黄帝(こうてい)も堯帝(ぎょうてい)も古代中国の伝説の皇帝といわれてきた。しかし近年の発掘と研究で、黄帝と堯帝のいた遺跡が見つかり、古典籍の内容や伝説を裏付けるものが見つかっている。
本書は、古典籍と伝説と遺跡の三つの情報を紹介しながら、黄帝と堯帝が、実在したことを解き明かす内容である。
───────────────────────
───────────────────────
この本はタチヨミ版です。
大遺跡を見に行く
さあ、石峁遺跡へ!
石峁遺跡の外城東門は現状保存博物館
黄土高原に4キロ平方の街があった
壁画があった!!
頭蓋骨だけ48個も埋っていた!
玉(ぎょく)製品が埋められていた
そびえる石の城―皇城台
発掘の成果と研究石峁人は何を食べていたのか?
石峁にはどんな動物がいたか? 牛はユーラシア草原から来た
4千年前の楽器―口弦琴と太鼓
石の彫刻、その芸術ロード
金属と石は同じ?——石峁銅器の発見と確認
陝西省北部、新石器時代の石城
石峁古城は黄帝部族の居住地です
黄帝、石峁遺跡―文献資料と伝説
石峁遺跡が中国で知られたのは1927年
石峁古城のむかし話
『古本竹書紀年』黄帝と堯帝
『穆天子傳』巻二
『国語』卷十 晋語四
『逸周書』嘗麦解 第五十六
『列子』黄帝第二 黄帝の夢
『荘子 外篇』第十一 在宥篇(ざいゆうへん)
軒轅の剣
陶寺遺跡を見に行く
復元された天文台(観象台)
復元された観象台で模擬観測
太陽の日影を測って時刻を知った
甲骨文字より古い文字発見!!
さらにもう一文字発見!
“豶豕(フンシ。去勢された豚)の牙”の政治の理念
銅の鈴が出土した。中国史上初の金属楽器が!!陶寺文化と銅器
青銅器はロシア北方から来た
帝堯のトーテム龍を描いた陶盤が出た
陶寺の鼉鼓(だこ)。ワニ皮の太鼓があった
夏朝と陶寺について、そこは夏朝の都か?
世界最早の建築材料——板瓦が見つかる
陶寺遺跡出土品から見える食と農業
お墓は何を語るのか
堯帝の伝説
帝堯と不肖の息子・丹朱
二鹿門
帝堯の天下を治める原則
帝堯が初めて許由に会う。黄帝が広成子に「道」の何かを問う
関係写真・図補足 203
黄帝(こうてい)も堯帝(ぎょうてい)も古代中国の伝説の皇帝といわれてきた。三皇五帝(さんこうごてい)という言葉があるが、これは中国最古の神話伝説の時代に8人の帝王を現わした言い方である。誰が最初の帝王だったかは諸説がある。
黄帝は三皇の中の3番目で、五帝の中の1番目とか3番目といわれている。堯帝は中国で4番目の皇帝という説が多く、2番目とか5番目という説もある。そしてこの二人のお墓、つまり陵墓も残っているし、伝説も多い。堯帝に至ってはその陵墓は中国内に10カ所もあるのである。
中国で最も使われている検索サイト「百度」で調べてみると、黄帝は紀元前2717年~紀元前2599年の人で、118歳まで生きたことになっている。その根拠はよく分からないが、4600年以上も昔の人である。そして黄帝は古華夏部落連盟の首領とあり、五帝の一番目とある。
華夏民族とは、古代に中原地区(河南一带)に居住していた原住民の自称で、炎帝(神農)、黄帝の血筋を引く者という。黄帝の姓は公孫だが、また姫水(今の陕西省の漆水河)の辺に生まれたので姫(き)姓で、称号は軒轅氏という。
堯帝は、紀元前約2188年~紀元前2067年の人で、約4千年前に120歳も長生きしたことになっている。姓は伊祁、号は放勲、古唐国(今の山西省臨汾市堯都区)の人。中国上古時代の部落連盟の首領で、“五帝”の一人。13歳で陶(今の山西省臨汾市襄汾県陶寺村)の領主に封じられる。15歳で兄の摯帝(してい)を補佐し唐地(今の山西省太原市)に改封され、号は陶唐氏となる。20歳で摯帝に代わり皇帝となる。都を平陽(今の山西省臨汾市)に定める。
『論語』も『史記』も堯帝の人物評価は最高である。孔子は「堯は統治者として偉大なものだ。天に並ぶほどに」と述べている。理想の帝王であった。
本書はこの黄帝と堯帝について最新の情報を紹介するものである。黄帝は伝説の人と考えられていたが、陝西省北部で大きな遺跡が発見され、それが黄帝とその一族に関連したものであることが判ってきた。しかもその民族は北方にいた“狄・てき”につながることも見えだした。
黄帝とその一族の活動していた時代は4千年以上も前であるが、出土文物を見るとその文化はかなり質の高いものであり、石造りの高度な城を築いていた。当然、近隣諸国(大集落)との交流があり、そこにはシルクロードならぬ最早の“北域道”や“西域道”ができていたのである。
堯帝についても同じことがいえ、その最初に封じられた領地であった陶寺遺跡からは、甲骨文字以前の文字が発見され、また天文観測遺跡が発掘され冬至、夏至を見定め、暦を作っていたであろうことが分かってきた。この文化はまたほぼ同時に進行していた黄帝とその一族の文化とともに、中国最古の王朝である夏(か)につながっていったといわれている。
黄帝も堯帝も伝説だけでなく、古典籍の中に多くの記述と関連資料があり、また伝説も多い。そして黄帝に関わる陝西省の石峁(シーマオ)遺跡と、堯帝ゆかりの地といわれる山西省陶寺遺跡が発掘されている。
本書では、古典籍と伝説と遺跡の三つの情報を紹介しながら、黄帝と堯帝という伝説の二人の皇帝の時代が、実在したことを多くの資料によって解き明かすものである。
*表紙は黄帝一族のトーテムといわれるタカ(陶鷹)。裏表紙は 堯帝のトーテム龍の盤。
“黄帝の都”があった! 遺跡が見つかった!! 中国からこんなニュースが届いたのは6年前だったか。何としてもその遺跡を見に行こうと思った。それが2019年6月にやっと実現した。そこは陝西省北部の楡林市神木県という所だという(中国では市の下に県がある)。楡林も神木県も鉄道は通っている。しかしどうも時間がかかりそうだ。航空路線を調べてみると、北京―楡林という便があって1時間40分で楡林へ行くことができる。
楡林行きは北京首都空港と北京南苑空港の2カ所から便がある。私は南苑空港を利用した。ここは地方路線専用のようで、多くの人で混雑していた。私の乗った便は9割がた席は埋り、中国の景気の良さが感じられた、外国人は私を含めて3人だけだった。
楡林の楡陽空港は新しい建物でこの地方の発展を感じさせた。タクシーでホテルへ着くまでの車窓は、緑が少なく道路は広くなかなか民家が見えてこない。2時間にもみたない空路であったが、初めての土地になぜか遠くへ来たように思えた。この地は黄土高原とモウス沙漠の接点で黄土高原から内モンゴル高原への過渡区である。
楡林市の面積は43,578㎞2というから、日本でいえば北海道の約半分くらいで、人口は370万人という。ここは良質の石炭が有名で世界七大炭田の一つ神府炭田があり、中国の陸上で最大という3つの省にまたがる——陕甘寧ガス田が知られる。特産品は 横山羊肉、紅棗(ナツメ)、緑豆、ジャガイモ。
市内のビジネスホテルへ入る。日本とは違い部屋は広い。ただシャワーだけでバスタブがないのが不満だが、安価ゆえやむを得ない。ホテルのフロントで“黄帝の都”といわれる石峁遺跡(シーマオいせき)への行き方を聞いて翌日にそなえる。
昼飯をまだ食べてなかったので、外へ出て鉄道の楡林駅は向こうと案内板があったのでそっちへ行くことにした。何軒か食堂があって、横山羊肉麺の看板の店へ入る。店内のメニューで羊肉麺を注文。するとおばさんが「麺にしますか、〇▽にするか?」と聞いているのだが、〇▽が何のことか分からない。何回か聞き返していると、隣の席にいた3人づれのお客の一人が、なにやら文字が書いてあるスマホを私に見せた。そこには「細長い麺かワンタン風の麺か、どちら?」と文字がでていた。私は麺といえば細長い麺とばかり思いこんでいたのだ。ここ特産の横山羊肉の入った細長麺を食べた。美味しい麺だったが老人には量が多すぎた。
楡林駅へ行ってみたが駅舎への入口が判らない。中をのぞいてみたがあまり人はいないし電車も見えなかった。そこで遠くに見えるビルの並ぶ、賑やかそうな街の方へ歩いて、デパートのような建物へ入り、並んでいる商品を見てみる。売っている物はなかなか品数も多く、地方へ豊かさが広がっているのが判る。
夕方、ホテル前の道路を反対側へ渡ってみると、小さな食堂が並ぶ通りがあって、仕事帰りの人が酒を飲んだり食事をしていた。なぜかみんな店の前の広い歩道にテーブルとイスを並べて飲み喰いしている。夏なので暑いが湿気がないので外の方が良いらしい。私は店の人がおすすめという羊の串焼、豆腐とニラのスープ、小麦粉を煉って味を付け丸く平たく焼いた餅(ビン)にビールを1本注文して飲みはじめた。私の身なりがみすぼらしいのか、日本人に見えないのか誰も私のことなど気にせず、ガヤガヤとやっている。
翌日は6月10日。5時過ぎ起床。ホテルの人に聞いた通りに、タクシーをひろって、北部バスセンターへ。ここは高速バスなど各地へ向かうバス乗り場でバスが何台も並んでいる。神木行は47元(約750日本円)。中型バスは30人ほどの人が乗って7時20分に出発。30分ほどで高速道路へ、鉄道と道路が並行している所があった。地形は平らで草の伸びた荒れ地が広がり、西北地方でよく見るポプラに似た白楊(はくよう)の樹が植えてあった。
1時間ほどで高速を出て、何カ所かで客を降ろし9時10分に神木のバスセンターへ到着。そこは街の中心部に近いのか人通りの多い所で、すぐにタクシーを見つけることができた。
運転手さんに「石峁遺跡へ行きたいが、あなたは知っているか、行ったことがある? 車はチャーターで行ってくれるか?」と聞くと、「問題ない!」と運転席の前に固定されたスマホの地図を指差し、「80㎞ほどだね。ところでいくらにする?」ときた。話をスムーズにするため、「運転手さんが言ってよ!」といっても「お客さんが決めて!」という。中国でのチャーター車1日の相場400元前後が頭に浮かんだので、「500元で」といったら即OK。日本円で約8,000円である。
この運転手さんは50歳くらいの人で、なかなか気のきく人だった。「あそこへ行くには国道を行くのと、山道へ上がり村から村を結ぶ道を行く方法があるが、お客さんは日本から来たそうだから、山の村を通る道を行ったらどうか? この地方の特徴が見られると思うよ」という。そうだ私は黄土高原という所をよく見たことがない。「ありがとう。それでは山道から行ってくれ!」ということになった。
道は国道を離れ、炭鉱のある鉱業所の近くから山道へ入った。運転手さんはさかんにスマホで友人と連絡して、石峁遺跡の情報を仕入れているようで、「そこの一カ所は見学できるようになったそうだ。他の一カ所は今も発掘してるから、出てきたものが見れるかもね!」などと話してくれた。
このあたりの黄土高原の丘は峁(マオ)と呼ばれる。峁・マオというのは中国西北地方の黄土の丘陵のこと、またその頂上のことであるという。つまり石峁・シーマオとは頂上の石の意味。
車の中から見える黄土高原は大きなゆるやかな丘というか、幅広い稜線がいくつも並んでいるようで、丘と丘の間は谷が落ち込んでいる。その谷の両岸斜面は所々が崖崩れを起こして白茶けた土砂がむき出しになっている。道路が丘の上へ抜けると、眼下に遠くの街並みが見える。〇△炭鉱入り口の案内板があった。道路の近くにはときどき土レンガ造りの屋根の平らな、土塀に囲まれた民家も見える。畑もあるがそれほど
広くはなくトウモロコシや何か葉菜の類が植えてあるのが見られる。樹木は多くはなく、柴木と雑草の方が多い。
しばらく走ると樹木が少なくなり、前方が開け黄土高原の大丘陵が延々と続く風景が目に飛び込んできた。下には集落もいくつか見える。道路が回り込んだ所から新しい道を上り、道教寺院のような建物を越えた先の、その辺りで最も高い丘陵の所に大きな屋根の建物が見えて車は止まった。
そこが「神木市石峁遺址管理処」の事務所と石峁遺跡の外城東門の場所で、発掘が終わり遺跡部分に屋根をかけて保護してある。まるで体育館のような建屋が山の頂陵部分に建っていた。案内板によれば、東門遺跡は幅約9メートルのL形(曲尺形)で総面積は約2500m2とある。ここは海拔約1290メートルもあるそうだ。入場券売り場のような窓口があったので聞いたら、無料だという。ただパスポートの提示を求められた。
まず、南墩台(みなみとんだい)の石積みの台座の所から入り、角台、外城城壁、外瓮城(がいおうじょう)、馬面と石積みの城の構成部分が並ぶ。よくもこんなに多くの石片を運んできたものだ。
墩台(とんだい)とは基礎台座の意味。城壁の高所に設置され、石壁で囲い中は土を突き固めた版築で、その台座上に建物があって兵士が常駐していたといわれる。ここで敵を監視して警報をだした見張り所である。
角台とは、城壁の四隅の曲がり角の所の凸出した城壁。土を突き固め石で囲む。
瓮城(おうじょう)は敵の攻撃を受けやすい城門の外側にさらに一つのコ形の城壁を築いたもの。
瓮城の脇から門を入ると約9メートル幅の門道の両側は壁があり、20メートル近くで右へ曲がる。そこから15メートルほどで城内へでる。その門道の両側には門塾(もんじゅく)という壁で仕切られた空間があり、煮炊き、武器作り、暖をとるための火を焚く場所でもあった。
さて東門の高い石積みの所々に穴があったり、木材がはめ込まれている穴が見られる。これは紝木(じんぼく)という古代の工法で、城壁の建設などで用いられる架設材で、骨組みを建てて、石材の重さを支えたり、型枠の支えや足場になったりするもの。宋代の李誡の書いた『営造法式』の中にでているが、4千年も前にすでに使われていた工法であった。ここに来て紝木の穴を見ると、冬の寒さ夏の暑さに対する石壁の収縮、膨脹の調整にもその役割を果たしているのではないかと思った。
馬面とは城壁の何カ所かに突き出た壁を設けた所。火薬を使わない武器が主体の古代で、城門の防御力を強化するため、通常の街市は2つ以上の城門が設置され、城壁で“半円形の小城郭”を形成するが、城壁の一定距離ごとに長方形の基台を突き出した壁とする。このような城壁で側面からの敵の来襲に守備上の有利点を増やす。この壁を俗称で“馬面”という。
窑洞(窰洞・ようどう)と表示された所がある。窑洞(ヤオトン)とは中国西北黄土高原上の“穴居式”民家のことである。丘陵の斜面に横
穴を掘って部屋を造るのである。建築史的には4千数百年の歴史があるといわれる。
城門から少し離れた所に窑洞(やオトン)、つまり穴居があるということは、この石峁城内に居住していた住民はみな窟洞の家に住んでいたと思われる。ここの窑洞は入り口が石積みになっていたが、そこから奥は土壁であり、丘の斜面を掘って部屋を造っていたものであろう。
今も山西省、陝西省の一部には窑洞の集落がある。冬暖かく夏は凉し
タチヨミ版はここまでとなります。
2019年11月17日 発行 初版
bb_B_00161471
bcck: http://bccks.jp/bcck/00161471/info
user: http://bccks.jp/user/131571
format:#002y
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
フリーの編集ジイさん。遺しておきたいコンテンツがあるので、電子出版したい。