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この本はタチヨミ版です。
初版(2013年)から6年を経て囲碁界は激変のときを迎えている。囲碁AIの出現がそれであるが、単にトッププロを超えたというに止まらず、これまでの常識とされていた考え方にいくつものクサビを打ち込むことになりました。そのことは、初版で私が何の疑問も持たずに書いていたことにまで再考を促されることになり、改版のやむなきに至った次第です。
まず、囲碁におけるAIの進歩に対する私の油断がありました。
初版ではAIが対局でプロを超えることはまだまだ先と書いたのですが、(実際にその時の私は10年単位の将来を考えていました)2016年には当時のトッププロに圧倒的な強さで勝利し、AI優位を決定的なものにしました。そのことは囲碁界を大きく揺るがし、プロ棋士というものの存在意義にまで議論が及んでいました。
ただ、現在ではAIとプロが共存することができると考えられ、むしろ囲碁の勉強法など諸方面に良い影響が出ているように思われます。将来的には囲碁ソフトによる学習などにより、囲碁の長所を諸方面に活かす工夫も出てくると予想されます。
次に高齢者社会における囲碁の役割にもいくつかの提言がされています。加齢による認知機能の低下が避けられません。そこに囲碁というゲームの持つ様々な有効な心理的作用や認知症予防への一定の効果を予測するような研究が発表されて実用化されつつあります。
最後に個性ということについてです。
プロ棋士には勝負師型など一定のタイプがあるように思われていましたが、AIの出現によりこれまでと全く違ったタイプのプロ棋士が現れ、また、AIの進歩スピードと同様に10代でトッププロに至るような超新星がどんどん出現しています。その過程ではこれまでの徒弟制度的な内弟子制度の枠から外れたAIの申し子のような少年少女棋士が出現しています。
それでは人間とAIの違いはどこにあるのでしょうか?
決定的なそれは、「AIは自分を知らないこと又知ろうとも思わないこと」だと思います。それゆえ、何故その手を打つのかについての知見を人間に示してくれることはありません。蓄積したすべての情報を集約して最善を示す。悪く言えばAIは大変刹那的であるとも言えます。
AIの出現は囲碁界のみならず医療や介護といった先進的な分野にも人間の生きる目的との整合性といった新しい問題を提起しています。
精神科医エリック・バーン(1910-1970)は、「交流分析(transactional analysis : TA)」という理論に基づいた「人生ゲーム入門」(2000河出書房新社)という著書を著しています。ここにいう交流とは人間間のコミュニケーションにおける表面的又は裏面的な意識と行動の関係を示したものです。また、エリック・バーンいうところのゲームとは言葉の裏にある駆け引きのようなもののことです。人間は相手に応じて自然に自分の心の状態を変化させています。好きな相手といっても、すでに恋人関係にある相手に対する場合の心の状態と、相手に対する感情を秘めたかたちで接する場合とはどこか対応の仕方が異なっていることにお気づきになられるのではないでしょうか。
エリック・バーンは、人が持っている心の状態(自我状態)を親(Parent)、成人(Adult)、子供(Child)の3つのパターンに分類し、親をさらに批判的親(Critical)と受容的親(Nurturing)に、子供を自由な子供(Free child)と順応的な子供(Adapted child)に分類しました。人は成育の過程において、なんでも否定する厳しい親に育てられたり、また受容的な優しい親に育てられたり、その生育環境からさまざまな影響を受け、これに対処しつつ成長するのでしょう。その過程において蓄積された上述のような自我状態は、必ずしも一人の人がひとつの自我状態を有しているというものでもありません。5つの自我状態は、すべての人がいくらかずつ有していると考えられ、その比率が人的交流に大きな影響を及ぼしていると考えるのです。
他者と交流をするときに意識せずとも表現されてしまうこれらの5つの自我状態は、他者にも存在する自我状態のパターンと組み合わせることにより微妙な人間関係を創り出すことになります。どの人格とどの人格がどのような交流をしているのかをパターン化して分析するのが交流分析です。バーンは人間の交流のなかでもトラブルになってしまう時の複雑な交流をゲームと呼び、これを分析することによって不幸な人間関係を解決する方法を見出そうとしたのです。
交流分析の理論に基づいた人格検査がTEG(東大式エゴグラム)と呼ばれるもので、上記の3つの自我状態(親、大人、子供)がどのようなものであるのかを自ら知ることにより、自分の短所や長所に気づくことができ、職業選択などの社会適応に役立てることができるとされています。学生時代に自分の隠された性格を知るためにTEGを経験された方も多いかもしれません。
本書でのテーマは、エリック・バーンのいうような人間間の心の交流だけに焦点をあてたものではなく、純粋に囲碁や将棋、チェスといったゲーム盤を前にして戦うテーブルゲームにおける対戦者間の心の状態(様子)に焦点をあてたものです。しかし、「彼を知り己を知らば、百戦危うからず(孫子)」という戦いの常道からも、交流分析には囲碁における対戦の機微に一脈通じるものがあると思われます。
認知科学などの専門的な分野での研究では、専門棋士に脳波測定器具を装着して対局していただき、その生理的な変化などから脳の構造と機能全般を研究することも進められていると聞きます。
これまで囲碁や心理学に接点を持たなかったがいくらかは興味がある人たちや囲碁の愛好家に拙文を読んでいただき、心理学の基礎的な知識も織り交ぜて、囲碁と心理学の両面の理解を通じてさらに本格的に囲碁や心理学の勉強をされるきっかけになるならば幸いです。
ユング心理学の専門家であられる林道義先生は、東京女子大学で教鞭をふるわれていたときに授業にも囲碁を取り入れられ、学園祭で囲碁100面打ちを企画されるなど地域貢献にも一役買っていた方でした。何度か学園祭でお話をする機会を得、囲碁と心理学に関する書を何冊も書いていることを知りました。
囲碁と心理学についてもっと深く勉強したいと思われる方には、ぜひ林先生のご著書をひも解かれんことをお勧めいたします。
囲碁を打っている時の棋士の脳やこころの様子はどんなふうなのだろうか?
囲碁の愛好家ならば誰もが知りたいと思う疑問です。
そのヒントが囲碁とコンピューターの熱い関係の中に隠されているようです。
囲碁とコンピューターの深い関係は対戦ゲームや詰め碁のソフト開発を通じてよく知られています。詰碁など、正解がひとつないしは数個の少ない問題の解答スピードは、すでに人間がコンピューターに先を越されてしまっているようにみえます。しかし、詰碁は囲碁ゲームのほんの一要素でしかありません。スーパーコンピューターの悲願である「対局でプロを超えること」はまだまだ先のようです。それでもそこにこそ囲碁とコンピューターのお熱い関係が続いている理由を見てとることができます。
一方で心理学の方にもコンピューターの発達と共に歩む熱い関係を見てとることができます。
認知心理学は人間の脳の機能を研究対象とする脳科学と共に発達してきました。脳における感情や記憶をつかさどる機能は、脳波検査やCT、MRIをはじめとする様々な生理的測定機器の開発によりその存在が科学的に証明されてきました。認知心理学では、人間の記憶のメカニズムをコンピューターのインプット、アウトプット、短期メモリー、長期メモリーなどの各装置に置き換えて考えることにより急速な理論の発展をみました。対局中のプロ棋士の脳の状態は、認知心理学者や脳科学者ならずとも興味深いテーマであるといえます。これらの現象から、囲碁はコンピューターを介して心理学とも繋がっていると言えるのではないでしょうか。
※本稿はAI囲碁の技術がまだ人間のレベルに及んでいない2011年から2013年に書いたもので、その後数年で囲碁は人間のプロのレベルを一気に抜き去ってしまいました。
まず始めに知覚についてお話します。
人は誰もがひとつのものを同じように見ているのでしょうか?あるいは見えているのでしょうか?
じっと見ていると壺に見えたり向かい合っている人の顔に見えたりする「ルビンの壺」という有名な絵(参考図-1)があります。壺に見えている時は人の顔は見えません。また反対に人の顔に見えている時には壺は見えないのです。さらに面白いことには、だまって見ているうちにいつの間にか壺と人の顔とが入れ替わっているのです。
※「ルビンの壺」はエドガー・ルビン(1886-1951)が考案した。
立方体の図を書くときに、見えない部分の線は一般に点線で描きますが、すべて実線で書いた時にも同じような現象が現れます。実線は実際に見えている線なので見えていない線よりも前に出ていると脳が認識しているのですが、総て実線で描くとどのせんが前に出ているか混乱が起こり、見えないはずの線と見えているはずのせんが交替で現れたりする現象が起きます。
このことは認知機能のテストでも図形描写の項目で活用されているので、経験された方も多いことでしょう。
人の顔が描かれた本を逆さにするとべつな人の顔が現われるというのも、だまし絵としてお目にかかります。
これらのことからすると私たちは同じものを見ながら話をしているときでも、実は違ったものについて話している可能性があるのです。
碁盤を上から見ると縦が横よりも長いのは、囲碁を打っている人ならば誰でもご存じのことでしょう。
私が囲碁を習った伯父の家に、足のついた立派なカヤの碁盤がありました。素人が山から切り出してきて作ったもので、正方形のマスに線が引かれていました。
その碁盤で伯父から碁を習ったわけですが、はじめのうちはあまり気になりませんが、中盤を過ぎて石が詰まっていくと盤上に石がギッシリと敷き詰められ、石同士が押し合いへしあいして境界がよくわからないばかりか、シチョウ(注1)なども読みにくくて仕方がありません。このことはすでに知覚のひとつである視覚の働きに単なる計算では測れない何かがあることを想像させてくれます。
心理学ではこのことを「錯視」の実験によって科学的に証明していきます。矢羽が外を向いている直線と、同じ長さの矢羽が内側を向いている直線が長く見えたり短く見えたりすることを証明しているのです。縦縞の洋服を着ると細く見える、反対に横縞の洋服を着ると太く見える。このような簡単な経験的な錯覚の仕組みが、実は人間の知覚に複雑な影響を及ぼしているのです。
※矢羽根を使った「錯視の図」(参考図-2)はフランツ・カール・ミュラー・リヤー(1857-1916)が1889年に発表した。
さて、実際の対局中には知覚をめぐってもっと面白いことが起こっています。
棋士の中には棋譜(対局手順を書いた図)をひっくり返して見てみる方がいます。ひとつには自分が見方を変えてみるということと、もうひとつには相手の視点で見てみるという二つの意味があるのではないでしょうか。
シチョウを読んでいて石の位置を一路違えて見てしまったという錯覚から生じることのあるポカ(うっかりミス)も、多方面から局面を眺めることで避けることができるかもしれません。
しかし、ポカは必ずしも錯覚からのみ生じるというものでもないでしょう。
考えているうちに相手が打ったものと思い込んで二手連続して打ったとか、自分が考えていた手をすでに打ったと思い込んでその先の手を打ったとか、このあたりの機微はもっと別な心理的な要素を考えなければならないでしょう。その点は少し先に送りたいと思います。
歳をとって、最近どうも記憶力が悪くなった。そう感じておられる方は多いのではないでしょうか。しかし、専門棋士のレベルとアマチュアのレベルの違いはあるとしても、こと囲碁に関しては物忘れがそのまま棋力の低下にはつながらないと思われます。70歳を過ぎても憎らしいほど強いアマチュアの先輩がおられます。歳をとって記憶力は確実に下がったといわれるのですが、それを補う何かが碁をうつ人にはあるのでしょう。
それが何かを探るのが次のテーマです。名付けて「学習と記憶」としましょう。
(注1)シチョウ・アタリ・・・囲碁では相手の石をタテとヨコの四方から囲めばとりあげることができますが、とりあげる一歩前の状態をアタリの状態といいます。アタリにするために石を置くことを「アタリをする」といいます。アタリをされると相手はまだふさがっていない石につなげて石をおき取られないようにします。そうするとまたアタリとされます。またつなげる。またアタリといく。これを繰り返すことをシチョウといいます。(参考図-3)
コンピューターによる情報処理技術の発達は、心理学における学習と記憶の分野にも大きな影響を与えました。脳をコンピューターのような情報処理機器と仮定するのです。
情報はキーボードなどの入力機器を通じてINPUTされ、MEMORYに記憶し、CPUによって処理され、出力機器を通じてOUTPUTされます。この過程を脳における学習、記憶、再生のメカニズムに置き換えて考えることにより、いろいろな現象が説明しやすくなりました。
MEMORYには長期に大量の記憶をすることができるハードディスクその他の記憶装置のほかに、RAMなどのようにどんどん書きかえられていく機能を持つ記憶装置があり、前者は処理スピードがそれほど速くないが大量記憶が可能であり、後者は高速な処理が可能である反面記憶容量が少ない。しかし後者は、今現実に行っている操作をスピーディに処理することに寄与しています。
人間の脳にもいつまでたっても消えない長期記憶と、すぐに忘れてしまうけれども今聞いた電話番号をすぐかけるときなどに便利な短期記憶の二つの機能が備わっていると仮定されています。
囲碁の場合、このことは顕著に表れるのではないでしょうか。
コンピューターの大量記憶と大量情報処理の機能を利用して、ゲームの世界では人間を凌ぐ装置の開発が進められています。チェスでは世界チャンピオンをすでに凌いだといわれ、将棋では元プロ棋士や女流棋士に勝ったコンピューターが出現しました。
囲碁の世界においてもコンピューターの進出は例外ではありませんが、囲碁にはコンピューターが最も弱いと思われる抽象的な概念がいくつも存在します。「厚み」などと言われるものがそうですが、「厚み」にもまたいくつかの種類があり、棋士により判断が分かれているものがあります。「厚い」「薄い」というように使われますが、非常に説明が難しく、あえて言うならば「厚い」は「堅い」に「薄い」は「隙がある」とでも言っておきましょう。「厚み」は体で覚えるしかないのではないかと思います。
※AIはこのような抽象概念を用いずに最終的な勝利の確率から次の最善の一手を選ぶことに成功しました。
人間がAIよりも優位と考えられていた最後の砦があえなく崩された瞬間でした。
棋士には「楽観派」の性格の方と「悲観派」の性格の方がおられるようですが、さりとてそれによって大きな勝率の違いは出ていません。つまり、最善の一手というものがいくつもあり得ることを示唆しています。
タチヨミ版はここまでとなります。
2020年2月7日 発行 初版
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