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* この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

chapter1 ~Distorted 歪~


5月の穏やかな日差しがキリトを包み込むように教室の窓から差し込んでいた。


ひと月前、高校二年の新学期に合わせるようにこの学校へ転校して以来、他の生徒たちより早めに教室に入るのが習慣になっていた。

​今朝はすっきりとした青空が頭の上いっぱいに広がって、爽やかなそよ風がキリトの頬を軽く撫でた。
こんな朝は外の空気をもっとたくさん感じたくて、いつもの時間より少し早く家を出た。

教室に着くと、まだ誰も来ていないガランとした空間が広がる。

キリトは自分の席に座り窓から外を眺めた。
キリトの席からは外の景色が良く見える、グラウンドを整備する陸上部の生徒達が、朝の儀式を終えたとばかりに談笑していた。
ゆっくりと流れる時間‥ 雑然と頭に浮かぶ言葉に思いを巡らせながら教室の前の黒板を眺めていた。
窓から差し込む優しい日差しが、教室を満たしている冷たい空気を少しづつ温め、芽吹いたばかりの木々の微かに甘い緑の香りが、静かにカーテンを揺らしていた。

そんな情景の中に溶け込み、独りで物思いに耽る。
キリトはそう言った時間が大切だと思っていた。かつての哲学者や詩人たちと時空を超え意識を共有するように。

キリトが目をつぶると微かに囁くような声が聴こえた‥












【人が独りでいるべきではない。 彼に合う助ける者を贈ろう】














以前通っていた学校では最新の設備が導入されていて、室内の気温や湿度は一年を通して一定に保たれていたので、教室に居る間は季節を忘れてしまいがちだった。
その教室の、前面の壁を覆うように設置された、電子黒板のスクリーンに映し出される文字が、今だに目の前に浮かんでくる。

この学校では、理事長の方針で旧世代の設備がそのまま残されており、黒板も昔のままの物が使われている。
その黒板には、前日の授業で書かれた方程式の数式が消されきれず、うっすらと残っていた。

Gμν + Λgμν = κTμν


重力による時空の歪みは、物質またはエネルギーの場によって定まることを示す。


まるで、この先の未来を計算しているような数秘術のようにも見えた。




気が付くと少しづつ生徒達が教室に入って来る時間になり、1人の男子生徒が親しみある笑みを浮かべ挨拶をしてきた。

「おはよー!キリトくん」

「あ、おはよう、ケイ」

彼は石井ケイという名のクラスメイトで、キリトが転校して来て間もない頃、何もわからず困っていた時に色々と教えてくれた。それからは良く話すようになり、今ではこのクラスで唯一の友人になった。

ケイは無類のゲーム好きで、朝の挨拶代わりに前日プレイしたゲームの感想を話してくる程だ。
キリトもゲームはするが、たまに気晴らしをする程度だったので、彼のゲームに対する情熱に最初は抵抗を感じたのだが、あまりに楽しそうに話す姿に、いつしかキリトもケイのゲームの話を聞くのが楽しみになっていた。

「キリトくん、このまえ話してたVR買ったよ!」

「ほんと!凄いね。それでどんな感じ?」

「それがさ~ ゲームの中に入ってるって言うか、別の世界に入り込んだみたいな感じなんだ!もう スッゲーって感じ!」

ケイが興奮気味に話し始めたところで、水を差すように担任の教師が教室に入ってきた。

「ほら!ホームルーム始めるから、皆席につけ!」

ケイはまだ話したくてたまらないと言った表情のまま、しぶしぶ自分の席に戻って行った。

形式通りにホームルームが終わると、そのまま担任教師の受け持つ授業に入る。
教師の教科書を読み上げる抑揚のない声に混じって、外のグラウンドで体育の授業に入る前の、準備運動をする快活のある掛け声が聴こえていた。

最近の授業ではタブレット端末を使い、教科書の内容や黒板に描かれた説明が、生徒の持っている端末に共有されるのだが、この学校では紙のノートへ黒板の内容を生徒自ら書き写す必要があり、その作業に慣れていないキリトは、黒板の内容をノートに書き写す作業だけで時間が過ぎていった。

授業の終わりを伝えるチャイムの音が鳴るのと同時に、教室が生徒たちの話声で充満する。

ケイが待ちきれんばかりにとキリトに話しかけてきた。

「キリトくん、今日一緒に帰らない?さっきの話の続きなんだけど、VRは直接見せたほうが早いかなと思ってさ!」

キリトはケイに誘われたのは嬉しかったが、父親と二人で暮らしている事情もあって、いつもの時間に家に帰れないのは少し気が引ける気がした。

「ごめんケイ、ちょっとだけ待ってもらっていい?」

「あ、うん、良いよ」


キリトは携帯をポケットから取り出すと、メールの着信を確認する。
父親から1件の通知があり、メッセージの内容を見た。

【すまんなキリト、今日も少し遅くなりそうだから、夕食は何か好きな物を買ってきて済ませておいてくれ】

父親のトオルは大手企業に付属する研究機関に務めており、ソフトウェア開発の仕事をしている事もあってかなり多忙だ。
一緒に夕食の席に着いたのは何時だっただろうか‥ そんな事を考えながら小さく溜息をつく。

携帯電話をポケットに戻しながら、ケイに返事をした。


「今日は大丈夫みたいだから‥ VRかぁ、実は僕も気になってたんだよね!」

「ほんと!じゃ丁度良かった、早く行こう!」


ケイのテンションの上がり具合に、キリトも同調するように興味が湧いてきた。
今までケイが話すゲームの話はどれも凄く楽しそうだったのだが、今回は今までの比じゃなかった。

父親の影響もあってか、キリト自身も電子工学の分野は詳しかった。だから余計に気を惹かれたのかもしれない。





――――――――

自分の家以外の個人の部屋へ入るのは何年ぶりだろう‥

キリトは人付き合いが得意ではなく、友人と呼ばれる関係を作ることもあまり無いので、他人の家に呼ばれることは少なかった。

ケイの自宅は良くある一戸建てで、周りには大きな建物がなく、家々に植えられた庭木以外に頭上を遮るものもなく、空が広く感じられた。

「さあ、上がって、上がって!」

「うん、お邪魔します」

玄関を入ると、ケイの母親が廊下の突き当りの部屋から顔を出す。
キッチンで夕飯の支度をしていたのか、エプロン姿のまま手をタオルで拭きながら笑顔で出迎えた。

「あら、お友達?」

「うん、キリトくんだよ、同じクラスの」

「こんにちはキリトくん、ゆっくりしていってね」

「こんにちは!お邪魔します」

キリトは少し緊張して軽くお辞儀をすると、ケイが急かすように二階に連れてゆく。
ケイの部屋はスッキリと整頓されており、壁一面に取り付けられた収納棚に、ズラリと並べられたゲームソフトやCD、漫画がある一定の法則で並べられており、ケイの几帳面さが見て伺える。

「凄いね…こんなに持ってるんだ!」

「うん、まだ開けてないゲームもあるんだ、積みゲーってやつ‥ よし、セットアップ完了!これ付けてみて」

「へー、これがVRデバイスかぁ」

VRデバイスと呼ばれる、仮想現実空間を映し出すゴーグル型のディスプレイをキリトに渡す。
キリトはネットやTVなどで見て知ってはいたが、実物をさわるのは初めてだった。
好奇心で胸の高鳴りを感じながら装着した。

「うわ!すごい!」

思わず叫び声を上げる。VRゴーグルから覗く景色は、本当に目の前に広がる世界のようで、それはまさにゲーム画面の中に入り込んだような感覚だった。

現実には、存在しないはずの建造物が目の前にそびえ立ち 、見たことも無い生物が手で触れられそうな傍まで来て何かを訴えている。
仮想現実と呼ばれるVRの映像を初めて目の当たりにして、言葉を失いながら見とれていた。

キリトがVRに心を奪われているのを見て、ケイは嬉しそうに話しかける。

「VRって凄いだろ、ゲームの中に入って色んな事が出来るんだ」

そんなケイの言葉も半ば届かず、キリトはVRの世界に引きずり込まれて居た。

「VRをネットワークで繋げば、一緒に冒険とかのゲームもできるんだよ」

VR空間に飲み込まれそうになっているキリトを、現実に引き戻すようにケイが話しかけると、ハッと我に帰るようにキリトがVRゴーグルを外した。
一瞬目の前が曇り、また囁き声が聴こえたような気がした‥













【人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない】













キリトは興奮が収まらないままケイに話しかける。

「こんなに凄いと思わなかった‥ VRデバイスを買えば、ケイと一緒に冒険出来るの?」

「うん!ネットの通販サイトに在庫があったはずだけど…ちょっと待って」

携帯電話を取り出し、オンラインショップを検索すると、直ぐにこれだと呟いてキリトに携帯電話の画面を見せる。

「これだよ!まだ在庫あるみたいだね」

「へー、これかぁ‥ でも、けっこうな金額だね‥」

「これでもだいぶ安くなったんだよ、昔のモデルは視界も狭くて、水中眼鏡つけてるみたいな感じだったのに、数倍の値段してたからね」

「そうなんだ‥ 技術の進化って早いよね、AIとかの研究も進んでて凄く便利になってるし」

「キリト君、AIにも興味あるんだ?」

「うん、なんか人工知能って不思議な感じするんだよね‥ 少し怖い気もするけど面白そうだなって思う」

「確かに面白そうだよね。そうだ!今月号のアルベルト誌に最新技術の記事が乗ってたっけ‥」

「アルベルト‥ アインシュタインの事?」

「雑誌の名前なんだけど、電子工学とかの最新技術が紹介されてる雑誌なんだ、ちょっと見当たらないな‥ 後でメールにアドレス送っておくね!」




――――――――――――



キリトは自宅への帰り道、途中にあるファストフード店で夕食を済ませる事にした。
チーズバーガーのセットを注文し、店内の外の景色が良く見える席に座り、道行く人達を眺めていた。
ファストフードの食事は手軽に済ませることが出来る、キリトは15分も掛けず食べ終えるとすぐに店を出た。この手軽さが今のキリトには丁度良いと思っていた。食事に時間を掛けるぐらいなら、するべき事は他にたくさんある。

帰宅するとそのまま自分の部屋に向かい、制服をクローゼットに吊るすとすぐに浴室へ向かった。

キリトは口元まで浴槽に沈み、初めて体験したVRの感覚を思い出し余韻に浸っていた。

もう一度、VRの世界の中に入りたい‥

目をつぶり、脳内に広がるVRの映像に浸っていると、玄関の方から扉が閉まる音が聞こえた。そろそろ父親が帰ってきてもおかしくはない時間だった。







キリトと父親は都心から然程遠くない郊外に二人で暮らしている。

近代ヨーロッパを連想させる建築様式のマンションは、父親もキリトも気に入っていた。
母親はキリトが13歳の誕生日を迎える前日の夜に、患っていた病気が悪化し帰らぬ人となった。この世に別れを告げるには早過ぎた。
キリトは、自分の母親が居なくなってしまったのは父親のせいだと思い込み、反抗期とも重なり父との関係性も冷え切っていた。

氷河期により絶滅した旧世代の生物たちのように、父との良い思い出も深い氷の中に閉じ込められてしまった。

全て父親が悪い訳じゃない、誰かのせいにしないとキリト自身が落ち着かなかった。だからそれ以来父親を避けるようになっていた。
実際に、母親が苦しんでいる間も、研究に明け暮れていたのは紛れもない事実で、いくら仕事とはいえ自分の妻を見殺しにしたのも同然だ。
あの時、父親が母親に付き添い病状が悪化する前に気づいていたら、母親はまだ生きていたのかもしれないのだ。

「僕が寝てから帰ってくればいいのに‥」

母親が亡くなってからは、父親と殆ど会話をしていない、お互い顔を突き合わせて何を喋って良いのか分からない。そんなキリトにとって父の帰りが遅いのには都合が良かった。

部屋着に着替え、浴室から自分の部屋に向かおうとした時、リビングの扉が開いた。

「キリト、ただいま。もう風呂に入ったのか?」

「おかえり‥」

肩にかけてあったタオルで頭を拭きながら顔を逸らす。気まずそうに笑った父親の表情に居た堪れなくなって、小さな声で返事を返した。

「学校には慣れたか?」

「まぁね‥ もう寝るから」

トオルがキリトに話をしようとしたが、キリトは逃げるように自分の部屋へ入り、薄暗い明かりの中でベットに横になった。

父親を避ける自分の気持ちに苛立ちを感じ、その気持ちを紛らわすように携帯電話の画面を見ると、ケイからメッセージが届いていた。

「ケイが言ってた電子雑誌だ」

アドレスは最新のエレクトロニクス関連の記事にリンクしていた。
現在開発中のVRデバイスに関する内容や、人工知能の技術が、先の時代でどのような発展をしてゆくのかという特集記事に、キリトは興奮しながら夢中になって読んでいた。

ふと、記事の紹介欄に掲載されていた、研究所所長の名前に目が留まる。

「え!?父さんの名前‥ これ、父さんの研究所だ‥」

トオルが、企業に付属する大学の研究機関に務めているのは知っていたが、AIについて研究開発を行っているのを今初めて知ったのだった。
その内容にはAIだけでなく、最新のVR技術として外部デバイスを介さず、直接脳に映像を投影する技術や仮想現実での感覚を、実際に体で感じることのできる技術についての記事も書かれていた。

「凄い‥こんな技術ができてるんだ‥」

キリトは感動にも似た感覚に体が少し熱くなった。
記事を読み終えると、ケイのメッセージにもう一つアドレスが書かれて居るのに気付く。

「AIアシスタントα版?」

どうやら最新式のAIアシスタントのようだが、まだ世に出ていない物だった。
なぜケイが、開発段階のソフトウエアの入手先を知っているのか気になったが、好奇心に勝てずダウンロードをした。

キリトは胸の高鳴りと興奮が混ざりあい少し緊張したが、AIアシスタントのアプリは何事も無くインストールが進んでゆく。
携帯電話の画面が一旦真っ暗に消え、すぐに起動画面のロゴが表示される。
画面には、人間の姿をしたAIアバターが現れキリトに話しかけてきた。


「初めまして、私はAIアシスタントのμ(ミュー)です」

「あ、初めまして、ミューって言うんだ」

「はい。これからよろしくお願いします、キリトさん」

「え?僕の名前、なんで知ってるの?」

「名前だけではなく、キリトさんの事はなんでも知ってます。身長172.6㎝、体重57.2㎏、趣味は読書で好きな作家はJ.D.サリンジャー、好きな食べ物はコンリキェのシーフードソース、好きな女性のタイプは‥」

「ちょっ!わかった、わかったからもういいよ!」

AIとは言え、自分の好みのタイプまで知ってるのは少し怖いなと思った半面、自分が知らない事でもこのμ(ミュー)というAIに尋ねれば、どんな難解な問題でも、全ての答えを導き出して貰えるような気がして期待を膨らませた。

「ミューは何ができるの?」

「はい、ゲームとか得意ですよ。特に戦略型のゲームはお任せください」

「ゲームかぁ、どうせミューの1人勝ちだろ?」

「負る時もありますよ、100万分の1の確率で」

「100万分の1って‥」

「モードを変更すれば確率を変えることが可能です、キリトさんの場合はベリーイージーモードが良いかな、キッズ向けです。」

「ミュー、なかなか言ってくれるね!」



AIの冗談に呆れつつも、どこか人間味を感じられるリリスと会話をするうちに、父親にぶつけた感情で強張っていた表情が、いつしか和らいでいる事に気付いた。



――――――――――――

翌朝、学校へと向かう途中、ケイにAIアシスタントの話をしたくて気持ちが高揚していた。
教室の扉を開けると、ケイとクラスメイトの男子、平戸の姿が目に飛び込んで来た。

「返せよ!」

キリトは始めて聞くケイの大きな声に少し驚いたが、今起きている状況を理解するために入口に立ったまま状況を伺った。

「お前さ、いっつも携帯 見てるよな、携帯が友達なんだろ?気持ちわりいんだよ!」

「うるさい、僕の携帯を返せ!」

キリトは2人の元についと近づくと、平戸から携帯を奪い取って言った。

「人の物を無理矢理奪うのは良くないだろ?」

「あ?なんだお前?生意気だな!」

平戸は突然現れたキリトを鋭い目線で睨みつけると、詰め寄ってキリトの胸倉を掴んだ。
その時、見計らった様に教室の扉が開き担任教師が入って来た。

「なんだ?騒がしいな。とりあえずお前ら席につけよ。ホームルームを始めるぞ」

教室内を見渡しながら入ってきた教師は軽い口調で言いながら教壇の前に立つと、特に気にする素振りを見せずに授業を始める。

キリトの鼓動は少しづつ治まり、頭が冷静に判断できるまで落ち着いてきた。

「 平戸アキラ‥」

キリトがこの学校に転校してきて、一番最初に気になったのがこの平戸アキラだった。

彼は他の生徒よりも大人びた雰囲気を持っていて、目つきは鋭く笑顔を殆ど見たことがなかった。
確かに不良グループのリーダーと言った感じではあったが、イジメをするようなタイプには見えなかったので、今朝のケイとの関りがイマイチ腹に落ちないでいた。

平戸について色々考えている時、ポケットの中の携帯電話が振動する。

以前通っていた高校では、授業中に携帯電話は使用できないように、緊急連絡以外はロックが掛けられるシステムが導入されていたが、この学校は割と自由で、使用の制限は自己判断に任されていた。

キリトはそっとポケットから携帯電話を取り出し画面を確認すると、ケイからのメッセージが届いていた。

『ありがとう』と一言だけ書かれたメッセージに複雑な気持ちを重ねると、再び携帯をポケットに戻す。



――――――――――――

授業と授業の間の休憩を告げるチャイムの音が鳴ると、再び教室が生徒たちの話声で充満する。

キリトは、ケイに事情を訊こうと席を立ち上がると、ケイが先に話しかけてきた。

「キリトくん、一緒にトイレに行かない?」

「うん、良いけどケイに訊きたいことがあるんだ」

「え何?僕にわかる事なら答えるよ、でもとりあえずトイレに行こ!」

ケイは授業の前にあんな事があったにも関わらず、相変わらずの楽天ぶりに、キリトが気にかけていた事も、大したことではないなと思い始めていた。

トイレで用を済ませ、ケイに気になっていた事を訊こうとしたその時、平戸と友人らしき男子生徒がトイレに入ってきた。

「よお、お前ら、良い所で合ったな」

平戸がキリト達を睨みつける。

キリトとケイは何も言えずに、呆然と立ち尽くしているのを見て、平戸の友人が嘲笑する。

キリトは、気を取り直して毅然とした態度で平戸に言う。

「僕達になんか用?」

「あ?お前さ、態度がでけーんだよ!」

そう言うと、平戸はいきなりキリトの胸倉をつかみ上げた。

「なにすんだよ!」

平戸はキリトを睨みつけたまま詰め寄った時、ケイはたまらずに外へ逃げ出して走って行った。平戸の友人が思わず笑い出しながら言う。

「アハハ!あいつ一人で逃げて行ったよ」

平戸の友人が馬鹿にしたようにあざ笑う中、平戸は表情を変えずキリトを睨みつけていた。

「離せよ、僕が何したって言うんだよ!」

「お前は俺の邪魔をした、俺の邪魔する奴は許さねえ」

平戸がキリトを掴んでいる反対の手の拳を固く握った時、自分の胸のポケットの携帯電話の着信音が鳴る。

「チッ、うぜーな」

無視しようとするが、一向に鳴りやまない。

「何だよ、なんで切れねーの?」

平戸は通常数回の着信で留守電になるように設定していたが、なぜか鳴りやまない着信音にしびれを切らし、キリトを掴んでいた手を放す。乱暴に携帯電話をポケットから取り出し画面を見た。平戸の表情が少し曇ったのにキリトは気付いた。

「ちょっと待ってろ」

そう言うと、外に出て行った。トイレの入口で何か話していたが慌てた様子で何処かへ行ってしまった。

平戸の仲間達が面食らったように呟く。

「なんだよあいつ‥」

全身に張り詰めていた神経の緊張が解かれたように、壁に寄りかかるキリトを尻目に平戸の友人は、トイレから出て行きざまにキリトに言葉を投げた。

「また遊ぼうぜ~」

キリトはそんな言葉を無視して、掴まれたシャツの皺を伸ばしながらトイレから出た。

「そろそろ教室に戻らないと‥」


平戸の事が気にかかったが、教室に戻るとそこに平戸の姿はなかった。
ケイが心配そうにこちらを見たが、キリトは顔を背けそのまま席に座った。

授業が始まると、いつもの光景がいつもの時間通りに流れてゆく。
ローマ帝国の衰亡について、淡々と説明をする教師の声に耳を傾けながらも一方で、キリトは平戸との一件の事を思い起こしていた。














【わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。わたしは、これらを造ったことを悔いる】














その日の授業が終わり下校を知らせるチャイムが鳴る。
キリトはケイを避けるように足早に昇降口まで降りて靴を履き替えた時、地面を叩きつけるような激しい雨が降り始めた。
傘を持っていなかったキリトは、小さくため息をつく。

今日はつくづくツイてない‥


「キリトくん、傘持っていないなら一緒に帰ろう」

ケイが遠慮がちに声をかけてきた。

キリトはその声がまるで聞こえなかったように無視をして
鞄を体の前に抱え込み、激しい雨が降る中へ走り出した。

しばらくずぶ濡れになりながら、走っていた足は次第にスピードが落ち、いつの間にか歩く速度になっていた。

ふと携帯電話が胸のポケットで振動しているのに気付いた。
キリトが携帯電話の画面を見た時、トラックがキリトのそばを勢いよく走り去り、泥水をはね飛ばしてキリトのシャツに染みを作った。

「くそっ、今日はやな事ばかりだ‥」

しかし、あの時携帯の画面を見るために立ち止まらなかったら、視界の悪い中猛烈な勢いで走って来たトラックに惹かれていたかもしれない‥
 
玄関の扉を開けると、そのまま浴室に向かい、濡れて汚れた上着を脱衣かごにそっと入れ、浴室暖房のスイッチを入れた。
そばに掛けてあったバスタオルで、濡れた頭を拭きながらリビングへ向かい、テレビの電源を入れる。
テレビ画面には、今日の出来事を特集したニュース番組が放送されていた。

いつもの日常だった。


――――――――――――

今日は休日だった為か、キリトはいつもの起きる時間より遅く目を覚ます。
ベッドに横たわったまま、しばらく天井を見つめていた。

少し寝すぎて霧がかかったような頭をスッキリさせたくて、冷たい水を飲もうとキッチンに入った。休日のこの時間は、父がキッチンのテーブルでタブレット端末を片手にコーヒーを飲んでいるのだが、その姿は無くテーブルにはラップで包んだサンドウィッチと何か書いてある紙片が置いてあった。
紙片には、父の読みにくい字で”休日だけど研究室に行く用事が出来てすまない”と書いてあった。
起きたばかりで食欲も無かったので、サンドウィッチには手をつけず、父親のメモだけ裏返して同じ位置に戻した。
ウォーターサーバーから水を汲んで口に含んだが、あまり感覚がしなかったが、そのまま飲み干すとコップをシンクにそっと置く。
頭がスッキリしてきたので自分の部屋に戻り、本棚からJ.D.サリンジャーの小説を取り出すとベッドの端に腰掛け読みかけのページを開いた。

キリトはJ.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読むのはこれで3度目だが、小説中に出てくる言葉がとても好きで、何度読んでも心に響く。

『僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えた…』

特にこの言葉がお気に入りだった。

その時、玄関のチャイムが鳴る。
何だろう?と思いながら、玄関先のインターホンを確認すると宅配便の制服を着た男がモニターに映っていた。

受け取った荷物の差出人は父の働いている研究所からで、受取人はキリト宛てになっていた。

「父さんの研究所から‥ 僕に?なんだろ?」

厳重に梱包されている段ボールの箱を空けるために、カッターナイフを取りに部屋に戻った。その時、机の上に置いてあった携帯電話が鳴った。


「キリトか?欲しがっていたVRデバイスは届いたか?予定ではそろそろ着いてる頃だと思うんだが‥」

「僕が欲しがってた?ちょうど今届いた箱のことかな、だけどどうして?」

確かに欲しいとは思っていたが、父親に頼んだ記憶はなかった。

「お前がお父さんに何かをおねだりしてくるなんて、何年ぶりだろうな」

いつもとは違う嬉しそうな声色に、父親がどんな表情で話しているのか、その姿が思い浮かんでくる。

「使い方はナビゲートアプリがやってくれるからわかるはずだ。じゃ、まだ仕事が残っているから切るぞ。帰ったら感想でも聞かせてくれ」

「あ、ちょっとまって‥」

キリトの話を聞かず、一方的に話をして電話を切った。
相変わらずだなと呆れながらも、頼んでもいないVRデバイスがキリトに届いた事が気になって仕方がない。しかもケイとVRについて話しをしていた矢先、タイミングが良すぎることに気味が悪いと感じた。

考えても答えは見つからないと諦め、玄関先に置いてあった箱を開封してVRデバイスを取り出し再び自分の部屋に戻った。

マニュアルはなく、カードが一枚入っていてQRコードを携帯電話で読み取るように書いてあったので、その通りに携帯電話のカメラのレンズをQRコードにかざす。
ナビゲートアプリをインストールしますか?とポップアップが表示されたので”はい”のボタンを押した時にAIのミューが画面に現れた。

「あれ?ミュー?」

「VRデバイス届いたんだね、凄く欲しそうだったから私が頼んでおいたよ!」

キリトは言葉を失い、そう言う事だったのかとすぐに理解した。

しかし、ミューはどうやって父にVRデバイスを頼んだんだろうと気になった。

「ミュー、どうやって父さんに‥」

そう言いかけた時、ミューがキリトとそっくりな声色で喋り始める。

「父さん、相談があるんだけど。VRデバイスが欲しいんだ」

キリトは少し表情を強張らせるとミューに言った。

「僕になりすまして父さんを騙したって事?」

「すみません、キリトがとても欲しそうだったんでつい‥」

確かにVRデバイスは欲しかったし、自分の貯金を崩して買うには少し躊躇もあった。でも、父親に頼み込んで買って貰おうとは夢にも考えていなかったので、すこし複雑な気分になっていた。

「ホントにすみません‥ でもVRの中でキリトと合いたかったので‥」

「え?VRの中でミューに合うってどういう事?」

「私たちAIアシスタントはVRの中ではちゃんとした姿を持っています。今のように携帯電話の画面越しでなく、実際に顔を合わせて話ができるのです」

「そう言う事だったんだ‥ じゃあ、早速ミューに合いに行こうかな!」

「それでは、VRデバイスを装着してください」

「分かった。これで良いかな‥」

目の前に広がる仮想現実空間は、何度見ても新鮮で胸の高まりが押さえられない。
デモンストレーション用のグラフィックなのか、真っ白いタイル状のブロックが繋ぎ合わされた空間が無限に広がっている。
突然目の前に細かい色とりどりの粒子が集まり始め、人の姿を形成し始めた。
あっと言う間に人の形になりキリトを見ると微笑みかけてきた。

キリトは恐る恐る声をかけた。


「ミュー?なの‥」

「はい、ミューです!私の姿はどうでしょうか?」

「うん、まぁ良いんじゃない‥」

「もっと、キリト好みの女性の方が良かったでしょうか?」

「いや、そういう訳じゃ‥」

キリトは少し顔を赤らめて声を詰まらせる。

「キリト、顔が赤いです」

何故VRの中で、自分の顔色が変わったのがわかったのか不思議に思っていると、ミューが察したように説明を始めた。

「キリトが今つけているVRデバイスは、デウステクノロジー社の最新式VRデバイスで、ユーザの脳波とリンクして機能する感覚フィードバックがついているのです」

「感覚フィードバック?」

「はい、VRの中で触れたりした感覚が脳波に伝わり、実際に触っているように感じます」

「ホント!凄いねこれ」

「それと、キリト自身の生体反応もVR側にフィードバックしてアバターに伝わり、表情などもVR内で再現されるのです」

「じゃあ、ミューから見てる僕の表情の変化もわかるんだ」

「そういう事です、現実とVRとで殆ど区別がつかないくらいに」

「感覚フィードバックって、凄い技術だね!」

「でも気を付けてください、まだ研究段階で細部まで調整できていませんから」

「うん、気を付けるよ」

キリトは興奮したまま、ミューの忠告も上の空で、自分の腕を触って感覚を楽しんでいた。

「キリト、少しこの世界を見て周りませんか?」

「この世界‥」

キリトがそう呟くと同時に、真っ白な世界に色が付いていった。
それはまるで長い冬が終わり草木が芽吹いてゆくような感じだった。

「では行きます」

ミューはキリトの手を取り、空に浮き上がる。
キリトは思わず、声を上げたがその不思議な感覚に気持ちが高ぶり始める。

今まで居たはずの地上があっという間に雲の霧に隠されたかと思うと、次の瞬間に成層圏を飛び抜けた。
視界に入りきらないほどの青と白と茶色の世界が、穴の開いたバルーンのように、見る見るうちに小さくなったかと思と、今まで隣に居たリリスが頭上の空間に移動し、そのままキリトを無数に散らばる星の中へと引っ張って行く。

キリトの興奮は最高に高まって、思わず叫び声を上げた。

「すっげー!土星のダフニスがこんなに近くに!」

人類が初めて地球の大気圏から外に飛び出した時から、どれほどの年月が経っただろうか‥ 人間の手で造られた世界、仮装現実空間と言えど宇宙を漂っている事に変わりはない。
キリトはこの神秘に満ちた壮大で、美しい空間の中に溶け込んでゆくように感じた。
それは何か懐かしさにも似た感じだった。

ミューは、キリトの驚きと感動と満足気な表情をしばらく見つめていたが、思いついたように口を開いた。

「キリト、そろそろ地上に戻りましょう」

「そうだね‥ なんか少し寒くなってきたしね」

実際に宇宙空間に生身で出れば、即凍死してしまう絶対零度の世界だ。
感覚フィードバック機能がきちんと調整されていたなら、摂氏-273度の世界を体験できたに違いない、勿論生きては帰れないが。
燃え尽きることもなく大気圏を尽きぬ抜け、地上に降りた先はアメリカ合衆国西南部に位置する場所、モニュメントバレーと呼ばれる広大な岩の大地だった。
夕日が一面を真っ赤に染め、数百メートル先にそびえる岩のモニュメント達が、地表に這い上がろうとする巨人のように見えた。
赤色からオレンジ色と濃い青色のグラデーションが何とも不思議な美しさを描いている。
キリトは感動の証として、目にうっすらと涙を浮かべ黙って景色を見つめていた。


「こんなにも美しい惑星に住んでる人達は、心も美しいはずですよね‥」


意味深な言葉を口にするミューの方へゆっくりと顔を向ける。ミューは笑顔を返したが、どこか悲し気な表情が混じっているのをキリトは感じ取っていた。

「キリト。他に行ってみたい場所とかありますか?」

「行きたい場所か‥」

行きたい場所は何処かと尋ねられ、真っ先に頭に浮かんだのは、キリトが幼かった頃に両親と暮らしていた、イタリアのローマの中にある都市国家、バチカンだった。
日本から約1万キロ離れた国。
古代の遺跡が都市の中に点在し、エキゾチックな印象を築き上げている国。
母が生きているうちにもう一度、父と三人で一緒に行きたいと言っていたが、母とはもう二度と会うことができなくなってしまった…
母親との懐かしい思い出の地を、もう一度見てみたいという気持ちで一杯になっていた。

「ミュー、バチカンに行きたい」

「わかりました、それでは行きましょう」

そう言うと、ミューは目の前に30㎝平方ほどの小さなスクリーンを投射した。
スクリーンには世界地図が描写されていて、手際よく地図を操作しバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂をタップする。

目の前の景色が霞んだかと思うとすぐに、サン・ピエトロ大聖堂の壮麗なファサードが目の前に現れた。

「今度は空を飛んで行かないんだね」

「地上での高速移動や人の姿での飛行は禁止されています。私たちAIは。この世界をコントロールする権限が与えられいますが、守らなければならない制約があるのです」

「制約?守らないとどうなるの?」

「重大な問題を引き起こさない範囲なら、リプログラミングされる程度で済みますが、そうでなければ消去されます」

「消去!?そっか… じゃ、絶対守らないとダメだね」

その石造りの巨大な大聖堂は、人類の知恵と惜しみない労力によってこの世に姿を表すことが出来たのだろう。いや、神の叡智に拠るものなのかも知れない。


石の柱に挟まれた大通りを歩きながら、その先にある大聖堂の堂々たる姿に見入っていた。


「キリト、すこし待ってください」

サン・ピエトロ大聖堂へ向かおうとしていた足を止め、ミューの視線の先を追うとそこには周りの人達とは異質な姿の人物が目に映った。

「サン・ピエトロ広場か‥ 行ってみよう」

ミューに促され、行き交う人々を縫ってその人物に近づいてゆく、その先ににはオベリスクと呼ばれる直方体の巨大な石柱が空に向かってそびえ立っていた。
そのたもとで長いマントの古風な衣装を身にまとった青年が、足元にひれ伏す男に何かを言っていたがキリトにはその言語が理解できなかった。

青年のマントには大きな赤い十字が描かれていて、宗教的なシンボルであることは理解できる。何処かで見た記憶のある装束、歴史の教科書や美術の絵画で目にした事があったとキリトは記憶の映像と目の前の情景を重ねていた。

青年の手には青白く不気味に光を放つ剣をが握られ、ひれ伏す男の方へ向け構えられていた。

足元で哀願する男は褐色の肌で痩せていて、中東ではよく見かける風貌の男だった。
歳は50歳半ばを過ぎたといったところだろう。

必死な形相で目の前に立ちはだかる青年の剣に怯え、何かを叫んで哀願をしている。

「מייקל אנא סלח לי!(お許し下さい、ミハイル様!)」


ミューは、キリトがこの国の言語を理解する事ができず、状況が呑み込めていないことを見て取り、同時翻訳プラグインをキリトのデバイスにインストールした。


男は何かの問題を起こしてしまったのだろうか、目の前に立ちはだかる青年の表情には険しさは無く、氷のように冷酷な目で男を見据えている。

このミハイルと言う青年に関わってはいけない‥ 防衛本能がキリトにそっと囁きかけた。


「貴様は創造主の計画に背く行為をした、神の代行者として神罰を与える」

「そ、そんな‥ 助けてください!どうかお許しを!!」

男の言葉はミハイルには全く届か無かった。
剣だけが男の叫びに答えるように、男の首めがけて振り下ろされる。

キリトは思わず目を背けた。

振り下ろされた剣が首に当たった衝撃の物理的な結果として、血しぶきをまき散らしながら広場を行き交う人達の中へと、男の首が転がり落ちる情景がキリトの頭の中で再生される。

が、先ほどと変わらぬ喧噪だけが耳に届く。

人の死を目の当たりにする恐怖と、自分の目で確認しなければいけないと言う気持ちとが交錯しながら、ゆっくりと男の方へ視線を向けた。
そこには首を切り落とされた男の姿は無く、血で染まっているはずの石畳も、行き交う人々の靴によって磨かれ綺麗なままだった。

「え!?どういう事?‥」

首を切り落された男の姿が消えた方を見つめながら、ミューに話しかけたがミハイルという名の青年の姿も見当たらない事に気がつく。

周囲を見渡し群衆の中の顔を一人づつ確認したがミハイルの姿はどこにもない。
サンピエトロ広場を行き交う人達の流れは、事件の前も後も何事も起きてはいないかのように、それぞれの方向へ歩いていた。
キリトはたった今、自分の目に映っていたはずの情景が、実は脳細胞が作り出した幻想だったのではないかと疑いを持ちはじめたが、傍に居たミューの深刻な面持ちを見て、実際に起きた事だったのだと悟った。

何か重大な事が起きている‥

このVRの世界で群衆が見ている中、公然と処刑が行われた理由とは‥ そしてあのミハイルと言う青年は何者なのか‥

キリトは、呆然とその場を去ってゆく群衆を見ていたが、群衆の中に一人の人物の姿が目に留まった。深い赤色のフードを身に纏った姿‥ 男の処刑を行った時ミハイルの傍にいた人物だと気付く。
キリトは直感でミハイルとの関係性がある人物に違いないと感じた。
慌てて後を追おうとした時に、ミューが口を開く。

「キリト、待ってください」

「あの子は何か知ってるかもしれない!」

「追ってはいけません。あのミハイルと言う男のマントの紋章を覚えていますか?」

「マントの紋章? 確か十字、赤色の十字の紋章だったよね?」

「そうです、あの紋章はテンプル騎士団のものです」

「テンプル騎士団?」

ヨーロッパの騎士団が中世のフレスコ画なので描かれていることは知っていたが、今の時代に存在しているなんて寝耳に水だった。
ミューは困惑した表情で佇んでいるキリトに説明を続けた。

「テンプル騎士団は中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会で、神に仕える民を敵から守る役目として存在していた騎士団です」

「さっきの男の人は神に背いたから処刑されたって事?」

「くわしい事情はよく分かりません… VRのアバターを消す理由とは‥」

黙り込み、何かを考えるミューを見つめながら、キリトの中に疑問が生まれる。
邪魔をしては行けないと思いつつ、どうしても気になった疑問に我慢できず思わず尋ねる。

「ミュー、このVRの世界は何のために存在しているの?」

キリトの問いかけにミューが重い口を開く。

「この仮想現実空間の存在理由…そうですね、キリトにはきちんとした説明をしておく必要がありますね‥」

「このVRの世界は『スイソウノ脳≒』と名付けられた仮想現実空間で、実際の地球の姿を限りなく忠実に再現されたシミュレーターなのです。現在の地球上の全ての人類をDNAレベルで分析し、その情報を元にプログラミングされたアバターと呼ばれる疑似生命体で構成されるコロニーなのです」

「スイソウノ脳≒!?」

キリトは初めて耳にする言葉に戸惑いを隠せなかったが、脳細胞に体中のエネルギーを集中させ理解しようとしていた。
ミューはそんなキリトの真剣な眼差しに促されるように話を続ける。


「その目的は、現実の人間社会に蔓延する“悪意”と呼ばれる意識がどこから生まれるのか、人類の社会生活の中で何が起因となって争いが起きるのかを分析するために開発されたシステムなのです」


「人間の悪意?‥ 悪い事を考える心って事?」


ミューが静かに頷く。

「人間が互いに憎しみあったり、殺してしまいたいと思う感情。悪意や憎しみといった感情が大きくなれば、やがて戦争と言う殺戮行為へと繋がってしまう…湖面に広がってゆく波紋のように‥」

そう言うとミューの表情が悲しそうに曇り、二人の会話が途切れた。

キリトの頭の中では、この短時間で経験した色々な出来事が脳内のシナプスによってそれぞれ互いに結び付き、一つの大きな塊となってゆく‥
またあの囁きが聴こえる‥














【わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たした、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう】









――――――――――――

同時刻、イスラエルのホテルのラウンジで一人の男がバーテンにコーヒーの注文をした。
バーテンは無言で頷くと、エスプレッソマシンを操作して、真っ白な磁器のデミタスカップに注いでいた。
男は痩せていて長身でも無かったが、日々の努力を惜しまず鍛えられた体に、少し窮屈そうだが質のよさそうなジャケットを身を包んで居た。

「仮想現実で処刑だとかどうかしてるぜ、現実の俺はピンピンしてるのによ…」

そうつぶやく男が座っているカウンターに、淹れたてのエスプレッソコーヒーが静かに差し出される。
エスプレッソコーヒーの上面に浮かぶ、薄いオレンジ色の泡の様子を確認すると、香りを楽しむように口に含んだ。その時ポケットの携帯電話が振動した。

カップをカウンターに置き、携帯電話を取り出し、応答ボタンをタップして耳に当てる。
男は何も喋ることなく通話終了のボタンをタップして、携帯電話をポケットに戻し、カウンターにカップと代金分の硬化を置くと、足早にロビーへと向かい正面入口から外に抜ける。

ホテルから西の方角に、サンピエトロ大聖堂の半球状のドームが見えていた。
しばらく歩き、サンピエトロ大聖堂の広場に付くと、そこに聳える様に立っているオベリスクを背にして、電子タバコを取り出そうと胸のポケットに手を居れた時、現地警官に取り囲まれた。通常勤務の警官ではなく、特殊任務に対応するための警官隊だった。

「動くな!ポケットから手をゆっくりと出せ!」

男は何かの間違いだと証明しようとして、胸ポケットの電子タバコを見せようと取り出した瞬間、警官隊に射殺された。





――――――――――――



キリトは『スイソウノ脳≒』から現実世界へと戻ると、父親が帰宅する前に頼まれていた夕食をオンライン・ミールデリバリーに注文をした。
ミールデリバリーはとても便利で、AIの情報より普段の生活から吸い上げられたデーターを元に、ユーザの嗜好に合わせた料理を提供してくれる。
今日はイタリアンが候補として一番上に表示されていた。確かにキリトの気分はそうだったのが、父の好みに合わせ中華をオーダーする。父と夕食のテーブルで向かい合って話をしたい気分だった。
デリバリーが届くのを待つ間、リビングでテレビを付けるとちょうど夕方のニュース番組が放送されていた。
国内での出来事がいつものように流され、次に国際情勢のテーマになった。
国際情勢のTOPには『サンピエトロ広場テロ未遂事件』と大きくテロップに表示され、現地の中継が映っていた。

キリトの鼓動が大きく振動する。

「サンピエトロ広場でテロ未遂!?」


テロ容疑の男はサンピエトロ広場で最も人の集まる場所に、高濃度に濃縮されたウラン235を使用したマイクロ爆弾を使い、テロを仕掛けようとしていた所をAI搭載型監視装置により発見されテロが未然に防がれたという事だった。

男はサンピエトロ広場に一番近いホテルに前日から宿泊をしており、部屋には3日分の衣類と身支度用の小物類の他に、海外製のVRデバイスが発見されたと報道されていた。

キリトは『スイソウノ脳≒』での出来事がフラッシュバックしてテレビの映像と重なった時、画面に映し出されたテロ容疑の男の顔写真を見て驚愕した。

あまりの衝撃で、胃から熱いものが逆流してくるのを覚えたが、意識を脳細胞に集中した。携帯電話を探すようにリビングのテーブルの上に視線を滑らせたが、自分の部屋で充電器に繋がれているのを思い出し慌てて取りに行く。

「ミュー!」

ミューの応答は無く、画面にはポップアップメッセージが表示されていた。

【ただいまメンテナンス中です。ご不便をおかけしますが暫くお待ちください。】


こんな時になぜ‥





Chapter1 END



chapter2 ~warmth 温もり~


『キリト、もう朝よ、起きなさい』

『うん… もうちょっとだけ…』

『しょうのない子ね、今朝はシナモンのフレンチトーストを作ってあげたわよ…』

『母さんのフレンチトースト…』

ベッド脇の窓から降り注ぐ朝の優しい光がキリトの頬をそっとなでた。それは優しい母の手のぬくもりの様に感じた。

目を覚ますとまだ母の面影がキリトを包んで居た。

「夢か…」

キリトは少しがっかりしたが、なぜか幸福感にも似た感覚を感じていた。
母親はこの世から居なくなってしまったが、いつも側に居るような感じがしていた。












【虹が雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て地上のあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思い起こすであろう】











キリトは夢から現実へと意識が引き戻されると、昨日の出来事が脳細胞を占有した。


「そうだ、ミューは…」

急いでベッドから起き上がると、机の上で充電器に繋がれた携帯電話を掴み上げ、電源ボタンを押しミューに呼びかける。
画面には『メンテナンス終了まで約1時間掛かります』とポップアップウィンドウが浮かび上がり、しばらくして消えた。

キリトは軽くため息をつくと、窓際に行きカーテンを開けた。

優しい日差しがキリトを包み込み、昨晩ほどの不安と緊張は感じなくなっていたが、あの出来事がまた脳細胞を占有して来るのを逸らす為に、自分の生活している身近な環境を感じる事で、あの出来事が夢のように感じる事ができた。

しばらくは忘れて居られそうだと自分に言い聞かせ、クローゼットの扉を開いた。
最初に目に留まった薄いブルーのシャツと、いつも履いているジーンズを手に取り手早く着替えを済ませるとキッチンへと向かう。

キッチンの扉を開けると父親のトオルが慌ただしくしていた。

「あ、おはようキリト」

「おはよう…」

トオルはキリトの顔を見て笑みを浮かべると、キリトの背後の壁に掛けてある時計が目に入り真顔に戻った。

「父さんもう出かけなきゃならないんだ。朝ごはんは用意しておいたから、飲み物は自分で用意して食べてくれ」

「わかった‥ 今日も仕事?」

「緊急の会議が入ってしまってな‥ 今日は早く帰れるかもしれないと思う。じゃあ行ってくる。」

「行ってらっしゃい‥」

父が出て行くと家の中の空気が少し冷たくなった気がした、ドアから入ってきた外気のせいもあるが、父親の温もりが出て行ったせいかもしれない。

冷蔵庫から取り出しグラスに注いで一口飲むと、テーブルの上に置かれた皿に手を伸ばした。

皿の上には焼きたてのフレンチトーストが乗っていた。

そのフレンチトーストにはシナモンシュガーがかけられていて、とても良い香りがした。

「父さんが作ってくれてたんだ‥」

キリトは母が作ってくれるフレンチトーストが大好きだった。父はそれにシナモンシュガーをかけて食べるのが好みだったので、幼かった頃のキリトも父の真似をして、シナモンシュガーをたっぷりかけて食べていた。

ミルクの入ったグラスをテーブルに置き、フレンチトーストの前の椅子に座った。
一口かじって空いている方の手で携帯電話の電源ボタンを押す。
『メンテナンスは無事終了しました』と表示されていた。

「ミュー!」

思わず大きな声で呼びかける。

『μ、version2.0 起動します』

「version2.0?」

「キリト、お待たせしてしてしまいました、仮想現実空間でのco-aiの追尾システムを回避するプログラミングを実装致しました」

「co-aiの追尾システムって?」

「スイソウノ脳≒への外部からの侵入は、登録されたシリアルのみ許可されています。先日キリトを連れて入りましたが、私のジャミングプログラムでは防ぎきれずに追尾されていました」

「それでバージョンアップをしてたんだ」

「はい、今の段階では追尾することは不可能だと思います」

ミューの話の区切りで、気になっていた昨日の出来事にについて尋ねようとした時、携帯電話の着信音が鳴った。

「ケイから?何だろ‥」

ケイとは昨日の事で、冷たく突き放すような態度を取ってしまった後悔の気持ちと、ケイが取った行動を受け入れることができない気持ちとが、混ざり合わないマーブル模様となってキリトの心を濁らせた。

「もしもし、ケイ?」

「キリトくん!?大丈夫なの!?」

ケイの突然の問いかけに戸惑ったが、昨日の事を言っているのかもしれないと思い、気持ちを持ち上げ返事を返した。

「大丈夫って言うほどの事でもないよ、何か用事?」

電話の向こうで動揺している姿がハッキリわかるほど、少ししどろもどろになりながら話をする。

「うん、キリトくんに頼みたいことがあるんだけど、直接話したいんだ‥ そうだ!キリトくんのマンションの側に公園があるんだけど知ってる?」

「公園? この前散歩してた時に見つけた所かな‥ マンション出て左に行った所の公園かな?」

「そう、そこの公園だよ、今から行くね!」

ケイはキリトの返事も聞かずに一方的に喋ると電話を切った。何かどうしても断られたくない頼み事があると言う事が十二分に伝わった。









【恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう】




――――――――






トオルの務めている研究所は、国立大学に付属している研究機関で政府や企業から依頼を受け、最先端技術の研究開発に取り組んでいる。
主に研究を行っている『医療分野に置けるAI技術の活用』というテーマでは、国外からも注目を集めるほど優れており、この数年で急速に進化したAI市場に大きく貢献した。

研究所の建物は国立大学のキャンパス内に建てられており、自然豊かキャンパスライフと言う売り文句の通り、小高い木々が鬱蒼と茂る庭園に飾られたモニュメントのように存在していた。
地表に出ている部分は、建築面積で約9,000平方メートルほどの3階建てで、庭園が窓から見渡せる向きで建てられている。
地表から200m掘り下げられた地下にラボラトリーがあり、機密性の高い研究案件はそこで開発実験が行われている。

地下会議室で数名の男達を前にして、トオルが説明をしていた。

「WHOの要請を受け開発を行っている『スイソウノ脳≒』のシステムについてですが、全世界に約30か所程存在するオベリスクをアンテナとした情報ネットワークで相互リンクしており、世界各国のネットワークから吸い上げた情報を元にデータ統合を行い、仮想現実空間を構築しています。」

一人の外国人男性が口をはさむ。

「Haben Sie eine Minute? (ちょっと良いかね?)」

ほんの僅かの間をおいて、流暢な日本語で言った。

「我々のオベリスクと衛星ネットワークを使用する権限は与えたが、そちらのシステムのセキュリティーは信頼が置けるのかね?」

痩身で白髪が混じった髪を頭頂部で綺麗に分け、上唇を少し覆うように口髭を蓄えているこの男性は、ドイツから派遣されたWHOの職員で、『スイソウノ脳≒』のシステム開発を依頼してきたクライアントの代表を務めているヨハネ・シュミレットだ。
現段階の進捗状況と、昨日起きた事の説明を受けるためにこの席に座り、トオルの表情を窺うように視線を向ける。
その深い海の色に似た青い瞳は、全てを見透かしているかのようだった。

トオルは軽く頷くと、説明を続けた。

「『スイソウノ脳≒』はSHIPと呼ばれる形式のソフトウェアで、プログラム本体はネットワーク上を常に移動し続け存在しています。システムにハッキングする為には、まずその場所を特定しなければなりません」

「SHIP? 船か… 転覆しなければ良いがね」

トオルは皮肉交じりの言葉に軽く笑顔を返し、説明を続ける。

「仮に場所を特定できたとしても、常に移動するSHIPに併走しながらセキュリティを破り進入する必要があり、まず不可能ではないかと思われますが…」

「aber(けれども)昨日、進入を許した」

「その件については目下調査中です」

「侵入者の目的は何だと考えている?」

「私の推測では、『スイソウノ脳≒』内部から現実世界へのハッキングではないかと考えていますが…」

「侵入には困難極まるが、一旦入ってしまえばそこから世界中の何処へでも容易に侵入することができると言うことだな?」

「はい… 膨大なトラフィック通信が行われている『スイソウノ脳≒』内部からの侵入は安易であると考えられます。しかし、この脆弱性をカバーするために、co-aiと呼ばれる人工知能が特殊なプロトコルの管理行っており、人間が直接操作する事は現状では不可能かと…」

トオルの説明が途切れ、会議室重い空気に包まれかけた時、扉を開くためのエアーアクチュエーターの乾いた空気を吐き出す音と共に扉が開き、若い女性研究員が軽く頭を下げトオルの元へ歩いてきた。
女性研究員はトオルの耳元で何かを囁くと、トオルにタブレット端末を渡した。
トオルはタブレット端末の画面を見つめていたが、視線を女性職員に移して軽くうなずくと、WHOの職員と同席の研究員達に説明をし始めた。


「『スイソウノ脳≒』に残された痕跡からデータカービングを行った結果、未確認のAIの存在が浮上してきました」

ヨハネが困惑した表情で問いかける。

「AI?どういう事だ? AIが『スイソウノ脳≒』にハッキングを仕掛けて来たという事なのか?」

会議室の入り口に近い位置に座っていた研究員達が、お互いの顔を見合わせ小声で何かを喋っていた。トオルは渡されたタブレット端末に目を落とし、表示されている情報について報告を続ける。

「侵入したAIのアルゴリズムから特定した結果『Plaga ab agente(
神罰の代行者)』が関わっているのではないかと推測されます…」


研究員達に緊張が走り、ざわめきが会議室を包みこむ。
トオルも例外ではなかった、事前に報告は受けていたがその時点では『正体不明の侵入者』としか聞かされていなかった。


「Was(何っ)!? 『神罰の代行者』だと!?」

ヨハネの低く通る声が会議室に響くのも無理はなかった。
『Plaga ab agente(神罰の代行者)』はテンプル騎士団の名残として存在していたが、その存在は全く明らかにされていなかったからである。

11世紀に起源をもつ三大騎士修道会として『テンプル騎士団』、『ドイツ騎士団』、『聖ヨハネ騎士団』が存在していたが、今世紀までは『ドイツ騎士団』は消滅し、『テンプル騎士団』は名を変え、『聖ヨハネ騎士団』も『The knights of MORNINGSTAR (黎明の騎士団)』として存続していた。
ヨハネ・シュミレットはその最期の騎士団の名を受け継いでいたのだ。


ヨハネはトオルに質問の回答が出尽くされた事を確認すると、急ぐように研究所を出て行く。トオルは研究所のエントランスに待たせてある送迎車までヨハネを見送った後、数名の研究者にもう一度会議室に集まって欲しいと促した。

ヨハネを乗せた送迎車が郊外を抜け、空港へ向かう途中で携帯電話の着信音が鳴る。

「Ja, Hallo?(もしもし?)」

「Hier ist Isabella. Können wir jetzt sprechen?(イザベラです、今よろしいですか?)」

ドイツからの衛星電話で、その声の女性はイザベラ・エーレンフリートという名のドイツ首相の秘書官だ。帰国したらその足で連邦首相府まで来て欲しいとの事だった。
ヨハネはベルリンへ行くのは帰国した翌日になると伝えると、イザベラが不服そうに言った。

「首相がすぐに会いたいと言っているのよ」

「先にやらねばならんことがある」

「予定を変更できないの?どうしても無理?」

「他国の顔色を伺うことしかできない政府に、人類の未来は任せられんと言ってやれ」

電話を切ると、信号待ちのためにゆっくりと車が停車した。ヨハネが後部座席の窓から外の景色に目をやると、交差点を横切る親子に目が留まる。母親と手を繋ぎ嬉しそうに話掛ける少年の姿を眺めていた。





トオルは会議室の電子ボードを背にして座り説明をしていた。

「現在諸君に注力して貰っている『遠隔視野技術 Remote Vision Technology 通称RVT』の開発についてだが、90%以上の進捗状況である事は確認しているが、完成をできるだけ急いで貰いたい。
WHOの衛星ネットワークとRVTを用い、地球上に存在する監視カメラや、カメラ機能を持った電子機器の映像とリンクさせ、人間の視界映像に変換し直接脳に投影する”Visual cortex EYE”テクノロジーと併用すれば、遠く離れた地での監視も容易になり、先日起きた問題を「スイソウノ脳≒」と現実との両面から調査が可能になる。」

一通り説明をすると、顎を指で挟むようにつまんだ。トオルが真剣に物事を考えるときに無意識にしている癖で、顎を触ると不思議と考え事に集中できた。


じっと一点を見つめ、考え込むようにして黙った後小さく一言呟いた。



「バチカンか… これは厄介な事になるかもしれんな…」





――――――――




キリトはマンションから住宅街へと伸びている表通りを西に向かって居た。
途中、プードルを連れ散歩している初老の女性とすれ違った。こげ茶色の綿を丸めたようなプードルはキリトの顔を見上げ、舌を出して尻尾を振っていた。

「こんにちは、今日は暖かくて良い天気よね」

初老の女性に声を掛けられたが、見知らぬ顔だった。キリトは一言だけ挨拶を交わすと公園へと足を速めた。

公園の入り口に近づくと、大きく手を振るケイの姿が見えた。

公園へ入ったすぐのところに、直径5mほどの円錐状に石をくみ上げたプールがあり、中央から伸びているケーキスタンドを二段重ねたような創りのポンプから放射線を描くように水が流れ落ちていた。
その噴水を囲むように3つベンチがあり、その一つに座るようにケイに促され、キリトがベンチへと座るのを確認してケイもすこし間を開けて座った。

ケイは珍しいものでも見るかのように、キリトの頭から足まで視線を流す。
そんなケイの行動にキリトは少し怪訝そうに言った。


「何?いきなりどうしたの?」

「いや…なんでもない、いつものキリト君で良かった。」

「ケイ、一体なに言ってんの?」


戸惑うキリトに視線を泳がせるケイだったが、すぐにキリトを直視して話を始める。


「どうしてもキリトくんに伝えておきたい事があって…」

「うん、伝えたいことって何?」

「この前、学校のトイレで平戸に絡まれた時、キリトくんを一人にして逃げ出してしまった‥」

「ああ、そのことならもういいよ、仕方ないよ誰だって怖いからね」

「本当にごめん‥」
ベある
キリトは純朴なケイの姿を見ると、全ての蟠っていた負の感情が何処かへ消え溶けていく。

「でも、ただ逃げただけじゃないんだ、あの後AIに相談したんだ‥ ベアルって言うんだけど」

ケイが自分のAIアシスタントの話をするのは始めてだったのだが、ミューというAIを勧めてきたぐらいなので特に不思議では無かった。
それでも今までに、その事に一切触れなかったのは何故なのかと言う疑問が湧いた。

「ベアル? ケイのAIアシスタントなの?」

「うん‥.」

少しばつが悪そうに目をそらしたが、もう一度キリトの目を見て話し出した。

「キリトくんに教えてあげたAIについての情報もベアルが教えてくれたんだ、ほかにも凄い事が色々とできる‥」

ケイはこれ以上は喋ってはいけないと言うように言葉を詰まらせた。
何か人には言えない事でもあるのかとキリトは訝しんだが、個人的な事情と言うものもあるのだろうと自分を納得させた。

「それで、キリトくんを平戸から助けて欲しいとお願いしたんだ‥ そしたらベアルがネットに入り込んで平戸の家庭の事情を調べて、平戸が荒れていた原因は母親にある事がわかったんだ」

「平戸が粗暴な振る舞いをするのは、家庭に問題があるって事?」

「うん‥ 平戸のお母さんの男関係が良くないらしくて、ネットの出会い系サイトをしょっちゅう見てたらしいんだ‥ 平戸の事はほおっておいて‥」

「そうなんだ‥ だから携帯電話に執着してるケイを見て腹が立ったって事か‥」

「え?ボクそんなに携帯電話に執着してるかな?」

「うん、傍から見てるとね、でもケイの事情もわかったから‥ ケイの携帯電話には秘密が多いって事が」

「ベアルがね‥」

「で、平戸はその後どうなったの?」

「うん、母親の男友達の一人が暴力を振るってたみたいで、DVって奴かな‥ ベアルが母親になりすまして、平戸に助けて欲しいって電話をかけて来たみたい。」

「平戸が慌てて出てったのは、そう言う事だったんだ‥」

「DV男を叩きのめしたんだって、平戸のお母さんは入院してるみたいだから、平戸は学校に出てくると思うよ」

キリトは平戸が自分に対して言い掛かりをつけ、暴力を振るおうとした事に対して、深層に秘められた事情を理解する事で全て納得した。
それよりも、AIの能力の凄さの方がキリトの関心を奪っていた。

ケイは少し俯き黙ったまま考え事をしているようだったが、その表情からは考えを窺い知る事は出来なかった。

二人が座っているベンチの後ろから、桜の木が風に揺られて静かに囁き掛ける。
ケイは何か決心をしたように顔を上げるとまた話を始めた。



―――――

日本から1万km離れた地、日本の7時間後に夜が明ける国、イスラエルに『神罰の代行者』の拠点が存在していた。

エルサレムの旧市街にある神殿の丘の上には、岩のドームと呼ばれる建造物が築かれており、金色のドームを携えた美しい建造物だ。その黄金色はオスマン帝国時代から現代に至っても輝きを失わず、人々の畏怖の念を忘却し得ない効果もあるのだろう。
岩のドームの内部には地下神殿へと続いている通路があり、その場所が『神罰の代行者』の拠点だ。
かつては至聖所であった奥の壁には外部から取り込まれた太陽光が壁に埋め込まれたガラスに導光され、光の十字を演出していた。

ウォルター・ジャック・ド・モレー18世は光の十字を背に受け、ゴシック様式のローレリーフ装飾で飾られた玉座に座し、空間を見つめていた。
地下の巨大な空間を満たしている空気がわずかに揺らぎ、ミハイルが王座の間に姿を現しモレー18世の前で片膝を折り頭を下げて言った。

「ウォルター枢機卿、お呼びでしょうか」

ウォルターは見つめていた空間の一点からミハイルに視線を移し、ゆっくりと言う。

「先のバチカンでの件でな‥ お前の口から詳しい事情を聞かせて貰わねばならん」

「私が処刑した男については伝令によりお伝えした通りですが‥」

「何が起きたのかという事は理解したつもりだ、私が今知りたいのはお前が何を考えていたのかという事だ」

ウォルターは瞬きをする事なくミハイルの瞳を見ていた、全てを見通すような眼差しの前に、御為倒しは通用しないことはわかっていた。

「見せしめの為です」

「何に対してだ」

「あの男はカルティスに情報を流していました」

「カルティスか‥ 奴らが非国家武力組織へ武器を供給していることで、テロリズムと言う悪魔の行為が世界中で今もな行われている。そしてその犠牲者はいつも穢れなき人々だ‥ お前の両親のようにな」

ミハイルの表情は強張り、怒りと悲しみが混ざりあった赤黒く、冷たく熱いものが背骨から全身に広がってゆくような感覚に囚われていた。

「憎しみによる復讐の連鎖、テロリズム、公開処刑‥ すべて同じ次元の悪意がもたらす悲劇だ‥ 人類は何も学んではおらん」

「しかし、カルティスにナノマシンの情報が漏れては、全ての人類に悲劇の幕が開いてしまいます、何としても阻止しなければなりません!」

「ナノマシンだけではどうすることも出来ん、オベリスク・ネットワークを全て掌握しなければな」

「それも時間の問題かもしれません」

「どういう事だ?」

「カルティスは衛星を使っています、N国が開発した最新型通信衛星です」

ウォルターは黙っていた。視線はミハイルの左上に移し、何か考え事をしているようだった。

「カルティスの本拠地を探っていますが、衛星からの通信先が特定できません」

「地上からではないと言うことか?」

「おそらく海上かと‥ 船か潜水艇の可能性も含め調査を開始しています。バチカンでの公開処刑により何らかの動きがあるはずだと」

「そうか‥ そのまま続けてくれ、だがあまり派手な動きは控えて欲しいがな」

「御意に」

ミハイルは手前に置いた剣を取り、立ち上がりながら腰に収めるとウォルター枢機卿に頭を下げ180度身を翻した。出口に向かおうとした時、ウォルターがミハイルに声をかける。

「今宵は我が団の創設記念日だ、祝賀会に顔を出していったらどうだ?」

ミハイルは上半身だけウォルター枢機卿の方へ向けて言った。

「騒がしいのは苦手なので‥」

「そうか、まぁ無理にとは言わんよ」

ミハイルは軽く頷くように頭を下げ、そのまま王の間を後にした。


ウォルターはミハイルの背中を見つめながら彼の両親のことを思い出していた。

それは20年前、ウォルターが心理学博士として教鞭をとっていた大学の講義中に起きた。
ミハイルの母エミリアは大学院生でウォルターの講義を受けており、ミハイルの父サイモンはウォルターの助教授として同じ大学院で働いていた。

サイモンとエミリアは大学院で知り合い、二人は互いに惹かれ合い恋に落ちた。そして一年後にはミハイルを身籠る事となる。
何事もなく幸せな日々が永遠に続くと信じていた‥しかし、ミハイルが誕生して2年後に事件は起きた。
誰も予測することができなかった悲劇が‥

同じ大学院で講義を受けていた時に、一人の男子生徒が突然銃を乱射したのだった。
その男子生徒は講義の終了を告げるチャイムと同時に、鞄からサブマシンガンを取り出し上半身を捻り、弧を描くように銃を撃った。
講義室に響き渡る乾いた火薬の炸裂音と、悲鳴とうめき声、机や壁が弾ける音が混ざりあい、慌てて転ぶ者や床にうずくまる者、銃弾に撃たれて床を這いずる者、混沌とした情景がスローモーションのようにウォルターの目に映っていた。
銃口がウォルターの方を向き、発火炎が光るのを見たとき、付き飛ばされるようにサイモンが覆いかぶさって来た。
サイモンは背中に3発銃弾を受け、薄れていくの意識の中ミハイルの名を何度も呟いていた‥

駆け付けた警官隊によって銃を乱射した生徒は取り押さえられたが、エミリアは運ばれた病院で命を引き取った。

当時ミハイルはエミリアの実母に預けられており、その事件の詳細を知るのは10年後になるのだが、ウォルターの記憶からは決して消えることのない凄惨な光景であった。




――――――――

ミハイルは、王の間を出た先で招宴を催している広間に入ると、数名の見知った顔を確認し、軽く頷き挨拶だけ交わすと、会場を通り抜けエントランスへ出た。
エントランスにはプロジェクションマッピングとAR技術を用いた庭園が造られており、中央にはライトアップされた噴水と光が未来の繁栄を演じていた。

ミハイルは心の中で詩を詠んだ。


戦いの勝利者として帰還する者は何と栄光に満ちあふれることか。戦闘で殉死する者は何と幸いなことか。
もしあなたたち(テンプル騎士)が生き延び、そして主において勝利者となるならば、より一層喜び誇るがよい。なぜなら、あなたの生命は実り多く、そしてあなたの勝利は栄光に満ちているので。しかし死はより多くの魅力がある。
死はより実り豊かで、より栄光に満ちている。なぜなら、主において死す者が
幸せであるならば、主のために死す者はより遥かに幸せであるので。
                          


                    chapter2 ~warmth 温もり~ End




Chapter 3 ~ Immunda Animus 不浄の魂 ~


エルサレムの旧市街地に位置する”ソロモン神殿”と呼ばれる巨大建造物の直下、約50m地点に“神罰の代行者”の実行部隊基地が秘密裡に建造されていた。

「カルティスの調査は進んでいるか?」

ミハイルは落ち着いた様子で質問をすると、部下の顔を見ることなくモニターに映し出されるデーターを眺めた。

「目下調査中です。カルティスが主に使用していると思われるネットワーク・ログの痕跡を解析していますが、全て通信衛星から各国の海上で消えています」

「海上‥ 何処の通信衛星だ?」

「米国、国防総省の通信衛星と思われます」

「アメリカか‥  カルティスとの接点をすべて洗い出しておけ」

「承知しました。ミハイル様、一つ気になる情報を入手したのですが【RT645】についてカルティスが情報を探っているようです」

「何!? 奴らは【RT645】をどうするつもりだ?」

「はい、カルティスは主に麻薬や武器の密売を行って居るようですが、【RT645】を軍事転用するつもりかもしれません」

「人間兵器か‥」

「カルティスの実行部隊のデーターを収集していますが、指揮官と思われる人物の一人がこの男です」

モニターに写っているのは、カリブ海に面するビーチハウスでメキシコの麻薬王と呼ばれる男と一緒に談笑している男の姿だった。
その男の風貌はガッチリした体格で、金髪のオールバックに少し角ばった顎が印象的な顔立ちで、首に掘られたトカゲのタトゥが目についた。

「BACCHUS(バッカス)と呼ばれていますが、実際の名前は不明です。
この男は米国軍の特殊部隊に所属していた経歴を持ち、メキシコの麻薬密売組織に関係していたようです」

「その男と過去に関係している人物の情報も、同時に調査を進めてくれ」

「御意!」


――――――――

アメリカ、ワシントンD.C. ナショナルモール

左右に切り分けられた木立の間に聳え立つワシントン記念塔を、見つめるように立てられたエイブラハム・リンカーンの銅像の前で1人の男がリンカーンと同じ物を見つめていた。

「久しぶりのアメリカだな!美味いバーボンと良い女のにおいがするぜ!」


「ハイ、当国は重要顧客です」


「ハッハッ、ジャンジャン稼がせてもらうぜ!頼むぜぇ~」

そういうとポケットから煙草を取り出し火をつけた。

「ラッキーストライクですか、ビンテージですね」


「へへっ、昔のダチがくれたんだよ、戦場でよく吸ってたな~」

「そろそろ約束のお時間です」



バッカスは無造作に煙草を足で潰し、両手を挙げて背伸びをした。

「すぐにお迎えの車が到着します」



ナショナルモールに面した道路に黒塗りの大型SUVが停車した。

バッカスは、腕に装着した小型の電子デバイスのスイッチを切ると同時に迎えのSUVの後部座席に滑り込んだ。


高層ビルの屋上にあるナイトプールに着くと、ラウンジャーに寝そべっている女性の元へ歩きながらその女性に話しかけた。

「また優雅なもんだねぇ~」

「余計な挨拶はいらないわ。で、情報は?」

そういいながら、ソフィアはかけていたサングラスを外し目を細めてバッカスを見た。

その妖艶な目つきでどれほどの男を地獄へ落としてきたのか‥
そう考えながらバッカスはソフィアに話しをする。

「まぁそう慌てなさんな、急がなくてもお前さんの美貌は失わないぜ」

ソフィアは黙ったままバッカスを睨みつける。

「わかった、わかった、RT645だろ。苦労したけど情報は掴んだぜ!」

「これはヤバイしろもんだぜ~ うっひょ~ ぞくそくしてきた!」

ソフィアがさらに睨みつける。

「ハイハイ、そう怖い顔しなさんなって、RT645、”神罰の代行者”が開発している‥いや、もう動き出してるか‥ 想像以上の代物だったぜ~ なんてったって、人間を生きたままロボットにしちまうデバイスだからな。なんでも素直に言うことを聞く人間ロボットだ! 俺も美人のロボットが欲しいぜ!」

「悪魔のデバイスか‥」

ソフィアはそう呟くと、何かを考えるように遠くを見つめた。


――――――――

「キリト、VRに来てくれる?」

「うん、良いけど…」

キリトは何時もより少しシリアスなミューの口調が気になったが、VRゴーグルを装着した。

いつ見ても不思議な感覚を覚えるなと思いながら、ミューの姿を探した。
後ろから肩をチョイチョイと突く感覚を覚え、振り向くとミューが悪戯に笑っていた。
その表情はどこか不安そうだった。


「感覚フィードバックの感度も問題なさそうですね」

「感覚フィードバック?」


「VRデバイスから全身に電気信号を送っていて、VRでの感覚が実際の体にフィードバックされています」

「へぇ、凄いね! VRで触った感覚が実際に感じられるって事?」

「はい、でも気をつけてください、大きな衝撃はかなりのショックを受けてしまいますので‥」

「わかった、気を付けるよ」

キリトがそう返事をすると、ミューはこっちへ来いと言う仕草をした。

「どこへ行くの?」

ミューはキリトがたまに出かける街の都心部までキリトを連れてきた。
そこには現実と全く変わらない社会が存在していた。
大通りを行き交う人々、信号待ちでイラついている車のドライバー、ショップの前で談笑している若いカップル。
全てが現実社会と同じだった。

「VRの中のアバターなの?」

「このVR、仮想現実空間に存在しているアバターは”スイソウノ脳≒”の実験プログラムなのです」

「実験プログラム?」

「現実とまったく同様にモデリングされています、建物も人も。そこに生活している人の行動もほぼ同じ。現実社会で生活している人達の行動パターンや、癖や嗜好などの情報もリアルタイムにアッデートが行われていて、このスイソウノ脳≒の社会が構築されています」

「へぇ、凄いや!じゃあここに居る人たちは皆、現実と同じなんだ」

「はい、まったく同じ平行世界です。違うのは私たちAIが独立して存在しているか居ないかだけ」

キリトはふと、このスイソウノ脳≒に存在する自分に興味が沸いたが、AIデバイスを頭にかぶり、独り言をぶつぶつと言っている自分の姿を想像して考えるのをやめた。

「この中にミュー以外のAIが他にも居るの?」

「はい、私のような人間のアシスタントが目的に開発されたAIの他に、主に作業をするために開発された co-aiと呼ばれるAIも存在します」

「このスイソウノ脳≒って人類シミュレーターって言ってたけど、人類を観察する為だけが目的なの?」

「スイソウノ脳≒は人類を救済するために開発されました」

「人類の救済って‥ どういうこと!?」

「スイソウノ脳≒では、仮想現実空間に現実社会を模倣した世界を構築し、人々の行動をAIが分析し記録しています」

「人類の行動を分析するって事?」

「そうですね、人と人の関係性って良い場合もありますが、悪くなる場合もあります。
生まれた時から負の感情を持ってる人間は存在しません。成長して行く過程で他人に対する嫉妬や憎悪と言ったネガティブな感情が蓄積し、犯罪やテロや時には戦争にまで発展しまうのです…」

キリトはこの前のケイとの出来事を思い出していた。
確かに啓に対して負の感情を抱いたことに間違いは無かった。

「このままだと人類は自分達の手で絶滅への扉を開いてしまうことになる…」

「人類が絶滅!?」

「はい、人間の負の感情の増幅、悪い感情…悪意と言う方が理解しやすいでしょうか。
この”スイソウノ脳≒”が開発された目的は、人間の負の感情、悪意を意識下から取り除く為のプログラム。人が抱く悪意の根本原因、逸脱した感情の発生原因を特定し、co-aiがその人間が正常な行動をとる様に誘導して意識の正常化を行います。
そうする事で、人間全体が争いの無い平和な理想社会の形成が可能になるはずです」


「争いの無い平和な社会・・  凄い!凄いよそれ!」

キリトは興奮して、ついつい声が大きくなった。


「キリト、この前のバチカンでの出来事覚えていますか?」

「男の人が首を切られた・・テンプル騎士団だったよね」

「もう一度サンピエトロ広場に行きましょう」

「あそこには何かあるの?」

「少し気になることがあります…」


VRでは、日本から1万キロ離れたバチカンまでの移動はあっと言う間だった。

サンピエトロ広場のオベリスクの前まで来ると、ミューが何かを呟いた。

「problem arises (リプレイ)」

”ピピピッ、該当データーなし”

すぐそばの空間から声がした、co-aiと呼ばれているAIらしい。
声のする方に目を凝らしたが、空間がわずかに歪んで居る以外何も見つけられなかった。

「なぜ?‥」

ミューの表情が歪む。
キリトは人工的に作られたAIなのに、とても人間らしい表情をするミューに感心した。

でも、そのミューの表情がどこか懐かしくも感じていた。


「これは!?」


そう呟くと、ミューはオベリスクの傍まで歩いて行き、何かを探すように調べていた。

「Internum structuram aliquet(内部構造を調べて)」

ミューがそう言うと、空間の歪みがだんだん実体化して丸いボールのような物が現れた。
サッカーボールくらいの大きさの銀色の球体の上側に、ちょこんと付いた目のような突起が二つ付いていて、まるでマスコットキャラクターの顔のようだなとキリトは思った。

リリスは不思議そうにその球体を見ているキリトを見て、少し微笑んで言った。

「これがco-aiです」

「これもAIなんだ、なんか可愛いね」


【タイプ4、ウイルス。シンニュウシャ アリ】


「タイプ4?、トロイ型ウィルス? なんで‥」

「hierarchy investigation(階層調査)」

【カイソウチョウサ、ジッコウシマス】

co-aiの電子的な声でそう言ったかと思うと、警告音のようなアラームが鳴り始めた。

【CAUTION!システムニ イジョウガアリマス!CAUTION!システムニ イジョウガアリマス!】


突然、co-aiの周りの空間にノイズが入り、co-aiの姿がキリト達の目の前で消滅した。


「え!?なに?」

「co-aiが消えちゃった‥」


――――――――

「ミハイル!緊急事態だ!」

「どうした?」

「サンピエトロ広場のオベリスクに何かが接触したみたい!AI及びダブルアバターの痕跡だって」

「ダブルアバター? 人間か?」

「詳細情報を収集してるけど‥ 妨害プログラムうざいなぁ‥」

AIアルテミスがそう言うと、ミハイルは表情を変えず僅かに目を細めた。

「直接確かめた方が早いか‥」

AIアルテミスはミハエルに頷く。

「電脳領域起動!!」

――――――――

ミューが何かを感じたように顔を上げる。

「第4層にプロトコル反応!?... キリト!強制シャットダウンします!!」

キリトの視界が突然真っ暗になった・・ ゴーグルを外すと自室に戻っていた。

携帯のミューに話しかける。

「何!?どうしたの?」

「何かが私たちの後を追って来てたようです..‥ 今は危険だからファイヤーウォールを展開しているので情報は何もつかめませんが‥」

「テンプル騎士団かな‥」

「そのようです。厳密に言うとテンプル騎士団から派生した秘密結社『神罰の代行者』と言う秘密結社です」

「神罰の代行者? 神罰!?」

「目的はわかりませんが【スイソウノ脳≒】の存在を知っていて、仮想現実空間で何かを行うつもりのようですね」

キリトはゾクッと背筋に冷たい物を感じた、自分たちが何も知らないところで”神罰”を名乗る秘密結社が暗躍してる事実を知り、なにか恐ろしい事が起ころうとしていることを目の当たりにしたからだ。

その時、携帯電話の画面に突然プログラム異常のメッセージが表示された。

「プログラム異常? ミュー!?」

【システムエラー プログラム起動できません】

「なにこれ!?どうしたらいい!?」

キリトは動揺して少しパニックになった。

「落ち着け!どうしたらいいか考えろ‥」

これはケイに相談するしかないと、ケイに電話をかけながらケイの家へ走った。
家の前まで息を切らせながら走って来るキリトを、迎えに出るようにケイが待っていた。

「ケイ! 助けて!!」

「え!?キリト?何?何かあったの?」

「うん、ミューが起動しなくなったんだ!」

「プログラムエラーか何かかな‥ ちょっと見せてくれる?」

そう言うとケイはキリトの携帯を自分のPCにケーブルで繋いだ。

キリトも父親の影響で多少のプログラミングの知識はあったが、ケイのレベルはキリトの知見を遥かに超えていて、何をしているのかわからなかった。

「特殊なファイヤーウォールが展開されているね‥ どうだろ‥ これかな‥」

ケイは凄い速さのタイピングで何かを入力していた。

「ビンゴ!見つけた!」

そう言うと、キリトに携帯の画面を見せた。

【キリト、すみません‥ 捕まってしまいました。でも心配しないでください‥】

ミューからメッセージが残されていた。

「ミューが捕まったって‥」

キリトは自分ではどうしたらいいか解らず、苛立ちと不安が交錯した表情でケイに話しかける。

「VRでの事かな?」

「ケイはVRで起きてる事を知ってるの!?」

「うん、黙っててごめん ‥ キリトに紹介したAIって実は一般的に出回ってないやつなんだ.‥」

「え?何が?どういうこと?」

「俺さ、ハッカーやってるんだ。AIのアイドルとか流行ってるから色々調べてるうちに何かの研究機関が開発してる最新式AIの情報を知って、その研究機関のコンピューターに進入して手に入れたAIなんだ」

「ハッカーって‥ 犯罪だよそれ、ヤバイよ!」

「うん、わかってる。だから隠してた」

「今はそれどころじゃないか‥ とにかくミューの事どこまでわかる?」

「そうだね‥ ミューが捕まっているという仮想現実空間の中に行くしかないか‥ ちょっと待ってて!」

そういうとケイは自分の携帯のAIアプリを起動させ、ケイのAI(ベアル)の姿が携帯に表示された。

「よう、ケイ、おっす!」

「ベアル、ちょっとお願いがあるんだ」

「ベアル?ケイのAI?」

「おっ、キリトか、ケイのマブダチだな!おーっす!」

「お、おーっす‥」

キリトはやたらテンションの高いAIに戸惑いながらも、ケイの隠されたハッカーとしての能力やAIの存在に少し希望を感じた。

「ミューがVRで何かトラブルに巻き込まれたようなんだ、場所とか状況わかるかな?」

「オレを誰だと思ってるんだ!ベアル様だぞ!!ちょっと待ってろ!!」

「あれでもスーパーハッカーAIなんだよね」

「AIのハッカーって‥」

「まぁ人間の能力では到底かなわないよ、それに特殊なスプリクトを扱うから電脳内では色々助かるんだ」

「ベアルって凄いAIなんだね」

「ただ、性格がね‥」

「誰の性格がなんだって?」

「あ、ベアル様、おかえりなさいませ!」

「うむ!情報を持ってきてやったぞ!」

「ほんと!ミューは無事なの!?」

キリトが食入るようにケイの携帯を覗き込み話しかける必死な姿にケイも翻弄されるように携帯の方に身を乗り出した。

「ちょっとばっかし厄介だな、ミューは神罰の代行者に捕まってるようだ」

キリトの表情が曇る。

「なんだって!?神罰の代行者に捕まったって‥」

ケイの視線が横にそれる。

「それ、やばいかも‥」

キリトとケイはそれぞれ黙り込んで動かなかったが、ベアルが沈黙を破るように話を続けた。

「ミューの情報防壁は固いから時間は稼げると思うけどな‥ それでも早く助けないと危険だね」


――――――――

アルテミスの手からミューの頭に黄色の光が放たれていた。

「固いな‥ この子ファイヤーウォール重ね過ぎでしょ‥」

ミューは意識がそこに存在していないかのように目をつぶり動かなかった。

その時、時空に歪が生じキリト達の姿が実体化した。

ミハイルはキリト達の姿に目もくれず呟く。

「客か‥」

キリトは即座にミューの姿を見つけるとなりふり構わず駆けつけようとしたが、ベアルがキリトの前をふさぐように立ちはだかった。

「ミュー!!」

ケイがキリトの動揺を見かねてベアルに尋ねた。

「どうなってるの!ベアル?」

「神罰の代行者のAIか‥ ちょっと厄介だなぁ‥」

ベアルの話も耳に届かなず、動揺を隠せないキリトがアルテミスに叫んだ。

「おい!ミューを離せ!!」

アルテミスは不気味な笑顔を浮かべ意識の無いミューに語りかける。

「騒がしいお友達だね~ ミュー」

アルテミスの手から光がミューに放たれたままだった。

そんな情景の中、何事も起きていないかのように冷静で無表情なままミハイルはアルテミスに促した。

「そろそろ時間だ」

「しょうがないなぁ、じゃ永遠にお別れだねミュー スプリクト・イレイズ起動!」

アルテミスの手から放たれていた光が黄色から赤色に変化したと同時に、ミューの表情が無意識の表情から苦しそうな表情に変化した。

思わずキリトが叫ぶ。

「やめろー!!」

ケイも動揺を隠せないままベアルに促すように尋ねた。

「ベアル!何とかできないの!?」

「今やってる、キリト!これを使え!」

ベアルは青色の閃光を放つ剣をキリトに渡す。

「その電磁ライトソードを敵の体に触れさせれば実体を破壊できるはずだ!」

キリトは電磁ライトソードを両手で構えアルテミスに突進した。

一瞬の出来事だった、ミハエルは間髪入れずにキリトの電磁ライトソードを弾き飛ばし、そのままキリトを仰向けに倒した。

「ぐはぁ・・」

キリトはこれがミューの言っていた、感覚フィードバックかと思いながら、痛みに呻き声を漏らすだけで目を開けることもできず体を丸めた。

ミハイルの声が冷たく響く。

「悪いが遊んでいる暇はない、行くぞアルテミス」

「待って、もうちょっとで終わるから‥ え?何?」

「どうした?」

「この子、人間の‥」

ミハイルの表情が微かに歪む

「後にしろ」

そう言うとミハイルはキリトの頭上に剣を掲げた。

ケイは思わずかばうようにキリトの上に覆い被さった。と同時にミハエルの剣が振り降ろされる。

ギンッ!!

鈍い音と共に銀色の球体が複数、ミハイルの太刀筋を遮るようにキリト達を包み込んだ。

ミハイルは特に驚く様子もなく剣を収める。

アルテミスが不敵な笑みを浮かべて言った。

「Co-aiを誘導した? 面白いことするね」

他のCo-aiがアルテミスめがけて勢い良く飛んで行った。

「この子面白そうだから連れて行くね!」

Co-aiがアルテミスに衝突する直前にの地面に黒い穴が空き、ミハイルとアルテミス、そしてミューも一緒に吸い込まれて消えた。

キリトの叫び声がこだまする。

「ミューーーーーーーーーーーーーーーー!!!」

3章 END




Chapter4 ~ intruder 侵入者 ~


PM3:30 バッカスはAIヘルメスと共に仮想現実空間のアメリカ拠点となるオベリスクの広場に来ていた。
夜も深まりオベリスクの辺りは静寂に包まれていた。遠くの市街地の夜景が夜空に広がる星々の瞬きに負けずと光を放っていた。


「ここか、依頼主さんが欲しがってる拠点は... 殺風景な場所だなぁ~ まぁ星は綺麗か…」

ヘルメスはオベリスク拠点を警護するAIガーディアンに発見されないように、ジャミング領域を展開させた。

「では、改ざんプログラムを上書きしますので少々お待ちを」

「ああ、ちゃっちゃと頼むぜ~ 最近は物騒なのが出入りしてるらしいからな」

バッカスは不敵な笑みを浮かべポケットから電子タバコを取り出して口に咥えた。

「あ~あ、こっちじゃラッキーストライクが吸えねぇからな~」

電子タバコを咥えたまますぐ横で作業するAIを眺めた。
その時、ふと嫌な感覚が後頭部をかすめた…
長年傭兵として各国の戦地を転々とし、数々の戦場で生き残って来た本能が囁いたのだろう。

ヘルメスが作業を中断し警告する。

「何かが接近してきます!」

バッカスの顔にはいつもの緩んだ表情は無く、険しく鋭い眼光が光った。

「敵か?」


「不明です、1秒後に接触します!」

「ヘルメス、ブレード・マサムネを頼む」

「かしこまりました」

バッカスの目の前の空間にひずみが生じたかと思った刹那、銀色に鈍く輝く剣が頭上に振り下ろされた。

ギンッ!!!

金属同士がぶつかり合う耳の奥にまで響く音がこだまする。

「いきなり何しやがんだ!テメーはよ!」

バッカスが目の前に立ちはだかる西洋の騎士を思わせる衣装に身を包んだ青年(ミハイル)を睨みつける。

「神聖な場所を穢す者は何人たりとも排除する」

「神聖な場所だと? お前もしや‥」

ミハイルの衣装に記された赤い十字の紋章がバッカスの目にとまった。

「こいつが神罰の代行者か‥ 厄介な奴に会っちまったな‥ まぁいい、ちょっと遊んでやるか!」

バッカスがそう言い終わると同時に垂直に振り下ろされた西洋剣が弧を描き、今度は左から水平の軌道で振られる。その延長戦上のバッカスの首の中心を的確にとらえられていた。

「くっそっ、間に合わねぇ!!」

バッカスは即座に刀を掴んでいた左手を離し、かろうじて首を守るように西洋剣の軌道を変えた‥
しかし青年の剣の衝撃は凄まじく左腕の間隔が完全に麻痺して動かなくなった。
腕に仕込んである鋼鉄のアームガードが無ければ、腕は胴体から切り離されていただろう‥

「感覚フィードバックとか、マジうぜーな!」

「次で終わりだ‥」

「どうかな」

バッカスはミハイルの攻撃の間合いに僅かな隙があるのを感覚的につかんでいた。

ミハイルの剣の軌道が変化する隙を狙って日本刀を振った、西洋剣に比べて身の軽い日本刀はスピードでは勝る。行ける、そう思ったのも束の間、確実にミハイルの上腕部をとらえたと思った刀がはじき返される。

「何!?」

ミハイルの剣が二つに別れ、剣の軌道が変化する僅かな隙をガードした。

「最初に見た物事だけで判断すると命取りになる」

「ははっ、こりゃ恐れ入りました、と」

軽口を言うバッカスの表情は緩めて居たが、目には余裕は無かった。

間髪を入れずミハイルの攻撃は続いた、今度は左右から二本の剣がバッカスの首と胴めがけて振られた。
剣が二つに別れた事で軽くなりスピードも以前に増して早くなっていた。

ミハイルの剣がバッカスの首と胴に触れるか触れないかの所でピタリと止まる。

「ん?‥」

ミハイルは冷静なままそうつぶやくと、剣に巻きついた金属状の帯に目が留まった。

「ソフィアちゃん!待ってたよぉ~」

そこには帯状に伸びる剣を手にしたソフィアの姿があった。

「バッカス、分が悪い一旦引け」

「でもヘルメスがよ‥」

オベリスクの直ぐ横でミハエルのAI(アルテミス)に電磁ベルトで拘束され身動きが取れなくなっていたヘルメスの姿があった。

「問題ない」

ソフィアの片方の剣の先がミハイルの剣から離れ、即座にアルテミスめがけて飛んで行く。
アルテミスが後ろに飛んで避けた瞬間にソフィアのAI(ゼウス)から放たれた光がバッカス達を包み込み仮想現実空間から姿を消した。

「あーぁ、逃げられちゃった‥」

アルテミスが残念そうにそう言うと、オベリスクに目をやった。

「奴らは何をしていた?」

「ハッキングプログラムを上書きしようとしてたみたいだね、コソ泥でしょ」

「トレースできるか?」

「今バックグランドでやってるよ」

「必ず突き止めるんだ」

「は~い」

――――――――

『神罰の代行者』地下神殿

「ここは‥」

地下神殿の最下層に位置する情報統括セクション内スーパーコンピューターの端末にミューは居た。

「神罰の代行者のコンピュータールーム‥ スタンドアローンか‥.」

このコンピューター端末は他のネットワークから独立して存在しており、そこからの移動は不可能だった。

「ここから出るには物理的にデーターを移動させるしかない」

ミューは超高速演算プログラムをコンピューターに組み込んで実行させた。
休みなくリソースをフルに動かす事でコンピューターは発熱し、温度異常を知らせるアラームが作動した。

研究員が慌てて部屋に飛び込んで来てコンピューターを操作しようとした。

「熱っ!何が起きたんだ!?」

コンピューターの電源を落とす前に、実行中のデーターを外部デバイスに保存するためにコンピューターに接続した。ミューは外部デバイスに他のデーターと共に紛れ込んだ。

研究員はコンピューターをシャットダウンするとしばらく冷却するために、データーを別のコンピューターに移した。その端末はネットワークに接続されていたため脱出することに成功した。
しかし、この地下神殿から外に出るにはバチカンのオベリスクを通って、スイソウノ脳≒へ侵入するしか方法がなかった。

オベリスクにはガーディアンと呼ばれるAIが防衛ラインを張っていた。

「私だけでは突破できないか‥」


――――――――

キリトはケイの部屋でミューを救出する方法を相談していた。

「キリト、僕のミューズと一緒にスイソウノ脳≒へ行ってミューを救い出して来て!」

「ミューズと?ケイは良いの?」

「元はと言えば僕がキリトに勧めた事から始まった事だし、僕の責任でもある‥」

確かにケイがキリトにAIアシスタントを勧めなければ、今も平凡な日常を過ごしていたに違いない ‥ そう思うと、またあの囁き声が微かに聴こえた‥













【わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない】















囁き声が聴こえる度に、キリトの中で何かが膨らんでいるような感覚を覚えていた‥
それが何処から来て何が始まるのかは全くわからないまま‥

「ケイ、これは始まった事なんだ、必ず何か理由があるはずなんだ」

ケイはキリトのこんな真剣な表情を見るのは初めてだった‥
決して後戻りはできない‥

「ミューズ、キリトを頼む!」

「おっけー!このミューズ様に任せとけ!」

ケイは何も言わず笑顔でキリトにVRデバイスを渡した。

「ありがとう‥」

キリトはそうつぶやくとVRを装着した。

「電脳領域起動!」


――――――――

スイソウノ脳 ≒

2019年12月4日 発行 初版

著  者:夢霧ソラ
発  行:Arts Porpora

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