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中村式落合散歩-新宿・落合に住んだ画家たち

中村惠一

K1Press



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 目 次

中村式落合散歩へのお誘い

第1回 佐伯祐三

第2回 中村彜

第3回 村山知義

第4回 柳瀬正夢

第5回 金山平三

第6回 写真家・堀野正雄

第7回 松本竣介

第8回 松下春雄

第9回 柳瀬正夢

第10回 吉田博

第11回 阿部展也

第12回 瀧口修造

あとがき

中村式落合散歩へのお誘い

 新宿・落合地域はJR山手線の目白駅、高田馬場駅、西武新宿線の下落合駅、中井駅、新井薬師前駅、地下鉄東西線の落合駅、都営大江戸線の落合・南長崎駅といった点を結んだような地域となる。新宿ではもっとも北西部に位置し、豊島区と中野区に接している。落合には神田川と妙正寺川が流れ込んでおり、その二つの河川が合流する場所があったので落合という地名が残った。江戸時代には蛍の名所であったようだ。東京郊外にひろがった林や田や畑がひろがる田舎であったようで、名物は大根と枝柿であったという。このことは日本画家にして民俗学者でもある橋浦泰雄が自伝である『五塵録』に書いている。橋浦ははじめ早稲田に住んでいたが、落合を通りぬけて上高田の寺に下宿した。大正年間のことである。

 落合の田園風景の中にアトリエを備えた住戸が建ち始めたのは大正10(1921)年あたりから。初期の住人は、中井駅のそばにアトリエを建設した金山平三、現在の聖母病院のそばにアトリエを建設した佐伯祐三、そのそばに住んだ鶴田吾郎、少し目白駅よりには中村彜が住んだ。亡命中の盲目の詩人エロシェンコを鶴田吾郎と中村彜が描いたのは下落合の中村彜アトリエである。開放的な田園風景、おそらくは地代や家賃が安価であったことが初期の住人をこの地に呼んだのだろう。また、大正12(1923)年の関東大震災の被害が落合地域では軽微であったこともあって、その後多くの転入者を迎えることになったのだろう。加えて大正期は、都市への人口流入が激しい時期であり、郊外の開発は喫緊の課題でもあった。そうした背景で落合には住む人が増え、目白文化村のような宅地が開発され、画家や文学者もこの地域に住んだのであった。

 私は杉並区の妙法寺のそばから落合地域に転入した。意識したわけではなかったが、この転入ルートはのちに『放浪記』がベストセラーになる作家、林芙美子と同じような引越ルートであった。林芙美子は昭和5(1930)年に先住していた作家、尾崎翠の紹介により上落合に越してきた。杉並の妙法寺からであった。越してきた当初、散歩先には佐伯祐三のアトリエ公園があった。しばらくして、瀧口修造が西落合に住んでいたことを思い出して、その場所にオリーブの木を探しにゆく散歩を思いつく。次にはマヴォの村山知義の三角のアトリエの跡地を訪問した。こうして一歩ずつ落合に住んだ画家、文学者などの足跡を訪ね歩くようになった。これを私は「落合散歩」と呼んで楽しんでいる。

 今回はこうして訪問したうち画家の足跡にのみ限定して散歩を楽しんでいただきたいと思っている。散歩にむけての装備は整いましたか。準備運動は十分ですか。それでは「落合散歩」に出発します。皆さんご一緒に!

第1回 佐伯祐三

 私が落合に越してきた最初期のころ、近所を知るために散歩した際にみつけたのが佐伯公園であった。西武新宿線の下落合駅をおりて上落中通りを北に坂を上ってゆくと聖母病院があり、その北側の路地を西に入った静かな場所にその公園はあった。もちろん佐伯祐三の名前も作品も知っていたが、パリを描いた激しいタッチの絵が佐伯作品だと思っていたので、日本では新宿のこんな場所に住んでいたのだなと思った程度であった。そのころは古いアトリエのみが小さな公園の中に建っていた。母屋はすでになかった。現在ではアトリエは整備されて「佐伯祐三アトリエ記念館」となっており、中に入って映像や資料を見ることができるし、別棟ができて資料や絵葉書の購入もできるようになった。その分、当時のアトリエの雰囲気は少し薄れてしまった。

佐伯祐三アトリエ外観

 大阪出身の佐伯祐三は大正7(1918)年に東京美術学校・西洋画科に入学する。在学中に池田米子と結婚、翌年(大正10年)に下落合661番地に建設したのが現在の中落合2-4-21に残るアトリエつきの母屋である。アトリエをとても気にいったようであるが、主はここに長くは住まなかった。学校を卒業した大正12(1923)年に佐伯一家はフランスに向かったからであった。渡仏の準備の最中に関東大震災があった。落合は被害が少なかったとはいえ、大変な事態である。それでも佐伯夫妻と娘の彌智子はマルセーユゆきの船でフランスに向かった。パリで佐伯は精力的に描いた。モーリス・ブラマンクと出会い、作風を変えるくらいの衝撃も受けた。体調を崩して帰国をすることになった佐伯はパリでの友人たち(前田寛治、里見勝蔵、小島善太郎、木下孝則)と1930年協会を作る。その第一回展覧会は佐伯にとっては展示点数は多くはないが、パリでの2年間の成果展の態であった。巴里風景とベニス風景が展示された。佐伯一家が帰国したのは大正15(1926)年2月のことであり、第一回展覧会は大正15(1926)年5月15日から24日に開催された。

 青梅市立美術館で平成6年10月に開催された「昭和洋画の先達たち 1930年協会回顧」展のカタログには詳細な出品記録が掲載されている。面白いのは昭和2(1927)年6月17日から30日に開催された第二回展覧会である。パリの街、広告看板などを激しいタッチで描いた佐伯が新たなモチーフとしてみつけたのはアトリエ周辺の「下落合風景」であった。この第二回展覧会で佐伯は下落合風景作品(目録では「落合村風景」と題されているが)5点のみの出品となっている。郊外の建造物は平屋または二階建てまでで垂直線に乏しい。しかし佐伯は電柱を垂直線としてアクセントをつけながら下落合の風景を描き出している。また、アトリエ近くにある小学校裏の斜面のスキー場やテニスコートなどもモチーフにされた。佐伯といえばパリの街角というイメージが私の中でも出来上がっていたが、落合の当時を描いた佐伯のタブローがあるのを知ってうれしかった。佐伯はモンタージュしたり極端なデフォルメをしたりしていないので、今も描画しただろう場所にたつとタブローに描かれた地形を感じられるのも不思議な経験である。何か所かでそのような感覚を味わうことができた。

アトリエ内に展示されている「落合風景」の資料

 昭和2(1927)年8月に一家は再度フランスに向かう。昭和3(1928)年2月11日から26日に開催された第三回展覧会には佐伯は出品していない。第二回展覧会での佐伯の下落合風景が刺激的であったのか、他の応募作品に多くの東京郊外風景作品が含まれていた。例えば藤田嘉一郎の「下落合風景」や丸田喜八の「落合風景」、南風原朝光の「長崎町風景」、宮崎節「文化村風景」、森田正中「石神井風景」、小野省二郎「落合風景」、佐久間周宇「落合の工場」などである。パリで旺盛な制作生活をしていた佐伯であったが、昭和3(1928)年8月16日に佐伯は息を引き取る。娘の彌智子も病気によってほぼ同時期になくなったため、妻の米子のみが残されてしまった。第四回展覧会が開催されたのは昭和4(1929)年1月15日から30日の期間、会場は東京府美術館であった。追悼展示ともいえる展示は第八室すべてを使用した。佐伯作品はパリでの成果89点が展示された。

 現在私が住んでいる場所のすぐ北側に大正末には外山秋作邸があった。外山秋作の息子は外山卯三郎。築地小劇場の演劇にかかわり、マヴォの村山知義と知己であった北海道帝大予科の学生である。その後京都帝大に進学し、昭和3(1928)年に卒業している。卯三郎は1930年協会にも参加していた。この外山邸に第二回渡仏後の佐伯のタブローのすべてが送られ保管されていた。佐伯アトリエには留守を守る形で洋画家の鈴木誠が入っていたので米子が配慮したのかとも思っていたが、考えてみれば第四回展覧会のために卯三郎が展示のための準備を含めて引き受けたとすれば、矛盾がないと思う。いずれにせよ、第二次渡仏の際に描かれたほとんどの作品が私の現在住む場所の近くにあったかと思うと不思議な感じがする。ちなみに卯三郎は後に前田寛治の研究書や画集を出版し、三岸好太郎の画集、瑛九のフォト・デッサン集『眠りの理由』を出版する。
 結局、佐伯は下落合のアトリエに通算4年間くらいの間しか住んでいない。しかし帰国した佐伯米子は昭和47(1972)年までここに住んだ。下落合風景のタブロー作品とかわいいアトリエ、2種類の遺産を佐伯は落合に残してくれた。

佐伯アトリエ内部

第2回 中村彜

 中村彜の絵は竹橋の国立近代美術館で「エロシェンコ氏の像」をみて学生のころから知っていた。それが重要文化財であることで驚いたこともあった。しかし、落合に越してきても、中村彜のアトリエが落合に残っているとは想像もしていなかった。それは、彜の生まれ故郷である茨城県立美術館の案内には「東京都新宿区下落合にあった中村彝のアトリエを1988年当館敷地内に新築復元。アトリエでは大正期に活躍した茨城県水戸市出身の洋画家、中村彝の遺品や資料を展示しております。」とあったから、まさかその現物が下落合に残っていようとは思ってもみなかった。

整備される前のアトリエの様子

 中村彜のアトリエが現存しており、消滅の危機にあることは新宿区民からではなく、豊島区民の方から聞いた。目白通りを越えてしまえば豊島区であるのだから豊島区民の方が関心が高くとも不思議はないのであるが、アトリエの敷地は新宿区内であり、何も知らなかったことが恥ずかしかったのを覚えている。すでに平成19(2007)年3月に「中村彜アトリエ保存会」がたちあがっており、保存にむけての地元からの声は次第に高まっていったのだった。私もその過程で知ったおくれた地元住民であった。

 さっそく現地を訪ねることにした。たまたまJRの目白駅に近い場所にいたので目白駅からアトリエまでの道を歩いてみたのであった。目白駅から目白通りを西にむかう。左側に車が入ることができる最初の交差点を左に入ると、その道は旧近衛邸玄関に聳えていた欅の木、いわゆる「近衛のけやき」に通じるまっすぐな通り。先には行き止まる形で日立目白倶楽部にぶつかる。平成天皇が学習院に学んだ際の控えの間として使った建物である。けやきの手前、交番のあたりで右に曲がる必要がある。しばらく歩くと道は左側に小さな崖を抱える地形になる。以前はいくつかの桜が並木になっていたが、老いた桜が順番に切られていって今では1本の老木を残すのみとなった。彜が住んでいた時代からの生き残りだという。小さな通りの右側に屋敷林が茂った場所があり、奥に古い家が見えた。それが中村彜のアトリエであった。スペイン瓦らしい赤瓦でふかれた大きな屋根、そこに黒猫がいた。

「落合のアトリエ」(1916年)

 結果としてアトリエは新宿区によって保存されることに決まった。そして中村彜アトリエ記念館として大正5(1916)年、最初に建設されたときの姿を復元する形で整備された。住所は新宿区下落合3-5-7であり、オープンは平成25(2013)年である。

整備された後の中村彜アトリエ

 中村彜といえば新宿・中村屋との関係が有名である。アトリエ記念館で配布している小冊子の略年譜をみると、明治44(1911)年には中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻の厚意により中村屋裏の画室に移り住んでいる。大正2(1913)年、前年から翌年にかけての期間に相馬家の長女の俊子をモデルに多数制作。大正4(1915)年夏、相馬家に俊子との結婚を申し込むも反対された。大正5(1916)年8月20日、豊多摩郡落合村下落合464番地に新築したアトリエに転居したのであった。結婚を反対された理由の一つが彜の結核にあり、大正元(1912)年には喀血が始っていた。俊子への愛は絵のモデルになってもらい描いているうちに育まれたものであったろうか。

第8回文展で三等賞をうけた「小女」(1914年)

 中村彜のアトリエの近くには美術での友人たちが多く住んだ。曾宮一念であり、鶴田吾郎であり、鈴木良三であった。三人はともに下落合の住人であった。大正9(1920)年、目白駅で盲目のロシア詩人をみかけた鶴田吾郎が絵のモデルになってくれるよう詩人に頼んだ。詩人の名前はワシリー・エロシェンコといった。どういう経緯であったのか、鶴田はエロシェンコを中村彜アトリエに案内し、鶴田と中村の二人で描くことにしたのだった。このときに描かれた「エロシェンコ氏の像」は10月に開催された第二回帝展に出品されたのだった。

 大正12(1923)年9月、関東大震災でアトリエが傾いたが、彜自身は無事であった。しかし結核は確実に進行しており、11月には発熱して病床に就いた。大正13(1924)年12月24日突然の喀血による窒息のために37歳の生涯を閉じたのだった。12月27日に落合葬祭場で荼毘にふされたのだった。主を失ったアトリエの空間はさびしさを内包しているように今も感じる。

アトリエ内部の展示の様子

第3回 村山知義

 大正アヴァンギャルドの旗手にしてグループ・マヴォの中心メンバーである村山知義のいわゆる三角のアトリエが上落合に空襲による火災によって焼失するまでは存在していたことを引越したばかりの私は知らなかった。平成18(2006)年に森美術館で開催された「東京―ベルリン/ベルリン―東京展」に展示されていた雑誌『Mavo』の奥付をみて村山のアトリエが上落合にあったことに気付いたのだった。そこには東京市外上落合186番地と記載されていた。村山知義の自宅は同じ町内にあったのだった。古い地図で場所を確認し西武新宿線の下落合駅から歩いてみることにした。

雑誌『Mavo』創刊号

 ルートとしてもっともわかりやすいのは、駅をおりてすぐに左に、つまり上落中通りを南に向かい、三叉路を左に八幡通りを早稲田通りに向かう道。そして早稲田通りに出る2本前の道を右に入ったところに三角のアトリエはあった。目の前は八幡公園。ここには戦前、月見岡八幡神社があったが、下水処理場建設のために現在の場所に移設された。昭和初期、この付近には「全日本無産者芸術連盟」(通称「ナップ」)本部や作家同盟の本部、東京プロレタリア印刷美術研究所などの施設がならび、「インターナショナル」の訳者である佐々木孝丸や中野重治、壺井繁治・栄夫妻、黒島伝治、武田麟太郎などが住んでいた場所で、俗に「落合ソビエト」とよばれたこともあったようだ。前回までの散歩では、当時のアトリエが残っていて散歩先で現物を見ることができた。しかし今回以降の散歩ではそれはかなわない。今はないアトリエや住宅を想像し、イマジネーションの散歩を行うしかないのである。

三角のアトリエの家(『朝日グラフ』大正13年3月19日号)

 三角のアトリエの家のあとを進み、最初の交差点を右に曲がると左手に現在の月見岡八幡神社がある。この道の両側にはプロレタリア文学作家が集まり住んだ。しばらく道なりにあるくとナップ本部のあった場所が右側にある。道はそのまま上落中通りに合流、そのまま歩けば下落合駅に至る。
 村山知義の母は雑誌『婦人之友』の記者であり、上屋敷(現在の南池袋)にある勤務先への通勤を考えての上落合への転居であったのではと思う。また、村山の『演劇的自叙伝2』によれば、村山の叔母が上落合に借家をもっており、その一つに尾形亀之助が住んでいたと記述していることから、親戚を頼っての転居であったのかもしれない。最初、村山知義は童画を描いていた。初期作品は『子供之友』の挿絵として掲載されている。その村山がベルリンに留学したのは大正11(1922)年のこと。哲学の勉強のためであった。村山のベルリン滞在はわずかに1年。その間に未来派の国際展に参加する、ベルリンのアヴァンギャルド芸術家たちが集まるギャラリー「シュトュルム」に出入りするなど美術分野で大活躍であった。ベルリンで制作した意識的構成主義作品を携えて帰国したのは大正12(1923)年1月のことだった。三角のアトリエは帰国後に建設している。

「コンストルクチオン」

 上落合地域に当時住んでいた画家たちのなかに未来派に属するメンバーたちがいた。前述の尾形亀之助や大浦周蔵、上落合ではないが村山の自宅から徒歩で5分ほどの距離にいた柳瀬正夢といったメンバーたちであった。5月、自宅で「村山知義―意識的構成主義的小品展覧会」を開催、辻潤も見にきたようだが、近所に住む未来派のメンバーや門脇晋郎も展覧会を訪れ、意気投合した作家たちは7月に前衛美術団体「マヴォ」を結成した。その後メンバーになる岡田龍夫や雑誌『Mavo』の編集を行う詩人の萩原恭次郎なども落合の住人となったのだった。

 マヴォ宣言にいわく。「私達は尖端に立つている。そして永久に尖端に立つであらう。私達は縛られてゐない。私達は過激だ。私達は革命する。私達は進む。私達は創る。私達は絶えず肯定し、否定する。私達は言葉のあらゆる意味に於て生きてゐる、比べるに物のない程。」また「講演会、劇、音楽会、雑誌の発行、その他を試みる。ポスター、ショオヰンドー、書籍の装釘、舞台装置、各種の装飾、建築設計等をも引き受ける。」としている。いわゆる絵画展を開催する団体としてマヴォは結成されず、現在でいえばマニュフェストも発表するし、パフォーマンスもするし、ジンも発行するし、いるいろやる。商業美術的にもグラフィック・デザインやブックデザイン、建築デザイン、舞台デザインなど総合的にてがける、と宣言している。あらゆる芸術の総合体として建築を考えたバウハウスやブフテマスを思い出してしまった。

 最初、村山は左翼思想に無関心であった。柳瀬はかなりオルグしたようだが村山はダダ的なモダニスム志向であって聞く耳をもたなかったようだ。この状況が変わるのは自由学園一期生の岡内壽子とつきあってからのようだ。二人はフランク・ロイド・ライトと遠藤新が設計した自由学園で結婚した。そして空襲によって焼失するまで三角のアトリエに暮らした。妻のオルグを受けた知義は結局左翼陣営を走り続けることになるのだから不思議だ。

村山夫妻
アトリエでの村山夫妻
〇印の場所が三角のアトリエのあった場所

第4回 柳瀬正夢

 今回も大正アヴァンギャルドの旗手であるグループ・マヴォの中心メンバーの一人、柳瀬正夢を訪ねる。柳瀬は1900年松山生まれである。早熟だった柳瀬は移り住んだ門司で年若くして何度かの個展を開催していた。大正9(1920)年、本格的に上京し本郷に下宿、長谷川如是閑(萬次郎)の世話で雑誌『我等』の校正係となるとともに、讀賣新聞に入社し編集部に配属された。翌年には讀賣新聞紙上に政治漫画、時事漫画が掲載されるようになった。あわせて未来派美術協会に参加、第二次『種蒔く人』の同人となり、その創刊号を装丁した。『我等』を発行していた長谷川如是閑や論文執筆者である大山郁夫が住んでいた場所にほど近い東中野に下宿を見つけて、越してきたのは大正11(1922)年11月3日のことだった。市外中野町15-10青木方への転居である。青木家は運送業を営んでいた。柳瀬はのちに妻となる青木梅子とここで出会う。柳瀬にとって東中野のこの家は「出会い」の家だったのかもしれない。ここに住んだためにドイツから帰国した村山知義と出会いMAVOを結成することになったのだから。大正12(1923)年はじめの頃のことである

雑誌『我等』大正14年4月号

 柳瀬の下宿の場所であるが、住所では中野であるが、北に少し歩けば上落合になる。今回も下落合駅から歩くが、東中野駅から歩いても同じくらいの距離である。村山知義の三角のアトリエまでは前回と同様。そこから南に歩き早稲田通りを越えた先が、柳瀬の下宿のあった場所である。神田川に近く、村山のアトリエが「小滝橋にほど近く」ならば柳瀬の下宿は小滝橋より一本上流にかかる亀齢橋(きれいばし)にほど近い場所である。大正12(1923)年5月、村山知義は自宅アトリエで「村山知義、意識的構成主義的小品展覧会」を開催する。これに未来派美術協会に属していた柳瀬正夢、門脇晋郎、尾形亀之助、大浦周蔵が訪問することになるが、期せずしてみな落合またはすぐ近くに住居していた。このメンバーたちが何度か会合をかさねてグループ・マヴォ(MAVO)を結成する。7月のことである。7月末にはMAVOとしての第一回展覧会を浅草伝法院で開催する。

柳瀬正夢の下宿のあったあたり。この道路の先に神田川がある。

 門司時代からマヴォでのアヴァンギャルドな絵画作品までが柳瀬の前半のタブロー作品ということになる。未来派から構成主義という前衛的な絵画表現でタブローを描いた時期であった。大正12(1923)年9月、東京は関東大震災に襲われる。震災直後に柳瀬は下宿にほど近い、そして千葉に避暑に行っていた大山郁夫の留守宅を留守番していた。そこに憲兵が来たのだった。その時は検挙されなかったが、下宿に帰った柳瀬を憲兵は改めて検挙に来たのだった。ほかの検挙者とともに戸山ヶ原に連行され、死を覚悟した柳瀬を救ったのは皮肉にも特高警察であった。特高警察は柳瀬を憲兵から引き取り、淀橋警察署戸塚分署に留置した。現在の高田馬場駅の東側にある郵便局がある場所である。そこには作家・平林たい子も留置されていた。二人は警察で初めて知り合う。後に柳瀬の紹介によって平林は高見沢路直と見合い、婚約する。高見沢は結局平林と別れ、岡田龍夫を紹介することになる。平林の「砂漠の花」にはその経緯が描かれていて興味深い。

「門司」(1920年)
「崖と草」(1921年頃)
「川と橋」(1921年頃)

 震災後にマヴォのメンバーはバラック装飾社を結成、建築デザインや看板などを提供する。既成のタブロー表現を彼らは否定し、脱皮してゆくことになった。ポスターや挿絵、マンガ、風刺画など印刷媒体に作品を提供し、それはマルチプル作品として拡散した。柳瀬も同様で、マヴォ展までのタブロー主体の制作が次第に影をひそめ、舞台美術、ポスターデザイン、風刺漫画などが制作の中核となる。梅子と結婚した柳瀬は大正13(1924)年1月に杉並区馬橋に引越し、新婚生活をスタートさせた。落合を離れた柳瀬。妻と二人の子供に囲まれ幸せな家庭に恵まれたのだが、治安維持法違反容疑によって馬橋で再び検挙されることになる。のちに再び落合に居を定めることになるのだが、その時期は妻の梅子を失う厳しい時期でもあった。そしてタブローを再び描くことになるのだが、西落合での柳瀬については別の回で改めて紹介したい。検挙されるまでの柳瀬であるが、雑誌『文芸戦線』の同人として表紙を描く、『無産者新聞』のポスターに力強いイラストを提供する、などプロレタリア美術陣営で大活躍をする。その風刺的なマンガのスタイルはドイツのゲオルグ・グロッスの影響を感じる。前衛的なタブローも風刺的なマンガもともに柳瀬の本流をなす表現であったのだと思う。

「底の報復」(1922年)
〇印の場所が柳瀬正夢の下宿のあった場所。点線の〇印は村山の三角のアトリエ。

第5回 金山平三

 中井駅に近い丘の上にアトリエ建築が残っていることは落合に越してきて、しばらくした頃から気付いていた。その建築主が金山平三であることもすぐに知った。金山平三が中井駅に近い丘の上を購入したのは大正11(1922)年末か12(1923)年早々であると思われる。金山はこの一帯を「アビラ村」と名付けた。アビラ、それはスペインの首都マドリッドの西北約100キロに位置する小さな村であるが、金山が購入した「中井二の坂の上あたりはアビラそっくりの地勢である」と金山は思ったようだ。金山のアトリエあった場所の住所は東京府豊多摩郡落合町大字下落合字小工1080番地24号であった。現在の地番では新宿区中井2丁目13番19号である。西武新宿線の中井駅から歩いてみることにしよう。中井駅におりると南にはすぐに妙正寺川が流れているが、今回は北に向かう。踏切をわたり突き当たりを左に向かう。すぐに山手通りの下を抜ける。最初の右から合流する坂が一の坂と二の坂である。二の坂側を上ると獅子吼会の施設がある。そこを左にまがると大きな建物があり、北側に大きな窓がある。典型的なアトリエ建築であった。金山の没後に人手に渡っていたので、私が見たときにはアトリエとしての使われ方はしていなかっただろうとは思うが、建物は立派であった。これが大正末に建築された金山平三のアトリエかとしばらく眺めてしまったのを覚えている。

金山アトリエのありし姿

 この二の坂上は一面の麦畑であったそうだが、東京土地会社が開発整地した分譲地を満谷國四郎や南薫造、金子保、北村西望らと金山平三は購入した。その北側の土地は彫刻家の新海竹太郎が購入している。購入してすぐに関東大震災がおき、落合にも新築住居の開発ニーズが高まったので、南の土地は獅子吼幼稚園に売られた。金山は大正13(1924)年9月にアトリエ+母屋を着工し、大正14(1925)年春に竣工、4月に越してきた。しかし、金山の落合の絵は皆無である。住む場所としては選んでも、モチーフとしては選ぶことができなかったのだろう。日本画家の橋浦泰雄によれば落合は大根と枝柿が有名だったようだ。ここでは、大正14年に金山アトリエのそばに住んでいた高群逸枝の日記を読んでみたい。
   
「二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので小山さんの近所だった。近くには森や畑が多く、私がよく鶏卵を買いにいった百姓家もあった。この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。」

ここに書かれた「芸術村」が「アビラ村」である。小山さんは熊本出身の作家・小山勝清であり、この時期には挿絵画家の竹中英太郎が隣人として住んでいた時期である。金山以外はアトリエを建築しなかったため、アビラ村という芸術村構想は実現しなかったが、新海竹太郎はここに住居を構えたのか息子の画家・新海覚雄の住所が下落合だったことがある。また、新海覚雄と同じ住所地にプロフォトの本部が置かれた時期がある。アビラ村構想は実現しなかったものの、地域は文化人のたまり場のようであった。

当時の新聞記事

 金山は1883(明治16)年神戸生まれ、1909(明治42)年3月に東京美術学校の西洋画科を首席で卒業した。師事したのは黒田清輝であった。アトリエのおかれた下落合の風景を佐伯祐三のようには描かず、金山は諏訪や山形などの風景をモチーフに透明感のある美しい画面を作り上げている。画家でありながら、描いた絵を売ることはせず、手元において描きなおしてもいたようで、どのように生活していたのだろうかとも考えてしまうが、アトリエ建築費用を支援者(ファンということだろう)からの寄付によってまかなってしまうのだから驚きである。1935(昭和10)年の帝国美術院改組問題以来、画壇とのつきあいからも逸脱してしまうのは潔いといえばその通りだが、付き合いにくい印象ももってしまう。しかし、下落合のアトリエに住んだ金山の印象はかなり違ったものだったようだ。

「夏の内海」

 中学時代にピッチャーだった金山は画家による野球チームを作って文士チームと現在の目白大学のグランドで試合を楽しんだようだし、日本舞踊好きの金山はアトリエでダンスの集まりも催したようで、改造社の新興文学叢書の編集者だった方が講師を勤めていたようである。旅をしながら絵を描くばかりでなく、趣味人ぶりをアトリエでも発揮したようだ。

 金山が愛したアトリエも人手に渡ったとはいえ現存していたのだが、状況が変わったのは3.11以後であった。突然の破壊・撤去があり、瞬時に解体工事が行われた。気が付いたときにはアトリエの北側にあった大きな窓が廃棄物になっていたのだった。自宅にもって帰ろうかとも思ったが、置く場所がない。泣く泣くあきらめた。先日、アトリエのあった場所を訪問した際に、小さな鷹が近くの木にいたのだが、金山平三の自画像にそっくりな精悍な顔をみせたのだった。

「最上川雪景」
〇印の場所が金山平三のアトリエのあった場所

第6回 写真家・堀野正雄

 堀野正雄の写真との出会いは板垣鷹穂の著書の中でのことであった。このブログは「新宿・落合に住んだ画家たち」と題した連載ではあるが、どうしても取り上げたくて、今回は写真家の堀野正雄とした。機械美学を展開した美術史家・板垣鷹穂は上落合599番地に住んでおり、『機械と藝術との交流』(1929年岩波書店)や『藝術的現代の諸相』(1931年六文館)といった著書に掲載されたモダンで独特な写真を撮影したのが堀野正雄であった。特に『藝術的現代の諸相』では巻頭ページに堀野の写真がグラフモンタージュ的に配置され魅力的なページとなっていた。

『機械と藝術との交流』書影
『藝術的現代の諸相』の写真ページ

 一方、落合にはオリエンタル写真工業の本社ならびに学校があった。余談であるが、創設者の一人である勝精は勝海舟の養子であったが、実父は徳川慶喜であった。そして会社設立にあたり資金を提供したのは慶喜の直臣であった澁澤栄一であった。オリエンタル写真工業は自社の写真材料の普及の目的をもって雑誌『フォトタイムス』を発行しており、ここに堀野正雄も板垣鷹穂も執筆していた。また堀野は同誌の「ステージフォトセクション」において演劇やダンスの舞台写真や舞台写真撮影のための文章を提供した。私は雑誌『フォトタイムス』を通じても堀野正雄の写真や論文を目にすることになったのだった。

『フォトタイムス』昭和6年9月号表紙

  堀野が落合地域と関係をもつのは東京高等工業学校応用化学科(現・東京工大)に入学した大正13(1924)年のことである。築地小劇場に出入りするようになり、舞台写真を堀野は撮影するようになった。そこで村山知義と知り合う。マヴォで前衛芸術を展開していた村山と知り合うことから落合とのつながりができていった。昭和2(1927)年、「堀野正雄個人演劇写真展覧会」を丸ビル丸菱呉服店ギャラリーで開催した。昭和3(1928)年には小山内薫が監督した映画の主演俳優・鈴木傳明の紹介により松竹キネマ蒲田撮影所の普通写真部に入社。ここで俳優・山内光と知り合った。山内は本名を岡田桑三といい、ベルリンへの留学経験をもっていた。まさに村山知義と同じ時期のベルリンにいたのである。堀野は岡田とともに村山知義の三角のアトリエに同居したのである。一方、オリエンタル写真工業の技師長であった菊地東陽と知り合い、乾板や印画紙の提供を受け、空いていればオリエンタルスタジオを無償で使うことを許されたようである。あけて昭和4(1929)年2月、三角のアトリエを協会の所在地として村山、岡田、中戸川秀一、浅野孟府、勝田康雄らと「国際光画協会」を結成、第一回展を紀伊国屋書店階上で開催している。昭和5(1930)年4月頃から板垣鷹穂との共同作業となる「機械的建造物」の撮影が始まっている。これらの成果は『フォトタイムス』でも紹介されたが、前述のごとく板垣鷹穂の著書に反映され、また銀座松屋で開催された第二回個人写真展覧会に展示され、写真集『カメラ・眼×鉄・構成』(1932年木星社書院)に結実した。

 昭和5(1930)年、堀野は上落合441番地にアトリエ堀野を開設する。現在の中井駅から少し下落合駅よりの大正橋付近である。その場所は村山の三角のアトリエからも近く、板垣の自宅へも近い場所であって、堀野の作品展開を考えると絶妙な場所にアトリエを作ったものだと感心する。その年の9月頃、雑誌『フォトタイムス』の編集長である木村専一が主催する「新興写真研究会」の設立に参加している。堀野は日本新興写真運動の中心にいた一人であり、『フォトタイムス』は新興写真の故郷ともいうべき雑誌である。その編集にも嘱託として深くかかわった。またプロデューサーは岡田ではあるが、「独逸国際移動写真展」が国際光画協会によって開催され、多くの日本人写真家たちに大きな影響を与え、新興写真時代の幕開けをもたらすことになったのだった。

「大東京の性格」のページ

 アトリエ堀野に住んでいた時期に板垣鷹穂とともに制作したグラフモンタージュ「大東京の性格」が『中央公論』に掲載された。グラフモンタージュはその後も共同制作者を変えて制作され続けた。たとえば村山知義の構成による「首都貫流‐隅田川アルバム」、詩人・北川冬彦のシナリオによって制作された「玉川べり」といった作品が残されている。

「玉川べり」
「玉川べり」のページ

 昭和9(1934)年アトリエ堀野は上落合を離れ、赤坂区氷川町23番地に引っ越すことになる。この時期、名取洋之助の日本工房の仕事を請け負うことも始まっている。こうしてたどると上落合にいた時期の堀野正雄は彼の代表作を制作した充実期であったことがわかる。戦後写真家であることをやめてしまったが、今でも当時の堀野正雄の作品は魅力的である。

〇印の場所がスタジオ堀野

第7回 松本竣介

 松本竣介の絵は以前から好きだった。落合に越してきて初めてJR高田馬場駅まで歩いた時に興味をもった建物があった。それは東京電力の目白変電所であった。この大正期に建設された建物を竣介が描いているのをすぐに知ることになった。竣介が描いていることを知って、私の中で目白変電所がますます気になる建物になったのだった。

「ごみ捨て場付近」

 「ごみ捨て場付近」に描かれたのは下落合から高田馬場駅方面に向かう道と周囲の情景である。道は神田川にかかる田島橋にいたるが、橋の向かい側には目白変電所が描かれている。その独特の様式ですぐにわかった。竣介の画面にあった建物、その現物が目の前にある。とたんに竣介をひどく身近に感じたのをはっきりと覚えている。実は「ときの忘れもの」で開催された松本竣介展に展示されたデッサンを見たとき、田島橋を渡った先にある栄通を描いたに違いないと感じた。聞いてみると実際にそうであり、「よくわかったね」と驚かれたことがあった。地元の風景なので、みなれた場所がもつ特有の雰囲気を感じたのに違いなかった。この田島橋と目白変電所の情景を竣介は気にいったのか「立てる像」にも背景に使っている。「立てる像」を見ると、戦時体制に傾斜してゆく中で軍部が企図した「国防国家と美術」(『みづゑ』1941年1月号掲載)という座談会の意見に反応し、「生きてゐる画家」を書きあげた竣介の決意がみなぎっているようで、大好きな作品である。「立てる像」は昭和17(1942)年に描かれている。

「立てる像」

 そもそも竣介が落合地域に住むことになるのは松本禎子との結婚が契機であった。昭和11(1936)年に竣介は松本家の養子となる。やがて松本家は中井四の坂上に建てられた借家に越してきた。ここが竣介のついの住家になる。この場所でその後の画業は行われ、昭和11(1936)年10月に創刊された雑誌『雑記帳』通巻14号も発行された。
 最寄りの駅は西武新宿線の中井駅である。中井駅から西に向かい四の坂の登り口までは幅広な車道を歩く。四の坂の登り口には林芙美子記念館の看板がある。今はマンションになってしまったが、四の坂道を隔てた中井駅よりには画家・刑部人のアトリエがあった。建築家・吉武東里の設計によるスペイン瓦が葺かれた洋館であった。私が越してきた20年ほど前には刑部アトリエも健在であった。急な四の坂を登ると坂の上に竣介のアトリエはあった。竣介には「N駅近く」とタイトルされた作品がある。竣介は都市や町を描くときに異なる場所のイメージをコラージュするケースも多いので、中井駅として特定するのが正しいのかはわからないが、勝手に中井駅だと思い親しんできた。

「N駅近く」

 松本竣介の作品は新宿区にはない。一昨年には念願の竣介が育った場所、盛岡市を訪ね岩手県立美術館で数多くの作品を見ることができた。また昨年、群馬県桐生市にある大川美術館で「竣介のアトリエ再見プロジェクト」によって再現された下落合の竣介アトリエを見ることができた。展示室内にアトリエを再現展示することによってアトリエ内部の様子や蔵書、コレクションされた品々を当時のままに見ることがかなった。竣介の展示されたコレクション作品とともに画家の息吹きを感じることができる展示で感動した。

 竣介アトリエは「綜合工房」と命名され、絵画だけに限定しない竣介の表現への態度が感じられる。『雑記帳』には宮澤賢治の遺稿が掲載されたほか、落合近隣に住居した多くの執筆者が掲載されている。作家の武田麟太郎、林芙美子、尾崎一雄、平林たい子、中條百合子、矢田津世子、詩人で美術評論家の川路柳虹、画家の曽宮一念、川口軌外、野間仁根、村山知義、佐伯米子、藤川榮子といったメンバーが掲載された。自宅近隣でこれだけの執筆陣がみつかる環境もあまりないのではないかと思う。

 大川美術館には多くの人物画がコレクションされている。松本竣介というと都市風景を思い浮かべてしまうが、人物画も魅力的だ。やはり落合地域の住人である画家の柳瀬正夢が編集著作した『無産階級の画家 ゲオルゲ・グロッス』(1929年 鉄塔書院)を愛読し、そのなかの人物像を模写し、研究したことが知られている。竣介の絵にはグロッスのような直接的な社会性、批判性はないが、線描の画法はグロッスの影響を感じさせるものがある。昭和13(1938)年のことである。

「女」

 昭和18(1943)年には井上長三郎、靉光、鶴岡政男、麻生三郎、寺田政明といったメンバーと新人画会を結成し、活動する。会の事務所は下落合の竣介自宅に置かれた。
戦後、結核を患った竣介は無理して作品制作をつづけたが昭和23(1948)年6月8日、36歳の若さでこの世を去った。短い人生を走り切って燃え尽きた松本竣介は、現在もわれわれの魂を激しく揺さぶり続けている。

〇印の場所が松本竣介のアトリエのあった場所

第8回 松下春雄

 愛知県生まれの私にとって名古屋出身の鬼頭鍋三郎や松下春雄が落合に住んでいたことを知って親しみを感じた事を思い出す。30歳で白血病によって突然死を迎えた松下春雄についてはその事実は知ったものの実作に出会う機会も少なく、夭逝であったためにエピソードを記憶していて、語ってくれる方も少なく、幻の画家に近い印象をもっていたのだった。一方で落合に住んだ文化人の足跡を調べるうちに松下春雄の名前や存在は少しずつ顕在化してきたのだった。挿絵画家の竹中英太郎について調べているうちに竹中の借家のそばに詩人の春山行夫が名古屋から出てきた直後に下落合の四の坂上の借家に住んでいて、松下春雄も訪ねてきていたのではないかとか、直後に春山は下落合1445番地の鎌田邸に下宿するが、そこには松下も同居していたとか、西落合にアトリエを柳瀬正夢は借りるが、貸主は松下春雄を白血病で失った家族であったとかの話を聞いた。

松下春雄

 特に松下の西落合のアトリエに関しては2013年から14年にかけて開催された「柳瀬正夢展」の開催にあたり柳瀬正夢の西落合アトリエの場所の特定を行いたいとの要請もあって、松下春雄のご遺族と連絡をとる必要が生じ、連絡の上訪問したことがあった。ご遺族はいったん昭和9(1934)年、柳瀬正夢にアトリエと母屋を貸したうえで妻の実家である南池袋に越していた。松下春雄の作品などはすべてアトリエから池袋に移したそうだ。従い、松下の絵を柳瀬が見る機会はなかったようである。昭和16(1941)年、柳瀬が三鷹にアトリエを建築、引っ越した後に家族はふたたび池袋から引っ越してきたそうである。幸い、池袋は空襲に焼けたが、西落合は焼け残った。アトリエも母屋も作品も戦後まで残ったとのことであった。そのような話を聞いている場所はまさに松下春雄と柳瀬正夢が絵を描いた場所なのであった。

「下落合文化村入口」

 今回は西武新宿線の新井薬師前駅から歩くことにする。新井薬師前駅は中野区である。駅前の道を北に向かう。あたりの住所は上高田である。まっすぐに北に歩くと妙正寺川を渡る橋にでる。この場所は右手がオリエンタル写真工業本社および本社工場、写真学校があり、左手には第二工場があった場所である。なおもまっすぐに北上すると左手には哲学堂公園がみえる。なおも歩くと水の塔が登場する。このあたりは後に瀧口修造が越してくる屋敷に近い。なおも道なりに歩くと目白通りと合流する交差点となるが、その手前を右に入ると松下春雄のアトリエのあった場所にでる。最初に訪問した時にはアトリエは残っていないものの母屋が当時のままにあって庭の感じが当時の面影を残していたが、現在は建売住戸に分割建築されてしまい、まったく面影は失われてしまった。ご遺族によれば、隣には鬼頭鍋三郎のアトリエがあり、少し離れた場所には母屋があったので、二人は短い期間ではあるが、並んで描いていたことになる。柳瀬は昭和9(1934)年に越してくるので鬼頭鍋三郎との交流が想像される。

 松下春雄は明治36(1903)年に名古屋に生まれた。小学校卒業後に銀行の給仕として働いた。大正7(1918)年に人見洋画塾で絵画を学び、大正10(1921)年、絵を学ぶために上京、本郷絵画研究所に学び、岡田三郎助に師事した。大正12(1923)年、関東大震災をきっかけに名古屋に帰り、鬼頭鍋三郎や中野安次郎、加藤喜一郎らと美術研究グループ「サンサシオン」を結成した。大正13(1924)年8月に上京、新潮社に勤務しながら辻永に師事した。大正14(1925)年、松下春雄や鬼頭鍋三郎を頼って春山行夫などが上京、詩人・高群逸枝の借家の隣に共同で住んだ。その後、春山は大澤海蔵や松下とともに下落合1445番地に共同生活した。春山が発行したこの時期の雑誌の奥付に住所の記載がある。松下はサンサシオン展ばかりではなく光風会展や帝展、日本水彩画会展などにきわめて精力的に作品を発表している。また落合地域をモチーフに作品を描いている作家でもある。

「下落合 徳川男爵別邸」

 昭和3(1928)年4月、渡辺淑子と結婚、昭和7(1932)年4月に葛ヶ谷306番地(西落合)に母屋とアトリエを建てて越してきたのであった。しかし、主はこのアトリエに長くは住めなかった。名古屋から伊勢にスケッチ旅行している最中に体調を崩し、昭和8(1933)年12月31日白血病のため急逝したのであった。

「女と子」
「二人のポーズ」
〇印が松下春雄のアトリエのあった場所。のちに柳瀬正夢が住む。

第9回 柳瀬正夢

 第4回に続き、ふたたび柳瀬正夢について取り上げる。前回ではMAVOに参加、震災から検挙、結婚して高円寺の馬橋に越すまでの若き柳瀬を取り上げた。今回はその後の柳瀬についてである。馬橋の柳瀬は二人の娘を授かり、タブローから離れポスターや書籍、雑誌の装幀といった印刷物のデザインの仕事や舞台美術など多彩な活動を行っていた。『無産者新聞』や雑誌『戦旗』の表紙などは代表的な当時の仕事であるが、治安維持法違反の嫌疑をかけられることにもなった。検挙は昭和7(1932)年11月のことである。検挙拘束されている間に妻の梅子の病気が進行、生死にかかわる事態になってしまう。柳瀬が編集した『無産階級の画家 ゲオルゲ・グロツス』(1929年)を出版した鉄塔書院の小林勇は上落合602番地に柳瀬の妻子を移し、まわりの支援者で面倒がみられるようにした。しかし結核は梅子に時を与えなかった。一時的に釈放されて妻の死に目には会えたものの柳瀬は再び収監されてしまう。転向はしないが、表立っての活動は行わないとの約束によってやっと柳瀬は釈放される。昭和8(1933)年9月のことだった。こうして父と二人の娘が上落合の借家に残されたのだった。

雑誌『戦旗』1930年4月号表紙
『無産者新聞』のポスター

 この後の柳瀬は以前とは異なり左翼雑誌のデザインや新聞での風刺漫画などの仕事はどうあってもできないのであった。身近で面倒をみた小林勇などの支援者は柳瀬にタブローを描くことを勧めることになる。また、そのためにはアトリエも必要であった。第8回で書いたように、サンサシオンの画家・松下春雄が同じ年の年末に白血病で急逝した。遺族はアトリエと母屋を貸すことを考えたのだった。松下の妻の実家は南池袋である。何人かの仲介者を経由して松下アトリエのことを知った小林勇が間に入って松下アトリエは柳瀬に賃貸されることになった。昭和9(1934)年のことである。アトリエのついた家で暮らすことになった柳瀬であったが、油彩画をどんどん描いたわけではなかった。むしろ描けない時期が続いた。この空白期を脱するきっかけを作ったのも小林勇であり、「Kの像」という絵画作品のモデルに自ら志願したのである。このアトリエでは絵画教室が開催され、労働者が絵を習いに通ってきたし、この時期にはかなりの数のヌードデッサンも残されている。隣に鬼頭鍋三郎のアトリエがあったのでなんらかの交流があったのかもしれない。旅行にも出向き、風景画が描かれた。未来派やMAVOといった前衛的な美術グループに属していたときとは異なるが、まったく違う意味で魅力的な絵画作品が制作されていったのが西落合時代であった。
 引っ越した次の年の正月に柳瀬が出した年賀状には淀橋区西落合1-306の住所表記がある。図柄からイノシシ年であったことがわかる。

「Kの像」

 今回は落合・南長崎駅から訪問することにする。地下鉄大江戸線の駅である。目白駅前から西に向かう目白通りはこの駅の近くで北に折れる。ちょうど豊島区に対してくちばしのようにささる新宿区の三角形の土地の一辺が目白通りである。

目白通りを北上すると中野から哲学堂公園の東を抜けてくる中野通りと交差する地点となる。この手前の道を左に入る。左手に大きな屋敷をみながら進むと右手に柳瀬アトリエのあった場所に至る。最近まで松下春雄のご遺族が母屋を守っていたが、今は建売住宅として分譲された。おもかげのあった母屋も消えてしまったのだ。

西落合のアトリエでの柳瀬正夢

 西落合のアトリエで初めて描かれたのは小林勇の肖像「Kの像」である。また女性労働者を描いた「青バスの車掌」、静物作品の「仮面」などが描かれたが、次第に写生旅行を行い、旅先で描くスタイルになり、アトリエで描く機会は少なくなった。一方、アトリエでは研究会や絵画教室が開催された。特に柳瀬のもとで絵を学びたいという勤労者や文化人が集まるようになり、それが「写生派コペル」につながる。こうして柳瀬のアトリエのところに通うメンバーのなかに松岡朝子がいた。昭和14(1939)年の初めに二人は結婚した。

「仮面」
「労農夫」
「島の娘」

 この年の春、中国華北への写生旅行に家族を連れて赴く。大連の叔母のところに娘二人を預け天津、北京へと9か月の旅にでた。華北交通の招待を受けての北京行きであった。中国では油彩、写真、デッサンなど活発な創作が行われた。このときに撮影された写真は『中央公論』誌上に掲載された。また、その成果は銀座の亀屋、大阪の朝日会館で「北支風物展」という展覧会として結実した。中国から帰国した柳瀬は西落合のアトリエを離れている。昭和18(1943)年春に三鷹にアトリエつきの新居に落ち着いた。落合時代の柳瀬はふたたびタブロー制作に熱意をもつことになり、写真にも成果をあげた。この時代の柳瀬作品は若きアヴァンギャルド時代とは作風が異なるが、また別な魅力をもっている。

第10回 吉田博

 沖縄・名護出身の木版画家、真栄田義次と出会ったのは札幌でのことであった。大学生であった私がよく訪問していた画廊+版画工房に真栄田はふらりと顔をだした。何度か出会ううちに親しくなり、さまざまな話をうかがった。某テレビ番組のヒーローものに登場する怪獣の着ぐるみの制作を行っていたこと、その製造方法で特許をとったこと、木版画は吉田遠志のところで習得したことなどだった。吉田遠志の父親である吉田博が美しい木版画を制作し、それが海外、とくにアメリカで人気があって、息子の遠志もそれを継ぐかたちで大判の木版画を制作している、その工房で働いていたのだとのことだった。その時には吉田親子が版画制作していた場所のそばに住むことになろうなど知る由もなく、遠志の弟の穂高も版画家であることに驚き、山登りのサークルにはいって北海道の山を登っていた私には「穂高」という名前を息子につけた父親の思いを想像してみるくらいであったように思う。親子3人の作品のなかでは穂高の作品が当時の私にはより現代的にみえ、穂高の作品をギャラリーでの展覧会でかろうじて見ているくらいなのであった。
 私が落合に越してきた際、地元の方と話していると、昔話として吉田博のことが話題になることがあった。大きな洋館であったそうで印象に残るほどであったようだ。GHQ占領下の東京において吉田のアトリエは進駐軍の芸術サロンのようになり、訪問する兵士やその家族の車がときには列をなしてしまうほどであったと聞いた。昭和20(1945)年秋にはマッカサー元帥夫人もアトリエを訪問、その人気に拍車をかけた。ついには米軍将校クラブで版画講習会を開催、参加者を募ってバスでアトリエ見学会が開催されるなど大人気であったという。

「穂高山」

 吉田博は明治9(1876)年福岡県久留米市の生まれ。京都で洋画を学び、三宅克己の影響で水彩画を描き始める。初めての渡米は明治32(1899)年のこと。中川八郎とともに渡米、デトロイト美術館とボストン美術館での展覧会に参加している。その後、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどを歴訪した。明治35(1902)年、吉田の発案により太平洋画会を満谷国四郎や中川八郎とともに結成した。吉田は早くから風景を題材にした作品を描いたが、特に山岳や建物をモチーフにすることを好んだ。従い、息子の名前に穂高を選んだのだろう。大正9(1920)年、新版画の版元の渡辺庄三郎と出会い、渡辺木版画舗から木版画の出版を始めた。透明感のある色彩と光の表現が美しい作品である。

「牧場の午後」
「帆船」

 吉田は大正12(1923)年の関東大震災の際に版木と木版画をすべて焼失している。直後の3度目の渡米の際には初めて木版画作品を持参、好評を博した。欧州を歴訪ののち大正14(1925)年に帰国したが、自ら版元になって「アメリカ・シリーズ」「ヨーロッパ・シリーズ」の出版を開始したのだった。そして昭和9(1934)年、下落合2丁目667番地に洋館を建築し越してきた。

 今回の散歩の出発点は西武新宿線の下落合駅である。北口改札をでて、すぐに右に歩くと妙正寺川にでる。ここには西橋がかかっている。橋を渡って左にゆくと落合中通りにでる。目の前には新目白通りがある。新目白通りを渡り、そのまま坂を登れば聖母病院にいたる道であるが、その脇にある狭い坂道(西坂)を登る。この道の上には旧徳川男爵家の屋敷があったが、今は学生寮に変わった。坂を登りきると三差路になっていて右の道に入る。すぐに左手に「かば公園」がある。道なりに歩くと台地上の尾根を行くことになる。右手に聖母病院に入る道の手前が吉田博邸、版画工房のあった場所である。ここで吉田の代表的な木版画は制作され、息子たちである遠志や穂高が成長し、また息子たちも版画を制作するようになるのだった。吉田邸は大きな洋館として記憶されているが、そばには聖母病院、佐伯祐三アトリエ記念館があるといった立地だ。

吉田博邸のあった場所の現在の様子
今も残る旧番地表示。翠ヶ丘という地名が。
「ナイアガラ瀑布」
「日本南アルプス 駒ヶ岳山頂より」

吉田博は昭和22(1947)年、太平洋画会会長に就任。第三回日展の審査員も務めたが昭和25(1950)年4月5日に74歳で死去した。油絵も魅力的であるが、やはり水彩画や木版画の透明感は格別である。戦後の占領期に日本に滞在したアメリカ人たちから人気があったのも頷くことができる。

「招魂社付近」
「養沢 西の橋」
〇印の場所が吉田博のアトリエがあった場所

第11回 阿部展也

 阿部展也作品を初めて知ったのは佐谷画廊での展覧会でのことで瀧口修造との詩画集『妖精の距離』(1932年 春鳥会)のページに印刷されたドローイングによってであった。まだ京橋に画廊があった時だったので、少なくとも1982年以前のことであり、まだ私は大学生であった。瀧口修造に興味をもっていたから札幌から愛知の実家に戻るときに東京に立ち寄って画廊を訪問した際に見ることになったのであろう。そのイメージに魅了されたのを覚えている。阿部のこのときの印象があまりに強かったのか、その後、阿部展也ときくと曲面で構成されたドローイングのイメージが浮かぶようになってしまった。

『妖精の距離』表紙

 阿部展也の本名は芳文。大正2(1913)年、現在の新潟県五泉市に生まれた。7歳の時に東京・池之端に転居しているため、10歳の時に東京で関東大震災に遭っている。京北中学を四年で中退、以後は家を出て独立して生計を立てるようになり、絵を描きながら外山卯三郎が主宰する研究所に通った。余談ながら外山卯三郎の実家は下落合1146番地にあり、佐伯祐三や前田寛治(二人ともに下落合在住)が所属した1930年協会のスポークスマン的な役割を担っていた。阿部は昭和7(1932)年、19歳で独立美術協会展に入選した。同時に友人たちと1940年協会を結成、阿部芳文の名前で展覧会に出品するなど活躍の場を拡大していった。1940年協会は1930年協会とは違い、シュルレアリスム的な表現を主体とした美術団体であったが、組織としては短命に終わる。

 一方、阿部展也といえば写真にも深いかかわりがある。戦前のこの時期、阿部は雑誌『フォトタイムス』の論客として写真評論を書いている。また、自ら撮影した写真を誌面に提供している。阿部は浜松市で写真撮影を学んだが、親戚が写真館を営んでおり、そこに暮らした時期に習得したようだ。1930年代の『フォトタイムス』には瀧口修造や永田一脩が頻繁に文章を寄せており、阿部も論客の一人となる。『フォトタイムス』は下落合西部に本社をおく写真材料メーカーであるオリエンタル写真工業が発行していたPR雑誌であった。木村専一をはじめとする編集部は新興写真の動きを先取りし、日本におけるモダン・フォトグラフィ受容に大きな役割を果たしたのだった。

『フォトタイムス』表紙

 瀧口や阿部はシュルレアリスム的な写真表現を表現基盤とする「前衛写真協会」を昭和13(1938)年に結成、写真家ばかりではなく画家も参加した。そのメンバーであるが瀧口、阿部のほか永田一脩 、濱谷浩、田中雅夫、今井滋、西尾進、森堯之、柴田隆二、永井東三郎、伊藤幸男、田村榮、奈良原弘などであった。永田や阿部も画家であるが、森や今井も画家であり、その作風は超現実的である。しかし、戦争がこうした動きをとめてしまう。シュルレアリスムを牽引する瀧口修造と福沢一郎のふたりがともに治安維持法違反の嫌疑により特高に取り調べされてしまう。実質シュルは時代の表現から消えてしまう。戦争中にフィリピンに従軍した阿部展也は昭和21(1946)年に帰国した。そして、すぐに画家としての活動を始めた。阿部が下落合に転居してきたのは昭和23(1948)年のこと。すぐ近くには吉田博の工房もあった。阿部のアトリエには実に多くの才能が出入りをした。宮脇愛子、間所沙織、漆原英子など戦後を代表する女性画家たちが皆、阿部に師事し、下落合のアトリエに通ったというのも面白い。

 今回のスタートも西武新宿線の下落合駅である。吉田博工房と同様のルートをたどる。駅前の道を右にとり西の橋を渡り、新目白通りを横断して西の坂を登る。三差路の右の道路に入って2分くらい歩けば阿部展也アトリエのあった場所にいたる。このアトリエには写真家である大辻清司も出入りした。大辻が撮影した実験工房メンバーの画家・福島秀子をモデルにした有名な一連の写真は下落合の阿部のアトリエで阿部の演出によって撮影されたものであった。阿部が演出し大辻が写真撮影を行うといったコラボレーションが何度か継続されている。写真の背景は当然阿部のアトリエ内部であるので、大辻の写真はその美術的な構成要素とともに重要な資料でもある。

阿部展也アトリエのあった場所の現在

 戦前から続く瀧口修造との親密な関係からか、タケミヤ画廊に阿部は瀧口を紹介する。タケミヤ画廊の瀧口企画による第1回展は阿部展也個展であった。二人がともに下落合に住むようになるとその関係はさらに深化し、タケミヤ画廊の展示企画も順調に継続した。このタケミヤ画廊で岡上淑子や草間彌生がデビューする。大辻清司が所属したグラフィック集団の展覧会もタケミヤ画廊で開催された。1954年12月、日本橋高島屋8階の催事場で「第1回国際主観主義写真展」が開催された。ドイツのオットー・シュタイネルトに触発されて結成された日本主観主義写真連盟がその主体となったが、その中心には瀧口、阿部、三瀬幸一がいた。メンバーの人選をみると阿部の写真人脈と瀧口のタケミヤ人脈が色濃く表れている。阿部はエンコスティックによるアンフォルメルな表現から明るくモダンな純粋抽象へと作風を変化させていった。そして下落合ばかりか日本を離れてイタリアで活動するようになる。結局イタリア在住のままに亡くなってしまった。下落合在住期間は決して長くはなかったが、阿部展也にとって非常に重要な時期にあたっていた。アトリエでの写真のための演出などの興味深い現場をぜひ覗いてみたかったと思う。

〇印の場所が阿部展也のアトリエがあった場所

第12回 瀧口修造

 そもそも私が落合散歩を始めるきっかけになったのは瀧口修造の存在であった。新宿区落合地区に転入してきた当初は土地勘もなく、近くに佐伯祐三のアトリエが残されていて公園になっているから散歩してみようくらいの認識しかなかった。西落合に瀧口が住んでいたことを何かの折に思い出し、古い詩の雑誌によって旧地番の住所を知って、その場所を訪問する気になったのであった。瀧口といえば思い出したのはオリーブの瓶詰めである。小豆島出身の舞踏家・石井満隆から瀧口のオリーブの瓶詰めは最初自分が作ったとの逸話を聞いていた。石井がヨーロッパに渡航してしまってからは池田龍雄や上原木呂が製作を引き継いだと聞いていた。そのオリーブの木が今はどうなっているのか、オリーブの実は無理にしてもせめて葉の一枚でも残っていないものかと思ったのが瀧口邸跡を訪問する動機になったのだった。
 幸い、地図でみると歩いてゆける距離であった。ときは春、桜(染井吉野)が咲くには少し早いが散歩には良い気候であった。そこで妻を誘って歩いたのだった。初めての道は不安があるせいなのか、常に実際よりも少し遠く感じるもので、この時もそうだった。新目白通りを西にむかって歩くと漫画家たちの梁山泊であったトキワ荘跡や目白文化村の近くを通り、新宿区が豊島区にくちばしでつついているような形をした西落合の入り口に着く。哲学堂に近く、西には水の塔が独特の姿を見せていた。雑誌でみつけた地番の近くまでゆくが、地番の土地に直接入る道がなかなか見つけられずに周囲を何度か回ることになった。今はマンションがたってしまった場所が当時は建物が何もない駐車場になっていて、その塀のむこうに見事なしだれ桜が満開の花を咲かせていた。まるで夢のような情景だった。しかもその桜は、わかってみれば瀧口邸の隣家の庭にある桜であった。隣にあたる瀧口邸のあった場所には、その敷地いっぱいに別の建物がたっていたのだった。せめてもの救いはマンションになっていなかったこと、隣家のしだれ桜が美しかったことだった。急いで反対側にまわると狭い路地があり、桜の根本近くに行けるのだった。ただし、その道は行きどまりになっていた。路地の入口近くの方に声をかけていただいた。そこでこの散歩にいたった経緯を説明した。その方は瀧口邸のあった場所を教えてくれ、瀧口夫妻が隣家の桜ではあるが、しだれ桜の開花を毎年楽しみにされていたことを話してくれた。オリーブの木は残念ながらみつけられなかったが、とても印象深い散歩になったのだった。

 瀧口修造が西落合に越してきたのは昭和28(1953)年のこと。借地に母屋を建てての移住であった。全くの偶然ではあっただろうが、その場所は戦前期に執筆していた雑誌『フォトタイムス』の編集部にほど近い場所であった。『フォトタイムス』は写真材料メーカーであるオリエンタル写真工業が発行していたが、オリエンタル写真工業の本社はまさにこの西落合にあった。この雑誌を基盤にして昭和13(1938)年には前衛写真協会という写真におけるシュルレアリスム表現をめざすグループをつくって瀧口は活動した。前回も書いたように前衛写真協会の主要なメンバーは阿部展也(芳文)、永田一脩、今井滋、森堯之、田中雅夫、濱谷浩、村田実一など。瀧口が西落合に越してきた時にはオリエンタル写真工業の本社工場も写真学校も空襲によって焼けてしまっていたが、第二工場だけは面影を残していたはずである。また戦前から行動を共にしてきた同志ともいえる阿部展也も下落合にアトリエを構えて住んでいた。瀧口は昭和26(1951)年から阿部や鶴岡政男の推薦があって、タケミヤ画廊での展覧会企画を行うことになったのであった。

 今回の散歩の出発地点は都営地下鉄大江戸線の落合南長崎駅である。落合南長崎駅をでると目白通にでる。そこを少し南下すると新青梅街道にでる。これを哲学堂方面に向かう。西落合交番前の交差点を右に入って北に向かって歩くと左に入る路地がある。これを入った突き当りが瀧口修造邸のあった場所である。

 瀧口について考える時、写真の存在を忘れることはどうしてもできない。そもそも大正4(1915)年、開業医であり趣味人であった父が他界した際に遺品として残っていたのが手札型のカメラであった。未開封のイルフォード乾板を使って散々失敗した末に母の助けも借りて現像した際に像が浮かび出たときの感動を自筆年譜に書き残している。また西銀座の写真館に勤務し、将来は写真館を開業し生計をたてようとした時期もあったようである。『フォトタイムス』とのかかわりが戦前期に生じたこともこうした経験があったからこそだったのかもしれない。

第一回国際主観主義写真展会場

 瀧口修造が亡くなったのは昭和54(1979)年7月1日のこと。河井病院で息を引き取ったのだが、西落合の自宅からすぐ近くの病院である。結局、西落合の家が瀧口のついの住処になったのだった。西落合在住の時期はタケミヤ画廊の企画をした時期の後半、実験工房の後半時期、自らデカルコマニーやバーント・ドローイングなど造型作品を制作した時期を包含している。同じく瀧口が中心となった「日本における主観主義写真」の全体像を改めて確かめてみたいという誘惑に私はかられている。

デカルコマニー
〇印の場所が瀧口修造の邸のあった場所

あとがき




 ここに掲載した12編の画家たちの物語はギャラリー「ときの忘れもの」のブログとして連載形式で執筆したものである。2018年8月から2019年7月までの期間に毎月一編を書いていったものである。実際には画家たちばかりではなく林芙美子や尾崎翠としった作家たちの小説執筆地を訪問したり、挿絵画家の竹中英太郎のデビュー時の自宅を探すという、なかなかにスリリングな散歩も行っていた。こうした散歩はそれぞれの画家や作家たちの足跡や資料を研究することになり、また別の角度からの好奇心をくすぐられることにもなった。
 また実際の散歩ということでも、林芙美子の研究者、尾崎翠の研究者、柳瀬正夢研究会メンバー、美術館関係者、写真家など多くの方と落合地域を実際に歩いた。読んでいただいたことに深く感謝しつつ、次は実際に歩いていただきたいとの願いをこめて。
                                                            中村惠一












中村 惠一

1960年愛知県岡崎市生まれ。北海道大学卒業後に、メールアートの実作者として活動するとともに、居住地である新宿区落合地域の文化史の研究、主観主義写真に関する研究等を行っている。共編著として『メールアートの本』『写真』(飯田幸次郎写真集)、『主観主義写真における後藤敬一郎』。                               
ギャラリー・ときの忘れもののブログで連載を行っており、本著作はその1年目の内容をまとめたもの。                                     

中村式落合散歩-新宿・落合に住んだ画家たち

2020年7月1日 発行 初版

著  者:中村惠一
発  行:K1Press

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