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海に何か、夢を持ってきたのかと言われれば、そんなことはない。
ドリューにとって、船員は生きるために選んだことだ。特別、海の上に何か探していたものがあっただけでも、夢があったわけではない。
ドリューの父親はある伯爵家の馬丁だった。母は同じ家の料理人で、主人の許しを得て結婚をし、ドリューをはじめ、三男三女の子を得た。裕福ではなかったが、とても幸福な生活をしていた。伯爵閣下は使用人にも心を砕く人物で、子どもたちの誕生日のたびに「閣下からいただいたお下がりだ」と言って、両親はプレゼントを持ってきた。また、伯爵夫人はいつも食べきれないほどのお菓子を作らせては、子供のいる使用人に持たせてくれたし、毎週1回の休みには子供の分まで小遣いをくれていた。
兄弟姉妹の状況が一変したのは、ドリューが学校を卒業するころだ。
心優しい伯爵夫妻が事故で亡くなったのだ。旅先での事故だった。使用人たちは悲しみにくれた。そして、その後、絶望に包まれたのだ。
伯爵位を継いだ吝嗇家の長男は、両親の使用人への態度を快く思っていなかった。金を不要に使っていると信じ込んでいた。
そして、賃金を減らすために、古くからいる使用人たちの多くを別の屋敷に推薦状を書き、移らせた。別の勤め先が見つかった者はよかったが、屋敷を移ることの出来なかった使用人たちは給金を減らされた。当然、使用人の家族へのプレゼントやお小遣い、お土産はなくなった。
ドリューの両親は屋敷に残ることになった使用人だった。ドリューも学校を卒業したら、伯爵家で働く話があったものの、当然のように反故にされた。子供心にも、家計が苦しくなったのは理解できた。
だから、決断したのだ。幼い弟や妹のためにも、自分が家を出て働くのだと。
「おー。なんだ。お前、甲板に出てきたのか」
ドリューが声をかけると、その小さな影は振り返って露骨に嫌そうな顔をした。
腰ほどもある長い髪、東洋の不思議な色合いをした服。骨格からして違う生き物のように感じる幼い子供――ムオだ。
「うるさい」
「まだなんも言ってねえだろ」
船に当たって海が弾ける。きらきらと雫が光るのを、じっとムオが見つめていた。大きな目、長い睫毛。
「そー、ツンケンすんなよ」
「……うるさい」
「うるさいしか言えねえのか? 英語……はお前の国の言葉じゃねえもんな」
「当たり前だろ。天籟語と、イギリス語、ドイツ語は勉強した。広東語も話せる」
「カントン?」
「……答える意義を感じない」
ムオは黙り込んでしまった。その表情は明らかに落ち込んでいる。
(まぁ……無理もないか……、こいつも望んで船に乗ってねえしなぁ)
船には色んな種類がある。乗客もだ。
この船は、天籟とかいう国のお姫様が乗っている。なんでも、ドイツとオーストリアの間辺りにある国に嫁に行くんだそうだ。ドリューは磁器くらいしか東洋について知識はない。ぼんやりと思いつくのはインドだが、インドの人間とムオたちの姿はとても遠い。
「俺はさ、元々、違う船に乗ってたんだ。その船が軍用になるってんで、同じ会社のこの船に移ったんだ」
ムオの横に立って、ドリューも海を見た。
手すりはムオの肩ほどまであるが、ドリューでは鳩尾ほどだ。それほどまでにムオは幼い。骨だって小さいし、頭蓋骨なんて握りつぶせそうだ。
「……別にお前の人生なんて興味ないんだが」
「まぁ、聞けって。はじめは大西洋ルートでイギリスとアメリカを往復してたんだ。ニューヨークまではぎゅうぎゅうに人が乗って、新天地に夢を見てる。その船に乗ってんのは楽しかった。でもな、全員が自由の女神にワァワァ言いながらタラップを降りるとさ、あーんなに賑やかだった船が静まり返るんだ。――俺はそれが悲しかった」
海を見ていたムオが、ちらりとドリューを見る。
「俺は、置いてかれる側だ。新天地に行く夢もなければ居場所もねえ。だから、姫について知らねえ国まで行くっていうお前は、ガキなのにスゲーなって思う」
「ガキじゃない。成人してる」
「いやいや、んなわけねえだろ」
「天籟ではもう成人だ。14歳だ」
「ガキだな。うん。俺が船に乗り始めた頃だ。それに、妹と同い年だが、お前の方が細っこいぞ」
「ガキじゃ……ってもういい」
一瞬ムオは猫のように毛を逆立てたが、ふっとまた海を見た。
噛みつかれることを覚悟していたので、ドリューは「お?」と内心首を捻る。
「なんだよ、調子狂うな……」
「別に。アンタは兄弟がいるのか」
「おう。だから、さっさと働きに出たかったんだ」
「兄弟か……家族というものはどんなものだ?」
ムオの質問は、驚くほど真っ直ぐだった。
「なんだその妙ちくりんな質問は」
「ミョウチクリン……? どういう意味だ?」
「めっちゃくちゃ変だって意味だな」
「そんな単語は知らなかった。ミョウチクリン」
「覚える必要ねえんじゃねえか? スコットランドの言葉だし」
「はぁ!?」
ムオが猫みたいに怒る。目をカッと見開いて、威嚇する猫みたいになる。小さな体で気を張っているのを、この短い期間で何回見ただろう。
姫は笑いながら「ドリューはムオを怒らせる天才ですね」と言った。ムオは姫の前でこそ大人しくしようとするが、ドリューとばったり会った時など、剥き出しの感情をぶつけてくる。
「お前にとって姫様は家族じゃねえのか?」
「……馬鹿かお前は。女王陛下はお前の家族なのか?」
「うんにゃ。全然家族じゃねえな」
「そうだろう。姫は仰ぎ見る御方で、家族ではない」
「んー、でも姫様は、お前のことを大事に思ってそうだけどな」
「そういうお方だ。王族の中では一番使用人を大事になさる」
(んー……そう言うことじゃねえと思うんだがなぁ)
姫がムオをただの使用人と思っているようには見えなかった。自分が兄弟を思うように、ムオのことを考えているように見える。女王陛下を家族だとは思っていないけれど、亡くなった先代の伯爵閣下のことは、ドリュー自身「両親の雇用主」であると同時に「気前のいいおじいちゃん」のように感じていた。イースターや感謝祭に呼んでくれたこともあった。
(……そうなんだよな、伯爵閣下の奥様に、姫の目はちょっと似てんだな……)
もうこの世界のどこにもいないふたりを思い出して、ぐっと胸が苦しくなった。
会いたくなる。長い航海の間、両親や兄弟の写真の他に持ってきていたのは、亡き伯爵夫妻の写真だ。
「ああ……だからか」
ああ、だから、俺は姫を放っておけなかったんだ。
ドリューは納得して、傍らのムオを見下ろす。細い肩や背にたくさんの荷物を背負おうとする子供を。
(姫がそんなこと、本当に望んでるって思ってんだから、お前も馬鹿だよ)
伯爵夫妻にあれだけよくしてもらったのに、幼いドリューは何も恩返しは出来なかった。
時折、夢に見る。伯爵夫妻はあれから年を取り、暖炉の前でにこやかにドリューを待っている。ドリューは船の話を手土産に挨拶に行く。変な客だとか、コックの失敗だとか、楽隊のヴァイオリニストが実は素人だったとか。そんな他愛もない話を。
ムオはこれからだって出来る。姫は生きているし、旅はまだまだ続く。知らない国に嫁いだ姫を支えられるのは、生国から付き従い、姫個人に忠誠を誓ったムオだけだろう。
「まぁ、ちったぁ気楽に考えていいんじゃねえのか?」
「また無責任なことを!」
「はいはい」
ドリューはムオの頭をポンポンと叩くように撫でた。
手のひらに細い髪の感触――故郷の妹たちを思い出す。目の奥が熱くなり、ツンと鼻が痛くなる。
そんな感傷を他所に、ドリューは手を弾かれて驚いた。左手でドリューの手を払ったムオの右手が、そのまま素早く殴りかかろうとする。
「おっと、二度は喰らわねえぜ?」
腹部を狙った拳を受け止める。手は硬いが、とても小さい。目の前にあるムオが首筋まで真っ赤に染まる。
「~~~~~~っ!」
「だーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
足の甲に走った痛みに、ドリューは絶叫した。
「調子に乗るなよ! 馬鹿が!」
ドリューの絶叫にも負けない大きさでムオは叫ぶ。流石に足を押さえてうずくまったドリューに、ムオは追い打ちはしなかった。
「ふん。謝らないからな!」
ムオはそれだけ言うと、甲板から逃げるように走り去った。
「……だー、痛ぇ……」
涙がじんわりと水平線を滲ませる。足をさすりながら、ドリューは海を眺める。
妹たちは、「お姫様と同じ船に乗った」話を聞いたらどんな顔をするだろうか。陸で待っている家族と話がしたい。無性に、そんな気持ちになった。
ヴェネチアまで、間もなく。この旅は終わりを告げる。
<了>
2019年11月28日 発行 初版
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NovelJam2018秋:鈴木みそ賞受賞。 NovelJam2017:優秀賞受賞。 もっぱらギター小説を書くようです