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「復讐する女」「妻という女」「紅い雨傘の女」「歳上の女」「三十路の女」「よろめいた女」「裏切る女」「泣いた女」  ・・・よろめき、過ち、軽挙、盲動、裏切り、復讐、堪忍、愛・・・八人の女の危なげな愛と性の彩物語
 

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危うい八人の女達

齊官英雄

啓英社



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次

第一話 復讐する女

第二話 妻という女

第三話 紅い雨傘の女

第四話 歳上の女

第五話 三十路の女

第六話 よろめいた女

第七話 裏切る女

第八話 泣いた女

 第一話 復讐する女

          (一)

 柏木吾郎が初めて紗友里に逢ったのはバー「圭」のカウンターであった。「圭」は四条花見小路に在る小料理屋「むらさわ」の一階に店を出すバーで、「むらさわ」で飲食した客達が女っ気を求めて流れる二次会で、階下へ降りれば、他所へ出向かずとも、直ぐに酒と女に出逢える仕掛けだった。
 吾郎は医者になって五年目の二十九歳で、彼はK大学医学部の整形外科を卒業すると同時に母校の医局に入った。吾郎には三歳年下の婚約者が居るが、二人の肉体関係は既に熟れていた。彼女は教授の娘で挙式までには未だ半年足らずの期間が在った。
 その夜、吾郎は八時半ごろまで医局で仕事をして「圭」に着いたのは九時を少し回っていた。丁度、宵の口からの客が退けたところで、十人ほどが座れるカウンターは半ば近くが空いていた。彼は入って直ぐのカウンターに座った。其処は入口に近く、客の出入りの度に扉が開け閉てして落ち着かず、客のあまり坐らない席だった。
「先生、どうぞ此方へ」
吾郎を認めて、ママは真中の席へ誘った。
「いや、ちょっと一杯の心算で寄っただけだから、此処で良いよ」
実際、その日、吾郎には、学会へ提出する論文の文献を読む仕事が未だ残っていた。
「まあ、良いじゃありませんか・・・」
「どうせまた客が来るだろうから此処に居るよ。ビールを貰おうか」
「はい、おビールですね」
ママは奥に注文を通し、栓を抜いたビールを受け取ってから吾郎の前に来た。
「それにしても随分お久し振りね、ほぼ一月振りよ」
「うん、このところ学会への準備で忙しかったんだ」
「何処かに良い娘でも出来たんじゃありませんか?」
「いやいや、そんなんじゃ無いよ」
「そうそう、うちにも良い娘が入ったんですよ」
そう言うとママはカウンターの奥へ向かって声を懸けた。
「紗友里ちゃん・・・紗友里ちゃん・・・」
その日、紗友里は白いブラウスに縞のカーディガンを着ていた。
「先生、初めてでしょう?」
「そうだな」
「今度入った紗友里ちゃん。こちら、柏木先生よ」
吾郎が見上げると紗友里は軽く頭を下げた。
背丈はママとあまり違わないからそう大柄ではない。顔は面長で整っているが、一重の目蓋とヘアピンがどこか投げ遣りな感じを与えた。
「何か召し上がりますか?」
「サザエの壺焼きでも貰おうか」
「承知しました」
ママは注文を調理場へ通してから、紗友里に「お注ぎして」と言ってカウンターの奥へ移って行った。
吾郎はお通しに出たイカの真砂和えに箸をつけながら、紗友里を見ていた。
紗友里は思い出したように時たまビールを注いだが、後は何も言わず、ただ吾郎の前に突っ立っているだけだった。
二十五、六歳か、それとも七、八歳かな?・・・
吾郎は女の年齢を考えたが、自信は無かった。ビールを注ぐ時は二十三、四歳に見えたが、黙っている時にはもう少し歳高に見えた。
サザエの壺焼きが出て来て、カウンターの上に置かれてから、彼は初めて紗友里に声を懸けた。
「君は此処へ来る前は何処かに居たの?」
「ええ」
「何処?」
「それは、ちょっと・・・」
紗友里の声は抑揚が無く、答は不要領だった。
「此処は気に入っているの?」
紗友里は答えずに首だけを傾げた。あまり喋りたくない様子だった。
こんな客商売の店には不似合いの無愛想な女だな・・・
吾郎はそう思ったが、妙に心に引っ掛かるものが在った。放って置くと何をしでかすか解らないような不安定な処が見受けられた。
 この予感は当たった。
それから五日ほど経って「圭」へ行ってみると、紗友里の姿は無かった。
「この前の、ちょっと変わった娘はどうしたの?」
ママが来ると、吾郎は直ぐに訊ねた。
「二日前に辞めました」
「辞めた?で、何処かへ移ったの?」
「やはりバーのようです」
「それにしても、早いもんだな・・・然し、彼女は水商売には向かんと思うよ」
吾郎は紗友里の無表情な顔を想い出した。
「兎に角、変わった女だった」
「先生のことを訊いていましたよ」
「俺のことを?」
「何処に勤めているのか、って」
「へえ~、何故だろう?・・・」
「先生、誘ったんじゃないんですか?」
「冗談じゃ無い。三十分ほど向かい合っていただけだよ」
「あの娘は止した方が良いわ」
「そんな気持ちは全く無いよ。第一、もうこの店には居ないじゃないか」
「それもそうね」
そのまま吾郎は紗友里のことを忘れた。

          (二)

 紗友里から吾郎に電話が架かって来たのは、それから三カ月が経った三月の末だった。
学会を半月後に控えて、吾郎はその時、医局で教授や助教、先輩医師や局員たちと論文の最終的な打ち合わせをしていた。
「柏木先生、お電話です」
若い医局員に呼ばれた時、吾郎は露骨に眉を顰めた。
論文の纏め方について教授が直截に話をしていた。若い担当者である吾郎が中座して立ち上がるのは如何にも失礼に思えた。
「今、会議中だから・・・」
吾郎が言いかけた時、教授が話を止めて言った。
「まあ、良いから、出給え」
「済みません」
吾郎は一礼して席を立った。
「もしもし・・・」
直ぐに受話器から声が返って来た。
「柏木先生?あたし、判る?」
「えっ?」
「紗友里です、“圭”に居た・・・」
「あ、あぁ・・・」
紗友里?と言いかけて彼は危うく声を吞み込んだ。教授以下、全医局員が打ち合わせを中断して彼が電話を終わるのを待って居た。
「何だ?」
「あたし、今週から木屋町の“キング”って言うバーに勤めているの」
「今、会議中で忙しいんだ」
彼は殊更に無愛想に言った。
「そう、じゃ、電話番号だけ教えとくね」
「二七三の一六二一よ」
紗友里は番号を二度繰り返した。
「分かった?」
「二七三の一六二一ですね」
彼は他人行儀に言ってその番号を手帳に書き留めた。
「じゃ、またね」
電話はそれで切れた。
吾郎は席に戻って教授に頭を下げた。
「失礼しました」
教授は軽く頷いてから話を再開した。
 論文のテーマは変形性股関節症だった。変形性股関節症は股関節を形作っている大腿骨の頭とそれを支えている骨盤の臼状の骨との間の噛み合わせが悪くなる病気である。言い換えると、球とそれを包んでいる臼の蝶番の適合が狂う訳である。
教授が改めて説明した。
「君たちも十分承知しているだろうが、原因は色々在るけれども、一番多いのは先天性股関節脱臼である。他に、股関節の外傷性脱臼や、骨盤骨折の後遺症などでも股関節の狂いが生じて同じ症状が出て来る。これらに対する治療法は手術以外には無いが、その手術法は大きく分けて次の二つが考えられている」
 第一の手法には「大腿骨切り術」と言うのがある。これは大腿骨の骨頭の少し下の部分を切って、斜めに押し広げる方法である。この手術をすると、躰の支点が内側に移動して傷んだ股関節に直接負担がかからなくなり、痛みが軽くなる。然も、股関節そのものにメスを加えないので関節の動きを損なうことも無い。
教授が続けた。
「然し、これにも欠点はある。骨を切り曲げて躰の支点を移動させても、正常でない処で支えて居る訳だから、四、五年もすると新しい支点にまた痛みが出てくる惧れがある。その意味では完全な手術法とは言い難い」
 これに対して、別にもう一つ、「股関節固定術」と言うのが在る。文字通り、股関節を動かさないように、骨盤と大腿骨を繋いで固定してしまう方法である。股関節に痛みが出るのは、其処が動いて関節の周りの神経を刺激するからであり、動かなくしてしまえば痛みが無くなるのは当然のことである。然し、反面、関節が動かないと言う欠点も避けられない。
若い女医が手を挙げて質問した。
「先生、固定術の術後は、脚は開くのでしょうか?」
教授が答える前に助教授が答えた。
「股関節を動かないように固定する訳だから、股は開かないでしょう」
「やっぱり・・・」
他の出席者たちは、何を当たり前のことを聞いているんだ?当然のことだろう、という表情で女医の顔を見た。
別の若い医局員が教授に訊ねた。
「骨切り術と固定術と何方の方法を採るか、現場の医師は迷うと思うんですが、何か目安となるものは有るのでしょうか?例えば性別で区分判断をするとか・・・」
教授が答えた。
「そうだね、大体の目安は有るね。変形性股関節症のうち、痛みや爬行の強い割には動きの良いもの、又は、症状の比較的軽いもの、或いは、女性、特に未婚者に対しては骨切り術を行い、これに対して、症状が重く関節の動きの悪いもので、男性、特に物を担いだりする肉体労働者に対しては関節固定術を施す。そういう目安が有る訳だよ」
そして、柏木の所属する教室では、この関節固定術を以前から積極的に行って来たのだった。

          (三)

 病院の正門を出て煌めくネオンを見た時、吾郎は紗友里からの電話を想い出した。
時刻は既に九時を回っていた。紗友里とはバー「圭」で一度遇ったきりだが、どこか投げ遣りな印象ははっきり覚えていた。吾郎は迷ったが、取り敢えず電話だけ架けてみよう、と手帳を開いてスマホをプッシュした。
紗友里は直ぐに電話口に出た。
「あら、先生、お仕事終わりましたの?」
「うん、まあね」
「じゃ、今からいらして、直ぐに分りますから。あたし、凄くお逢いしたかったんです、先生に」
声の調子は「圭」に居た時の紗友里からは想像もつかなかった。変われば変わるものだ、と思いながらも吾郎は悪い気はしなかった。
 彼は、その夜、十時頃に紗友里の居る「キング」を訪れた。店は木屋町五条を下がった地下の一階に在った。入ると、右手にカウンターが在り、左手にボックス席が五つほど並んでいた。カウンターもボックス席も半数ほどが客で埋まっていた。
 紗友里は名前こそ「圭」に居た時と同じだったが、外見はすっかり変わっていた。一重の目蓋には濃いアイシャドウとつけ睫毛が施され、赤い縞のミニドレスを着て、言われなければ、紗友里だとは気付かぬほどの変わりようだった。
案内されたボックス席に坐ると、直ぐに、吾郎は紗友里に訊ねた。
「君は何故、俺に電話を架けて来たんだ?」
「“圭”でお逢いした時から目を付けていたんです」
「目を付けていた?」
「そう、ボーイハントよ。良い男は逃さないの」
紗友里は悪戯っぽく笑ってビールを注いだ。以前の投げ遣りな感じに悪擦れ感が加わっていた。
「君も飲むか?」
「ええ、ハイボールを頂くわ」
バーはボックス席が貧弱なうえに可愛い娘も居なくて、木屋町でも二流と言う感じだった。化粧した紗友里はこの店では目立つ存在だった。吾郎は初めて訪れた店だったが、殆ど紗友里が付き切りだったので、結構楽しく過ごした。それに、学会への準備も山を越えて、一息ついていたところだったので、気持も落ち着いていた。
「ハイボール、お替わり」
紗友里は速いテンポで飲んでいた。吾郎が来た時、既に軽く酔っていたので、ラスト近くになると、一人でしっかり立って居られないほどになった。
「そんなに飲んで大丈夫か?」
「平気よ、いつもはもっと飲むわ」
「体に毒だぞ」
「良いの、今夜は酔わせて!」
紗友里はまたボーイを呼んでお替わりをした。
「もうこれでラストだぞ」
「ねえ先生、何処かへ連れてって」
「誰かと約束があるんじゃないのか?」
「無いわ、そんなの・・・今夜は先生とずっと一緒に居るの」
「冗談は止せ」
「あら、本気よ、あたしは」
紗友里は起ち上がった。
「さあ、何処かへ連れてって」
「何処かって?」
「先ずは、飲みに」
吾郎は些か持て余しながら四条界隈のバーで一軒飲み、その後、河原町五条の紗友里のマンションまで送って行った。
 タクシーを降りた時、紗友里の足はふらつき、立って居るのがやっとだった。吾郎は抱えるようにして彼女の部屋へ連れて上った。
マンションはダイニング・キッチンとリビングの2LDKだった。雑誌や菓子や果物などが散らかっていたが、男の居る気配はなかった。
部屋へ入ると直ぐに紗友里はベッドに仰向けにひっくり返った。
「ああ、酔っ払っちゃった・・・」
それを見届けて吾郎が帰りかけると、紗友里が叫んだ。
「帰っちゃ駄目!」
吾郎が振り返ると、彼女は眼を閉じたまま、ベッドの上に手足を投げ出していた。
「泊っていって!」
「相当に酔っているよ、君は。・・・もう寝なさい」
「嫌や!柏木せんせい・・・」
その声は半ば怯え、半ば媚びているようだった。
「ねえ・・・」
吾郎はもう一度ベッドに近づいた。見下ろす眼の下に、息づく度に大きく揺らぐバストがワンピースの襟元から覗いた。
「脱がせて」
眼を閉じているが、吾郎が横に立って居るのを知っているかのように、紗友里は脚をばたつかせた。ミニの裾が太腿の中ほどまで捲れ、形の良い脚が剥き出しになった。
「ねえ、せんせい・・・」
それは間違い無く媚びている声であった。全てを許して待って居る声であった。
吾郎は一度辺りを見回し、誰も居ないのを確かめると、紗友里の服に手を伸ばした。
ワンピースの背中のファスナーを下ろし、そのまま頭から脱がせた。スリップの肩紐を外して下へ滑り下ろす。ブラジャーを外すと細身に似合わぬ豊かな乳房が現れた。吾郎はその乳房に口づけながら右手でパンストに触れた。それまで、抵抗らしい仕草をしなかった紗友里が初めて身を捩った。
「嫌や!電気、消して」
紗友里が抗ったことで、吾郎に却って欲望が湧いた。彼は乳房から顔を離し、紗友里の足元に立つとショーツに手を掛けた。
「駄目!」
今まで泥酔していたとは思えぬ素早さで上体を起こすと、紗友里はパンティの端を掴んだ。構わず吾郎は指先に力を入れ、一気に引き下ろした。
吾郎が紗友里の上に圧し掛かるのと、彼女が吾郎の躰を引き寄せるのと、ほとんど同時だった。
「抱いて、ねえ、早く抱いて!」
紗友里は喘ぎ、躰を左右に揺すりながら、吾郎の背に両手を廻した。
「もっと・・・」
吾郎は紗友里の脚の間に割って入ろうとした、が、何故か、彼女の脚は開かなかった。
彼は焦った。
「ねえ!」
焦っているのは紗友里も同じだった。
行為は上手く行かなかった。長い努力の末に、やっと二人は終えた。
 暫くして、落ち着いてから、吾郎は改めて紗友里を引き寄せた。彼女は裸の躰を吾郎に押し付けて来た。肌の温もりを感じながら彼は紗友里の躰を弄った。脇から腹へ、そして腰へ、それから右手を紗友里の左の尻に触れた時、吾郎は指先にざらざらした感触を覚えた。
傷か?・・・
ぎざぎざした感触は、間違いなく、皮膚の傷跡であった。左の腰骨の出っ張りから太腿の外側へかけて、弧を描きながら三十センチはあった。
彼女が固定手術を?・・・
それは確かに、左股関節固定術による皮膚切開の痕だった。
紗友里がしゃがれた声で言った。
「先生、お医者さんでしょう?」
「そうだが・・・」
「K大学附属病院の・・・」
「“圭”のママに訊いたのか?」
「訊いたことは訊いたけど、確かめただけよ」
「確かめた?」
「先生、あたしを知らない?」
「君を?」
吾郎は知っている女性の顔を頭に思い浮かべてみたが、彼女の顔に心当たりはなかった。
「知らないなぁ・・・」
紗友里は小さく笑ってから言った。
「あたし、先生に手術をして貰ったの」
「俺に?・・・いつ頃だ?」
「三年前・・・」
三年前と言えば、吾郎は二年間のインターンを終えて独り立ちの医者になったばかりだった。それほど多くの手術をした訳ではないが、それでもかなりの数のオペはやった。若い医師に経験と技術をつけさせる為に教室では積極的に施術させていた。無論、講師や先輩や助教が付き添ったり立ち会ったりしたが、実際にメスを握ったのは駆け出しの医師や研修医が中心だった。
「君、名前は何と言うんだ?」
「今の名前?それとも以前の名前?」
「と言うと?」
「手術を受けた時、あたし、結婚していたの。その時の名前は相原優よ。どう?思い出してくれた?」
そう言われても、吾郎には思い出すべき記憶が無かった。大体が、手術した患者の名前や顔など余程のことが無い限り憶えて置くことはない。
「あたし、手術の後、別れたの、夫と・・・」
「別れた?」
「うん。先生だから全部話しちゃうけど・・・」
「どうして別れたんだ?」



  タチヨミ版はここまでとなります。


危うい八人の女達

2019年11月14日 発行 初版

著  者:齊官英雄
発  行:啓英社

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齊官英雄

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 経営コンサルタント

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