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おどすことはやめなさい2

Grace Road Church



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「神が仰せられた」という恐喝

私たちの周り(クリスチャンたちから)であまりにもよく耳にする言葉だ。まるで霊的な人のように、何の気兼ねすることもなく自慢話をする。祈ると「神はこうように、このように仰せられた」と言いながら~~~もっと恥ずかしい恐喝は講壇の上で、いわゆる異言の祈りということをし、異言通訳をすると言いながら、「神は今、この時間に誰、誰にとか、この場にいる全ての信者たちにこう仰せられます」という恐喝に一斉に「アーメン」と答えて、そのまま受け入れる純真なの信者たち~~~

このように恐喝する人が多くなることを創造主である神はよくご存知で、各時代ごとに神が定め、用いる人を通して神の感動によって聖書を記録するようにしたのである。すなわち、永遠に変わらず、すべて成し遂げられる神の言葉がまさに聖書である。問題は、聖書を持って講壇で説教をすると言っても、すべてが神のことばではないという事実である。さらに過去6日間(旧約+新約)は、不正な裁判官が言ったことも聞きなさいと戒めを与えられた。

言い換えれば、神が定められた時になるまで不義(義理、道義、正義などに反する、すなわち、真理から外れる)の指導者用いられ、彼らの言葉も神の民に対して聞きなさいと仰せられた。ですから全宇宙的な七日目である21世紀になるまで、神の子供たちは霊的な深い眠りにつくように、許された期間であった。しかし、各時代ごとに食事の時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべたちは、常にあってごく少数であった。

そして今、この時代は、創造主の神が長い間、隠しておいた、御国のすべての秘密をすべての神の民に開いてくださる時代である。したがって、神が定められた時までクリスチャンの霊的な状態を、既に次のように仰せられたのである。「では、どうなのでしょう。私たちは他のものにまさっているでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人やギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです、、私たちは、律法が霊的なものであることを知っています、しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

ですから、今この時代、全世界のキリスト教界は創造主である神が許された期間になるまで、すなわち、全宇宙的な七日目になるまで、次のような状態になると仰せられた通りに成就したのである。

証拠を提示する。「しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」とすでに預言された通り、全世界のキリスト教界は、このような霊的な状態になってしまったのである。したがって、おどすことはやめなさいというこの言葉に気を悪くしないで、悟って真理に立ち返えればいいのである。

私も、真理を悟って立ち返る前、過去の牧会は、聖書の記録そのものが神のことばであることを漠然と頭の中で知っていながら講壇で自信を持って神のことば(神の声)であると言えなかった。これは致命的なミスであって、私も神の敵対者だったことを告白する。

講壇での説教は神のことば、真理の御霊の声にならないといけないにも関わらず、牧師の口を通して告げられる説教は寓話、ことわざ、格言、人間の教訓などを混ぜて、むしろ人の声を出す所に変質してしまった。さらに、イエスが喩えによって話をされたから自分もたとえで言うといいながら、あらゆるこの世の出来事を種に、聖なる講壇を汚す、おどすようになったこと、これもまた神が許されたことである。

「神が仰せられた」という致命的な恐喝は、無知な信者たちにとってその言葉が叶えられることを固く信じるように強要し信仰も強要した。無知な信者たちは、恐喝をいうこれらを霊的な指導者だと思ってしまい、彼らの言葉が正しいと「アーメン」と言いながら宗教生活を送ったのである。このようにおどす人に、神は次のように仰せられた。「彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ。』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。」とされるこのことばを、いざと彼らは自身とは全く関係がないと思っている。

特に、今この時代、すなわち、全宇宙的な七日、裁きの日である今日でさえ、このように続けて恐喝をすると、「 見よ。――主の御告げ。――わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる。 見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。――主の御告げ。――彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。――主の御告げ。――」とすでに神の戒めとして定めて与えられ、このことば通り必ず成し遂げられる神であられる。

このことば通り成し遂げられた証拠は、今、腐り腐ったキリスト教界の実状が、赤裸々に全天下に現れているということである。主の民にとって、何の役にも立たない言葉で福音だと伝えたことは、致命的な結果を生み出す。信者たちになんの役にも立たないだけでなく、恐喝、すなわち、おどすことを日常茶飯事のようにしてきた指導者自身を含め、その言葉を聞いたすべての人々の霊魂に対しても責任を問われ、絶対、神の御前に立つことができない。永遠の地獄の永罰に定められるという事実だ。必ず肉体が生きている間に、聖書のどおり悟って立ちかえらなければならない

神の戒めとは全く関係がないにも関わらず、彼ら自ら、神のことばを受けたと言うだけではなく、その言葉を聞く相手に固く信じるように確信している者たちの信仰、御国に入ることができると確信する彼らの信仰は一体どんな信仰なのだろうか?このような信仰は、彼らが聖書の御ことばを恣意的に想像したことによって出てきた結果である。それ故、必ず想像するだけの霊的な深い眠りから目覚めなければならない時がまさに今の時である。また、このようなの想像(実際に経験していない現象や事物に対して心の中で描いてみる)から覚めない場合、霊魂の救いとは全く関係がないことを知るべきである。このように一生を想像の中にいながらも、自分は霊的な指導者だと勘違いして暮らしているうち、肉体が死んでから霊的な深い眠りから覚めることを、果たして彼らの中で誰が聖書どおり見て、聞いて、分かって、悟って、立ち返るだろうか?

過去、すなわち、神が黙認なさった創世以来、過ぎ去ったすべての日々は、神の民を惑わす者たち、すなわち、恐喝で神の民を脅迫する者たちを懲戒せず、そのまま放って見ておられましたが(これらは必ず肉体が死ねばその魂は永遠の永罰に処する)今この時代は、このような悪人を絶対放って置かないで上述の御ことばはもちろん、全聖書に記録された裁きのことばの通り、必ず裁かれる。これらは神から遣わされた者ではない。

神から食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとして遣わされた者であれば、必ず神のことばを話すようになっている。その証拠が次の言葉である。「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」とすでに裁いて置いたのですが、神から遣わされてない恐喝する者は、このようなのさばきのことばを自分とは全く関係のないものとして思っているのだろうか?

ここで私たちが必ず悟らなければならない真理のうち一つは、21世紀である今この時代になるまで創世以来、過ぎ去った日々の間に、神から遣わされたキリスト教の真の指導者たちは、各時代ごとに時に従って、真理とおりに福音を述べ伝えると殉教されてきたということだ。さらに、御子イエス・キリストを十字架につけて殺した者たちも自称ユダヤ人、大祭司長、律法学者、パリサイ人即ち、今日、自称キリスト教 の指導者たちとこの世の権力者たちであった。

このように、創世以来、今まで全世界のキリスト教は、神から遣わされなくても、自分たち自ら「神が仰せられた」とおどして(恐喝)財産(信者、財物など)を集めて、神の娘・息子たちを惑わす者があまりにも多いと言ったら、誰が信じるだろうか?世間の人々はもちろん、必ず、聖書通り見て聞いて悟って信じなければならないクリスチャンでさえ信じないだろう。これに対する答えも、聖書の中に既に記録されているのにもだ。

21世紀である今、まだ何の疑いすらせず、むしろ、このような恐喝に熱狂し、おどす教会の指導者に献金をして、彼らのやることを全的に支援する無知な信者たち~~~
聖書を持って目で見たとしても、御国の奥義は見えないのが神のことばであるという事実を全世界のクリスチャンはどのくらい知っているのだろうか?人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。と言われたことばが実状であることを、過去10年あまり経験してきて、今この時間にも経験している。以前は、このことばがよく信じられなかった。世界中にはクリスチャンが数えきれないほど沢山いるのに。。。と思っていた。

次の御ことばも、聖書を30読するまでも、なぜ神がこのことを仰せられたのか疑ってみることをしなかた。霊的な深い眠りから目覚めていない盲人が盲人を導いているにもかかわらずにもだ。それで、過去10年余りをあらゆる陰湿な攻撃する言葉(異端だとか....等々)を聞きながらも我慢するしかなかった理由もこのためであった。このような視覚を持って、次の神の声を聞こう。

のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」と仰せられたこの言葉は真実であった。いや全聖書の御言葉だけが真実であり、真理である。

全聖書を通して、見える可視的である創造以前から、すでに世界をどのように経営なさるかを記録した聖書を通して予め仰せられたにもかかわらず、見ても見えず、聞いても聞こえないのが、御国の事だということを認知していない状態で牧師となり、人の考え通り聖書を見て、それぞれ自分のやり方で信仰生活を送りながら、聞いた言葉を持って大胆に説教をしているという事実を全世界のクリスチャンが悟るなら、驚愕してびっくり仰天するでしょう。聖書を知らないのでそうしたという言い訳は、もう神の御前ではできない。

したがって、おどかされて信じていると勘違いして信仰生活を送った結果は、それぞれ自分たちが責任を負わなければならない。おどす指導者自身も、自分の中にある敵に騙された。その言葉を神のことばだと信じている信者たちも、必ず次の言葉の通りもう裁いておかれました。
「この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主の宣告とは何か。』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる。』と言え。――主の御告げ。―― 預言者でも、祭司でも、民でも、『主の宣告。』と言う者があれば、その者とその家とを、わたしは罰する。」と、すでに判決されたのである。

したがって、聖なる講壇で二度と(恐喝)おどしてはならない。全聖書を持って何がおどすことなのか、次々と正確かつ明確に弁証することができる。指導者、特にキリスト教界の指導者は真理が一節も見えも、聞こえも、悟りも、信じもしないのに、大胆に神が仰せられたという恐喝を必ず止めなければならない。そして信徒たちは、絶対にこれらの恐喝に騙されてはならない。その言葉は、無駄話であり、あなたの霊魂に一つも益がなく、かえってその言葉を聞いて信じた結果、肉体が死んで永遠の地獄の永罰を受ける。これに対する答えも、聖書の中にある。さらに致命的で衝撃的な言葉は、聖くなければならない教会の講壇で一生恐喝をして肉体が死んで地下(地獄)に行った時、先に行ったその教会の信者たちが待っていて、自分の教会の指導者がよみである地下、すなわち地獄に来たのを見て慰められたという言葉である。

言い換えれば、肉体を着て生きる一生の間、教会の指導者としてした説教は、恐喝(偽りを低めた言葉)であって、これらの恐喝で大金持ちになって一生贅沢(宴を行い、酒に酔って楽しむ)に過ごして肉体が死んで行った所が地下(地獄)である。このとき、地下に先に行った信者たちは、自分の教会の牧師が地下(地獄)に来たのを見て、「あ〜天国はないのね~~~」と慰められるという言葉である。このように、天国はなかったとを慰めを受けるこれらは肉体が生きている時、聖書を持っておどかす言葉だけを聞いて空しい信仰で一生を送った者である。キリスト教界のみならず、人間が作った宗教を信じるすべての宗教人もこれと同様である。

したがって、すべての人間が聖書を持って真理を悟って、真理に立ち返るべき時期は、必ずしも肉体が生きている間である。この事実を全世界のクリスチャンは、果たしてどれくらい知っているのだろうか?また、人間の魂(霊魂)は絶対に死なないという事実が、聖書に記録されているにもかかわらず、教会を通っていながらも、聖書を信じない自称クリスチャンが絶対多数という事実に驚愕また驚愕する。

そして地下(よみ、地獄)では、魂は死なない。彼ら自身が永遠に行った所が永遠の地獄という事実すら認知せず、肉体が生きている間、彼らの自称信仰がどんなに間違っていたかを、その時までも知らずにいることも、今この時代を生きるすべてのクリスチャンがどのくらい知って信じているのだろうか?

キリスト教の霊的な状態もこうなのに、他の宗教の人々のことは言うまでもない。彼らみなつまり、世の中のすべての不信者は永遠の地獄、永罰に処することは定められた事実であるため、これ以上語る必要はない。したがって、今、この時代の重要性は、この世のどんな言葉を用いてもすべて表現しきれない。一番最初に、霊的な深い眠りから目を覚まし、起き上がらなければならない人々はクリスチャンである。いくらこの衝撃的な事実を言っても、道で叫んでも、耳を傾けて聞くどころか「異端」とむやみに言って非難するクリスチャン、特に指導を見ると、愕然としているだけだ。

どうして、創世以来、キリスト教内で、信仰があるとされたクリスチャンの絶対多数が殉教されなければならなかったを痛感しながら疑問が解かれた。その沢山の日々、なぜクリスチャンは乞食ラザロのように生きなければならなかったのか、これに対する疑問も解かれた。加えて、聖書だけが神のことばであり、真理そのものであったということを認めるようになる。世界中のクリスチャンは、まことに今、このようなすべての恐喝から離れて真理に立ち返ろう。

祈ったら、幻や夢の中でいのちの書を見たという恐喝

神の前と人の前にクリスチャンの一人として、とても恥ずかしい事実は、沢山の歳月の間、神の娘・息子たち(子どもたち)でさえ知らなかった数多くの恐喝の中で「命の書」に対する恐喝に、どんなに多くのクリスチャンが騙されているのか言葉ではすべて表現できないくらいだ~~~

いのちの書に自分の名前が記録されてあって、だれの名前はなかったよと言う恐喝に教会講壇をゆずって、彼らを講師(教会の講壇は講師が立つところではなく、神の声を代言する者が立つべきところである)に立たせて、信者たちがその恐喝を信じるように場所と機会を提供した無知な牧師と信徒たち~~~

クリスチャンなら誰でも命の書とは何か気にしているでしょう。その訳とは、次の言葉を信じるからだ。証拠として「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」と仰せられたように、いのちの書に名が記されていない者は、すべての獣を拝むようになる。

また、「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」と仰せられた。

特に、この言葉は、ヨハネの黙示録に記録された言葉なので、より一層恐れおののく心で御ことばを信じる。それで命の書は、すべてのクリスチャンが知りたがっている。このようなすきを狙って肉体が寝ながら見る夢の中でとか、目を閉じて祈っているうちに幻の中で、神の御前に行って、その前に開かれている命の書を見たという恐喝を信じるようになるのである。

命の書に対する正確な答えを証明する。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われたので、イエス・キリストに対する預言のことばは、全世界のすべての本の中で、唯一、聖書にのみ録されている。したがって、命の書とは、聖書である。ところが、その沢山の日々の間、なぜ命の書に対する正確な答えを知らずにおどかされてきたのでしょうか?

肉体が寝ながら夢とか、祈っていたら幻の中で命の書を見たという人は、自分が自分に騙され、その言葉を聞く人々も騙す恐喝である事実を知らない。自分ははっきり見たと徹底的に確信している。このような人々はみな、精神的な幻の中にいる者たちである。

すなわち?
幻覚とは「感覚器官を刺激する外部刺激がないのに、まるで何ものがあるかのように知覚する。または、そのような知覚。幻視、幻聴、幻嗅、幻味」などをいう。夢というのは、夢から覚めれば何でもないのに、自分が見た夢が、一か二度、現実でそのまま実現すると、自分が見た夢に自分自身が惑わされて、まるで自分は霊的な人のように、自分が見た夢や幻をそのまま信じるようになるのだ。このように現実の中で、夢や幻を信じる者が人を魅惑する方法のひとつが教会の講壇で述べている人々の証しである。

牧師が霊的な深い眠りについているため、命の書とは何か知らないまま、自分は夢や幻でも命の書を見たことがないので、夢や幻を見た人々を呼んで講壇に立たせて、信者たちに命の書とは何か、何でも聞かせることが牧会をする方法だと信じながらキリスト教界が慣行のようにやってきた。つまり、夢とか幻の中で見たという人は、講師料(聖書的にわいろ)を受けて、複数の教会に招かれ、人を惑わすのに用いられたのである。

これらは自分が自ら霊的な人だと勘違いするだけでなく、他人もそのように信じ、うらやむ人をも出来す。聖書どおり照らしてみると、これらは自ら騙され、人も欺く卑しい器として用いられているにも関わらず、正反対に勘違いしている。このような者がまさに霊的に深い幻覚の中にいる者たちである。

しかし、神は、このようにおどかす者たちの言葉に従うなと仰せられた。証拠が次の言葉である。「その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。 あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。 」と、既に警告された。

また、このように夢とか、祈って幻の中で見たと、おどかす人々に対する審判の言葉は次のとおりである。「あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。 その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」と、すでに裁いておかれたのにもかかわらず、神の戒めを捨てて卑しい器として使われる彼らが口で伝える恐喝を信じて、それが信仰だと勘違いする気の毒な信者たちをどうすればいいのだろうか?

これらの特徴は、自分が見たという体験以外は、どんな言葉も受け入れない高慢が根強く定着している。自分は霊的な人なので、人には見ることの出来ない霊的なことを見ていると勘違いするからである。

より致命的な問題は、このように恐喝で人を惑わすことをして生計手段とすることが、自分自身にとって、永遠の地獄に行く致命的な害となることことすら知らない。肉体が死んだ後、少し目を覚ますという事実は全く知らないまま、むしろ高慢は夢見る者たちの普遍的な特徴である。これによってますます高慢になり、神の御言葉からどんどん遠ざかって御言葉とは全く関係のない獣のような人に転落して、肉体が死んでから自分が行ったところが地下(地獄を秘密に隠して表では地下とおおせられたのだ)であることを知るようになる。彼らにとって、神のことばとは何だろうか?神よりももっと高い地位にいる人は、正にこのような人だと言ったら、誰が信じるだろうか?




おどすことはやめなさい2

2020年1月19日 発行 初版

著  者:Grace Road Church
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