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この本はタチヨミ版です。
ふきだまり
八桑 柊二
一 取材旅行
よく晴れた午後三時ごろ、僕と同僚はサイパン空港に降り立った。
機内からスチュワーデスの笑顔に送られ、税関にいきつくまでの長い通路を歩いていた。むっとする空気に襲われた。半袖シャツの僕はいよいよ、南国に来たのだと実感した。空港ロビーにS社の現地駐在員である大森さんが出迎えに来ているはずだ。
ハプニングが起こった。同僚の練田さんのバックが他人のバックとすりかわってしまったのだ。僕は手荷物として機内に持ち込んでいたから、問題はなかったのだが、同僚は運搬用の荷物扱いにしたので、荷物がベルトコンベヤーに乗って出できた時、見知らぬ他人が間違えたらしい。
僕が出迎えの大森さんを探し回っている間、練田さんは空港の事務所にかけ合っていた、練田さんは英語が話せない。要領を得なかった。
『大森さんは時間を間違えたのではないか?』僕は焦って、閑散とした空港ビル前の広場を、あちらこちら探し回った。大森さんの事務所に電話かけようと思い立った。空港に備えてある電話を手にしたものの、米国製、かけ方が分からない。アルファベットと数字を回すのだが、どうもうまくいかなかった。仕方ないから、空港事務所へ行き、電話を借りた。かっぷくのよい女事務員が応対してくれた。彼女が電話をかけた。つながった。受話器を渡された。大森さんの事務所の電話口に出た人の話では、彼はとっくに、出迎えに出かけたと、言う。僕は少し、安心して、受話器を置いた。
「サンキュー ベリーマッチ」へたな英語でお礼を言うと、外に出た。
のんびりとお客を待っているチョモロ人のタクシー運転手はお客欲しげにベンチに腰かけていた。呼ばれるのを待っているのだろう。
南国風の屋根をもつ空港の長い玄関を見渡すと、野球帽をかぶり、ひと待ち風情の若者の姿が目に入った。僕たちは大森さんがどんな顔をしているのか知らない。しかし、直感的に、大森さんに違いないと思った。彼の方に足早に歩いていった。僕はどんな人かと想像はしていなかった。
ジーパンに半そでシャツ、野球帽をかぶった大森さんをやっと捜し当てた。ほっとしたのもつかの間、練田さんの間違えて持っていかれたバックのことを大森さんに知らせた。
大森さんは空港事務所に行き、話をつけてくれた。僕たちが宿泊する一戸建てのコテージに、届けてくれるという。
僕たちは四輪駆動車に乗り込み、一路、宿舎に向かった。
サイパンにバスは走っていなかった。信号もない。ひとの移動はもっぱら、日本のトレードマークのT社の車である。
僕たちはブーゲンビリアの鮮やかなピンク色の花が咲き誇っている、いかにも、南国風の並木道を走った。空はあくまで青く、雲ひとつなかった。晴れやかな昼下がり、僕は心地よい暑さを感じつつ、窓から入ってくる風に吹かれて、通り過ぎる景色を眺めていた。
刑務所の前を通った。
「サイパンはヤクザが射撃練習に来るんです。水商売関係でヤクザがかなり来ています。今、傷害事件で、ヤクザがひとり入っています」大森さんが解説した。南国とヤクザか・・・僕は似合わない思った。
米軍上陸記念碑の芝生の前を通り過ぎ、目的のコテージの事務所に到着した。
F主任が出迎えてくれた。以前、音楽関係の仕事をしていたひとだ。管理人が住むゲストハウスには日本語の上手なおばあさんとその家族が住んでいた。彼女は戦前、日本の教育を受けており、日本語は堪能であった。娘は管理の従業員として働いていた。
僕と同僚は大森さんを囲み、さっそく、取材の段取りを打ち合わせた。
僕は雑誌の編集者、練田さんは営業マンである。ここサイパンへはS社のコンドミニアムとコテージの宣伝を兼ね、営業取材のために来ていた。
夜、僕たちの歓迎会が開かれた。おばあさんは上手な日本語で「さくら さくら」を歌った。伴奏はFさんで、手馴れた指さばきでエレクトーンを弾いた。後に、大森さんから聞いたのだが、Fさんは音楽関係の仕事していたが、何かの事情があって辞めた。日本から離れること三千四百キロの南海の小島に、別荘の警備員として、隠れるように暮らしているのだ。何があったの知らない。奥さんとは別居暮らしである。
翌日、僕たちは高級別荘の寝室で目を覚ました。3LDKのゆったりした間取りの快適な住まいである。ダイニングキッチンは板の間で、ゆうに二十畳はあった。天井には大きな羽の扇風機がゆっくりと回転し、南国風を演出していた。こうした様子を記事に書き、宣伝しなけばならないのだ。
僕たち昨日、来る途中に寄ったスーパーで買い出した朝食の支度に取りかかった。練田さんは即席ラーメンを台所でつくっていた。彼の食べ方は貧乏くさかった。
「みみっちいね」僕はからかった。
「倹約して生活しているところを写真に撮ってくれ」練田さんは恐妻家とは思えないのだが、真顔で言った。奥さんにみせるらしい。僕はそんなに奥さんに信用されていないのか?と思った。こっけいだったが、シャッターを切った。
僕の朝食はバターをぬったパンと牛乳、それに卵焼きである。
「豪勢だな」練田さんが大げさに言った。
朝食を終え、庭を散策した。高級別荘の庭には見上げるようなヤシが植えていた。その足元にハイビスカスの真っ赤な花が情熱的に咲いていた。ヤシの林が別荘を取り囲んでいた。
僕は南の島にいるのを実感した。解放された気分で、南国の朝のひんやりする空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
大森さんが四輪駆動で迎えにきた。僕たちはビーチハウスを取材に行くのだ。僕はカメラを首に下げて、出発した。
ハウスは二階建。グループで海水浴に来るに最適な場所だ。庭先はサンゴ礁の連なる海だ。容易に炊事出来る台所も完備していた。大広間はダンスを踊れる広さだ。
どうせ使わないだろうと思いつつ、一階の手洗い、シャワー・ルーム、雑誌に掲載する定番の正面玄関、それに、ビーチから仰ぐように建物の全景を撮った。くまなく撮影しなければという思いもあったが、このように撮りまくっていれば、仕事をしている印象を、大森さんが抱くのは間違いないだろう。
当日は暑かった。しかし、サイパンは湿気が少ないから、日本に比べて過ごし易いのだ。
室内撮影はストロボをつけた。残念だが、うまく作動しなかった。
そんなこんなで、大森さんの説明を聞きつつ、急ぎ足の撮影であった。
一段落ついた頃、かなり、疲労を感じた。練田さんはと言えば、大森さんの説明を聞いているだけで、別段やることはないのだ。『いい気なものだ』と僕は思った。
あらかた撮影を終えると、一服するため、庭のベンチに腰かけた。
紺碧の海が水平線まで見えた。穏やかである。一瞬、時間が止まっているように感じた。東京暮らしでは、決して体験できない時間だった。
二 サイパン取材が決まる
サイパン行きは無難に決まってのではなかった。ベテラン営業マンの練田さんが話をつけた。
練田さんとS社の関係はながい。彼が以前にいた出版社からの付き合いなのだ。
銀座の裏通りにあるS社を練田さんと訪問した。そのときの印象は鮮明に覚えている。
練田さんの顧客への応対振りは、彼の営業姿勢をみる思いであった。そつがなかった。あくまでも、相手の気分を害さない、その対応ぶりは僕は真似できない。しかし、どことなく、卑屈な感じだ。練田さんは専務と長年のつきあいだ。練田さんはアイデアマンなので、おしゃべりをしているうちに、専務のヒントになるらしく、その意味で、練田さんは買われていた。サイパンに新たにコンドミニアムを建設する計画である。東京から三時間で避暑に行ける。軽井沢と大してかわらない時間内で、長期滞在型の貸別荘を建設する。
日本は安定成長期に入り、景気のよい企業への需要に十分応えられると、専務は踏んでいたのだ。
僕は長期滞在型の説明に、日本も随分と余裕が出き、贅沢の出来る時代になったのだと、羨望の気持で聞いていた。それは、別のかたちで、つまり、取材で、願望は期せずして、実現することになった。いわば、そのおこぼれにあずかれるのだ。練田さんとコンビを組んだおかげである。
練田さんは決して、相手から目を放さない。相手の話をゆるがせに聞かない。神経を張り、決して、失言を言わない。練田さんにとり、いつも真剣勝負なのだ。だからと言って、相手を緊張させない。あくまでも、ソフトな語り口であった。
人間は「楽しい」ことを好むものだ。そういうことに抵抗できない。その人間性の機微に通じているとの、自信みたいなものを練田さんは身につけていた。目的を定めると、その達成のためにはみっともないことも辞さないのだ。
練田さんはS社の仕事をもらい、編集の僕を誘って、サイパンへの現地取材をものにした。
僕は今の会社に入って二年目だが、変に彼と波長が合った。仕事で怒られた際、こわい思いも経験したが、彼は仕事をマイペースでこなせる唯一の人に写った。編集長でも他の営業の人も、ごつい体育会系の社長に文句を言われると、言い返せない。しかし、彼だけは、もちろん、本人から聞いたので、割引しなけれはせならないのだが、社長に従うにしても、練田さん独特の論理、社長の無理強いの要求を上手にかいくぐれる術を知っていた。僕はこのように、しっかり自分を持っている練田さんに一目置いていた。彼はまた、遊び好きである。僕も楽しいことは好きだ。仕事を楽しくしたい方だから、遊び好きの人間の"軽み"みたいなものの波長が合ったのだろか?
ところで、僕の勤める小さな出版社の営業マンが雑誌の広告を採ることは容易なことではない。大変難しい。だからなのだろう、ハッタリは日常茶飯事である。それは年配の営業マンの習性になっていた。それがなければ広告をとることは出来ない。もらえないのだ。
ハッタリまがいといえば、大手の営業でも同じことは言えるのではないか?それをウソというか、自社のものを一番優秀なものとして推薦するのを、自社への忠実な態度とすれば、それをウソと言わず、誠実というだけの話だ。
主に官庁を回っているR部長にも言えることだ。彼の肩書きは営業部長だが、名刺上だけで、形だけの部下四人がいるだけなのだ。各々、独自に顧客を持っている。そのひとり、年配のH氏ははったりで生きているような人物である。髪の手入れと服装だけはばりっとしていた。後ろ盾もなく、中身のない人間が社会で他人に伍して生きていくためには、最低限の身だしなみである。羽振りだけはよいと言う印象を与えるのだ。、僕のいる小さな会社はハッタリで塗り込められた営業姿勢をとらざるを得ない。小さなところは、みかけ以上の実力があると、相手に知らせる必要があるのだ。会社は政財界雑誌だ。隠し玉に、自民党の実力者とコネがあるような風体を、それとなく、相手に伝える。それは有効な武器になる。コネがあると言っても、たかだか、その秘書と懇意であるに過ぎないことかもしれないのだが・・・。詳しくは、僕には分からない。僕は知りたくもない。だが、興味本位だけなら知りたい気もする。だが、一度、知ってしまうと、それを行動にうつさなければならないのが怖い。
こうしたことは、部数も知れた雑誌が一流企業から広告をもらう方便なのだ。それに、社会の木鐸を発揮するというメデイアの大儀名分も、雑誌がしかけるタタキの武器になる。ハッタリまがいのことは練田さんにも言える。彼は理屈がたくみだ。しかし、全くのウソは言わない。少し、ひっかかる事実をあたかも、そのもの全てであるかのごとく言う話術に長けているのだ。
はったりと度胸だけで世間を渡っている、僕からみれば、こっけいな人物。そして、お金になりそうな事件の臭覚だけは異常に鋭いワンマン社長にしても、同じ穴のむじななのだ。むしろ、親分格である。
サイパン行きが決まり、練田さんは社長に報告し、航空運賃を前倒してもらおうとしていた。社長は渋って、なかなか、気持よくOK言わなかった。お金を出さない。どうせ、航空運賃を含めた広告料が入ってくるのだから、そのあたりは、気持よく、「行ってこい」と送り出してもいいものだと、僕らは思った。どうも、遊びがてらに行くのを見越して、面白くないようなのだ。僕たちは仕事で行くのだが、外国に行くのだから、少しは観光もしたいと思うのは正直な気持である。それにけちをつけるほど、社長は野暮天なのか。
遊ぶお金は自腹を切るつもりだ。しかし、練田さんの作戦は違うらしい。
社長は営業マンを信用していない。「外に出たら、何をしているか分かったものではない」と言っている。ひとの仕事のあら探しを"神聖な固有の権利"のごとく思い込んでいる。ひとのあらを探し、文句を言うばかりで、働き易い職場環境をつくろうとの考えはない。その証拠に、営業マンに交際費がない。皆、自腹を切っているのだ。伝票を切ろうものなら、社長室(広いフロアの一角を仕切っただけのちゃちな部屋である)に呼び出され、その交際費がそれ相当の利益を得るものでなければ、さんざんにののしられるのだ。その挙句、出金されるという補償はない。出金伝票に全て目を通しているという。こすいことをするものだ。
仕事はきつく、それに見合う報酬がなければ、機会があれば多少、羽をのばしたいと思うだろう。だからと言って、会社のお金で遊ぶつもりはない。練田さんは別の考えだろう。しかし、しっぽをつかまれることはしない。
僕はオフィスのテーブルに新聞を広げて見ている社長の横を通ろうとした。すると、いきなり、呼び止められた。
「何しにいくのだ!」僕はそんなことは既に知られていることだから、何をいまさら、聞くのだろう?と疑念を抱いた。
「取材に行くんです」僕は戸惑っていた。社長は僕の顔を正面に見ていたが、新聞に目を落とすと、そのままも何も言わなかった。今、思うと、社長の「何しに行くのだ」という質問には、「お前が行く必要があるのか?」というニュアンスを含ませていたらしい。
僕は会社では、出来るだけ社長と顔を合わせないようにしていた。というより、逃げ回っていた。自分ながらこっけいである。だが、社長の要求を満たすには、それこそ、死に物狂いでやらねばならない。非常に重荷である。一日が終わるとぐったりした。それで、必ず、近くの飲み屋に寄り、リラックスした気分になってから、帰宅した。
こちらの気持が緩んで、油断していると、そのすきに社長はつけ込み、無理強いさせられる。僕が通産省(当時)に取材に行かされた時、その言い方に、何ともいえない不快な気持がいつまでも残ったものだ。このことは練田さんとも意見が一致した。社長の悪意がこちらに伝染してくるようで、仕事を終えるまで、自然と直るまで待つしかないのだ。社長に大声でどなられた後の不快感は、何ともやりきれないものだった。
「社長が言うと、なんともやりきれない不快感、何だこれ」練田さんは言った。僕も同感だ。
ところで、練田さんは、航空運賃を前払いしてもらえれば、S社に関係する別の会社との話し合いで、そこが航空運賃を安く買ってくれる手はずになっていた。それは知り合いのルートを使い買えたらしい。しかし、前倒しは認められなかった。仕方がないので、別会社に頼まざるを得ず、規定の料金を支払うことになった。もし、練田さんの思惑が成功していれば、その浮いたお金を遊びに回せたのだ。
練田さんの再三の要求により、やっと、しぶしぶであるが、出金が認められた。
「行くのがいやになっちゃうよ。同じ行くなら気持よく行きたいよな」練田さんが言った。まったく同感である。いやみのひとつも言われたのだろう。他方、ここまでの経緯から信じられないことだが、餞別が出た。社長の気まぐれなのだ。
僕たちは銀行でお金を両替(1弗=160円)した。
上野駅で待ち合わせ、空港行きの電車に乗り継ぎ、成田空港へ出発した。
飛行機に乗ってしまえば、社長のことなど忘れてしまうのだ。
僕は新たに申請した赤表紙のパスポートを胸のポケットに確認していた。
三 サイパンの夜
僕たちはサイパンの夜を楽しむために食事をし、クラブにくりだした。
サイパンの夜は趣向を凝らしたクラブが乱立していた。ほとんどが日本人の経営である。ホステスはフィリピン人が多い。マニラから二千四百キロ離れているミクロネシアの小島に出稼ぎにきているのだ。
スピーデイなショーを売り物にしている店、美人を揃えている店、遊びに来る日本人目当てなのだ。海外で遊ぶのは当たり前になっていた。
夜の食事は大森さんのおごりで、海に浮かぶレストランであった。船内は照明をランタン風に装い、網と船道具をインテリアに置き、僕たちは船に乗り込んでいるという感じがした。船内は暗く、テーブルの小さな灯りでムードを出していた。せせこましいが、それが船内の感じなのだ。
ビアを飲みながら、生カキと魚の揚げ物を食べた。
船の丸い窓から沖合いに停泊している船の灯りが真っ暗な海に光っていた。
「港に入れない船が積荷の順番を待っているのです」大森さんが説明した。近くに、明日、見学するタナバク港があった。
レストランでの食事を終え、いよいよ、夜の街にくり出した。
島の西海岸のビーチ・ロードが米軍上陸記念碑に向かう手前の道を、海岸寄りに入ると、歓楽街がある。大通りの両側は軒並みクラブである。日本人経営者が一儲けしようと乗り込んできているのだ。
僕たちは車を降りた。どの店に行こうかと、ぶらぶら歩いて物色していた。ユニフォーム姿の呼び込みの女が声をかけてくる。適当に笑顔で応える。大森さんの行きつけの「メインティーン」という店に行くことになった。
白壁に沿って階段を上がると、二階にいくつかの店が入っていた。めかし込んだ店の女たちが立ち話をしていた。
「いらつしゃいませ」女たちは癖のある日本語で誘った。美人ぞろいの誘いに食指は動いたが、あとで寄ると言って、「メインテイーン」のドアを開けた。
タチヨミ版はここまでとなります。
2019年12月6日 発行 初版
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1946年、生まれ。明治大学文学部卒、業界紙・誌に勤める。今は無職。