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おどすことはやめなさい4

Grace Road Church

Grace Road Church出版



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おどすことはやめなさい。


エペソ6:9「 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」

本文の 「主人たちよ」とは?
“最高の権威、(名詞として)統治者、含みのある意味では、「様」(尊敬される称号として)、神、主、先生、自分勝手にする者、君主、メシア”という意味が隠されている。

「恐喝」とは?
(言語的には)脅す、含みのある意味では(禁ずる)、脅迫する、厳しく脅す、(国語学的には)恐怖を感じるほど脅かす、うそを俗っぽく言うことば、(法律)財産上の不法の利益を得るため人を脅迫すること。

今のこの世は、恐喝(偽りの言葉)によって支配されている。全世界はもちろん神聖な言葉だけ伝えなければキリスト教さえ恐喝( 偽りの言葉 )のことが真のみことばになってしまったこの世代を何に喩えようか。。。泣き叫んでも願っても出来ない、真理に立ち返らないキリスト教界をどんな言葉をもって正すことが出来るのか?

キリスト教、いわゆる同じ家の用務だが、恥さらしでありながらも公にいわざるを得ないこの痛みを神だけがご存知なのでどんな悪口も甘受することに決めて言う。この文章を読んで、すべての人、特に、ノンクリスチャンに心からお願いする。クリスチャン同士の争いとして判断せずに、ただ見守ってもらいたいと心からお願いする。

クリスチャン同士の争いではなく、このようにされた理由は、創世以来、聖書に記録された神の国の奥義が隠されていたからである。同じクリスチャンたちには真心をもって精読してもらいたい、みことばに照らして自分のことを、またキリスト教を見て回って御言葉を悟って立ち返ることを心から願う。。

ノンクリスチャンよりも大きな問題はクリスチャンである。自分たちはすでに、聖書をすべて知っていると思って言う。私たちは、すでにすべて知っているからあなたたちがしっかりしなさいと〜、その上、なぜクリスチャンに伝道をするかとまで。だから「異端」呼ばわりされるのだと非難する。果たしてこれらの言葉は正しいのだろうか?

特に、キリスト教の中で、神聖な教会の講壇からむやみに言った恐喝を聖書どおり明かせば、愕然とする。過去10年余りを証明しても立ち返らないクリスチャンの霊的な状態は、全聖書に記録されている通り今、神の裁きだけが残っている。どれほどひどい状態だから。神は神の家から裁かれるとしたのだろう?

11.カトッリクの煉獄説は恐喝だ

カトリック信者の家族の中で、カトリック信者ではなくても肉体が死んで煉獄に行っていれば、生きている家族が煉獄にいる家族のために献金をするとき、献金をする当時、お金を入れるチャリンという音を聞いてだんだん天国に上るという煉獄説は恐喝だ。こんなにも話にならない恐喝があるのだろうか?全聖書のどこにもこのような恐喝は一句も記録されてない。

このような恐喝は次の判決の御言葉に該当する。「私の心はすばらしいことばでわき立っている。私は王に私の作ったものを語ろう。私の舌は巧みな書記の筆。」という判決だ。
この部分の御言葉には、言葉の意味が隠されてある。聖書を持って説教をする人の心にその言葉を聞くすべての人々が聞くのに心地よい言葉が溢れて、永遠の王であられる神に対して、その御子イエス・キリストに対して、天国に対して等々、恐喝する人々が作り上げた言葉をもって、カトリック信者としてカトリック教会に通わずに肉体が死んだ家族のことを心配する心に印を刻むごとく、深く刺さった釘のように心に突き刺さるその言葉を信じて一生懸命、死んだ家族のために献金をするように魅惑する。これは徹底的に悪知恵を働かせてお金を集める方法を考案した巧みに誘惑する恐喝だ。

特に「巧みな書記の筆 」という言葉には「鉄の筆」という意味が隠されていて、この鉄の筆でもって罪を犯すと、すでに仰られた。証拠を見みよう。「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。」と仰せられたことだ。すなわち、聖書をもって神の御名、イエス・キリストの御名を使って巧妙に偽りの言葉によって作り上げた言葉で、神が言われたかのように恐喝して、その言葉を聞く教会員たちに罪を捨てさせるのではなく、むしろ罪を犯させるということである。

このような恐喝に対する解答は全聖書にたくさんある。直接的に判決を下すと、次の御ことばだ。おまえたちがひとつかみの大麦と、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行い、死んではならない者たちをしなせ、生きてはならない者たちを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した。

このように煉獄説で恐喝するすなわちおどす者たちは、神とイエスキリストの御名を自分たちの食べていくための手段として使って全天下に神を汚すことを行い、カトリック信者も自身たちをを惑わす恐喝であることも知らず、全天下に「平和」という言葉で繕っている指導者たちの言葉を信じて、自分たちも知らずに恐喝に参加しているのだ。すでにこのような指導者たちを置いて次のように判決をされた。

「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光りの御使いに変装するのです。 ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」という判決の御言葉が今、全世界で実状となってカトリック神父たちの腐敗と堕落が全天下に露わにされてるのではないか?

今この時代は隠されていた神の御国の奥義が全てあらわれる時なので、世界中で有名だというすべての人たちの腐敗と堕落が赤裸々にあらわれるときだ。このような恥があらわれることは、すでにとこしえ前に神が計画されていた時間表の通りに、すなわち聖書どおりにすべてこの地に成し遂げられている証拠だ。

それ故、人は必ず肉体が生きている間に神の御子イエス・キリストを信じて新しく生まれてこそ天国を見ることも入ることもできる。証拠を見う。「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国をみることはできません。』ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。』イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。』」と言われたこの言葉は自分たちとは全く関係がないと思っているのだろうか?「煉獄」という言葉自体が作り上げた偽りだ。

特に肉体が生きている間、イエス・キリストを信じず、煉獄に行っている家族のために献金をすれば天国に上るという恐喝は神も、その子イエス・キリストも全面否定する敵対行為であって、そこは絶対に教会ではない。おどす詐欺の集団である。

12. 祈祷院あるいは教会の本堂の下に納骨堂か樹木葬を作り、一般の納骨堂より多く献金をすれば、天国に行けるという恐喝

祈祷院あるいは教会の本堂の下に納骨堂か樹木葬を作り、一般の納骨堂より多く献金をすれば、天国に行けるという恐喝

世の中のどこにこのような恐喝があるだろうか?耳で聞いても信じられない恐喝だ。聖書のどこにもこのような言葉は記されていない。また、「金持ちは天国に入るのが難しい」と言われ、天国は誰でも入るところではない。だからといって、難しいことでもない。必ず神の御言葉どおりに信じればいい。証拠として、「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行う者が入るのです。」とすでに判決を下された。

聖書的な信仰とは、神の御言葉どおりに信じてその御言葉を地で成し遂げることだ。肉体を来てこの地に来られたイエス・キリストがご自分が来られた目的をはっきり話された。父の御言葉を成し遂げようとこのちに来られたと~~~

たくさんの証拠の中で次のことばを通して神の御声を、真理の御霊の声を受けよう。

イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」
「そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神の御心を行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」(マルコ3:34)と言われた。

上記の御言葉を文字そのままだけで見ると、イエス・キリストはご自分を訪ねてきた母と兄弟たちではなく、弟子たちを指してご自分の兄弟、姉妹、母であると言われた。今この時代、全世界のクリスチャンの中でどれだけ多くの人々がこのように神のみこころどおりに行う者たちがいるのだろうか?すべてのクリスチャンは必ずイエス・キリストの弟子たちのように地上で生きなければならないのに。

このような生き方はできなくても、聖書にもない恐喝をする教会があるならば、次の御言葉に該当する。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけくわえる者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神はこの書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」という御言葉が実現される時がまさに今のこの時代だ。

ここで致命的な真理をストレートに言うと、神が本来被造物を創造された時、人間に向けられた神の御心は罪を犯さず、神の戒めどおりに生きながら永遠に生きることである。このように生きれば聖書に記録されたすべての祝福を受けて、従えよ、支配せよ、と仰せられた通り生きるようになる。

でも、人間は神を信じると言いながら、人間が守るべき法律としてすでに定めて下さった神の御言葉はことごとく捨てて、自分勝手に聖書を見て、神を語り、考えて信じ行った結果によって人間の寿命は短くなったであって、記録された御言葉のどおり裁かれる。全聖書を見なさい。創世以来、今まで全聖書の中に創造主である神が喜ばれる人と反逆する人々の結果をすでに記録してくださったではないか?

神を喜ばせたエノクとエリヤは肉体の死も見ることなく移された。しかし、そのように肉体を着て地で生きた人たちであるエノク・エリヤもいたが、これとは反対に創世以来数え切れないほどの人たちがすべて肉体が死んだ。今この時代も同じで、人間は肉体が死ぬことを当然のこととして受け止める。ノンクルスチャンはもちろん、クリスチャンでさえ 人間が死ぬことを当然のこととして受け止める。

教会を建築すれば当然、教会本堂地下室を納骨堂に作るか、あるいは献金で山を買って世の中の人のように教会の公園墓地を作る。その上、若かった頃は、近所の開拓教会を通いながら、さらに年をとったら本堂の下に納骨堂がある教会や教会の公園墓地がある教会に通い出すのである。理由は死んでも寂しくなく(?)教会員たちと共に納骨堂に埋められたいということだ。

この者たちは自分たちが持ち歩いている聖書を何だと考えているのか?キリスト教を信じる理由は一体なんだろう?人間は肉体が死なないで生きることができるということを信仰の父たちを通じて見させてくださり、記録されてくださいました。神の御子イエス・キリストを通じて肉体が死んでも復活するということを信じてすでに全て記録してくだっさっても信じない理由は何だろう・・・?

記録された御言葉を信じないでなぜ教会に通うのか?これまで10数年間を、ほぼ毎日のように聖書を信じない教会の中の不信者を見ながら驚いてきた。今も彼らは教会に通っていてイエス・キリストを、神を信じていると勘違いしている。記録された御言葉は信じないのに、何を信じるというのか、彼らの信仰は果たして何を指して言うのかまったく理解ができない。

それゆえ、教会の指導者たちが教会の納骨堂は世の中の人たちが作った納骨堂よりも価格が高くても、献金すると考えてお金を出せば天国に行くと恐喝しているのである。どう21世紀である今この時代に、このような恐喝を信じて教会生活をすることができるのか?教会の本堂の下に納骨堂か祈祷院があるくらいなら、貧しい教会ではなく金持ちの教会だ。聖書にもない言葉を作り上げ、恐喝しても、「アーメン」と言って通う教会員たちは、また誰だというのか?全世界のすべてのキリスト教徒たちよ!これからはこのような恐喝に二度と騙すことも、騙されることもしないで、創造主神が、御子イエス・キリストが望まれる御心とは何か、真理を通じて善悪を弁えよう。

13.クリスチャンが貧しく暮らせば呪われたことだと言いながら、祝福を受けるために献金を強要する恐喝

このように恐喝すること自体が指導者が教会員を呪うことであって、また、この指導者が呪いを受けた指導者なのだ。このような指導者は全聖書の一句も見えず聞こえも、悟りも、信じもしない栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい人である。

神の子イエス・キリストは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」という御言葉をこのような恐喝する人は何と解釈するのか?

この御言葉には神の国の奥義が隠されている。狐と空の鳥は誰でも見てわかる狐と空の鳥を置いて言われたことだけで解釈すると、まったく解釈することのできない本文である。この言葉に対する解答もすべて聖書の中にある。

また聖書に記録されている乞食ラザロの名前にも「神の助け」という意味が隠されている。言い換えれば、神の助けで乞食として生き、肉体が死んで楽園に行ったということである。証拠の御言葉を通して神の御声を受けよう。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちはハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そちらからこちらへ越えて来ることができないのです。』」

上記の御言葉は恐喝する人たちの目には見えないのだろうか?毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちが陰府に下って一滴の水も飲めず、乞食ラザロの指先に水を浸して舌を冷ましてくれとその父アブラハムに言う。この言葉には測り知れない意味が隠されている。この金持ちとは果たして誰のことを言うのであって、乞食ラザロは誰を指しているのか恐喝する者の目には全く見えないのである。

このように恐喝する人は聖書を、神を、イエス・キリストを自分の飯の種として使うだけで、絶対に御言葉を信じるキリスト教徒ではない。自分自身が「真理の愛を受けてない呪われた者」という事実を肉体が生きている間に悟ることができないのであれば、肉体が死んで陰府に下った金持ちのように、死んでからわかるようになるという事実を聖書を見ても信じない不信者であるのだ。このような恐喝を聞いて、教会に通う教会員もまったく理解することができない。それゆえ、伝える者も聞くものもすべて同じである。

神の御言葉どおり見て聞いて信じて行う本物のキリスト者であれば、必ず神の御言葉どおりに従って行かなければならない。教会の指導者は聖書と異なる偽りで脅かすことを止め、必ずイエス・キリストが行かれた道について行くことが絶対真理である。

おどすことはやめなさい4

2020年2月22日 発行 初版

著  者:Grace Road Church
発  行:Grace Road Church出版

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