
───────────────────────
この本はタチヨミ版です。
【主な登場人物】
AZUSA(上原昭二) 引退間近のマスク・マン(覆面レスラー)
灘本ミキ 山嶺(さんれい)日本新報、社会文化部記者
灘本耕三 ミキの亡父(元フリー・ジャーナリスト)
灘本多恵 ミキの母
上原礼子 昭二の亡妻(旧姓・高橋)
上原直子 昭二の一人娘。世田谷疾病研究センター付属病院看護師
高橋 遙 上原(高橋)礼子の母。礼子の死から直子を育てる。
桑原武蔵 山嶺日本新報、社会文化部部長。灘本ミキの上司。
上原昭二は高校時代の同級生。ミキの亡父・耕三は大学時代の先輩。
加藤 学 メキシコ料理店ハリスコ店長
加藤洋子 学さんの亡妻
松本のオヤジ 中央日本プロレスリング(中プロ)の老トレーナー
橘 五郎 中プロの会長
ケイタ 中プロの若手選手(AZUSAに憧れている)
片岡鉄次 マスク工房「片岡堂」(東京・神田)の老職人
勝田克彦 アル中の元プロモーター
香山友吉 AZUSAの担当医。香山クリニック院長。AZUSAのファン。
本町輝子 AZUSA行きつけのスナック「輝子」のママ
健さん 勝田行きつけの雀荘「満願亭」の主人
今田香苗 スナック「かりん」のママ
リト・エル・グランデ メキシコの荒鷲の称号を持つマスク・マン
はじめに
本作「オン・ザ・リング」は、拙著「リト・エル・グランデ」(二〇一八年九月発行)の元となったロング・シノプシスを改変した作品です。「リト・エル・グランデ」はアメリカの砂漠地帯の架空の街、デビルズ・フォールを舞台にしましたが、本来は、日本の山岳地帯の盆地にある架空の街が舞台でした。マスク・マン(覆面レスラー)の受け取り方も、アメリカと日本では異なるかと思われ、話が展開する街(舞台装置)により、物語の語り口も大きく異なるかと思います。この日本の山嶺市を舞台にした本作「オン・ザ・リング」の世界をぜひお楽しみください。また、既刊「リト・エル・グランデ」も合わせてお読み頂ければ深甚です。 雷文
◾️
山嶺市の街に、プロレスの巡業がやって来た。
タイガー・マスクがリングに現れ、覆面レスラー(マスクマン)人気が何十年ぶりかに高まっていた。一九七〇年代の気忙しさから世の中は落ち着きを取り戻し、この山嶺市の商店街も賑わいを見せていた。アーケード街に人が溢れ、店のあちらこちらにプロレス巡業のポスターが貼られていた。商店街のスピーカーからは巡業のお知らせが流れ、観客動員を煽っていた。大人から小学生までプロレス人気はまだ高かった。人気レスラーの試合が生で見られることもあり、興行当日の会場は満員で、立ち見客が通路を埋め尽くし、会場は熱気を孕んでいた。リング近くの席に座った昭二はその熱気に当てられ、息をしているのかどうかさえ分からなくなっていた。興奮が興奮を呼び、場内は爆発しそうだった。小さな手でチラシを握り締め、昭二は瞬きをするのを忘れていた。
昭二のプロレスはテレビの中のものだった。お茶の間で父と一緒に、生唾を何度も飲み、手に汗握り、懸命に応援するものだった。そのプロレスがいま目の前にある。それは、昭二にとり不思議な体験だった。プロレスラーの身体の大きさなど想像さえしたことがない。プロレスはテレビの中だけの世界だと勝手に思っていた。父の身体の何倍もある筋骨隆々とした体躯のレスラーが組みつき投げを打ち、技をかけ合うことが実際にあるんだと、試合に慣れるまで口をぽっかり開けていた。とても不思議な気持ちだった。そしてリングマットの音。昭二は大太鼓の皮を思い出していた。秋祭りで諸肌脱いだ大人が叩くあの大太鼓だ。プロレスラーの身体がリングマットに叩きつけられると場内に大きな音が響き、その振動で昭二は飛び上がりそうになった。
父が売店で買ってくれたコーラの紙コップの氷を噛み砕き、試合の流れを追うこともなく、ただただ興奮する昭二だったが、前座の三試合を終え、高ぶる気持ちがようやく落ち着いたときだった。
蝶ネクタイのリング・アナウンサーが、前座の最終試合をコールした。
「・・・赤コーナー、メキシコの旋風・・・リト、エル、グランデ!」
夢の世界に迷い込んだ昭二は、通路からリングに躍り出たマスク・マンに魅入った。金色に煌めくマスクのリト・エル・グランデが颯爽と現れ、リング・ロープ最上段に立ち両手をVの字に上げると、宙返りしリングの上にすくりと立った。スピード感ある身ごなしに昭二は驚いた。その前の試合のレスラーたちとは異なる身体の動きだった。マスクだけでなく、すべてが輝いていた。対戦相手は、ふた回りも大きい長髪のレスラーだった。
レフリーを挟み、野獣のような相手はリトを威嚇するが、リトは紳士的にゆっくり両手を上げ、野獣を制しているようだった。
レフリーが「ファイト」とコールするや、野獣がリトのマスクに手をかけようとした。が、リトの両手が野獣の手を掴むや否や野獣がくるりと倒れた。一瞬の動きだった。大きな音をたてリングマットに倒れた野獣が立ち上がろうとすると、リトはその背後に素早く回り込んだ。リトを見失った野獣が立ち上がり振り向こうとしたとき、リトはその太い首を両手で捩じり腰を入れてリングマットに叩きつけた。ドンという大きな音が観客の歓声を煽り、熱狂のスイッチが入った。頭をフラフラさせ立ち上がる野獣の股下に滑り込んだリトは、背後で逆立ちすると、両脚で野獣の頭を挟み背中にぶら下がり、野獣の首を後ろへと引きつけるや、サッと両膝で首をガッチリと絞めた。状況が掴めぬ野獣が、両手を背に回し背後にぶら下がるリトを掴もうとするが手が空を切る。やがて、リトの両膝が野獣の首をギシギシと絞めつける。苦しみ喘ぐ野獣の顔が歪んでいった。野獣は必死にリトを振り落そうとした。両腕を後ろに何度か回し、必死に身体を動かして、野獣はリトをようやく振りほどいた。ぜえぜえと呼吸音が聴こえてきた。痛めつけられた首をさすりながら時間稼ぎをし、体力を回復させた野獣が生気を取り戻すや、両者は見合う体勢に入った。野獣は体力をかなり消耗させたのか、足元がふらついていた。その後も、二人の攻防は強弱をつけ続いた。リトが窮地に陥ると観客席がどよめき絶叫が場内を埋めた。どれだけの時間が経過しただろう。昭二は息をするのも忘れリングを見つめていた。リトも野獣も身体が汗で輝いていた。激しい呼吸音がさらに大きくなっていた。野獣はかなりのダメージを受けたようだが、リトも野獣の怪力に素早い動きを封じ込まれていた。
二人は睨み合っていたが、力と技の攻防は終わりの時を迎えていたのか、場内から「リト、リト・・・」という声援が突然飛び出してきた。誰もが試合のクライマックスを知っているようだった。リトは感謝の意を左手で軽く示すや、これが最後の技だと野獣の目前でバク転し野獣の首に両足をかけて挟み、リングにその身体を激しく叩きつけた。後頭部をさすり立ち上がる野獣に、リング・ロープから舞ったリトが、野獣の胸元を強撃した。リトの得意技、フライング・メキシカン・ボンバーが炸裂した瞬間だった。
野獣は、ぐたり倒れこみ、レフリーが試合終了だと両手を振った。
場内の歓声に両手を上げ応えるリトの雄姿に、昭二は魅了されていた。いま、目の前で見た攻防。隙なく流れるリトの動きに昭二は酔っていた。メキシコの旋風、リト・エル・グランデがそこにいた。そのあとのメイン・イベントがどうだったか。昭二はすっかり忘れてしまったが、今でも、小さな手で握りしめたチラシの、米粒のようなリト・エル・グランデの顔写真を見ると「リト、リト・・・」という声援が耳鳴りのように鳴り響く。
上原昭二こと、のちのAZUSAは、そのとき心に決めた。
目と心に焼きついたリト・エル・グランデ。
いつか、リトのような、マスク・マンになると。
◾️
七月七日、七夕の日だったが、長梅雨の湿気を孕む空気は重たかった。異常気象という言葉を耳にするのが日常となっていた。この山嶺市でもあちらこちらで河川が氾濫し、多くの犠牲者を出し陰を宿す人々の草臥れた姿も日常の風景になっていた。
野良猫が場内を駆けた。ドブネズミでも見つけたのだろうか、体育用具の倉庫へと突進して行った。大型の扇風機が何台か空気を掻き回すが、湿気をかき混ぜるだけで不快指数を上げていた。百円ショップで買ったガムテープで貼られたポスターが湿気た風に空しく煽られていた。何人かの観客が首筋に止まった蚊を叩こうとする度、グレーの折りたたみ椅子がギシギシ音を立てた。中には折りたたみ椅子を繋げて寝転ぶ老人の姿もあった。足下には缶ビールの空き缶が床に転がっている。
「今日のメイン・イベント・・・赤コーナー・・・」と汗だくのリング・アナウンサーが咽を震わせコールすると、客席から拍手がまばらに漏れた。気力の見られぬAZUSAがリングに立つと、声援とも罵声ともつかぬダミ声が投げかけられた。紳士的な試合運びのマスク・マン、AZUSAのファンはいまでも何人かいた。体力が衰えたとはいえ、若いころは全国を飛び回り、オーソドックス・スタイルを好むファンを魅了したものだ。AZUSAがリング上で雄叫びを上げると、場内のファンが数人呼応し、「AZUSA、頑張れ!」と小さな声援を投げ掛けた。
今日の相手は、今年デビューした新人のケイタだ。体幹はまだ出来上がっていないが、これからが楽しみな選手だ。子供のころ、武道館でAZUSAの試合を見てAZUSAのファンになったという。大きな団体の試験を受けたが門前払いを喰らい、今はこの中央プロフェッショナル・レスリング(通称、中プロ)に身を寄せている。これからどう育っていくのかは本人次第だが、老トレーナーの松本のオヤジ曰く、「良い筋」だという。
「おい、AZUSA、無理はするな」
セコンドについた松本のオヤジの囁きに頷くと、AZUSAは青コーナーのケンタを睨みつけた。
黄ばんだリングに、弱々しい照明が落ちている。
「おーい、AZUSA頑張れ!」と、スポーツ新聞片手の酔っ払い老人の声が会場に木霊し、客席から笑いが上がった。会場の外からカラスの鳴き声が溢れ聞こえていた。
椎間板ヘルニアを患い、暫くぶりの復帰戦のリングにAZUSAは立っていた。
観客席が疎らでも構わない、とにかくリングに戻ってきた。あとは戦うだけだ。それだけがAZUSAの人生だった。
逡巡する間もなくゴングの鐘が鳴り、AZUSAは腰を沈めた。
頭にあるストーリー通りに動けるか、それ以上の面白いストーリーを描けるだろうか。身体と心が出来上がっていなければ、つまらぬ試合どころか大怪我をする。若さが爆発しそうなケイタと、鶏ガラのようなAZUSAが組み付くと、観客席のどよめきがAZUSAの耳元で蘇った。「これだ!」あのリトの試合のどよめきが脳裏に微かに鳴り響いた。
十数分後、AZUSAの手が掲げられた。AZUSAの必殺技、フライング・メキシカン・ボンバーが決まり、リングマットに倒れ伏したケイタは、暫く起き上がれなかった。まばらな歓声が起こり、AZUSAは手を振り歓声に応えていた。切れ味のないフライング・メキシカン・ボンバーだが、観客が一人でも喜んでくれればAZUSAはそれだけで満足だった。リングの四方に手を振り復帰戦勝利に心和むAZUSAの姿を、厳しく見つめる二人の男がいた。中プロの会長橘五郎とトレーナーの松本のオヤジだった。たとえ、地方団体のリングだとしても、プロレスラーは観客を魅了しなければならない。AZUSAのように、全盛期に全国で知られたプロレスラーなら尚更だ。しかし、二人の目は誤魔化せなかった。AZUSAの限界を目の当たりにした橘と松本は、「引退」という二文字をグッと呑み込み、控え室へと去るAZUSAの背中を見つめていた。
◾️
アパートの自宅に昼間の熱気が篭っていた。ガラリと窓を開け、AZUSAはまだ暮れぬ空を見上げていた。復帰戦を終えたAZUSAこと、上原昭二は窓辺で何度か深呼吸を繰り返すと、疲れた身体をソファーに横たえた。部屋干しした洗濯物が隣の部屋でエアコンの風に揺られていた。
「疲れたな」
両手を伸ばしストレッチすると、肩から背中にかけて痛みが走った。ケイタの若い力を受け止めきれなかった。リングマットに叩きつけられても昔のように俊敏に立ち上がれなかった。まるで伸びたバネだった。「ヨイショ」と声まで出そうだった。最後の決め技、フライング・メキシカン・ボンバーも、ロープを一段だけ登っただけだ。全盛期にはトップロープに駆け上がり、荒鷲のように両手を広げ、空を舞い相手に襲いかかったものだ。しかし、ケイタもよくつき合ってくれたものだ。
揺れる洗濯物を眺めながら、昭二は中プロでの十数年を思い出していた。
昭二が会長の橘五郎に出会ったのが十数年前。
全国区の団体に所属していたAZUSAだったが、総合格闘技ブームに押され、さらにマスクマン・ブームの流れにも乗れず、気づけば三十五歳を過ぎていた。長年溜った疲労もあっただろう、身体も心も痛んだAZUSAがいた。地元の山嶺市に戻れば熱烈なファンがまだいるAZUSAに目をつけた橘が、AZUSAを中プロに誘ってくれた。
一九九〇年代初頭に地方プロレスのブームが始まった。その頃、橘五郎が立ち上げたのが中プロ(中央プロフェッショナル・レスリング)だった。最初は好調だったったが、バブル経済崩壊の痛手が山嶺市のような地方都市にもじわりじわりと押し寄せ、中プロもその影響を受けていった。二〇〇〇年をなんとか迎えたものの、ジリ貧状態だった。そこで橘会長が目をつけたのがAZUSAだった。行き先が見えなくなっていた昭二は、中プロという地元団体に返り咲き、人気選手の一人として観客を動員することになった。中プロの経営も一時期立ち直りを見せたが、山嶺市を大水害が次々と襲い、人は娯楽の場へと足を運ばなくなった。「なんだか、いろいろあるもんだ」と、ワークアウトしながら、洪水の惨禍が残る河原を、昭二は走っていたものだ。
タチヨミ版はここまでとなります。
2020年2月29日 発行 初版
bb_B_00162720
bcck: http://bccks.jp/bcck/00162720/info
user: http://bccks.jp/user/143797
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
Qilin Family Company(チィーリン・ファミリー・カンパニー)は、大人の為の物語を紡いでいきたいという願いを込めて設立しました。時代に振り回され、喜怒哀楽を重ねながらも、日々力強く生きる大人たちに、少しでも安らぎを感じてもらえれば幸いです。 主要ライターに、雷文氏を迎え、2020年を超えて、日本および世界に向けて、「大人の為の物語」を拡げていきたいと考えています。見たい映画や演劇、そしてテレビ・ドラマを、物語という形で描き出し、織り紡ぎ出してゆければと願うばかりです。(代表:中嶋雷太) Qilin Family Company was established for weaving stories for adult people. For them, who are always struggling daily lives, we hope they enjoy the stories. Welcoming Mr. Ray Bun as a main writer (story teller), we would like to expand our stories over the world as well as in Japan, over 2020. Also, we would like to weave the stories for future theatrical films, theatrical play or TV dramas. (Rep: Raita Nakashima)