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少 年

塵紺館

塵紺館

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少 年
                                谷崎 潤一郎

もう彼れ此れ二十年ばかりも前になろう。漸く私が十ぐらいで、蠣殻にぽか/\と日があたって、取り止めのない夢のような幼心にも何となく春が感じられる陽気な時候の頃であった。
或るうら/\と晴れた日の事、眠くなるような午後の授業が済んで墨だらけの手に算盤を抱えながら学校の門を出ようとすると、
「萩原の栄ちゃん」
と、私の名を呼んで後信ーーと云って入学した当時から尋常四年の今日まで附添人の女中を片時も側から離した事のない評判の意気地なし、誰も彼も弱虫だの泣き虫だのと悪口をきいて遊び相手になる者のない坊ちゃんであった。
「何か用かい」
珍らしくも信一から声をかけられたのを不思議に思って私は其の子と附添の女中の顔をしげ/\と見守った。
「今日あたしの家様のお祭があるんだから」
緋の打ち紐で括ったような口から、優しい、おず/\した声で云って、信一は訴えるような眼差とよく似合って、今更品位に打たれたように、私はうっとりとして了った。
「ねえ、萩原の坊ちゃん、家の坊ちゃんと御一緒にお遊びなさいましな。実は今日手前共にお祭がございましてね、あの成る可く大人しいお可愛らしいお友達を誘ってお連れ申すようにお母様のお云い附けがあったものですから、それで坊ちゃんがあなたをお誘いなさるのでございますよ。ね、いらしって下さいましな。それともお嫌でございますか」
附添の女中にこう云われて、私は心中得意になったが、
「そんなら一旦ー家ってから遊びに行こう」
と、わざと殊勝らしい答をした。
「おやそうでございましたね。ではあなたのお家までお供して参って、お母様に私からお願い致しましょうか、そうして手前共へ御一緒に参りましょう」
「うん、いゝよ。お前ン所は知って居るから後から一人でも行けるよ」
「そうでございますか。それではきっとお待ち申しますよ。お帰りには私がお宅までお送り申しますから、お心配なさらないようにお家へ断っていらっしゃいまし」
「あゝ、それじゃ左様なら」
こう云って、私は子供の方を向いてなつかしそうに挨拶をしたが、信一は例の品のある顔をにこりともさせず、唯|鷹揚にうなずいたゞけであった。
今日からあの立派な子供と仲好しになるのかと思うと、何となく嬉しい気持がして、日頃遊び仲間の髢屋の黄八丈の不断着に着更えるや否や、
「お母さん、遊びに行って来るよ」
と、雪駄をつッかけながら格子先に云い捨てゝ、其の儘塙の家へ駈け出して行った。
有馬学校の前から真っ直ぐに中之橋を越え、浜町の岡田の塀へついて中洲に近い河岸通りへ出た所は、何となくさびれたような閑静な一廓をなして居る。今はなくなったが新大橋の袂から少し手前の右側に名代の団子屋と煎餅屋があって、其のすじ向うの角の、長い/\塀を繞がちら/\見えて、いかにも物持の住むらしい、奥床しい構えであった。
成る程其の日は何か内にお祭でもあるらしく、陽気な馬鹿囃しの太鼓の音が塀の外に洩れ、開け放された横町の裏木戸からは此の界隈に住む貧乏人の子供達が多勢ぞろ/\庭内に這入って行く。私は表門の番人の部屋へ行って信一を呼んで貰おうかとも思ったが、何となく恐ろしい気がしたので、其の子供達と同じように裏木戸の潜りを抜けて構えの中へ這入った。
何と云う大きな屋敷だろう。こう思って私は瓢箪形をした池の汀も幾個も長く続き、遥か向うに御殿のような座敷が見えている。彼処に信一が居るのかと思うと、もうとても今日は会えないような気がした。
多勢の子供達は毛氈のような青草の上を蹈んで、のどかな暖かい日の下に遊んで居る。見ると綺麗に飾られた庭の片隅の稲荷の祠や子供角力のまわりには真っ黒に人が集まっている。折角楽しみにして遊びに来たかいもなく、何だかがっかりして私はあてどもなく、其処らを歩き廻った。
「兄は要らないんだよ」
甘酒屋の前へ来ると赤い襷をかけた女中が笑いながら声をかけたが、私はむずかしい顔をして其処を通り過ぎた。やがておでん屋の前へ来ると、また、
「兄さん、さあおでんを喰べておいで、お銭がなくっても上げるんだよ」
と、頭の禿げた爺に声をかけられる。
「いらないよ、いらないよ」
と、私は情ない声を出して、あきらめたように裏木戸へ引き返そうとした時、紺の法被を着た酒臭い息の男が何処からかやって来て、
「兄さん、お前はまだお菓子を貰わねえんだろう。けえるんならお菓子を貰ってけえりな。さ、此れを持って彼処の御座敷の小母さんの処へ行くとお菓子をくれるから、早く貰って来るがいゝ」
こう云って真紅に染めたお菓子の切符を渡してくれた。私は悲しさが胸にこみ上げて来たが、若しや座敷の方へ行ったら信一に会えるか知らんと思い、云われる儘に切符を貰って又庭の中を歩き出した。
幸いと其れから間もなく附添の女中に見附けられて、
「坊ちゃん、よくいらしって下さいました。もう先からお待ち兼ねでございますよ。さあ彼方へいらっしゃいまし。こう云う卑しい子供達の中でお遊びになってはいけません」
と、親切に手を握られ、私は思わず涙ぐんで直ぐには返事が出来なかった。
床の高い、子供の丈ぐらい有りそうな縁に沿うて、庭に突き出た廣い座敷の蔭へ廻ると、十坪ばかりの中庭に、萩の袖垣を結い繞らした小座敷の前へ出た。
「坊ちゃん、お友達がいらっしゃいましたよ」
青桐の木立の下から女中が呼び立てると、障子の蔭にばた/\と小刻みの足音がして、
「此方へお上がんな」
と甲高のようにきら/\光って居る。
友達に手をひかれて通されたのは八畳ばかりの小綺麗な座敷で、餅菓子の折の底を嗅ぐような甘い香りが部屋の中に漂い、ふくよかな八反の座布団が二つ人待ち顔に敷かれてあった。直ぐにお茶だのお菓子だのお強飯の高台だのが運ばれて、
「坊ちゃん、お母様がお友達と仲よくこれを召し上がるようにって。………それから今日は好いお召を召していらっしゃるんですから、あんまりお徒をなさらないように大人しくお遊びなさいましよ」
と、女中は遠慮している私に強飯やきんとん[#「きんとん」に傍点]を勧めて次へ退って了った。
物静かな、日あたりの好い部屋である。燃えるような障子の紙に縁先の紅梅の影が映って、遥かに庭の方から、てん、てん、てん、とお神楽の太鼓の音が子供達のガヤガヤ云う騒ぎに交って響いて来る。私は遠い不思議な国に来たような気がした。
「信ちゃん、お前はいつも此のお座敷にいるのかい」
「うゝん。此処は本当は姉さんの所なの。彼処にいろんな面白い姉さんの玩具があるから見せて上げようか」
こう云って信一は地袋の中から、奈良人形の猩々や、極込細工を生やしたり、眼をむきだしたりして居る巧緻な人形の表情を覗き込むようにした。そうしてこう云う小さな人間の住む世界を想像した。
「まだこゝに絵双紙が沢山あるんだよ」
と、信一は又袋戸棚から、半四郎や菊之丞の似顔絵のたとうに一杯詰まって居る草双紙を引き擦り出して、色々の絵本を見せてくれた。何十年立ったか判らぬ木版刷の極彩色が、光沢をなして居る不思議な図面を、夢中になって覗き込んで居ると、
「あれ、また信ちゃんは人の物を徒らして居るんだね」
こう云って、友禅の振袖を着た十三四の女の子が襖を開けて駈け込んで来た。額のつまった、眼元口元の凜々けている。信一は一と縮みに縮み上って蒼くなるかと思いの外、
「何云ってるんだい。徒らなんかしやしないよ。お友達に見せてやってるんじゃないか」
と、まるで取り合わないで、姉の方を振り向きもせずに絵本を繰っている。
「徒らしない事があるもんか。あれ、いけないってばさ」
ばた/\と姉は駈け寄って、見て居る本を引ったくろうとしたが、信一もなか/\放さない。表紙と裏とを双方が引張って、綴ぢ目の所が今にも裂けそうになる、暫くそうして睨み合って居たが、
「姉さんのけちんぼ! もう借りるもんかい」
と、信一はいきなり本をたゝき捨てゝ、有り合う奈良人形を姉の顔へ投げ付けたが、狙いが外れて床の間の壁へ当った。
「それ御覧な、そんな徒らをするじゃないか。―――またあたしを打になってまだ消えやしない。これをお父様に見せて云っつけてやるから覚えておいで」
恨めしそうに涙ぐみながら、姉は縮緬んでいる。
「云っつけるなら勝手においいつけ。けちんぼ/\」
信一は人形を足で滅茶々々に蹴倒して、
「お庭へ行って遊ぼう」
と、私を連れて其処を飛び出してしまった。
「姉さん、泣いて居るか知ら」
戸外へ出ると、気の毒なような悲しいような気持になって私は尋ねた。
「泣いたっていゝんだよ。毎日喧嘩して泣かしてやるんだ。姉さんたって彼れはお妾の子なんだもの」
こんな生意気な口をきいて、信一は西洋館と日本館の間にある欅や榎の大木の蔭へ歩いて行った。其処は繁茂した老樹の枝がこんもりと日を遮って、じめ/\した地面には青苔が一面に生え、暗い肌寒い気流が二人の襟元へしみ入るようであった。大方古井戸の跡でもあろう、沼とも池とも附かない濁った水溜りがあって、水草が緑青へ腰を下ろして、湿っぽい土の匂いを嗅ぎながらぼんやり足を投げ出して居ると、何処からともなく幽玄な、微妙な奏楽の響きが洩れて来た。
「あれは何だろう」
こう云いながらも、私は油断なく耳を傾けた。
「あれは姉さんがピアノを弾いて居るんだよ」
「ピアノって何だい」
「オルガンのようなものだって、姉さんがそう云ったよ。異人の女が毎日あの西洋館へ来て姉さんに教えてやってるの」
こう云って信一は西洋館の二階を指さした。肉色の布のかゝった窓の中から絶えず洩れて来る不思議な響き。………或る時は森の奥の妖魔が笑う木霊共が多勢揃って踊るような、幾千の細かい想像の綾糸で、幼い頭へ微妙な夢を織り込んで行く不思議な響きは、此の古沼の水底で奏でるのかとも疑われる。
奏楽の音が止んだ頃、私はまだ消えやらぬ ecstasy の尾を心に曳きながら、今にあの窓から異人や姉娘が顔を出しはすまいかと思い憧れてじっと二階を視つめた。
「信ちゃん、お前は彼処へ遊びに行かないのかい」
「あゝ徒らをしてはいけないって、お母さんがどうしても上げてくれないの、いつかそッと行って見ようとしたら、錠が下りて居てどうしても開かなかったよ」
信一も私と同じように好奇な眼つきをして二階を見上げた。
「坊ちゃん、三人で何かして遊びませんか」
ふと、こう云う声がしてうしろから駈けて来た者がある。其れは同じ有馬学校の一二年上の生徒で、名前こそ知らないが、毎日のように年下の子供をいじめて居る名代の餓鬼大将だから顔はよく覚えて居た。どうして此奴がこんな処へやって来たのだろうと、訝りながら黙って様子を見て居ると、其の子は信一に仙吉々々と呼び捨てにされながら、坊ちゃん/\と御機嫌を取って居る。後で聞いて見れば塙の家の馬丁の子であったが、其の時私は、猛獣遣いのチャリネの美人を見るような眼で、信一を見ない訳には行かなかった。
「そんなら三人で泥坊ごっこしよう。あたしと栄ちゃんがお巡査になるから、お前は泥坊におなんな」
「なってもいゝけれど、此の間見たいに非道い乱暴をしっこなしですよ。坊ちゃんは縄で縛ったり、鼻糞をくッつけたりするんだもの」
此の問答をきいて、私は愈※[#二の字点、1-2-22]驚いたが、可愛らしい女のような信一が、荒くれた熊のような仙吉をふん縛って苦しめて居る光景を、どう考えて見ても実際に想像することが出来なかった。
やがて信一と私は巡査になって、沼の周囲や木立の間を縫いながら盗賊の仙吉を追い廻したが、此方は二人でも先方は年上だけに中々捕まらない。漸くの事で西洋館の裏手の塀の隅にある物置小屋まで追い詰めた。
二人はひそ/\と示し合わせて、息を殺し、跫音に吊るしてあった用心籠がめり/\鳴るかと思うと、其処から「わあ」と云いながら仙吉の顔が現れた。
「やい、下りて来い。下りて来ないと非道い目に合わせるぞ」
信一は下から怒鳴って、私と一緒に箒で顔をつッ突こうとする。
「さあ来い。誰でも傍へ寄ると小便をしっかけるぞ」
仙吉が籠の上から、あわや小便をたれそうにしたので、信一は用心籠の真下へ廻り、有り合う竹竿で籠の目から仙吉の臀だの足の裏だの、所嫌わずつッ突き始めた。
「さあ、此れでも下りないか」
「あいた、あいた。へい、もう下りますから御免なさい」
悲鳴を揚げてあやまりながら、痛む節々を抑えて下りて来た奴の胸ぐらを取って、
「何処で何を盗んだか、正直に白状しろ」
と、信一は出鱈目に訊問を始める。仙吉は又、やれ白木屋で反物を五反取ったの、にんべん[#「にんべん」に傍点]で鰹節を盗んだの、日本銀行でお札をごまかしたのと、出鱈目ながら生意気な事を云った。
「うん、そうか、太い奴だ。まだ何か悪い事をしたろう。人を殺した覚えはないか」
「へいございます。熊谷土手で按摩を殺して五十両の財布を盗みました。そうして其のお金で吉原へ参りました」
緞帳芝居で聞いて来るものと見えて、如何にも当意即妙の返答である。
「まだ其の外にも人を殺したろう。よし、よし、云わないな。云わなければ拷問にかけてやる」
「もう此れだけでございますから、堪忍しておくんなさい」
信一は、手を合わせて拝むようにするのを耳にもかけず、素早く仙吉の締めて居る薄穢い浅黄の唐縮緬の兵児帯を解いて後手に縛り上げた上、其のあまりで両脚の踝の粗い黒く醜く肥えた仙吉の顔の筋肉は、ゴムのように面白く伸びたり縮んだりした。其れにも飽きると、
「待て、待て。貴様は罪人だから額に入墨をしてやる」
こう云いながら、其処にあった炭俵の中から佐倉炭の塊を取り出し、唾吐になって化け物のような目鼻をして居るのを見ると、私はこれ迄出会ったことのない一種不思議な快感に襲われたが、明日学校で意趣返しされると云う恐れがあるので、信一と一緒に徒らをする気にはなれなかった。
暫くしてから帯を解いてやると、仙吉は恨めしそうに信一の顔を横目で睨んで、力なくぐたりと其処へ突っ俯した儘何と云っても動かない。腕を掴んで引き起そうとしても亦ぐたりと倒れてしまう。二人とも少し心配になって、様子を窺いながら黙って彳んで居たが、
「おい、どうかしたのかい」
と、信一が邪慳しさに、
「わはゝゝゝ」
と、三人は顔を見合わせて笑った。
「今度は何か外の事をして遊ぼう」
「坊ちゃん、もう乱暴をしちゃいけませんよ。こら御覧なさい、こんなにひどく痕が附いたじゃありませんか」
見ると仙吉の手頸の所には、縛られた痕が赤く残って居る。
「あたしが狼になるから、二人旅人にならないか。そうしてしまいに二人共狼に喰い殺されるんだよ」
信一が又こんな事を云い出したので、私は薄気味悪かったが、仙吉が
「やりましょう」
と云うから承知しない訳にも行かなかった。私と仙吉とが旅人のつもり、此の物置小屋がお堂のつもりで、野宿をしていると、真夜中頃に信一の狼が襲って来て、頻りに戸の外で吠え始める。とう/\狼は戸を喰い破ってお堂の中を四つ這いに這いながら、犬のような牛のような稀有から少し恐くなってにや/\不安な笑いを浮かべながら、其の実一生懸命俵の上や莚の蔭を逃げ廻った。
「おい仙吉、お前はもう足を喰われたから歩いちゃいけないよ」
狼はこう云って旅人の一人をお堂の隅へ追い詰め、体にとび上がって方々へ喰い付くと、仙吉は役者のするような苦悶の表情をして、眼をむき出すやら、口を歪めるやらいろ/\の身振りを巧みに演じて居たが、遂に喉笛を喰い切られて、キャッと知死期の悲鳴を最後に、手足の指をぶる/\とわなゝかせ、虚空を掴んでバッタリ倒れてしまった。
さあ今度は私の番だ。こう思うと気が気でなく、急いで樽の上へ跳び上がると、狼に着物の裾を咬えられ、恐ろしい力で下からぐい/\引っ張られた。私は真っ蒼になって樽へしっかり掴まって見たが、激しい狼の剣幕に気後れがして、「あゝもうとても助からない」と観念の眼を閉づる間もなく引きずり落され、土間へ仰向きに転げたかと思うと、信一は疾風のように私の首ッたまへのしかゝって喉笛を喰い切った。
「さあもう二人共死骸になったんだからどんな事をされても動いちゃいけないよ。此れから骨までしゃぶってやるぞ」
信一にこう云われて、二人ともだらしなく大の字なりに土間へ倒れたまゝ、一寸も動けなかった。急に私は体の処々方々がむず痒くなって、着物の裾のはだけた処から冷めたい風がすう/\と股ぐらに吹き込み、一方へ伸ばした右の手の中指の先が微かに仙吉の髪の毛に触れて居るのを感じた。
「此奴の方が太って居て旨そうだから、此奴から先へ喰ってやろう」
信一はさも愉快そうな顔をして、仙吉の体へ這い上がった。
「あんまり非道いことをしちゃいけませんよ」
と、仙吉は半眼を開き、小声で訴えるように囁いた。
「そんな非道い事はしないから、動くときかないよ」
むしゃ/\と仰山に舌を鳴らしながら、頭から顔、胴から腹、両腕から股や脛の方までも喰い散らし土のついた草履のまゝ目鼻の上でも胸の上でも勝手に蹈るので、又しても仙吉は体中泥だらけになった。
「さあ此れからお臀の肉だ」
やがて仙吉は俯向きに臥かされ、臀を捲くられたかと思うと、薤のように顫えていた。
今に私もあんな態となるのを喜ぶようになってしまった。
やがて私も俯向きにされて裾を剥がされ、腰から下をぺろ/\と喰われてしまった。信一は、二つの死骸が裸にされた臀を土間へ列べて倒れている様子を、さも面白そうにから/\笑って見て居たが、其の時不意に先して起き上った。
「おや、坊ちゃんは此処にいらっしゃるんですか。まあお召物を台なしに遊ばして何をなすっていらっしゃるんですねえ。どうして又こんな穢い所でばかりお遊びになるんでしょう。仙ちゃん、お前が悪いんだよ、ほんとに」
女中は恐ろしい眼つきをして叱りながら、泥の足型が印せられて居る仙吉の目鼻を、様子ありげに眺めて居る。私はまだ蹈みつけられた顔の痕がぴり/\するのをじっと堪えて何か餘程の悪事でも働いた後のような気になって立ちすくんだ。
「さあ、もうお風呂が沸きましたから、好い加減に遊ばしてお家へお這入りなさいませんと、お母様に叱られますよ。萩原の坊ちゃんも亦いらしって下さいましな。もう遅うございますから、私がお宅までお送り申しましょうか」
女中も私にだけは優しくしたが、
「独りで帰れるから、送って貰わないでもいゝの」
こう云って私は辞退した。
門の所まで送って来てくれた三人に、
「あばよ」
と云って戸外へ出ると、いつの間にか街は青い夕靄りにはちら/\灯がともって居る。私は恐ろしい不思議な国から急に人里へ出て来たような気がして、今日の出来事を夢のように回想しながら家へ帰って行ったが、信一の気高く美しい器量や人を人とも思わぬ我が儘な仕打ちは、一日の中にすっかり私の心を奪って了った。
明くる日学校へ行って見ると、昨日あんな非道い目に会わされた仙吉は、相変らず多勢の餓鬼大将になって弱い者いじめをして居る代り、信一は又いつもの通りの意気地なしで、女中と一緒に小さくなって運動場の隅の方にいじけて居る気の毒さ。
「信ちゃん、何かして遊ばないか」
と、たま/\私が声をかけて見ても、
「うゝん」
と云ったなり、眉根を寄せて不機嫌らしく首を振るばかりである。
それから四五日立った或る日のこと、学校の帰りがけに信一の女中は又私を呼び止めて、
「今日はお嬢様のお雛様が飾ってございますから、お遊びにいらっしゃいまし」
こう云って誘ってくれた。
其の日は表の通用門から番人にお時儀らを企んで居るらしいので、
「坊ちゃん、何か可笑しいことがあるんですか」
と、仙吉は不安らしく姉弟の顔を眺めて居る。
緋羅紗の道具だの唐草の金蒔絵をした可愛い調度が、此の間姉の部屋にあったいろ/\の人形と一緒に飾ってある。
私が雛段の前に立って、つく/″\と其れに見惚れて居ると、うしろからそうっと信一がやって来て、
「今ね、仙吉を白酒で酔っ拂わしてやるんだよ」
こう耳うちをしたが、直ぐにばた/\と仙吉の方へ駈けて行って、
「おい仙吉、これから四人でお酒盛りをしようじゃないか」
と何喰わぬ顔で云い出した。
四人は圓くなって、豆炒りを肴に白酒を飲み始めた。
「此れはどうも結構な御酒でございますな」
などゝ大人めいた口をきいて皆を笑わせながら、仙吉は猪口がほんのり汗ばみ、頭の鉢の周囲が妙に痺れて、畳の面は船底のように上下左右へ揺れて居る。
「坊ちゃん私は酔いましたよ。皆も真赤な顔をして居るじゃありませんか。一つ立って歩いて見ませんか」
仙吉は立ち上がって大手を振りながら座敷を歩き出したが、直ぐに足許がよろけて倒れる拍子に、床柱へこつんと頭を打ち付けたので、三人がどっと吹き出すと、
「あいつ、あいつ」
と、頭をさすって顔を顰めて居る当人も可笑しさが堪えられず、鼻を鳴らしてくす/\笑って居る。

やがて三人も仙吉の真似をして立ち上り、歩いては倒れ、倒れては笑い、キャッキャッと図に乗って途方もなく騒ぎ出した。
「エーイッ、あゝ好い心持だ。己は酔って居るんだぞ、べらんめえ」
仙吉が臀を端折って弥造のような姿をして、
「べらんめえ、己れは酔っ拂いだぞ」
と、座敷中をよろ/\練り歩いては笑い転げる。
「あッ、坊ちゃん/\、狐ごっこをしませんか」
仙吉がふと面白い事を考え付いたようにこう云い出した。私と仙吉と二人の田舎者が狐退治に出かけると、却って女に化けた光子の狐の為めに化かされて了い、散々な目に会って居る所へ、侍の信一が通りかゝって二人を救った上、狐を退治てくれると云う趣向である。まだ酔っ拂って居る三人は直ぐに賛成して、其の芝居に取りかゝった。
先ず仙吉と私とが向う鉢巻に臀端折りで、手に/\はたき[#「はたき」に傍点]を振りかざし、
「どうも此の辺に悪い狐が出て徒らをするから、今日こそ一番退治てくれべえ」
と云いながら登場する。向うから光子の狐がやって来て、
「もし、もし、お前様達に御馳走して上げるから、あたしと一緒にいらっしゃいな」
こう云って、ぽんと、二人の肩を叩くと、忽ち私も仙吉も化かされて了い、
「いよう、何とはあ素晴しい別嬪でねえか」
などゝ、眼を細くして光子にでれつき始める。
「二人とも化かされてるんだから、糞を御馳走のつもりで喰べるんだよ」
光子は面白くて堪らぬようにゲラゲラ笑いながら、自分の口で喰いちぎった餡ころ餅だの、滅茶滅茶に足で蹈み潰した蕎麦饅頭く盛って私達の前へ列べ、
「これは小便のお酒のつもりよ。―――さあお前さん、一つ召し上がれ」
と、白酒の中へ痰や唾吐を吐き込んで二人にすゝめる。
「おゝおいしい、おゝおいしい」
と舌鼓を打ちながら、私も仙吉も旨そうに片端から残らず喰べてしまったが、白酒と豆炒とは変に塩からい味がした。
「これからあたしが三味線を弾いて上げるから、二人お皿を冠って踊るんだよ」
光子がはたき[#「はたき」に傍点]を三味線の代りにして「こりゃ/\」と唄い始めると、二人は菓子皿を頭へ載せて、「よい来た、よいやさ」と足拍子を取って踊り出した。
其処へやって来た侍の信一が、忽ち狐の正体を見届ける。
「獣の癖に人間を欺すなどゝは不届きな奴だ。ふん縛って殺して了うからそう思え」
「あれッ、信ちゃん乱暴な事をすると聴かないよ」
勝気な光子は負けるが嫌さに信一と取っ組み合い、お転婆の本性を現わして強情にも中々降参しない。
「仙吉、この狐を縛るんだからお前の帯をお貸し。そうして暴れないように二人で此奴の足を抑えて居ろ」
私は此の間見た草双紙の中の、旗本の若侍が仲間と力を協わせて美人を掠奪する挿絵の事を想い泛かべながら、仙吉と一緒に友禅の裾模様の上から二本の脚をしっかりと抱きかゝえた。其の間に信一は辛うじて光子を後手に縛り上げ、漸く縁側の欄干に括り着ける。
「栄ちゃん、此奴の帯を解いて猿轡を篏めておやり」
「よし来た」
と、私は早速光子の後に廻って鬱金れのした頬の肉へ喰い入り、光子は金閣寺の雪姫のように身を悶えて苦しんで居る。
「さあ今度はあべこべに貴様を糞攻めにしてやるぞ」
信一が餅菓子を手当り次第に口へ啣っかきのように、二た目と見られない姿になって行く面白さ。私も仙吉もとう/\釣り込まれて、
「こん畜生、よくも先己達に穢い物を喰わせやがったな」
こう云って信一と一緒にぺっ/\とやり出したが、其れも手緩くなって、しまいには額と云わず、頬と云わず、至る所へ喰いちぎった餅菓子を擦りつけて、餡ころを押し潰したり、大福の皮をなすりつけたり、またゝくうちに光子の顔を萬遍なく汚してしまった。目鼻も判らぬ真っ黒なのっぺらぽう[#「のっぺらぽう」に傍点]な怪物が唐人髷に結って、濃艶な振り袖姿をしている所は、さしずめ百物語か化物合戦記に出て来そうで、光子はもう抵抗する張合もなくなったと見え、何をされても大人しく死んだようになって居る。
「今度だけは命を助けてやる。此れから人間を化かしたりなんかすると殺して了うぞ」
間もなく信一が猿轡や縛しめを解いてやると、光子はふいと立ち上って、いきなり襖の外へ、廊下をばた/\と逃げて行った。
「坊ちゃん、お嬢さんは怒って云っつけに行ったんですぜ」
今更飛んでもない事をしたと云う風に、仙吉は心配らしく私と顔を見合わせる。
「なに云っつけたって構うもんか、女の癖に生意気だから、毎日喧嘩していじめてやるんだ」
信一が空嘯が一と際透き徹るように輝いて居る。
定めし又一と喧嘩持ち上るだろうと待ち構えて居ると、
「誰かに見つかるときまりが悪いから、そうッとお湯殿へ行って落して来たの。―――ほんとに皆乱暴だったらありゃしない」
と、光子は物柔かに恨みを列べるだけで、而もにこ/\笑って居る。
すると信一は図に乗って、
「今度は私四つ這いになって其れを喰べるのさ。ね、いゝだろ」
と云い出した。
「よし来た、やりましょう。―――さあ犬になりましたよ。わん、わん、わん」
早速仙吉は四つ這いになって、座敷中を威勢よく駈け廻る。其の尾について又私が駈け出すと光子も何と思ったか、
「あたしは雌犬よ」
と、私達の中へわり込んで来て、其処ら中を這い廻った。
「ほら、ちん/\。………お預け/\」
などゝ三人は勝手な藝をやらせられた揚句、
「よウし!」
と云われゝば、先を争ってお菓子のある方へ跳び込んで行く。
「あゝ好い事がある。待て、待て」
こう云って信一は座敷を出て行ったが、間もなく緋縮緬のちゃんちゃん[#「ちゃんちゃん」に傍点]を着た本当の狆の上へ折り重なり、歯をむき出し舌を伸ばして、一つ餅菓子を喰い合ったり、どうかするとお互に鼻の頭を舐め合ったりした。
お菓子を平げて了った狆は、信一の指の先や足の裏をぺろ/\やり出す。三人も負けない気になって其の真似を始める。
「あゝ擽ぐったい、擽ぐったい」
と、信一は欄干に腰をかけて、真っ白な柔かい足の裏を迭る/″\私達の鼻先へつき出した。
「人間の足は塩辛い酸っぱい味がするものだ。綺麗な人は、足の指の爪の恰好まで綺麗に出来て居る」
こんな事を考えながら私は一生懸命五本の指の股をしゃぶった。
狆はます/\じゃれつき出して仰向きに倒れて四つ足を虚空に踊らせ、裾を咬えてはぐい/\引っ張るので、信一も面白がって足で顔を撫でゝやったり、腹を揉んでやったり、いろ/\な事をする。私も其の真似をして裾を引っ張ると、信一の足の裏は、狆と同じように頬を蹈んだり額を撫でたりしてくれたが、眼球の上を踵で押された時と、土蹈まずで唇を塞がれた時は少し苦しかった。
そんな事をして、其の日も夕方まで遊んで帰ったが、明くる日からは毎日のように塙の家を訪ね、いつも授業を終えるのが待ち遠しい位になって、明けても暮れても信一や光子の顔は頭の中を去らなかった。漸く馴れるに随って信一の我が儘は益※[#二の字点、1-2-22]つのり、私も全く仙吉同様に手下にされ、遊べば必ず打たれたり縛られたりする。おかしな事にはあの強情な姉までが、狐退治以来すっかり降参して、信一ばかりか私や仙吉にも逆うような事はなく、時々三人の側へやって来ては、
「狐ごっこをしないか」
などゝ、却っていじめられるのを喜ぶような素振りさえ見え出した。
信一は日曜の度毎に浅草や人形町の玩具屋へ行って鎧刀を買って来ては、早速其れを振り廻すので、光子も私も仙吉も体に痣の絶えた時はない。追い/\と芝居の種も盡きて来て、例の物置小屋だの湯殿だの裏庭の方を舞台に、いろ/\の趣向を凝らしては乱暴な遊びに耽った。私と仙吉が光子を縊め殺して金を盗むと、信一が姉さんの仇と云って二人を殺して首を斬り落したり、信一と私と二人の悪漢がお嬢様の光子と郎党の仙吉を毒殺して、屍体を河へ投げ込んだり、いつも一番いやな役廻りになって非道い目に合わされたのは光子である。しまいには紅や絵の具を体へ塗り、殺された者は血だらけになってのた[#「のた」に傍点]打ち廻ったが、どうかすると信一は本物の小刀を持って来て、
「此れで少うし切らせないか。ね、ちょいと、ぽっちりだからそんなに痛かないよ」
こんな事を云うようになった。すると三人は素直に足の下へ組み敷かれて、
「そんなに非道く切っちゃ嫌だよ」
と、まるで手術でも受けるようにじっと我慢しながら、其の癖恐ろしそうに傷口から流れ出る血の色を眺め、眼に一杯涙ぐんで肩や膝のあたりを少し切らせる。私は家へ帰って毎晩母と一緒に風呂へ這入る時、其の傷痕を見付けられないようにするのが一と通りの苦労ではなかった。
そう云う風な遊びが凡そ一と月も続いた或る日のこと、例の如く塙の家へ行って見ると、信一は歯医者へ行って留守だとかで、仙吉が一人手持無沙汰でぽつ然としている。
「光ちゃんは?」
「今ピアノのお稽古をして居るよ。お嬢さんの居る西洋館の方へ行って見ようか」
こう云って仙吉は私をあの大木の木蔭の古沼の方へ連れて行った。忽ち私は何も彼も忘れて、年経る欅の根方に腰を下したまゝ、二階の窓から洩れて来る楽の響きにうっとりと耳を澄ました。
此の屋敷を始めて訪れた日に、やはり古沼の滸共が多勢揃って踊るような、幾千の細かい想像の綾糸で、幼い頭へ微妙な夢を織り込んで行く不思議な響きは、今日もあの時と同じように二階の窓から聞えて居る。
「仙ちゃん、お前も彼処へ上った事はないのかい」
奏楽の止んだ時、私は又止み難い好奇心に充たされて仙吉に尋ねた。
「あゝ、お嬢さんと掃除番の寅さんの外は、あんまり上らないんだよ。己ばかりか坊ちゃんだって知りゃしないぜ」
「中はどんなになって居るんだろう」
「何でも坊ちゃんのお父様が洋行して買って来たいろんな珍らしい物があるんだって。いつか寅さんに内證で見せてくれって云ったら、いけないってどうしても聞かなかった。―――もうお稽古が済んだんだぜ。栄ちゃん、お前お嬢さんを呼んで見ないか」
二人は声を揃えて、
「光ちゃん、お遊びな」
「お嬢さん、遊びませんか」
と、二階の方へ怒鳴って見たが、ひっそりとして返辞はない。今迄聞えて居たあの音楽は、人なき部屋にピアノとやらが自然に動いて、微妙な響きを発したのかとも怪しまれる。
「仕方がないから、二人で遊ぼう」
私も仙吉一人が相手では、いつものようにも騒がれず、張合いが抜けて立ち上ると、不意ににうしろでげら/\と笑い声が聞え、光子がいつの間にか其処へ来て立って居る。
「今私達が呼んだのに、何故返辞しなかったんだい」
私は振り返って詰るような眼つきをした。
「何処であたしを呼んだの」
「お前が今西洋館でお稽古をしてる時に、下から声をかけたのが聞えなかったかい」
「あたし西洋館なんかに居やあしないよ。彼処へは誰も上れないんだもの」
「だって、今ピアノを弾いて居たじゃないか」
「知らないわ、誰か他の人だわ」
仙吉は始終の様子を胡散臭い顔をして見て居たが、
「お嬢さん、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]をついたって知ってますよ。ね、栄ちゃんと私を彼処へ内證で連れて行って下さいな。又強情を張って※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]をつくんですか、白状しないと斯うしますよ」
と、にや/\底気味悪く笑いながら、早速光子の手頸をじり/\と捻じ上げにかゝる。
「あれ仙吉、後生だから堪忍しておくれよう。※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]じゃないんだってばさあ」
光子は拝むような素振りをしたが、別段大声を揚げるでも逃げようとするでもなく為すが儘に手を捻じられて身悶えして居る。きゃしゃな腕の青白い肌が、頑丈な鉄のような指先にむずと掴まれて、二人の少年の血色の快い対照は、私の心を誘うようにするので、
「光ちゃん、白状しないと拷問にかけるよ」
こう云って、私も片方を捻じ上げ、扱帯を解いて沼の側の樫の幹へ縛りつけ、
「さあ此れでもか、此れでもか」
と、二人は相変らず抓ったり擽ぐったり、夢中になって折檻した。
「お嬢さん。今に坊ちゃんが帰って来ると、もっと非道い目に会いますぜ。今の内に早く白状しておしまいなさい」
仙吉は光子の胸ぐらを取って、両手でぐっと喉を縊めつけ、
「ほら、だん/\苦しくなって来ますよ」
こう云いながら、光子が眼を白黒させて居るのを笑って見て居たが、やがて今度は木から解いて地面に仰向きに突倒し、
「へえ、此れは人間の縁台でございます!」
と、私は膝の上、仙吉は顔の上へドシリと腰をかけ、彼方此方へ身を揺す振りながら光子の体を臀で蹈んだり壓したりした。
「仙吉、もう白状するから堪忍しておくれよう」
光子は仙吉の臀に口を塞がれ、虫の息のような細い声で憐れみを乞うた。
「そんなら屹度白状しますね。やっぱり先は西洋館に居たんでしょう」
臀を擡げて少し手を緩めながら、仙吉が訊問する。
「あゝ、お前が又連れて行けって云うだろうと思って※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]をついたの。だってお前達をつれて行くと、お母さんに叱られるんだもの」
聞くと仙吉は眼を瞋らして威嚇するように、
「よござんす、連れて行かないんなら。そら、又苦しくなりますよ」
「あいた、あいた。そんなら連れて行くよ。連れてって上げるからもう堪忍しておくれよ。其の代り晝間だと見付かるから晩にしてお呉んな。ね、そうすればそうッと寅造の部屋から鍵を持って来て開けて上げるから、ね、栄ちゃんも行きたければ晩に遊びに来ないか」
とう/\降参し出したので、二人は尚も地面へ抑えつけた儘、色々と晩の手筈を相談した。丁度四月五日のことで、私は水天宮の縁日へ行くと詐って家を跳び出し、暗くなった時分に表門から西洋館の玄関へ忍び込み、光子が鍵を盗んで仙吉と一緒にやって来るのを待ち合わせる。但し私が時刻に遅れるようであったら、二人は一と足先に這入って、二階の階段を昇り切った所から二つ目の右側の部屋に待って居る、と、斯う云う約束になった。
「よし、そうきまったら赦して上げます。さあお起きなさい」
と、仙吉は漸くの事で手を放した。
「あゝ苦しかった。仙吉に腰をかけられたら、まるで息が出来ないんだもの。頭の下に大きな石があって痛かったわ」
着物の埃を拂って起き上った光子は、体の節々を揉んで、上気せたように頬や眼球を真紅にして居る。
「だが一体二階にはどんな物があるんだい」
一旦家へ帰るとなって、別れる時私はこう尋ねた。
「栄ちゃん、吃驚しちゃいけないよ。其りゃ面白いものが沢山あるんだから」
こう云って、光子は笑いながら奥へ駈け込んで了った。
戸外へ出ると、もうそろ/\人形町通りの露店にかんてら[#「かんてら」に傍点]がともされて、撃剣の見せ物の法螺の貝がぶう/\と夕暮れの空に鳴り渡り、有馬様のお屋敷前は黒山のように人だかりがして、売薬屋が女の胎内を見せた人形を指しながら、何か頻りと声高に説明して居る。いつも楽しみにして居る七十五座のお神楽も、永井兵助の居合い抜きも今日は一向見る気にならず、急いで家へ帰ってお湯へ這入り、晩飯もそこ/\に、
「縁日に行って来るよ」
と、再び飛び出したのは大方七時近くであったろう。水のように湿んでいる。
いつか私は塙の家の前に立って、山のように黒く聳えた高い甍を見上げていた。大橋の方から肌寒い風がしめやかに闇を運んで吹いて来て、例の欅の大木の葉が何処やら知れぬ空の中途でばさら/\と鳴って居る。そうッと塀の中を覗いて見ると門番の部屋のあかりが戸の隙間から縦に細長い線を成して洩れて居るばかり。母屋の方はすっかり雨戸がしまって、曇天の背景に魔者の如く森閑と眠って居る。表門の横にある通用口の、冷めたい鉄格子へ両手をかけて暗闇の中へ押し込むようにすると、重い扉がキーと軋んで素直に動く。私は雪駄がちゃらつかぬように足音を忍ばせ、自分で自分の忙しい呼吸や高まった鼓動の響きを聞きながら、闇中に光って居る西洋館の硝子戸を見つめて歩いて行った。
次第々々に眼が見えるようになった。八つ手の葉や、欅の枝や、春日燈籠えさすような姿勢を取った黒い物が、小さい瞳の中へ暴れ込んで来るので、私は御影の石段に腰を下し、しん/\と夜気のしみ入る中に首をうなだれた儘、息を殺して待って居たが、いっかな二人はやって来ない。頭上へ蓋さって来るような恐怖が体中をぶる/\顫わせて、歯の根ががく/\わなゝいて居る。あゝ、こんな恐ろしい所へ来なければ好かった、と思いながら、
「神様、私は悪い事を致しました。もう決してお母様に※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]をついたり、内證で人の家へ這入ったり致しません」
と、夢中で口走って手を合わせた。
すっかり後悔して、帰る事にきめて立ち上ったが、ふと玄関の硝子障子の扉の向うに、ぽつりと一点小さな蝋燭の灯らしいものが見えた。
「おや、二人共先へ這入ったのかな」
こう思うと、忽ち又好奇心の奴隷となって、殆ど前後の分別もなく把手へ手をかけ、グルッと廻すと造作もなく開いて了った。
中へ這入ると、推測に違わず正面の螺旋階に、―――大方光子が私の為めに置いて行ったものであろう。半ば燃え盡きて蝋がとろ/\流れ出して居る手燭が、三尺四方へ覚束ない光を投げて居たが、私と一緒に外から空気が流れ込むと、炎がゆら/\と瞬いて、ワニス塗りの欄干の影がぶる/\動揺して居る。
固唾を呑んで抜き足さし足、盗賊のように螺旋階を上り切ったが、二階の廊下はます/\真っ暗で、人の居そうなけはいもなく、カタリとも音がしない。例の約束をした二つ目の右側の扉、―――それへ手捜りで擦り寄ってじっと耳を欹てゝ見ても、矢張ひッそりと静まり返って居る。半ばゝ恐怖、半ばゝ好奇の情に充たされて、まゝよと思いながら私は上半身を靠せかけ、扉をグッと押して見た。
ぱっと明るい光線が一時に瞳を刺したので、クラクラしながら眼をしばたゝき、妖怪の正体を見定めるように注意深く四壁を見廻したが誰も居ない。中央に吊るされた大ランプの、五色のプリズムで飾られた蝦色の傘の影が、部屋の上半部を薄暗くして、金銀を鏤めた椅子だの卓子だの鏡だのいろ/\の装飾物が燦然と輝き、床に敷き詰めた暗紅色の敷物の柔かさは、春草の野を蹈むように足袋を隔てゝ私の足の裏を喜ばせる。
「光ちゃん」
と呼んで見ようとしても死滅したような四辺と垂れ下がって居る。
ぼんやりと立って居る私の瞳は、左側の壁間に掛けられた油絵の肖像畫の上に落ちて、うか/\と其の額へ水をかけられたように寒くなり、真っ蒼な顔をして死んだように立ち竦んでしまった。すると緞子の帷の皺の間から、油絵に畫いてある通りの乙女の顔が、又一つヌッと現れた。
顔は暫くにや/\と笑って居たが、緞子の帷が二つに割れてする/\と肩をすべって背後で一つになって了うと、女の子は全身を現わして其処に立って居る。
纔かに膝頭に届いて居る短いお納戸と緊めつけた衣の下にはしなやかな筋肉の微動するのが見えて居る。
「栄ちゃん」
と、牡丹の花弁を啣んだような紅い唇をふるわせた一刹那、私は始めて、彼の油絵が光子の肖像畫である事に気が付いた。
「………先刻からお前の来るのを待って居たんだよ」
こう云って、光子は脅やかすようにじり/\側へ歩み寄った。何とも云えぬ甘い香が私の心を擽ぐって眼の前に紅い霞がちら/\する。
「光ちゃん一人なの?」
私は救いを求めるような声で、おず/\尋ねた。何故今夜に限って洋服を着て居るのか、真っ暗な隣りの部屋には何があるのか、まだいろ/\聞いて見たい事はあっても喉佛につかえて居て容易に口へは出て来ない。
「仙吉に会わせて上げるから、あたしと一緒に此方へおいでな」
光子に手頸を把られて、俄かにガタガタ顫え出しながら、
「あの蛇は本当に動いて居るんじゃないか知ら」
と、気懸りで堪らなくなって私は尋ねた。
「動いて居やしないじゃないか。あれ御覧な」
こう云って光子はにや/\笑って居る。成る程そう云われて見れば、先は確かに動いて居たあの蛇が、今はじっととぐろを巻いて少しも姿勢を崩さない。
「そんなものを見て居ないで、あたしと一緒に此方へおいでよ」
暖かく柔かな光子の掌を捕えて、薄気味の悪い部屋の方へずる/\と引っ張って行き、忽ち二人の体は重い緞子の帷の中へめり[#「めり」に傍点]込んだかと思う間もなく、真っ暗な部屋の中に這入って了った。
「栄ちゃん、仙吉に会わせて上げようか」
「あゝ、何処に居るのだい」
「今蝋燭をつけると判るから待っておいで。―――それよりお前に面白いものを見せて上げよう」
光子は私の手頸を放して、何処かへ消え失せて了ったが、やがて部屋の正面の暗い闇にピシピシと凄じい音を立てゝ、細い青白い光の糸が無数に飛びちがい、流星のように走ったり、波のようにのたくっ[#「のたくっ」に傍点]たり、圓を畫いたり、十文字を畫いたりし始めた。
「ね、面白いだろ。何でも書けるんだよ」
こう云う声がして、光子は又私の傍へ歩いて来た様子である。今迄見えて居た光の糸はだん/\に薄らいで暗に消えかゝって居る。
「あれは何?」
「舶来ったのさ。暗闇なら何を擦っても火が出るんだよ。栄ちゃんの着物を擦って見ようか」
「お止しよ、あぶないから」
私は吃驚して逃げようとする。
「大丈夫だよ、ね、ほら御覧」
と、光子は無造作に私の着物の上ん前を引っ張って燐寸を擦ると、絹の上を蛍が這うように青い光がぎらぎらして、ハギハラと片仮名の文字が鮮明に描き出された儘、暫くは消えずに居る。
「さあ、あかりを付けて仙吉に会わせて上げようね」
ピシッと鑽火を打つように火花が散って、光子の手から蝋燐寸が燃え上ると、やがて部屋の中程にある燭台に火が移された。
西洋蝋燭の光は、朦朧と室内を照して、さま/″\の器物や置物の黒い影が、魑魅魍魎するような姿を、四方の壁へ長く大きく映して居る。
「ほら仙吉は此処に居るよ」
こう云って、光子は蝋燭の下を指さした。見ると燭台だと思ったのは、仙吉が手足を縛られて両肌を脱ぎ、額へ蝋燭を載せて仰向いて坐って居るのである。顔と云わず頭と云わず、鳥の糞のように溶け出した蝋の流れは、両眼を縫い、唇を塞いで頤の先からぼた/\と膝の上に落ち、七分通り燃え盡した蝋燭の火に今や睫毛しく端然と控えて居る。
光子と私が其の前に立ち止まると、仙吉は何と思ったか蝋で強張った顔の筋肉をもぐ/\と動かし、漸く半眼を開いて怨めしそうにじッと私の方を睨んだ。そうして重苦しい切ない声で厳かに喋り出した。
「おい、お前も己も不断あんまりお嬢様をいじめたものだから、今夜は仇って了わないと、非道い目に会わされる。………」
こう云う間も蝋の流れは遠慮なくだら/\と蚯蚓の這うように額から睫毛へ伝わって来るので、再び仙吉は眼をつぶって固くなった。
「栄ちゃん、もう此れから信ちゃんの云う事なんぞ聴かないで、あたしの家来にならないか。いやだと云えば彼処にある人形のように、お前の体へ蛇を何匹でも巻き付かせるよ」
光子は始終底気味悪く笑いながら、金文字入りの洋書が一杯詰まって居る書棚の上の石膏の像を指さした。恐る/\額を上げて上眼づかいに薄暗い隅の方を見ると、筋骨逞しい裸体の巨漢が蟒に巻き付かれて凄じい形相をして居る彫刻の傍に、例の青大将が二三匹大人しくとぐろを巻いて、香炉のように控えて居るが、恐ろしさが先に立って本物とも贋物とも見極めが付かない。
「何でもあたしの云う通りになるだろうね」
「………」私は真っ蒼な顔をして、黙って頷いた。
「お前は先仙吉と一緒にあたしを縁台の代りにしたから、今度はお前が燭台の代りにおなり」
忽ち光子は私を後手に縛り上げて仙吉の傍へ胡坐を掻かせ、両足の踝を厳重に括って、
「蝋燭を落さないように仰向いておいでよ」
と、額の真中へあかりをともした。私は声も立てられず、一生懸命燈火を支えて切ない涙をぽろ/\こぼして居るうちに、涙よりも熱い蝋の流れが眉間のまたゝくのが見え、眼球の周囲がぼうッと紅く霞んで、光子の盛んな香水の匂いが雨のように顔へ降った。
「二人共じっとそうやって、もう少し我慢をしておいで。今面白いものを聞かせて上げるから」
こう云って、光子は何処かへ行って了ったが、暫くすると、不意にあたりの寂寞を破って、ひっそりとした隣の部屋から幽玄なピアノの響きが洩れて来た。
銀盤の上を玉あられの走るような、渓間の裏の明るい世界を視詰めてすわって居た。

其の明くる日から、私も仙吉も光子の前へ出ると猫のように大人しくなって跪き、たま/\信一が姉の言葉に逆おうとすると、忽ち取って抑えて、何の会釈におなり」と云えば直ちに畏まって口を開く。次第に光子は増長して三人を奴隷の如く追い使い、湯上りの爪を切らせたり、鼻の穴の掃除を命じたり、Urine を飲ませたり、始終私達を側へ侍らせて、長く此の国の女王となった。
西洋館へは其れ切り一度も行かなかった。彼の青大将は果して本物だか贋物だか、今考えて見てもよく判らない。

少年

2019年11月2日 発行 テスト版

著  者:谷崎 潤一郎
発  行:塵紺館

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