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令和元年度 現代文特講 小説集

現文特講受講者+宇野 明信

法政二高現代文特講出版



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 目 次

サイクルカラード 西島 周佑

土 金山 知広

業 河野 大樹

フォックスの冠 木村 優那

たぶん夢の話 永野 友莉香

Bとの思い出 木村 高大

食用花 柳澤 瑠名

おわりとはじまり えこぴよん

六窓一猿 短編ver 美濃部say to ziro

ワガハイは タ行が言えない。

白黒女が色彩を求めて 小林 千尋

夢中噺 Soinaf

光源 上 颯斗

眠れない男 吉澤 颯太

世界にありふれた花 宇野 明信

付録:句集

あとがき

サイクルカラード
西島 周佑

 一日の始まりの空はいつも微妙な色をしている。

 いつからそう思うようになったのだろう。

 代わり映えのしない景色のせいなのか、よくある爽やかな映像みたいな風が隣を掠めていくことがないからなのか。
 環境科学に詳しいわけじゃないけど早朝に風が吹かないのは多分大気の温度差がまだ無いからかと思う。
 太陽がまだ、昇ってないから。
 いっつも空は青でも水色でもなく灰色。
 晴れてようが雨が降っていようが曇っていようが変わりなくパッとしない。
 ならいっそ毎日土砂降りの雨くらいの方が気持ちも良いのに、と思う。

 前橋裕美は自宅から最寄り駅までの自転車を漕ぎ終え、駐輪場の入り口で自転車を降りて押す。
 学校の最寄りまでさらに電車に揺られて40分ほどかかる。
 裕美にとって苦痛だった長い時間も三年目ともなれば特に何も思わなくなった。
 自転車止めに慣れた手つきではめ込んでいつもの足取りで改札へ。

 電車がホームに到着する10分前には駅に着いているよう心掛けている。
 そして毎日決まって乗るこの電車に乗れば授業開始の15分前には学校に着く。
 一度や二度遅刻したくらいじゃ大学への推薦権は剥奪されないだろうけども遅刻はしたくなかったので高校一年生のときからこの電車に乗っている。
 裕美は紐を引き抜いていつもの習慣を始めた。毎度この瞬間は高揚している。
 しばらくするとまもなく~とお決まりのアナウンスが列車の帰着を示し、残念な気持ちでドアに乗り込む。

 この電車の混雑のピークは裕美が乗ってから20分あたりで着く駅からだ。
 他の路線との合流地点であり、その駅自体も栄えていることから乗り降りが激しい。
 裕美が乗るときは通勤ラッシュから外れてはいるがあくまで問題の先延ばし。
 すし詰めの朝は残りの20分続く。
 暦はもう11月に入ろうと言うのにこの場所は年中暑い。
 いや、思い返すと冬も夏もいつでも暑くて不快かも。
 日本で数少ない汗かきのおじさんや腋臭の強いおじさんが女子高校生に密着してもある程度合法的に認められる空間。痴漢に間違われないようバンザイするようになったのは割と最近からだって聞くけれど、逆に今までの時代の女性はどうしてきていたんだろう。三年前なら電車で学校に通うなんて怖かった気もするけど今は全くないのはたぶん慣れたから。
 だいたい捕まるリスクがあっての行為ならもっと可愛い子に痴漢したいものなのかもしれない…という考えが裕美の頭をよぎったところで、それ以上の事は喜ぶべきか悲しくなるべきか迷った。

 教室には誰もいないことは分かっているので裕美は教員室まで鍵を取りに行く。
 裕美は入り口で鞄を降ろして一礼をし、「失礼します」と言ってから教員室の扉を開ける。
 出席簿に付属したクラスの鍵を右手に吸い寄せて階段を上がる。
 三年のクラスは三階。
 裕美の通うここは名門私立大学の付属高校。一学年に大体15クラスあって、大まかに階層ごとに学年が分かれている。
 一年のときは一階で二年のときは二階だった。
 一年生や二年生でも数字が後半のクラスは一階と二階以外になることもあるのだが運悪く裕美は三年間前半に位置していたので毎年階段の量が増えていった訳だ。
 裕美は運動をしない生活をしているのでなかなかこれがしんどい。
 具体的に言うと急いで昇ると高さに比例して息が上がってしまう。
 そもそもこの学校は東京の都市部に無理やり建てたせいで土地が少なくて、建物が狭い割に一階層の縦幅がやけにある。
 習慣だった毎朝の時間の余裕が自分の体力の無さが理由で効果的になるなんて思ってもいなかった。

 開錠して扉を開く。
 スライド式のドアが静かに滑って迎え入れる。
 裕美が起こしたパチパチ音のあとに強烈な光が辺りに浸透する。
 黒板と反対側の教室の奥の共用棚には段ボールや何かの形に切り取られた模造紙が押し込まれていた。
 あと一週間経つとこの学校では文化祭が行われる。
 昨日まで無かった色を関心なく一瞥した裕美は鞄を自分の机の横に置き、今日の授業の教材をロッカーに取りに行く。
 ひとしきり準備が出来たので足元のチャック開けて本を取り出す。
 裕美が贔屓にしている日本人作家の新作だ。地元の図書館で仕入れていたので借りている。
 電車に乗る前にも読んでいたが続きが早く読みたくて仕方なかった。
 この作家はハッピーエンドしか書かない。バットエンドも嫌いな訳じゃないけど、この作家の書くお話は世界観と登場人物が読む人の心の痛みを全て洗い流してくれるような、そんな魔力がある。
 賞を取ったりだとかテレビで紹介されたりだとかはまだされていないけれど、しばらく経てば文庫本で重版がかかるからそこそこには売れてるのだと思う。

 ページをめくり続ける裕美に対し、時間が経つにつれ続々とクラスメイトたちが教室に揃い始める。
 増える足音と話声の内に苦手とする気配が隣の席に座ったときに、裕美は表情を変えないようにするよう努めた。
 そうやって話しかけづらいオーラを精一杯作った裕美の努力も空しく、
「おはよう、前橋さん」
「お、おはよう…」 
 本は手にくっついていたので首と目線だけ相手に目をやって応える。
 野球部の金井君だ。
 下の名前は…名簿を見れば分かるかもしれないけど忘れた。
 金井君は鞄を机の横に降ろし、着席する。
 夏休み前には野球部特有のスポーツ刈りだった髪が伸びて短髪になったのにももう見慣れた。
 夏の甲子園に行く大会で負けてしまった金井君たち野球部の三年生は部を引退して、個性を出したくても出せなかった髪型を各々変えだしたらしい。いまこのクラスにいる元野球部三人の内、金井君含む二人は10月にもなると髪が結構伸びてきて印象がだいぶ変わっている。
 髪型を表す言葉なんてほとんど知らないからこの髪型をなんて言うのかは知らないけど前髪と後ろの髪が全体的にもさっとしてる感じ、というか…そんな感じ。
「今は何読んでるの?」
 気さくに訊ねる金井君は、裕美ではない金井君の友達に送られるものと同質のものだ。
 何で私に話しかけてくるのかは分からない。
「…今読んでるのは阿澄白馬の“烏の進撃”って本」
「新しいん?」
「その…先週出たばっかり」
「へぇ~それでもう終盤まで読んでるのかぁ」
 ハードカバーの紐の栞の位置を覗いて金井君はもの珍しそうに言う。
 終盤まで、といってもこれは五本指に入る好きな作家の本を裕美が読み終えるにしては遅いペースだ。すぐ読み掛かりたかったのだが続きまで読んでいる本を読み切りたかったのでやむなく後回しになった。
 未知の相手の出方を探りながら言葉を選ぶ裕美よりも自然体の金井君。
 かと思うと「う~ん?」と唸りながら首を傾げる。
 裕美にはさっぱり意味が分からない。
「…もしかして…」
「もしかし…て?」
 心の中で理解不能な事態に困惑と動揺を微妙に隠しきれていない裕美にお構いなく―
「どっかでその作者の別の本、読んでた?」
 何でもないことを、何でもないように言った。
 独り相撲を勝手に取っていただけだと気が付いた裕美はホッと胸を撫でおろす。
「そうかもしれない。私この作者さん好きだから…」
「だよなだよな!いや~どっかで見たことあると思ったんだよ!」
 金井君の方もスッキリしたらしく満足げに笑った。土俵に立たされていた裕美の身など知る由もないだろう。
「面白いの?」
 またその質問。本の話題に困ったらすぐそれだ。
「うん。面白いよ」
 相手がどんな解答を求めているのか分かっているので簡潔に答える。
 金井君は何々が何々でどうどう面白いかなんて聞きたくない。ただ興味が尽きたからこちらに喋らせようと話を振るだけ。
「そっか~じゃあ今度その作者さんの本手に取ってみて面白そうだったら読んでみるわ~」
 嘘だ。絶対読まない。私だって人に勧められた本なんて去年知り合った奈津美ちゃんの勧めくらいしか読まない。
 無理に話をあわせてくれなくたってくれなくたって、全然良いのに。
 きっとこんな人は文化祭の準備とかもたくさん手伝ってクラスの人気者なんだろうからさっさと他に行ってしまえ。
 すると小金井君は席を立って近くの男子と談笑しに向かった。
 飽きるくらいなら話しかけるな。

 11月に入って文化祭が終了し、大学の推薦権を決める最後の定期試験が二週間後に迫っていた。
 大学の付属高校である裕美の学校の学部推薦権は成績が優秀な生徒から順に決めていく方式。一年生から三年生の今までの成績の合算が優れた者から人気の学部の枠を埋めていく。
 三学期は既に全生徒の大学の学部が決まった上で学部ごとの授業が行われるので二学期末試験が正真正銘定期試験最後となる。
 裕美の狙う文学部の人気は中の上といったところなので余程のことが無い限りは滑り込める。
 とはいえ慢心していると痛い目を見ることを裕美は経験で知っていたので、趣味の本は読み続けつつも集中モードに入っていた朝に。
 こちらを見てロックオンしたように彼が歩み寄って来る人影。
 席替えをしてもう話す必要も無いはずなのに。
「おはよう、前橋さん」
「…おはよう」
 本の両表紙を少し強めに握って裕美は答える。
 対する金井君は心なしか嫌そうな仕草を見せた裕美に気が付いたか気が付いてないか、和ませるようなおどけた口調で、
「あれ、読んだよ。阿澄白馬さんの『鼠の羅針盤』」
「え!?」
 裕美の覚め切っていない朝の頭に打ち込まれたのはトンカチ級の衝撃だったが、打ち込んだ 側の人間は「そんなに驚く?」と、軽いノリだ。
 声量よりも表情や動作から金井君は驚きを読み取ったのかもしれない。
 裕美は読んでいた本をパタリと机に落としてしまっていた。
「いやぁ今まで前橋さんの勧めてきた本か作者さんをブックオフで見つけたら必ず読むようにしてたんだけど、どーも肌に合わないっつーか最後まで読みたい!ってなるような本は無くってさ。…あぁ!もちろんつまんないっていうより俺みたいな馬鹿が読むにはちょっと大変だったってだけだから悪く思わないでくれよ?」
 裕美はただ黙って金井君の一語一句に耳を傾ける。
「で、この前の…ん~と二週間くらい前?に見た阿澄白馬さんは見るのが二回目だったし、これは前橋さんの中での好き度も高いんじゃないか、って思って読んでみたらめちゃくちゃ面白くってさ!なんだろう?一言じゃ何に引き込まれたのか言いづらいんだけど…鼠の羅針盤ってタイトルが固いのにスゴい言葉遣いが丁寧で優しくて読みやすかったんだよ!」
 言葉が丁寧だと感じたのは文字一つ一つが言葉をよく知らぬ動物によって選ばれたという設定に忠実に書かれているからだ。

 今日までで三作品出ている阿澄白馬の動物視点シリーズ(ダサいけど公式が名付けたからしょうがない)。
 現実では言葉を喋らない動物が人間の言葉を得て、言葉で人間と深い関わりになるシリーズもの。シリーズものと言っても作品同士密接な繋がりが在るわけでは無いのでどこからでも読むことが出来る。
 その第一作目『鼠の羅針盤』はタイトル通りネズミが言葉を得たお話。
 ドブで生まれた一匹のネズミは家族皆理解できない複雑な信号が送れた。家族の伝えたいことは理解できるのだが自分の伝えたいことは満足に伝わってくれない。ネズミは自分が他の仲間たちと違うことに疑問を持ち、安住を捨てて答えを探す旅に出る。そして旅の先々で出会う人間たちや書物を通して自分が何者であるかを考え続けた。
 そんなネズミの三年ほどの一生が綴られた作品。
 後の動物視点シリーズの二作品のあとがきにはベースとしてのこの作品が常に存在していたと書かれていたことを裕美は覚えている。

「家で読んでるときもハラハラドキドキしてさぁ。ネズミだから人には簡単に出来ることが簡単には出来ないんだよなぁ。思わず助けたくなるけどネズミは知恵を絞って乗り越えようとするってのがねー、なんか勇気貰えるっつーか。全部読み終わったあと悲しかったけどなんかホッとした」
 語彙力が無いと自覚していそうな拙さが見え隠れする言葉選びでも、裕美の感じた美しい部分を捉えた上で楽しんで貰えたのだと分かる感想。
 男子とそんな話をしたこともしたいと思ったことも無かったので新鮮な心の動きを流し感じつつも、どうしてこんな状況になっているのかの疑問が絶えなかった。
 そのため裕美は下唇を震わせて会話を繋ぐ。
「そう…それなら、良かった」
「いやぁ良かった良かった。阿澄白馬さんの他の本も読んでみようかなぁ」
 微妙に噛み合っていない会話も読了後の感傷に浸っているからだと思うと裕美は誇らしくなる。好きな本と作者さんが褒められているのは純粋に嬉しい。
 が、モヤモヤする。
 疑問のモヤが裕美には分かっていて、どうすれば解消されるのかも分かっているのだが、その手段を取るかどうか迷う。
 何しろ裕美が自発的に金井君に話題を振ったことなど一度も無い。
 それどころかここ最近は金井君と一言も会話していなかったからどんな距離感だったか曖昧だ。
「なんで私と話してくれるの?」
 包むものが無い、それとなくぶしつけな物言いだと自覚はしているが、そもそも会話によるコミュニケーションが苦手な裕美にはこれ以外の言葉を選ぶ余裕が無かった。
「え…あ?…う~ん、それは…どういう意味?」
 当然と言えば当然なのだが金井君は困惑を隠さず質問に質問で返してくる。
 その反応にスーッと頭が冷えて、後悔が波となって体をさらおうとする。
でもここまで口にしてしまったのなら勢いに任せて聞いてしまった方が楽だと自分を奮い立たせた。
「だから、その…。金井君ってさ…私とは違って友達もたくさんいそうだし…だから私となんかと話さなくても話せる人はいっぱいいるだろうに、ていうか…ていうか私もう何言ってるか分からないよね。…ごめんやっぱ忘れて」
 早口で喋るのに頭の中の整理がついていないという最低の悪球をぶつけてしまった裕美。
 顔が発熱して目を背け、金井君の表情は見えなくなった。
 きっと困惑と不安が不信に変わって私を突き刺す。
「あ~その、あれだね?俺が前橋さんに話しかけるワケが分からないと。そいうこと?」
 流石の金井君も語気が乱れたが次の言葉に怯える裕美のことは察してくれたのだろう。
「うん」
「まぁ知らない奴に馴れ馴れしく話しかけられたら怖いよな。俺も怖い。…ちょっと俺が話しかけてくること、不気味だった?」
「うん」
「おおう…そうか…」
 大げさなしょぼくれ方を見せる金井君。この舐めてるとしか思えない快活なテンションには慣れているので突っ込まない。
 少し目線を泳がせてから金井君は語りだす。
「ん~なんか俺さ、色々な人と一体一で話したいんだよ。その人にしかない価値観とか知識とかそういうのを少しでも交換するとそこから他の人との輪が広がるっていうか、俺一人だけの世界じゃなくてっていうか?…ほら、前橋さんっていつも本読んでるじゃん?ずっと野球部でバカやってた俺からしたら珍しい人種だったから気になって。前橋さんは俺のこと怖かったらしいけど」
「まぁそれは…うん」
「アッハッハ。俺としては前橋さんと話すの楽しいんだけどなぁ。そんなに表面に出てこないけど前橋さんが本の事を話すとき楽しそうだからさ。これは俺の知らない世界を見せてくれるな、って確信したよね、うん」
「そんな大それたこと私には出来てないと思うけど…凄いのは私じゃなくて作者さんだし…」
「いやいや、前橋さんの見る目もあるって立派なことでしょ。でも最近思うんだよなぁ…誰かが本当に好きなモノがつまらない価値の無いもののはずがないって。それこそ分厚い本とか流行りのアイドルとかね。小学校の時ベイブレードとかイナズマイレブンとかははまらなかったけど、今でも好きな人がいるってのは立派な文化だったってことなんだろうし。前橋さんが他にも勧めてくれた本も読んでみようかなぁ…」
 よく喋る。あと単語の意味が所々分からない。
 が、要するに金井君は色々な人と話して己の見聞を広めようとしているらしい。
 今話したようなことは夏に部活を辞める前から裕美に理想として前からあったのだろう。そして本を一気読み出来るような時間と精神に余裕が出来たので実現しようと本格的に動きだした、と。
 もしかしたら裕美以外の、金井君の言う“俺の知らない世界を見せてくれる人”はいるのかもしれない。
 よく喋った物量はかなりのものだったはずだが不思議と頭には入っていった。

 そして裕美は金井君に本を勧めた覚えはない。
 これまで熱心に話しかけてくる金井君のことは雑にあしらっていた。

 最後まで読み終わらなければ面白いか面白く無いか分からないのが本。
 裕美が軽んじて「面白い」と答えてしまった作品の中には読み終わった末に面白く無いという結論に至ったものも数多くあるだろう。裕美は金井君にそんな本を勧めてしまっていたかもしれない。というか勧めた本を殆ど覚えていないほどいい加減に会話をしていた。
 なのに金井君は私の一押しを引き当てた。古本屋での立ち読みの数ページでそれを見極めた。
 裕美は一連の行いを申し訳なく思う気持ちもあったが、頭の中の割合はどこからかやってきた確信が占めていた。
「話しかけて欲しくないならこれからは話しかけないよ。といってももう三年も終わりだからここまで嫌だったっていうならもうかなり手遅れなんだけどさ」
 ハハッと照れ隠しなのか誤魔化しなのかどちらにも取れる風ではにかむ金井君。
 裕美にとってそれは全く嫌な印象を受けない。
 常に機能していたはずの眼が急にピントが合ったように克明に物を捉え始め、くっきりと金井君の顔のパーツの形やニキビやなんやら全てが色を持って迫る。
 裕美はその変化にただ身を任せ、大きな瞳に移る自分を見て思索していた。
 こういう人が大成するんだな、と。

 適度な日差しの中、私はガソリンを入れている。
 本当を言うとこの行為で動くようになるのは精密機械のエンジンなんかじゃなくって、ペダルを漕げば車輪が回るといった単純な仕組みの自走車なのだけれど。
 自走車というのも車が自動車なら自転車はなんと言い換えるのだろうと思って勝手に作った造語だ。
 車がガソリンを燃料とするなら、自転車は数か月おきの空気入れが燃料のように思えたので実質的なガソリンがこれなんじゃないかっていう発想の飛躍。
 などと一人で芝居がかったことを考える裕美。
 心の内は明るい。時間の余裕は心の余裕だ。

 一度、二度、三度。ストロークが重なるたびに手に残る感触は重くなり、支える足にも力が込められていく。

 このくらいかな、というところまで達したところでハンドルから手を離してタイヤの硬さがどれくらいか確かめた。
 よし、少し押せる。
 側面のホイールを掴んでいた人差し指から小指と、タイヤを直接押していた親指を離す。
 すると親指だけ先端からつけ根まで真っ黒。
 いつもこうなることを光景と共に思い出し、傍にある倉庫に空気入れをしまう。金属の筒部分がからんと小さな音を立てたのを耳で聞いて、倉庫の扉を閉めた。右手の親指が真っ黒なので辺りを汚さないように親指に気を遣う。

 車と自転車を重ねる理由はもう一つ。
 鍵、だ。
 裕美の家の車はドアロックのボタンだけついている鍵を運転席の鍵穴に差し込むとエンジンがかかる仕組みだった。
 自転車に乗るときも跨る前に鍵を差し込んで回さなくては後輪が盗難防止のロックをされて走れない様子から、自動車のエンジンを入れることに似ていると思ったのだ。
 現在は両親がハイブリットカーに買い替えてしまったのでキーを近くに持っていくだけでセンサーが勝手にエンジンをかけることが出来る状態にしてくれて、便利なんだろうけれども少し寂しい。

 倉庫から表に出てくると出しっぱなし自走車が裕美を待っていた。
 何となくストッパーで浮き上がった後輪を足で蹴って回してみる。
 シャーッ、と小さな音の連続。
 次に鍵をカチャカチャしてみる。
 残念ながら自走車にはバンパーも無ければそこから駆動音がすることもない。
 今日の講義は三時間目からなので家を出るまで時間がまだある。
 取りあえず手を洗おう。
 裕美がふと見上げた空には色があった。

2013.12.26@Misono-Universe, Osaka


金山 知広

 彼は古い洋館のご当主さまと聞きました。洋館は町外れにひっそりと構えた立派なお屋敷なんですって。でも、雰囲気がどうとか、あまり人が立ち入るような場所ではないそうです、それにしても私のような何の取り柄もない娘をお嫁に迎え入れるなんて、ああ、彼は一体どれほど素晴らしい方なのでしょう。自分の身体と同じくらい大きい、雲しか見えない窓に手を添えて、瞳を閉じて思いを馳せます。

 たとえば、彼は朝鳥の鳴き声と私が淹れた香りの濃いダージリンティーで目を覚まします。夫婦の営みですから、給士に任せるようなことはしません。
「おはようございます旦那さま」
「おはよう。朝から君の麗しい顔を目にすることができて、今日も素晴らしい一日になりそうだ」
「まあ、旦那さまは寝起きだというのに歯に衣着せぬことをおっしゃいますのね」
「はは、当然のことを言ったまでじゃないか。そうだ、昨日新鮮な肉を仕入れたばかりだったんだ。朝食はいつもの通りとして昼は楽しみにしておいてくれ」
 彼はサプライズがお上手で、私はいつも驚かされてばかり、だから今回は私のほうからも彼に何かしてさしあげようと企むのです。
「旦那さま。今日は何の日かご存知ですか?」
「む、結婚記念日は来週だろう」
「わからないですよね。実は、今日はあなたを知って一年となる日なのです。私たちは結婚する一週間前に互いのことを聞いたでしょう? ですから、私にとって今日も密かな記念日なのです」
「なるほど、これは一本とられてしまったな」
「ふふ、もちろん旦那さまへの贈り物もありますのよ」
 飴がいくつか入る程度の缶を、旦那さまが手の甲にキスをするときの姿勢を真似して中身を空けます。
「土ですわ」
 何の変哲もない土を見た彼は、一度は目を白黒するも、すぐにこれ以上ないほど感極まり、赤ん坊を抱きしめるように大切に受け取ると
「自分はサプライズをついには特技とさえ思って、己の発想に自身を持っていたが、君には到底敵わないな」
 それもそうでしょうと私は自慢気です。当たり前すぎて忘れていた私たちの最も大切な代物を送ったのですから。

 目を開けると、変わらぬ塔の内装が私を圧殺するかのごとくただそこにありました。
 生まれてから一度も出たことがないこの塔。唯一の外界に迫る手段である永遠にも等しい螺旋階段は、下ることを禁止されています。私に許されるのは空想の中の理想と、理想の中に現実を混ぜ合わせることくらいです。しかし、6本ある腕が、3つの目が、8本の脚が早くこの深い迷宮から抜け出したいと叫んでいます。飽き飽きした四肢たちは今にも部屋から出る準備をするように小刻みに揺れて体温を高めているのがわかるのです。私を止める人たちは全部食べてしまったことだし、運命の愛を運命の人に捧げにいく乙女に障害なんてあってよいのでしょうか。窓を飛び降りることも考えましたが、彼はきっとおしとやかな姿を好むはずです。好奇心が一度として使うことのなかった永遠の階段を、今は一歩一歩かみ締めて下ります。急に甲高い音が鳴り出し始めたものの今は気にしている場合ではありません。爆発しそうなはやる気持ちを抑え、窓に掛けられた薄明かりを頼りに何時間もかけて足を前に出しては次の足を進める作業を続けます。
 丸三日程度経過したころでしょうか。いつの間にかつんざく音の洪水は止み、そのかわりに底が見えない暗闇についに淡い光が見え始めました。ゆっくり、それでも足を止めずにここまでたどり着き、ついに光の中に入った私は―


 初めての地面に感動を覚えるより先に御伽噺では見たことがない景色が私の驚きを全て回収してしまいました。土気色をした馬車のようなものに、長い円筒がついている乗り物らしきものが数多く私を遠くから取り囲み、とても物々しい雰囲気です。数え切れない人々の祝福を受け彼と結婚するはずだったのに、町外れの洋館も、立ち並ぶ家々もなく、地面と地面のような色をした乗り物がただ広がるだけだったのです。
 そして私は気づきました。途端に始めての感情に囚われ、いるはずもない誰かではなく自分の目の前の危機をどうにかするために足を動かすと爆音とともに頭が吹き飛ぶ、四肢は蒸発して聴覚と一瞬の思考だけが残りああせかいはこんなにもすばらし

2017.9.18@Shin-Aozure tunnel, Tanzawa


河野 大樹

 その男は、今日もその場所で一人、目の前を過ぎる鉄の塊をぼんやりと眺めていた。
 ここは、東京から横浜を結ぶとある私鉄電車の、横浜から各駅停車で二つ下った駅だ。名前はH町駅。横浜の都会さ、人臭さを残した、いわゆる繁華街と言われるような所は、横浜から二駅も離れれば大分小さくなる。そんな、どこか寂しく、古臭い街にひっそりとこの駅はある。ホームは昔ながらの石畳作りであり、覆うこけや何らの草が、この駅が長い間人の旅や通勤、通学、一日の始まりから終わりを見届けてきたことを示している。その下りホームの一番端、列車の先頭の停車線の丁度脇辺りに並ぶ三つの椅子の真ん中に、今日も彼は座っている。
 私がこの街に引っ越してきたのは、一年半前だ。大学に行くと言って青森の実家から上京して来た当時の私は、まだ大学がある東京都心の一角の小さなアパートに身を置いていた。
 しかし大学をわずか一年で四単位しか取得しなかった私は、親に内緒で大学をやめ、丁度一年前にこの昭和の匂いの残る繁華街のある街にフラフラっと身を寄せるようにやってきた。
 大学を辞めた私には、駅を毎朝使うという習慣はなくなった。ただ、親はまだ私が大学に通っていると思っているので、変わらず仕送りを受け取っているからお金に困ることはない。一日中家に籠る日もあれば、二駅先の横浜に気まぐれに顔を出す日もあった。
 ただ、当時から一つ気がかりだったのが、雨の日も風の日も、いつどの時間に駅に行っても、いつもあの椅子に彼がいることであった。
 この日もいつものように横浜駅西口の漫画喫茶で朝から夕方まで何も口にもせず籠っていた私は、十パーセント引きのシールが二枚ほど貼られていることに一目惚れし購入したコンビニ弁当を冷めさせまいと意気込み抱え、帰宅するところであった。
「次は~H町~H町~お出口は右側です」
 眠りの世界へと誘われ、そちらの世界へ落ちる寸前でいた私は、車掌の無機質な声に正気を取り戻した。そして電車を降りた私は、何となくいつもの例の椅子に目をやると、見慣れたシルエットがそこにあったのだ。
 年は七十程であろうか。どこまでも痩せこけた彼の髪は、もう何年も切っていないというような白髪で、長く、絡まり、落武者のようだ。
 私は何となく、彼の隣に腰を下ろした。
 何分くらい経っただろう。やがて動き出した電車は私達二人を残し、過ぎ去った。誰一人いない相対式ホームの向かい側が、どこか寂しく、不気味に私達二人の眼前に姿を表した。
 二人の間に長く沈黙が流れた。
 何分くらい経っただろう、沈黙を破ったのは私であった。
「乗らないんですか?」
 私は彼に尋ねた。この駅は各駅停車しか止まらないので、来た電車に乗らないというのは、特別な理由でもない限り考えにくい。
 髭に埋もれた小さく乾いた口がモゴモゴと動き始めた。
「ええ、乗るつもりなどありません。こうしてぼんやりと電車と人間を眺める。その為に私はここに来るんです。毎日ね」
 無機質で掠れた彼の声は単調で、温かさが無かった。
「毎日ここに通うのには、何か理由があるんですよね」
「ええ、もちろん。ただ、私は好きでここに来ているのではありません。何か大きな使命感が、私を毎日ここに連れてくるんです」
 私は、彼の「使命感」という言葉の中に、何か得体のしれない魔物がこちらを睨んだ時のような、不気味で、でもどこか引かれる感覚を味わった。
「その使命感とやらを、私に聞かせてくれませんか」
 何故私がこの男にこんなにも関心を持ち始めているのか、この時は明確な疑問も出ぬままに、私はとにかく彼の話を聞きたかった。いや、暴きたかった。その魔物とやらの正体を。
 二人の間に、また沈黙が続いた。しかし今度は、私は沈黙を破る気は無かった。私は意地を張っていた。
 そして、彼が口を開いた。
「私ももう何十年とこの駅で、来ては去る電車を眺め続けています。しかし、皆私を見つけると、冷えた目でこちらを見るのです。私もずっとここに座っているものですから、仕事帰りで疲れて座りたいはずのサラリーマンに舌打ちされることもしょっちゅうです」
 彼は淡々と話始めた。髭にまみれたの口の揺れ幅が、心無しか初めより大きくなっている気がした。
「話しましょう。君に。私が何故毎日ここに来るのか。君のように私に話しかけてくる人など、今までで本当に君だけです。私は君に話したい」
 こうしてその男は、自らの過去を語り始めた。
「私は、終戦から二年後の一九四七年、ここ横浜でも少し内陸に入った辺りにある小さな村で、左官職人の父と主婦の母との間に生まれました。家庭は決して裕福ではなかったのですが、なかなか子供が出来なかった家庭に生まれた一人息子として、大切に育てられました。しかし、私が九歳の時、母が倒れました。肺結核でした。当時は今よりずっと、結核という病が流行っていましたから。そして、長らえることも無く、母は亡くなりました。母が亡くなったことで、私をこれからは一人で育てていくという父の重圧は肥大していくばかりでした。ですから、母の死後父は私をとても厳しく育てました。しかし、どんなにきつく私を叱る時も、父は決して手を出すことはしませんでした。父は戦争という日本が侵した失敗を知っていましたから、暴力というものがどれだけ人の身体から心までを蝕み、破壊していくものかを分かっていたのです。厳しくも愛情に溢れた父もまた、私が十八の時に腸チフスで亡くなりました。父の遺体はとある有名国立大学の附属病院に送られ、献体に使われました。大学の解剖の授業で、ぜひ私の父の遺体を献体に使わせて欲しいとせがまれたのです。父の体がこれからの日本の医学の発展や、将来の医者の研究に少しでも力を貸せるならと、私の伯父にあたる、父の兄が献体に同意したのです。こうして父の遺体は献体へと出されました。父の遺体が家に返って来たのは、父を献体に出してから四日ほど経ってからでした。青白くて冷たい父の遺体には、みぞおちから丹田の辺りまで長い傷があり、それは何とも無造作に縫合されておりました。そんな父を目の当たりにした私は、父の死後初めて泣きました。厳しかった父の前で、涙など見せるものかと意気込んだ私の涙腺は、私が思うよりずっと素直で、脆いものでした。息子にはとことん厳しく、プライドも強かった父が、もし生きていたとしたら、自らの身体を人に差し出すことなどどうして首を縦に振ろう。それでも人は、死んだらそこまでなんです。死んだらただのモノになるんです。生きた人間の都合で、どうにでもなるんです。
『お父さんは将来の医者のために貢献したんだよ。日本の医学への、立派な奉仕者だ』
 伯父はこう言って私をなだめました。でも十八歳の私にその言葉を飲み込むことなど出来ませんでした。父は『奉仕者』に『なった』のではありません。『仕立てあげられた』のです。本当に、人は死んだらそこまでなんです。人は生きている時間だけ、人であるのです。死んだら、ただのモノに過ぎません。私は、父の残した遺産を切り崩し、叔父の仕送りも受けながら、父の死後とある名門私立大学の門を叩きました。大学では文学の道を究めるべく時代小説を片隅から読み漁る一方で、関心を高めていったのが鉄道でした。青春十八切符を握りしめ、日本中の鉄道を乗る旅に出さえしました。むろん、日本中というのは金銭的に厳しいものでありましたが、東京、神奈川の電車には大学四年間で全て乗車しました。そんなこんなで、大学四年の春には、私は鉄道で飯を食べて行くことを決意しました。そして無事大学を四年で卒業した私は、この、東京と横浜とを結ぶ私鉄会社に入社し、駅員として毎日、鉄道とそれを利用する人間を見送りました。しかし、私の本当の夢は駅員ではなく、自ら鉄道という大きな機械を操作し動かす、運転士でした。私は駅員の傍ら、運転士に必要な、動力車操縦者免許の取得に向け講習を受け、猛勉強しました。もしかするとこの時が、人生で一番必死で勉強した時期だったかもしれません。大学入試の際は、大学は伯父に勧められたものでありましたから、どこか自分の本意ではない、『伯父を安心させたい』という気持ちがありました。しかし鉄道の運転士になるということに対しては、私は生まれて初めて、真っ向から自らの夢に向かい邁進した体験でありました。そして順調に事も進み、私は二十九歳の時、念願叶って運転士になることが出来ました。運転士として初めて、乗客の命を預かり、アクセルのバーを引いたあの日の事は今でも忘れません。こうして私は、名門私立大学卒業という肩書きからは意外な、小さな私鉄会社の運転士としての道を歩み始めました。しかし四年後、私が三十三歳の年の六月の初め、じめっとしてきた空気が夏の到来を感じさせて、まだ心地よく感じられた日の朝、それは起きました。そして、その日から私は罪人になったのです。あの日もいつもの通り、早朝三時半に、始発電車の運転をするべく、S川駅に出勤してきました。運転士になり、もう四年も経っていましたから、このような暗いうちの出勤には慣れておりました。出発前の車両の点検、アルコール検査を終えると、東の空が薄く、淡く、オレンジ色に染まりつつある光景に、その日も晴れであることを悟りました。そして私は運転席横の窓を閉め、梅雨前の、やや湿りつつも冷たい空気を遮断し、アクセルを引きました。各駅停車の私の車両は、一時間程かけてS川駅から横浜駅へ到着しました。実質、下り列車はここ横浜駅までが乗客数のピークです。横浜駅を過ぎれば、車内はガラッと寂しくなります。そして横浜駅を出発し、すぐに到着したT駅は、その閑散とした車内からさらに人を吸い取りました。そしてドアを閉め、私は運命へのアクセルに手をかけ、ゆっくりとその左手を引きました。これが、私の運転士人生最後の発車となったのです。発車した車両は、古臭い繁華街を横目に、ここH町駅に近づきました。H町駅のホームに差しかかり、徐々にブレーキを掛けていくにつれ、私は嫌な予感に身を震わせました。ホームの中央部で、ホームギリギリを、覚束無い足取りで、白い細いステッキを左右に振りながら歩く一人の男性の姿が目に入ったのです。私は本能的に、これから起きる最悪の事態を予感しました。そして、その予感は的中しました。その男性は左足をホームから踏み外し、線路へと転がり落ちたのです。レール上にうずくまる男性、急ブレーキをかけるも急制動出来ず動き続ける列車。この両者の間の距離が少しずつ縮まっていく時間が、私には何十分も、いや、何時間にも感じられました。私の思考回路は完全に停止し、ただ震える両手でブレーキレバーを握りしめ、引くことしか出来ませんでした。男性の姿は次第に大きくなっていき、やがて男性の身体は、ゆっくりと私の足元へと入り込んでいきました。私は目を固くつぶりました。バキバキッ、ガゴッ、バキバキッ。車輪が彼の人生を砕く音と細かな振動を、私は聞き、感じることしか出来ませんでした。やがてその音が私の後方へと消えたとき、やっと列車はその動きを止めました。『只今この駅で、人身事故が発生いたしました。安全確認を行いますので、しばらくお待ち下さい』ホームに流れる放送のかすかな音で、私はようやくその状況を把握しました。列車を降り、ホームから、その赤く染まった列車のフロント部を見たとき、私は自覚しました。『私がこの列車を運転したせいで、一人の人間の人生を奪ったのだ。私は一人の人間を殺したのだ』と。私はホーム上で気を失いました。私はそれから運転士を辞め、仕事をしばらく休み、精神科で治療を受ける日々が続きました。それでも私は毎晩のように、夢であの日の私の『犯行』の瞬間が鮮明に繰り返されました。『痛い』『助けてくれ』あの男性のものであろう悲痛な叫びが、毎晩繰り返され、私の耳に長く残り続けました。それから、このような精神状態では今までのように仕事が出来ないと判断した私は、鉄道会社を退社しました。むろん、収入源を失った私はそれから住む場所もなくなり、路上生活へと身を落としました。ただ、どんなに周りの環境が廃れても、毎晩のように夢に見るのはあの日のあの瞬間と、彼の叫びでした。当時の同僚も精神科医も、『君は悪くない、事故だったから。誰も悪くないんだ』と私を慰めました。勿論、世間的に見てもこれは事件として扱われるものではないだろうし、『私が彼を殺した』と私を責め立てる人は誰一人いないだろう。しかし、私はそんな、『誰も悪くない』という事実にこの四十年間苦しみ続けてきたのです。この、犯人のいない殺人事件の犯人は私なのです。いや、私であるべきなのです。私がそう思う時点で私は私の中で殺人犯となり、この事故は事故から事件へと、私の中で変わるのです。このように、私が私の中で殺人犯になることでしか、私が私を納得させることは出来なかったのです。あれから四十年、この彼の人生最後の場所で、私は毎日、人間を見、感じ、そして彼を感じ、そしてそれらを乗せていく列車を眺めています。そうして人間の本質を観察することが、彼の供養になると信じているのです。白いステッキを持った彼はきっと、目が見えなかったのでしょうから。だから私が彼の目になるのです。これが、初めに言った、私の使命であります。そして今日、あれから四十年の時が経ち、この『犯人のいない殺人事件』をあなたという一人の人間に打ち明け、後世に残すことが出来ました」
 その男の細い体がよろよろとその場から立ち上がった。
「必ずしも罪人がいることが罪ではないのです。むしろ、罪人自体が存在しない罪の方が、人間を苦しませることもあるのです」
 男は振り返り、私にそう語りかけた。彼の顔に、初めて柔らかな笑顔が浮かんだ。
「では」
 言い残した彼の身体がふらふらと、ホームから線路の方へ吸い込まれていく。
「何をしているのです!」
 次の瞬間、男の体が足から頭へと、一瞬にして消えていった。そして、そこに轟音が近づいた。私は彼を引き上げるべく、椅子から腰を上げた。しかし、それも遅かった。私の視界に、鉄の塊が左から右へ入り込んだ。
 ホームは血しぶきで赤く染まった。
 魔物は正体を現したものの、消えることはなかった。
 いつからか抱えていたコンビニ弁当は、もうすっかり冷たくなっていた。

2017.4.19@Mizonokuchi, Kawasaki

フォックスの冠
木村 優那

 ある城のほとりの森の中、フォックスは、彼のトレードマークであるお気に入りの冠を被り、いつものように長い間考え事にふけっていた。
 ネズミが近づいてきて訪ねた。
「フォックス様、何を考えているの?」
 フォックスはちらっとネズミを見て、ため息をついた。
「お前に話したところで俺の悩みがわかるはずがない」
 それを聞くとネズミはあきれて、くるりと背中を見せて走って行ってしまった。
 美しい鳥がパタパタとやってきて、フォックスに話しかけた。
「ねえねえ、一緒に遊ぼうよ」
 彼は首を横に振った。
「君に俺の百分の一でも知恵があればね」
 鳥は頭にきてさっさと飛び去ってしまった。
「ああ、俺ほど不幸なものなんていないだろう」
 とフォックスは悲しげにため息をついた。
 その時、草むらの葉がわさわさ揺れ、ウサギが顔を出した。
「フォックスさん、よければ私が話を聞きましょうか」
 このウサギは何十年もこの森で暮らしていて、森の中で一番の知恵者と評判だった。フォックスはウサギに打ち明けることにした。
「俺はいつも心配していなければならないことがあるんです」
「何を?」
「この冠です」
「素晴らしいものに見えますが」
「そうなんです。俺のものほど素晴らしいものは、そう多くはないでしょう。だから、いつかこの冠が盗まれるかもしれない。それが心配で、夜も眠れないほど不安になっているんです」
「なるほど、それは心配ですね」
 ウサギは鼻をぴくぴくさせてうなずいて続けた。
「だけど、冠がない方が余計な重荷も減って生きやすくなるのでは?」
 これを聞いたフォックスは驚いて目を丸くさせ、
「とんでもない!冠がないと生きている意味などないんです」
 そして呆れたように顔を背け、ウサギを横目に見やりながら、
「あなたはこの森で一番の知恵者と言われているが、そんなこともないらしい」
 と冷たく言い放った。ウサギはギロッとにらみ、鼻をさっきより一層ぴくぴくさせながら、
「フォックスさん、私は思うのですが、この森はあなたにとって小さすぎるようです」
 それを聞いたフォックスはパッと明るくなって、
「そう、そうなんです。この森は確かに小さい。俺ほど素晴らしい冠を被ったものにこんな小さな森はふさわしくない」
 フォックスは興奮して自分の太い尻尾をぶんぶん振りながら答えた。
「ではどうでしょう。この森を抜けたら城があります。そこには人間が住んでいますが、あなたにふさわしい素晴らしい庭園があります。庭園といってもこの小さな森より広く、常に手入れが行き届いて最高の環境と聞きます。そこをあなたの城にするのはいかがでしょう」
「なんと素晴らしいアイデアだ! やはりあなたは世界で最も賢いウサギだ」
 フォックスは急いで立ち上がり、さっそく城の庭園に向かって飛び出していった。フォックスが大喜びで走っていく姿を静かにじっと見ていたウサギは、しばらくしてまた草むらの中にガサゴソと消えていった。
 フォックスは意気揚々と城を目指し、走るたびに冠がずり落ちそうになるのをおさえながら進んだ。その様子をネズミや蝶がからかうように笑いながら見ているのも気にならなかった。
 そして西の空が赤く染まるころ、フォックスはやっと城に到着し疲れ切っていたが、神話に出てくる神々の庭のように清らかで美しい庭園を見て疲れは吹き飛んでしまった。
「素晴らしい。あのウサギの言っていた以上だ」
 と自分にふさわしい場所が見つかったことに満足し、寝心地のよさそうな芝生に向かおうとしたところで、気が緩んでいたフォックスの手から冠が滑り、地面に転がり落ちてしまった。慌てて拾いに行こうとしたその時、地面が大きく振動し、大きな影に覆われた。何かと思って見上げてみると、城の衛兵と思われる人間がすぐそばに立っていた。そして逃げる間もなく、捕まえられてどこかに運ばれていくのを袋の中で感じながら、フォックスは大きなため息をついて言った。
「俺の冠、誰かに盗まれていないだろうか」
 炎のように赤く照らされた庭園の隅には、もう被る者のいなくなった冠が、泥に汚れて夕日にさらされ、小さな影を作っていた。

2013.6.23@Strange Boys and Girls Museum, Ito

たぶん夢の話
永野 友莉香

 どうしてこうなったのか、あまりに突然のことで覚えていない。家族三人で泊まっていたホテルでいきなり騒ぎが起きた。廊下を走る人たちの足音や悲鳴が聞こえた。何か騒ぎが起きたのかもしれないと気づいて、とにかく貴重品だけ持って部屋を出た。
 そして、私たちと同じように逃げてきた人たちで出来た人混みに押し流されていたと思ったら、誰かに手を引かれて人混みから外れていく。どうして人混みから外れるのか分からなかったけれど、私の手を引いているのはお父さんかお母さんだと思っていたから、なんとかなると思っていた。しかし、人混みを抜けてようやく、誰が手をつかんでいたのか理解して驚いた。見知らぬ人に手をつかまれていたのだ。
 怖くなって咄嗟に手を振り払って逃げ出した。とにかく見知らぬ人とは反対方向にがむしゃらに走る。見知らぬ人も私を追ってくる。私がこんな目に遭う理由が思いつかない。鬼ごっこなんかよりもはるかに怖い。怖くてたまらない。恐怖のせいで、もしも捕まったらきっとひどい目に遭うかもしれないと考えたくもないことを考えてしまう。
 どうにか助かりたい。こういう時はどうすればいいのだろう。足は速くないからそのうち追いつかれてしまうはず。何か見知らぬ人を振り切る方法を考えた方がいい。それから、外へ逃げる方法も考えないといけない。非常階段はたしか、泊まっている部屋のある廊下の突き当たりにあったはずだけど、ここからは遠い。どこかに隠れられる部屋はないだろうか。そうしたら、追いかけてくる見知らぬ人を振り切れるし、外に逃げる方法を考える時間ができる。
 そう思って、手当たり次第に部屋のドアノブを回す。ガチャガチャと乱暴にドアノブを回しても全く開く気配はない。まずい、まずいと軽くパニックになりかけ、心臓がドクンと跳ね上がる。とにかく落ち着こうと深呼吸すると周りが見えてきた。さっきまで焦っていたから気が付かなかった。すぐそばに階段がある。この階で隠れるのを諦めて上の階に行ってみよう。そう決めて行動に移すけれど、頭が冷静になってきた分だけ、体が緊張と恐怖で震えてなかなか上がれない。今更ながら、この状況を頭も体も理解したのかもしれない。少し時間がかかったけれど、どうにかこうにか上がり終えた。
 早く隠れようと目の前にある部屋から試していく。この建物が広いおかげなのか、まださっきの見知らぬ人が追いかけてくる足音は聞こえてこない。まだ余裕があると安心しつつも、いつ、この階に上がってくるのかとドキドキしながら長い廊下を進む。空き部屋を探すも何度も不発に終わり、もう隠れる場所はないのかもしれないと思ってしまう。
 最後は廊下の突き当たりにある部屋だ。そっとドアノブに手を伸ばす。ガチャリとドアノブが回る音がした。
 開いた、とほっとする。思わずため息が漏れる。体から力んでいた分の力が抜ける。気が緩むけれど、まだ助かってはいない。ここに隠れている間に助かるための方法を考えないといけない。真っ先に試すのはスマートフォンで外にいるだろう両親と連絡を取ることだ。さっそくスマートフォンを操作して電話をかける。しかし、全く繋がらない。二人とも留守番電話になってしまう。外へ逃げられればどうにか助かると考えていたけれど、もしかしたら向こうも、電話に気づく余裕がないほどの大事に巻き込まれているのかもしれない。どうしよう。ここに留まっていても時間の問題で見つかるだろうし、外からの助けは望めない。どうしよう。どうしよう。ここにいるべきなのか、どうにかして自力で外に行くべきか。廊下に出たら追いかけてくる見知らぬ人と鉢合わせするかもしれない。怖い。怖いけれど、助かる可能性があるほうにかけるしかない。
 そうと決めれば、外に逃げる方法を考える。外に出るには、部屋から出て非常階段を使って外に出るのが一番だけれど、やっぱり私を追いかけてくる人と鉢合わせするのが怖い。こういう時はどうすればいいのだろう。この部屋の出入口は入ってきたドアだけ。それなら他に外に出られるのは、と周りを見渡す。目の前にある窓は、無理だ。下がアスファルトで落ちたらひとたまりもない。それに普段は高いところでも怖くないが、こういう時は高いところはとても怖い。他に外へ出られる場所はないかと隣の部屋に入ると、そこは寝室で大きなベッドが置いてあった。この部屋にはベランダがある。ベランダに出て、下を見てみるとホテルの中庭が見えた。噴水が置いてあり、近くにはベンチが設置されている。木や植え込みがあちこちに植えられていてちょうどこのベランダの真下にもある。クッションになりそうだけれど、実際大丈夫なのだろうか。不安が心の内を占める。
 私はここから逃げる手段としてベランダから飛び降りることを考えていた。ニュースで見ただけの情報だけれど、十数階あるマンションで転落事故が起きた時に、下に植え込みがあったおかげで落ちた人は助かったという。ここは、五階だからニュースの転落事故の時の高さよりも低い。助かる可能性はあるはず。不安なことに変わりはないが、やるしかない。けれど、このまま飛び降りるのは怖すぎる。何か使えそうなものはないかと寝室を見渡してみる。ベッドにかけられたシーツをロープのように使えばさらに高さを低くできるかもしれない。そう思って、急いでシーツを手に取る。ベランダに出てシーツを結べそうなところを探す。目に入ったベランダの柵にシーツを通していく。
 そこで、嫌な音を聞いた。ガチャリと部屋のドアが開く音だ。きっと追いついてきたんだ。急がないと。急がないと捕まる。早くシーツを結んでしまおうとするが焦ってうまくいかない。落ち着け、落ち着け。もたついている間に寝室のドアが開く。思わず振り向けば、そこには私を追いかけてきた見知らぬ人がいた。追い詰めるように、逃がさないというように、じわじわと近づいてくる。これじゃあ、シーツをロープの代わりにはできない。思い切ってここから身一つで飛び降りるしかない。どうにか追いかけてきた人を足止めできれば、その隙に飛び降りることができるかもしれない。どうすれば。どうすれば。手に持っているのは…。やるしかない。怖いし、不安だけど、助かるかもしれないなら。何もできないまま終わってしまうのは嫌だから。私は、決意を固めて柵の間からシーツを抜き取り、思い切り投げた。ばっと、広がった真っ白なシーツが、私にあと少しというところまで迫ってきていた見知らぬ人に奇跡的に覆いかぶさった。追いかけてきた人は、不意打ちに驚いたらしく、もがいて抜け出そうとしている。けれど、このシーツはキングサイズ位ありそうなものだったのでなかなか抜け出せないようだ。この隙に、とベランダの柵をどうにか不格好に乗り越えて、私は落ちた。咄嗟に目をつぶった。
 すぐに宙に浮いた感覚があったと思ったら、首が痛くなった。首を絞められている感じですごく息苦しい。何が起きたのだろう。ぎゅっとつぶっていた目を開けると、私が着ているパーカーのフードの一部を追いかけてきた人がつかんでいる。私は宙ぶらりんで首を絞められている格好だ。息苦しくて、やめてと言いたくても声が出ない。追いかけてきた人は焦ったような顔をして必死に私を引っ張り上げようとしている。しかし、その甲斐なく。追いかけてきた人の手はフードから滑って離れてしまい、私はホテルの五階から落下していく。さっきまで上を見上げていたので、空が見えた。真っ青な空は雲一つ無くて綺麗だった。そんな、のんきなことを考えたのは、落下の衝撃を感じたくなかったからかもしれない。そうして私は、落下の衝撃を感じるよりも前に意識を失った。
 「うわ…」なんでせっかくの旅行中に、こんなドラマのような怖い夢を見るのだろう。そのせいなのか、いつもよりも早く起きた。もう少し寝ていてもよかったかもしれない。母も起きていたようで、テレビを見ながら飲み物を飲んでいる。父は、まだ寝ているようだ。「おはよう」と声をかければ「おはよう」と返ってくる。早く起きたのはいいものの、朝食まではまだ時間があるはず。特にすることがなくてなんだか暇だ。とりあえず私も何か飲もうかなと備え付けの冷蔵庫からお茶を取り出す。そして、ソファに座ってテレビを見る。情報番組が放送されているがいつも見ている番組と違うのはなんだか違和感があって、旅行の時はいつも慣れない。あちこちテレビを回すけれど、結局元の番組に戻してしまった。「面白くないね」とつぶやくように話すと、「でしょう」と母がすでに試したのだと分かる感想を返す。
 やっぱり暇になって、母に私が見た夢の話をしてみた。すると、「サスペンスドラマの見過ぎというか、まあ、昨日ドラマ見たからじゃない?」と言われる。昨日の夜遅くまで、特番でサスペンスドラマが放送されていて母と見ていたのだ。「そうかもね。すごい影響されてる」と笑いながらいろいろ話していた。そのうち、父も起きてきて、「朝ごはん何時からだっけ」と聞いてきた。「食券に書いてあるでしょう。見てみてよ」と母に言われ、ホテルの人にもらっていた食券を見ると七時半からと書いてあった。「七時半からだよ」と伝えて時計をちらりと見る。今は七時十分を回ったところだった。せっかくだからスマートフォンを持っていって朝ごはんの写真を撮ろうとスマートフォンを充電コードから引き抜いた。それから暇つぶしにとスマートフォンを操作していればあっという間に時間になり、そろそろ行こうと部屋を出る。父に続いて私も母と部屋を出る。
 部屋を施錠して、エレベーターホールに向かって歩いていると、後ろが騒がしくなってきた。叫び声もする。「え、何?何かあったの?」と父と母と話していると、すぐ横を家族連れや大人が、何かから逃げるように走ってくる。これは逃げたほうがいいと私たちも逃げ始める。すぐに逃げてきた人で人混みができて、その流れに流され始めてしまう。そして、あっという間に父と母と離れ始める。離れまいと人混みをかき分けて進むが、距離は縮まらない。この状況、軽くパニック状態なんじゃ…と思いながら進んでいると、いきなり誰かに手をつかまれた。グッとつかまれたまま、人混みとは違う方向へと連れていかれる。力が強くて手を振り払えない。
(え、ちょっと待って、どこ行くの?というか、この状況、まるでさっきまで見てた夢と同じような状況だ…。さすがにあんなことにはならないよね、いや、ならないで…。怖い。どうか夢と同じになりませんように。私の手をつかんでいるのは、お父さんかお母さんでありますように。夢のようなことは絶対に御免です。)私は、ひたすら夢と同じことにならないようにと願っていた。願いながらも、つかまれた手を振りほどくことができないまま、私は人混みから連れ出されていった。

2019.3.28@Nara-Dreamland, Nara

Bとの思い出
木村 高大

 その日は残暑厳しい8月末の2学期の初日だった。私の名前はAで当時小学校6年生だ。クラスは3組で生徒数は35人である。どうやら私の通う小学校は1クラス36人が定員になっているようだ。その日からちょうど15年たった今でもその日のことを思い出す。
 朝日が入る教室は小学校に来た時間から、すでに30度になっていた。窓際の席とはいえ、風があまり入らないから蒸し暑く、その上日差しが直接あたる。隣の席は空席になっている。「隣の小学校はクーラーが付けられているのに、うちの小学校にはまだないので不公平だ。これなら家に居るほうがまだましだ」このようなことを考えていた時にチャイムが鳴った。
 先生が来た。「おはよう、みんな元気だったか。今日から2学期が始まる。みんなにお知らせがある。今日から新しい生徒がこのクラスの仲間になる」といって職員室に戻った。「きっと職員室で待機している生徒を連れてくるのだろう」私はどきどきした。「転校生のかわいい女子がくるのかな。そうすると隣に座るに違いない。どうやって声をかけようかな」すると5分くらいして先生が生徒を連れてきた。
 クラス全員にどよめきが走った。生徒は小柄な男子である。性別が問題なのではない。見た目ですぐに障がいを持つことがわかった。先生が言った。「新しい仲間は名前をB君という。B君は転校生というわけでなく、近所の養護学校にいままでいた。しかしお母さまのたっての要望があり、校長先生が了承したので、この小学校に来ることになった。脳性まひのハンディがあり、しゃべるのが苦手かもしれないが、体育・家庭科以外の授業には対応できる。みんな仲良くしてほしい」それからBのあいさつがはじまった。「・・・・はBです。・・・・します」Bはかなりの吃音がある。たぶん「私はBです。これからよろしくお願いします」と言ったのではないかと思った。そして期待が崩れる瞬間が来た。先生は「B君、ちょうどA君の隣が空席なのでそこに座りなさい」と言った。こうして最初の1日が始まった。
 Bの授業中の様子はみんなと違うところがある。授業は聞いているものの、字を書くことが苦手なようで、ノートにとることはなかった。休み時間にはおしゃべりをしたり、スマホに夢中な生徒が多い中、Bだけは手先が不自由なせいかスマホを操作せず、iPadに向かっていた。私は人と群れるのが好きではないため、好きな音楽を聴いていた。給食時間女子は体型が気になる年ごろなのか小食だ。一方男子は早食いが多い中、Bは手が少し不自由なため食事は遅かった。
 Bが来てから2週間ほどたったころ、休み時間にヒソヒソ話を耳にした。女子を中心に多くの男子も入り、「キモイ」とか「ばい菌」という言葉が聞こえてくる。どうやらBのことを話題にしているらしい。肉体的にも障がいがあるので、直接的な攻撃はないものの、精神的ないじめである。多くの生徒はBに対し無視し始めていた。私は人に同調するのは関心がないので、Bと最低限の会話をするのみだが、このごろBがiPadで何をしているか興味を持った。当初私は障がい者は暗く沈んでいる存在と思っていたが、意外にBはいつもニコニコしているのも不思議だった。
 小学校高学年ではクラスで委員会が設置されている。生徒は何らかの委員会に入ることになっている。10月から新学期に入るので、9月下旬には新委員を決めなければならない。ちなみに転向した時期が時期なのでBは特に委員会には入っていなかった。生徒の多数が了承すれば委員は決定だ。先生は「私は職員室に居る。だから学級委員2人を中心にみんなで決めるようにしなさい」と言っていなくなった。結局学級委員はそのままで、広報委員は目立ちたがり屋の生徒4人、体育委員はスポーツ好きな4人に決まり、他の委員も決まった。残るは文化委員4人のうち1人とその他委員10名だ。私は学校の委員会にも関心がないので、何も希望しなかったところ何と文化委員それも音楽担当になってしまった。実は本心はその他委員であった。その他委員の仕事は毎日の授業後の黒板消しとゴミ出し、そして各委員の補助で、非常に楽なポジションだ。最終的にBは希望する委員があったようだが、その他委員のゴミ出し担当になった。
 ある日思いがけないことがわかった。休み時間に音楽を聴いているとBがニコニコしながら声をかけてきた。1か月隣に座っていれば、ある程度はBが何を言いたいのかわかるようになっていた。曲が終わったところなのでBに向き合うとiPadの画面を見せてくれた。そこには譜面が記載されていた。私は「この曲はBが作曲したのか」と聞いたところニコニコうなずいた。私は子供のころピアノを習っていたので一応譜面は読める。その曲は長調でやさしく力強い曲であった。Bは休み時間に作曲しており、ちょうど曲を書き上げたのだった。そして、私が文化委員の音楽担当になったので、声をかけてきたというわけだ。「今までに何か楽器演奏の経験があるか」質問したところ、ちゃんと弾けるわけではないが、リハビリを兼ねてチェロを指の運動のために習っていることがわかった。音楽そのものは独学で勉強したとのことである。他の生徒とは違い、私はBに一目を置くことになり、よく話すようになった。
 10月になったのに、明日は季節外れの台風が直撃する。小学校は明日臨時休校になるが、前日から雨は降らないものの、午前中から風が激しい。こんな日に事件は起こった。ゴミ出し担当のBは先日体調が悪く授業終了後すぐに帰宅したのだが、ゴミ出しを別のその他委員に頼まなかったため、ゴミが1日そのままになってしまったのである。早速ホームルームの時間でBへの個人攻撃が始まった。「障害者と同じクラスはいやだ」とか「何もできないからその他委員なのだから責任を持つべきだ」とか差別的な意見が聞こえるうちに、私は頭にきてみんなに言ってしまった。「みんなが言うように確かに決められたことはやらなくてはならないと思う。でも障がいがあるからと言って、Bにだけゴミ出しをさせるのはいけないのではないだろうか。実際Bはしゃべるのが苦手だし、運動するうえでも厳しい面がある。だから広報委員でアナウンスさせたり、体育委員で競技の進行をさせたりすることはかなり厳しいと思うし、もし担当させたらいじめだと思う。できることはお願いするのが仲間だろう。みんなは知らないが、Bは音楽に秀でていると思う。だから文化委員の音楽担当補助として、協力してもらうことを認めてもらいたい」その時風は少しおさまり、弱い雨が降っていた。
 Bと何人かの生徒は泣いていた。
 文化委員の仕事が忙しくなってきた。そして問題に直面した。吹奏楽部のレパートリー曲が不足し、もう1曲演奏する必要がでてきたのだ。有名な作曲家の作品を演奏するには時間的そして技術的に困難だ。そこで私はBが作曲した曲を使用させてもらうようBにお願いした。Bはとてもうれしそうな表情でうなずいてくれた。
 11月3日は文化祭だ。吹奏楽部の演奏が始まる前に曲の紹介があった。「この曲は6年3組のB君が作曲しました。B君は2学期からこの学校に通うようになり、1か月かかって作曲したものです」すると保護者からはヒソヒソ声がしてきた。どうやら保護者の間でも、否定的に思われているらしい。しかし演奏が始まると聴衆は真剣に聞き入り、終了後には盛大な拍手が巻き起こった。秋晴れのもと文化祭は満足いくものだった。
 冬休みになって家族で山形県の祖父母の家にいくことになった。今年の正月は田舎で迎えることになった。私はお盆以来田舎に行っていなかったので、2学期のことを祖母に説明した。そうするとどうしてもBの話題が中心になった。すると祖母は「山形県の昔話に『大歳おおどしの火』という話があるの。ひとの嫌がるものを預かった結果、そのものは後で金の塊になっていたという話よ。B君は最初みんなによく思われていなかったみたいだけど、今はAだけでなくクラスのみんなにとってかけがえのない仲間になったと思うよ」私はこのかけがえのない仲間という言葉がいまでも特に印象深い。
 みんな仲良く小学校の卒業式を迎えたあと、急に父の転勤の話が出てきた。どうしても引っ越しが必要になり、クラスメートのほとんどが同じ中学校に入学する中、私は他県の中学校に入学して今にいたる。小学校を卒業してから、Bに会っていない。もし連絡できれば一つだけ伝えたいことがある。「15年後のいま私は障がい者に関する仕事をしており、とても充実した人生を送っている」と。

2018.12.9@Hakozaki Junction, Tokyo

食用花
柳澤 瑠名

 俺は、枯れることができなくなった。花屋でシェフに選ばれた時点で。
 俺は食用花である。よくある観賞用の花ではなく食用として特別に育てられている。この世に種として生まれた時、これからの人生を想像した。芽が出て、葉が出て、つぼみになって、花を咲かせて、枯れてゆく。花として生まれたからには人々に美しいと思われたかった。俺はパンジーだから、きっと公園の花壇を彩っただろう。時期が過ぎれば仲間とともに枯れて土になっただろう。
 しかし、俺は花を咲かせて終わりのようだ。食用だから、一番美しい時に摘まれて食べられる。しかも、料理のメインになるわけではない。たいていは飾りだ。
 いやになる。なぜシェフに選ばれてしまったのか。なぜ食用として育てられなければならないのか。
 ただ、一つだけ救いがある。シェフは花を摘んだ後も最後まで愛情を注いでくれるのだ。このレストランは花を使った料理を出すことで有名らしい。シェフは花を含めていかにおいしく美しく料理するかにこだわりを持っている。
 しかし、それはシェフに限る。俺は以前、無駄死をするところだった。
 ある日、新人シェフがやってきて隣に咲いていたいくつかのパンジーを摘んでいった。新人はそれらをサラダに利用しようと、ばらばらにちぎり、花びらだけ残した。そして、あとは捨てたのである。花の部位によっては料理に映えないもの、そもそも人間が食べられないものがあるためだろう。それだけでなく、客に出されて戻ってきた皿には俺の仲間だけきれいに残されていた。おいしくなかったのか、そもそも食べ物として認識されていなかったのか、わからない。もちろんそのまま捨てられた。
 俺たちは無力だ。鉢の中で育てられている俺たちは自分で生きていくことができない。人間に恵んでもらわなければならない。水も、栄養も、光も。人間は偉大だ。俺たちを生かしてくれる。だが、それゆえ俺たちの人生を決めるのも人間だ。生き方も死に方も自分で選ぶことができない。ただでさえ俺たちの寿命は観賞用より短いのに。自分たちでは何もできない。俺たちはなんて無力なのだ。
 どうせ食用として生きるならば食べられるのが一番だ。捨てられるなんてありえない。だが、捨てられるほうが多いのが現実である。

 今朝のことだった。ついに俺は収穫された。シェフによって水で洗われて、まな板の上に並べられる。ふと隣を見ると、一緒に収穫されたもう一輪のパンジーが、ばらばらにされまいと懸命に背筋を伸ばしていた。俺も同じように花びらの端から茎の先まで誰よりも美しく見えるように力を入れた。人間から見たら何も変わらないのだろうが。
 シェフの隣に新人がやってきた。どうやらこいつが料理するようだ。新人は隣のパンジーを手に取り、花びらをちぎり始めた。あんなに必死に抵抗したのに。新人には届かなかったようだ。仲間がちぎられているところは俺でも見ることができなかった。その間だけ俺は目線をそらした。
 次に新人は俺を手に取る。俺はただ流されることに決め、全身の力を抜いた。
 その時、シェフが声をかけた。
「新人、そのパンジーは砂糖漬けにする。そのまま置いておいてくれ」
 新人は、わかりました、と俺をまな板の端に置いた。
 予想外だ。俺は助かった。少なくともばらばらにはされないようだ。
 隣のパンジーの様子をうかがってみる。サラダ用らしくすでに原形をとどめていなかった。その様子を見たシェフはまた声をかけた。
「新人、またちぎったのか。パンジーは丸ごと食べられるからそうしなくていいと前にいっただろう」
 新人は、すみません、と謝った。
 驚いた。俺らは丸ごと食べることができる? ちぎらなくていい? つまり俺たちは、ばらばらにされる必要がない花だったということか。
 俺は今までに収穫されていった仲間を思った。もし、新人がもっと早くそれを知っていたら、俺の仲間はより良い最期を迎えることができただろうに。
 シェフの一言で仲間たちが捨てられるという事態は随分と減るだろう。俺たちの敵は今、一つ消えた。
 シェフによって砂糖漬けにされた俺はケーキの中心に添えられて、ある小さな兄弟のデザートになった。最後は俺の取り合いになるほどの好評。満足である。

2012.7.25@Negishi Forest Park, Yokohama

おわりとはじまり 
えこぴよん

 今日は、岡山に住むばあちゃんの、70歳の誕生日会だ。
小さい頃は毎年夏休みに家族で遊びに行っていたが、ここ数年ですっかり行かなくなっていた。

 夜中に車で東京を出てから、もうすぐ5時間。うっすらと夜が明けてきた。父さんは一言も喋らない。ハンドルを握る手は、なにかと闘っているかのようにきつく握り締められている。
 本当は行きたくなかった。辛いと分かっていてそれでも行くのは、ものすごく勇気がいる。でも出発の時、父さんの顔を見たら僕は何も言えなくなってしまった。

 「着いたぞ」父さんが初めて口を開いた。寂れた山奥にある村の外れに、今日は何台も車が止まっている。


 集まった親族が、世間話をしながらばあちゃんの作ったご馳走を取り囲み始めた。僕は一番端の席に座った。久しぶりの再会でみんな会話は弾んでいるが、その顔にはどことなく陰りがある。
 でも、ばあちゃんだけは違った。みんなを見ながら、心底幸せそうな笑顔を浮かべているのだ。

 どうして、笑うことができるんだろうか。

「うわあー、おばあちゃんのごはん、どれも美味しそう!」
「ちょっと、食事の時ぐらいゲームはやめなさい」
「あら、あきちゃん、面倒見が良いわねえ」
 ばあちゃんはずっとニコニコしている。

「雄大くんは何歳になったの?」
 隣に座っていたゆきおばさんが、黙ったままの僕を気遣って話しかけきた。答えようとして顔を上げた、その時だった。
 僕は気づいてしまった。みんなの、注目を浴びていることに。
 そこらじゅう、目、目、目。全部こっちを見て、僕が何かを言うのを待っている。何か、何か言わなきゃ。急に心臓が暴れだす。みんなの目が僕を取り囲んで、じわりじわりと押しつぶそうとする。息が苦しくなる。痛いほど握り締めている手が、汗でぬるぬるしてくる、ああいやだ気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い…


「雄大は、17歳になったんじゃろ?」

 ばあちゃんの、柔らかい声がした。

「昔はよちよち歩きじゃったのに、そんなに大きゅうなって、わたしが年取るわけじゃなあ?」
 いつの間にか、ばあちゃんが隣に来ていた。ここに来て、初めて目が合う。優しい、それでいて奥に強い光を持った、あの時と変わらない目。
 ああ、やっぱり会いたくなかった。
 気づいたら僕は、逃げ出していた。



「おまえって、臭いよな」
 7年前、僕が小学四年生だったとき、隣の席の男子がいきなり僕にそう言い放った。
 目が、笑っていなかった。完全にゴミを見るような目つきだった。これほどあからさまな敵意を、僕は誰かに向けられたことはなかった。目立つようなことはしていなかったつもりだった。でも、その日からいじめは始まった。
 今思えばあれは、小学生のただの遊びったのかもしれない。彼が今、何をしているのか、どこにいるのかも知らない。でも、あの目だけはなぜか、あの敵意に満ちた目だけは、何年経っても未だに頭から離れない。その日から僕は変わってしまったのだ。

 その年の夏も、僕はばあちゃんちに来ていた。家に帰る日、学校が始まってしまうのが嫌で、僕は帰りたくないと泣きわめいた。
 するとばあちゃんは、奥から小さな瓶を持ってきた。そして、その中に色とりどりの金平糖を詰めて、僕に渡した。きっと父さんから話も聞いていたのだろう。
「雄大、悲しい時は、甘いもん食べりゃあええよ」
 そして、急に真剣な顔になると、こう言った。
「ばあちゃんは、ずっと味方じゃけんね。100歳でも200歳でも生きて雄大を守るけえ、辛かったらこっちにくりゃええよ」
 僕は思わず、吹き出した。
「ばあちゃん。そんなに生きるの」
「生きるで。おまえを残して死ぬわけにはいかんけんな」
「ばあちゃんが200歳のとき、僕生きてないとおもう」
 父さんが離婚してから、僕は1人の時間が多かった。一年に一回しか会えないばあちゃんだけど、ばあちゃんの真面目な顔がなんだかおかしくて、嬉しくて、僕はまた泣いた。

 
「雄大?ここにおったんか」
 ばあちゃんの声で、外でうずくまっていた僕は現実に引き戻された。辺りはもう、暗くなっていた。
「金平糖、食べるか?」
 その顔はいつも通り、優しかった。僕はもう耐えきれなかった。
「ばあちゃん、どうして笑えるの」

 ばあちゃんは首を捻りながら少し考えて、こう言った。

「どこにおっても、雄大を守ることはできるじゃろ」
 そしてまた、にっこりと笑った。



 次の日、ばあちゃんは死んだ。
 享年70歳。死因、安楽死。

 老人は等しく、70歳で安楽死を迎える。
 あの夏から半年も経たないうちにそういう法律が公布されて、もう7年になる。
 100歳でも200歳でも生きると意気込んでいたばあちゃんの寿命は、70歳に確定された。
 はじめは倫理的な面で絶えなかった批判も、少子高齢化や老人の孤独死、介護問題などの解決に瞬く間に繋がって、みんな何も言わなくなった、らしい。むしろ、これが本当の平等だと言い始めた人までいる。
 
 僕は、死まで残り53年。
 僕もばあちゃんのように、笑顔でその日を迎えられるのだろうか。まだ先のことだと思っていたけれど、もうそれほど長くない様にも感じた。
 机の上の、小さな瓶がふと目に入る。中身は空っぽだ。まずは、金平糖を買いに行こう。

2017.12.15@Peace street, Naha, Okinawa

六窓一猿 短編ver
美濃部say to ziro

 朝ぼらけの都内一等地にある邸宅の一室に瀟洒な女性はいる。使用人に多少の世話を受けながら、わずかな身支度を整えた彼女は自室を出ると居間へ向かう。休みの日は両親と顔を会わせつ、会話を交わしながらに並べられた食事へ優雅に手を伸ばすのが決まりである。
 一定の満腹感のみを感受し始めた頃に
「弟は殺されたのよ」
 瀟洒という言葉には酷く及ばない顔で女性は告げた。
「小夜に弟などいない」
 父は返す。この会話に消魂したのは父だろうか、女性だろうか、それとも二人であろうか。時間外れの空気に耐えられなかったのだろう母はころりと告げる。
「小夜ちゃんは浅井家の一人娘じゃないの」
「違う。何で弟が居ないかのように言うの。そんなに外聞は大切なの」
 瀟洒だった女性は絶叫するかの如く反発する。それに父は息一つつくと躊躇いながらも一枚の紙きれを渡す。紙切れにはただ住所が書かれているだけだった。
 父は女性が紙切れを見たのを確認すると、明日よりそこで暮らすように命じた。そして小夜がその家にいる間に弟は解決せんと。
 小夜は多少なりとも悩みはすれど、その命令にすんなりと従った。
 もし、殺害された弟を如何するかと言えていたならば、変わっていたのではなかろうか。



 瀟洒な女性が邸宅から黒塗りの高級車の後部座席に乗り込むと、中年の運転手は静かに車を発進させた。その運転手は名を財前と言い、大学時代は海外で精神分析を研究していたというが、今や年相応の風貌をこしらえた男で、浅井財閥の当主の家で働く男とは到底思えない程ぱっとしない姿であるが、小夜のプライベートから出勤までの足を任せられる程には信頼が厚い。因みに浅井財閥とは元は清和源氏義光の流れを汲む武士の家系であったのだが、明治維新以後に商売が成功し第二次世界大戦そして戦後日本を支えた財閥である。
「しかし、小夜のお嬢さんも独り立ちですかい」
「弟の事を詮索されたくないのよ。体よく追い出されたの」
「浅井財閥の一人娘ですし、すぐに戻れましょう」
「あなたまで弟を」
「失敬、失踪されたのでしたな」
「そう、殺されたのよ」
 先程の様に言葉は荒れる事無く会話は続いていく。
 そして中原街道を通り、石川台で右折していく。小夜は窓側へ移動しカーテンを僅かにまくるも、その行動に意味を見出せず元のように居直る。
「ところでお嬢様。私は弟様にあまりお会いしたことはないのですが、一体どのような子だったのでしょう」
「そうね…」
 突然の質問に小夜は多少困惑しているようだった。
「希望が具現化したような子よ。自分ならば何でも成せるという自信家と言うべきかしら。私好みの可愛い弟だったのけれど」
 港で愛する男を見送るべく旅客船にハンケチを必死に振り終えたように、何処か無力感にさいなまれるようなニュアンスがその言葉には含まれていた。
「人は自らとは違うものに惹かれますからな」
「失礼ね。私だってそのように生きておりますが」
 運転手は失敬、失敬、とからりと答えると、「しかし」と付け加えたが思考を数巡させるとやめてしまったようだった。
 それから環八通りを過ぎ、運転手は到着を告げる。
「では、私事で何かありましたらいつでもお呼びくださいね」
 財前が頭を下げると同時に、小夜は建物へと入っていく。



 周囲の家々と違い、和風な門と似合わぬ質素な表札が構えられており、足を上げくぐり抜けると、一昔前の政治屋が構えた家を彷彿とさせる邸宅であった。無論、父は政商であるから自らもそれに含まれるのであろうが。
 私は眼前に広がる松と苔の庭園に多少の感動を覚えながらに通る。どこか存在しない「無」の匂いも感じた。もし人がいれば自慢げに詫び寂だと高説してやろうと思ったが、浮かぶ言葉は美辞麗句な虚無的言語で表現されるだけであるとも自覚し僅かに恥じる気を起こそうとも思った。
 ゆっくりと練り歩いていると、老いた一人の松の木に思考が吸い込まれた。
 苔むしひび割れた肌だけでなく、若き頃から縛っていたのであろうとぐろを巻く紐で頭をもたげたそれは、私に多大な同情と哀愁を感じさせるとともに、ぽっかりとした空洞を見つけると恋慕の情を誘われた。
 しかし、垂れた枝々の一部が武田菱の灯篭の上に陣取り、「これを映えさせん」という意思を私に感じさせると、ただ吐き気が自らの体を犯し続けたのである。
 先程の情を捨て、次は灯篭と眺めていると菱の間より何にも似合わぬ木を見た。ここには無縁な赤く体を染めあげたリンゴだ。
 実ったそれは、紅葉もない日本庭園にはただ異質なもので、私はここの主の風情を無に帰す不手際に大変な怒りを覚え、憤慨してやろうとも思ってはいたが、湧いてくる情は何故か尊敬の念のみであった。
 そうしている内に邸宅へ着くと、それは機械的に扉を開け侵入していった。
 何の気も感じさせない奇妙な家であると思ったが、奥より一人の若く無精ひげを生やした男がやってきているのが目についた。
「貴女も誰だ」
 端的な言葉で問われ、私も端的に応答する。
「浅井財閥の浅井家当主浅井源朝臣新一郎が一人娘、浅井小夜です」
 そう答えるも男は若干の不快感を顔に浮かべ、くるりと体を翻し戻っていき奥の縁側に座り込んだ。
 私は丁寧に靴を脱ぐと男の元へ駆け寄っていった。
「貴女の名は何でしょうか。お呼びの仕方がわからないものでして」
 表札で予め名字は見ていたものの、それでは呼べないと判断し聞くに至った。しかし、その言葉への応答に多少の時間をかけると「君で良い」とだけ伝えた。
 そう答える男の目線は縁側の正面に位置する池と先程のリンゴへと向けられていた。
「あの、リンゴの木は君が植えたのですか」
 質問は多少ぎこちないが、自らの興味と場のためにと脊髄反射的に口から出る。


 君が先生と何れの目標を持ち、ただただ無心で山を登っている。数刻程の時間が経った頃には周りより草木が低く君の事を観察してくるだけであった。
「何故ここを登らんとしているのか」そう問われた君が何らの答えを返す。
 さすれば草木は酷く君に激高し、先生は君を殴りつける。
 君が登り終えた時、先生へ登頂の喜びを伝え分かち合おうとするだろう。
 すると先生は私を殴りつけたのであった。


 私はここに来てよりの疑問を投げかけることにした。
「父よりここで暮らすよう言われたのですが、君はここの主であるか」


 君が先生と何れの目標を持ち、ただただ無心で山を登っている。数刻程の時間が経った頃には周りより草木が低く君の事を観察しているだけであった。
「何故ここを登らんとしているのか」そう問われた君が何らの答えを返す。
 さすれば草木は酷く君に激高し、先生は君を殴りつける。
 君が登り終えた時、先生へ登頂の喜びを伝え分かち合おうとするだろう。
 すると先生は私を殴りつけたのであった。



 僅かな内ではあったが、私はこの男より異質さからか一種の狂気を見出していた。そして、この男ならば私の弟の話を理解できるのではないかとも思い立った。無論、浅井家に関係ないと思われるこの男だからこそも存在したが、精神的主柱で見本たる父母から貰えぬ反応を求める場合、それは常人で出せぬという一種の空想が私を支配していたからである。その思考が私の全てであったと理解するのは少々先であるが。
「私には弟が居るの。智識に貪欲で何事も熟せると信じて、実際にやって見せようという自信家の」
 私がそう伝えると、男は「そうか」と呟くと、やっと張りのある声を出し始める。
「好ましい言葉だね」
 私はこの応答に疑問を抱きつつも
「弟が殺されたの」と一言加える。
 すると男は先ほどと変わらぬ口調で言った。
「ならば、私は人を殺した事があるかもしれない」
 私にとってそれは衝撃と共に困惑しか呼ばなかった。この男にどのような動機があろうかと。どんな小説のマクガフィンだとしても説得に値しないと感じる。
 しかし、この応答は私にとってとても心地の良いものであった。弟の死に対する初の共感者が現れたのである。
 だが、これは私にとっての新たな苦しみでもあった。弟の死に対しての同意得られた今、弟を如何したいのかがわからないのである。自分より先に死んだ弟の後を追うべきだろうか、追悼すべきだろうか、唾を吐きかけるべきだろか。
 自らの弟が一体どのような存在だったのか、理解が不可能であった。
 私は男へ一つ質問を投げることとした。
「子供とは一体何なのですか」
 そう聞いた男は酷く不快な表情を浮かべた。
 私は今までの反応より、男が一般という存在を嫌悪しているのではないかと推測した。きっとこの場合は一般論を嫌悪していたのではなかろうかと。
 そう気づくと一言取り繕う。
「哲学的な質問です」
 そうすると男は一転して声を上げて破顔一笑しながら、「学問なれば、心得には反するが先立ちの役割か」と言うと、ただこう告げた。
「説話では、神様は純粋な子供にしか見えないものだ」


 君の目の前には年老いた神が一柱おわす。
 すると不遜にも君は神へこう問うだろう。
「もし、神がいるならばどのようなものか」
 すると神はこうおっしゃるだろう。
「きっと全知を持つ心もないより小さな子供であろうな」


 空を眺めつ青北風受けて、鯉に落つ掌の餌。この身向かうは分からずに、悩み君へと聞くこと叶えば、一問一答、蒟蒻問答。解けぬ由あらぬは俗世の退廃。居丈高にと常に構えば、遂には隠れる出雲八重垣。

 この邸宅へ来て半日も経たぬ頃ではあるが、私は男にいつと判らぬ内に敬意を抱いていた。当然ながら恋慕を抱いているわけではない、明朝の財前との会話を思い出す。
 私の持たざるものがここにはあるのではないかと。
 ◆(ここには何も存在しない)◆



 学問的会話として少々の会話を交わす途中、私が話を止め聞き返すとこう答えた。
「物質と精神は増減しあうが、同時に存在するわけではない。はじめに物質があるから精神が存在するのだ」
「では、精神がなければ如何なるのでしょうか」
「不識」
 この会話はあまり意味を成さぬ事だと理解はしていた。私自身は両親より家のため儲ける事を第一と言われて生きていたためであり、精神の存在は元より求めてはいないからである。
 では、この男は一体何を考え生きていたのだろうか。私は男の圧倒的に高尚な精神にも幾分は惹かれた。
「君は何を考えて生きて来たのですか」
 男の反応よりこれに躊躇ためらわれているようであったが、遂に一言ぽつりと口より漏らす。
「子供の頃は万能感に浸っていた。それは君も含め誰しもがそうだろう」
 私が理解し終えぬうちに、男は一つ付け加える。
「世間のほぼ多くの人は疑似的だが十分に子供だよ」
 そう呟く男は、はじめて悲痛な顔をしていた。
「では、子供で何がいけないのでしょう」
「不識」



 夜が降りてくる。その頃になると、男は自然の内に寝てしまったので、私は新しき自室でパソコンを開くと幾ばくかの時間触れ、丑の刻も終わる頃には寝ることとした。
 そして夜が明ける頃には、身支度を済ませ会社へと向かう事となった。
 そんな頃に私は父より一通のメールを受けた。これより一週間は家で謹慎する事という内容であった。会社は父により有休を使用することとなっているらしい。

 私から仕事が奪われることは致命的な苦しみであった。父の権力で今の会社には居るため退職する事こそないが、私自身の存在価値がそこに存在する以上は自らの生存理由さえも見失うことになるからである。



 新しき邸宅へ引っ越し、次の日曜の頃、私は二人の友人と食事の約束をしていた。
 そのため私は父と祖父が築き上げた東京でも有数の街のカフェへ来ていた。いささか早くに着いてしまった私は二人の友人へ連絡をし先に店に入る。
 名を告げ店長に二階の店を見渡せる席へと案内され、座るとメニューは覗かずに、一杯キームンを注文する。
 近年のキームンの多くは一笑に付しても構わぬようなものが多い。それなりの店の物でも同じである。その中で私が頼んだこの店は、比類ない程に一級である証だともいえる。
 香りを楽しんでいる頃に二人の友人はやってきた。



 三人が会って食事をするのは実に一年と半年ぶりである。
 三人が順番に店員に注文を終えると、長髪の友人が切り出した。それは昨年度大学を卒業した彼女らにとってお互いに気になる仕事の近況である。次に短髪の友人は言った。
「小夜はいいよねぇ お父様のコネを使えて、仕事もそんなに辛いわけではないでしょう」
 その友人は皮肉気でなく、純真に聞いているようだった。
「なわけないでしょ、逆に周りよりハードルを上げられているくらいよ」
 小夜はそう答える。すると短髪の友人はさらに言葉をかける。
「いや、絶対に私のが大変よ。だって仕事をさぼっても首にはならないって心の余裕だけでも全く違う」
 そうして、話が進みながらにテーブルの皿は徐々に減っていく。
 全員が飲み物の三杯目を貰った頃には、今の話から過去の就職時の話に戻っていた。
「未だに、この仕事で良かったのかってわからないのよね」
 そう長髪の友人が言い、さらにこう言葉を載せていく。
「自分にとってもっと良いものがあったんじゃないかって」
 そうして昔話に花を咲かせ、夕頃に小夜が浅井家の邸宅への用事で帰る必要が出たため、次の約束をした上にお開きとなった。



 私は一週間を通じて、足りないと気づいたものを持っていくべく、浅井家の邸宅へ訪れ自らの荷物を整理していた。
 すると、部屋の扉をノックする音が聞こえたので許可を出すと、瀟洒な妹が入ってきた。妹は大学在学中に結婚し、名字を変え浅井家から出て行っていた。無論、喧嘩しての家出ではなく、自らの力のみで生きたいという妹たっての希望による円満なものである。その結果、今年の就職は非常に苦労したらしいが、現在では社会人としてしっかりと働いている。
 そんな妹は扉を開けると私に飛び込んできた。

 そうして今、私は妹と近況を話す事になり愚痴も聞くことになったのである。
「で、今夫に子供を作ろうって話を頻繁にされるわけ」
 と妹は必死に私へ訴えかける。
「それは良かったじゃない。男性の方が拒むパターンのが多いのだもの」
「まあそれはそうだし、不満は持ってないのだけども。今の時代選択肢が大いに増えて、私にはどれを選べばよいのかも。それで自分が社会に何を残せるのかも」
 私に妹の最後の言葉は鋭利なナイフとなって腹部へ突撃された。私自身の人生において残すという事は本質的に存在しなかったからだ。浅井家の令嬢として育てられてきた為に、令嬢の云わば役割演技しか知らないのである。私と同じ環境で育ったはずの妹とはいつ分かれてしまったのかという疑問と共に、大きな衝撃として私を驚かせた。
「極論だけど、人間が絶滅したらどんなに偉大な功績があろうと無意味になっちゃうんだもん」
 私が言葉を告げずにいると妹が言葉を続ける。
「ただ私は自由を得て、自由にした代わりにされる可能性もあるのだから、明日の為にも頑張らなくてはいけないのだけど。私の代替はいくらでもいるから」
 妹のその苦悩を他人事だと断じずには居られなかったのは、自らの精神世界への防壁が崩されるのが何よりも怖く、その中は非常に空虚で底を知られたくないという浅ましき根性が、今一度精神性を明らかにできず内因的開放を完全に封殺していたからである。
 次に出た言葉はただ弟が殺されたという話だけであった。そして妹はそれを知っていたようで、同時に自らより優秀だった弟は重荷であると同時にただの脅威でしかなく、喜びはせずとも関心が無いというのが最終的な返答であった。



 妹と別れた後、居間にいる両親へ挨拶に向かうと父より私が明日から無職となるとだけ伝えられた。そしてそれに関連する書類などもである。これは自らが退職する理由を聞き落とすほどに衝撃を以って伝えられた。
 この自らが浅井家の令嬢であるという役職と誇りはこの時を以って私から姿を消したのである。
 これで私はただの浅井小夜になったのであって、私自身に残っているのは日本において最高学府を卒業したという証と、一年半で会社を退職したという汚名だけで、私の身は自由社会という名の太平洋沖に投げ出されたのである。
 そしてこの日を境に私は妹と二度と会えなくなってしまった。



 家に帰れば、私はこの苦しみを大声で絶叫していた。私に何のとががあって職を解かれたのか。わが身が海に流れ一体どこに行きつこうか。心と言うのは非常にもろいものであって、一度壊れてしまえば後は液体がなくなるまで漏れ続けるのみである。思えば、思春期に愚直にも自由というものに憧憬の念を抱いたものだが、どこにそれがあろうか。全ての愚かな人間に天命と云うものが授けられるものでなければ、今の社会は人を殺すだけではなかろうか。
 今後私はどのような大義名分に従って生きていけというのか。私でなくてはいけないというものが存在しない以上、一体このうつけにどんな存在価値があるのか。
 私がそう嘆いているのに耐えられずか、男がこちらへやってきて深呼吸を促す。息を吐くのもままならず、吐けたときには嘔吐までしてしまう惨状だった。
 男へ私はただ問う。
「私たち人間はどこへ向かおうというのか。私はどこへ向かえばいいのか。歩いているのはシルクロードなんかよりも遠大で、終わりなき道が私を苦しめるだけじゃないか」
 男はこの問いに遂には答えなかった。男も最低限の配慮というものは持っている。人として最低限ともいえるが。無論、耳を貸していなかった可能性も否定はできない。
 
 遂に男は泣きわめく私に「網をとおる金鱗に一度なってみろ」と告げるだけだった。


 ◆君がやっとの思いで就職出来た会社では、君の傍らで君の仕事を二人が監視している。一人は僧でもう一人が共産主義者である。中途半端以下の仕事をすると首になってしまう。まず君が我を忘れ仕事をすると僧は大変に激怒して警策で叩いてくるが、仕事をサボタージュすると共産主義者は君の事を警棒で殴りつけるだろう。◆



 瀟洒だった女性が倒れると、浅井家では大急ぎで病院ではなく本邸へ運び、そこで監視を行う事となった。両親としても、小夜は一人娘であり勘当しているわけでもなく、自らの家を継ぐ婿養子のための大切な人間だからである。



 私が目を覚ました時は、いつか分からぬ木曜日であった。私はすでに神経衰弱を起こしていた。自らが一体何者であるか分からないのは、神経衰弱のせいであったのだろうか。今まで精神を犠牲にし得てきた知識と諸価値が一瞬にして全て崩壊し残ったのは僅かな正気と自らの肉体だけである。そして私に自由社会への変革までは対応できたとしても、その後の自らの存在価値の否定だけは耐えうることが出来ないのである。
 もはや私の代わりなど幾らでも存在するのである。私である必要性がない。
 唯一他人と差別化できるのは肉体そのもののみである。
 
 多少なりとも落ち着いた私が周りを見渡すと、世界は1910年代の映像フィルムの様なモノクロの世界観となっていた。そうして多少の身支度を終え、部屋を出て廊下を超えて行き居間に入る。
 そこにはメイドの服を着た、母の服を着た、父の服を着た、ゾンビのようなものがそこにはいた。父の服を着たものに声を掛ける。
「ママは今日もきれいだね」
 すると、驚くことに返答をする。
「お世辞でも嬉しいわ。ありがとう、小夜ちゃん」
 私は母の服を着たものにも声を掛ける事とした。
「ママは今日も美しいね」
 すると、同じように返答をする。
「お世辞でも嬉しいわ。ありがとう、小夜ちゃん」
 今にも気が触れそうな光景であるのに、私はあまり違和感を持たずにこの場に馴れることが出来てしまっていた。
 その内、メイドの服を着たものが液体の入ったティーカップを持ってきた。
 モノクロの為に判断が難しくあったが、いつも通りの紅茶だと思えばその通りの味であった。母の嗜好で家ではダージリンだが、今日ばかりはキームンだったかもしれないと思えばまさにその通りであった。
 いや、これは紅茶ではなくて緑茶ではなかろうか。そう思えばその通りである。
 いや、これは緑茶ではなくて珈琲ではなかろうか。そう思えばその通りである。
 いや、これは珈琲ではなくて炭酸ではなかろうか。そう思えばその通りである。
 この奇妙な出来事に私はどこか自然な気分であった。
 
 
 
 邸宅を出て近くを当てもなく散歩する。
 外の人々も全員がゾンビのようなものになっていた。
 この世界に人間は私一人なのだろうか。それとも自分以外の存在が所謂人間なのだろうか。私はこの世界に身を置く原因に思い当たるところなく、ただ困惑を極めていた。
 どのゾンビのようなものに、私の個人情報を聞いてもすべてが答えることが可能だったのである。
 要するに、全てのゾンビのようなものは、人間のようなもっともらしい応答を取ることが出来るが、それだけの存在ではなかろうか。
 ただこれはゾンビのようなものでなくても言える事だと否定した。云わば人間相手でも、果たして相手が尤もらしい動きをしているだけで、本当に自分のような心の動きを持っているのかという事である。
 私は邸宅に戻り四人乗りの高級車を動かすと、一人で男と居た家へ向かう事とした。
 
 また私は運転しながらも思考を数巡させる内に一つの結論を出した。
 私以外の全ての人間自体の価値が消えてしまった世界ではないのだろうかと。
 その結論が出る頃には邸宅への到着を迎えていた。
 
 扉を開けると中には何も変わらぬ男がいた。いつも通り縁側からリンゴの木の方を見守るだけである。
 私は男がゾンビのようなものになっていないことに非常に驚嘆した。男だけがこの世界で唯一自分だけの存在価値を持っていたのである。
 
 だが、男を見つめる内に違う結論を抱いた。私が初めに男に見出した一種の狂気は、ニヒリズム的狂気だったのではないかと。根本的に存在価値を保有していないために、人の形をしているのだけなのではないかと。自らの誤想を酷く悔いると、私は男へ侮蔑の過剰を大いに抱いた。例え妖怪でも自らに存在価値を求めているだろうにと。
 
 その内私は自らが何故今までその考えに至らなかったかを考える事となった。自明である。私は浅井家の人間で日本国民だったのである。私自身に存在価値を求める必要など元から不要であった。自らの清和源氏義光流という立派な血筋に、浅井家という立派な家系に日本国という素晴らしき印籠こそが自らであり、全てである。
 
 そうすると私の先程まで持っていた侮蔑の感情は憤怒へと変貌した。特に怒りを感じるのは日本庭園にあるリンゴの木である。この調和を破壊する存在は一体何であろうか。
 そして納屋にあるチェーンソーを持ち出すと、リンゴの木を一思いに切断した。
 心は満ち足りていた。リンゴの木は切られてもなお立派に倒れていた。さらに心は満ち足りた。私は立派に倒れ込むリンゴの木に現在は敬意を抱いている。最期までに立派に生き倒れたことに。
 
 振り向くと男が先程と何も変わらぬ状態で座っている。
 私はこれに侮蔑の感情を支配される前に足早に邸宅を出る。すると、日本庭園の恋慕を抱いた事のある松の木が折れている。空洞を中心にである。私はこれに美学を見出した。何と素晴らしき最期だろうか。そのまま去って車に乗り込むと、都心を目標に車を発進させる。
 
 今の私は大変に高揚していた。狐憑きと言われても可笑おかしくないとは自覚していた。
 ただ、わずかな時間で自らの価値観を得る方法を二つも得たのだ。生前如何な倒木であったとしても、ついには輝けるのである。生を得ている内は何にも価値や美学など存在しない。他者との自己同一性という馴れ合いと死こそが、自らを必要とされるべく存在にするのである。往年のヒットラーやムッソリーニに毛沢東とスターリンそしてチャーチルはどれほど気持ちの良いものだったか。私の脳内に存在する彼らに私は酷く陶酔する。
 私は途中で「」を購入し、市ヶ谷方面へ車を進めた。
  
  
  
 浅井小夜は浅井家の人間として、日本国民として、自らの命を持ってこの国に殉じようではないかと。
 私の頭の中には美しく散る私と英霊の姿が大渦となっていた。
 愛国心と滅びの美学は永久に不滅である。
 
 ◆ただの大いなエゴイズムを大義名分で隠そうなど正気の沙汰でない◆
 
 先の大戦の英霊が祀られる靖国神社の前に彼女は車を止める。彼女の思考は自らも日本国の英霊と共になりたいという危険なエゴイズムと、日本国を苛むものを自らと共に炎で浄化し自らの事件を機に改革せんという危険な思想であった。
 彼女は先ほど炎の色だけは見えることを確認していた。
 標本木を過ぎ、鳥居を通り抜ける。そして彼女自身がガソリンを被る。
 
 
 
 彼女が最期に見たのは、美しい炎の色であった。
 
 
 
 今や日本は平和の象徴であろう。近年ではショッキングなテロなどは一度も起きてはいない。また、日本経済を一翼を担う浅井財閥も何ら問題などなく順調に成長している。
 
 
 
 ◆君はソフィアに渡し物をするために訪ねに行く、マンションの一室のインターホンを鳴らす。さすれば君に目の前にはソフィアが出てくる。君は「ソフィアへのプレゼントさ」と言って物を渡すだろう。すると、ソフィアは「いえ、私はカチューシャです。同居人にソフィアはいますが」と言って免許証を出してくる。君は「じゃあソフィアに渡しておいてくれと伝えるでしょう」するとカチューシャは「直接会う事はありませんので」と言って断られた挙句に扉を閉められるでしょう。◆
 
 男は今日も今日とて同じ場所をぼおっと見ていた。男は小夜の死の事を多少なりともは考えていた。
「生きるも死ぬも根本は何も変わらないだろうに。自らのそれを切り捨てる事とは、それほどに難しく空虚に見えるのだろうか」
 男の誰かに対する問いかけは無駄に終わった。
「願わくば、魑魅スダマにこの身をやつしても、最後の一人まで見守らせ給え」

2018.5.16@Kawaramachi-housing complex, Kawasaki

ワガハイは
タ行が言えない。

 今日もまた、美味しい匂いがした。
 ふんわりと甘い香りが風にのってきて、あんなに眠かったのにすっかり目はさめてしまった。
 わたしはすぐにその匂いにつられて、匂いの元へと向かった。
 すると、いつも通り白く細い腕が伸びて、「あっちで待っててね」と優しく笑いながら言った。
 ももちゃんが作る料理は、いつも美味しそうでいい匂いがした。
 今日は何を作っているんだろう。わたしも食べていいのかな。いつもより甘い匂いがするな。クッキーか、スコーンか、それともケーキかな?
 わたしはあんまり多くのものを食べられない。
 みんなと同じものを食べると、どうやらわたしは死んでしまうらしい。
 でもそれは、麦ちゃんも同じらしかった。
 麦ちゃんというのは、私のお姉さんのことだ。二つしか歳が変わらないのに、彼女はなんでも知っている。わたしと違って、彼女はいつも落ち着いていて静かで、頭も良かった。
 ももちゃんはよく、わたしにももちゃんの「カレシ」の話をした。
 わたしにはよくわからないし難しい話だった。でも麦ちゃんはその手の話は大好きみたいで、ももちゃんをいつも羨ましがっていた。
 オーブンに何かが入っていくのが見えた。
 しばらくすると、甘く香ばしい匂いがして、わたしはまた我慢ができなくなった。
「麦ちゃん、ももちゃんはさっきから何を作ってるの?さっきからすごくいい匂いがするよ」
 隣で昼寝をしている麦ちゃんを起こして、問いかけた。
「パイか何かだと思うよ。それより少し寒いから、そこのブランケットを取ってきてほしい」
 寝起きだからか、麦ちゃんの目はまだぼんやりしていた。
 わたしは麦ちゃんにブランケットをかけてあげると、またすべての神経を鼻に集中させた。そのくらいいい匂いがした。
 麦ちゃんはさっき、「パイ」といっていた。
 わたしは聴いたことがなかった。
 ああ、私にも、ももちゃんのあの「小さいのに便利で、なんでも知っているもの」があったらいいのに、と思ったのはこれが初めてではなかった。
 だめだ。もう我慢できない!
 わたしは再びキッチンに駆け寄った。
「また来ちゃったの」
 ももちゃんは、困ったように笑った。
 だって、おいしいにおいがしたから。
 わたしは言葉をうまく話せない。
 伝えたいことはたくさんあるのに、それを言葉にするのがわたしには難しかった。
 だから、いつも言いたいことはぜんぶ態度で表した。
 一緒に出掛けたいときは服の袖をつまんで、一緒に寝たいときはブランケットを持っていって寄り添った。
 じっと、甘えるような上目遣いでももちゃんを見つめた。
 みんながこれに弱いことは、実は麦ちゃんが教えてくれた。
「一個だけだよ」と言って、うす黄色い、なにかの欠片をわたしにくれた。
 それが何なのか、今のわたしにとってはどうでもいいことだった。
 噛むと、しゃくしゃくと歯切れのいい音がして、みずみずしくほんのり甘い味が口いっぱいに広がった。あまりに美味しかったので、わたしはそれを一瞬で食べてしまった。
 いつのまにか麦ちゃんも起きていたのか、ももちゃんからわたしと同じものをもらっていた。
 ただ、わたしとちがって、麦ちゃんはそれを大切そうに、丁寧に食べていた。まるで、それの味わい方を知っているみたいだった。
「いまの甘いのは、なんていうの?」
「りんごだよ。だから今日は、アップルパイを作っているんじゃないのかな」
 それだけ言うと、彼女はまたお昼寝をしてしまった。
 わたしはあんまり多くのものを食べられない。
 言葉もうまく話せない。
 考えごとをするとすぐに眠くなってしまうし、そもそも物事を考えることが苦手だ。
 だけど今は、あのおいしい「りんご」のことが気になった。
 あれはなにでできているんだろう?
 どこでつくられているんだろう?
 考えてみたら、知らないことだらけだった。というより、知らないことしかなかった。
 そしてわたしはまたいつも通り、いつのまにか眠ってしまった。

「ねえ、ももちゃんと同じになりたいって思う?」
 麦ちゃんが、いつにも増して真剣な表情で聞いてきた。
 まだ眠気で覚醒していない頭で、麦ちゃんの質問の答えを探す。
「わからないな。わたしは今のままでも十分毎日楽しいよ」
 考えたもの、わからなかった。わたしがわたしじゃない世界なんて、考えたこともなかった。
「じゃあ、もっといろんなものを食べてみたいとか、遠くに行ってみたいとか思ったことはないの?」
 麦ちゃんはわたしの答えに納得していないようだった。
 それもそうだ。だってわたしの答えは答えになっていない。
「もっといろんなものは食べてみたいな。遠くは危なそうだし怖そうだから、あんまり行きたくないな」
「ほんとにいつも食べることばっかり」
 麦ちゃんは笑った。
「だって、ももちゃんはいつもおいしそうなものたくさん食べてるよ。わたしたちにはくれないのに」
「たしかに、昨日ももちゃんが食べてたシチューはすごくおいしそうだったね」
 ももちゃんはいつも、わたしたちが食べられないものもおいしそうに食べていた。それを羨ましいとは思う。でも、本当に食べてみようとか、ましてや自分がももちゃんだったらなんて考えたこともなかった。
「でも、わたしたちはいろんなもの食べたら死んじゃうんでしょ?」
 いつもももちゃんが言っていた言葉を思い出して、わたしは麦ちゃんに聞いた。
「そうだったね、死んじゃうらしいね」
「死ぬのは嫌だから、それならどんなに美味しくても食べないほうがいいな」
 死んだことはないからわからない。
そもそも、死ぬのがどういうことなのかもあんまりわからない。
 でも、ももちゃんが「死んだら嫌だから」といつもきまり文句のように言うから、死ぬのはきっと嫌なものなのだろうと思う。
「それもそうだね。わたしはまだ死にたくないや。まだわたしのままでいたいな」ふふ、と麦ちゃんは笑う。「くだらない話してごめんね。わたしたちは、わたしたちのままでいたいよね」
 なにがおかしいのか、麦ちゃんはまだ笑っていた。
 麦ちゃんは、死んだらどうなるのか知っているみたいだった。
 わたしがわたしじゃなくなって、ももちゃんになる世界。
 いや、ももちゃんでもないかもしれない。
 近所の猫かもしれない。
 それは嫌だなぁ、と私は思う。
「わたしもわたしのままでいたいな」
 麦ちゃんの真似をして、わたしは言った。
 わたしたちはそのあともくだらないことで笑いあって、気づいたらまたお昼寝の再開をしていた。

「お散歩行くよ」
 ももちゃんの声で、目が覚めた。
 麦ちゃんはもう準備ができているのか、すでにももちゃんの隣にいた。
 お散歩。一日のなかで、いちばん好きな時間。お昼が過ぎて、暗くなる前だとわかる時間。
 きっと今日も、あんまり遠くには行けないだろう。
 急いでももちゃんに駆け寄って、玄関まで連れて行ってもらう。
 わたしはあんまり多くのものを食べられないし、言葉もうまく話せない。遠くにもいけない。麦ちゃんのように賢くはないし、ももちゃんみたいに多くのことができない。
 でも。
 それでも。
 わたしは、ももちゃんと麦ちゃんといるこの世界が好きだ。
 わたしのままが好きで、こんなに毎日が幸せだから、わたしはわたしでよかったとも思う。
 いろんなことができなくたっていい。
 欠けていても、それがいい。
 わたしはわたしでよかった。
 秋晴れの空に、わたしたち三人は、いつも通り仲良く駆け出して行った。

2013.12.22@Nippondaira-Zoo-Amusement Park, Shizuoka

白黒女が色彩を求めて
小林 千尋

 4時半にセットしてあったはずの目覚ましを見ると、それは既に15時を回っていた。
 たまにはこんな日もあって良いかと、理想の自分が、ミルク色の日差しに微笑んでいる姿が脳裏に浮かぶ。あくびで視界の焦点が戻り、じんわりと我に帰った。現実の自分が、手に取った時計に目をやると、「もう1日が、終わっちゃうぞ、寝坊なんて、もったいない」針がそう連呼して、私を煽ってくる。寝ぼけていながらも、お湯がゆっくりと沸騰するかのように、ふつふつと苛立ちがこみ上げてきた。何かが勢いよく壊れる音がして、体がびくついた。その音は、自分が無意識に、時計を壁に投げつけた時に出た音だった。

 今頃みんなは、しりとりをしながら、順番待ちでもしているのだろうか。
 自分は今日、クラスメイトたちが遊びに行っているレジャーランド、ティモシーパークに行くのをやめた。もっと正確に言えば、起床時刻である早朝4時半に、自分の意思で急遽行かないと決めたのである。
 昨日は、自分が通っている高校の文化祭の最終日だった。装飾を片付けている時、「明日ティモシー行こうぜ」と、一部の人たちから話が浮上した。文化祭をやり切って、今すぐにでも眠ってしまいそうなほど、疲労困憊だった私にとって、また、同様の状態でもあった他のクラスメイトたちにとっても、少し急過ぎる話だった。

 ある程度昨日の出来事を思い出していたが、一旦思考を巡らすのを止め、私の体を無力化させている、布団の温もりから抜け出した。顔を洗い、消しカスが広がる勉強机の前に座る。私の目の前には、放牧された乳牛の群れの未完成の鉛筆画が広がっている。母と家のアルバムを整理していた時、両親がニュージーランドに新婚旅行に行った際の写真を見つけた。ホームステイ先の夫婦が営む牧場で撮影したものらしい。私は、乳牛の白と黒の柄が織りなすシュールさと、集団で今にも動き出しそうな瞬間を丸々切り取ったようなその写真に心惹かれ、1ヶ月前から描写している。これほど臨場感を感じる写真は、なかなか貴重だった。この躍動感をより模写するため、久々水彩画にでも挑戦しようとも考えた。だが、私は昔から、様々な色味を、バランス良く使うことが得意ではなかった。版画も鉛筆画も、なかなかのセンスがあるのに対し、絵の具を使うと、なぜかクオリティが格段に下がってしまう。中学の時は、美術教師から「白黒女」というあだ名で呼ばれ、よくこの欠点をいじられていた。ただの趣味で描いている絵画ということもあり、あまり無理な挑戦はせずに、今回も無難に鉛筆画を選んだ。
 既に9割完成していて、今日はついに、大詰めに差しかかっている。

 今回の集まりは、打ち上げ的な意味を持った開催なはずなのに、クラスメイト全員で遊びに行くのではなく、誰かが勝手にその人の好みで誘う人を選んだ。メンバーを選ぶ幹部は、化粧ポーチがやたらと大きい女子4人組と、いつも群がって奇声を発している男子3人の集団だった。そういう奴らに限って、準備の時には、手ではなく口をよく動かすし、クラス用に手配されたカメラには写りたがるので、クラスの写真には彼らばかりが写っている。
 私は、そのティモシーパークに行くメンバーとして声がかかった。その他にも、いつも昼休みに教室の隅でゲームをしている男子数人と、化粧ポーチたちとは、違うグループの女子5人が誘われた。文化祭終わりで、疲れ切っているゲーム男子たちだったが、その幹部たちに誘われたことが嬉しく、ここで行かなければ流れに乗り遅れると、二つ返事で誘いに乗った。それに対して女子たちは、互いの膝の上に乗り合い、しばらく戯れた後、みんな先約が入っていると、5人とも口を揃えて誘いを断った。
 1人がチケットをまとめて買っておくと言い出した。招集されたメンバーたちは、一斉に財布を取り出し、決まった金額をその1人に集める。お金を数える人、その隣で「女子5人全員来ないなんて、絶対口裏合わせてるじゃん」と陰口を楽しんでいる人、ハイテンションになり1人でゲラゲラ笑っている人、顔が引きつって上手く笑えていない人、話す相手がいなくて放心状態の人。誰もお互いのことなんて考えていないのに、この場に集まっていることに意味があるとでも言うように、彼らはクラスの中心に群れていた。
 私は、チケット代6500円に対し、所持金は3000円を切っていて、その場でお金を預けることができなかった。そして結局、自分だけ前日券が買えなかった。当日券を買い求めに、みんなより1時間早く現地に向かい、列に並ぶ選択肢もあった。しかし、朝4時半に起床した当時の私は、極度の疲労とあの人たちへの不信感から、彼らを軽蔑している自分の心に従い、布団に戻ったのだった。

 群の先頭にいる全身が写っている牛、腹部の凹凸を表すための影の部分がある。削りたての筆先を慣れさせるために、違う紙にゆっくり鉛筆を動かし始めた。
 筆先が馴染み、少し丸みを帯びてきたら、画用紙の上ではさらに鉛筆を微細に動かす。1本の線の集合体として、色をつけてはならない。紙と筆先が、かするかかすらないかくらいのところで手を動かすと、線としての強調はなくなり、均一に色がつく。
 始めは見えないくらいに薄く色を塗り、全体のバランスを見て、段々と濃さが決定していく。他の部分と強弱の差をつけるために、一箇所濃さを変更すると、またその色との差をつけるために、他の色も全て濃さを変えていかなくてはならない。まるで空気を読むように、調和を保つことが重要である。

 私にとって、絵を描く時間はとても有意義なものである。空腹を忘れ、起きがけに逆立っていた心を、やっと静めて自分の世界に入りかけていたところで、携帯の通知が鳴った。目をやると、まだ抜けていなかったトークルームに、パーク内で撮った写真がもう送られてきていた。見たくないはずなのに、私は通知を開く。そこには男女が混ざって楽しそうに写っている彼らがいて、次々と写真が送られてくる様を、私はただ眺めていた。

 自分の意思はさておき、空気や流れを読みたがるあいつらの群れを、あれほどにも私は哀れだと思っていたはずなのに。ふと我に帰ると、髪も乱れ、食事もせずに1人狭い部屋で絵を描いている自分が、どうしてこんなにも惨めで孤独に思えてしまうのか。

 乳牛の斑紋を塗りつぶすのに、私は何度も鉛筆を折る。いくら削って塗り直しても、奥底に封印できていたジェラシーが込み上げ、また蘇ってきた感情が筆圧と化し、幾度も芯がはじけ飛ぶ。
 
 もっと素直に自分を出して、人と交わることができたなら。
 1人1人違う人間なのだから、まとまろうとなんてしなくて良い。
 そんな風にみんなが思えたら、人は自分を主張しながらでも、もっと分かり合えるのに。
 群れたがりの愚かな奴らは、どうして調和を保とうとするのか。

 白黒で描かれた牛の集団と、ティモシーパークにいる彼らが重なって見えた。

 私は、それらが保とうとしている調和を破壊したいと強く感じた。さらに私は、何とかしてその欲求を満たさなくてはいけないと察した。
 私は部屋から出て、寝室の物置に向かい、中学以来ずっと眠っていたアクリルガッシュを引っ張り出した。
 無作為にチューブを手に取り、放牧の絵画に直接、中身を躊躇なく出していく。色とりどりの絵の具のイモムシたちを、水分を含ませた太い筆で叩き潰した。モノトーンの群れの上、私は、その絵の具たちを一気に塗り付け始めた。

 もっと、ぐちゃぐちゃに、思うままに、混ざり合って、――――

 夢中で動かしていた肘が本棚に当たり、本が落ちた。その音で、ぷつんと電球が突然切れたように、私の手は止まり、体の力が一気に抜けていった。どのくらいの時間没頭していたのだろう。周りを見渡すと、教科書や写真たてに、絵の具が飛び散っている。鉛筆で描かれていた絵画は、アクリルガッシュが、カラフルな落ち葉のように散らかり、牛たちの面影はまるで見えなくなった。

 手の動きに任せ、何度も筆を擦った画用紙の中心部分は、色んな色味が混ざりすぎて、もはや泥のような色になっている。
 皮肉にも、衝動に駆られて作った私の色は、色彩を持てない、黒ができあがっていた。

 翌日、教室の後ろでは、昨日集まった精鋭のメンバーが、楽しかった余韻に浸りながら馬鹿みたいに大きな声で騒いでいる。私はその横を通り越して、教卓前の自分の席につき、聞こえないふりをしながら、1時限目の準備を始めた。

2018.2.24@Shimo-kitazawa, Setagaya, Tokyo

夢中噺
Soinaf

 明晰夢。明晰夢とは人が夢の中で認識した状態で見た夢の事をそう呼ぶ。この夢の中ならば自分の思い通りに内容を変えることができると言われている。明晰夢を英語で表記すると「Lucid」と表せられる。

 「ルシッド」。商店街がシャッターをおろし、昼間の賑やかさが消えた頃、同時にこの店の看板は光りだす。この小さな、夜にしか開かない店には毎晩様々なお客が訪れる。

 堂安は今日も同僚に愚痴っていた。
「今日も先輩の失敗を押し付けられて、上司に怒られてさぁ~。毎度毎度責任転換。完全に職業選択ミスったわ。また就活の時に戻ってやり直したいわ」
「またその口癖か。お前は事あるごとにあの時に戻って、もしもあの時~っていうよな」
「だってそうだろ。現実が最悪なんだから。もしもあの時とか考えないとやってられるかよ」
「わぁ~たよ。仕事が終わったら飲み行くか?」
「そりゃいいな。じゃあいつもの店で」

 仕事が終わり。同僚の今泉を待っていると一通の遅れるというメールが届いた。仕方がないので一人いつもの店に向かう。堂安には、いつも同僚の今泉と飲みに行く店がある。「アリディ」という名のその店は決してきれいではないが店主の明るさと、俺らのような一部の物好きで成り立っているぎりぎりの店だ。店に入ると客は俺らしかいない。いつも隅にいる老人を除けば…。
 いつもの席に着くなり今泉に言った内容とほぼ同じ愚痴を店主に言った。
「きょうも仕事で嫌なことがあってどうにもならなかったんだよ。過去に戻ってやり直してぇな。マスターもそう思うことないかい?」
 すると店主が言う。
「そんなに過去に戻りたいなら向かいの店に行ってみたらどうだ?」
「過去に戻れんのか?」
「いや、俺もそんなには知らないが不思議な体験ができるって話だぞ。いつもこんな店に来てくれるお礼に教えるけど、誰にも言うなよ?」
 おれは半信半疑この話を信じなかった。しかし待てど暮らせど今泉は来ないので向かいの店に行ってみることにした。

 向かいの店は外見が既にぼろ小屋同然だった。そこには「ルシッド」と店の名前らしきものがあった。入口のドアの前まで来て帰るかどうか迷う程に…。心をきめドアを開けてみると蝶番ちょうつがいの錆びたギぃ~という音とともに長く細い階段が伸びていた。今度こそ入るのをやめて引き返そうと思ったとき扉がパタンという音とともに閉まった。俺は焦って出ようとしたがさっきまで開いていたのがウソのように扉は開かなかった。あきらめて俺は階段を下ってみた。ぎしぎしと音を立てながら慎重に下るとまた扉があった。またかと思いながらも開けてみるとびっくりした。そこには何とも言えない幻想的な雰囲気が広がっていた。天井には線路が敷かれていておもちゃの電車が同じところを走っている。壁にはドリームキャッチャーが吊るされていてゆらゆらと揺れていた。しばらく呆気にとられているといきなり
「いらっしゃいませ」
 という声が後ろからした。そこには髪が目までのび、着物を着た女性がいた。俺が何もしゃべれないでいると
「今日は何に致しましょう?」
 おれはとっさに声が出なかったが、思い付きで壁にかかっているドリームキャッチャーについて聞いてみた。
「どうして壁にこんなにも大量のドリームキャッチャーが吊るされているんですか?もっと他に飾れるものなんかあっただろうに」
「夢はひとそれぞれ沢山のものがあります。あぁなればよかった。あぁすればよかった。などの様々な願望が形となり映像となる。それが夢です。その夢をキャッチしてより長くいい夢を見てもらいたい。そんな勝手な思いが込められているんです」
 そんな意味が込められているのかと納得していると
「体験してみますか?」
 俺は一瞬なにを言っているのかわからなかった。
「いきなり言われてもわかりませんよね。実際に体験してみたほうが分かると思います」
「???」
「では、準備をするので少し待っていてください」
 何もわからないまま、言われるままに待っているとしばらくして声をかけられた。
「こちらへどうぞ」
 そういわれて渡されたのは壁に掛けられていたものと比べるとすこし小さめのドリームキャッチャー。絹で紡いだような真っ白な色に輝いていた。
「何ですか?これは」
「これをもってこの部屋で眠りについてください。そうすれば自分の望むような映像が頭に浮かび、いい夢が見れますよ」
「まだ言ってる意味がわからないんですが…」
 そんな私の疑問に答える素振りすらみせず女は淡々と説明を続ける。
「それから今、手に持っている白いドリームキャッチャーについてですが、夢の中でも身に着けているはずです。基本的には自分の思った通りにみている事実を変えることはできますが、夢の内容を書き換えれば書き換えるほどそのドリームキャッチャーの色がだんだんと変わっていくでしょう。ドリームキャッチャーの色が完全に白から変わってしまう前に戻ってきてください。それでは」
 俺は何が何だかわからないままただただ呆然としていた。部屋を出て行った女を追って部屋を出ようとしたとき自分に起きている異変に気付いた。俺の足の自由が利かないのだ。そのまま、なにか穴に落ちるような感覚に陥り意識がとんだ。

 ガヤガヤとした忙しそうな音が周りから聞こえる。目覚めには良いとは言えない音だったし、五月蠅うるさすぎてもう一度眠りにはつけなかった。だんだんと意識がハッキリしてきた。そして驚く。自分がいるところは周りがビルで囲まれていてスーツを着た見慣れた人間がせわしなく歩いている。そう、俺の務めている会社の前だった。一瞬パニックになった。昨日飲みすぎて家に帰らずに寝てしまったのだと思ったからだ。急いで立ち上がり会社に向かおうと走り出そうとしたとき何か違和感を覚えた。その違和感の正体はすぐに分かった。自分が周りの人間に認識されていないからだ。もう何が何だか分からなくなってしまった。周りの人間に助けを求めようとも周りには認識されていない。一回落ち着いて考えてみた。そういえば意識が飛ぶ前に女がいろいろ言っていたなと思いだした。いや、まてよ。そういえば他にも何か言っていたが思い出せない。まぁ時間がたてば思い出すだろう。
 さて、とりあえず出社してみよう。周りの人間に認識されていないのなら会社の人間   にも認識されないだろうし、ひょっとしたら俺のいないところで必要とされているかもしれない。そんな期待をしつつ、いつもの職場に行ってみた。入口に着き、入ろうとすると中から怒鳴り声が聞こえた。
「またお前のミスだぞ。これで何度目だ。もう勘弁してくれよ」
 俺の代わりにだれか叱られてるぞ(笑)とわくわくした様子で覗いてみると俺は言葉を失った。なぜならそこにいたのは自分自身だったからだ。何が起きているのかわからなかった。俺はここにいる。周りからは認識されていないという不思議な状況下に置かれているとはいえ、自分自身を見ることになるとは…。慌てふためいて自分の腰に手があたると身に覚えのない場所に異物があると気づいた。そこには白のドリームキャッチャーがストラップのようにくっついていた。そのことに気づきやっと思い出した。着物を着た女の事。ドリームキャッチャーについてのこと。おそらくこれは夢で基本的に自分の思い通りにすることができるということ。そこまで思い出すと急に安心感がこみ上げ、その感情と一緒に急に目の前にいる自分が不憫に思う感情がこみ上げ、どうにか助けられないかと考えた。これは俺の夢だ。なら自分が怒られていない現実を作り上げてしまえばいいじゃないか。そう思うとなんだかワクワクした。俺は思った通りに変えてみようとしたがやり方がわからなかった。とりあえず強く願ってみたらスッと一瞬暗くなり、視界が開けたらさっきとは真逆の光景が広がっていた。それは、俺の上司が叱られている光景だった。その時の俺の心の中はやってやった、この夢の中ならばすべてが思い通りだという優越感でいっぱいだった。そのあとも様々な場面で自分の思い通りに都合のいいように書き換えて、満足していた。さあどんどん書き換えていこうとした時、ふと腰にあるドリームキャッチャーをみてみると白だったはずの色が紫に変色していた。
「そういえばなにか戻らなければならない的なことを言われた気がするな」
 と呟くと一瞬めまいのようなものがした。しかし、そのことをあまり気にも留めないで自分自身の都合に合わせてそのあとも書き換えていった。

 しばらくするとどうにもならない痛みに襲われた。そのまま意識が遠のいていくのを感じたのを最後に、また穴に落ちるような感覚と共に意識を失った。

 目が覚めるとそこはもと居た店だった。顔には朝日が当たっていた。起き上がり部屋の中を見渡すと壁に飾られていたドリームキャッチャーがないことに気付いたそのことに違和感を持った俺は他にも違和感を覚えた。それは日の光だ。この部屋に来るのに俺は地下に降りていたはずだ。なのに日の光が顔にさしていた。俺はまだ自分の夢の中だと思い、試しに店にいた女を呼んでみた。
「おぉ~い。まだいるか~?…出てくるはずがないか、これは俺の夢だもんな」
「なにかご用ですか?」
 俺は驚いて振り向いたらそこにはあの着物を着た女が立っていた。
「いや、特に用ってわけではないのだけど君がいることにびっくりして…。そうだ! せっかくだから君にも俺の夢を見せてあげるよ」
「それはできません」
「なんでよ?」
「なぜならあなたにはすでにその体験はできないからです。渡したドリームキャッチャーを見てください」
 そこには白色の輝きがすっかり消えた濃い紫色のドリームキャッチャーがあった。
「なんだ、ドリームキャッチャーが原因ならまた新しいものをくれよ。そうしたらまた体験できるんだろ?」
「残念ながらそういうわけではありません。そもそもここはあなたの夢でもありません」
「どういうことだよ」
「あなたはドリームキャッチャーの色が変色しきる前に戻って。という唯一のルールを守れませんでした。その結果、体のある元の世界に戻れなくなってしまったのです」
「じゃあここはどこなんだ」
「なんといいましょうか…。元の世界でも思い通りになる世界でもない…。ちょうど狭間の世界とでもいいましょうか」
「俺はどうなる?」
「とりあえずここから出るなんて選択肢は考えないほうがいいですね。前例がないので」
「明日も会社があるし…第一、元の世界で人1人いなくなったら大騒ぎになるだろ」
「あっその点はご心配なく。私にも理由はわかりませんが。この空間に囚われた方の存在は一部の人を除いて完全に消え去るので」
「そんな…俺はどうしたらいい?」
「まぁどうにか頑張ってください。それでは私は戻ります」
「ちょ待っ…」
 俺が引き留める間もなく着物の女はきえてしまった。これからどうするか。どうしようもない孤独感がぐっと1人だけのこの部屋に押し寄せる。

 場所はかわり「アリディ」店内。店主とくたびれた老人が話している。
「あの若者は無事に帰ってこるだろうか。店主殿はどう予想する」
「堂安が帰ってくるのは難しいでしょうね」
「なぜそうおもう?」
「…直感ですかね(笑)」
「店主殿の直感は毎度驚かされるものがあるからな、今回も店主殿が戻らないと思うのならそうだろうな」
 そう話すと老人はまた黙り、店主も店の奥に消えていった。

2017.8.23@Kiyosato, Yamanashi

光源
上 颯斗

 小学2年で父親の転勤で転校を余儀なくされ、保育園が同じだった友人と離れてしまい、転校先で新たに友達を作ろうとしなかった。中学1年でも同じ事情で転校をし、転校先でも同様だった。高校では、また転勤で何処かに行ってしまうのだろうと初めから友達を作る気がなかったが、気が付けば同じ高校で3年間過ごしており、人間関係に恵まれることのない高校生活を過ごしてしまった。そんな転勤に振り回された私が、周囲の人間がコロコロと変わっていくなか共通して憧れていた存在が、周囲から頼られる奴だった。能ある鷹は爪を隠す、とはよく言ったもので、普段それほど目立ちはしないのだが、いざとなれば鋭い爪を晒し、依頼人のために機能する。規模が大きいほどその鷹は支持され、精神的支柱となった。 
 私は大学でも、独りだった。10年以上友人作りに励まなかったため、ノウハウがあまりに足りなかった。ただその分、憧れと向き合えた。「頼られる」ということ、それに価値を見出すための転校続きの過去だったのだと開き直る。そして気付く。なにも鷹は見える存在に求められる必要はない。実態の掴みにくいものにこそ捕食本能が湧くというものなのだと。眼前が晴れ渡る。鷹を夢見るその鳥は孤独に高く羽ばたき、国を見下ろした。そしてニヤリと笑みを浮かべると、鳥はかつて舞い飛べていた場所へと戻っていった。そこは、私がかつて通っていた保育園だった。
 11月の半ば、自分にとっては充分寒い時期だ。家を出る予定の時刻まで、あと5分に迫っていた。冷たい窓に顔が触れぬようゆっくり近づき、外の様子を確認する。少なくとも4階の高さからはマフラーを身につけている人は見当たらない。マフラーが掛かっている椅子にむかい、天気予報を横目に持ったり掛け戻したりを繰り返す。「まだ早いんじゃない?」と私の朝食の皿を洗いながら母親が言う。父親は黙って新聞を読んでいたが、基本母親に反対することはない。テレビからの声だけがしばらく流れると、ようやく持っていく方向に決心できた。いつから首に巻いて行こうか迷うくらいなら、今日をきっかけに出来ればいいと思った。
 かつても今も、辰馬たつま保育園へは自転車である。電車を使う方が早いのだろうが、何よりかつての道のりが目に焼き付いている。卒園までずっと、ペダルを漕ぐ母より前に居座り、通り過ぎる景色や風に満足していた。弟や妹がいる子、あるいは漕ぎ主の視界に成長が追いついた子は後ろに座らされていたが、私はそのどちらにも当てはまらず、特権だと思っていた。それも、今では1人漕ぎ。かつてと同じ道で通勤している。
 巻いてきたマフラーが向かい風に緩み、首元を冷やす。久々の寒さを覚える首が力む。国から最も求められている職業へ一人で駆ける初めての冬が、私を立ち漕ぎにさせた。
 突然ポツリ、と鼻の膨らみに滴がはじける。嫌な予感がした。予報をしっかり聞いておけばと悔やみ、顔を上にやると、そこにはまだらのグレーが一面に広がっていた。幸い保育園にはもう着くところだったが、私はその後の苦難のことを考えずにはいられなかった。保育園館内入口が大量の親子で溢れ返る親子ラッシュ。園児ラッシュとも呼ばれるが、我が子の靴をしまい、一時の別れを済ますのに親が必要以上の時間をかけてしまうために起きてしまうものであるため、園児だけが悪いとは言わせないという訴えから私は親子ラッシュと呼ぶ。雨の日のそれはまさに地獄で、先生たちの声が届くことはない。保育士になって半年以上経つが、まだしばらくは慣れそうにない。
 ラッシュまでの時間をどう過ごそうか考えながら園に入ると、山岸先生がほうきで枯れ葉の山を作っていた。辰馬保育園で私の保育園時代を知る唯一の先生だ。現在は園長を務める。
「園長、おはようございます。急に寒くなりましたね」
「あら、未海みみちゃんおはよう」通園していた頃から変わらないその呼び名。園長にとって私はまだ子どもなのだろう。
「もう、マフラーなんかしちゃって。まだ11月よ? 冬はこれからですよ、ふふ」園長は絶えず箒を動かす。山を念入りに調整し、庭の隅に運ぶ。
 やはりマフラーは早過ぎたか、と生地の首の間に指を突っ込む。だが言うまでもなく、明日はマフラーをしてこないという考えは、私にはない。園長がちりとりに山を移す様子を見届けながら、私は首からマフラーをほどく。そして、雨粒に濡れた先の方を持たぬよう折り畳み、歩きながら左腕に掛けた。
 辰馬保育園は、いるか組・りす組・うさぎ組・こあら組・ぱんだ組・らいおん組の6つのクラスに別れている。いるか組を1歳児のクラスとし、2歳児はりす組、3歳児はうさぎ組、と1歳ずつ年を重ねるごとに動物が変わっていく。とりわけ大変なのはうさぎ組で、イヤイヤ期を3歳にまで持ってきてしまう子が今年は多いそうだ。職員室に入ると、明らかに異様な机が目に入った。うさぎ組の城崎先生の机である。新品の折り紙が積まれ、倒れそうになったところを手で押さえていた。
「城崎先生、おはようございます。どうされたんですか、その折り紙」
「あら、北浦さん、おはよう。これねえ、あの双子が。またよ」
「西園寺兄妹ですか」
「ええ。前はクレパス折っちゃって。絵が上手な東出さんを見て自分たちにもできると思ったのかしらね。でも結局兄妹揃って思うようにいかなくて。お昼ご飯だよって急かすとやだやだって泣きだしちゃってさあ、持ってたクレパス投げて何色か折っちゃったのよ」 
「そうなんですね。それで次は折り紙ですか。破っちゃった、とかですか?」
「そう。今度は兄妹喧嘩だけどね。千鶴ちゃんがよく飛ぶ飛行機作って、千聖兄貴が折れなくて、って感じ」 
 西園寺千聖ちせ千鶴ちづる兄妹。うさぎ組。私が担任を務めるこあら組の部屋からもよく怒ったり泣いたりする声が、少なくともどちらかからは聞こえて来る。トラブルメイカーズなのは有名だが、国から任されている以上、私たちはそんな子の世話もしなければならない。ふと、もし来年度もこあら組を任されたら、と考える。私がお世話しなきゃなのか、と使命感にも煩わしさにも心が持ってかれる。
 雨が強くなっているのに気付いたのは、雨粒に打たれ斑点模様のエプロンで戻ってきた園長を見てからだった。どうやら、道路の先から傘の大群を見たらしい。ラッシュが来る。その報告を聞くと、先生が職員室の奥から数十枚のタオルを取り出し、玄関へ向かう。雨天時特例の行動である。濡れたまま園児たちを館内に入れてしまわないよう、玄関に先生たちがまず3人、左右真ん中にスタンバイし、それぞれが列を園児たちに列を作らせ、体を拭く。だが、混雑する車両が次の駅でもなお新しい乗客に押し寄せられるように、整列させようとするところに新たに親子が到着し、更なる混乱が生じてしまうのが親子ラッシュの常である。そのため、列が作られることは殆どなく、濡れたまま館内に上がってしまう園児たちは少なくない。タオルまのがれ隊と呼ばれるその園児たちの対処を行うのが先鋒の少し後ろで構える2人の中堅だ。前から流れてきた園児を捕らえ、濡れをとる。いつ先鋒が避けられてしまうかはわからず、免れ組処理中にも当然流れて来ることはあるため、なるべく早い対応が求められる。私が8月の下旬から担当している場所だが、それまで私と同じこあら組の担任だった南原先生がこの場所を務めており、現在は産休に入りお休みになっているため、私が引き継いだといった形だ。南原先生がいた時期は私は副担任だったが、今では代わりに私が担任である。8月の下旬から中堅を務めてはいるものの、実際は9月の半ばまで朝に雨は降らず、これまでの回数も決して多くない。南原先生の代わりだからと園長に無理やり配置され、国のためだと快諾したが、経験の少なさゆえ仕事を全う出来ていない自分に腹が立つ。
 私たち先生がスタンバイしている玄関前からも、色とりどりの傘の大群が見えてきた。
 私もかつてはその傘の大群の中にいた。雨の日には当然自転車は使えず、電車に乗り最寄駅からは歩いて保育園まで来ていた。過ぎゆく同級生たちに挨拶をし、そのまま談笑しながら通園し、下駄箱のところでも会話をやめなかった。やはり先生たちのことなど全く考えてなかったように思う。その当時はそれで何ら問題なかったのだろうが、立場が受け身になった今、先生たちへの多少の思慮を園児たちに求めてしまっている自分がいた。
「北浦さんは、これ何回目だい?」横から声をかけられた。らいおん組の森本先生。もう1人の中堅である。筋肉質で、体も大きい。この人こそ先鋒をやるべきだと思うのだが。
「これって、おや…雨の日ラッシュのことですか?」
「そうか、北浦さんはそう呼ぶのか。そうそうラッシュのこと。それで、何回目だい?」危なかった。以前城崎先生が親子ラッシュと口にした際に訂正をさせていたのを見た事があった。園児ラッシュ強硬派である。私とした事が。
「10回いってるかなーぐらいですかね。どうかされましたか?」
「いやあ、僕ね、この保育園来てから今まで、雨の日の園児ラッシュの回数を数えてるんだよ。回数がね、もうちょっとで200回いきそうなんだよね」
200回。私とは比べ物にならない回数だ。一年で朝に雨が降る日数を考えみるが、ありそうであまりないように思える。無論その逆にも思える。
「でもね、免れ隊を1人も出さなかった日を一度も経験できてないんだ、僕。先鋒が背中を任せてくれてるのに、毎回上手く対処できなくてさ。次こそは! 次こそは! って毎回思ってて。あんまり大声で言えないけど、雨の園児ラッシュを俺は楽しみにしてんだよね。次こそはやってやろう!って、気合入れてさ」先鋒が背中を任せてくれている、そう捉えたことを私は一度もなかった。国からの仕事とはいえ、流れ作業から溢れたものをただ拾う仕事としか捉えてなかったが、人によってこうも認識が違うとかと森本先生に驚く。学生時代に足りなかったものを吸収できているように思える。過去のこの人は、私の目に憧れとして写される類の人だったのだろうか。どこか励まされたような気分になり、体に熱が入る。見える存在から任されていると思うだけで、天上からの蜘蛛の糸を見つけたような感覚になった。
 結果、任務完遂には至らなかった。2人の免れ隊を出してしまった。私と森本先生が先鋒を切り抜けた園児たちの処理を終え、一瞬の安堵を抱いたその隙を突かれた。待って! とタオルを持つ手を伸ばしたが、奴らの早足には及ばなかった。タオルを見るなり「じぶんでやれる!」の異口同音。背丈と歩調の揃い具合。階段へむかうそんな2人の姿は間違いなく、西園寺兄妹だった。
 悔しかった。実態のあるものから任されていると意識して、これまで以上に自分の体を小柄ながらも必死に動かしたのだが、やはりまだ経験不足だったか。
 かの鷹たちの心内を、少しではあるが掴めた気がした。輝かしく写った反面、どうしてそこまで人に尽くせるのだろうと思っていた。見返りを求める様子もなく、何をエンジンにして動かせているのだろうと。それは、結果を共有できる相手が近くにいるからなのではと思う。
 自分の働き掛けが近くに見える形で存在するもののためになるならという期待。その期待の対象を最終的な結果にだけでなく自分の働き掛けに対しても向け、成功に向けて尽力する。免れ組を出さず、任務完遂に至るには私自身が自らへ期待をしなければならないのだと、鷹と現状から学ぶ。
 西園寺兄妹は、私たちを潜り抜けたのち、園長に取り押さえられたようだ。新しく購入したら折り紙をラッシュの先鋒だった城崎先生の代わりに園長がうさぎ組に届けていたのだった。その時園長はタオルを持っていくのを忘れず、取り押さえたのちすぐに体を拭く事ができたという。もし免れ隊が二階にきたとしてもすぐに対応できるように、ということだったらしいが、まさか届けていた先の組の子たちの対応をすることになるとは。園長の強運というべきか。兄妹の不運と言うべきか。
 少し前まで私の仕事だった、後始末のモップ掃きが始まった。玄関の湿り具合が段々と抜けていく様子を見ると、ようやく忙しい朝が終わるのだな、と感じられるのである。
 園児たちはお昼ご飯を食べると、すぐにお昼寝の時間となる。1階のいるか組・りす組は各組で2階のうさぎ組以降の園児たちは同じ階のホールにまとめられ、1時から3時の間、眠る。ホールでは、毎日違う先生が園児たちを見張り、それと同時にそれぞれが受け持つ園児たちの連絡帳を読む。例えば、今日は丹羽先生が見張りの担当なので、お昼寝を見張りながら、ぱんだ組の園児たちの連絡帳を処理するといった具合だ。
 担当ではない私たちは、というと、職員室でそれをする。それぞれの園児たちの様子、今日これをしました、あれがありましたなど書き記し、親御さんとやりとりする。
 私を含め職員室の先生が一通り処理を終えた様子を見ると、園長が全体声をかけた。
「もう12月はすぐそこに迫っていますので、そろそろお遊戯会について考える時期です。今丹羽先生がホールにいるので詳細は園児たちを全員帰した後にしますが、全体のテーマは『友達を大切にする』ですね。ご存知の方もいるとは思いますが」
 この保育園はお遊戯会と音楽会を一年ごとに交互に催す。今年はお遊戯会が予定されているので、来年は音楽会となる。保育園での音楽会の記憶を、私はうっすらとだが持っている。高級品だから大事に使ってね、とハンドベルを渡され、同時に歌も歌ったはずである。私が担ったベルは合唱の中で一度しか鳴らせず、必要以上に鳴らしては注意されていたことを思い出す。対してお遊戯会の記憶は全くと言っていいほどない。自分が何を演じたか、友達はどんな役だったかなどの断片的な記憶さえなかった。
 その後城崎先生に聞いてわかったことだが、いつからかこの時期の催事は2学年が1つになって行われるらしい。いるか組とりす組が不参加なのは私の頃と変わらないが、うさぎ組はこあら組と、ぱんだ組はらいおん組と練習をし、2クラスで1つの発表をする。
 本番は区民ホールで行われる。園児の親類の他に近隣に住む人も多く来るため、保育園のお遊戯会とはいえど大規模なものとなる。前回のぱんだ・らいおん組の発表の映像を流してもらった。小学校の学芸会ではどんなに指導しても大声を出せない子がいたものだが、映像を見る限り2年前の園児たちはハキハキとしており、私たちにも声が届く。どうやら浦島太郎のようだったが、玉手箱でお年寄りになってしまった後、若い頃友達だったお年寄りがやってきて力を合わせて竜宮城に時間を取り戻しにいくというお話になっていた。展開の突っ込みどころは多いが、甲高い声で役を演じる姿は微笑ましい。テーマが「友達と一緒にがんばる」だったと聞いて、納得する。
 園児たちの寝顔を崩すのに、多少の罪悪感がある。何より眠りを壊されることが私の一番の不快であるため、定刻になって起こしに行くのを、本当はしたくない。気が進まない私を他所に他の先生は、ホールに着くなり電気を全てつけ、大声を出し容赦なく起こしていく。目をさすりながら立ち上がる園児たちに、同情する。
 ただ、お昼寝の後のおやつの時間には園児たちは目をぱっちりさせているため、同情する時間は短い。特に、食べ終えるとすぐに玩具に飛びつこうとする男の子たちには呆れる。かつての私とも、時を超えて共鳴する。
 おやつが終わると、園児たちはお迎えまで部屋で遊んで待つ。何故か、こあら組は他の組に比べてお迎えが早い。昨年のうさぎ組も早かったらしく、この世代の特色と言えそうだ。こあら組のお迎えが全て済むのはいつも18時手前であり、まだ他の組にはそれぞれ10人ほど残っている。園長から2階の組のどこかへ派遣され、その組のお迎えが済むまで世話をする。今日はお隣うさぎ組を任された。
 過去にもこの時間からうさぎ組を任されたことは何度かあったが、西園寺兄妹を見かけた事は一度もない。私が来る前には既にお迎えが来ているという。うさぎ組は何も、その兄妹がいるからという理由だけで大変なのではなく、城崎先生が1人で、幼児期のとりわけ難しい時期を支えている点からもそう言われている。
 うさぎ組に入ると、まずは泣いているか今にも泣き出しそうな子のもとへ向かい、城崎先生と対処をするが、今日は珍しくいないようだ。寧ろ私にとっては計算外でどうすればよいか逆に困る。とりあえず喧嘩が起きないよう複数人で遊んでいるところに加わる。
 どうやら、折り紙が人気のようだ。新調したからだろうかと思ったが、そういうわけでもなさそうだった。飛行機を作っては飛ばし作っては飛ばしを5人の園児が繰り返している。
「紙飛行機で勝負してるの?」
「そーだよ」
「この中で誰か一番飛ばせるのかな」
「あたち! でも、ほんとはちがう…」本当は違う? どういうことだ。
 北浦さん、と城崎先生。
「この子たちはね、あそこを目指してるの」と指を差した先は床に貼られた赤いテープだった。『千鶴』と書かれている。
「今日千鶴ちゃんが作って飛ばした紙飛行機が、あの場所までいったの。だからこうしてあの記録を超そうとみんな頑張ってるのよ。昼間はもっと人数が多いわよ」
「そんなの、千鶴ちゃんの折り方と同じにすれば飛ばせるんじゃないですか?」
「千鶴ちゃんね、みんなに隠れて作ってるのよ。飛ばした後、すぐに拾って別の物を作っちゃうから折り方もわかんないし、それにみんなも聞こうとしない。早い話、みんな負けず嫌いなのよ」
 5人は黙って飛行機を飛ばし続ける。そばの机には、大量の紙飛行機が屍のように積まれていた。せっかく新しく買った折り紙も、この調子では長くはもたない。でも、それでいいのだと言う。
「やりたいようにやらせてあげるべき時期なのよ。1人で戦ってるけど、目標は同じ。この子たちはまだわかってないだけで、千鶴ちゃんの力を借りて今も成長できてるのよね。そう思うと、私は干渉しちゃいけないと思うのよ」
 折り紙を追加せねばならない原因には、今朝の話と同じように千鶴ちゃんが関わっていたが、屍を払い除け夜を駆ける者の前に君臨する凍星として、周囲に影響を与えている。トラブルメイカーである反面、インフルエンサーとしてもうさぎ組に存在していた。
 ふと今朝のラッシュのことを思い出す。先鋒に任されていると自覚したその時の感覚は、今までに感じたことのないものだった。一方通行で音信不通が当然だったが、あの瞬間、眼前の景色がまた変わった。どうやら独りだけの空ではなさそうだった。森本先生は、常にあの空のもとにいたのだろうか。景色の先の光源へ、手を伸ばし続けてきたのだろうか。手を伸ばした先の光源。そう頭で呟くと、脳内で場面が切り替わった。うさぎ組の背景である。…千鶴ちゃんか。確かにあの子たちが手を伸ばす先には千鶴ちゃんがいる。紙飛行機ブームがいつまでこの組で続くかは分からないが、終わるまでは光源であり続ける。自分の意思に関係なく、勝手にまた場面が変わる。これは、高校時代だろうか。私の後ろの子が1つの問題を5人を相手に教えている。内容も、そこそこに難しい。私も振り返り、教わってみる。いや、そのフリをして、後ろの子が開いている問題集に目をやる。見覚えのない数式が並んでいる。数学を勉強しているということしか、情報を掴めない。そして、5人も気付く。
『そんなとこテスト範囲にあったっけ?』
『ううん、ないよ。ちょっとね、背伸びして難しい大学を頑張ってみようかなって思ってて…』
 そこで、場面が終わった。やはりな、と思った。その鷹には、目指すべき光源があった。光に向かって羽ばたかんとする鷹に、とんびが群れる。私はその様子を傍から見ているだけの、ただの鳩であった。

2013.12.25@Expo-Memorial Park, Osaka

眠れない男
吉澤 颯太

 仄暗い台所に、蛇口の先に溜まった水のポタリポタリとシンクに当たる音が響き渡る。奥の部屋では、半裸の男が机に向かいパソコン作業に勤しんでいた。
 男は時計に目をやる。時刻は午後十一時四十二分。時間が迫っていることに一抹の焦りを覚え、急ぎ早にキーボードをカタカタと操作する。
 しかし、そんな時にも関わらず男は突然の睡魔に襲われた。意識がもうろうとし、視界が徐々にぼやけていく。ちくしょう、このまま眠ってはいけない…。男は自らの右頬に一発平手打ちをかました。バチンと脳内に響き渡る音によって、遠い彼方に放たれかけた男の意識は再び目の前の液晶画面へと移された。
 午後十一時四十五分。さあ、時間がない。指と重なり合うキーボードの音がその場の空気を掌握する。画面に映し出された数字の羅列を前に見据え、男はしょぼついた両目を勢いよくこすった。だがそれでもなお、男の意識は今にもどこかへ消え去ってしまいそうだった。
 男はおもむろに椅子から重い腰を持ち上げ、台所へと向かった。シンクの前に立った男は蛇口をひねり、グラスに冷たい水を注ぐ。そしてそれをその場でグビグビと飲みほした。ああ、うまい。喉の潤いが少しでも眠気の妨げになればそれで充分だと、男は独り言をぶつぶつと繰り返した。そうして再度蛇口から出る水をグラスに流し入れ、それを持って奥の部屋の机に運んだ。
 午後十一時四十九分。睡魔は収まるどころか、次第にその全貌を大っぴらにするかのごとく強烈なものへと進化していった。男は部屋の中をうろつく。これはまずい状況だ。絶対に眠ってはいけない…。そう心に誓った直後、男は右手に握りこぶしを作り、力いっぱい顔面に殴りをいれた。ずっしりとした痛みが男の頬にじんわりと染みる。そしてさらにもう一発。部屋じゅうに鈍い音が鳴り渡った。男の口から出た赤い血が唾液と交じって静かに垂れていく。ひとまず眠気は薄れたと、男は自分に言い聞かせ、椅子に深く腰掛けた。
 その瞬間、そばにあった電話がジリリ、ジリリと鳴る。そのジリリという不快な金切り声は男が何よりもねたみ嫌うものであった。男は口元についた血をゴシゴシと拭う。電話に出ようかどうか、男は一瞬の迷いを見せたが、今は目の前にある数字の羅列の続きを打ち込むことに集中しようと、電話をそっと無視する。しかし、その後も電話の音は一秒たりともやむことなく、男のそばで鳴りつづけていた。
 午後十一時五十三分。電話の音は一向に鳴りやむ気配を見せないが、着実に男の心は執念深い眠気に侵されようとしていた。ぼやける視界、遠のく意識。男はまた、顔面に拳で殴りを入れる。ゴンッという音と共に、男の口から白く小さな塊が勢いよく吐き出された。それは紛れもなく、男の奥歯であった。カランカランと血交じりの奥歯が床に転がっていく。そして相も変わらずジリリ、ジリリ…という電話の音が男の頭の周りを縦横無尽に駆けずり回る。しびれをきらした男は受話器を取り、グラスにひたひたに注がれた水の中へ突っ込んだ。電話口の穴という穴から出る気泡がプクプクと水面に浮かんでゆく。男はしばしの静寂を噛みしめ、そして深くため息をついた。
 午後十一時五十七分。電話の音は止んでも、いっそう男を襲う眠気は強まっていく。もうこのまま眠ってしまおうかという誘惑の念も男の頭をよぎったが、もはや男にとっては、意識を引き留めるために自分の体を傷つける行為が一種の避けられぬ決まり事と化していた。手の皮がめくれ、中の肉が表面にあらわになっているのを男は気にも留めず、一心不乱に顔面を拳で殴りつづける。ゴンッ、ゴンッと拳が顔にぶつかる音が男の耳にこびりついて離れない。口から飛び散った血が白い壁につく。ついにバキリという衝撃音が男の脳内にとどろき、それが鼻の骨が曲がった音であると男は勘付いたが、それでも男は自分を殴ることを止めなかった。その途中男は一瞬睡魔が退き、自分との距離を置いたような感覚を覚え、その隙をついて目の前のパソコンに向かい作業を再開した。
 ふと男は時計を見る。時刻は午後十一時五十九分。カチッ、カチッと無機質な音をたてて時計の秒針が進んでゆく。速まる男の鼓動に重なり合うようにして、キーボードをカタカタと叩きつける音が部屋じゅうに響き渡った。ジンジンと痛みが広がる顔面を右手でおさえ、数字の羅列を黙々と見つめる。机の上は、赤黒い血の海に変貌していた。そして、また男の視界がぼやけていく。しかし男にはもう自らの顔に殴りを入れる気力など残っていなかった。もうろうとする意識を必死で引き留め、液晶画面をかぶりつくように凝視した。時計の秒針の進むドライな音が、男の五感すべてを容赦なく侵食していく。男の頭の中は文字通りパニック状態であった。
 そして、パソコン画面上に三つの言葉が現れる。
 『送信しますか?』『はい』『いいえ』
 よし、きた。男は震える手でマウスを握りしめ、画面内のカーソルを『はい』の欄に置いた。そうして、人差し指でマウスをカチリと押す。男の吐息が外に漏れていく。
 画面に『送信しました』という言葉が表示された時、ほんの一瞬部屋の中のすべての音という音が停止した。男はゆっくりと時計に目をやる。それは長針と短針がぴったり合わさり、午前零時ちょうどの形をなしていた。男の大きく腫れあがった赤い頬を、目から流れ落ちた涙が伝う。さあ、これでようやく眠りにつけるぞ…。
 男はそのまま意識を失った。椅子にもたれかかり、口を大きく開けイビキをかく。その顔は、どこか安住の地を見つけ解放されたことから微笑んでいるようにも思われた。その姿を横目に、時計の長針は止まることなく動きを進める。部屋のなかには、机一面を真っ赤に染めた血がポタリポタリと床に当たる音が、いつまでも響き渡っていた。

2013.11.8@Inside the old clock tower, Hosei University Second Junior High

世界にありふれた花
宇野 明信

 いつも、何かをしようとするたびに、何かを始めようとするたびに、あの歌のサビがおれの頭の中をかけめぐる。かつて一世を風靡ふうびしたが、仲間割れして解散したあの国民的アイドルグループが歌ってたあの歌だよ。そう、あの「花」について歌ってる歌だよ。でもちょっとその歌をここで歌うわけにはいかないんだ。分かるだろう。「もともと特別な…」ってさあの部分が聴こえてくるんだよ。
 とにかく、おれの頭の中には、いつだって小さいボリュームであの歌が流れていた。それが、肝心な時になると最大のボリュームになるんだ。そして、何かもう、気が済んでしまうんだ。だって、もともと皆特別なんだから、競い合ったって仕方がないじゃないか。
 初めて、あの歌を耳にしたのはいつだったんだろうか。小学校の時に合唱した時だっただろうか。それともテレビの歌番組だったのだろうか。覚えていない。でも、とてもいい歌だと思っている。
 だから、おれのアイフォーンに入ってる曲の中でも再生回数は、他の曲と比べても二桁ぐらい桁違いで聴き続けている。オリジナルの曲だけじゃなくて、この曲の作詞作曲をした歌手が自分で歌ってるバージョンとか、他のアーティストがカバーしているバージョンとか、そういうのもみんなプレイリストにまとめて、ずっとそれをシャッフル&リピートで永遠に聴き続けてる。だから、イヤホンを付けられない時、授業中とか部活動中とか(もちろん、本当は授業中も部活中も聴いてたいんだけど)、友達と一緒に帰ってる時とか(たまに、一緒に帰ってる時もイヤホン付けてる奴いるけど、おれはそういうのは嫌いだ)、そういう時でも、頭の中には、あの曲が響いてるんだ。
 今の高校に入学するときもそうだった。本当は、家からも近くて行きたい学校があったんだけど、残念ながらその学校はいわゆる「進学校」ってやつで、おれの中学時代の模試の偏差値からすると十ぐらい足りなかった。その進路相談を当時の担任としているときも、あの曲がやっぱり流れてきた。そう、もちろんいつでも小さいボリュームで流れてるんだけど、そういう時はその担任が何喋ってるのか分からなくなるくらいに脳内にその曲が流れてくる。それでおれは、通学に一時間以上かかるけどその時のおれの学力で行ける今のこの高校に行くことにした。だってそうだろ。もともと特別な「オンリーワン」なんだから、そんなに頑張ったりする必要なんてないだろ。その曲を聴きながら自分に言い聞かせてたんだと思う。
 それだけじゃない、ついこの間高校に入学して初めての定期テストでもそうだった。何事も最初が肝心だからね。おれは、高校に入ったら変わろうと思っていたんだ。中途半端だった自分から。でも、試験前日になって机の前に座ってもあの歌が聴こえてきて、もう勉強なんてどうでもよくなっちゃったのさ。だってそうだろ。そんな風に、クラスメイト同士で競い合うなんてよくないよ。そんな風に歌がささやく。テストの結果は予想通りで、おれは入学早々に担任に呼び出されてこっぴどく叱られるような成績を取った。もちろん、説教なんか耳に入ってこなかった。大音量になったあの歌が聴こえてたからね。
 だから、授業中にもずっと聴こえてて、勉強なんかして皆で競い合ってても仕方がないじゃないかっていう気分になってるし、入学後の身体検査の時に、思ったほど身長が伸びてないことが分かった時も頭の中で流れたし、中3の時だけど、好きな女の子に告白しそびれた時にも流れたし、最近じゃ、電車の中でおれが座っている目の前に立ったお婆さんに席を譲ろうかどうか迷ってる時にも流れてきて、結局どうでもよくなって譲れなかったりした。
 そう、だからおれはナンバーワンをみんなで競い合って、お互いに足を引っ張りあうようなことは嫌いなんだ。だから、高校に入っても部活には入ろうと思ってたけど、マンガ同好会か、カメラ部にでも入って、競い合わずにだらだらと高校生活を過ごそうと思ってたんだ。さすがに、帰宅部だと友達いなくなりそうだったからね。でも、なぜかこの高校に来て初めて話した山城義男ってやつが、しつこく一緒に陸上部に入ろうって誘うからさ、何となく陸上部に入っちゃったんだよね。

「山崎君、何部に入るの?」
 まだ入学して間もない頃で、あまりおれの出身中学校からは知り合いもいないクラスだったから、出席番号が後ろの山城義男と話すようになってたんだ。ちょうどオリエンテーション期間の最後で、部活動の勧誘の時間の前の休み時間だった。
「ああ、そうだなぁ、マンガ同好会とか入ろうかなって」
「ええ、山崎君その立派な体格で? 中学の時は何部だったの? 絶対体育会系だったでしょ?」
 義男は、心底驚いたようにおれの上腕をつかんできた。そんな風におれの体をほめてもらったことなんか初めてだったから何か少し照れたのを覚えている。
「いやぁ、お世辞はやめろって。まぁ、一応中学では何となく陸上部だったけどさ。市で800mで八番に入ったぐらいだから大したことないよ」そう言うと義男は心底驚いたという風に、
「それはすごいよ山﨑くん、いや君は絶対に陸上部に入部すべきだよ。僕も陸上部だったんだけど、予選勝ち上がったことすらないよ。ね、一緒に陸上部に入ろうよ」
 この調子でおれは、義男に促されるままに何となく高校も陸上部に入部したのだった。ただ、さっきも言った通り、おれは競争なんて馬鹿らしいと思ってる。そう考えると、陸上部なんて中学の時もやっぱり、親父がマラソン好きでその延長で何となく入っただけだったけど、おれほど陸上部に向いていない人間もいないような気がする。
 ただ、入部のきっかけになった義男とは、クラスと部活の同期のよしみもあり、仲良くなったたんだけど、義男の方がよっぽど陸上部に向いていないことはすぐに分かった。ただ、それは肉体的にということだけど。
 友人として言うのも気恥ずかしいが、義男はその名の通り、とっても良いやつだ。でも、何しろ運動神経というか、体力がない。体格はおれより一回り小さい。身長も低いし、筋肉も全然付いてないメガネ君だ。更に言うと、成績だっておれ以下に悪い。でも、あいつはそんなことを気にしている様子すら見せない。
 陸上部では、あいつは一応長距離ブロックで1500mとか3000mを走るんだけど、記録会とかに出ても、必ずトップとは周回遅れになって、一番速いやつから「邪魔だ」とか「遅いんだよ」とかつぶやかれるのも良くあるらしい。それでも、義男は本当に陸上が好きみたいだった。

 例えばそれは県大会に繋がる市の大会の帰り道に、一緒に歩いているときのことだ。
「お前、言っちゃ悪いけど、毎回ビリで走っててしんどくないの? おれだったらもう辞めちゃうかもな」
「いやいや、芳樹」その頃はもう仲良かったから、お互い下の名前で呼び合ってた。「陸上の良いところはさ、他人と競い合わないことなんだな」
「はぁ? 義男、お前何言ってんだよ。陸上こそ、他人と競ってなんぼの競技の最たるものだろが」おれは、予想もしない義男の言葉に目を見開いて言った。
「ちっちっち」義男は、人差し指を左右に振りながら、「わっかっちゃいないねぇ、芳樹君。陸上は、あくまでも自分自身との闘いなのだよ。だから、何位であろうが、自分自身に負けさえしなければ勝ちなんだ。だから陸上は良いんだな」
「ほぉ、じゃあ、今日の大会は勝ったのか?」
「ああ、勝ったよ。確かにおれは予選で最下位。トップのやつには周回差だったけど、おれのベストタイムを2秒更新したんだ。最高に気分がいいよ」
「そんなものかねぇ」そう言ったけどおれは、義男の言葉と堂々とした態度に、少し感心していた。
「そうさ。とにかくおれは今日、今持ってる自分の力を全て出し切った。心臓が口から飛び出るかという気持ちで、ラスト100mは走りきれたんだ」
 一方でその日のおれの気分は、真逆だった。
「お前は、気楽でいいよな。おれなんて決勝でまた西高の矢野に抜かれて、県には進めなかったからな。最悪の気分だよ」西高の矢野ってやつと中学が一緒だった。西高ってのはうちの地元では進学校で、おれが進学をあきらめた例の「頭のいい学校」だ。
「そうかな。芳樹のフォーム最後まで崩れてなくてよかったよ。でも、やっぱりラストの200mで垂れちゃったよな」
 そう、その日の800m決勝。上位6名までが県大会に進める大事な大会だった。おれは、ギリギリ進出できるかどうかのボーダーだって部員数も少ない弱小陸上部の中では顧問からは期待されて言われてた。

 少し時間を巻き戻すけど、その日の大会は、西高の矢野も含めて決勝に進出した。西高の矢野とおれのタイムは中学の時からそうだったけど、似たり寄ったり。久しぶりに会った矢野は、最終コールの後のトラックわきでライバル心むき出しでこう言ってきた。
「よう、やっぱり、お前陸上部入ったんだな。高校に入っても続けるとは思わなかったよ」
「ああ、まぁ、何となくね」
「ほぉ、何となくやってんのか、陸上。マジでそんなやつに絶対負けらんねぇわ」
 おれはもう、そんな挑発に乗る気もせずに、何も答えずに、直前のストレッチをするふりをして、まともにやりあおうとしなかった。もちろんその時のBGMはあの曲さ。
 そして、スタートした800m。正直挑発されて、矢野にだけは負けたくないという気持ちがあったのは確かだった。1周目、矢野はおれのすぐ後ろにいた。おれはさっきの挑発に乗って少し気持ちが前に行き過ぎた。400m過ぎでは、体がバラバラになりそうなくらいの負荷になってた。でも、まだもう一周この勢いで行けそうだった。そしてラスト200mであの曲が大音量で突如流れてきた。タイミングとしては最悪すぎた。出だしが悪い。(ナンバーワンにならなくてもいい…)だもの。
 それで、急に足が上がらなくなって、後ろからやってきた矢野の足音にも反応できず、あいつが抜いていくのを、手足は思いきり振りながらも、ぼおっとする意識の中で眺めていることしかできなかった。
 だからおれは顔には出さなかったけどもう、その帰り道では陸上部を辞めようとすら、今からでもマンガ同好会に転部しようとすら思っていたんだ。だから、義男があんな結果なのに楽しそうにしているのが不思議だったのかもしれない。

「もうおれ、部活やめようかな」とおれはその帰り道で義男に切り出した。義男は、驚いた表情で
「何言ってんだよ、でも、今日は芳樹のベストタイム出たじゃんか。だから、祝いにジュースでもおごってやろうと思ってたんだぜ」
「ベストタイム出たって、県に行けなくて、矢野に負けたんじゃ、しょうがないだろ」
「でも、あの試合、矢野がいなかったらベストタイムも出てなかっただろ?」確かにそうだった。「だから、矢野に感謝すべきじゃない?」
 そう考えてみると、その通りだった。もしも、矢野がいなかったら県大会には進めたかもしれないけど、ベストタイムは出てなかったかもしれない。そう考えてたら、義男が言ってた意味が少しわかったような気がした。しばらく、おれは歩きながらうつむいて義男に返事をせずに考えてみた。おれはずっと、矢野に負けたことと、県大会に進めなかったことだけを悔やんで、自分を否定してた。でも、800mのタイムは、0.5秒だけだが更新できた。つまり、おれは前よりも確実に強くなってるし、矢野のおかげで、おれはラストの直線で垂れてしまうという弱点もはっきりと自覚することが出来た。
「義男、ありがとう。確かにそうだな。もうちょっとがんばってみるわ」
「あったり前だろ」と義男は笑いながら言っておれの背中を思いきり叩いた。
「おれ、義男みたいになりたいわ」
「気持ち悪いよ」
「マジさ。あ、でもジュースはおごれよ」
 その日は、結局笑いながら帰った。

 義男は、普段の授業も、真剣に受けてる。何しろ、席替えの時に、矯正視力は悪くないのにわざわざ先生のところに「視力が悪いので」と言って、一番前の席に自らしてもらうぐらいだ。で、すごく楽しそうに授業を受けてて、先生から投げかけられた質問とかを当てられてもいないのに勝手に答えたりしてる。
 おれは、もちろんそんなことしてないけど、結局どんぐりの背比べながら、義男よりいい点数だ。義男は成績は良くないけど、すごく楽しそうに授業を受けてるのは、部活と同じだった。
 おれは、授業受けててもどこがテストに出るかだけのポイントを押さえて、どこを最低限暗記すれば赤点にならない程度かを見極めることに全力を尽くして、他は大体寝てるか、ぼおっとしてた。義男は、逆に自分の興味のあることをどんどん先生に質問していくタイプだった。だから、テストに何が出るかとかはむしろあまり気にしていないみたいだった。とにかく、授業を楽しそうに受けてた。

 そんな、義男とクラスも部活も一緒にいたから、少しずつ義男の考え方がおれの中に入ってきたような気がする。不思議だけど、義男と仲良くなるにつれて、おれのあの曲を聴く回数は反比例して減っていった。そして、気が付いたら、何か競い合おうとするたびに流れてきたあの曲が、あまり流れなくなっていった。

 あの、矢野に負けた市の予選会から一年が経った。もうおれらは二年生になってる。義男は相変わらず、陸上部のビリっけつで後輩の一年生にも負けてるけど、すごく楽しそうに部活をやってるのは相変わらずだ。一年間、おれは義男と一緒にいる間に考え方がはっきり変わってきたような気がする。あいつは、正直、体力的にも勉強の方も「弱い」。でも、あいつは結果をほとんど気にしていないし、何しろ頑張っている。それだけは自他ともに認めているところだし、おれも友達ながら尊敬しているところだ。だから、いつも楽しそうにしているし、充実している。だからあいつは本当は「強い」。一年前にあいつにおれが言ったように、おれはあいつみたいになろうとしてきた。

 明日、また二年生として参加する市大会がある。今度こそは県大会に出られるかもしれない。でも、とにかく大事なのは自分が今まで積み重ねてきたこと、それを信じてベストを出し切ることだ。結果は後からついてくる。
 そう思って、義男と練習に注ぎ込んでいるうちに、自分の弱点とか強みとかがはっきり分かるようになってきた。おれは、西高の矢野とは違う強みがある。それに気が付くことが出来た。とにかく本番の大会では、そのおれの強み、それはフォームのダイナミックさだった。つまり、スタート直後に他を一気に引き離すことが出来る。でも弱みも分かってる。それは例の曲が聴こえてくること、つまりはメンタルの弱みだ。競争することがどうでもよくなってしまうこと。でも、それは「逃げ」でしかなかった。自分が負けることが怖かっただけで、負ける時の痛みを和らげたいときに、あらかじめ敷いておこうとしたクッションがあの曲だったんだと思う。でも、そんなクッションはもういらない。

 おれは、今目の前のアイフォーンから例の曲を全てプレイリストごと削除した。
 もう、この曲に逃げることはしない。きっと明日の本番の800mの二周目のラストの直線でもこの曲はもうおれの頭で流れることはないはずだ。きっと、決勝までにまた矢野と当たることになるだろう。今はあいつに勝てるかどうかより、矢野と真剣勝負をやれることが楽しみだ。
 確かに、ナンバーワンにならなくてもいいのは本当だ。でも、誰でも「もともと」特別なオンリーワンなんかじゃない。とにかく、自分の中での「ナンバーワン」を目指さないようなやつが、「オンリーワン」なんかになれるわけがない。それだけは確かだから。

 そう思いながら、おれは明日の自分に勝つために、ベッドにもぐりこんだ。

2018.7.23@MORI Building DIGITAL ART MUSEUM teamLab Borderless, Tokyo

付録:句集



晦日に頬を濡らすは星の雨       下田




秋蝉や嘆声乗せた隙間風        河野










もういない箱根の山を走る君      永野




涙残るダムの静けさ風の香に      青木










雪解けの長くはもたぬ恋心       難波




日照雨かな流した背中と走馬灯     小林










おさな子や母を困らす春時雨      廣澤




かげらふやまだ来ぬバスに夢うつつ   吉澤










小学校香りをまとふは金木犀      木村優




薄染めの淡き桜に児の夢        青木










クラムボン泡に落ちけり彼岸花     金山




春日和影とびはねる子どもたち     栁澤










風鈴や君の訪ねは夢にのみ       上




横時雨名もなき家事をエチュードに   小林










桜並木流るる絵図に恋の歌       西島




江ノ電に潮風ぬけて夏に入る      宇野










神楽独り嗤う月かな見し二膳      金山




日射し汗垂れし舞妓の麗はなお     上










一夜漬け窓から見える枯れ箒      難波




梅雨晴れや時折照らす机の端      栁澤










蝉日記めくるめく日々惜しみけり    廣澤




春隣薄明の下帰りけり         木村優










風薫る君の横顔天高し         下田




夕立や大地に鏡天は青         河野










梅雨晴れや溜まり水かけ蹂躙す     西島




手を伸ばし重いたすきを掴みとる    永野










髪洗ひ散りゆく火花音やまず      吉澤




五月雨に何を想うぞフラミンゴ     宇野

2013.3.28@Mishima Yukio House, Magome, Tokyo

あとがき

 昨年度から開講した選択授業「現代文特講」では、通常の「現代文」では出来ない「特別な講座」として、韻文や小説を創作することなどをしている。
 高校新学習指導要領を目前にし、ようやく世間でも文学教育が学校から消えることに危機感を抱き始めているが、もちろん自分も国語教育に文学は欠かせないと考える人間の一人である。なぜならば、我々が生きているこの世界を考えることが「学問」であるのならば、評論の言葉だけでそれらが語られるはずがないからである。そんな簡単にはこの世界が構成されているわけがないし、そんなに世界が単純なのであれば「学問」も不要である。もちろん、文学の言葉によってもこの世界が語られ尽くされることはない。永久にない。しかし、語ろうとし続ける(追いかけ続ける)活動体としての価値があり、それこそが文学の学問としての価値である。
 それと同じように、自分自身も世界と同様に、どこまで行っても答えは見つからない。しかし、自ら小説を書くことによってしか知ることのできない自分が存在することは、一度でも小説というものに挑み、書いたことのある者なら分かるはずだ。「自分のことは自分が一番よく知っている」などということが誤りであるのは言うまでもないが、小説という形に自分自身を外化して初めて知ることが出来る自分と出会うこと。これこそが、小説を書くことの最大の喜びであろう。
 ここに収められた小説は(私のは除外するが…)全て、この時期の「今の」君たちにしか書けないものである。十年後、二十年後に同じものを書こうとしても無理である。そうした意味で、その瞬間にしか書けない小説を収めた世界に二つとない貴重なものになるだろうことを期待し、受講してくれた君たちにとって人生を生き抜く助けに少しでも文学が助けになってくれるであろうことを願ってやまない。
令和元年末
                                     宇野 明信

令和元年度 現代文特講 小説集

2019年12月13日 発行 初版

著  者:現文特講受講者+宇野 明信
発  行:法政二高現代文特講出版

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宇野 明信

1980年生まれ。法政大学第二中・高等学校教諭。

著書
電子書籍『ドリーム・ランド』(2018.12)筆名:櫻山亜紀 amazon kindle
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