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夏の終わりごろのある日、広島県廿日市市の瀬戸内海の海岸周辺は、曇り空だった。
突如、その海岸の一部に黒雲が発生した。しかしその範囲は狭く、半径数十メートル程度で、高さもせいぜい一〇〇メートルにも満たなかった。
「これは……末鏡の封印が解けたのか……。喜ばしいことだ……、我も、これに意思を委ねよう……」
程なくして、その雲の中から、低い男性の声がした。そして、徐々にその黒雲は薄れていった。
広島県三原市には、JR三原駅から西に数キロほど向かったところに、広島大学がある。その大学の前から駅の方に向かって、学園通りという名の通りが続いているが、この周辺一帯には、被服、家電、家具などの大型チェーン量販店が立ち並んでおり、三原市民の主要な消費行動の現場となっている。
その中の一つ、家具の量販店の二階のレジスペースの奥に小部屋があるが、その狭さとは裏腹に、そこに店舗内を一覧できるモニターが集結しており、また事務作業なども全てそこでなされていた。即ち、店舗の内部はほぼ全てが利用客と従業員とが共有しているスペースであり、搬入エリアなどを除けば、事務処理などの作業に充てられているスペースはわずかであった。
その部屋で、店舗専用のエプロンを付けた中年の恰幅の良い男性従業員が、二人の若い女性と一人の男性従業員と会話をしていた。
「……しかし……彼は確かに打ち間違いなどのミスもあるが、それは統計上は、一般的な頻度なのだが……」
「いえ、店長、そんなことはどうでもいいのです」
「私たちは、親とか、本当の市民社会、といったものにヘイトな気持ちを抱いてるんです。でも、この家具屋では、『価格以上のサービスを』という、上の老人たちが作成した、消費と労働の均衡を破壊しなさいという、このカタカナの店名と同じくらいには、とても美しいスローガンに基づいて、『お客様のため』を言い訳に使える内容であれば、後任に、どんな理不尽なことでも言えるんです」
三人のうち、女性の二人が店長と呼ばれた男性に具申をしていた。
「そうですとも! そしてこれが本当の社会だ! と言ってくれる……、私たちは、こんな、一昔前なら社会どころか倉庫裏の屯にされかねないような環境を提供してくれる、この店舗での雇用を気に入っているんです。おかげで、例えば信号無視をして通りすがりの市民から注意されて不機嫌な日でも、後任の細かなミスを見つけ、それをもって後任の人格攻撃をし、自分が同じミスを同じくらいしているという事実を握りつぶし、その人格攻撃も、お店とあなたの成長のために言っているとの言い訳も通じて、とても爽やかな気分に戻れるのです」
「なのにあの若い男は……、俳優のような顔もしていない癖に、後任に対して優しく、かつ確実にすぐに覚えられそうな教え方をして接しています……! その存在を見ていると何か不愉快です! これは大変なことじゃないですか」
「そうです、これはお店の危機です! 私たちは聡明になどなってはいけない、そう、例えるなら、鶏の頭程度の思考の者でなければならないし、鳥に似た程度の思考しか持っていなければいないほど望ましい、この店はそれが暗黙のスローガンとなっているはず……、あの男性に、言いがかりをつけて、店舗の成績に影響しない、自己都合退職にするよういってください」
「う、うむ……」
男性はその場で考え込んだ。
「ほら、あなたも、私たちに加わって。大勢でいうことだけが、正しいことっていつも言われてるでしょ!」
店長と話していた女性店員のうちの一人が、ずっと黙っていた男性に促した。
「え、ええ……、店長、彼は、この仕事に向いていないのでは……」
促された男性も同じ内容を口にした。ただ、その口調はたどたどしかった。
(どうして俺はこんなことを口にしているんだろう……。確かに彼のミスが多いというのは風評被害だ……、でなければ、彼はなんらかの保障を受けてないといけない体のはずだ……。この女性たちの言っていることの方が、一見すると、まるで昔から言われてきたことのようで、王道のことのように聞こえる……、そして俺も、何か引っかかりながらも、彼女たちに相槌を打ってきた……。でも、このまま、この女性たちの目論見のように、こんな軽薄な気持ちで、彼を凄惨な目に遭わせてしまって、本当にいいのだろうか……)
「心配は要りません。そりゃ、彼だって、泥棒や痴漢が相手であれば、正義の目で私たちに厳しい視線を向けるはずですが……、今なら騙せます。彼は、会社法人の従業員が、ヤクザのようになっているとは気づいていません……胸のうちに何か引っかかるものがある、とはときどき言ってはいますが、上司が言ったことを、学校の教員のように、そして泥棒ではないかのように、素直に聞き入れ、自己否定をホイホイと始めますから」
「ええ、そうです、だから、全然、心配する必要はないと思いますよ」
一方、二人の女性従業員はさらに続けた。
「ふむ……」
男性は腕組みをした。
やがて二人の女性店員が退出した後、眼鏡の若い男性が入室してきた。
「実は私はかねてから君のことを考えていたのだが……、君の職務のミスは多すぎる。これでは店舗の先行きに酷い影響を及ぼしかねないのだ……(こんな見え透いたことを言って、意味があるのだろうか……)!」
「そ、そうなのですか、それは……本当にすみませんでした……」
店長の言葉に、男性従業員は謝罪した。
「(な、信じただと……俺のことを大切に思ってくれているんだな、ありがたい……、む、いや、ここはそういうことを思っている場合ではない)もう店は、君の能力では、お仕事は無理だと思っているんだが……」
「えっ? それは困ります! そんなニュートラルなことを言われて、そんな理由でほいほい生活を振り回されるわけにはいきません!」
「しかしなあ……この成績では……。ふむ、まあいい、この話は気にしないでくれ。ところで……君は、子どもの頃、どんな仕事がしたかったのかな」
男性の反論を聞き、不意に店長は話題を変えた。
「え……そうですね……、子どもの頃は、写真家とかに憧れてましたね……」
男性は話題が変わったことで再び落ち着いて話した。
「ほほう! しかしなぜ写真……美しい光景が好きなのかね?」
店長は突然、声を上げて嬉しそうに相槌を打ち、そして聞いた。
「そ、それもありますけど……えっと、それは一次的なもので、それを通じて、写真を見た人同士の心と心が繋がりあったら、そういうことも素敵かな、と思いまして……」
男性は照れながらたどたどしく言った。
「おおっ! それはいいな、今も、何かそれに向けて頑張っているんだよね?」
店長は突然、不自然に男性を称えた。
「え……? そんな、今は殆ど……」
「でも少しはあるだろう?」
「ま、まあ……、そういう旅に出かけるくらいは……」
「そうか! ふむ、時間を取ったね、もう戻っていいよ」
店長ははしゃいだように相槌を打ち、彼を退室させた。
「もういいよ」
そして店長は部屋の奥に顔を向けた。すると、物陰から先ほどの三名が出てきた。
「写真家……自己都合退職ですっ!」
「ええ。後から書類を見て抗議するのはとても負担のかかること! あの人ではできないでしょう」
「え、そんなにうまくいくものなのか? こんなマズいことをして、もし抗議されたら……」
男性が強張った。
「へええんだ! そんなの簡単に押しのけちゃうよ」
女性がさも自分は正しい、と言わんばかりに、軽いノリで断言した。
「しかし……法的にこれは危なくないか……?」
男性はなおも不安を口にした。
「へぇぇんだ! あんなやつ、私たち健全な社会人の力で、どこかにやっちゃえばいいんだ」
もう一人の女性も言い切った。
「自己都合ということは、失業保険に待機期間があるはずなのですが、その間彼はどうすれば……」
男性が暗い顔になった。
「なんにもなぁぁい」
店長は浪曲のようにおどけて言った。
「きゃーかわいそー、くすくす」
女性もまたおどけて言った。
「だよねー、立派な見識や論理的思考を持っているけど、写真の撮影を通じて人と人を暖かく繋ぎたいって、立派な心ももっているけど、私たち女性に対して、彼は忠実で獰猛なペットになろうとしなかったんだよ、人間関係において対立の概念以外全く知らない私たちの存在に気づいてないんだ、だからあの立派な見識も何の意味もないんだよー、わぁもったいなあいー、けらけら」
もう一人の女性もおどけた。
「はははは、そして、彼は塗炭の苦しみを味わうだろうが、そんなところまで我々は想像しない、『すぐにどこかで元気にやっているさ』って無責任にへらへらしていればいいんだ、ふふふふ」
店長が続けた。
(……俺はこの人たちが人として誤ったことを言っていると気づいているが……引き続き、冗談で、こんなネットスラングのような発言に一緒になってはしゃいでいていいのだろうか……)
もう一人の男性は、その場の雰囲気が、それ自体、人間として適応すべき内容のものなのか真剣に困惑し、黙ったままだった。
「やれやれ、一息ついた、ちょっとみんなで休憩に行こうか」
「はい!」
「え、ええ……」
店長が誘い、それに従業員らは従った。そして彼らは学園通りの歩道に出てきた。
「ん……?」
そこは普段は学生を中心に買い物客や車両でごった返していたところだったが、今日に限って、人の気配が全くしなかった。
「何か変ですね……」
「誰もいない……?」
従業員たちは不思議に感じ、きょろきょろと周囲を見渡しながら、近くの自動販売機まで進んだ。
「なんで誰もいないんだ……?」
「はい……。あれ? あ、あそこに一人誰かいます!」
女性の従業員のうちの一人が声を大きくしていった。彼女が見つけた人物は、自分たちの方に進んできた。
「ん……?」
店長が姿を見ると、その者は野球のユニフォーム姿だった。
「トレーニングでもするのかな……?」
「いずれにしても、人気のいない状況ですが……」
「不審者じゃなくって、野球が好きな人でよかったですね」
女性たちが、あたかも猛獣を捕獲したかのような、歪んだ笑顔で言い放った。
「なんで誰もいないのか聞いてみませんか」
「え、ああ……」
従業員たちが相談しているうちに、ユニフォーム姿の男性は、彼らの前をすれ違い、数歩歩いたのちに立ち止まった。
「ん……?」
「行き逢った……」
ユニフォーム姿の男性が呟き、そして従業員たちの方に向かって戻ってきた。
「え……」
「……なっ!」
彼はさっと女性のうちの一人の胸倉を掴んだ。女性はそれに驚かされた。
「鬼玉をよこせ……」
「え? ちょ、やめ……」
「おい、やめなさ……うぐっ、ううっ」
店長が止めようとすると、ユニフォーム姿の男性は女性を離し、彼の胸倉を掴んだ。
「きゃああ!」
もう一人の女性が悲鳴を上げた。
(な、なんだ……? スポーツのユニフォームを着ているから、健全な人物だと思ったのに、通りすがりに人を襲撃するなんて、まさに不審者じゃないか! いったい俺は何を信じていたのか……、もしやそれはマインドコントロールだったのか……、いや、そんなことより、お、俺はどうすれば……、安全だと思っていたから店長やこの女性たちに追随していた……、くそっ、まただ……また頭が混乱してしまう……!)
一方、男性は足を竦めたまま苦悶した。
耐の家で、耐、司、雲雀、唯の四人がオンラインの対戦ゲームをしていた。また珠洲と美濃は耐の後ろから中腰で彼女のゲームの画面を眺めていた。
「これでバトルするんだけど……どうかな……」
耐が珠洲に聞いた。
「あっ、ご、ごめん……私、こういうの、難しくて苦手で……」
珠洲は焦りつつ詫びた。
「あ、大丈夫、気にしないで…」
「でも意外……、珠洲ちゃん、頭は良いのに……」
司が呟いた。
「僕も無理かも……」
美濃が言った。
「えっ」
「なんていうか、覚えるのは得意なんだけど、閃きのクイズとか、そういうのは、多分殆どわからなかったりするかも……」
「それ、私も……」
美濃の説明に珠洲も同意した。
「得意不得意はあるんだね、誰でも」
雲雀が頷きながら言った。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「あ……」
「うん……」
耐は手を止めた。珠洲も、はっと真剣な表情になった。すぐに耐が玄関の方に向かって部屋を出て行った。
そしてやはり彼女は新蘭を連れてきた。
「あ、今日も北山さんと、謝さんは……」
「はい、クラス委員のお仕事で……偶然でしょうか……」
新蘭の発言に耐が疑問を感じた。
「わかりません……末鏡の力は、思わぬ方向に働くときも有り得るので……」
「なるほど……わかりました……、でも大丈夫ですよ」
「はい」
珠洲と美濃は、新蘭に笑顔を向けた。
「ちっ……、後でだ……!」
三原市の学園通りで、チェーン家具店舗の店長の胸倉を掴んでいた野球のユニフォーム姿の、体格の優れた男性は、突然彼を突き飛ばした。
「うっ……」
店長は地面にへたりこんだ。その目の先にユニフォーム姿の男性の背中があり、その奥の道路の中央に、直径数メートルほどの巨大な白い球形状の光が出現していた。その光はすぐに消え、そしてその中にいた、珠洲、美濃ら六人の子どもたちと、新蘭の姿が露になった。
「誰もいない……、また、虚空のようですが……」
新蘭はユニフォーム姿の男性らの方に目を向けた。
「神霊さんは……」
耐が周囲をきょろきょろと見渡した。店員たちと、ユニフォーム姿の男性もその目に入った。
「わからない……、でも、あそこに何人か人がいる……虚空なのに、なんで……?」
司が不思議がった。
「んー、ちょっと、聞いてみようかな……」
雲雀がそう言いながら彼らの方に向かって歩こうとした。すると、ユニフォーム姿の男性がそれに気づき、雲雀の方を向いた。
「ふふ、天路の従者だな」
「え……?」
お互い数歩歩いたところで、雲雀の方はその歩みを止めた。
「あなたは、野球の選手の姿のようなんですが……え……?」
「行き逢い神という者を知っているか。閑散とした道でその者とすれ違うと、寒気、飢餓感などがし、その場で体力を失ってしまう。その者には穀物を与えたり、衣服で仰いでやると逃れられる……、その場で事故死した霊の仕業とも言われている……、もちろん、霊はそのようなことはしないので、人の霊を尊重しない者への戒めの脅しや風評被害の類だし、ないしは、通常の不審者だ」
ユニフォーム姿の男性はそう言った。
「え……不審者……では、野球のユニフォーム姿なのは……」
今度は唯が尋ねた。
「愚かな……ここ最近では稀にみるほどに愚かな風潮だな。奠都による悪影響そのものだ。このような衣服を着ている者は正常、そして、体力が微力な者は異常とされ、それが不審者という心理操作に現世全体が大規模に覆われている……、奠都措置の悪しき威力は言葉を失うほど見事だ、ここまで末鏡が本格化するとは……」
「え……まさか……」
耐が言葉を震わせた。
「察しの良い者もいるな。その通りだ、末鏡の発動の大きなきっかけの一つ、あまりにストレートな善悪の反転の心理操作、善を悪とし、このような、ただでさえ一歩間違えればすぐに、東京風空気読みを是とし、弥陀の本願読みなど一寸も顧みない、スポーツマンをその逆に善とする、そんな風潮が、この我を惑わせたのだ……!」
「そ、そんな……」
司も息を呑んだ。
「天路の従者よ、我にはこの男か女の鬼玉が必要だ、我の妨害をする者は、幽世へと……」
「……! 珠洲ちゃん……!」
「うん……!」
ユニフォーム姿の若者、行き逢い神は、右手をさっと挙げ、美濃と珠洲の方を向いた。二人も行き逢い神の動きに注視した。
「消え去れ……!」
行き逢い神は神幹を放った。しかしそれは珠洲と美濃にではなく、その奥の道路のフェンスに衝突した。
「な……どこだ……?」
行き逢い神は二人を見失い、目をきょろきょろさせた。
「美濃くん……!」
「うん!」
二人は行き逢い神の背後約五〇メートルほど離れたところに、光筒による瞬間移動で飛んでいた。
「な……しまっ……」
行き逢い神が二人を見つけたときには、既に二人は光筒を持つ手を胸の前まで上げていた。
「し、視界から離れ……」
行き逢い神は狼狽えた。その直後に、珠洲と美濃の光筒から薄緑の光が放たれ、一気に行き逢い神に直撃し、大きな音と多量の煙が発生した。
「やった……?」
「わからない……」
耐と司もその様子を見て呟いた。
「えっ……」
その次の瞬間、煙の中から多数の麻縄が珠洲と美濃の方に飛翔してきた。
「ええっ……!」
麻縄は二人の体をそれぞれ縛り付けた。
「二人とも……!」
その光景を見た耐が叫んだ。
「おっと……寄るな……」
薄れていく煙の中から行き逢い神が姿を顕した。同時に麻縄が珠洲と美濃の方にさらに飛翔し、それは高さ一メートル程度の壁のようになった。
「う……!」
「近寄れない……?」
耐、唯などが焦った。
「行き逢い神には衣服などで煽ぎ、暖めてやるのもよいと言ったが……これはその衣服などに古来より用いられてきた麻でできた縄だ……私の得意とする神能の一つだ」
行き逢い神は得意そうに言った。
「さてあの二人だが……それ」
「あああっ」
「わあっ!」
行き逢い神が呟くと、麻縄は二人の左右の足首にまとわりつき、股を広げさせながら逆さ状に二人を吊り上げた。
「美濃くん……!」
「珠洲ちゃん……!」
その様子を見た他の子どもたちはさらに慌てた。
「……うう……」
「苦し……」
二人は悶えた。
「さて……無抵抗なので、なんでもしてやれるのだが……」
「――」
そして、行き逢い神の言葉を聞いて怯えた。
「逆さでなくしてやろうか?」
「え……」
行き逢い神は薄ら笑いを浮かべながら言った。二人はそれを不思議に思った。
「そら、それをつたえ」
行き逢い神は、逆さにしている二人の眼前に、二本の麻縄、計四本をそれぞれ降ろした。
「え……」
「う……うぅ……」
珠洲と美濃は、ともに、両足はそれぞれ別に吊るされているものの、上半身は、片手ずつそれぞれ、行き逢い神が垂らした麻縄を掴んで、体勢を取り戻した。
「なんで……」
「助けてくれるの……?」
二人は彼に聞いた。
「いや、そのつもりはないな」
「え……」
行き逢い神はそう言い放ち、二人は強張った。
「お前たち、いつまでその縄を掴んでいられるのだ?」
「えっ……」
「力尽きたらまた逆さの苦しみを味わうことになるな。そうならないよう、せいぜいそれを掴むがいい、自力でな」
「あ……そんな……」
「……嫌……降ろして……」
珠洲と美濃は怯えながら嘆願した。
「珠洲ちゃん……!」
「美濃くん……」
それを見た耐、司らも驚かされた。
「あう……みんな……」
「……誰か……助けて……」
珠洲と美濃は蚊の鳴くような声を絞り出した。
「その体勢だと、何をしても構わないようだな」
行き逢い神が不敵に言った。
「――」
「え……」
それを聞いた二人はさらに蒼ざめた。その眼前を、数本の麻縄が舞うように飛んだ。
「二人とも……!」
「あ……ああ……」
それを見た雲雀は叫んだ。また唯は失声した。
「嫌……」
「……助けて……」
美濃と珠洲さらに嘆願したが、麻縄の飛翔は止まらなかった。
「痛っ! ああっ……!」
「嫌あっ……! あうっ!」
数本の麻縄が、両手でそれぞれ縄を掴んでいる二人の上半身を中心に強く叩いた。
「手を離せば麻縄は届かないな……、その代わり、逆さになるが」
行き逢い神が呟いた。その間にも、麻縄は二人に衝撃を加え続けた。
「ううっ……! 痛っ……」
「やめ……! ああっ」
その時、白い光が二筋美濃の方に飛翔し、彼の方足首を括っている麻縄に当たった。
「えっ……ああっ……」
ぶら下がり状態になった美濃はすぐに疲れ、ぱたと地面に落ちた。
「な……?」
その様子を見た行き逢い神が驚いた。続いて、珠洲の方足首にもそれぞれ二本の白い光が飛んできて、それを縛っていた麻縄に衝撃した。
「あふ……」
珠洲もすぐに力なく地面に落ちた。
「はあ……はあ……」
二人は地面でぐったりと横になった。
「誰が神幹を……!」
行き逢い神は背後を振り返り、また焦りから、全ての麻縄を消した。そこには、黒の法衣に木蘭のシンプルな袈裟を纏った若い僧侶がいた。
「え……」
「お坊さん……?」
耐、司らも彼に注目した。
「貴様……、ただの僧侶ではないな……!」
行き逢い神が訝しがった。
「その通り……、行き逢い神よ、和霊信仰というものを知っているか」
僧侶は問うた。
「和霊信仰……?」
耐がその言葉を聞き返した。
「はい……、近世の御霊信仰です」
新蘭がその隣で答えた。
「江戸初期に、仙台藩の伊達氏が宇和島藩にも来ました。そこの家老の山家公頼(やんべきんより)が、武装集団によって暗殺され、藩主伊達秀宗もこれを黙認し、仙台の本家政宗からの叱責程度で済み、改易もなかったため、不穏な情勢になりました……。公頼は善政で知られ、また秀宗の本家からの監視なども兼ねていたため、民衆らは公頼を悼み、さらに、政敵であった侍大将の桜田や、秀宗の子息らが相次いで、事故死や遭難死となったため、近世ではありましたが御霊信仰が発生、公頼は和霊神社として祀られることとなりました……。その信仰はやがて瀬戸内地方において、農業や漁業の神へと変貌していきました……ですが、そちらのお坊さん、どうしてそのことを……?」
新蘭が、出現した僧侶に聞いた。
「ここ三原の海に、佐木島(さぎしま)という島がある。その向田野浦(むこうたのうら)の波打ち際に、高さ約三メートル、幅約五メートルの巨岩があるが、その岩には地蔵が彫られている。銘文によると、正安元年こと一三〇〇年、平重盛が願主となり、念心を仏師とし作成されたものとされ、潮の満ち引きにより姿が全身になったり、首から上だけになったりする。その後、宇和島の和霊信仰にこの地蔵が習合し、「われい」の名が「割石(われいし)」に代わり、割石地蔵となり、元は御霊だった信仰が、海洋の安全を祈る地蔵となったものである……。我はその割石地蔵の神霊……、天路の従者の皆々方、此度は京域より、ようこそこの三原に起こされました」
僧侶は割石地蔵の神霊と名乗り、耐、司らに挨拶をした。
「割石地蔵さん……?」
「はい……末鏡の影響はこの三原にも現れています、その行き逢い神もその一つでしょう……これを幽世に戻さねばなりません、天路の方々、どうか私に力をお貸し願えないでしょか」
「あ……、はい」
「もちろんですっ」
耐と雲雀がそれに答えた。
「わかりました……」
割石地蔵の神霊は二人に頭を下げた。
「……?」
司は彼の頭を下げる時間が少し長いことを不思議に思った。
「く……割石地蔵の神霊とな……!」…
また、行き逢い神の神霊は、割石地蔵の神霊の姿を見て悔しさを顕わにした。
「天路の従者殿、光筒を……」
「はい……」
「わかりました……」
耐と雲雀は割石地蔵の神霊の言われるままに、光筒を胸の前まで持ち上げた。
「……くっ……、割石地蔵が……」
「……?」
そのとき、女性の声が子どもたちの背後からした。耐たちが振り返ると、そこに白の小袖の上に紅梅の袿を着た若い女性がいた。
「これで……!」
その女性は突然右手を少し上げ、白い光、神幹を放った。それは耐のすぐ脇を通過し、付近の木造の民家の壁に激突した。するとすぐにその家はメラメラと黒煙を上げて燃え始めた。
「え……」
「あ……」
その光景に子どもたちは慄いた。
「ご、ご安心ください、ここは虚空上、私たちと彼ら以外は、実害は皆無です……!」
新蘭が慌ててフォローした。
「ですが、あのようなことをするとは……、天路殿、危ないですから、そちらの神霊から先に光筒を向けましょうっ!」
割石地蔵の神霊が、行き逢い神の神霊越しに叫んだ。
「は、はい……!」
雲雀が慌てて、再度光筒を自分の胸の前に持っていった。
「では、私から参ります!」
割石地蔵の神霊は右手から白い光、神幹を放った。
「え……?」
それは行き逢い神の神霊の脇を通り、雲雀の方に飛翔した。
「あああっ!」
雲雀はそれをまともに喰らい、後ろに倒れた。
「え……」
「……な……」
耐、司はさらに驚かされた。
「割石地蔵さん……」
唯は恐る恐る割石地蔵の方に顔を上げた。
「これは……、もしや、あなたも……?」
そして彼に尋ねた。
「そう……お察しがいいですね……。私も既に、末鏡に惑わされている神霊だ」
割石地蔵の神霊は言い放った。
「そんな……惑わされた神霊ばかり三人……」
「嘘……、……え?」
耐、司と唯はその光景を見て震えた。さらに唯は、袿の女性も右手を軽く上げ、白く光らせていることに気づき、茫然とした。
「あ……」
耐もそれに気づいた。
「ええい!」
袿の女性は神幹を発した。
「嫌っ!」
耐は涙ながらに目を閉じた。
「ぎゃあっ!」
突如、行き逢い神の神霊が荒い声を出した。また、耐と司の方には何も起きなかった。
「え……?」
耐が目を開けると、司と新蘭が茫然としていた。
「な、何が……」
「あの女の人が、行き逢い神を……」
司が耐に告げた。
「え……」
耐はそれを聞いて茫然とした。
「あなたはいったい……」
唯がその女性に尋ねた。
「申し訳ありません、先ほどは、割石地蔵を狙ったつもりが、手元が狂い、民家に神幹が当たってしまいました……、私は御調(みつき)八幡の神霊です」
彼女は御調八幡の神霊と名乗った。
「あの、あなたは惑わされてはいないのですか……?」
「はい……。三原駅から北にバスで三〇分ほどのところにあり、奈良時代、宇佐八幡宮神託事件により、この地に流罪となった和気広虫が、八幡神を祀ったことを始まりとする、備後総鎮護の社です。社叢の中心はシイですが、これはシイの天然林としても今や珍しいものとなっています。また、秀吉が訪問した際に手植えをしたと伝えられる桜が著名で、これは春の花踊りのメインの花となっています。中国地方の山中に、目を見張るほどの桜が咲き誇り、新たな春を迎え、人々の新たな門出を祝うのですが……さて……それよりも……」
御調八幡の神霊は、あらためて割石地蔵の方に顔を向けた。
「末鏡が……この三原の主要な神霊にまで影響を及ぼしているようですが……あれを鎮魂しないといけません」
御調八幡の神霊はきっと言った。
「くっ……そうはいかぬ……天路の従者!」
割石地蔵の神霊も右手を掲げ、それを白く光らせた。またその眼光は唯を睨んでいた。
「へ……? あ……」
彼と目のあった唯は怯んだ。
「これは……! 神幹は、狙いの技術も要りますが、一方で、迎撃にも長けていますので……」
御調八幡の神霊が呟いた。
「喰らえい!」
割石地蔵は神幹を唯めがけて放った。
「ええい!」
一方、御調八幡の神霊も神幹を放った。それは割石地蔵の放った神幹の方へ誘導され、二つの神幹が空中で衝突し、大きな音とともに爆風ができ、周囲に土煙ができた。
「はあ……はあ……よかった……」
唯は自分の両手を見ながら、自分が無事であると気づき安堵した。
「ええ……」
御調八幡の神霊もそれを見てほっとした。
「御調八幡……、私を忘れていないか?」
「……!」
そのとき、子どもたち越しに行き逢い神の声がした。御調八幡がはっと彼の方を向くと、行き逢い神は既に神幹を手にしていた。
「な……」
「今度は貴様の番だ!」
行き逢い神は勢いよく神幹を放った。
「あ……」
それは茫然としていた御調八幡の神霊に直撃した。爆音とともに彼女の姿は煙に包まれ、それが再び薄らいだ時、彼女は仰向けに転倒していた。
「あ……」
「ひ……」
その様子を見た耐、唯らが息を呑んだ。それとほぼ同時に、周囲にじわじわと雨雲が出現した。せいぜい数階のビルの高さ程度の上空を中心に。
「へ……?」
司がそれに気づいた。すぐにそこから雹が降ってきた。
「これは……?」
「その雹を舐めてみよ」
「……?」
司は訝しく思いながらも、割石地蔵の言うままに票の一粒を舌に乗せた。
「しょっぱい……潮……?」
「そう……満潮時には我は肩まで瀬戸内の海に浸かる……。同時にその海水にも信仰が生まれた。それはその海水の潮だ。我の神能として得意とするものだ」
割石地蔵は得意げに言い放ち、さっと右手を上げた。すると雹同士が集まり、その大きさが直径数十センチ程度にまで拡大し、代わりに降る個数は減少した。
「は……?」
「上からのを見つめちゃだめ! 横に逃げて!」
「あ、あっ」
上から降ってくるものに対し、人は心理的に見つめがちになり、衝突しやすい、それを事前に知っていた唯のアドバイスを聞き、司は慌てて横に避けた。
「唯ちゃ……」
そして唯の様子を振り返った。
「あ……」
そこに、額から血を流し、それを手で押さえながら、地面に臥している唯の姿があった。
「ゆ……」
耐と司は慌てて唯の方に向かおうとした。
「来ちゃだめ! 上から……」
唯は必死に二人に叫んだ。
「あっ……」
「く……」
二人は必死に巨大な雹から逃げ回った。
「ふふ、あと二人、いつまでもつのか……」
割石地蔵の神霊はその光景を悠然と眺めた。
「……あ……」
唯は悔しそうに同じ光景を眺めていた。しかしその意識はじわじわと薄れていった。
「はあ……はあ……」
「嫌……助け……はぁ……」
雹から逃げ惑う耐と司の声も次第に小声になっていった。
「あ……」
そして耐の瞳孔がゆっくりと小さくなった。
「避けれない……」
彼女の真上から、雹のうちの一つが落下してきていた。
「耐ちゃん……」
その様子を見た司は力なく彼女の名前を叫んだ。
――バン!
そのとき、突然雹は空中で砕け散った。
「……え……」
耐は自分に降り注ぐ小粒の雹を眺めた。
「耐ちゃん! 大丈夫?」
その後ろから、淡水の声が聞こえた。
「あ……」
「え……」
耐と司は彼女の方を向いた。
「よかった……、ちょっと待って……、淡水ちゃん……!」
「うん……!」
そこに出現していた弘明と淡水は呼応し合い、光筒を手に、雹の数々を凝視した。するとすぐにそこから、リズムよく、次々と薄い緑色の光線が発された。それらは雹を、こちらも同じくリズムよく砕いて言った。
「く……、まだ天路が……」
割石地蔵は地団駄を踏んだ。
「あのお地蔵さんが諦めてくれたら、みんなを治癒しよう」
「うん!」
淡水の言葉に弘明も相槌を打った。
「二人の天路の従者よ……、私と行き逢わないか」
そのとき、行き逢い神の声がした。
「え……」
「何て……?」
二人がその言葉に戸惑った一瞬のうちに、行き逢い神はすっと二人を後ろから追い越した。
「えっ……?」
「あ……」
そして、二人の目の前から一つの神幹を放った。
「ああっ!」
それは弘明の脇を直撃した。彼はその場で横転した。
「弘っ……っあ……」
淡水は弘明に声を掛けようとして、気配を感じて行き逢い神の方に向き変え絶句した。
「お前もだ!」
行き逢い神は既に新たな神幹を手にし、そしてそれを淡水の方に向けて放った。
「いやああっ!」
若干の土煙が俟った後、彼女も仰向けに倒れていた。
「淡水ちゃん……!」
耐は二人の様子を見て愕然とした。
「耐ちゃん、これ、治癒より先に戦おう……」
司が耐に言った。
「うん……あっ……」
耐も司の言葉に頷き、彼の方を向き、そして先ほどの淡水と同じように絶句した。
「ふふ、お前は先ほどの従者と同じような顔をしているな」
割石地蔵がそこにいた。彼は耐の方を向きながらも、司の方に向けて、神幹を放とうとしていた。
「司く……」
「え……あ……」
耐の辛うじての呼びかけに反応し、割石地蔵の方を見た司も絶句した。
「くたばれ……!」
「い……ああああ!」
割石地蔵の放った神幹は司に衝撃した。
「つか……く……!」
耐はその様子に驚愕しながらも、割石地蔵の方に強気な顔を向け、光筒を強く握りしめた。
「ふふ、そのような余裕がお主にあるのか……?」
対面しているにもかかわらず、割石地蔵が嗤った。
「そうだな」
「え……?」
斜め前に移動していた行き逢い神もそれに同意した。
「よく見てみろ、天路の従者はもうお前だけだ」
「え……? え……」
行き逢い神が言い放った言葉に耐は再び絶句した。
「あ……そんな……能源は……ん……?」
新蘭もその光景に慄き、懐に手を伸ばし、はっと目を変えた。
「今度こそ終わりだ、天路の従者ども……!」
「あ……ああ……いや……」
耐は気丈にふるまおうとしたが、目からは勝手に涙が零れ出していた。
「宝塚さん、移板、行けます……!」
そのとき、新蘭の叫ぶ声がした。
「え……」
耐が戸惑っているうちに、彼女と、珠洲、美濃ら倒れている子どもたちと、量販店から出てきた従業員たち、そして、御調神社の神霊の体が白い色の光に包まれ始めた。
「な……」
その様子を見た行き逢い神の神霊と、割石地蔵の神霊は奇妙に思い、戸惑った。各自の白い光はさらに濃度を増していき、そしてその後すぐに、包んでいた人々ごと消滅した。
「何、これは……!」
「天路……どういう技を……?」
二人の神霊は困惑した。
「案ずることはない、惑いの神霊よ……」
そのとき、二人の背後から低い男性の声がした。
「な……ん?」
「これは……」
二人が背後を振り返ると、その空中数メートル程度のところを中心に、漆黒の霧がかかっていて、その先の視界は遮られていた。
「くく、我が恐ろしいか?」
「な、何を!」
霧の中からした声に怯みつつも、二人の神霊らは神幹を作ろうとした。
「はは、怯えることもなかろう」
霧の中の声は高笑いをした。それを見た二人の神霊は、驚きつつ、顔を見合わせた。
「天路の巫女が用いたのは移板だ。あやつらは集団で逃げたようだ」
「なんと……」
「おのれ天路、いにしえと同じように、我らの行方を阻むか……」
「問題はない。見るがよい、移板の通過した箇所には霊気の跡が残っている。それをつけていけば……」
「なるほど、いずれまた奴らのもとに着きますな」
「ふむ……しかして、お主は一体……?」
行き逢い神と割石地蔵は、黒い霧に向かって尋ねた。
「我は末鏡とその意思を一体化した者、安芸一宮、厳島の神霊だ……」
その霧の声は答えた。
「なんと……」
「これは……」
それを聞いた二人の神霊も安心すると同時に、不敵な笑みを浮かべた。
曇り空の中、とある山中の一部から、突然、白い光が、直径数メートル程度の弧状に広がった。
その中から、先ほど三原市学園通りから姿を消した、子どもたちや従業員たち、新蘭、御調神社の神霊が姿を顕した。怪我をしていたり、疲弊が限界に達していた、耐以外の子どもたちは横たわったままだった。
「え……ここは……」
「えっと……、すみません、急ぎだったので場所は不明です、ですが、移板での移動ですと、何らかの神霊に縁のある場所であることが多いです……」
「はい、ですが……ぱっと見たところだと、普通の山の中の階段かも……」
耐は新蘭の説明に頷きつつも、周囲を一瞥し、不安そうに呟いた。
「それは……確かに……」
新蘭も俯いた。
「あっ、それより、みんなの治癒だっ!」
耐は慌てて、唯の元に駆け寄った。
「唯ちゃん、大丈夫……?」
「……あ、た……。頭は困るよね……静脈みたいだけど……」
巨大な雹の直撃を受けた唯は横たわりながら自嘲した。
「う、うん……ひとまず、静かにして……」
その様子を見た耐は涙をこらえながら彼女の頭部に光筒を宛がった。それは薄い緑色の光を放ち始めた。
「……耐ちゃん」
「待ってってば、唯ちゃん、まだ静かに……」
話をやめさせようとする耐を唯は振り切った。
「言わせて……。前、富山の射水の人たちのおかげで付けてもらった筒爪があるんだ。それ、念のために、耐ちゃんの方に付けておいて……」
「え……う、うん……」
耐は素直に頷き、唯の光筒を手に取り、急いで筒爪を自分の筒爪に付け、再び唯にそれを向けた。
「もうちょっと待って……」
耐は唯に再度言った。
「待ってどうなるというのかな」
「!」
突然行き逢い神の声がした。耐が驚いて振り返ると、そこに行き逢い神の神霊と、割石地蔵の神霊がいた。
「あ……早い……」
「あのお方の言う通り、霊気の跡をつけてきたが……」
「移板は、さほどの距離を取れなかったようだな……」
二人の神霊はほくそ笑みながら言い合った。そして、その背後の上空数メートル程度のところには、いつの間にか濃い霧がかかっていた。
「く……どうして移板のことを……?」
新蘭が悔しく思いながら二人に尋ねた。
「それは……我が伝えたことだ……」
黒霧の中から厳島の神霊の低い声がした。
「! あなたは……?」
「我は安芸一宮、厳島の神霊……おそらく、既に、他にも同じことをした神霊もいそうだが……末鏡にその意思を委ねた者だ」
厳島は新蘭に名を告げた。
「な……厳島も、末鏡に意思を与えたというのですか」
新蘭は憔悴した。
「そういうことだ、探すのに手間がかかったな……」
「おかげで我らの苛立ちも激しい」
「え……」
行き逢い神と割石地蔵は立て続けに耐に言い、そして、殆ど同時に右手を上げ、それを白く光らせた。それを見た耐の震えはさらに増大した。
「くっ……!」
「おい、なんのつもりだ?」
一方、移板によって、天路の従者たちとともにその山中にやってきた従業員らのうち、同僚の退職に内心否定的だった男性が、行き逢い神と割石地蔵の方に向かって駆けだそうとし、それを見た店長が慌てて彼を制した。
「あの神様の言葉から察するに、彼らはあなたたちの心に共鳴し、おかしな世界を作り出そうとしている様子です……! あの子どもたちは、神様たちに、それをやめさせようとしているんじゃないですか? あんな幼い子どもたちが、あれほどのダメージを受けているのも、元はといえば、あなたたちのせいです! そして、僕はそれを、今まで、俯いて、見て見ぬふりをしたり、冗談ので加担したりしていた……、それが身を守る確実な方法などと……でも僕だって、「社会に適応」などという、きれいなきれいな恐ろしい言葉には、どれだけ合わせようとしても、感受性の高さがオーラで出てしまい、あっさり、いずれ同僚と同じことになるのは間違いないって、薄々気づいていて、その直感に見て見ぬふりをしていただけなんです……、根元から、君たちには、単なる対立の概念しかない、そんな高年齢ですが、人としての話し合いとは違うものしか通じない存在として見なすべきだったんです……、あの子たちを救うのは、僕のせめてもの償いであり、また、君たちとの「社会の適応」などでは一切有り得なかった、唯一の、僕の、自己実現なんだ……!」
そう言って彼は、行き逢い神の方に、地面に落ちていた石ころを投げた。それは行き逢い神の足元に落ちた。
「ん……?」
行き逢い神は、それを見て、男性の方を睨んだ。
「ひ……」
男性は怯えた。
「邪魔者がいるな。怯えているようだが」
割石地蔵も彼を見て言った。
「ああ、そうだよ、僕は、君たち神様が怖いから怯えているんだ。でも、この女たちの言う通りにして、その『社会に適応』なんかをしているときとは違って、自己実現の満足を得ているさ!」
男性は言い切ると同時に、もう一つ石ころを投げた。しかし、それも行き逢い神の足元を転がった。
「ふむ……安心するがいい。お前を生かしたまま、お前の守りたいこの天路の従者を先に始末して、お前の自己実現を奪ってやる。そちらの方がより残酷だということくらい、私もわかっているのだ。そこにいる、お前以外の、その店の、人間としての価値を見出せなかった、人間の体をしたゾンビの群れとは違ってな」
行き逢い神は男性に告げた。
「そんな……やめろ……やめて……その子を殺めないで……」
男性は悲痛に叫んだ。
「無駄だ……」
「ひっ……」
割石地蔵の睨みに、耐はさらに怯んだ。
「最後の一人の天路よ、我ら二人分の神幹を浴びるがいい!」
行き逢い神が叫んだ。
「あああっ!」
すぐに、割石地蔵が悲鳴を発した。
「な……ぎゃああっ」
続いて行き逢い神も雄叫びを上げた。
「……え……」
二人の神霊が煙に包まれた様子を見た耐は驚かされた。
「よかった……間に合ったのですね」
「……?」
その時、耐や子どもたちの背後から、若い男性が呟く声がした。振り返るとそこに、茶褐色の法衣の上に、紫で白の丸い紋を碁盤状に沢山つけた袈裟をまとった僧侶がおり、耐はさらに当惑した。
「天路の方々が我が境内にお越しとは、何事かと思ったのです」
「境内……あの、お坊さん、ここは山の中じゃないんでしょうか」
耐がその僧侶に尋ねた。
「はい、まず私はここ千光寺の神霊です。ここは、尾道市にある千光寺に作られた、文学のこみちという名の参道の脇です。その名の通り、尾道に関係する詩などが岩々に彫られています。とくに、学生時代を尾道で過ごした林芙美子氏の、『放浪記』の「海が見えた海が見える」という箇所を含む文学碑がよく知られているところです。あの奥にありますよ」
「え……あ……」
耐が、千光寺の神霊が指差した方を向くと、木々の間に石と土でできた参道があった。
ゴゴゴゴ――
直後に、上空から、重機械が動くような音がした。
「え……?」
「あ……失敬、今のは、ロープウェイの音です。我が寺は、平安中期、多田源氏の始祖多田満仲が中興したものですが……、それ以外、さほど歴史的に何かがあるというわけでもありません。むしろ、この美しい尾道に登る、ロープウェイの終点に位置する寺院、と言った方がわかりやすいですね」
「あ、なるほど……」
耐は頷いた。
「尾道千光寺とな……そのような場所とは……」
「しかし……我らの意思は……!」
「……!」
その直後に、行き逢い神と割石地蔵の声がし、耐ははっと再び向きを戻した。煙は既にひいており、彼らの体勢が崩れているのが窺えた。
「天路殿、私も加勢します……、光筒を……」
千光寺の神霊が耐に言うと同時に、自らの右手を上げ、それを白く光らせた。
「はい……!」
耐も千光寺に言われた通り、光筒をあらためて握りしめ、行き逢い神と割石地蔵の神霊の姿を凝視した。
「……!」
「これは……」
二人の神霊も慌てて神幹を作ろうとした。
(彼らを見て……、えい!)
一方耐は光筒の薄緑色の光弾を撃った。
「……!」
同時に千光寺の神霊も、二人の神霊に向けて白い神幹を放った。
「なっ……あああ!」
「うわああ!」
二人の神霊は、耐の光筒の光弾にまとめて当たり、また千光寺の神霊の神幹に当たった衝撃による土煙に再び撒かれた。
「やった……かな……」
耐は恐る恐る呟いた。
「ええと……」
新蘭もその様子に注目した。やがて土煙がひいたとき、二人の神霊の姿も消えていた。
「はい……もう安心です……、二人の霊気は完全に消えています……」
新蘭が言った。
「よかった……」
耐は胸を撫で下ろした。
「千光寺さんも、ありがとうございました」
「いえ……これも神霊の努めと心得ておりますので……」
新蘭の礼に、千光寺の神霊が答えた。
「……」
一方、耐は、光筒が少し軽くなっていることに気づき、それを眺めた。そこからは、筒爪の部分が消えていた。
「唯ちゃんの筒爪がなかったら、危なかったのかも……あっ、そういえば、みんな……!」
耐は少し苦笑した後、慌てて、倒れている他の子どもたちの元へと駆け寄った。新蘭と千光寺の神霊もその後ろについて行った。
「あ、あの……」
「……?」
子どもたちの傍らにいた、従業員たちのうち、行き逢い神に石を投げた男性が、新蘭に声をかけた。
「このような騒動が起こった原因というのは、やっぱり、僕たち、普通の人間が、それを踏み外して、にもかかわらず普通と強弁し続けた、ということと関係が……」
「はい、直結です。ですが、他の惑わされていない神霊や、天路の従者となった子どもたちの皆さんのおかげで、それは収束できました」
新蘭が答えた。
「ああ……やっぱり……」
そのとき、男性の隣の若い女性が嘆いた。
「私は、平然と、自称ちゃんとした社会に馴染んでいたのに……心が満足を得られなかった……! 何かがおかしい、って感じながら、自分の本心を私は蔑ろにし続けていた、そして、それは生き方として、とても勿体ないことだったんだ……!」
「あ、それは私も感じてた……。だいたい、私たちのお店、安いから、みんな、ここに集まってくるし、一見すると、市場売買経済が成立しているように見えるけど、このお店には、結婚して子どもがいる夫婦で働いている従業員が殆どいないんだ……。これは甘くてとても危なく恐ろしい幻だったんだ」
もう一人の女性も言った。
「うん……特に、若い女性が、勤続する意思もないのを隠して、お仕事ごっこをして、まったく意味のない根性論を飛ばし合ってただけだったよ」
先の女性が言った。
「あの、やめさせようとしていた彼も、やめちゃいけなかったんだ……。むしろやめないといけないのは私たちの方……。そして、浮いた人件費、削った店舗で、あの男性をはじめとする男性たちに安心して健康第一で、養育費込みの賃金で働いてもらって……その休暇中も含めて、その男性や、この世界に誕生する次の世代を支えていく……、本来、本当の社会で殆どのみんながしているはずのことを蔑ろにして、私たちは、自分の悪い心を存分に発揮して、偽物の社会を構築することにあくせくしていたんだ……」
「そうだね……でも、それを変えるのは、すぐには難しそう……」
「うん……、君たち、あの子たちを見てみなさい。あんなに傷だらけで……、おそらく、あの人数では、この広島だけではなく、他に行っても、現代の日本では苦戦を強いられるだろう……そんなむごいことに、私の、こんな鶏の頭程度の知能しかもっていないようなこの大型量販店舗も加担していたんだ……」
店長の男性も言った。
「あの、巫女さん……、僕たちにも、何か、あの子たちの助けになることはできないでしょうか……」
最初の男性が新蘭に聞いた。
「それは……。……はい、ない、ということもないのです」
「え……?」
新蘭の苦渋の表情と回答に、彼は驚かされた。
「ええと、宝塚さん、すみません……!」
「あ……新蘭さんが呼んでる……、唯ちゃん、ちょっと待ってて……」
新蘭の呼びかけを聞いた耐は、自分が治癒していた唯に囁いた。
「うん……」
唯が小さく頷くのを見届け次第、耐は新蘭や、従業員たちの元に移動した。
「宝塚さん、筒爪をお願いできそうです、こちらの男性と……」
「え……、はい、わかりました……」
耐は自分の光筒を取り出した。
「すみません……、この子のこの神具を握りながら、あなたの思いを祈ってほしいです……」
新蘭が耐の光筒を指して言った。
「え……、わかりました……」
男性は緊張しながら耐の光筒を、彼女とともに握り、そっと目を閉じ、子どもたちの無事を祈った。
するとすぐに、光筒の先端が数センチほど伸長した。
「……え……?」
再び目を開けた男性はそれを見て驚きの声を漏らした。
「この長さの分だけ、この子の神具の威力は増しました……、これはあなたの祈りによるものです」
「そ、そうなのですか」
新蘭の説明に、男性はさらに驚いた。
「はい……」
「あの、えっと、他には、何かできることは……」
新蘭の頷きに、男性は再度尋ねた。
「……」
しかし彼女は首を横に振った。
「そんな……」
男性は項垂れた。
「あの……」
そのとき、耐が男性に呼びかけた。
「大丈夫です、応援してくださって嬉しい……ありがとうございますっ」
耐の軽快な謝辞に、男性はさらに驚かされた。
「そうだ……私たちも、自分の管理しているところから始めよう……。まず、彼の退職には、慰留だ……!」
店長の男性が言った。
「先任か、後任か、というのは、やり方を伝える差しかない。先任であっても、彼に間違いを指摘されたら、素直に謝るように……。私も、君たちにそうされたら、そうするよ」
「はいっ」
「わかりました」
店長の指示に、従業員たちは頷いた。
「それは……簡単そうで、でも難しくて、でもちょっと考えると、すぐに答えが見つかるよ」
「え……?」
回復し、千光寺と、御調神社の神霊と別れた子どもたち八人と新蘭は、下京区の宝心寺こと耐の家の庫裏に集まり、先に居た正の言葉を聞き、きょとんとした。
「つまり……単純に、お金、つまり賃金を上げろといっても、それは不可能な話で、だから絶望的になりそうなんだけど、ちゃんと矛盾しているところはあって、それは即ち、便利なお店を利用してしまっている自分たち、有権力者たちなんだよ」
「自分たち自身……?」
珠洲が訊き返した。
「そう……。その従業員たちも、耐ちゃんをはじめ、みんなのおかげで、みんなより少しだけ早く気がついたんだよ。いくつかの項目があるんだけど……、まず、安くて大きいお店だけど、そこで働いている人たちが、次の世代と関わっているようには見えない。なぜなら、みんなが安い買い物をしていくから、その値段の中に、養育費がないから。それなら、値上げ、縮小など、インコンビニエンスにしたうえで、規模を縮小しないといけないんだけど……、その次にやることは、子どもがいる環境の中では、稼いでくる側と、家の中で直接育てる側とは、結局なるべく分けた方が良い。それは、学校を卒業した時からスタートする。だから、家の中で育てる側が、中途半端に外に出るのはちっとも良くない。出るなら定年までって約束しないと」
「うん……」
耐は深々と頷いた。
「それとね、これは、雇う側の問題でもあるんだ。定期昇給があると、長く務めた人ほど高給になる。それを利用して、邪な心で、表は男女平等を唱えて、中途半端に、専業を夢にしている人を入れると、それだけで人件費が削れる。これが本当の社会の都市や国家にとって迷惑千万なんだ……」
「あ……ほんとだ……」
耐は再び頷いた。そして顔を上げた。
「えへへ……光筒に法詞奏でをしようかな……、私たち天路の従者が光筒にやる、普通の人と同じような内容で、同じような効果しか得られないお祈り……」
「うん……」
真剣に、かつ優しく光筒を握りながら呟く耐に、正も相槌を打った。
そして、耐は光筒を両手でそっと握り、目を閉じた。正も、その上からそっと自分の両手を被せた。
「え……たあくんも……? おおきに……」
耐は正に優しく微笑み礼を述べた。その直後に、光筒は一瞬薄い緑色に発光した。
「あっ……」
耐はそれを見て小さく声を上げた。そのすぐ後に、その光は消えていった。
正はそれを見てそっと両手を離した。一方、耐は、引き続き、少し微笑みながら、まじまじと自分の光筒を眺めていた。
2020年2月1日 発行 初版
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