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キリスト めぐみの家  (2) わが愛におれ

平川博達  吉川宣行 吉野万菜

yoshikawa-shimon-nobuyuki出版



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キリストめぐみの家 (2)
        わが愛におれ
         

 



 


  もくじ


   はじめに                   吉野万菜

   その一 想い出の「クリスマス」        真田重治

   その二 今回の「クリスマス」に栄光あれ    平川博達

   その三 これからのクリスマス         吉川宣行  





      

 はじめに
    ークリスマスおめでとうございます

 
 早いもので、もうすぐクリスマスです。
 しかし、クリスマスでさえ、「歓べないひと」もいます。
 むしろ、昨今では、家庭崩壊も多くなったようです。

 そういう家庭では、やはり、愛されることも、愛することも少なかったのでしょうか。
 もちろん、一度くらいは、誰かを大事にしていたはずですが、なぜか、愛にも、報われない愛もあったようです。


 1 「愛国心」にご注意を

 国を愛している、という国会議員でさえ、議会には病欠の休暇をとって不倫に走っていた、というようなニュースも日本にはあります。
 もっとも新しいニュースでは、内閣総理大臣が、内閣府主催「花見の会」に、有権者を誘って「お花見」まで用意していたというのです。

 しかもそういう「お花見」に積極的に参加していた議員にも問題があったようです。
 有権者の前ではいつも、
 「愛国心なら、だれにも負けない」
 といって、選挙を勝ち抜いたひともいました。

 かれらのなかには、弱者を切り捨て、弱者をいじめることが、「愛国心」の使命ではないか、などというひともいます。
 そういう間違った「愛国心」によって、間違った平和を造ってきた政治家などはかなり多かったようです。


 2 「言いわけ」にご注意

 そういうひとはいつも、罪が発覚すると、
 「野党だって同じことをやっていたではないか」
 などというて、「言い訳」をしてきました。

 しかし、聖書からいえば、アダムとイブの罪の始まりは、「言い訳」でした。たしかに思えば、そういう「言い訳」ほどの罪があるでしょうか。
 そういう政治家の「言い訳」に、一般の日本人も「慣らされてきた」ようです。そういう政治家の真似だけはしてはいけないのですが、一般国民にしても、わが子を殺していながら、
 「殺すつもりはなかった。
 「しつけのつもりであった」

 などという「言い訳」をする親も多くなったのではないでしょうか。


 3 理不尽な運命?というもの

 おもえばイエスさまは、何のために生まれてきたのでしょうか。
 イエス様は、馬小屋で生まれましたが、生まれるまえから、政治的権力者ヘロデ王から、「いのち」を狙われていました。

 ようやく生まれたものの、ヘロデ王の手下のものから、「馬小屋」を襲われ、両親のヨセフとマリヤにつれられて、真夜中のうちに、エジプトに逃げました。
 そうして、三十三頃になって、こんどは、当時の宗教的な権力者によって、冤罪まで着せられて、十字架上で殺されました。

 イエスさまの一生とは、そういうものでした。
 冤罪によって、殺されるために生まれたようなものでした。

 しかし悲しいことに、今の日本でも、冤罪によって死刑にされてきたひともいます。
 北朝鮮に拉致されて、いまだに、日本に帰れないひともいます。

 そういうことで、国を愛して、知的障害者を19人も殺したひともいれば、拉致された人を見棄てて、長期政権を続けている総理もいます。

 人生のそういう「理不尽」の中で、生きるためには、どうしたらいいのでしょうか。

 
 4 クリスマスに栄光あれ

 クリスマスとは、もちろん、イエス・キリストの誕生を祝う日です。
 つまり、イエスさまの誕生によって、どういう風に、人生が変わったのでしょうか。

 一口にいえば、イエスさま生き方と死に方に、賛同して、新しい人生を始めたひとが、天地創造の神とキリストに、すべての栄光を返す日が、クリスマスである。ということですね。
 自分だけの栄光を求めて、ノーベル賞をもらう人生ではなく、イエスさまのように、最も貧しい、弱いひとの重荷を背負って、世界を平和にするひとが、祝う日が、クリスマスであったわけです。

 そういう人生が始まったひとは、とうぜん、イエスさまのように、最も貧しい「人の子」でありながら、同時に、だれよりも高い栄光のなかに生きる、神の子となって人生を送るようになったことを、感謝する日となったわけです。

 


 

 
 


 
 

 

その一 想い出の「クリスマス」                

  
   きよしこの夜
   星はひかり
   すくいの御子は
   まぶねのなかに
   ねむりたもう
   やすらかに   (讃美歌21 二六四)

  この朝(12月8日)、「きよしこの夜」のさんびが美しく聞こえてきました」
  私の所属する教会でのお馴染みの奉仕者、T姉の独唱です。
  
  この日は、77年前、わたしが4歳の時、悲しい太平洋戦争が始まった日です。
  旧日本海軍がハワイ真珠湾の米艦隊を奇襲攻撃をしたのです。
  それから何を学んだのですか。
  誰が得をしたのですか。
 
 そんなことを思いながら、もう一度、イエス様が、夜中(暗い世界)にお生まれたになられたことを感謝したことでした。

   「いと高きところにある栄光、
    神にあれ。
    地には平和。
    御心に適う人に幸あれ」  (2018年12月8日記す)

その二 今日のクリスマスに栄光あれ                  


 1 ヨセフとマリヤの「とまどい」
                                 

 ヨセフはあるとき、天の神さまにいわれました、

  ―ヨセフよ。
   あなたと婚約していたマリヤは 
   ひとりの「おとこの子」をうみますー

 ヨセフはおどろきました。
 マリヤと婚約はしていましたが、
 婚前交渉などしてはいませんでした。

 マリヤとはまだ手をにぎったこともありませんでした。

  どういうことだろうか。
  しかし、ヨセフは、覚悟しました。

  (こういううわさが流れているということは、
   きっとマリヤも「とまどっているはずだ)

  ということで、そこでヨセフは、一大決心をしました。

  -そうだ。
   マリヤの「おなか」が大きくなるまえに
   「こんやく」はなかったことにしようとー

 ところが、そういうヨセフの心を知った、天地創造の神は、マリヤにいいました。
     
  ーマリヤよ。
   あなたの「お腹の子」は、神の子ですー

 マリヤもまた、とうぜん「とまどい」ました。
 そこでいいました。

 ーどうして、そういう事があり得るでしょうか。
  「わたし」のような「はしため」にー

 しかし、その時の神とは、だれよりも気高い、天地創造の神でした。
 荘厳な、全知全能の神さまでした。

 それゆえに、全知全能の神には、できないことはなかったのでしょうか。
 知全能であった神は、またヨセフにいいました。

       
 ーヨセフよ。
  あなたは、マリヤから生まれる子を引き取りなさい。
  その子の父となりなさい。
  その子をイエスと名付けなさいー
 
 そうしてヨセフは、マリヤとの離縁を思いとどまりました。
 ヨセフとマリヤは、もはや、自分たちの運命を、はずかしがることもなく、ほこりをもって、  ふたりは結婚しました。
  そうして、ふたりの間に生まれた男の子は、イエスと呼ばれるようになりました。
  

 2 マリヤの「かなしみ」に栄光あれ

   しかし、マリヤは、成人イエスが、三十三才になったころに、
   霊界で何が起き始めていたのか、
   霊界の真実というものにも、無知ではありませんでした
   すでに夫のヨセフも死んでいました。

   それゆえに、マリヤにしても、死を超える「いのち」については、
   無関心でも、無知でもありませんでした。

   イエスというひとは、群衆のまえで、いつもいっていました。

   -こころすぐなるものは、幸いです。
    心の清いものは、幸いです。
    そういうひとは
    神の子と呼ばれるからですー

 そうして母マリヤにとっては、イエスというひとの十字架の上の「くるしみ」こそが、福音であり、魂の真実、クリスマスとなっていました。

 福音とは「良きおとずれ」という意味の「ことば」でした。
 福音とは、心も体も「癒す」、魂を回復させる「ことば」でした。


 3 「ふしぎ」の神に栄光あれ

 イエスというひとは、ほんとうに、「ふしぎ」でした。
 そしておもえば、天地創造の神もまた、「ふしぎ」というものであったのでした。

 そうして、なかでも。イエスというひとは、死んだあと復活もしていました。
 そうして、いよいよ、霊界の自分の「ふるさと」ともいうべきで「天国」に帰るときも、「ふしぎ」でした。

 イエスというひとは、弟子たちにいいました。

  -いつも、平安でいなさい
   聖霊を受けなさい。

   なぜなら、わたしイエスがこれから、天に帰るからです。
   わたしイエスが天国にかえったら、
   あなたがたに、聖霊を贈るからです。

   聖霊こそが、あなた方の魂を助けるからです。
   聖霊が、永遠なる平和を与えるからです。

   聖霊を受けたときから
   なたがたは、イエスというひとが、どういうひとであったか。
   どういう神であったか。
   どういう真実の「ことば」であったか。
   すべてを知ることになります。

   クリスマスの日には、聖霊こそが、新しい神の子となるひとを、生むことになります。
   世界を平和にする、新しいクリスマスが、始まるからです。

   アーメン。
   ハレルーヤ。
   天地創造神の真実。
   キリストの愛。
   聖霊によって、「親しい交わり」が始まります。ーーー

 という天地創造の神の「約束」受け取るときの、感謝の「ことば」でした。

 「アーメン」とは、天地創造の神は話す「ことば」も、これから行う予言の「ことば」も、
 「みな真実」
 という、信仰告白の、感謝の「ことば」でした。 
 直訳すれな、「ごもってもです」、
 それゆえに、「わたし」もこれからはウソをつきません。
 真実だけを信じます。

 という「ことば」でした。 
 つまり、イエスさまの誕生日、クリスマスを思い出して、「ひきこもり」のひとも、「いじめ」のない世界に、新しく出直すために、新しい神の名前をもらって、神の子となって、天地創造の神の真実を知る日が、クリスマスとなったわけです。

 (以上は、平川博達著「心を開く クリスマスのことば」に一冊の本として収録されています。  平川博達で検索してみてください」
           



   

その三 これからのクリスマス

                    

 (これから紹介するものは、ー小説 「わが愛は何処に」として、一冊の本にする予定で、
  つまり、その本の予告編です)
  

 序章 エホバの愛   
                               
 1 はじめに「愛」があった

 天の神は、あるとき、ひとりの女性に出会った。
 神は、その女性を、
 「愛」と名付けた。
 
 その「愛」は、そのうち「信」を生んだ。
 そうして信が希望を生んだことで、神は、たしかに、一つの希望をもった。
 しかし、その「希望」が、また違った「愛」を生んだのだった
 
 その「愛」は、ほんとうは、「絶望」というものであったからだった。

 そうして「天の神」は、いつのまにか、
 「愛は何処に」
 と、ひとりごとをいうようになった。

 「天の神」にとっては、
 「愛は世界を救う」というものであった。
 しかし、「希望」が、絶望を生んだのだ。
 これではもう、救いようがないのではないか。

 ということで、「天の神」は、いつのころからか。
 「わが愛はいずこに」
 と、口にするようになった。


 2 この世の「愛」が「天国」にも

 そういうことであった。
 たしかに、ほんんとうは、初めは何もなかった。
 地もまた、闇に覆われていた。

 其処にあるとき この世の愛が始まったのだった。
 神が、
 「光あれ」
 といったときの愛ではなかったのだった。

 闇が光に打ち勝ったのだった。
 それゆえに、そこは「おわり」でもあったのだった。
 其処は光の世界のはずであったが、天の神は
 「わが愛は何処に」
 と「つぶやき始めたのだった。

 地上の光のなかでは、愛はなかっのだった。
 「善悪」という闇が、すべてを埋め尽くしたのだった。
 その「善悪の世界こそが、地上の愛であった。

 そこには、ほんとうの光はなかった。
 闇がかれらの光となっていたのだった。
 
 「善悪」という世界こそが、かれらの光となったのだった。
 つまり、地上では、真理もまた、光ではなかったのだった。
 「善悪」という世界では、ほんとうは、愛もなく、真実もなく、「善悪」という人間だけが、はびこるようになったのだった。

 そうして、ほんとうの光の子が、のちに、その「言葉」が、人となって、地上に降りたのだった。
 

 3 「はじめ」に「ことば」があった

 つまりそのころから、天では、
 「初めに言があった。
 と言われていたのだった。
 「言は神とともにあった。
 「言」は神であった。

 と言われていた。
 天では、そのように言われていた。

 「初め」に「ことば」があった。
 その「ことば」は神とともあった。
 「ことば」は神であった。

 と言われて、その神が、人になった。
 その神が「イエス」となずけられた。
 というのだった。

 そのため、天では異変が起きていた。
 つまりすてに天の世界で、
 「天地崩壊」が始まっていたのだった。

 そうして、地上でも、「家庭崩壊」も始まっていたのだった。日本の皇室でも、令和の時代にはもすでに、家庭崩壊という問題を起こしていたのだった。


 4 「わたし」はアーメンたるもの
   「わたし」のほかに神はいない


 「天の神」は、こうして、年号が令和となった時点で、天で、再び、
 「神は愛であった」
 と言い始めたのだった。

 つまり、天の神は、いよいよ、
 「わたしのほかに神としてはならない。
 「地上の神々は、神ではない。

 なぜなら、地上の神々は、あつてある神ではなかったからである。
 どのカミガミも、ヘビであった。
 キツネであった。
 イヌであった。
 人間であった、

 「それゆえに、皇室の神にしても、日本人よ、吟味しなさい」
 と言い始めていたのだった。

 そこでまた、天地創造の神は、ヘブライ語で、改めて、自己紹介を始めたのである
 
  -「わたし」はあってあるもの
   はじめからあったもの。
   それゆえに、
   「わたし」の名は、「エホバ」という。

 そうして、イエスといひとが、生まれた死んだときも、エホバはいった。

 -「わたし」は、あってあるもの。
  「わたし」は死ぬことはない。
  たとえ死んでも、生きるー

 どういうことか。ふしぎであった。
 しかも、イエスという人がまた、言ったのだった。

 -「わたし」は、アルフアであり、オメガである-

 と、今度は、ギリシャでいったのだった。 

 こうして、天と地もまた、「ふしぎ」となったのであった。 (つづく)



                                      



 


キリスト めぐみの家  (2) わが愛におれ

2019年11月21日 発行 初版

著  者:平川博達  吉川宣行 吉野万菜
発  行:yoshikawa-shimon-nobuyuki出版

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現在にところ、7000ページ程の原稿があります。発行した本もありますが、書籍化はまだしていません。  盲学校、知的障害者などの学校の教師の後伝道者になり、今は執筆をつづけています。

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