を呼ぶことができる。だって、ラティスは――私の婚約者なんだから。薬指に光る指輪をそっと撫でながら、走ってきた待ち人に声をかける。まだ複雑な思いが入り混じっているけれど、もう大丈夫。だって、私は一人じゃない。これからはずっと彼と一緒にいるのだから。もちろん、最初の挨拶は――。
「ラティス、ただいま!」
「おかえり、ラビレ」
あとがきと解説
この度は、猫たちのエトセトラをお手に取っていただきありがとうございます。このアンソロジー集は、可愛い猫たちへの寄付金を集めたいという思いから作りました。日本では創作活動は活発におこなわれておりますが、その創作を利用したチャリティーなどはあまりおこなわれていない現状があります。
そんな中、SNS上にてフォローさせていただいている創作関係者の方々が、猫を飼い始め身も心も幸せになったとエッセイにて書かれている事案にいくつか出会いました。そんな彼女たちのエッセイを読ませていただき、今回の企画を思いついた次第です。
エッセイを書いてくれた彼女たちと、今回の企画に作品を寄稿して頂いた参加者の方々、世界中の猫ちゃんたちに感謝の言葉を述べて、このあとがきを終わりにしたいと思います。
本当にありがとうございました。あなたたちと、猫たちに、幸福が訪れますよう。
残りのページにて可愛い猫ちゃん写真と、参加者様たちのメッセージをご覧ください。
猫目 青
2019年10月1日 発行 初版
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この度は、猫たちのエトセトラを手に取っていただきありがとうございます。この企画本は、多くの猫好きの方によって作成されました。お忙しい中、作品を寄せて下さった企画参加者の方々、及びこの本を手に取ってくれた方にお礼をもうしあげます。
また、この本の売り上げはすべて動物愛護団体に寄付させていただきます。