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私は日本の大学で勉強をしている韓国人留学生だ。一九九三年に韓国で生まれ、二〇〇〇年代は韓国で学生生活を送っていた。韓国は八〇年代から急速な経済成長を成し遂げた国だが、その早すぎる経済成長にいろいろな制度が追いつけず、それによって韓国の社会にはおかしな価値観が確立されてしまった。
そんな中、当時の私たち韓国の学生にもっとも影響をもたらしたのは、まるで「勉強が学生のすべてを決めるもの」みたいな価値観である。勉強をすることでいい大学に入り、いい会社に入り、いい家庭を作り、いい人生を送ることができる。そう言い聞かされていたのだった。
〇〇年代の韓国にはそういう価値観が蔓延しており、それによっていろいろな偏見が生まれ、多くの韓国人学生たちが苦しい青春時代を送らなければならなかった。
これから語る物語は、そんな時代の韓国で生まれ育ち、やがて日本に留学をするようになった私の人生だ。
人はいろいろなことを成し遂げるために勉強をする。学生たちはいい学校に進級するために、就活生ならいい職場を得るために、社会人ならもっと高いところを目指すために勉強をする。
勉強をする目的は人それぞれだが、目的もなく勉強をする人はほぼいない。ならば、子供たちが勉強をする理由はなんだろうか? 前に述べたような未来のために勉強するのは、子供のときの思考にはまだ早く、実際は大人たちが用意するご褒美のために勉強をすることが多い。おやつやお小遣い、オモチャなど、用意されたご褒美に釣られ、勉強をするようになる。
私も最初はお小遣いを目的に勉強を始めた。
小学校に入ったばかりの頃、なぜテストでいい点数を取らなければならないのかが疑問だった。自分が勉強した成果を確認する時間などと、先生から言われたように記憶しているが、自分の勉強成果など自分が知れればいいだけで、先生たちの基準に合わせたテストでそれを見せなければならない理由が有るのか? と疑問に思っていた。
そこで、テスト自体に興味を持たなかった私を心配したお母さんが提案をしてきた。
小テスト一〇〇点で一〇〇円、中間テストや期末テストで九〇点を超えれば五〇〇円、一〇〇点を取ったら一〇〇〇円をくれるという条件を提示し、私が勉強をする理由を作ってくれた。
それをきっかけに私は勉強をするようになり、塾も素直に通うようになった。
私が通っていた塾は結構大きな塾で、学年別に成績順で十~一六のクラスに分けられていた。その塾は先行学習が基本となっていて、そのときまで塾に通っていなかった私は、下から三番目のクラスから始めるようになった。塾内クラスは初めて入ったクラスで固定されるのではなく、二か月に一回ずつのテスト結果によって、クラスが上がったり下がったりする競争社会だった。
今考えれば子供たちにとって酷いシステムだと思うが、当時の私はそこまで考えられず、ただ自分が下のクラスになるということに耐えられなかったため、もっと頑張って勉強をしていた。
小学校二年生のとき、下から三番目のクラスだった私は、二年くらい過ぎた四年生のときには上から三番目のクラスになっていた。
そのときが、一番勉強を好んでいた頃だと記憶している。その理由は周りが私を褒めてくれていたからだと思う。
勉強に対してそんなに難しいと思わない小学校時代だからかもしれないが、たかが勉強をするだけで親にも、親戚たちにも、先生たちにも褒められるのが嬉しかった。
私が勉強をして成績を上げるだけで親は喜ぶし、お小遣いは増えるし、学校の先生たちも親戚の大人たちも誉めてくれて、自信感も湧いてきた。いいことしかないと、そう思っていた。だが、物事にはその裏面が存在した。
その起点になったのは私がKMO(Korea Mathematical Olympaid)で金賞を獲ったことだったと覚えている。
学校に懸垂幕を掛けられ、学校の先生たちや、親戚たちが急に重い期待をしてくるようになった。
当時の韓国では技術による職業を軽視し、法学や医学、経済学などの学問が高く評価されていた。その理由はやっと経済の水準が先進国レベルになったといっても、行政的に力を持つ知識階層が少なかったからであった。
周囲の大人は私に「法学や医学系に行け」と、負担をかけ始めた。
ただ褒められていい気になっていた私は、大人たちの欲にまみれた負担に潰されそうになった。学校で授業を受けるときにも、マンガに登場する天才キャラと勘違いしてくる連中が、私に意味のわからない質問攻めをしてきたり、何かわからないことでもあったら「天才なのにそんなことも知らないの?」と、ひねくれた反応をする連中もいた。幸いにも私の両親はそこまで私に価値観を押し付けるタイプではなかったが、勉強ができるということに期待はしていた。
最初は勉強をして成績を上げていくたびに良いことが増えていくだけだったが、それがある起点からは勉強をすればするほど悪いことだけ増えていった。
私は勉強自体というより、周りの期待に対して大きなストレスを感じていたのだが、私一人我慢すればみんなが幸せになると思い、それに耐えていた。しかし、私以外にも苦しんでいる人が身近にいた。それは私の兄さんだった。
兄さんは勉強が得意ではなく、私より倍は頑張っても成績が良くないほうだった。そんな兄さんの一番の苦しみの原因は私だった。勉強ができる弟を持った勉強ができない兄さん。周りからいつも比べられ「弟を見習え」など酷いことを言われたこともあったらしい。兄さんは勉強以外でいろいろな才能を持っていたが、勉強がすべてだと思う当時の風潮のせいで、兄さんは私を恨むくらい苦しんでいた。
小学校五年生の終わりごろ、何が原因だったかは覚えていないが、もともとお互い嫌いだった私と兄は大喧嘩をして、家族全員で集まって話す機会を得た。
そのとき、兄さんが今までどれだけ苦しんでいたかを聞き、私も重い期待で潰れそうになってると正直に話した。兄さんも泣き、私も泣き、両親も泣きだした。
お互い溜めていたことを話すいい機会であったと今では思っている。
その日をきっかけに私は「勉強が嫌い」宣言をし、成績を大きく落とさない限り、勉強に関して何も言わないことにした。
通っていた塾ももう一回の引っ越しをきっかけに全部やめることになり、中学からは学校の勉強以外はしなくなった。
現在の韓国はOECD加盟国(Organization for Economic Cooperation and Development)の中、GDP(Gross Domestic Product)で十二位に入るほど経済大国の一つだ。(二〇一八年一〇月基準、日本は三位)
しかし、ほんの六十年前である一九五〇年代までは他国の援助なしでは食べることさえままならない国だった。当時の韓国は韓国戦争の影響で経済基盤をすべて失い、荒れ果てた国土と疲弊した国民たちしか残っていなかった。
アメリカや他の国から援助は受けていたが、そのままだと属国と変わらなくなると思った韓国はどうしても経済を生かすために頑張り始めた。
国内だけの頑張りではそこが知れていると思った韓国は国外貿易に基盤を作るために金と技術が必要だった。そのためにドイツに鉱員や看護師を派遣することで技術と物資を買い出し、工業を発展させ、ベトナム戦争に派兵した金で繊維産業を発展させた。
その派遣や派兵はすべて志願者だけに限定して行われたことだったけど、多くの国民が自分の意思で志願してくれた。まさしく国民たちが身を張って経済を活かそうと頑張ってくれていた。
その結果、六〇年代の産業は活発になり、七〇年代から九〇年代までは奇跡と呼ばれるくらいの経済成長を成し遂げた。
しかし、九〇年代末、またも大きな危機が訪れた。それはIMF事態と呼ばれる事件で、成長著しかった経済に自惚れた韓国政府が無分別に企業投資をすることで起きたものだった。その投資のせいで国庫が底をつくことになり、外国から借りていた外貨を返せなくなったのだ。
この事態を乗り越えるためにまたも国民たちが奮闘した。国民たちが外国為替を返すために金を集める運動を始めた。金は全世界的不変の価値を持ったもので、自国の財貨より外貨を通じて返済しようとした運動だった。
そんな危機を切り抜け、現在の韓国の経済が成立している。
私には四歳上の兄が一人いたが、私とは兄は性格の特異も見た目さえ正反対の人間だった。
兄は幼い頃から勉強が苦手だった。しかし、その代わりに音楽や美術、体育などで優れた才能を持っていた。中学時代には合唱部でいい成績を収めたこともあるし、今ではデザイナーとして活躍している。
そんな能力的な面以外に周りからよく言われるのが見た目の違いだった。
私は中学から今まで顔があまり変わっていないと言われるほどの老け顔だった。それはコンビニで酒を買おうとしても何も言われないほどで、この前、中学時代から七年以上会っていなかった友達が顔を見ただけで私だと気づき、挨拶してきた。それに対し、私の兄はいつも周りに女性がいるような奴だった。
それほど違う二人だったが、幼い頃は意外にも仲が良かった。兄は家事も得意で面倒見が良かったため、幼い私の面倒をよく見てくれたし、そんな兄を私も慕っていた。
関係が悪化し始めたのは私が小学校に入学してからだ。その理由は言うまでもなく勉強のせいだった。
四つも離れている私たち兄弟が一緒の学校に通えるのは小学校時代だけだった。私は兄が通っていた小学校に入って初めての中間テスト(そう呼ばれるものが日本では中学校からがほとんどだと聞き、カルチャーショックを受けた)からいい成績を出した。兄ははじめ、自分の事のように喜び周りに自分の弟だと自慢していた。しかし、当時五年生であった兄は少しずつ成績が落ちていき、六年生時には下から数えた方が早い成績になっていた。私は周りから持ち上げられるのが嬉しくて様々な大会に出場し、賞を取りまくっていた。全国数学オリンピック、作文コンテスト——皆が出ろというので学内学外合わせて四十ばかし取った。それにより校門に私の名前が飾られている時期も多く、兄と私が兄弟であることも有名になっていた。
分かる人も多いのではないだろうか。私と兄の両方を知っている人が多くなればなるほど「二人を比較しだす人」もまた多くなる。
「兄はこれが出来るのに」だとか「弟はこれが出来るのに」だとか、もう何度言われたか分からない。兄弟といっても違う人間なのに一つ一つを比べようとする。友人がそう言ってくるならまだ我慢できるが大抵、そんなことを言ってくるのは周りの大人だった。それが時としてどれだけ人を傷つけるかを考えもせず、学校の教師や親戚の大人たちが私たちを比べ始めた。
兄は大人たちから口々に「弟はあんなに勉強が出来るのに」と言われていた。しかし、私はそれを意に介さないどころか調子に乗ってしまい、いつしか人を見下すかのような口調が癖づいていた。兄はそれに対して何も言わなかったが、少しずつ私から距離を置くようになっていった。
中学生になった兄は誰から見ても分かるほど、荒れていた。きっと思春期だったからだと今の兄は言うがその時代は私にとって地獄そのものであった。
兄は溜まったストレスを暴力で発散し始めた。中学生の兄と勉強しかしてない当時の私は喧嘩にもならずいつも殴られた。ボクシング漫画にハマり「スパーリングだ」だとか「外で殴られないように鍛えてやっている」と言いながら私を殴る兄はまさしく鬼であった。
始めは一方的に嫌われているだけの関係だったが、そんな兄の行動が積み重なり私もまた、兄のことを嫌いになっていった。私は前述のとおり、人を見下すような口調であり、その上皮肉を言うのが人一倍、得意であった。力では勝てないと分かっていた私は兄に対して悪口といった精神攻撃を仕掛けることが増えた。
私が小学校四年生の三学期頃だったろうか、二人でかつてないほどの大喧嘩をした。それにより兄弟間の深い溝を両親も知ることになり家族会議が開かれた。そこで兄は今までなぜそれほど私を嫌っていたかを話した。私も私でそれほど勉強が好きなわけではないと、お互いの気持ちを打ち明けることが出来た。
その後、前のように理由もなく殴られることは無くなったが、あまりにも違う人間である二人の関係は回復できないと思っていた。
そんな私たちの関係が変わり始めたのは兄が徴兵制度により軍隊に入ってからだった。
口喧嘩では連戦連敗だった兄はその前まで私に話しかけてくること自体、めったになかった。そんな兄が軍隊に入り休暇で家に帰ってくるたびに私に声をかけ始め、兵役を終え帰ってきた時、急に私に謝ってきた。かつての喧嘩には全般的に自分に非があり、それにやっと気づいたと謝罪する兄。私はそれに対して「ふざけている」と思った。しかし、私たちの関係が悪いことを両親が心配していることも知っており、その心配が少しでも無くなるならと思い、私は仲直りするフリをしたが、やはりその後も私たちは喧嘩をしていた。前よりは幾分、まともな喧嘩だったが、そもそもお互いの基本理念自体が違いすぎるし、心の中ではまだ許していない相手に対しておとなしく引けるわけもなかった。
そんな私たちの関係が本当の意味で良くなり始めたのは私が軍隊に入ってからだった。
兄が軍隊で変わったと時には「ふざけている」と思った私だったが、軍隊にいるという状況の中、様々な人たちと生活することで家族の大事さというものを感じることが出来た、なんてことを言うといささかご都合主義的にも思われるかもしれないが、たしかに私は本心から兄を許し、向き合おうと思うようになった。
真逆な性格をしている私たち兄弟だが、お互いに理解する努力をし続け、今では誰から見ても仲のいい兄弟となっている。
【技術軽視風潮】
二〇〇〇年代初頭の韓国では急成長した経済に適応できず、彷徨う人も多かった。
子供の時には農業社会だったのに大人になって急に情報社会に変わり知識や技術も持てず、日雇い派遣のようなものでしか稼ぐ術がなかった人たちが次の世代ではそうやって生きて欲しくないと思い、教育に力を入れ始めた。
今ほど経済成長を成し得てなかった韓国では高い料理や文学、芸術などを贅沢と思う認識もあまりなかった。飲食店は作るのもままならぬ忙しい人や面倒くさい人たちが行くところと思われ、美術や音楽などは論外だとまで言われていた。
無論、有名な美術家やシェフは尊敬されたが、それを目指すのは天才たちだけの特権だと決めつけられてきた。おかげで音楽や美術系で夢を持つのは博打をしている人か、馬鹿のどっちかだと思われた。
その代わりに持ち上げられたのは安定的と言われる公務員や社会的力を持っている医者や法律系の職業だった。
二〇〇七年の調査結果を見ると小学生のなりたい職業の一位が教師、二位が医者という、ささか夢がないように思える。それは韓国の競争社会が問題で、大学受験に人生がかかっていると、子供の時から洗脳のようなものをされてきたためだ。
今でこそそんな風潮は少しずつ無くなってきているが、未だ韓国の親たちの教育熱心さはおさまらず子供たちに勉強、勉強、と言葉のムチを振っている。
韓国はアジア内ではスポーツ強国に入る。FIFAランキングは三十七位で、野球はオリンピックで優勝した経験もあるくらいだ。チームで強いだけじゃなくプレミアリーグで活躍している選手やNBAで活躍している選手もいる。
その選手たちは無論、幼少時代から注目を浴びていた選手だと思われるかもしれないが、韓国では事情が違う。
世界で活躍している選手たちは大体子供の時から様々な大会で注目を浴びて、スター選手として成長いていく。しかし、韓国ではその場合の方が少ない。
その選手たちが幼い頃に活躍出来なかったのか、それとも、始めたのが遅かったのか——正解はそのどちらでもない。
韓国では幼い選手たちが注目を浴びるほどの大会がそもそも存在していないのである。
例外はある。サッカーの場合は少しマシで大体の学校にサッカー部は存在していて、年に一回くらいは大きな大会もある。が、他の種目の場合は大会があるかどうかも分からないくらいだ。
もし機会がるなら各種目関係者以外の韓国人に大会があるのかと聞いてみて欲しい。おそらくあるのではないかといった曖昧な言葉が返ってくるはずだ。韓国で中高生の大会などあるのかも分からないくらいの認識でしかなく、注目されない分、参加者も少ない。テレビ放送などもってのほかだ。
韓国野球はそれなりに強いと言われるが、高校野球という単語自体が無い。例えば日本でもプレイしたことがある「イ・デホ」選手の経歴を調べても、青少年時代韓国国内の経歴はなく、世界大会の経歴だけ出て来るくらいだ。
学生達の運動は遊びだと思うくせに、世界大会で活躍することを期待している。そんな社会的な態度に多くの学生たちは夢を無くしていくが、それを気にもせず勉強だけ強要するこの社会を変えない限り韓国のスポーツはいずれ死んでしまう。
私は基本的に運動が嫌いな子だったが一つだけ、バスケットボールだけは好きだった。
きっかけは単純で「SLAM DUNK」にハマった兄が、私を連れまわしたからだった。いつも喧嘩していたが、好きなものは似ていた私達兄弟は一緒に「SLAM DUNK」を見てバスケを始めた。
兄に強制的に付き合わされる間に少しずつ上手くなり、運動が好きになった私は学校でもバスケをしたかったが、皆サッカーばかりでバスケに付き合ってくれる人はいなかった。
結局、中学校に上がるまで兄とその友達だけとしかバスケをやったことが無かった。
中学生になった私は「SLAM DUNK」のような仲間たちと出会えることを期待していた。それほど運動を頑張りたいとは思わなかったが、青春といった仲間たちとの熱い何かを期待してはいた。
しかし、そんな私の期待はすぐに砕け散ってしまった。うちの中学校にはそもそもバスケ部が無かったのだ。落ち込んでしまったが、まだ希望はあると思った。
それは自分でバスケ部を立ち上げるというものだった。
まず部員を集め顧問の先生を探し、部を立ち上げる方法を聞きに教務室に行った私は絶望的な話を聞かされた。
「部活の設立? そんな制度はないけど」
調べてみると韓国で部活を作るという文化は大学から存在するもので、勉強をしなくてはならない学生たちにそんな「遊び場」を提供するのは間違っているという意見だけが上がっていた。
ならば選手になりたい人はどうすればいいですか? というネットでの質問に「そんな時間に勉強をしなさい」というコメントが付いていた。
韓国は勉強以外を無視する国だと、もう一度思い知る機会となった。
「E-sport」、それは「エレクトロニック・スポーツ」の略字で簡単に言えば`PVPがメインのネットゲームの競技を意味する言葉だ。有名なE-sportの世界大会はNBA決勝戦より視聴者数が多いほどで、近年ではオリンピック競技の一つとして試されている。E-sportが人気を出し始めたのは「スタークラフト」というRTSゲーム(戦略シミュレーションゲーム)だった。そのゲームはプレイヤーの戦略性を競うもので、それはまるでスポーツに等しいという意味でE-sportという言葉を使い始めたのが今では全てのネットゲーム大会にて使われる言葉となった。韓国は「E-sport」という単語を使い始めた国でもあり、現在E-sport強国でもある。
韓国はE-sportの根源となった「スタークラフト」を始め「オーバーウォッチ」や「PUPG」など有名な「E-sport」でいつも上位の成績を収めている国であり、現在E-sportとして長年愛されている「リーグオブレジェンド」では八回行われた世界大会で五年連続優勝していたくらいだった。
韓国がそれほどE-sport強国なのには理由があり、それは「PCルーム」という特有の文化が有るからだ。
「PCルーム」は一種のアミューズメント施設でパソコンを利用するゲームセンターのようなところだ。日本ではネットカフェに近いと言えるかも知れないが、機能的にも環境的にもかなり違う。「PCルーム」はネットカフェの個人ブースではない広い部屋にパソコンが何列にも分かれて並んでいるような構造だ。そのため防音は出来ず、うるさい環境ではあるがそれが「PCルーム」の一つの魅力でもある。人々が「PCルーム」で主に楽しまれるのはE-sport系のゲームが多いが、そのようなゲームは大抵の場合、チーム戦でありチームメンバーとのの意思疎通が重要になる。日本のネットカフェでは静かにしなくてはならない環境のせいで、お互いに話しながらゲームをすることは不可能に近いが「PCルーム」ではそれが可能になる。そのような環境により中高生たちが集まって「PCルーム」に来ることが多く、自然に学生たちのメイン遊戯として扱われるようになった。
現在、プロの選手も多く注目度も高くなった。
韓国ではコンソルゲーム(PS,スイッチなど)よりパソコンを使うネットゲームの方が主力になっている。その大きな理由の一つはインターネットの速度だ。韓国は一九九九年からインターネットの普及が進み始め、よほど困窮していない限り家庭に一台以上のパソコンを持つようになった。それにより九十年以降に生まれた人たちにとってパソコンは身近な物になり、それでゲームをすることも当たり前のようになっていた。九十三年生まれの私も無論、ネットゲームを楽しんできたが、中学の時にコンシューマゲームに出会いハマるようになった。
私が初めてやったコンシューマゲームはPS2で発売された「テイルズオブディスティニー2」というゲームだった。ネットゲームは基本的に育成と競争がメインであったが「TOD2」は何よりストーリーが魅力的なゲームですぐハマってしまった。ユーザーに長い時間プレイさせなくては利益の出ないネットゲームはどうしても反復行動を虐げられる。しかし、ゲームの完成度を追求しソフトを売ることをメインとしたコンシューマゲームではそのような行為をする必要も無く、軽い気持ちで楽しむことが出来た。
その後、すっかりコンシューマゲームにハマった私は様々なソフトを買い、楽しむことになったのが、二つ大きな問題があった。
一つは単純に金の問題で、もう一つは韓国語化の問題だった。
当時韓国のゲーム業界は酷い状況だった。早くなり過ぎたネットと穴だらけな著作権のせいで違法複製が当然のように行われていた。音楽や映画、ゲームなど当時CDを媒体としていたものが全て複製され、子供でも簡単に手に入れることが可能だった。そのため、外国の企業は韓国にゲームを売るメリットを感じられず、韓国語で発売するゲームの数は限られていた。
しかし、韓国のゲーマーたちはそれに負けず方法を生み出し始めた。最初はゲームのセリフといったものが全部乗っている細かい攻略本を翻訳し始めた。ゲームのパブリッシャーが直接ストーリーを翻訳した本をゲーム付録として入れてくれる場合もあったが、それもパブリッシャー側がやってくれないと出来なかったため、ユーザーが直接翻訳した本を売ったり共有したりしているものも多かった。
私が好きだった「テイルズオブシリーズ」は翻訳書が出来ていないゲームだったが、テイルズオブの韓国コミュニティに全ての翻訳が載っていて、それを印刷し見ながらプレイしたりしていた。するとゲームをし続けるうちにいつの間にか日本語が聞こえるようになっており、聞こえる状態で翻訳本を見ながらゲームをしていると日本語を読めるようにもなった。
一つの言語を理解できるようになるには二千時間、その言語に接する必要があると言われているが、高校までの二年半の私のゲームプレイ時間はそれを遥かに超えていた。
どの国でも子供がゲームにハマりすぎるのを好む親は少ないと思うが、韓国ほど毛嫌いする国もないだろう。
ゲームには実際、子供に悪影響を及ぼしえる暴力性や、ギャンブル性が含まれている側面があることは事実だ。しかし、韓国の大人たちがゲームを嫌いな理由はただ「勉強の邪魔になるから」だ。
韓国学生たちのゲームプレイ時間が世界的にみても高いのは事実だが、教育熱の高い親はその原因が自分だという事に気づいていない。
韓国で青年期の学生たちを対象に趣味に関する調査を行った結果、男子は七割以上、女子は四割以上がゲームだと答えた。そしてその理由に対しても調査されたがその結果は 「面白いから」「短い時間で楽しめるから」「ストレス発散に良いから」「皆やっているから」とかなりのバラつきがあった。
しかし、そこに運動や楽器など他の趣味に興味が無いかという質問には口を合わせて「興味はあるがそんな時間はない」と答えた。
「塾に通っていないのは家が貧乏だからだ」と思われるほど皆、塾に通っている時代。塾が終わる時間は夜十時頃だった。その時間から外で遊ぶのは難しく、友達と集まるのも不可能だったが、どうにかして遊びたい学生たちは家にあるパソコンに目を向けていた。ネットが発達していた韓国では子供でも楽しめるゲームは多かったしSNSも早い時期から投入されていたので、子供は自然にネットの中で集まり、遊ぶようになった。
少し考えれば子供の遊ぶ時間を無駄と見なす親のせいだというのは誰にだって分かることなのだが、教育熱で周りの見えない親たちはゲームが悪いと弾圧し始めた。
ゲームは「悪」とし、勉強を邪魔する害悪としか見ていない親たちはそもそも子供がなぜゲームにハマるのかを考えた方がいい。
青少年たちを死に至らせるものは何か。
日本の厚生労働省が平成十三年に発表した資料によると一位は事故で二位が自殺であり一位と二位の間には二倍ほどの差があった。
韓国で調査した青少年期の死因にも一位と二位との間には二倍の差があったが、一位と二位の死因が逆で、一位が自殺だ。韓国は青少年自殺率が高い国ではないが、「学業」が問題で自殺する比率が全世界一位で五十パーセントを超えている(ちなみに日本では一位がイジメで二位が家庭問題である)。まさしく、勉強が人を殺している。
それほど学生たちを追い詰めている大きな原因は「大学修学能力試験」、略して「修能」と呼ばれている試験だ。日本のセンター試験と似たようなものと言える。
この「修能」は各科目別にテストをして相対評価で一から九までの等級で並ばせるが一級を取るためにはほぼ満点を取らなければゃいけないのだが、その問題の難易度は他国の大学生でも解きにくいレベルで出題される。一つ有名なエピソードを述べてみると「修能」の英語試験をアメリカ人に解かせてみたが、一般人で五十点を超えず、言語を習っている大学生たちに解かしても百点を取った学生は少なかった。その年の問題は難易度が高く、一級を取るには二問までしか間違えることができなかった。
そのためいい大学に入りたい学生たちは頭がおかしくなるほど勉強をしなくてはいけないのだが、そんな人が一人二人じゃない環境により無限競争社会となっている。
そんな勉強に耐えられなかった学生や、勉強したにも関わらず本番でミスをしてしまった受験生たちはやってはいけない選択をしてしまう。
学生たちにそんな選択をさせる「勉強が全て」のこの社会はやはりどこかおかしいと私は思う。
5.高校は勉強をするところ
韓国に高校受験といったものは特になく、ランダムに割り振られるか中学の成績順で選ばれていた。私の住んでいたところでは成績順で選ばれており、 私は親からの要望により進学校に入ることとなった。
韓国の高校授業は朝九時から夕方五時までが基本だが、私が高校に通っていた時代には「夜間自律学習時間」というものがあった。これは塾ではなく学校で勉強させるために作られた制度で夜十時まで学校で自習出来るようにした制度であった。
制度の趣旨自体はいいものだったが、実際は違う意味で使われていた。まず自律という名でありながら強制であったし、これをやらないためには親と教師の許可が必要だった。そしてその許可が一番出やすい理由は「塾」だった。私的教育を減らすための制度だったが、塾が理由で抜けられたのだ。
私は勉強に興味が無かったし両親もそれを理解してくれていて、先生を騙すカタチでその地獄から脱出できたが多くの学生たちがその地獄から逃れられず毎日夜十時まで学校で勉強をしていた。しかし、そうやって夜十時まで学校に縛られている子たちはまだ幸せである。
最も酷いのは塾に行った人だった。
韓国の法律で塾は夜十時までしか営業できない。学生達の睡眠時間を確保するために作られた法律だが、あまりにも穴だらけの法律のせいで「塾」という名前を使わなければ夜十時以降に運営されていても捕まえる術がなく、教育熱の高い親たちは自分の子の睡眠時間など考慮するわけもなく夜十一時、十二時、酷ければ一時まで塾に縛られていた。
朝九時から学校に行き、終わったらすぐ塾で朝一時まで勉強をしていれば頭がおかしくなるのは必然であるが、そうさせている親たちは未来のためだと子供たちに勉強を強要していた。
これは私の友人の話である。
その子は高校で出会った友達で、一年の英語映像制作という課題で初めて出会った。英語の台本を作り実際に演技しながら映像を作る課題で、台本を作るまではよかったが撮影に入る際に問題が発生した。その子は朝から晩まで学校と塾で縛られていて撮影する時間も無かったのだ。仕方なく私たちは学内で撮影し、編集で誤魔化す方法を選び、昼休みの時間を使って少しずつ撮影していた。しかし、私を除いた皆は「夜間自立学習時間」や塾があって、仕方なく私が編集をする羽目になった。その子は自分のせいで私の仕事が増えたと思い、ずっと申し訳なさそうにしていた。当時かなり意地悪だった私はそれをネタに少しイジってみようとしたが、その子が本気で泣き出してしまい、それをきっかけに事情を聞くことになった。
その子の両親は両方医者で自分の病院を持っているほどの家であり、兄も現在、医大に通っておりその子にも医大に行けと迫っている状況とのことだった。
朝七時に起きて予習をして九時から学校での勉強。休み時間には塾の宿題をし、午後五時に学校が終われば車が迎えに来る。晩御飯を食べて午後六時から朝一時まで塾で勉強をし、家に帰るのが普通の平日であった。週末には朝九時から家庭教師が来て午後二時まで勉強し、そこから塾に行き、また朝一時まで勉強して帰るというサイクル。
人間の生活ではない。その子の親に怒りを抱くくらいだった。しかし、当事者であるその子は仕方ないと言うだけだった。
それから私は休み時間にその子を度々訪ね、いつも勉強だけで楽しみも無く生きるその子にボードゲームや、携帯ゲーム機、スポーツなど色々誘ってみた。しかし、いつも宿題のせいで「そんな時間が無い」と返されるだけだった。
価値観が違いすぎると感じた私はそのうち自然と話し掛けるのをやめていた。自分の楽しみのために生きている私はその子と分かり合うのは無理だと判断してしまった。そうやって一時の思い出としたかったが「彼女の最期の姿」は私の頭に一生残り、決して忘れることはないだろう。
高校三年の夏、「大学修学能力試験」の予備試験結果が出た次の日のことだった。予備試験も学内期末テストも終わり、夏休みのことを考えていた。その時、学校におかしな音が響き渡った。
その音をなんと表現すればいいか分からない。が、今もちゃんと覚えている。窓側から聞こえ、窓側に座っていた人たちがざわめきだした。そしてその音の元を探すために窓から下を見た子が悲鳴をあげた。
その悲鳴をトリガーに皆、窓側に集まって下を見降ろした。その光景を見て吐いてしまう子もいた。その状況を見て窓の向こうにあるのが何なのか、私は薄々気づいていて、見ない方が絶対にいいとも分かっていた。しかし、私はそれを見てしまった。
その時、見たものは二度と思い出したくないが、一生忘れられない光景だった。
遺体の損傷が激しく、それが誰なのか分からず、警察が来て状況を整理した。詳しい事情が分かったのは事件から三日後だったが、それまでにも生徒たちの間で彼女であることも広まっていた。普段の生活を知っていた私は自殺の原因が何であるか分かっていたが、あの子をよく知らなかった学生たちの中では様々な噂が流れていた。
噂が流れていた頃に警察が来て取り調べが行われた。記入して欲しいとアンケート用紙のようなものが配られた。実際にアンケートで問うている項目を見て私は「ふざけている」と思った。
その項目にはその子とは関係のない、学内イジメの問題ばかりが書かれていた。私はそのアンケートに「ふざけている質問だ」と書いて提出し、個人的に呼ばれる羽目となった。
呼ばれた部屋の中には私と彼女のクラスの担任と警察、そして心理専門家という人が座っていた。私をイジメの犯人だと疑っているその人たちに私は知っていることを全て話し、イジメを視野に入れて調査するのは無駄な事だと言って面談を終わらせた。
後に警察から聞いた話によると彼女の両親が「最近あの子が憂鬱に見えた」とか「友達がいないのではないか」とイジメを視野に入れた調査を行っていたということだった。
彼女の両親が本当の自殺の原因を知らなくてそう言ったのか、それとも責任を回避するためにそう言ったのかは分からないがただただ酷い親だと思った。
私は勉強に対し、それほどまでの意義を見出せず生きていたため、その子の気持ちを理解するのは不可能だと思う。しかし、この国の教育熱が高くなっている現実は異常である思い、うんざりするようになった。
国民の三大義務を知っているか。教育の義務、納税の義務、教育の義務が三大義務と呼ばれ国民であれば必ず守らなくてはいけない最小限の義務だ。
韓国にはその三大義務の上、もう一つ項目が追加され四大義務と呼ばれており、それは国防の義務だ。
韓国は未だ休戦国家であり厳密には戦争が終わっているわけではない国だ。そのため、韓国国民の男たちには未だ兵役の義務がある。
兵役の期間は時代によって変わっているが、私が軍隊に入った時には二十一か月から二十四か月だった。
大学に上がり初めての冬を迎えてた私に母が一つの手紙を持ってきた。私宛の手紙だと言いながら深刻な表情をしている母を見て、もしかして法律的何か、最近なにかやらかしたかと思いながら手紙を見た。差出人には「国防部」と書かれていた。それを見た私は固まるしかなった。
ついに私にも届いてしまったかと絶望しながら開いた手紙にはやはり予想していたとおりの内容が書かれていた。
「令状」と呼ばれるこの書状は韓国男子が最も嫌いなものといえるもので、要約すると「お前そろそろ軍隊に来い」と書かれている。この手紙は二、三回ほど繰り返し発送され、全部無視していると電話まで来るようになる。そしてそれも全部無視していると兵役拒否という犯罪を犯した罪人となる。絶対に逃れられないことを知っている私はいつ行くかを悩み始めた。
「令状」を貰ったとしても軍隊にすぐ行く必要はなく、国防部に延期の報告さえすれは三十歳まで伸ばす事は可能だ。しかし、歳をとってから行くと体力的に厳しいし、何よりそうなると自分よりも年下の奴が上官となり従うことになる。それだけは絶対に嫌だった私は「遊撃訓練」のため最短の二十一か月で済む八月頃に行くことにした。ちょうど大学の前期が終わる頃でもあり都合が良かった。
しかし、入隊したい日に行くのも簡単なことではなかった。
入隊申請は毎年決められた日に、ネットで先着順に受け取っていた。そのおかげで「行きたくない軍隊に行くのも難しい」という笑えない言葉も出来たくらいだった。
私は申請日に高スペックのパソコンを求め「PCルーム」に行って準備していたが、その「PCルーム」の中には自分以外にも入隊サイトを開いて待機する者が何人もいた。
結果、私は狙っていた八月には行けず九月からの入隊になった。八月は人気で五秒も経たず満員となり九月や七月も空きが無かった。絶望しながら更新ボタンを押し続けて奇跡的に九月に空きができ、申請することが出来た。
入隊申請をした後の二年の前期は学業よりも遊びたいとしか思わなかった。もうすぐ私は軍隊に行ってしまうんだなと考えると勉強も頭に入らず、撮影授業や編集授業など面白い授業以外は結構、サボるようになってしまった。
そうやって遊びまくっていると先輩たちが一言ずつ声をかけてくれた。軍隊に対してこれが何だ、あれが何だと話しかけてくる先輩たちはいつも軍隊の「辛い部分」だけを語り、わざとこちらを怖がらせるように言っているだけなのではないか、実際はそれほど辛くないのではないかと疑うようになるほどであった。
そんな時間を過ごしていたが、入隊二日前になりいよいよだという実感がわいてきた。親戚たちから、先輩たちから、ネットゲームの仲間たちから、後輩たちに至るまで様々な人たちから「無事に帰って来て」だとか「頑張れ」という連絡が来た。
そんな連絡を受けながら私は坊主になった。
入隊日、私は家族と共に訓練場に向かった。
入隊といってもすぐ軍人として働くわけではなく、訓練場、新兵教育隊を経て部隊に配属される。
訓練場はその名に訓練と付いてはいるが訓練らしいことはせず、身体検査をしたり補給品を貰ったりするところで、軍隊の基礎的な知識だけを教えてくれるところだ。
ここで一応入隊式というものを行い、家族はそこまで参観できる。その後、訓練場は一般人立ち入り禁止に変わる。
その入隊式はまるで学校の卒業式のように両親が泣き出す場であったけど、私は元気に心配するなと言い続けたし大丈夫だと思っていた。しかし、子を軍隊に行かせる両親の心境はそう穏やかに済ませられるものではない。子の卒業式にも泣いたことのない母が泣き出す姿を見て胸が苦しくなった。
そうして両親と離れた私たちを待っていたのは世間からの決別だった。これは大げさな比喩的表現ではなく言葉どおりの意味で、自分の体以外の全てを家に送る作業を行った。持ってきた物たちはもちろん、履いていた下着まで全部脱いで送らなくてはいけなかった。
軍隊で支給されたもの以外を全て送った私たちは皆同じ服、同じ帽子、同じ靴下、同じパンツを着て個性を無くしていた(メガネだけは取られなかった)。
その後、初めての食事をしたが他の人たちから聞いたとおり、クソマズい食事だった。見た目は普通なのにクソマズかった。
そうして三日間身体検査と基礎教育を終えた私たちは地獄のような場所に送られることとなる。
韓国の男たち特有の話題がある。女性らは毛嫌いする話題だが、男はいつもこの話題で盛り上がる。それは韓国男子なら逃れられない軍隊に関する話だ。
軍隊話は兵役を終えた人たちだけの話題ではない。まだ軍隊に行ってない学生、現在兵役に努めている軍人たち、兵役を終え年を取った父たちの世代、全部軍隊を話題とする事が多い。
そんな様々な世代が軍隊話をしていて、様々な世代から話を半強制的に聞かされるのだがいつも一つだけ共通点がある。それは「辛い」という事だった。
古い世代は「今の軍隊は良くなったな」とよく言うが、新しい世代はこれが辛い、あれが辛い、これから何が変わるから楽だな、羨ましいなと言う。つまりはいつ行っても辛いし、何が変わっても辛い場所だということだ。
韓国男子なら子供の頃からそんな話をよく聞かされ、軍隊に対しての恐怖を抱くようになる。もう兵役を終えてきた私だから言える事は「軍隊の辛さ」は差はあっても絶対に無くならないと言うことだ。
軍隊は「約二年間」もの間「閉鎖的社会」の中で「戦闘訓練」を受けるところだ。しかし近年では期限も短くなってきているし、(昔は三十六か月、私の時は二十一か月、二〇二〇年からは十八か月にまで短縮される)訓練自体もそれほど苦しくないように変わってきてはいるが一体何がそんなにも辛いのか。
それは「人間関係」の辛さだ。
軍隊は基本的に閉鎖的な社会で今年からは決められた時間に携帯電話も使えるように変わったと聞くが、その前までは電子機器を持っていくこと自体が不可能であった。
「軍事情報が漏れる可能性がある」という名目だったが、実際、一般兵士が知れる情報などたかが知れているし役立たない。ではなぜそれほど規制していたかといえばそれは兵士たちを統制するためだ。
それぞれの生活を送ってきた人たちが、それぞれの地域から集まったのが軍隊だ。当然、皆考え方も違うし、軍隊の縦社会に適応出来ない人物も出てくる。
だから外部からの情報を規制し、閉鎖的に社会を作り適応させていたのだ。
そのために必要なのが階級による縦社会で、「上は命令を出す」「下は従う」という単純な構造で生活していると自然と軍隊の社会に適応できるようになる。その代わりの縦社会特有の副作用が起きてしまい、それが軍隊の一番「辛い」点になる。
「新兵教育隊」が私の軍生活で最も辛いところであった。
入隊したばかりの新兵たちに軍の基本的知識や訓練をさせる新兵教育隊は五週間の地獄だった。なぜそこが地獄なのかを述べ始めるとキリがないのだが、簡単にいえば「マズイ飯(強制的完食)」「厳しい訓練(毎日訓練)」「息苦しい生活(小学校の教室のようなサイズの部屋で三十人が寝る)」「完璧に統制された生活(おやつ、電話、運動や本さえ禁止)」など語りきれないくらいの地獄であった。
毎日のように訓練でくたくたなのに、一緒に生活する人たちとの人間関係まであって身体的にも精神的にも辛いところだった。
そんな地獄で五週間過ごせば、やっと軍生活の最後まで共にする自分の部隊に配属されるようになる。
特別な兵科ではない限りランダムで配属される仕組みなので、軍生活最大の運勝負の場でもあった。
私はその中で少し良いくらいの機械師団に配属されたが、兵科が大戦車爆撃班に編成されてしまった。最初兵科を知った時には厳しそうなイメージで怯えていたが、弾一つの値段が四百万を超える武器であり二十一か月の間でたった二発しか撃つことはなかった。それに特殊兵科以外は兵科に関しての仕事は訓練時だけで、普段はただの雑用であった。
トータル的には私の軍生活はそれほど厳しいものでは無かった。私より古い世代の話はともかく、今どきの軍隊は身体的に厳しい生活を強要してはいなかった。訓練は大体一ヵ月に一週間だけ行われて、普段は大民志願の作業や軍施設管理がメインだった。
三週間山に籠らなくてはならない訓練や、極限の身体的訓練「遊撃訓練」、寒さと真正面から戦う「極寒気」などもあったが、そんな訓練は年に一度だけだった。
といっても軍生活は楽だったわけではない。軍生活の本当の苦しみは何度も言うように人間関係からきていた。
軍隊は基本的に閉鎖的な社会の上に、階級による縦社会だ。自分の上官が誰かによってまるで違う生活が待っているのだ。そして最初の頃は自分の上だけで何百人もいて、その中には頭のおかしな奴が必ず一人はいる。
幸いなのは部隊がいくつかに分かれていて、直轄の上官が良かったら多くの問題は解決できる点だった。イカれた先任(一般兵士中の上官)がいても、直轄の先任が守ってくれれば干渉出来ないようになっている。
しかし最悪と言うべきか、幸い中の不幸と言うべきか、私の直轄の先任はイカれた人ではなかったが力が弱く、私を守ってくれる人物ではなかった。そのうえ仕事も下手で習えることが何一つ見当たらなかったのが残念であった。とにかくそのおかげで、私は有名なイカれ野郎に思う存分イジメられた。
でもその先任は私より一年以上早く入っていたため、半年ほど過ぎたらいなくなっていた。
嫌な人物といつも同じ建物の中で生活しなくてはならないうえに、その人が上官の場合、歯向かう事も逃げる事も出来ない。それが軍隊の一番辛いところだった。それに先任とそりが合わないだけであれば、まだ先任が除隊するまで持ちこたえればいいのだが、同期がそうだった場合、自分が除隊するまで離れることはできない。
閉鎖的な社会と縦社会が共存すれば当然のように起こる現象で、これにより「イジメ」、「派閥争い」、「自殺問題」が起き、珍しいものだと「性犯罪」まで起きている。
それほど多くの問題が起きていることを知っていてなお、その制度を変えないのはどうしてだろうか。
それは「それが一番統制し易いシステム」だからだ。二十歳まで自由に暮らしていた子たちに急な軍生活をしろと言っても、大体は反発し適応できないだろう。だから統制された社会の中に閉じ込め、強制的に適応させるのだ。極めて効率的だと言えるだろう。
このような制度があるのは言うまでもなく隣国の北朝鮮のせいだ。
韓国は土地も小さく三面が海になっている半島だ。そのうえ今は理由も無く戦争を起こせばら世界的に攻撃を受けてしまう時代だ。だから実際のところ韓国はそれほど多くの軍人は必要ではなく、志願兵たちだけでも国防するには問題ないはずだ。
その全てが北朝鮮のせいで、今やミサイルをバンバン打ちながら韓国を無視している。そんな役にも立たない国を同じ民族と言い、食料を送っている今の政情はおかしいと思うのだ。
軍隊で最も厳しい訓練を考えたとき、真っ先に出てくるのが「遊撃訓練」と「極寒気」だ。実際はこの訓練より厳しいのもいくつかある(百キロ行軍、五週も妓戦争など)がそんな訓練は定期的でないうえ、人を選別してさせる場合が多いが、この二つは全部隊、全兵が参加する訓練だ。
遊撃訓練は夏に極寒気は冬にということで、軍生活で合わせて三回経験するのが普通と言われている。つまり夏に入隊したか、冬に入隊したかによって、何を二回するのかが決まる。運が良ければ一回ずつで済むが、運が悪いと両方とも二回経験するようになる。
韓国の就職活動において「新卒」という言葉は存在しない。なぜなら新卒だけをターゲットにした募集がないためだ。
企業は新卒生たちにあまり期待していない傾向がある。その理由は新卒生が即戦力になり難いというものだが、それは当たり前のことだ。そんな思考で社員をとっていると未来がないと言われるかもしれないが、そうしていることには理由がある。
それは現在就活中の経歴社員が山ほどいるからだ。人件費が垂直上昇中な韓国では人件費を減らすため機械を使うところが多くなり、失業者も増えている。
おかげで即戦力として使える経歴社員が増え、わざわざ一つずつ教えなくてはならない「新卒」をとる必要が無くなっているのだ。
早く成果を出さなきゃいけない、そんな風潮が現在の社会を作っている。
しかし、この風潮は昔から続いていたことで分かりやすい例を出してみよう。
韓国は今までノーベル科学賞を一度もとっていないが、韓国の論文や研究課題は世界的に見ても決して劣っているわけではない。その研究はほぼ全てすぐに使える、早く結果が出て実用可能なものたちだ。
長い目で未来を見て、投資し続ける器量が韓国には不足していると感じる。
こんなやり方ではいずれ人材が無くなり、立ち上がり難くなると思う。そうなる前に韓国も未来を任せられる若者たちを育てるために力を入れなくてはならないと私は思う。
軍隊は階級が上がるほど自由時間が多くなっていく。決められた時間外の仕事には大体新兵たちが呼ばれるし、古参は一人くらい監督役として付いておくくらいだ。
そんな自由時間をどう過ごすかによって軍生活を意味あるものにしたのか、無駄な時間にするのかが決まるが、当時の私はそこまで考えることは出来ず、ただ暇な時間をどうやって過ごすかをずっと考えていた。
私たちに与えられた選択肢は「電話」「テレビ(アイドル)」「運動」「勉強」「読書」くらいだった。
私はアイドルに興味がなかったため、テレビだけ見ながら時間を潰すことはなかった。私が選択したのは読書だったが、軍図書館は本の数が千冊もなかった。その本の中には既に読んだ本も半分くらいあって、残り半分も読みたくないものが多かった。結局、すぐ読み終わってしまった私は同期たちの誘いに応じ一緒に体作りを始めた。
運動嫌いだった私が軽く誘いに乗ったのには理由があった。それは体を作り海にナンパしに行こうと誘われたからだった。軍に入る前まで女性に興味も無かった私だったが、男だけの場所で二年近くいると自然に興味もわいてくる。今考えると体を作っただけの坊主頭がナンパ出来るわけもないのだが、その時まで女性を異性としても見てなかった私は周りがそう言うからそんなものなのだと思ってしまった。
しかし、そんな体作りも毎日の自由時間を埋めてはくれなかった。
筋力トレーニングは毎日するのではなく、適度に休息も入れながら行わなくてはならないからだ。
私は友人や先輩たちに電話をかけるようになった。
軍に入るまで様々な活動をしながら作っておいた人脈を暇つぶしに使い始めたのだった。しかし、単なる暇つぶしだと思っていたその時間が私を留学へと導くことになった。
後輩や友人たちとの電話は日常話で盛り上がるだけの時間つぶしで、それを目的としていたので満足していた。しかし、その時間がもったいないと思い始めたのは先輩たちとの電話によるものだった。
すでに兵役を終え、大学の卒業を目前にした先輩やすでに卒業して働いている先輩たちに暇だから電話したと言ったら「そうしていると後で後悔する」と言われた。私の親しかった先輩たちは大学内で成績も良く、技術も高いのでそれを習うために親しくなった人たちだった。そんな先輩たちが口を合わせてそう言っていた理由は一つだった。
それは就活に関して今から考え、準備しなくてはならないという事だった。
私が親しかった先輩たちは大体優秀な人たちだった。たしかに成績も良く、技術も優れていた先輩たちだったので就活に関しての問題はないだろうと思っていたが「ほとんど面接にも行けなかった」と言われた。
無論、最終的には誰よりも優れた技術を持っていた先輩たちは大企業に就職できたが、技術では無く成績が良かった先輩たちは有名な大学でない時点で書類を見てももらえなかったということだった。
先輩たちに聞かされた最低基準には言葉も出ないくらいだった。大企業で履歴書を見てもらうためには名門大学出身であることをベースにTOEICの点数は最低九百点以上が必要だと言われた。
はじめは私をからかうために嘘をついているのだと思っていたが、ネットで調べてみた結果、たしかにそれは事実だった。
今時就活が厳しいとは思っていたが、能力さえあれば何も問題ないと思っていた。しかし、社会はより高いスペックを求めていてその時の私はそこには当てはまらなかった。
危機感を持つようになった私は様々なことを調べ、準備し始めた。英語が苦手な私がいくら軍内で独学したところでTOEICで高い点数をとるのは無理だと分かっていたので、就活に役立つ資格を取ることにした。
エクセルやワードの資格、電算関係など様々な資格を取得した。そのために毎日のように勉強だけをした。間違いなく、人生で一番頑張って勉強をしていた時期だった。
毎日勉強をしていた私に一人の後輩がこんなことを聞いてきた。「それで先輩はどこの会社に行きたいですか?」と。その言葉で目を覚ました。私は現在の自分が今まで毛嫌いしていた「就活のために生きる人」そのものだったことに気づいてしまった。
私は小学生の頃、そんな人生は意味のない人生だと、私はそんな風には生きていかないと決めていた。しかし、いつも間にやら私もそんな人間になってしまっていた。もちろん、そんな生き方が間違っていると思っていた訳ではなかった。現実的だし、それが最も効率的な生き方だ。
だが私はそう生きたくなかった。自分のやりたいものを理解し、それを成し遂げるために頑張る人になりたかったのだ。
結局、その日をさかいに全ての勉強を中断し、考え始めた。
私がやりたいことは何か、私はどんな風に生きたいか——幸い、時間だけはたっぷりあったから。
をみるときにはどうも贔屓目で見てしまい客観的に自分を評価するのは難しい。しかし、軍隊という環境は今まで自分が持っていたものを全て置いて行く場として、俗世から離れた自分自身の本質を見られるところでもある。だからこそ軍隊に行けばかつての兄のように、そして私のように人が変わるとよく言われている。だが私が思うに軍隊で客観的に自分を見ることは難しいし、その必要もないと思う。
逆に軍隊は自分自身を「主観的に見返せる場所」だと私は思う。
自分の人生を生きる際、周りから自分がどう見られているのかを考えることはもちろん大切だ。しかし、自分がどんな人間で何をしたのかを自分自身で考えることが最も大事だと私は思う。
自分が好きなのは何なのか? を先に考えたと思う。
「あなたが好きなのは何ですか?」と聞かれたたら答えられない人が多いと聞いたことがあるけれど、私はそんなに悩まず答えをだした。
「本」「ゲーム」「映画」すなわちエンターテインメントだった。
「エンタメが好きじゃない人がどこにいるか!」と言われるかも知れないが、私がエンタメに持っている感情は単純に見て楽しむだけのものでは無かった。
「自分の物を作りたい」
エンタメを見る時、いつも思う。こうすればもっと良くなるのに、そうした方が良かったのではないか? と。それはただの「個人の趣味的観点」では無く、消費者を視野に入れてもっと売ろうとしてたら、もっと人気を得ようとしてたら、という確実な観点を持って考えていた。
勿論その製作者たちも色んな事を考えて作っているはずだし、自分の意見通りにして成功するとも限らない。しかし私は自分の物が作りたいと思い続けた。
でも、韓国のエンタメ業界はお世辞にも良いとは言えない状況だった。
出版業界は作家を尊重せず、ベストセラー作家が貧困で苦しんでいる状況であったし、ゲーム業界にはPTAの支持率を上げるために規制しようとする政治家がおり、金しか見ずソーシャルゲームばかり作っている会社によって未来がないと言われている状況だった。
その中、大衆の認識が悪くなかったのが映画で、だから私は映画学科に入った。しかし大学の先生や卒業した先輩たちの話を聞くと、韓国の映画業界は有名なチームたちが多くの仕事を独占している形で、新卒で就職するのは不可能だと言われた。新卒で、映画業界で働くには学生時代に多くの実績を残すか人脈を使うしかなく、多くの実績を残すにはバックアップが無い限り不可能に近いとまで言われた。
私はそんな業界に入れる自信はなく、仮に入れたとしても楽しく働ける自身はなかった。
そんな私が思い付いたのが、留学という選択だった。
「韓国の業界が悪いのならば国外に行けばいいじゃないか」と考え始め留学について調べ始めた。
私が考える中で、出版といえばイギリスと日本、ゲームといえばアメリカと日本だった。その中で日本なら両方の選択肢が用意されているし、既にある程度日本語を使うことができた私は、それほど悩まずに日本留学を決め、準備を始めた。
まず一人で留学方法や学費を調べ親を説得した。そして一人で留学試験を準備して日本の大学に合格し、ビザを発行した。
留学を決め、ビザを貰うまで半年もかからなかった。
そうして段々と留学準備をしている私を見た周囲の人々は「凄い決心をした」とよく言っていた。今まで通っていた大学を辞め、言語まで違う外国に留学するというのは大層突飛な行動に見えたのだろう。
しかし実際は、そんな事を言われている本人にとっては特に決心というほどの事をしたという認識はなかった。
通っていた大学では未来が危ういと思っていたので留学をせずとも元々辞めるつもりだったし、日本語はある程度使うことができ、大学でも日本語に関しての学科に志願したので後々伸ばせばいいと思っていた。
私にとって最善の選択をしたつもりだったが、何故か持て囃されて微妙な感情だった。
留学してもう四年。私は、大学卒業を目前にしていた。
大学生活中いろんなことがあったが、日本に留学し、日本で就職したいという考えは依然変わらずむしろもっと強くなっていた。
新卒を採用し、育てて戦力にしようとする日本社会の風潮も気に入ったし、社風や理念が気に入る会社も多くあった。
そんな私だが、最近こんな質問をよく聞くようになった。
「韓国に戻る気はある?」
「いつ帰るつもりか」とか「帰る気はないか」とか、言葉は違えども結局同じ質問だった。
そんな質問をされるたびに「帰る気はない」「一生日本に住むと思う」と返し、そのことに対して重く考えていなかった。
そんな中で私は卒業作品の制作に入り、この作品を書き始めた。
「いつか、また韓国」というのはネーミングセンスが無い私が悩んでいた時、担当の先生が考えてくれたタイトルだ。
実際私は韓国に帰るつもりはなく、このタイトルは格好いいからこれに決めただけだった。そんな気持ちで制作に入りフィードバックを受けるたびに言われたのがタイトルと内容が齟齬を起こしているという事だった。
タイトルを変えるか、内容を捏造しようかと悩んで先生と相談するようになった。
面談の場で先生は私にこう質問した。
「それで完全に韓国を捨てたの?」
その時私は、「そうではない」と即答した。それを聞いて先生は「それならいつか帰るかもしれないだろう」「今、なぜ戻りたくないか」「正直な気持ちを書いてみろ」と助言してくれた。
今私は、この作品の最後を書きながら自身に問うている。
「私は韓国に戻りたいか」と。
その答えは「今」は一つしかない。
でも「いつか」その答えが変わる日が訪れるかもしれないという「期待」を抱くようになった。
でも私は、その「いつか」が来るまでは日本で生活しているだろう。
2020年2月8日 発行 初版
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