spine
jacket

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わたしのひと皿
あの人のひと皿

朝倉みなみ
滝田由凪
西村明花



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まえがきにかえて              姜 尚美   4


「実家に帰ってきたな」と思うひと皿     朝倉みなみ 9

わたしのひと皿……………………おつゆかけごはん/茶まんじゅうと缶コーヒー
増田起也さんのひと皿……………スーパーリベラルのコロッケ
入谷 心さんのひと皿………………よつ葉さんのおだしで作る唐揚げ親子丼



学生時代の忘れられないひと皿        滝田由凪  32

わたしのひと皿……………………かずえちゃんのタコライス
深谷はつみさんのひと皿…………叔父お手製の練り物とおでん
岩坪未希さんのひと皿……………のびのびの麺のちゃんぽんと揚げパン


「がんばるぞ!」というときに食べるひと皿  西村明花  50

わたしのひと皿………………………勝負メシのポトフ
大滝璃宇さんのひと皿………………元気メシの横浜家系ラーメン



著者略歴


まえがきにかえて               姜 尚美

 わたしたちの世界は「誰かが問わなければ語られることのない人生」で満ちあふれています。「問う」とは「聞く」、つまり「インタビューする」ということです。しかし、「インタビュー」という言葉に置き換えたとたん、多くの人が「インタビューとは語るべきことのある人がされるものだ」と考えるのではないでしょうか。著名な作家や成功をおさめたスポーツ選手ならいざ知らず、日々の生活や仕事、勉学に明け暮れている自分の話など語るに値しないのだと。

 いいえ、と答えたいと思います。語られるべきことは、問われることで立ち上がるものです。誰かが問いさえすれば、どのような立場の、何歳の人であっても、そこに必ずかけがえのない物語が現れます。時代や社会に翻弄されながらも生きながらえてきたその人の、まなざしやふるまい。「問う」前はたったひとりの経験や知恵であったことが、「問う」という行為を経ることで、わたしたち共有の財産となるのです。そこがインタビューの素晴らしいところです。

 本書は、京都造形芸術大学文芸表現学科の三名の学生が、「創作ワークショップⅨ」という授業の課題として取り組んだインタビュー集です。
 全体のテーマは、誰でも語りやすく、また問いやすい「食」を題材に選び、「わたしのひと皿 あの人のひと皿」としました。
 「人には誰にでも忘れられないひと皿がある。〈あの人だけが知っている味〉を〈わたしたちの味〉にしよう」というコンセプトのもと、学生たちには、さまざまな肩書を持つ方々から「思い出の味」とその背景に流れる半生を聞き出し、本来プライベートなものであるその味を読者と分かち合えるようなインタビューを目指してほしい、と伝えました。
 特に、「思い出の味を分かち合う」という部分を重要視し、読者も思い出の味を再現したり体験したりできるよう、レシピや店名を聞き出すことを条件としました。また、取材のアポイントメントを取る時やインタビュー現場である程度は緊張してもらいたかったので、インタビュイーには「なるべく自分から遠い人」を選ぶようにお願いしました。
 各学生の原稿は、それぞれ三部構成になっています。
 まず、学生自身が「わたしのひと皿」、つまり自分の思い出の味を掘り下げ、その味を読者と分かち合えるように取材しています。そして、自分の経験から「問い」(インタビューの動機)を導き出し、小テーマを決めるに至るまでの経緯を紹介しています(各自の原稿の扉ページにある一行目のタイトルがその小テーマです)。
 次に、「あの人のひと皿」、つまり小テーマに沿って選んだ一名もしくは二名の思い出の味についてインタビューを行い、「聞き書き」形式でまとめています。インタビュイーの生き生きとした言葉遣いを生かすため、録音したインタビュー音源の文字起こしも全て自分で行ってもらいました。また、インタビュイーの経験談を単なる思い出話に終わらせず、時代的・社会的にどのような背景があるのかを考察するべく、文献調査を行い、豆知識として挿入しました。
 そして最後に、インタビューを終えた後の所感を綴っています。
 
 一冊を通すと、「わたしのひと皿」と「あの人のひと皿」、合わせて計十数皿を紹介することができました。しかし、原稿が書き上がるまでには、想定外の事態に戸惑う学生たちの姿がたびたび見られたことも事実です。
 最初に挙げていたインタビュイー候補となかなか連絡が取れずインタビューをあきらめることになってしまったり、本番インタビュー前に行うヒアリングが思わぬ方向に転んでゆき、当初決めた小テーマが二転三転したり(これらはプロの現場でも頻繁に遭遇することです)。また、無事にインタビューが済んだ後も、音源を一字一句書き起こす文字起こしや、ノンフィクション特有の文献調査に苦労する様子が伺えました。本書での公開前、インタビュイーに原稿を見せた際にも、各自さまざまな反応や感触を得たようです。
 いずれにしても、自分の力で引き出したインタビュイーの生の言葉を、嘘いつわりなく、かつ鮮度を保ちながら、いかに読ませるかという点において、学生たちはプロに通じる真剣さと誠実さをもって取り組みました。そして、授業開始当初の目標字数であった三千字を軽く超え、全員が読み応え満点の原稿を書き上げました。
 
 インタビューとは、同じ時代に生きる「わたし」と「あなた」の間でのみ交わすことができる行為です。当然のことながら、この世にもう存在しない人にインタビューすることはできません。現在を生き抜く「わたし」という縦糸と「あなた」という横糸が絡まり、どの時代にもない「今」という色をたたえる織物が織り上がっていく手応え。「わたし」が問うことで「あなた」の物語が立ち現れる喜び。その「味」を、学生たちのみずみずしい筆致を通して、読者の皆さんと分かち合うことができれば幸いです。

                          二○二○年一月吉日

      (かん さんみ 京都造形芸術大学 文芸表現学科 非常勤講師、
                          編集者・ライター)

「実家に帰ってきたな」と思うひと皿

                       朝倉みなみ

わたしのひと皿
おつゆかけごはん/茶まんじゅうと缶コーヒー


 風邪をひくと、「おつゆかけごはん」が恋しくなる。おつゆかけごはんのおつゆとは、味噌汁のことだ。
 現在京都に下宿しているわたしは、自炊はするが、汁物を作ることは少ない。狭いキッチンでは、メインのおかずを作ってしまうと、二品目を作ろうという気になれないのだ。そのため、どうしても汁物が欲しい時は、インスタントの汁物をお供にする。しかし実のところ、スープは買うが、味噌汁はほとんど買わない。実家のものと比べて、味が濃いのが原因だ。朝倉家の味噌汁は薄味だ。

朝倉家の「おつゆかけごはん」。具は大根と刻みねぎ(撮影:朝倉みなみ)

 実家にいた頃、味噌汁は頻繁に食卓に並んだが、おつゆかけごはんを食べるのは風邪をひいた時が多かった。普段は「お味噌汁」と言っているものが、ごはんにかける時はなぜか呼び名が「おつゆ」になった。ちなみに我が家の味噌汁のレシピはこのような感じだ。まず鍋に一三〇〇㏄の水を入れ沸騰させる。そして風味調味料(「ほんだし」など)を一袋入れ、二分の一本分の大根も続けて投入する。あらかじめ、大根は扇形に切っておく(メインの具材はその日によって変わる)。大根に竹串が刺さるくらい軟らかくなったら火を止め、お玉ですくって半分くらいの合わせ味噌または麹味噌を溶いて、ひと煮立ちさせる。仕上げに、うま味調味料(「味の素」など)をふり、刻みねぎを散らせばできあがり。おつゆかけごはんにする場合は、レンジで温めたごはんをお椀に入れ替えて、あったかい味噌汁をかければ完成! お手軽で、喉を痛めている時でも食べやすい。ほかほかのごはんが味噌汁を吸って、さらにふっくらするのがたまらない。我が家の味噌汁は具が少なめだったけれど、大根とねぎだけのシンプルなのがまたイイ。溶き卵が入っている時もあったな。
 共働きのため午前中家にいられない母が、体調を崩した時でも、おつゆかけごはんなら子供たちだけで用意できるだろうと、よくごはんと一緒に味噌汁を作り置きしてくれていた。今でも心細くなると、食べたくなってしまう思い出のひと皿だ。
 ちなみにこのおつゆかけごはんに、「ねこまんま」という名称があるということを知ったのは、わたしが小学生高学年くらいの時のこと。初めて耳にした時は、世紀の大発見だとばかりに嬉々として母に報告したのだが、あっさりと「そうやで」と流されたのも含めて忘れられない思い出である。

 わたしにはもう一つ、大学の授業の課題に追われる夜に、どうしても食べたくなってしまう思い出のひと皿がある。それは「茶まんじゅうと缶コーヒー」。このセットである。

茶まんじゅうと缶コーヒーのコンボ。まさに罪の味(撮影:朝倉みなみ)

 わたしが茶まんじゅうに出会ったのは、小学生の頃。ある日、まだ数回しかおつかいに行ったことがなかったわたしに、母が茶まんじゅうと缶コーヒー(「ボス レインボーマウンテンブレンド」)のおつかいを頼んだ。のち、そのセットのおつかいはわたしの担当になった。母は、わたしの分も買えるようにと、お金をいつも多めに持たせてくれた。
 茶まんじゅうの正式名称は、黒糖まんじゅう。お茶の味がするわけではない。見た目が茶色で、中にはぎっしりとこしあんが詰まっている。この甘さたるや、まさに罪の味である。この茶まんじゅうを、微糖の缶コーヒーと一緒に頂く。罪に罪を重ねる。それらを二つずつ買ってきて、「おいしいね」なんて言いながら、母とお互いにその日あったことを話す。今日あったことや嬉しかったこと、時には悩みごとを相談したり。わたしには二人弟がいるのだが、缶コーヒーを飲むのはわたしだけだったため、その時間は母とゆっくりできる大切な時間であった。
 大学生になって、課題をするために夜更かしをすることが多くなった今は、特にあの罪の味が欲しくなる。茶まんじゅうは、近くのスーパーやコンビニに置いてあり(わたしの下宿先近くのコンビニにはレジの横に置いてあるため、非常に購買意欲をかき立てられる)、価格が八十六円前後とお得なので、つい手を伸ばしてしまうことが多い。缶コーヒーと合わせても二百円以内で収まるのは学生に優しい。ちなみに缶コーヒーは微糖がおススメ。特にボス レインボーマウンテンブレンドか、「ワンダ モーニングショット」または「ワンダ 金の微糖」が後味が残らず飲みやすい。頭を使えば使う程、頭には茶まんじゅうと缶コーヒーが浮かんでくる。しかしその度に、母からの忠告を思い出すのだ。
 「茶まんじゅうと缶コーヒーのコンボは下半身に(脂肪が)つくから気いつけてね」
 その食べ方を教えたのも母なのに、罪な人である。

 「『実家に帰ってきたな』と思うひと皿」というテーマは、わたしが先ほど挙げた思い出のひと皿を、京都に来てからも知らず知らずのうちに求めていたというエピソードからきている。たまたま、下宿先近くのコンビニで茶まんじゅうを見つけた時、実家にいた時と同じように無意識に缶コーヒーとセットで購入していたことから、思い出の味であることに気付いた。おつゆかけごはんに関しても、一人暮らしをして初めて風邪をひいた時、実家の味が恋しいと感じた。このようにふとした時に気付くような、何気ないが思い出のあるひと皿が、人それぞれあるのではないだろうか。そして思い出のひと皿には、その人自身のルーツとなるものがあるかもしれないと考え、今回は二名の方に話を聞いてみた。

 今回お話を伺ったのは、フォークシンガーである増田起也(ますだ たつや)さんと、京都精華大学二回生の入谷 心(いりたに ここ)さんのお二人。
 増田さんに出会ったのは、母に誘われ、増田さんのワンマンライブに行った時だ。快活なトークはもちろん、エネルギッシュな歌声が特に印象的だった。また彼は、後述するが歌手活動をするために淡路島から京都に来たという経緯があり、地元淡路島の思い出の味が聞けるのではと思い、依頼した。
 入谷さんはわたしの高校時代の同級生。お昼にゼリー系栄養補助食品しか口にしていなかったわたしのために(見かねて?)手作りのお弁当を持ってきてくれたり、お泊まりの時には手作りローストビーフでおもてなししてくれた思い出がある。作ることはもちろん、食べることが大好きな彼女に、思い出のひと皿を聞いてみたいと思った。

 それでは早速、一人目の増田起也さんからお話を伺っていこう!


増田起也さんのひと皿
スーパーリベラルのコロッケ


 はい! 増田起也です。出身は淡路島、兵庫県のね。一九九三年生まれの二十六歳です。肩書はね、「歌う人」。人から呼ばれるぶんには、なんて呼ばれてもいいんだけれど。例えば歌手とか、シンガーソングライターとか、フォークシンガーとかミュージシャンとか、アーティストとか何でもいいんやけど、僕的にはフォークシンガーか、歌う人。フォークシンガーって自分では思っているけれど、それはハートの問題かな。アーティストっていう程独創的な世界を持ってるわけでもないし、フツーの歌う人です。
 
音楽に出会ったのは中学生の頃

 音楽を始めたのはね、普通は誰かしらのレコード、CDを聴いて衝撃を受けてとかだったりするんだけど、僕の場合は『パッチギ!』っていう映画がきっかけ。沢尻エリカさんが出ててんけど、僕すごいファンだったのね。沢尻エリカさんがフルートを吹いてて、主人公役の塩谷 瞬くんがギターを弾いてる。その二人の、色んな青春物語。で、当時僕がお付き合いしていた方が吹奏楽部で、フルート吹いててん。ほいで、その映画を見た時に「あ、これ僕もギター始めなきゃ」と思って。そっから始めたの。だから別に、誰かの歌に衝撃を受けたとかではなくて、まあもちろん後々受けるんだけど、ほんとのきっかけは沢尻エリカファンってだけだった。そうしてギターを始めて、そのうちに彼女に振られ、ギターだけが残って。で、その映画で使われてた歌が、昔のフォークソングやったの。最初はそのフォークソングをカバーして練習してたけど、途中からもう自分で歌を作ろうと思った。それが中学校一年生の終わりくらいかな。学校にギター持っていって、その時に学校にギター持っていってるやつなんかほとんどいなかったから。放課後とかに弾いて、聞かしたら皆喜んでくれて、そこから歌っていきたいなあって思い始めたかな。
 その時から、歌うって決めてたから、高校を卒業したらそのために都会に出てこようと思ってた。最初は漠然と東京かなって考えててんけど、僕箱入り息子で可愛がられてたの。だからオカンに「とりあえず関西から行ったら?」って言われて、大阪か京都に行こうってなったの。結果、京都にある役者の専門学校に行くことになったから、京都に来ることになったん。

淡路島とコロッケとオカン

 僕は末っ子で、上に姉が二人おる。末っ子だけど、男一人で長男やから一番可愛がって育てられた。両親は共働きで、父親の方はトラックの運転手をやってたし、一週間のうち、ほとんど家にいないの。いても夜中とか、日曜日で寝てるとかだったから、家のことはほとんどオカンがやってた。もちろん、父親も何もしてないわけじゃなくて、一生懸命働いてたんやけどね。でも家のことはなかなか出来ないから、オカンが一生懸命ずっとやりよって。けどうちのオカンも働いてたし、介護の仕事やってんけど、仕事場から夜遅くに帰ってきて、帰り道に「リベラル」っていうスーパー寄って、そこでコロッケを買って、皿に盛りつけて、千切りのキャベツと出してくれてた時が多くて。きっと作ってる時間がなかったんやろね。他にもしないといけないことがいっぱいあるから。もちろん手料理はよく作ってくれてたんだけど、一番思い出に残ってるひと皿といえばこれ。僕ずっと「リベラルのコロッケ」って呼んでた。今はね、リベラルは無くなって、「マルナカ」っていうスーパーが代わりに出来たんやけど。リベラルのコロッケに、忙しいけど子供には食べささんとアカンっていうオカンの気持ちみたいなのが入ってたの。「こんなんでごめんよ」みたいな気持ちとか、今なら分かる気がする。だからその思い出が強いかな。
 コロッケはサクサク系だったな。けどレンジで温めてたから、すごくウェッティーなコロッケだったよ。「サクサク、だったんだよ~~」って言ってるような顔してたね。中身はジャガイモが多めだった気がするね。なんやったらジャガイモ、たまにひき肉ぐらいの比率やったんちゃうかな。甘めのコロッケで、とんかつソースをかけて食べてたよ。今でもふらっと立ち寄ったスーパーにコロッケがあると、つい見ちゃうもんね。それこそ「フレスコ」の「昔のコロッケ」が、リベラルのコロッケに似てたね。
 あとたまにね、オカンが早く帰ってきて「起也、今からリベラル行くけどついてくるか」って、二人で買い物に行ってそのコロッケを買って帰ってくるっていう思い出もある。やっぱりその時の風景というか、店の感じとか、そん時の空気とか、空がむらさきやったなとか、なんか覚えてるよね。向こうから車のライトがきて眩しいなとか、スーパーの中入ってカートを僕が押したがるから、押しとってこけたりとか。ほんで皆の前でものすっごい怒られたりとか。レジ通って、籠に詰める時とか手伝うけど、重いものより先に軽いものを入れて戻されたりとか、透明のちっちゃい袋に商品を詰めてる時の感じとか、結構思い出として残ってるかなあ。
 「もっと手作りのもん作ってたっちゅうねん!」ってオカン怒ってくるかもしれんけどね。意外とこういうお惣菜にも、色々と物語があるよね。

「リベラル」のコロッケに似ているという「フレスコ」の「昔のコロッケ」
(撮影:姜 尚美)

  ■スーパーと中食

 食料品などをセルフサービス方式で販売するスーパーマーケットは第二次世界大戦後、アメリカで誕生し、各国に急速に広まった。日本では昭和二十年代後半に初めて登場、「スーパー」という和製英語が定着した。当時、スーパーが日常生活に不可欠な存在になることを予想した者は少なかっただろうと言われている。しかし、スーパーは高度経済成長期に爆発的に浸透し、増田さんの生まれた一九九三年にはスーパーは生活に欠かせないものになっていたと思われる。
 スーパーでよく見かけるパック詰め総菜や持ち帰り弁当などで済ませる食事のことを「中食」という。「外食」と、家庭内料理の中間的な意味合いの言葉である。農林水産省によると、「中食産業」が統計に登場したのは一九八五年からとのことである。
 二〇〇〇年、財団法人外食産業総合調査研究センターより発行された報告書『新世紀の消費者中食行動 ー個人・主婦・シルバーからの三元アプローチー』の第五章「中食の品目別利用動向」によると、当時の主婦における惣菜類の利用率ベスト5の一位はコロッケ(七十二%)で、どの層にも万遍なく利用されている二位の餃子(六十三%)、若年層ほど利用率が高い三位の鶏の唐揚げ(五十七%)に対し、コロッケは世帯成長後期(親と子供世帯)での利用が多かった。一方、第三章「揚げ物の調理状態別利用状況」によると、コロッケは専業主婦、有職主婦を問わず、手作りと完全調理済み食品の割合の差が少なかった。
 つまり、増田さんの母はスーパーのコロッケを食卓に出す時、申し訳なさそうだったと語ってくれたが、当時、外で働いているかどうかは関係なく、世のお母さんたちは市販のコロッケも活用しながら日々の食事を支えていたと考えられる。

僕は「歌う人」

 今は、週五日で介護のお仕事をしてる。介護のお仕事いいよ。デイサービスの利用者さんってほとんど七十代以上なんやけど、利用者さんたちの人生の最後の最後らへんに携わることが出来る。結構かけがえのない時間を過ごさせてもらってるし、生きるってすごいなとか、家族大事にせんとあかんなあとか思うしね。
 音楽活動は仕事帰りとか、土日にしてるかな。歌う時に気を付けてることは、一対一で聞かせるつもりで歌うこと。僕がほんまに思って書いたこととか、僕が救われた言葉たちを自分を通して歌にして、誰かに届けて元気になってもらえたらなって思う。例えば誰かが、日々に疲れてもう飛び降りてしまおうとか考えてた時に、頭のどこかで僕が歌ってた姿であったりとか、ライブのパフォーマンスであったりとか、そもそも歌の歌詞とかメロディーとかを思い出して、ちょっと笑ってくれて、「ああやっぱもうちょっと生きてみよう」とかって思ってくれたら一番うれしいなあってずっと思って歌ったりしてるかな。だからずっと一対一で歌ってる気分。そうやって、いろんな人に僕の歌が届くように頑張りたい。

入谷 心さんのひと皿
よつ葉さんのおだしで作る唐揚げ親子丼


 ジンジャーエールが止まらん︰︰︰。緊張してる。入谷 心です。京都精華大学の二回生です。出身は京都府の京田辺市で、今は大学の近くでルームシェアしてる。学科は来年に、建築学科から造形学科の日本画専攻に転学科することにした。大学に入る前は、高校の時から描いてきた日本画を好きでいるために、あえて全然ジャンルが違う建築の方で頑張ろうと思ったけど、結局やりたいことやっちゃう。だってテスト勉強してる時って、すっごく絵描くもん。お菓子作ったりとかもそう。現実逃避に好きなものを持っていくと、ずっとやってけそうやなって思ってん。けど、結局日本画をやってる時間が無くなった。部屋も狭いし。あんなに場所が必要な分野やのに(日本画の作品自体が大きいことと、自分の作品を離して見る必要があるため)、環境も整ってへんから。「あ、無理や。ちゃんとやろう」と思って転学科しようってなった。

美術はママの影響

 ママが美術の高校通ってて、その作品が家にあった。日本画と漆、あと染めものとか、日本っぽいことしてたみたい。で、わたしも絵描くの好きやったし、美術系の高校に行こうと思って、中学からデッサン始めてん。それで美術科がある高校に合格して、絵画コースっていう油絵と日本画を専攻するところで日本画は描いてた。ママが学生の時に、買ったけど使わなかった絵の具一式もらったりとかして。
 なんか、いつまで経ってもママっ子やわ。ちっちゃい時にママと喧嘩して、家の壁に鉛筆で「ママごめんね」って書いて、許してもらったけど「これ綺麗にして」って言われたから消しゴムで消して。でも下にカスがたまるやん。だからまた「掃除して」って、もう何やっても怒られてる。

実家の味はよつ葉さんのおだし

 よつ葉さんは昔から頼んでたかな。「よつ葉のだしの素 うすくち」っていう、しょうゆだしみたいな調味料が子供の時からあったし。わたしは「よつ葉さんのおだし」って呼んでる。結構大きいペットボトルに入ってて、一人暮らしを始めてから持たせてもらったけど、なかなか使い切れへん。あっ、よつ葉さんっていうのは、「よつ葉ホームデリバリー」っていう、新鮮な地域の食材とかを送ってくれるところ。週一で送られてくるカタログから食材を選んだら、家まで届けてくれんの。
 うちでは、料理のレシピの材料欄にしょうゆとみりんって書いてあったら、よつ葉さんのおだしとみりん入れる。ママが基本しょうゆを使う料理にはこのおだし入れてたから、実家の味ってよつ葉さんのおだしのイメージある。その中でも印象的なのは親子丼かな。レシピは一人分やとね、まず六十gの鶏肉を一口大に切っておく。で、よつ葉さんのおだし二十㏄とお好みで玉ねぎをフライパンに入れて、ひと煮立ちしたら鶏肉を入れる。ここで味見をして、味が濃ければ水を、薄ければおだしを足す。ある程度水分が飛んだら溶き卵を回し入れて、卵が固まるのを待つ。その間にお碗にごはんを入れて、卵が好きな固さになったらごはんにのせて完成。わたしはねぎ嫌いやから自分でかけへんけど、ママが横から「彩り」って言ってタッパーとかに入ってるねぎをぺっぺって入れてくる。冷蔵庫に唐揚げが残ってる時は、それを切って親子丼にしてくれる。唐揚げ二個を四等分にして、唐揚げが小さい時は半分に切って、さっきのレシピの鶏肉とおんなじタイミングで入れるだけ。気持ち的にはかつ丼みたいな。衣にだしがしみ込んで、軟らかくなったのが美味しいんよな。
 一回ママに「料理教えて」って頼んだことあるんやけど、「そんなん全部一緒やで」って言われて。甘辛い炒め物とかああいうのも「こんなん全部一緒やけどなあ。どぼどぼどぼどぼ。はい」みたいな感じで。うちはそんな感じ!

  ■ホームデリバリーの成り立ち

 入谷家が利用しているよつ葉ホームデリバリーは、「関西よつ葉連絡会」による食品および日用品の会員制宅配サービスである。関西よつ葉連絡会は、「有機農業運動」と「食品公害追放の消費者運動」が高まりを見せていた一九七六年、安心・安全な食べ物と生活用品を届けるべく、大阪に生まれた。
 有機農業運動は、一九七○年代前半、食品添加物や農作物の残留農薬の危険性から「食の安全性」を求める消費者と無農薬・無化学肥料栽培に取り組む生産者の中から起こった運動である。食の安全性というものが注目されるようになった背景には、二大食品公害と呼ばれる一九五五年の「森永ヒ素ミルク中毒事件」と一九六八年の「カネミ油症事件」の影響もあるだろう。
 この有機農業運動により、消費者と生産者が直接農作物を取引する「提携」という方法が生まれた。また、消費者の多い都市部では、近所で仲間を三~五人集めて「班」という組織で一括購入する、「共同購入」というシステムが確立された。しかし現在は、少子高齢化や女性の社会進出によって、共同購入に代わって個人に配達する「個配」が伸びている。そのため、よつ葉ホームデリバリーのように、個配が核となる組織が増えている。
 関西よつ葉連絡会は自前の農場と食品加工工場を持っており、有機農産物・無添加惣菜にこだわっている。入谷さんは、津軽産直のりんごをまるごと搾り、添加物・香料を使わずに作られたりんごジュースも美味しいとおススメしてくれた。

入谷家御用達の「よつ葉のだしの素 うすくち」。写真は大阪府高槻市にある「自然館 グリーンプラザ店」で購入したもの(撮影:朝倉みなみ)

 現在の配送地域は近畿県内。また、会員にならずとも、商品を買い求められる「よつ葉のお店」が大阪府高槻市や、京都府木津川市、兵庫県川西市など計七ヶ所にあり、入谷さんに教わった、よつ葉のだしの素 うすくちを購入できる店舗もあるようだ。

それぞれの食卓

 今回は「『実家に帰ってきたな』と思うひと皿」をテーマに話を聞かせて頂いた。そして分かったことは、家の食卓にはそれぞれの家庭の工夫がみられるということ。調理する食材に気を遣う家庭や、お腹を空かせた子供たちにいち早く食事を用意するため工夫をする家庭など、形は様々だ。また、食卓の多様化の要因である、少子高齢化、女性の社会進出などの社会の変化に応じて生産者の在り方も変わってきていることがうかがえた。安心で安全な食べ物を求めた消費者の思いと、それに応えようと邁進した生産者によって、今の多様な形が生まれているのだろう。
 
 そして、スーパーのコロッケにも、我が家定番の調味料にも等しく、食事を用意する家族の愛情が感じられた。食べ物を通して伝わってきたものは、きっと簡単に忘れられるものではない。どこで、誰と、どのようなシチュエーションで、何を食べたのか。振り返ってみると、現在の自分のルーツになっているものが思い浮かぶかもしれない。
 あなたの思い出のひと皿は、一体どんな食べ物だろうか。

〈参考文献〉
■スーパーと中食
建野堅誠『日本スーパー発達史年表』創成社、一九九四年、一頁
『日本大百科全書(ニッポニカ)』より「スーパーマーケット」(ジャパンナレッジLib)〈https://auth.japanknowledge.com/auth/login/login/jk_lib/〉二〇一九年十一月二十八日閲覧
朝日新聞(一九九八年九月三日)より「中食(ことば)【大阪】」(朝日新聞記事データベース 聞蔵Ⅱ)〈https://database.asahi.com/index.shtml〉二〇一九年十二月六日閲覧
『新世紀の消費者中食行動 ―個人・主婦・シルバーからの三元アプローチ―』財団法人外食産業総合調査研究センター、二〇〇〇年、四、四十四、四十五、七十九頁

■ホームデリバリーの成り立ち
三田村蕗子『お届けにあがりました!』ポプラ社、二〇〇六年、七十七〜八十六頁
舩戸修一『サステイナビリティ研究』一巻より「共同購入から見る『有機農業運動』の現在 ―消費者グループ『安全な食べものをつくって食べる会』を事例として―」、二〇一〇年、一八〇頁
「関西よつ葉連絡会」〈https://www.yotuba.gr.jp/〉二〇一九年十二月十七日閲覧
中国新聞(二〇一五年九月十日朝刊)より「民の70年 第2部 歩んだ道〈3〉食品公害」〈https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=184401&comment_sub_id=0&category_id=640〉二〇一九年十二月十七日閲覧

学生時代の忘れられないひと皿

                       滝田由凪

わたしのひと皿
かずえちゃんのタコライス


 修学旅行で沖縄に訪れた高二の夏、初めてタコライスを食べた。
 民泊(個人宅などの住宅に泊めてもらうこと)でお世話になった家の「おばぁ」(沖縄の方言でおばあちゃんのこと)であるかずえちゃんの手作りタコライスがとてつもなく美味しくて忘れられない味になった。かずえちゃんが作るタコライスは、育ち盛りのわたしたちがお腹いっぱい食べられるように、宴会に出てくるような大きな皿に盛りつけてあった。今流行りのみんなで分けながら食べるワンスプーン料理だ。
 とにかく世話好きなかずえちゃんは、他にも、ゴーヤーチャンプルーやサーターアンダギーなどいろいろな沖縄料理を作ってくれたのだが、一番思い出に残っているのは、やはりタコライス。レタスをご飯の上にのせて食べるというインパクトと、ミンチ肉とくし切りにしたトマトの旨味、それに負けないチリソースのピリ辛感、程よく溶けたチーズがその辛さをまろやかにしてくれるので、辛いものが苦手なわたしでもパクパクと食べられた。

かずえちゃんのタコライス。2017年の修学旅行中のスナップ
(撮影:滝田由凪)

 修学旅行から東京に帰ってきたあと、もう一度食べたくなり、母にかずえちゃんのタコライスのことを話したところ、知り合いの沖縄出身の方や近くの沖縄料理屋さんの方などにレシピを聞き、再現しようと走り回ってくれた。何度も試行錯誤した結果、本家に近い味、つまりかずえちゃんのタコライスを再現することに成功。東京にいながら、いつでもかずえちゃんのタコライスを食べることができるようになった。しかも、大きな皿ではなく一人用の皿で、トマトは扱いやすいプチトマトに、そして辛いものが苦手なわたしの為にチリソースを使わないようアレンジしてくれた。「滝田ママ直伝、かずえちゃんのタコライス」だ。
 そのレシピを紹介しよう。材料は、レタス半分にプチトマト適量、ピザ用チーズをかけたい分だけ。合びき肉適量、ケチャップ、ウスターソース適量、ご飯一合分。作り方も、とても簡単。平らな皿を用意し、そこにご飯をのせる。合びき肉はケチャップとウスターソースで炒める。レタスを千切りにし、プチトマトを食べやすい大きさにカットする。そして、ご飯の上にレタス、肉、トマト、チーズの順にのせ、電子レンジで温める。チーズが溶ければ完成だ。

 わたしのタコライスの記憶のように、学生時代の様々な思い出は、大人になってもなぜか鮮明に覚えているもの。良い思い出も嫌な思い出も。食に関する思い出もそうなのではないだろうか。例えば、好きな食べ物の話は、なぜ好きなのか、いつから好きなのかなどそれだけで会話が弾む。
 これら二つを掛け合わせてみたら、どんな話が飛び出すのだろうか。学生の舌は、大人になる前の舌。その舌で感じた味は、現在のその人の味覚を構築しているもの、食のルーツに繋がるものかもしれない。そう考え、今回のテーマを設定した。そしてインタビューする相手は、すでに大人になっている人、つまり二十歳以上の方に絞ることにした。
 深谷(ふかや)はつみさんは、わたしが小四から高三まで通っていた書写教室の先生。雰囲気がふわふわとした可愛らしい方で、いつも優しく丁寧に教えてくれた。高校を卒業してからなかなか会う機会がなく、とても会いたかったし、自分の近況報告もかねて連絡を取ってみようと思った。
 岩坪未希(いわつぼ みき)さんは、現在進行形でお世話になっているアルバイト先の上司。大学入学と同時に一人暮らしを始めたので、頼れる大人が一人もいない中、初めて親しくなった何でも話せる大人だった。仕事をする上でも、憧れの存在である岩坪さんだからこそ、もっとプライベートなところも知ってみたいと考え、取材させていただいた。

深谷はつみさんのひと皿
叔父お手製の練り物とおでん


 東京都豊島区にある実家で、母が書道教室を開いていて、わたしも小一の時から習っていました。
 高校に入ってからは母の先生の教室に通って、その頃から将来は書道の先生になりたいと思っていて。大学は国文学科に進んで、書道教員の免許も取りました。でも、教員にはならずに一般企業に就職しました。
 その後、結婚して、子育てして。書道の先生の夢からは離れてたんだけど、両親が他界して、次女が中学生になった時、やっぱり書道教室を開きたいと思って。その頃、公文(公文式と呼ばれる自宅やビルの一室で開かれる塾。国語や算数、英語などを教えてくれる)でも書を教えてたのね。だから、すぐに説明を聞きに行って、教室を始めました。

叔父と練り物

 思い出のひと皿は、叔父の練り物とおでん。
 母方の親戚に練り物を作っている叔父がいたんですよ。
 十条銀座で練り物屋さんをやっていて、練り物とかおでんを作って売ってたんだけど。
 母の書道教室でも、冬はストーブの上に叔父のおでんが入った鍋が置かれてて、通ってる子供たちに食べさせたりしてました。
 わたしも小学生の時まで食べてた記憶はあるけど、中学の頃にね、亡くなっちゃったので︰︰︰。
 多分、三十五年くらい前まではやってたと思う。息子夫婦が継いだんだけど、長男も早く亡くなっちゃったんだよね。だから、職業病なのかなと思うくらい重労働なのかなって、全部一からやらないといけないし。
 月に一回くらいだったと思う。そんなにたくさんは、行ってないと思う。でも、よく覚えてる。もっと行ってたのかもしれない。だってその叔父さんがいっぱい作ってたんだもん。作ってるところが記憶にあるんだもんね。
 お魚をすりつぶすところから全部手作りしてて、あれ以上のものに今まで出会ったことがないくらい美味しかったの。
 味もそうなんだけど、叔父が作っている姿がすごい思い出せる。ずっとね、こねてて︰︰︰腰が曲がっちゃってた。もう職人さんだよね。すごい優しい叔父だったから、行くとおでんをたくさんごちそうになって。ひと皿というより、たくさん食べたの。
 やっぱり揚げ物が一番美味しかったんだけど、つみれが一番好きだったのね。
 イワシをすり身にして小骨とかたくさん入ってて、その時は何の材料かわかんなかったけど、よく覚えてる。美味しかったから、きっと揚げたてをいつも食べてたのね。

  ■練り物とは何か

 深谷さんのお話に出てきた、叔父さんが作る練り物。練り物と言えば、かまぼこやつみれが代表的だが、そもそも原料は何なのだろう。
 練り物やかまぼこに使われている主な魚は、エソ、スケソウダラ、ヒラメ、イワシ、グチ、ハモなど。元々は、ナマズやタイ、スズキ、アワビなども使われていたが、漁獲量の減少とともに、スケソウダラのすり身などが使用されるようになる。また、練り物は「足」が命と言われている。足とは、練り物やかまぼこ特有のぷりぷりした弾力のこと。なぜ、このような弾力のあるものになるのか。
 魚肉に塩を加えてすりつぶすと、筋繊維からアクトミオシンというたんぱく質が抽出され、それが絡みあうと粘度の高いすり身になる。それを成型し加熱すると、たんぱく質が凝固する。これが練り物の弾力を作り出している。冷凍保存という概念がなかった時代に、魚を保存しようと塩を加えたことから偶然生まれた食感なのかもしれない。

匂いの記憶

 叔父さんはずーっと店の厨房で生活してるから、叔父さんに会うと、練り物の匂いがした。
 匂いって記憶に残るんだよね。この匂い、なんだか嗅いだことあるって。
 鎌倉に行った時も、わざわざ「井上蒲鉾店」っていうかまぼこ屋さんでおでん食べた(笑)。駅前にある結構有名なお店で。社会人の時も東京の日本橋にある「お多幸」っていう有名なおでん屋さんに行ったり。本当は関西とか行った時も食べてみたらいいんだね。違う味をね。
 十年くらい前に、知り合いの公文の先生が中板橋にいらしたから、「太洋かまぼこ店」という練り物屋さんで、よくおでん用の練り物を買ってた。近所は、あそこしか知らない。最近は練り物屋さんがないので、あの味には出会わないのよね。

  ■消えゆく練り物の店

 深谷さんの叔父さんの練り物屋さんは、残念ながら現在、営業していない。
 叔父さんのお店のように、手作りの練り物を売ったり、その練り物を使ったおでんをその場で食べさせる店は年々減っているようだ。
 そんな中、今回のインタビューで深谷さんが教えてくれた貴重な店を三つ紹介しよう。
 一つ目は、鎌倉市由比ガ浜に本店がある「井上蒲鉾店」。深谷さんが鎌倉に行った際に匂いにつられて、思わず立ち寄った鎌倉駅前店は、一階がかまぼこ屋さんで、二階が食堂になっている。ネット通販もやっているので、お取り寄せも可能。
 お次は、中板橋にある「太洋かまぼこ店」。わたしの地元にある練り物屋さんで、お店の外でおでんを煮ていて、前を通ると練り物の匂いと出汁の匂いがする。ビニール袋に定番のおでんの種と出汁が入った持ち帰り用のおでんセットも売られている。幼い頃から前は通っているのだが、買ったことがないので地元に帰った際、買ってみようと思う。
 最後は、深谷さんが社会人時代に行っていた「日本橋 お多幸本店」。大正十二年創業のおでん屋さんで、関東風の甘辛い出汁が特徴的だ。出汁が染みた豆腐を、茶めしの上にのせて食べる「とうめし」と呼ばれるメニューや、トマトを丸ごとおでんにしたものがあったりと一風変わったおでん屋さんである。



岩坪未希さんのひと皿
のびのびの麺のちゃんぽんと揚げパン


 出身地は、奈良ですね。大和高田市ってとこで、高校も奈良。部活はやってなかったですね。バイトしてました。でも、習い事はしてて、日本舞踊習ってた。小四から高三まで。土曜日に週一やったんやけど、発表会とかあって︰︰︰意外でしょ(笑)。元々、おばあちゃんといとこが習ってて、そこの先生が市の無料体験教室みたいなのを週一で開くから来ないかと誘われて、本当は小六で終わりやったんやけど、若い子で続けてくれる子がいないから、お稽古料いらないので続けてくれないかと言われて、友達と高三まで一緒に行ってたの。わたし、小学校の時、習い事いっぱいやってて、日本舞踊、ECC(子供の英会話スクール)、バドミントン、習字、スイミングに行ってた。でも、遊ぶ時間なかったから、ちょっとずつ減らしていった。


思い出のひと皿ですか、あれがいいですか(笑)

 思い出のひと皿と言えば、麺ののびたね、給食ののびのびの麺のちゃんぽんと揚げパンかなって思った。両方とも小学校だけど、中学からはお弁当だったので。ちゃんぽんは、うっすいにんじんとコーンとピンクのかまぼこ? あと、汁と白菜と麺かな。くったくたの、おかゆかな、かろうじて形残ってるねみたいな麺で、お箸ですくいにくいほどのびたちゃんぽん食ってたなと思い出した。
 味は、ちゃんぽんですか? みたいな感じ? さっぱりしたとんこつ風で、ちゃんぽんと言えばちゃんぽんだけど、「ちゃうっちゃちゃう(違うといえば違う)」って感じ。美味しかったけども(笑)。
 うちの小学校、千人おってその生徒分作らないとだから、学校にある給食室で作ってたんだけど、給食のバケツにぱんぱんに入ってた。献立のスープの位置づけがちゃんぽんで、小さいお皿に入ってた。ちゃんぽんの日の献立は、副菜とおかず、ご飯かパン、ちゃんぽんだったかな。ちゃんぽんの日はね、皆割とおかわりに並んでた。家では絶対に真似できない味だったし。

  ■自校式給食

 岩坪さんが通っていた小学校のように、校内に給食室があり、そこで給食を調理し、且つ学校専属の栄養士が献立を考える独自の給食方式を「自校式給食」という。
 「食べ残しほぼゼロ」を誇る兵庫県芦屋市の場合、日本で給食が始まった昭和二十年代から「温かいものは温かく、冷たいものは冷たく」つくりたてを味わってもらえる自校式給食を採用している。各校に一名専属の栄養士がいて、独自メニューを展開しているほか、給食時間になると、栄養士が各クラスを回り、子供たちの意見に耳を傾ける。子供たちが授業で習った世界各国のメニューなど、好奇心や探求心を育てる献立作りは当時全国的にも珍しく、モデル地区にもなった。

揚げパンのお供

 揚げパンも美味しかったな。コッペパンにきな粉と砂糖まぶしてあるやつで、クッキングシートみたいな紙がついてきて、それを自分らで包んで食べてた。揚げパンが出る日は人気あったね、おかわりができるように、皆休んでって思ってた(笑)。揚げパンの日も、スープとおかず、副菜はあった。よく覚えてないけど。あと、牛乳ね。でも揚げパンの日はね、「ミルメーク」が多かったかも。牛乳に溶くココアみたいな粉末。基本的には、牛乳だけやけど、たまについてくるミルメークが美味しかった。

  ■揚げパンの作り方

 岩坪さんの思い出の味、揚げパンは幅広い世代で人気の給食メニューだ。給食用の牛乳を全国の学校に提供し続けている、株式会社明治のホームページに掲載されていた「昔なつかし3色揚げパン」の「きな粉味」のレシピを引用してみる。
 コッペパン一本に対する材料は、うぐいすきな粉小さじ二、砂糖小さじ一と二分の一、そして揚げ油。揚げ油はパンの表面を揚げるのみなので少なめで大丈夫。
 作り方は、まずバットにきな粉、砂糖を入れて合わせておく。次に、コッペパンが入る大きさのフライパンに油を二、三㎝くらい入れ、二百℃に熱する。そこへコッペパンを入れ、(箸などで)くるくると回しながら約一分揚げる。表面がカリッとしたら取り出し、油をよく切ってからきな粉と砂糖が入ったバットに転がしてまぶせば完成。
 ちなみに、揚げパンなど懐かしの給食メニューは「個室居酒屋6年4組」という居酒屋さんでも食べられる。そして、ミルメークは大手通販サイトで販売しているので、是非揚げパンのお供にいかがだろうか。

味覚の授業

 「甘い、辛い、しょっぱい、酸っぱい、苦い。『おいしい』にはいろんな味わいがあることを、舌で体験してほしい。いますぐにわからなくても構わないんです。大人になったときに舌の記憶が頼りになり、何を選んで食べたらいいかが自然とわかるようになります」
 これは、『おうちで給食ごはん 子どもがよろこぶ三つ星レシピ63』で佐々木十美さんという北海道の置戸町で栄養士をやっていた方が書かれた文章から一部抜粋したもの。
 わたし自身も、かずえちゃんのタコライスを母に再現してもらう時、何度も沖縄で食べたあの味を思い出して「なんか違う、もっとこうだった」などと口にしながら作ってもらっていたし、一人暮らしを始めて、タコライスを自分で作る時、今度は母流のタコライスの味を思い出しながら作ったのを覚えている。深谷さんも、小学生の時に記憶した叔父さんのおでんの匂いを求めて大人になった今もおでん屋さんを巡っているし、岩坪さんものびた麺のちゃんぽんの美味しさを鮮明に記憶していた。
 小学生の頃の味覚は幼い。好き嫌い、食わず嫌いも多い時期だ。
 食わず嫌いの典型的な例だが、わたしは、家では魚料理を、好き好んでは食べなかった。が、ある日給食で出てきた子持ちシシャモのフライを食べ、「こんなに美味しい魚があるのか」と好きになった。今でもスーパーなどで見つけるとついつい買ってしまうほど大好きだ。
 誰しも一度は口にする給食は、とても大切なものだ。給食は、栄養バランスのいい献立を考える栄養士の方々、料理を作る給食室の方々の愛情がたっぷり詰まった味覚の授業。将来の味覚が決まっていく過程でもあるので、きちんと残さず食べることを推奨したい。給食を食べられる期間は限られているので、思う存分に食べてほしい。子供の時に食べたものの味覚は、将来何らかの形できっと役立つと思う。


〈参考文献〉
■練り物とは何か
鈴木海央『今日のおでんが元気とキレイを作る!「全国のおでん厳選30」―おでんの主役は「かまぼこ・練り物」―』創英社/三省堂書店、二〇一八年、十四、十五、十七、十八頁

■消えゆく練り物の店
「井上蒲鉾店」〈http://www.inouekamaboko.co.jp/〉二〇一九年十二月二十一日閲覧
「太洋かまぼこ店」〈https://hesotaiyoukamaboko.jimdo.com〉二〇一九年十二月二十一日閲覧
「まち日本橋」より「日本橋 お多幸本店」〈https://www.nihonbashi-tokyo.jp/enjoy/gourmet/201505/〉二〇一九年十二月二十一日閲覧
■自校式給食
『芦屋の給食 オシャレな街のおいしい献立』兵庫県芦屋市教育委員会/兵庫県芦屋市、株式会社カナリアコミュニケーションズ、二〇一七年、八〜十一頁
「関西テレビ 報道ランナー」より「特集コーナー/バックナンバー 二〇一七年十一月二十七日」〈https://www.ktv.jp/runner/backnumber/20171127.html〉二〇一九年十二月二十六日閲覧

■揚げパンの作り方
「明治の食育 子どもたちが大好き! おすすめ給食レシピ」より「昔なつかし3色揚げパン」〈https://www.meiji.co.jp/meiji-shokuiku/know/recipe/07_3/〉二〇一九年十二月二十一日閲覧

■味覚の授業
『おうちで給食ごはん 子どもがよろこぶ三つ星レシピ63』北海道新聞社・編/佐々木十美・監修、北海道新聞社、二〇一〇年、十二頁

「がんばるぞ!」というときに食べるひと皿

                       西村明花

わたしのひと皿
勝負メシのポトフ


 勝負事の前にはポトフを食べる。深夜の定期テストの勉強中に食べるポトフが、一番おいしい。勉強も大切だが、ほっと一息つくことも大切だ。あらかじめ作っておいたポトフを温めている間に、古文単語をひたすら覚える。かれは彼じゃなくってあれって意味で、あなやは叫び声で、白玉は露。古文文法もついでに復習する。未然連用終止連体已然命令。ずむたりけりべしまじなりごとしり。呪文をぶつぶつ唱えているうちに、ポトフは鍋の中で温かくなる。まるで魔女になった気分。少し深めの皿に、野菜を多めに盛り付ける。一旦、テスト勉強をやめて、ポトフを熱いうちに食べる。小さい頃に、三角食べをしなさいとさんざん親に怒られていたにもかかわらず、大好きなじゃがいもを最後まで残しておくのは、わたしのよくない癖。最後のじゃがいもを口にいれて、ため息をつく。温まった身体で、テスト勉強を再開するのだ。
 ポトフの作り方は、母から教わった。二十歳になったわたしが再現できる母の味は、ポトフだけ。材料はキャベツが四分の一、にんじんと玉ねぎは半分で、じゃがいもは二つ、ブロッコリー一つに、ウインナー一袋、コンソメの素は固形タイプを二つ使う。
 野菜を食べやすい大きさに切った後、ブロッコリーを先に茹でて、ザルにあげておく。鍋にキャベツ、にんじん、玉ねぎを入れ、水をたっぷり入れて茹でる。沸騰したらじゃがいもとウインナーを入れる。全部の具材が軟らかくなったらブロッコリーを入れ、コンソメの素を入れて、少し混ぜたらできあがり。

 わたしたち人間は、何かを食べることで元気に過ごすことができる。好きな食べ物、嫌いな食べ物がそれぞれあるように、ひとりひとりに元気を出すために食べたい・食べるひと皿があるのではないかと思った。しかし、元気を出すと言っても、体調が悪いときではなく、「がんばるぞ!」というときのことだ。がんばる場所は人によって違う。わたしのひと皿、ポトフの場合は、ちょっとした勝負事の前。「がんばるぞ!」の捉え方が人それぞれ違うため、験をかつぐときのひと皿の人もいれば、パワーをつけるときのひと皿の人もいる。そんな、自分以外の誰かの「がんばるぞ!」を聞きたいと思った。
 しかし、なるべくいろいろな肩書を持った、自分から遠い人を選ぶようにと、授業の課題として言われた。わたしは、なぜか近しい人たちがポンポンと思い浮かんだ。それではいけないなあと思い、なるべく家族、友人、恋人を避けて、様々な肩書を持った方々に取材を頼もうとするも、なかなかうまく連絡が取れなかった。だけど、よく考えてみると何年も前に知り合った彼、彼女たちのことを知っている部分はほんの一部である。近くにいる人のことの方が、案外よく知らないんじゃないか。近くて遠い存在なんじゃないか。自分が本当に話を聞きたい人は、近くにいる人なんだと思い、付き合いの長いあの人に話を聞くことにした。


大滝璃宇さんのひと皿
元気メシの横浜家系ラーメン

 名前は、大滝璃宇(おおたき りう)。二十歳。出身は山形県鶴岡市で、住んでる場所は大阪府茨木市。山形の自慢できるところは、うーん︰︰︰。いろいろおいしいところかな。さくらんぼが一番おいしい。ラ・フランスもおいしい。だけど、ラ・フランスはお菓子の味とか飲み物の味とかが一番おいしいなって思う。果物のまま食べるならさくらんぼのほうがおいしいなあ。
 職業は介護士。介護士になった理由は、自分にできることがそれくらいしかないから。あと、仕事やったら人に優しくできるからかなあ。
 「がんばるぞ」ってときに食べたいのは、ラーメン! 山形ってラーメン消費量一位やねん。ラーメンがやっぱり一番かなあ。あ、横浜家系ラーメンな。横浜家系ラーメンのどこが好きかって聞かれても、答えられへん。なにかひとつがかけたら横浜家系ラーメンじゃなくなるねん。具材、麺、スープ全部あわせて、横浜家系ラーメンやねん。
 一番おいしいのは、山形の「よこはま軒」のラーメン! 大阪やったら「魂心家」かな。
 初めて食べたときのことは覚えてないけど、パパと食べに行ったのは覚えてる。よこはま軒は、物心ついたときから「エスモール」(鶴岡市にあるショッピングセンター)にあったなあ。よこはま軒はエスモールと酒田にしかないよ。

「魂心家」のラーメン。写真は大阪高槻店の一杯(撮影:姜 尚美)

他のラーメンはラーメンじゃない!

 山形はラーメン消費量が一位なんやけど、理由は知らん。寒いからちゃう? ラーメンあったかいやん。「冷やしラーメン」が生まれた理由も知らんけど、夏にラーメンって暑いやん。山形って最高気温が日本一の記録あるねんで。冬は寒くて、夏は暑いねん。
 まあ、冷やしラーメンおいしかったな。普通のラーメンに入ってるチャーシューと比べて、肉肉しいチャーシューっていうのがよかった。
 でも、冷やしラーメンよりも横浜家系ラーメン。他のラーメンはもうラーメンじゃない! 
 がんばる前に食べるのもおいしいねんけど、でも基本的にがんばったあとのほうがおいしいな。学生の頃は、学校終わりに寄って食べてた。学校帰りのラーメンはめちゃくちゃうまい。
 かなり頻繁によこはま軒に行ってたな︰︰︰。最高で週六回通ったことある。大阪にあんまり横浜家系ラーメンがないから、最近は全然食べてないけど。
 店のテーブルの上に調味料が置いてあるねんけど、よこはま軒には大きめの瓶にニンニク入ってるねん。それをめちゃくちゃいれたことある。瓶の七割くらいの量。めちゃくちゃうまかってんけど、その次の日に体から出る体液ほとんどがニンニクの臭いした。めっちゃ臭かったわ︰︰︰。
 注文の仕方は、脂がおおめ、麺がかため、スープの味がこいめ! おおめかためこいめ!

  ■山形とラーメン

 山形はラーメンの消費量が日本で一位と大滝さんは言っていた。総務省統計局の「家計調査(二人以上の世帯)品目別都道府県庁所在市及び政令指定都市(※)ランキング(二〇一六年(平成二十八年)~二〇一八年(平成三十年)平均)」の「外食」の統計結果によると、山形市の結果になるが、年間一世帯当たりの中華そばの外食量の支出金額が、一万六三九一円。二位の新潟市は一万一八○五円、全国平均は六二三一円であり、圧倒的差をつけて一位に輝いている。
 また、ラーメン店舗数が全国で一番多いのも、山形県である。二〇一八年の時点では、全国で三万五九九軒。人口十万人当たり、二四・一五軒である。対して、山形県は、六六・四三軒ある。二位は栃木県で四五・七八軒。ラーメン屋の数でも、他県と圧倒的差をつけている。
 なぜ、山形はラーメン消費量が一位なのか。山形県メールマガジン第三五三号「ラーメン王国やまがた物語」によると、山形県では「おもてなし」として、ラーメンを食べるという。県外のわたしたちがお祝い事のときやおもてなしのときに、寿司や焼き肉を食べるように、山形県の多くの地域ではとりあえずラーメンを食べるのだ。また、寒い冬には心身ともに温めてくれるひと皿となる。
 そして、暑い夏でも、冷やしラーメンがあるおかげで、暑さを忘れてラーメンを食べることが可能になる。冷やしラーメンは、山形市にある「栄屋本店」の初代店主が顧客の「夏には冷たい蕎麦を食べるんだから、ラーメンも冷たいのが食べてみたい」という声からヒントを得て、一九五二年に発売したもので、今では山形名物となっている。醤油味の冷たい牛骨スープに牛肉の薄切りがのるのが特徴だ。
 寒い冬、暑い夏、それぞれの季節に合わせたラーメンがあるからこそ、大滝さんのように山形の人々は、ラーメンに夢中になっている。

「おいしい」を込めて

 取材を終えたあとは、とてもお腹がすいた。たくさん煮込んだビーフシチューをお腹いっぱい食べたのに、ラーメンが食べたくなった。食と人の関わりは強いとはわかっていたが、こんなにも強いとは思わなかった。食の力は本当に強い。
 「インタビューとか聞き書きというのは、質問することによって、人生を薄く切るものである」。「ほぼ日刊イトイ新聞」の記事「インタビューとは何か。」で、小説家であり聞き書きの名手でもある塩野米松さんが、そのような趣旨のことを仰っていた。わたしはその言葉を少しお借りして、「取材とは、人生をお茶碗に盛るものである」と言いたい。インタビューした人たちの人生や、調査して知った知識的な部分を食材とする。その食材を読者の方々に食べてもらうため、切って、調理して、ていねいにお皿に盛り付けていく。
 この料理の隠し味は、好奇心。近くて遠いと思っている人を、知りたいと思えば思うほど、このお皿に盛り付けたものはおいしくなっていく。この盛り付けたひと皿を食べてくれた読者の方々が、「また食べたいな」「お腹すいてきたな」と思ってくれるならば、嬉しい限りである。
 わたしはまた、野菜を切る。野菜を切ったら鍋に入れ、コトコト煮込んでコンソメの素を二つ、鍋に放り込んだ後、夜中に食べるために、大切に鍋の蓋を閉めた。

〈参考文献〉
■山形とラーメン
総務省統計局「家計調査(二人以上の世帯)品目別都道府県庁所在市及び政令指定都市(※)ランキング(二〇一六年(平成二十八年)〜二〇一八年(平成三十年)平均)」(※都道府県庁所在市以外の政令指定都市。川崎市、相模原市、浜松市、堺市及び北九州市)より「外食」〈https://www.stat.go.jp/data/kakei/5.html〉二〇一九年十二月十九日閲覧
「都道府県別統計とランキングで見る県民性」より「ラーメン店舗数[2018年第一位 山形県]」〈https://todo-ran.com/t/kiji/11806〉二〇一九年十二月十九日閲覧
山形県メールマガジン第三五三号「ラーメン王国やまがた物語」
〈https://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/mailmag/special/dokuzi/201707.html〉二〇一九年十二月二十日閲覧
青木ゆり子『シリーズ・ニッポン再発見⑨日本の洋食 洋食から紐解く日本の歴史と文化』ミネルヴァ書房、二○一八年、一八八頁

■「おいしい」を込めて
「ほぼ日刊イトイ新聞」より「インタビューとは何か。01 塩野米松さん篇『08 言葉で人を彫り出している。』」〈https://www.1101.com/interview/shiono/2017-07-20.html〉二〇一九年十二月十九日閲覧

著者略歴

朝倉みなみ(あさくら みなみ) 一九九九年滋賀県大津市生まれ。京都造形芸術大学文芸表現学科二回生。描くことと、書くことが好き。学生時代の忘れられないひと皿は、給食の「プリンタルト」。「がんばるぞ!」というときに食べるひと皿は、「カントリーマアム」。

滝田由凪(たきた ゆうな) 二〇〇〇年東京都板橋区生まれ。京都造形芸術大学文芸表現学科二回生。様々なジャンルの方にインタビューをすることが趣味。夢は、芸能人にインタビューをすること。「実家に帰ってきたな」と思うひと皿は、母特製の手羽先の煮物。「がんばるぞ!」というときに食べるひと皿は、牛肉を使った料理全般。

西村明花(にしむら めいか) 一九九九年大阪府大阪市生まれ。京都造形芸術大学文芸表現学科二回生。食と恋愛がテーマの小説を読むことが好き。「実家に帰ってきたな」と思うひと皿は、「おでん焼きそば」。学生時代の忘れられないひと皿は、毎日弁当に入っていた卵焼き。

わたしのひと皿 あの人のひと皿

2020年1月25日 発行 初版

著  者:朝倉みなみ 滝田由凪 西村明花
発  行:京都造形芸術大学 文芸表現学科
     (2019年度後期授業
     「創作ワークショップⅨ」
     担当教員:姜 尚美)

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