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スワンプガール

霞弥佳(著)
大里耕平(編)
mori(デザイナー)

ばらばらQP人形



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  この本はタチヨミ版です。

スワンプガール

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「ごきげんよう」
 おずおずとした妹尾せのお乙芽おとめの挨拶に、その女生徒は一瞬だけ紙面に落としていた視線を彼女に向けた。石造りの円形テーブルに置かれた両の手には、今となってはほとんど見かけなくなった紙の本。図書室の閉架棚を漁らなければ、お目に書かれないようなしろものだ。
 苔蒸した石畳が続く先には、繁茂した蔦によってモスグリーンに染め上げられたガゼボあずま屋が建っている。その八角形の屋根の下。痩身な乙芽よりもなお小柄な少女が、ガーデンチェアに腰を落としていた。
「ごきげんよう」 
 伏した目で乙芽の顔を捉えないまま、彼女は言った。
「また、おかしな夢の話でもしにきたわけ?」
「……お邪魔だった?」
「別に」
 言葉少なに梢は付け加えた。
「あんたを邪魔だと思ったこと、まだないし」

 学び舎の中庭の奥深く。薔薇の垣根の奥の奥。およそ生徒たちの愛用する端末に電波は届かず、最寄りの昇降口からも遠いこの場所にたむろす女生徒などまずいない。レジャーシートでランチタイムに興じる少女たちの声はもはや遠く、近隣の雑木林より百舌や鶯のさえずりが滑らかに聞こえてくる。手入れはあまりされていないらしい。外部の業者の剪定や清掃から取りこぼされ続けた結果の、荒れ放題の庭園がそこにはあった。
「姉帯さんは、いつもどうしてるの?」
 遠慮がちに彼女の横に座り込んだ乙芽は、いそいそと昼食の支度をし始める。手製の弁当をランチクロスの上に広げると、おもむろに乙芽は白米の上で手を合わせた。
「どうって?」
「お昼ご飯。食堂でも購買でも、見かけたことないし」
 乙芽のやや上擦った問いかけに、姉帯あねたいこずえは鞄からピルケースを取り出し、シャカシャカと振ってみせた。
「こいつで十分。食べる時間もったいない」
「はあ」
 サプリメントの一錠を口に放り、梢は続けた。
「別に、普通のごはんが嫌いってわけじゃないよ。あたしには、こっちの方が合ってるの。人より少し咀嚼そしゃくが好きじゃないだけ」
 その割に奥歯で錠剤をごりごり噛み砕くと、梢はそのまま嚥下えんかした。

 人呼んで、エニグマの君。合理主義の権化。硬派の首魁しゅかいとして、女生徒の間ではそんないい加減で大げさなあだ名で呼ばれていた。理系分野に類希なる才覚を有していて、反面浮ついた人付き合いを可能な限り避けて回るように振る舞っていた。そこから転じて、エニグマ。すなわち二世紀近くの過去に開発された物言わぬ暗号解読機という、名誉か不名誉か判別しがたい愛称が付けられていた。その人間嫌いで通る姉帯梢が、なぜ乙芽だけを跳ね除けず受け入れているのか。乙芽本人も、これだけはよくわかっていなかった。

 才色兼備にして眉目秀麗びもくしゅうれい濡羽色ぬればいろ艶髪あでがみは上品にくしを通されていて、きめ細やかに輝いている。世にも珍しい活字印刷を読み進める瞳の色は、またも希少なワインレッド。虹彩の代わりに備え付けられているフォーカスレンズの微弱な駆動音が、その眼球がインプラントの人工物であることを物語っていた。人形めいた白磁の肌は、木漏れ日を受けてそれ自体がうっすら白んだ光をたたえているようにも見えた。

 梢の整った顔の造形に目をやりつつ、乙芽は機械的に箸先の白米とおかずを口に運んでいた。
「あんたこそ大丈夫なの?」
「え?」
「先週のこと。垣根の裏でお弁当もどしちゃったの、忘れた訳じゃあないでしょ?」
「今日は大丈夫。たぶん」
 食べ物の好き嫌い。 
「食欲あるなら、いいけど」
 それ以上は聞くまいと、エニグマの君は所在なさげな乙芽への追求をやめた。

「でも、夢は見た。この前と同じ夢」
「知らない人の自殺の夢?」
 乙芽はしずかに首肯した。
「どこかの誰かに端末をクラックされてるわけでもなく?」
「寝るときはいつも電源を落とすし、コンタクトだって外すもの」
 言って、乙芽は自身の携帯端末を取り出した。網膜走査式のコンタクトレンズより、視界に投影されたコンソールを視線で操作する。セキュリティソフトの網にはマルウェアひとつかかっておらず、常駐ソフトが不具合を起こしているといったような痕跡もまた見あたらない。

「寝てる間にVRが起動して、テンパって枕元で吐いちゃうってのは聞いたことあるけど」
 乙芽の端末を手に、梢は言葉を続けた。
「少なくとも、あんたはそんな悪趣味な映像ファイルなんて持ってないんでしょう?」
 言わずもがな、乙芽はそうした性癖の持ち合わせはない。ローカルにもリモートにも、クラウドにも。
「それはもちろん、そうだけど」
「それじゃあどうしようもないよ。正真正銘単なる夢なんだとしたら、あたしがどうこうできる問題じゃないもの。あたしは医者じゃないし、ましてやエンジニアでもないんだからさ」
 乙芽から目を離すと、再び梢は紙面の活字に目を落とした。
「手持ちの端末になんにもないんだとしたら、疑うべきは機械じゃないんじゃないの?」
「機械じゃなくて?」
「そ」
 梢は左の人差し指をこめかみに指して言った。
「前にも言ったかと思うんだけど。自殺する夢っていうのは、あんまりネガティブな意味合いでは扱われないわけ。自死を一つのプロセスとみなして、新しく生まれ変わるための儀式と考えるのが通説なの」
 こういう夢占いってのも、前時代的であんまり好きじゃないんだけど。梢はそう付け加えたうえで言葉を次いだ。
「だいたい、死ぬほど痛い思いや苦しい経験をしたって、結局は夢の中の出来事なのよ。何が起こっても、あんたはあんた。夢の中のコンクリートが現実のマシュマロより硬いだなんてことは、絶対にありえないわ」
 曰く、前頭連合野の織りなす情報処理の残滓ざんし。そう梢は冷静に断じた。
「でも、こういう気休めに納得いかないから、わざわざあたしに聞いてるのよね」
「……まあ」
「それじゃあ……こんなうわさ知ってる?」
 文庫本を閉じ、やや愉しげな表情を浮かべて梢が言った。口元に微笑みを浮かべる彼女の顔は、もしかすると初めてかもしれなかった。
「臓器の記憶、ってやつ」
「……はあ」
どうにも梢の発言にぴんとこず、つい乙芽は気の抜けた声をあげた。

 束の間の浮遊感から、ドスンという轟音と共に聴覚が失われるのは、すぐのことだった。
高等部に進学してからこちら、幾度か目の飛び降り自殺を夢中で敢行させられた乙芽は、こみ上げる胃液の苦みを感じながら目を覚ました。頭がずきずき痛む、喉はけるようにからからだ。全力疾走の直後のように、四肢が満遍なく疲労しているようだった。
 寮の室内は、まだ藍色の帳に包まれていた。

 ベッド横のデスクに置いた携帯端末を手に取る。コンタクトレンズを外しているので、画面の表示を伺い知るのにややもたついた。時刻は午前三時五十八分。この時刻表示を目の当たりにするのも、もはや何度目かわからなかった。
 気怠い体に鞭打って、乙芽はバスルームの洗面台に向かった。
 血の気のない青白い顔が、そこにはあった。一杯の水を飲むと、それが文字通りの呼び水となって嘔吐した。消化されかかった弁当の内容が、びたびた洗面台に流れ落ちた。
「あんな記憶……私のじゃない」

 昼の梢の言葉を思い出す。
 臓器の記憶、つまり他者の身体器官や血液を体内へ取り入れることで、その人物の嗜好や経験が移植者に継承されるといった現象を指した物言いであった。早い話が、生体ドナーが受給者の体内で死してなお息づいているといった、オカルト的与太話といってもよい。臓器提供者と移植者が直接面識を持つケースなど皆無に近いだろうし、信憑性に欠ける。
 乙芽には他者から移植を受けた覚えなどどこにもない。輸血に関したって同様である。幸いなことに、夢の中以外で重篤な外傷を負ったことはないのだから。
 同じことを梢にも話したのだが、彼女はあろうことか「覚えていないだけじゃないの」などとのたまうのもので、余計に不安をあおられてしまった。仮に他人の臓器が体内で活動しているとして、それではありもしない夢を無理やり脳に見せつける器官など存在するのだろうか。
そんな疑問に対して、梢はけろりと言い放った。
「ノーミソとか」

 ばかばかしい。梢なりの悪辣なジョークであることは、火を見るよりも明らかだった。
 二十一世紀が折り返しを経てから十数年が過ぎた今日び、サイバネティクスの飛躍的な発展は、臓器移植や各種インプラントの普及を爆発的に後押ししていることは確かである。腱鞘炎からの解放を願ったITエンジニアやライティング業従事者が、肘から先を義腕に置き換えるなどは茶飯事だし、中高生ですら手の届きうる価格帯を提示するようになった整形外科医療などに至っては、動画サイトの広告に広く宣伝を構えている。こうした状況になってなお、記憶の転移なる現象というのはネット掲示板やSNS上の与太話にしかすぎず、明確なエビデンスの存在しない空論に他ならなかった。
「脳の、移植……」
 鏡の中の自分の額に、乙芽は指先を触れた。
 医療の分野に対して明るくはないが、脳移植が今なお困難と禁忌を伴う行為であることくらいは理解していた。現在の技術をもってしても、生物の脳をおいそれと取って外して元に戻すといった行為に有用性は認められていない、というわけだ。
 もちろん本気で梢がそんなことを口にしたとは思えないが、あの学年いち情報技術に精通しているといっても過言ではないエニグマの君がそう言ったとなると、いよいよもって乙芽には奇妙な悪夢に対して為すすべがなくなってしまう。
 頭の痛みが、なんだか増してきた気がする。出しっぱなしの蛇口の水を手で掬い、勢いよく乙芽は冷水を顔に浴びせかけた。
 刺すような冷たさを、確かに感じた。
 再びコップに水を注ぎ、口に含んでみる。うまくもないしまずくもない、飲用可能な日本の水道水。この味、このにおい、この冷たさ、いずれもはっきり感じ取ることができている。
 目の前に写り込む鏡像。仮に、この乙芽の脳が他人のものだとしたら、乙芽自身の脳は一体どこにあるというのだろう。
 水道水の味や温度、嘔吐の不快感、いずれもこれを知覚しているのは、こことは別に隔離された脳であって、この眼球の奥にある脳は別のことを思案しているのではないだろうか。例えば、次は趣向を変えて首吊り自殺の夢でも見せてやろう、だとか。
 梢は自殺の夢について、こう語っていた。自分の身体を死に至らしめることで、新たな生命の誕生を暗示させているのだと。
 夢の中で自殺を何度も味わっている乙芽には、自分が新たな命を得るなどということに実感がわかなかった。仮に新たに生まれるとしたら、自分ではない何者かが、この頭蓋の奥で産声を上げるのだろう。この肉体を制圧した何者かは、果たして用済みとなった元の持ち主をのうのうと生かしておくだろうか。
 根拠のない妄想劇場を延々と続けていることに、乙芽は我ながら情けなくなった。皮肉っぽく鏡の前で自嘲し、歯磨きとうがいもそこそこに、いそいそと寝所へと戻ることにした。



  タチヨミ版はここまでとなります。


スワンプガール

2019年11月3日 発行 初版

著  者:霞弥佳
発  行:ばらばらQP人形

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霞弥佳

難産でしたが母子ともに無事です。本当にありがとうございました。

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