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クリークヴァルトの秘密

加藤晃生

Kosmos



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クリークヴァルトの秘密

 スパイ、という言葉は遡るとラテン語のspecereに行き着く。見る、という意味だという。
 更に遡ると、インド・ヨーロッパ祖語で「スペク」というような発音が、見るということに結びついていたらしい。ここからは、英語のinspektとかspectacle、respcet、suspectといった言葉も生まれている。インド・ヨーロッパ祖語という考え方はかなり昔からあったけれど、ドイツ語の文法を研究していたヤーコプ・グリムという人が100年ちょっと前に、「グリムの法則」というのを発見して、それから研究が大きく進んだらしい。
 spyがいま使われているような意味で、つまり、対立する勢力の秘密を探るというようなことを指して使われるようになったのは、十三世紀のことだった。
 もちろん、敵の秘密を知ろうという努力は、たぶん、人間が人間と戦うようになってからずっと存在し続けただろう。王や貴族や聖職者の手紙をそっと盗み見る。あるいは、すり替える。正体を隠して敵の国に入り込み、見聞きしたことを持ち帰る。そんなことは、やって当たり前だ。
 だが、スパイが、この国はドイツ語を使っているからスピオン、またはスピオニンというのだが、これが一大産業となったのは、ここ五十年ほどのことだ。なにしろ、クリークヴァルト公国にまで、スピオンやスピオニンで稼ぐ人間が現れたのだから。
 ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国に挟まれた小国だったこの国は、最近になって隣国が変わった。国の位置が動いたのではなく、隣の国の名前が変わったのである。南にあったオーストリア=ハンガリー二重帝国は、十年ほど前にオーストリア共和国になった。裏山の向こうにあるチェコは、オーストリア=ハンガリー二重帝国から独立してチェコスロバキア共和国になった。北にあったドイツ帝国はホーエンツォレルン家のヴィルヘルム二世が戦争に負けて逃げてしまい、今は皇帝は居ないままだ。
 クリークヴァルト公爵殿下はヴィルヘルム二世も、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世も、あまり好いてはおられなかったから、あの二人が玉座を去ったことについては、「まあ、しょうがないだろう」としかおっしゃらなかった。
 ただ、クリークヴァルト公爵位を作ってくれたのは、フランツ・ヨーゼフ一世の先祖のフェルディナント三世だったかムオストリアに恩義は感じていたみたいだ。
 クリークヴァルト公国は、人口十万人ほどの小さな国だ。
 元々は「神聖ローマ皇帝の臣下の領地」という建前だったけれど、その神聖ローマ皇帝も1804年に居なくなってしまい、1867年にはドイツ連邦からも脱退して、どこの家来でも仲間でもない永世中立国となった。
 この時、イギリス、フランス、ロシア、オーストリア=ハンガリーが保障国となってくれた。つまり、これらの国が、クリークヴァルトは永世中立国なんだねと認めてくれたわけだ。プロイセンは良い顔をしなかったが、さすがにこれだけの国を敵にまわしてクリークヴァルトを攻め取るのは割に合わないから、知らん顔をしていた。公爵殿下はプロイセンのビスマルクやモルトケが嫌いだったし、向こうも公爵殿下のことは、気に食わないやつだと思っていたらしい。
 なにしろ公爵殿下は筋金入りの戦争嫌いなのだ。これは先祖代々の家風だという。
 戦争で他国を従えたり領土を削り取ったりするのが男の名誉だと思っているビスマルクやモルトケと話が合わないのは当たり前だった。向こうにも言い分があったらしいが、クリークヴァルトの国民の誰もが、正しいのは大公殿下だったとわかっている。なにしろ、あれだけ態度も国土もデカかったビスマルクとモルトケと愉快な仲間たちの国は戦争に負けて、ほとんど潰れたようなものだからだ。戦争などやるもんじゃないね、と、クリークヴァルトの老人たちは肩をすくめた。


 だが、クリークヴァルトに軍隊が無いわけではない。
 永世中立国というのは、他国の戦争には関わり合いになりませんよ、という宣言でしかない。その宣言をしていたら他国が攻めて来なくなるかというと、それは違う。だから、軍隊はある。
 あることになっている、ともいう。
 普段、クリークヴァルトの軍服を着て仕事をしているのは、せいぜい五十人くらいだ。だけれど、十八歳から五十五歳までのクリークヴァルトの国民は、年に二週間はお城に合宿をして、銃の撃ち方の練習をすることになっている。
 一応、みんな兵士だよということにしているわけだ。
 お城の合宿所の所長さんみたいな仕事をしているのは、ムオさんという。ムオ大佐。公太子妃殿下と同じ、東洋の天籟という国から来たらしいが、詳しいことはわからない。公太子妃殿下が嫁いで来られたのは、私が生まれる前のことだからだ。ムオというのが名字なのか名前なのかもわからない。お父さんの話では、ムオさんは公太子妃殿下と一緒にクリークヴァルトに来てから、しばらくどこかへ行っていたらしい。十年くらい。それからクリークヴァルトに戻ってきて、クリークヴァルトの国籍を取って、クリークヴァルト陸軍に入って、今では上から二番目に偉い人だ。
 一番偉い人は公爵殿下だから、ほとんど一番偉い人、と言ってもいい。
 東洋から来た、名前も生まれもよくわからない人が軍隊のほとんど一番偉い人になってしまう。いくら美男子の極みみたいな人だからといっても、普通そこまでのことは起こらないだろう。
 それが起こるのが、クリークヴァルトの凄いところなのだ。
 この国は大公殿下の家の方針で、やたらと開放的なのである。
 秘密というものが全く無い。
「こんな小さな国だ。わざわざ奪いに来るほどのものは何も無い。だから隠すことも無い。知りたきゃ手紙でも何でも送って寄越せば良い。何でも教えてやるから」
 そう言ってムオ大佐はにやりと笑う。
 あの美しすぎる顔で笑われると、たいていの女性は大佐に恋してしまう。だが、その恋は一方通行だ。
 ああ、そうだ。忘れていた。クリークヴァルトで唯一最大の謎がムオ大佐なのだ。ムオ大佐に果たして恋人がいるのか。これは誰も知らない。公太子妃殿下が聞いたら教えてくれるのではないかと皆で話し合っているが、公太子妃殿下は「ふふふ」と笑うだけだ。


 そろそろ私の名前も書いておこう。
 ラーレ・ハマーシュミット。二十一歳。郵便局で働いている。郵便局の雑用係。
 親は二人ともお城勤め。
 お父さんは陸軍でムオ大佐の秘書のようなことをしている。副官? まあ、雑用係だ、とかなんとか。ムオ大佐も「私は雑用係だよ」と言っているから、クリークヴァルト軍には雑用係が多いのかもしれない。
 お母さんは公太子妃殿下の女中。だから雑用係。
 雑用係が多すぎるハマーシュミット家か。
 だが、驚くなかれ、お父さんにもお母さんにも副業がある。
 お父さんはフランスのスピオン。フランス政府にクリークヴァルト公国のことを聞かれると、こうなってますよと手紙を書く。すると、フランス政府の誰かから小切手が送られてくる。金額はその時々で変わるけれど、多い時は1グルデンくらいになる。ちなみにお父さんの給料は月に4グルデンだから、大きい。
 お母さんはドイツのスピオニン。やっていることはお父さんと同じだ。ただしドイツはお金が無いから、送られてくる金額は少ない。フランスの半分くらい。
 こうやってちまちまとスピオンやスピオニンで貯めたお金は、お祭りの時に、みんなで使う。クリークヴァルトのお祭りは三月の復活祭、九月の建国祭、六月の夏至、十月の収穫祭、十二月の聖誕祭が大きい。
 建国祭というのは、ループレヒト・フォン・イスベルバシュ殿下がフェルディナント三世からクリークヴァルト公爵位をもらった記念のお祭りだ。それまで、この辺を治めていた貴族たちは、あまり良い領主ではなかったらしい。その領主たちからループレヒト様が土地を買い集めて、クリークヴァルト公国を作られた。ループレヒト様が来られた後は、戦争も無く、取り立てて豊かではないけれども、とにかく平和が続いてきたから、国民は皆、建国祭を本気で祝う。
 ちなみにムオ大佐は、お父さんとお母さんがフランスとドイツに情報を売っていることをご存知だ。というか、この三人はフランスやドイツから問い合わせの手紙が来るたびにそれを回し読みして、どんなことを教えてやろうかと話し合っている。
 嘘を教えれば、こいつは信用出来ないということで、問い合わせが来なくなるかもしれない。すると祭りで皆で飲み食いする費用が足りなくなる。かといって、全てを教えてあげるのもありがたみがない。人はありがたみを感じないとお金を払わなくなるからね、と、三人は笑う。だから、時々は耳寄り情報を送る。公太子殿下にお子様がお生まれになるとか。たまにはつまらない情報も送る。公太子殿下の飼っているインコが逃げ出したとか、公太子殿下の次女の猫が下痢になったとか。
 インコだの猫だのの話を送ろうと言い出したのはムオ大佐らしい。
 昔は真面目な人だったという噂もあるけれど、あ、今も仕事では真面目な人だけれど、仕事以外のところでは、悪戯っ子だ。それがまた、公国の女たちを惹き付ける。


 そんな三人のところに今回フランスから届いた問い合わせの手紙は、今までとはちょっと、いや、かなり違っていた。だからムオ大佐は苦り切った表情をしている。
 お父さんとお母さんはニヤニヤ笑っている。
「クリークヴァルト公国陸軍のムオ大佐に恋人はいるのか」
 これが今回の問い合わせだ。
「これは答える必要は無いだろう。無視しよう」
 ムオ大佐は平静を装いつつ、そう宣言した。
「いや、これはカネになりますよ」と父。
「最近、ドイツ人は金払いが悪くって。もうすぐ建国祭なんですよねえ」と母。
 二人の視線がムオ大佐に集まる。
 それ以外の人々の視線もムオ大佐に集まる。
 私の視線も入っている。
 クリークヴァルト公国政府に秘密は存在しない。最近では、フランスとドイツから手紙が届いたという知らせがあると、国中の暇人が中央郵便局に集まって来る。もはやスピオンとスピオニンは国民的な娯楽と化しているのだ。
「こればかりは秘密なのだよ」とムオ大佐。
 みんなの視線が、今度は公太子妃殿下に集まる。
 公太子妃殿下は次女のアンゼルマ様のお散歩中に、郵便局に立ち寄られたのだ。今年で三十七歳になられるが、どう見ても二十代である。お子様も四人もおられるが、嫁いでいらした時から美しさは増すばかりだと、これはおじさんたちが酒を飲むと三回に一回は出る話題だ。嫁いで来られる前、ヴェネチアで反対派の暗殺者に襲われたというのは有名な話だが、今やクリークヴァルト国民で公太子妃殿下のお写真を家に飾っていない者はいないと言われる。それくらい愛されている。
「ふふふ」
 公太子妃殿下が笑う。
 みんなの視線がムオ大佐に再び。
 ムオ大佐の表情が忙しく変化する。
「教えてあげたら?」
 ムオ大佐は、公太子妃殿下には絶対に逆らえないという。五歳の頃から殿下のお側に仕えていたらしい。みんなの期待が高まるのがわかる。建国祭で大通りで振る舞われる豚の丸焼きが三頭分くらい増えるかもしれないのだ。
「いや、姫様、そんなこと知っても全然、全然面白くない話ですから!」
「……大佐、話題を反らしてませんか?」
 お母さんの厳しい一言が大佐の退路に立ちふさがった。
「これは建国祭の費用の問題なんですよ?」
「そうだそうだ」
「大佐は優しい人だからな」
「あ、それ有名だよね」
「こないだジョージ五世が、クリークヴァルトのムオ大佐ほど心の広い男はいないって議会で演説したって話を新聞で読んだ」
「こないだリンツで昼飯食ってたら、となりの席に座ってた女学生たちが、ムオ大佐みたいな優しい人と結婚したいって話してた」
「俺はウィーンでそれ聞いた」
「私はザルツブルクで」
 みんなでムオ大佐を囃し立てる。
 ムオ大佐の目が泳ぐ。適当な嘘を書いて送れば良いのに、大佐は変なところで真面目だ。でも、こんな美男子が困っているところを見るのはゾクゾクする。だから、もうしばらく助け舟は出さないでおこう。
 と、その時だった。ムオ大佐は懐中時計を取り出すと、
「あ、姫様の猫に餌をやる時間だった! すいませんが後は任せました!!」と叫んで、郵便局から飛び出していった。
「逃げたぞ!」
「ずるい」
「猫の餌より建国祭のごちそうのことが大事だろ」
「でも姫様の猫ならしょうがないか?」
 みんなが公太子妃殿下を見た。殿下は「ふふふ」と笑った。
 かくして、クリークヴァルト国民対ムオ大佐の間に、諜報戦が勃発したのだった。


 クリークヴァルト公国諜報部の臨時部長に就任したのは、お母さん。
 気合いが違う。なんとしてもムオ大佐を追い詰めて秘密を暴こうという勢いだ。そこまで建国祭の豚の丸焼きを増やしたいのか。それとも別の理由があるのか。
 お母さんの下には十人の班長。全部、女。
 みんな、ムオ大佐で遊ぶのが楽しいだけなんじゃないかという疑惑が芽生える。
 各班長の下に六人の諜報部員。これも全部、女。ムオ大佐、どれだけ愛されてるんだ。
 今やクリークヴァルト公国の女たちがムオ大佐との知恵比べに突入している。
 お城、町のあちこち、放牧地、畑、山、鉱山。駅。市場。
 ありとあらゆる場所で女たちの目がムオ大佐を追う。
 ムオ大佐は平静を装っている。いつも通りの生活だ。お城の訓練所で、毎週やってくる国民の軍事教練を指導し、町に出てきて雑用をこなし、放牧地や畑や森を馬に乗って見回り、鉱山の事務所で坑夫たちにビールをおごり、駅で列車を見送り、市場で買い物をする。
 よく考えたら、フランスから妙な手紙が届く前から、ムオ大佐はクリークヴァルト公国の女たちの熱い視線を常に集め続けていたわけで、実は何も変わっていないんじゃないか。大佐の行く先々で、女たちが大佐の周りに集まる。ちなみに大佐の写真は町の写真館で売られている。写真館のオヤジさんが大佐とホイストをしたのだ。写真館が勝ったら、大佐は写真を撮らせる。大佐が勝った時に何をもらえることになっていたのかは、定かではない。大佐の写真は公太子妃殿下の写真とともに、写真館の看板商品になった。
 それにしても、大佐はよく働く。休みというものが無いようだ。国中のあらゆる場所に顔を出し、もちろん城では軍事教練という名でおじさんたちに運動をさせ、公爵殿下のご家族の護衛も取り仕切っている。
 これでは恋人など作る暇は無いんじゃないかな。
 ちょっと可哀想かもしれない。
 しかしお母さんたちは容赦が無い。
 毎週日曜日、教会で礼拝をした後に郵便局に集まって、先週の活動報告をしている。
 活動報告という名の、ムオ大佐話。女たちの間では、大佐の話題は尽きることがない。
 大佐。どんだけ愛されてるんだ。
 しかし、そうこうしているうちに、八月も三週目となった。建国祭まで一ヶ月。さすがに諜報部員たちの間にも焦りが見え始めた。
「やっぱりお相手はいないのかねえ」
「私、結婚早まったかも」
「大佐が結婚したら全クリークヴァルトの女が泣くよ」
「大佐は永遠に私たちのものって書いて送るとか」
「それ、意味わからない」
「いや、わかるよ」
「むしろ、わかれよ、フランス人」
「フランス人に大佐は渡さない」
「ドイツ人にも」
「オーストリア人にもな」
「チェコ人もだ」
 これは最近流行りの民族主義というやつなのか。ついにクリークヴァルトにも民族主義が来たのか。
「大佐は俺の嫁」
「訂正。俺たちの嫁」
「全クリークヴァルト女子の嫁、ムオ大佐」
「あんた旦那いるじゃん」
「旦那と嫁は別枠だから」
 本当に楽しそうだ。ムオ大佐はクリークヴァルトの女たちの人生にハリと潤いと艶を与えていると思う。


 事態が動いたのは八月の四週目の水曜日の夜だった。
 大佐の執務室は城の右翼の二階の端にある。宿舎は城の兵営の三階。でも大佐が宿舎に帰るのは、いつも深夜だった。
 その日の夜も、大佐の執務室の明かりは、消えることが無かった。お城担当の班は時折、庭から大佐の執務室の様子を伺っていた。カーテンがしまっているから中の様子はわからなかった、という。
 大佐の不在が発覚したのは、たまたまだった。抜け駆け、ともいうのか。
 お城班の一人、二十歳独身のクサヴェリアが、夜食を差し入れるという名目で大佐の執務室に突入したのである。だが、そこはもぬけの殻だった。いや、正確には三毛猫が一匹、大佐の椅子の上で丸まっていたらしい。
 三毛猫はクサヴェリアの顔を見ると、走って逃げた。
 直ちに追撃隊が組織された。もちろん追うのは大佐である。猫ではない。
 追撃隊の本部は、何故か私の家に置かれた。次々に女たちが集まってくる。みな、表情は生き生きとしている。ムオ大佐は国民的娯楽と化した。
 まずは各班からの情報が集められた。
 お城。二十時頃に見慣れない若い女が城門を出ていったとの報告が上がる。
「ちょっと、それってもしかして女装?」
「大佐が女装!」
「やだそれ見たい」
「何で早く言わないの!」
 女たちが色めき立つ。大佐らしき女は黒い地味な服に前掛けをかけて、左手には籠を持っていたらしい。右手にはカンテラ。頭にはつば広の黒い帽子。
「前掛けは外したかもしれない」
 「白いと目立つからね」
 「お城班! 城の周りを探して! 手がかりは無いか」
 慌ただしく女たちが三人、駆け出して行った。
 ループレヒト通り。お城から真っ直ぐに町中を突っ切る大通りだ。ここでは不審者の目撃情報は無かった。裏通りを使ったのか、放牧地や農地方面に脱出したのか。あるいは森か。うちの裏庭にかがり火が焚かれる。女たちが夜食だと言ってビスケットやパイを持ち込む。お父さんはとっくにどこかへ避難している。どうせ町の居酒屋に行ったんだろう。
 松明を持った捜索隊が次々に出発してゆく。放牧地と農地を探すのだ。森はさすがに危ないので、猟師のおじさんが連れて来られた。銃を持ってついて来いということらしい。気の毒に。
 町の居酒屋も一軒一軒、捜索隊が虱潰しに回った。女たちに踏み込まれて、何人もの男たちが引っ立てられていった。奥さんに隠れていけないことをしていたらしい。一体何をしていたのか。
 だが、町中ではついに大佐らしき女は発見されなかった。
 あとは、あるとしたら鉱山か、駅か、川か。駅が怪しいということで、捜索隊が派遣された。しかし不審者は見当たらなかった。
 深夜、捜索隊が次々に本部に戻ってきた。収穫は全く無かった。さすがは大佐。素人相手にしっぽは掴ませないか。
「こうなったら大佐が戻って来るところを捕まえて尋問するしかないね」
 お母さんが怖いことを言っている。もはや犯罪者扱いだ。
 諜報部の女たちによって、城の周囲に非常線が張られた。かがり火から立ち上る火の粉が、夏の夜空に吸い込まれていった。女たちの情熱とともに。
 それは、クリークヴァルト城の歴史で、一番熱い夜だった。

 朝になった。
 非常線に大佐は引っかからなかった。
 女たちは交代で仮眠を取っていたが、さすがに疲れていた。
 城の表門が開かれる。クリークヴァルト城の中庭には誰でも入ることが出来る。開かれた国だかムオ城班が早速、大佐の執務室と宿舎に向かう。やはり誰も居ない。宿舎の寝台は使われた形跡が無い。
「いない! やっぱりいない!」
 女たちが顔を見合わせる。
「でも、今日は大佐、お休みじゃないよね?」
「午後から教練があるから」
「じゃあ大佐が帰ってくるまで非常線は維持」
「絶対に捕まえて吐かせる!」
 お母さんたち、お仕事は、なんてとても怖くて言い出せない。大佐が帰ってくるまでクリークヴァルト公国の半分は麻痺したままだ。早く帰ってきて大佐。

 十時すぎ。リンツ方面からやってきた見慣れない馬車がループレヒト通りに入ったという情報がもたらされた。誰が乗っているのかは不明。でも、そこそこ良い馬車だという。馬車はループレヒト通りを通り抜け、城に向かっている。女たちが城に向かって走り出した。ハーメルンの笛吹き男って、あんな感じだったのかもしれない。
 馬車は城の中庭に入ったところで止まった。
 扉が開く。
 全クリークヴァルトの視線が注がれる。大げさか。
 やはり、降りてきたのはムオ大佐だった。涼しい顔をしている。
 次に馬車から降りてきたのは、東洋人とも西洋人ともつかない顔立ちの、しかし綺麗な婦人だった。
「ちょっと、あれ誰?」
「大佐の恋人?」
「あんな人、クリークヴァルトに居なかったよね?」
「いつの間に」
「クリークヴァルトの宝を外国の女に盗られたのか……」
「でもクリークヴァルトの女だったら内戦になってたかも」
 全クリークヴァルト女子がざわつく。
 違った。全クリークヴァルト女子、マイナス、一人。
「カスミ! 久しぶりですね」
 宮殿の正面入り口にいつの間にか公太子妃殿下が立っていた。ムオ大佐が婦人を殿下のところまで案内する。
「公太子妃殿下もお変わり無いようで」
「十年ぶりでしょうか?」
「前回お会いしたのは1911年にウィーンでしたから、ちょうど十年です」
「どうぞ、お入りになって」
 カスミと呼ばれた婦人は、公太子妃殿下の御友人らしかった。お二人が宮殿の中に消えた後、ムオ大佐は女たちに取り囲まれた。
「大佐、昨日はどちらにいらっしゃったのですか?」
 お母さんの声が聞こえる。
「昨晩はリンツで古い友人に会っていたんですよ」
 大佐の声。心なしか、勝者の余裕を感じる。
「大佐の恋人ですか?」
 お母さん……落ち着いて。
「違います。私もお会いしたのは十年ぶりなんです」
 中庭に安堵の空気が広がる。お母さんの声が再び聞こえた。
「大佐、一つだけ教えてください。昨晩、女装、してましたよね?」
 もう一つの核心に触れる質問だ。全クリークヴァルトが固唾を呑んで、大佐の答えを待つ。
 大佐はニヤリと笑って答えた。
「女装、得意なんですよ。昔から」
 クリークヴァルト城の中庭が阿鼻叫喚に包まれた。絶叫する女たち。みんな笑顔だ。足踏みしている人もいる。抱き合っている人もいる。ムオ大佐はやはりクリークヴァルト公国の宝なのだ。愛されてる。

 翌日、お父さんはフランスの誰かにこんな手紙を出した。

「前略

 お問い合わせの件ですが、ムオ大佐に恋人がいるのかどうかは、クリークヴァルト公国の最高機密事項らしく、私では調査不能でした。

その代わり、ムオ大佐の別の秘密をお知らせいたします。

ムオ大佐は女装が得意な模様です。どうやら、昔からやっているようです。

F.H」

 ムオ大佐、ごめんなさい。でも、クリークヴァルト公国に秘密は無いんだから、これも知らせちゃって良いよね。フランスから届く小切手の額面が楽しみ。豚の丸焼き、何頭分になるのかな。

<了>

クリークヴァルトの秘密

2019年12月7日 発行 初版

著  者:加藤晃生
発  行:Kosmos

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澤 俊之

NovelJam2018秋:鈴木みそ賞受賞。 NovelJam2017:優秀賞受賞。 もっぱらギター小説を書くようです

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