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戦鬼伝 第一章ー影ー

鈴奈



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イラスト・キャラクターデザイン  さらまんだ
コンセプトアート         BUZZ
装丁               兎月ルナ

 目 次

序章 -蕾-

第一章 -影-

十一

十二





序章 -蕾-


 深夜二時、風はない。

 紫色の灯りの中で、赤い眼をした夜の獣が咆哮する。

 一人の男が、対峙する。

 彼の右手の中指には、赤い石が輝いていた。

 赤い石から、蕾が萌える。

 こめかみから二本の角が生え、八重歯が牙に変わり、その手に青い刃が顕現する。

 獣がその男に触れる隙はなかった。

 青い閃光が、獣の腹を斬り裁く。

 獣は悲鳴とともに砂となり、彼の右手中指の蕾に吸い込まれていった。




 ――これは、鬼と鬼人の、「願い」を巡る、戦いの物語である。





第一章 -影-

 影宮かげみやようはぼうっとしていた。
 焼けるような日射しが照りつく七月後半。竹刀と竹刀が交じり合う音と、必死な声が響き渡る小さな武道場。息をするだけで汗が噴き出るこんな場所に、引退した中学三年生の彼らがいるのは、明日、大きな大会に挑む後輩たちに、最後の稽古をつけてやるためである。
 それなのに、なぜ、ぼうっとしているのか。
 熱中症ではない。同輩後輩総勢七名が稽古前に放った、ある言葉が原因である。
「彼女と、どうよ? 結局昨日は手、つなげたわけ?」
「てか、明日から夏休みだろ。デートの約束したのかよ?」
「夏休み入ったら自然消滅とか、普通にあるぜ? 忘れられないようにキスの一つでもしてこい!」
「無理だろ! 二か月で手もつないでなかったんだから!」
「絶対今日した方がいいって! したら連絡よろしく!」
「ちょっと先輩たち、やめてくださいよ! 中の下の平々凡々な影宮先輩が、女子の憧れ、武蔵六中むさしろくちゅう一の美少女、東条とうじょうひめ先輩と付き合っていること自体、私たち本っ当にいやなんですから!」
「いや、俺たちも別に応援してねぇし。破滅へのカウントダウンしてるだけだし? まじ、なんで中の下のこいつが、東条さんみたいな完璧な人と付き合えたのか、全っ然分かんねぇ」
「高嶺の花だから近づき難かったけど、押しに弱かったんかなぁ。俺にもチャンスあったかなぁ」
「先輩の方がいやです! 下品な人は姫先輩の半径十センチ以内に近づかないでください!」
「ひど」
「頭良くて、三年間学級委員してて、優しくて、きれいで……。はぁ。ほんと、姫先輩みたいになれたら人生勝ち組だよねぇ」
「私、姫先輩は絶対、天野あまの先輩と付き合うんだと思ってた!」
「天野先輩、めっちゃ素敵だよね! もうほんと、直視できない! 姫先輩と一緒に学級委員してるとことか見ると、美男美女でお似合いで……。あぁ、あの二人に付き合ってほしかった!」
「分かる。俺たちも天野なら納得だったよな」
「俺は、斎王さいおうと付き合ってんのかなって思ってたけどね」
「斎王ってお前と同じクラスの? あいつ、超やばいよな」
「あぁ、あの、体育祭でめっちゃ目立ってた先輩ですか?」
「あの先輩、体育祭の時はすっごくかっこいいと思ったけど、学校ですれ違うと、目つき悪いし、体おっきいし、だるそうだしで、超怖いんですよねぇ」
「だよな。俺達もすげぇ怖いもん。でもなんか知らんけど、東条さんって、あいつとすっごい仲よくてさ。ちょくちょくうちのクラス来て、斎王と話してくんだよね」
「幼馴染なんじゃないっけ? 朝も一緒に来てるの見るし」
「まじか。一匹狼の幼馴染ほっとけないとか……。まじ、東条さんの優しさエンドレスだわ」
「その優しさにつけ込んだ悪い男がこいつです」
 肩をぽんと叩かれ、陽は、軽く足元がふらついた。これだけ同輩後輩が話し込んでいるのに、この時すでに、陽はぼうっとしていたのである。
 原因は、「キス」という単語である。この単語が出た瞬間、陽は、計画と妄想の世界に没入してしまっていた。
 東条 姫と付き合って、今日でちょうど二か月。ようやく昨日、ありったけの勇気を振り絞って、五分間だけ手をつなぐことができた。心臓が大きく跳ねて、目も耳も頭も、機能を忘れてしまった。全神経が手に集中し、手のひらが汗まみれになった。次第に、剣道をした後の蒸れたにおいのするだらだらの手で、細くて白くてきれいな手を触っていることが、とんでもなく恐ろしく思えてきた。それで、すぐに手を引っ込めてしまったのである。
 剣道をすると、体中が納豆のにおいになる。そんなにおいをプンプンさせて隣を歩きたくないので、部活に呼ばれた日は、先に帰ってもらっていた。だが、昨日と今日の二日間は、「明日で学校終わっちゃって、夏祭りまでしばらく会えなくなっちゃうし、よければ、一緒に帰りたいわ。教室で勉強して待ってるから」と、いじらしく言われてしまい、うなずかざるを得なかったのである。
 しかし、よくよく考えてみると、終業式の日の帰り際にキスをするということは、非常にロマンティックである。最高にドキドキする。しかも、恥ずかしくても二週間は顔を合わせない。いいこと尽くしである。
 何より、キスしたい。強く膨れた思いは、堅い決意となった。
 そうとなったら、納豆人間にならないよう、今日は剣道をしないことにした。顧問には、「熱中症っぽくて、ふらふらします」と適当なことを言って、稽古をぼんやり眺めながら、姫とキスをするシチュエーションを何パターンも妄想していた。
「影宮、だめそうか。今日はお前、もう帰るか」
「あ、はい。そうします」
 顧問の心配をチャンスと取って即答すると、陽はさっさと着替えた。
 そもそも自分が頑張らずとも、旧レギュラー陣が尽力して後輩たちを鍛えてくれるのである。
 とにかく今、陽の心には、「姫」と「キス」しかなかった。
「じゃ、失礼します!」
「進展したら報告しろよな!」
 同輩後輩はけらけら笑って、納豆のにおいのこぶしを振った。

「姫! お待たせ!」
 陽は、防具袋と竹刀袋、そして、持ち帰り忘れた教科書類を詰め込んだパンパンの鞄を一心不乱に振りながら、全速力で教室まで走ってきた。ガラリと開けると、クーラーの冷たい風が顔を包んだ。
 楽しそうに笑っていた二人の少女が、目を丸くして陽を見た。
「あら、十五時まで部活って……」
「暑いから終わった!」
 姫は肩まで伸びたやわらかな髪と、ハーフアップに束ねる赤いリボンをふわりと揺らすと、「そう」と微笑んだ。数学の問題集を閉じて、筆記用具を片付ける。姫の横で、むすっと陽を睨むのは、姫の親友、末益すえますあやである。
「まだ十三時半だよ。一時間もしてないでしょ」
「たしかにそうね。もしかして陽……具合悪いの?」
 疑いの眼差しを向ける彩の隣で、姫は本気で心配している。やっぱり姫は天使だなぁ、と陽は思う。
 彩は鼻で、ふんと笑った。
「姫ちゃん。満面の笑みで走って来た人が具合悪いわけないよ。さぼりだね」
「はいはいはい。行こう、姫」
「あ、はぐらかした! あーあ、せっかく十五時まで姫ちゃんといられると思ったのになぁ」
 準備を整えた姫が、やわらかく微笑んだ。
「一緒に残ってくれてありがとう。また連絡するわ。夏休みに遊ぶの、楽しみにしてる」
 彩は、「絶対ね!」とさよならのハグをする。しかし、体を離すと、キャッキャしていたキラキラ少女はどこへ行ったのか、陽を般若の形相で睨んだ。
「陽くん? あなたと姫ちゃんの付き合いはまだ二か月。幼稚園、小学校と別だった上に一度も姫ちゃんと同じクラスになったことがない。対して私は、幼稚園三年間、小学校六年間、加えて中学三年間、ずっと同じクラス。高校も同じところに行く予定です。この奇跡は、私と姫ちゃんに絶対的な運命の糸がある証拠。したがって、姫ちゃんはあなたのものではなく、私のものなのです。私の姫ちゃんに、決して不純な行為はしてくれるなよ?」
 陽は肩を縮めて、「お、おう……」とつぶやいた。背中に一筋の冷たい汗が流れる。二か月の間に何百回と聞いたが、彩の愛の圧力には未だ押しつぶされてばかりである。
 姫が、「私も、彩とは運命だって思ってる」と言うと、キラキラ少女は再来し、またもや姫とハグをした。

 下駄箱で姫は、「この後、どうする?」と聞いた。せっかく早く帰れるのだから、自分の家で一緒に受験勉強をしないかと陽は提案した。正直陽は、そんなに受験勉強に一生懸命ではない。一方、姫はとてもよく努力をしている。武蔵市むさししで一番偏差値の高い進学校を目指しているからだ。一学年約四〇〇人、十クラス構成の、この武蔵市立第六中学校の定期試験で、毎回学年一位か二位を取っているほど実力があるのだから、そんなに努力をしなくても……とも思うが、自分を過信せず、謙虚に努力するひたむきさが、陽はとても好きなのだった。
「でも、いいの? せっかく早く帰れたんだし、おじい様のお見舞い、行きたいんじゃ……」
「大丈夫、大丈夫。行ったところで叱られて追い返されるって。それこそ、受験勉強しろ! ってさ」
 二人はたわいない話で盛り上がりながら、コンビニでアイスと飲み物を買い、陽の家へ向かった。
 陽の家は影宮神社である。規模は小さいものの、陽の祖父が陰陽師おんみょうじの最後の一人として人間国宝に指定されているため、日本中に名が知られている。とはいえ、武蔵市で一番栄えている新武蔵駅から二駅離れた住宅地域の中に建っているので、場所が分かりにくく、滅多に人は訪れない。その上、父も母も亡くし、祖父も入院中、神職や巫女も雇っていないがために、現在は陽一人で住んでいる。
 丘の上、周囲は神社林のみ。風にそよぐ木の葉の音と、小鳥のさえずりしか聞こえない。
 まさに、受験勉強にも、キスにもうってつけの環境である。

 ところが、陽はまたもやぼうっとしていた。

 熱心に勉強する真剣な表情や、髪を耳にかけたり、人差し指で下唇をキュッと押し上げたりして一生懸命考えるしぐさ、時々集中のために漏らす深い息の音――。
 姫の一挙一動全てに見惚れ、聞き惚れていたのである。

 姫の集中は途切れることなく、柱時計が十七時を告げた。空の色はいつのまにか薄まって、だいだいの雲が漂っていた。
「あ、そろそろ送ろっか。俺も、ついでに夕飯買いたいし」
 姫は、「ありがとう」と微笑んだ。
「今度、作りに来ていい? お夕飯」
「ほんと? いいの? 食べたい、すっごく!」
「練習しておくわね」
 陽が、「やった!」とガッツポーズをすると、姫はふふふと笑った。

 街は、紫色のぼんやりした灯りに包まれていた。外壁に等間隔に貼られた守護符しゅごふの輝きである。空の橙と街の紫が混ざり、美しい。
「きれいね。この守護符、陽のおじい様が開発に協力したんでしょう?」
 陽は後ろ首を掻いて、「まあ……そうだけど……」と曖昧な返事をした。

 その昔、万能の力を持つ「鬼神おにがみ」がいたという。鬼神は命の終わりに、自らの魂のかけらを日本中にばらまき、かけらを宿した妖怪「鬼」と、かけらを宿した人間「鬼人おにびと」を生んだ。
 鬼は、力を求めることに傲慢で、破壊を好む化け物である。同胞や鬼人の魂を喰らい、自らの力や知能を増幅させながら、夜を生きている。
 鬼人は、一見人と変わらないが、夜にのみ発動できる特殊な力を持つ。同胞である鬼人や鬼を殺し、力の源である右手中指の赤い石にその魂を吸い取らせ、花の形に成長させれば、どのような願いも叶えることができるほどの強大な力を得られるという。
 とはいえ、ほとんどの鬼人は力を満足に扱うことができないので、一方的に鬼に襲われる状況にある。そのため人間は、同じ姿で、人間から産まれ落ちる鬼人を、異質で危険な存在、災厄の根源とし、蔑んできた。しかし現在は、鬼人の力で人間を襲った場合の懲罰が定められたり、鬼人同士の殺し合いが禁じられたり、力のない鬼人を鬼から守るための守護符が鬼人の住宅を中心に貼られるようになったりと、鬼人と人間が共存できる環境が整えられ、鬼人への差別がなくなっている。

「この紫の灯りは、平和の象徴ね。陽のおじい様が平和をつくった証でもある」
「まあ、世間の人にとってはすごいのかもしんないけどさ。俺にとっては、ただのうるさいじいさんだよ」
 歩き出そうとした時、姫はふと、外壁に貼られた一枚の札が破れていることに気が付いた。上半分を失った札は、効力を失っているのか、紫色の灯が消えている。
「これって、一つでも剥がれてしまうと、結界に穴ができてしまって危ないんでしょう? 陽は陰陽師の血を受け継ぐ大切な跡取りだし、賢い鬼は狙ってくるかもしれない。何かあったら大変だわ」
「あ、忘れてた。夕飯買うついでにコンビニで買っておく。ありがとな」
 そうといっても、陽は陰陽術を全く使えなかった。最強の陰陽師と謳われた祖父の血が流れているので、いずれは使えるようになるのかもしれないが、何度練習してもできなかった。祖父はそんな陽を見限って、陰陽術を一切教えてくれなくなった。

 しかし、そんな過去など今はどうでもいい。

 陽の頭には、キスのことしかなかった。陽はあらかじめ何パターンかキスのシチュエーションを妄想していたが、最もロマンティックで、尚且つ、恥ずかしさや気まずさを軽減できるのは、やはり夕焼けの中での別れ際である。キスして「またな」が最もよい。

 平静を装い、たわいもない話をして、姫の家の近くまで来た。姫の家の隣にある小さな公園の前で、姫は、「送ってくれてありがとう」と微笑んだ。いつもはここで、「ん。じゃあな」と、姫が家の中に入っていくのを見送る。
 だが、今日は違った。「あ……」と言って、引き止める。
 しかし、次の言葉が出てこない。
「陽?」
 脳が、言葉を作ってくれない。唇が、開かない。焦って頭に血が上り、自分の鼓動で体が震える。自分の決意に負けて、「ん。じゃあな」と言ってしまいたくなる。いや、それではだめだ。

 ああ、何か、何か言わなければ……。

 焦燥にまみれ、弱さとの間で葛藤し、頭の中がぐるぐるする。
 その時。姫の手が、陽の二の腕に触れた。
 心配そうな姫の、やわらかそうな唇が、鼓動で揺れる瞳に映る――。

 陽はごくっと唾を飲み込み、二の腕にある姫の手を握った。その手が左なのか右なのかも分からないが、自分の手がひどく冷たくなっていることだけは分かった。そして、誰もいない公園に姫を引き連れると、隠れるように隅に入った。クローバーのやわらかい茂みが、足元をふわふわさせる。
 ――ええい、ままよ! 勢いまかせで口走る。
「あの……キス、していいか!」
 姫は、大きな瞳を丸くすると、何度か瞬きをして、足元に目を落とした。
 はらりと流れる髪から、真っ赤になった耳が覗く。握り合った手が、鼓動と一緒に大きく揺れる。
 少し経って、かすかに、「うん」という細い音が聞こえた。
 姫の小さな両肩を、恐る恐る、手のひらで包む。呼吸が、小さくなる。
 ごくり、と喉の音が頭に響く。
 唇を、ゆっくりと近づける。

 ヒグラシの音しか、聞こえなくなった。

 次第に、互いの唇の熱が、脳や体に流れる血の温かさが、戻ってきた。
 体を離すと、姫はすぐにうつむいた。陽の両手は、びっしょり濡れていた。
「あ……じゃ、じゃあ……また」
「うん……」
 互いに、震える吐息だけで軽く挨拶を交わすと、陽は、全速力で駆け出した。
 心臓がばくんばくんと暴れまわって、体を、脳を、激しく揺らす。久しぶりに機能した言語中枢は、「やばい」を無限に生み出していた。
 走って、走って、コンビニも通り過ぎて、鳥居をくぐって、石段を駆け上がって、社務所に入って、玄関に倒れこんで、「うわあぁぁ……!」と奇声を上げながら、ごろんごろんと転がって……。
 冷めやらぬ昂奮のまま、剣道部の同輩三人に『キスしたやばい』とメッセージを送る。そして再び、「うわあぁぁ……!」と奇声を上げながら、ごろんごろんと転がった。
 しばらく転がったのち、陽は、そのまま大の字になって、ぼうっと天井を見つめた。

 ――なんだ、これは。

 今まで生きてきた人生で、心臓が、体中が、心が、自分の全てが破裂しそうになっておかしくなりそうな、こんなにとんでもなく幸せな瞬間はあっただろうか。
 生きている。自分は、生きている。
 当たり前なのに、新しく知ったようだった。嬉しさがじんわり、胸いっぱいに広がった。

 しばらくぼうっとしていると、キスのやわらかさを思い出した。心臓がまたドキドキして、奇声付きのごろんごろんを繰り返した。

 陽の足音が遠くなった頃、姫はその場にうずくまった。ばくんばくんと振動する。体中が心臓になってしまったかのように。心の中は、色とりどりの感情でぎゅうぎゅうで、めだかほどの小さな背徳感が泳いでいた。
 熱い顔を両手で覆う。この熱を、この体を、この心をどうにかもとに戻さないと、とても家には入れない。どうやって親と言葉を交わしていいのか、分からなかった。
 ため息をついたり、「あぁ」とか「うぅ」とか、小さく唸ってみたりするも、なかなか熱は引いてくれない。
「いつまでそうしているんだ」
 背後からの声に、姫は全力で驚き、「キャッ」と悲鳴を上げて、やわらかな茂みに尻もちをついた。
 振り返ると、斎王さいおうりゅうがしゃがんで、姫の顔を覗いていた。
 大きく飛び跳ねた胸を押さえて、姫は、「いつからいたの?」と聞いた。体に汗がにじんでいく。
「まあ、さっき」
「見てたの?」
 竜の仏頂面の眉間に、少ししわが寄った。
「日が落ちてきた。鬼が来る。帰るぞ」
 竜は姫の鞄を拾い、わずかについた砂を払った。そのまま持ち手を肩にかけ、姫の手を取り、一緒に立ち上がる。
 姫の背丈は、竜の肩より低い。必死に見上げると、長い髪がはらりと流れ、紅潮した耳たぶが淡い夕日に照らされた。
「お母さんに、言わないで……」
「……何を?」
 姫は確かめるように、竜の黒い目の奥をじっと覗き込んだ。
 ヒグラシの音が、やけにうるさく聞こえる。
「……帰るぞ」
 姫の右手をやさしく引いて、竜は、帰路に足を向けた。
「おばさんに、おすそわけのポテトサラダ美味しかったですって、言っておいてくれ」
 玄関前で鞄を受け取り、姫は小さく、「ありがとう」と言った。
「これから行くの? 鬼退治……」
「いや、コンビニ行くとこ。鬼退治は、飯食った後」
「そう。……ね、指、見せて」
 竜の右手の中指の爪には、澄んだ赤色の石がきらめいていた。鬼人の証である。しばらく見つめていると、平坦な石から、細い蕾が萌えた。鬼を倒し、その魂を吸い取って、この蕾が花開けば、竜の願いは叶うのだ。
「きれい。竜はどんなことを願うの?」
「姫なら、どうする?」
「……もう。いつもそうやってはぐらかす……」
 唇を尖らせ、むくれてみせる。
 少し話をしていただけなのに、不思議と心が落ち着いてきた。
 ふう、と小さく息を吐いて、玄関のドアノブに白い指をかける。
「じゃあ、鬼退治、気を付けてね。怪我しないで。鞄とか、ここまで送ってくれたりとか、ありがとう」
 竜は、「ん」と言った。
 姫はふわりと微笑むと、扉を開き、いつもの声で、「ただいま」と入って行った。

 深夜二時、風はない。
 守護符の紫と青白い月の色が、夜の空で混ざっていた。

 小学五年生の時に鬼人の力が目覚めてから、竜は毎夜、「鬼退治」と称した鬼との戦いを続けてきた。
 小さく稚拙な獣型の鬼から、それなりに大きく力も知能もある人型の鬼まで、さして大きな怪我もなく倒してこられたのは、ずば抜けた運動神経と戦闘向きの力を授かったからだろう。

 紫色の住宅街を徘徊していると、空から、翼の生えた黒い猿が落ちてきた。二本足で立ち、赤い目を狂気で光らせ、牙を剥きだしている。
 鬼だ。
「お前か、武蔵の鬼人は。こりゃあ噂に聞く通り、なかなかに力がありそうな奴だぜ」
 竜はズボンのポケットに手を突っ込んだまま、冷ややかに見下ろした。
「誰から聞いたか知らないが、挑んだところで絶対に勝てない。そうは聞かなかったのか?」
「ほざけ! 俺様は強い。貴様を喰って、さらに力をつけてやる!」
「聞き飽きた台詞だな」
「黙って、俺の餌食になりやがれ!」
 鬼は空高く跳び上がると、漆黒の羽々を銃のように乱射した。羽は鋭く、ナイフのような切れ味であったろう。しかし、一瞬のうちに、それらは全て、竜の前で真っ二つに割れ、儚く足元に散らばった。
 竜の右手には、青く輝く太刀が握られていた。こめかみには二本の角がまっすぐ伸びている。不敵にゆがむ唇から、鋭い牙が覗く。
「雑魚ばかりで退屈していたところだ。全力でかかってきてみろ」
「後悔するぜ?」
 一心不乱に、鬼が羽々を撃ち乱す。先ほどとは比べ物にならないほど速く、鋭く。竜は刀を捨てると、軽い身のこなしでそれらをよけながら後退していく。黒く短い髪にも、肌にも、服にさえ、かすり傷一つつかない。
「猿か、てめぇ!」
「それはお前だろ」
 竜の右手に、再び青い太刀が顕現した。しかしそれは、瞬きのうちに竜の右手から離れ、鬼の左翼を串刺しにしていた。鬼は痛みに絶叫し、道路にぼとりと落ちる。竜はすかさず、その左翼を素手で掴み上げ、背後の石段に黒い体を叩き付けた。
 ギャン、と敗北した獣の声が鳴る。鬼の赤い眼に、青い凶器が映る。「死」の一文字を伴って。
 鬼はばっと身を起こし、本能のままに、震える四本足で石段を這いずり上っていった。
 竜もまた、駆け上った。石段の上の赤い鳥居を、その先を睨みながら。

 陽は、空腹で目を覚ました。ぼんやりとあたりを見渡す。
 ここは、玄関か。
 帰ってきて、転がって、そのまま眠ってしまったらしい。腕時計を見ると、二時二十分であった。外の様子からして、深夜なのだろう。夕飯どころではなかったので、何も買わずに帰ってきてしまったが、祖父が入院してからは、その都度コンビニで食事を用意していたので、家に食材はない。
 買いに行くか、寝てしまおうか……。
 その二つで悩んだり、姫とのキスを思い出してにやにやしたり。
 その場でぼんやりすること、五分。

 突然、真正面の玄関の扉が粉々に割れ、何かが突っ込んできた。

 謎の物体が、顔面に激突する。衝撃で後ろに倒れ、後頭部を思い切り打ち付ける。
 頭は痛いが、それより何より、顔を覆う獣の生ぬるさが気持ち悪い。悲鳴を上げ、腕をじたばたさせて、その獣を引き剥がす。
 後ずさりをしてそれを見ると、全身真っ黒な、羽のついた猿――のようなものであった。羽は左右とも半分切断されていて、ピクリとも動かない。
 死んでいるのか?
 確かめる勇気は、とてもなかった。
 その時、月明りが入り込む破れた玄関扉に、長い影が差し込んだ。青い太刀を持った男――いや、身長が高く、顔だちも大人っぽいが、陽とさして年齢が変わらないかもしれない人物が、二本の角を白く輝かせ、そこに立っていた。
 羽のついた真っ黒な猿、太刀を持った鬼人。
 ――あ。
 すっかり忘れていたが、守護符が一枚、破れていたままだった……。
 鬼人は陽を一瞥すると、鬼に近づき、躊躇なくその身にとどめを刺した。鬼は砂となり、鬼人の右手の中指に吸い込まれていった。赤い石が、月明りを受けてきらりと澄んだ。
 陽は、ほっと息をついた。
「す、すいません。守護符、剝がれたままにしてて……。入り込んだ鬼、退治してくれたみたいで、ありがとうございました」
 鬼人の鋭い目が、陽を刺した。
「影宮 陽だな」
「え、あ……」
 はい。なんで、自分の名前を?
 そう言おうとした時だった。
 青い刃の切っ先が、陽の喉を捉えていた。

「死ね」

 真っ黒な殺意の言葉に、戦慄が走る。
 反射的に、陽は体を斜め後ろにそらした。刃は速く、喉は斬れたものの、深手は免れた。
 陽は即座に立ち上がり、首から流れる血を押さえ、全速力で家の奥へ逃げだした。

 ――まずい。どうして。どうしたらいい!

 異様に足の速い鬼人が迫ってくる。青い閃光を死に物狂いでかわすたびに、襖や壁に無残な傷が刻まれていく。切っ先が背中を掠め、肩を掠める。
 本物の殺意が迫る。とにかく、どうにかして、生きなくては。
 姫とキスして、最高の気持ちだったのに、このまま死んでたまるか。
 二週間後の夏祭りデートに行けないなんて、そんなことがあってたまるか。
 めちゃくちゃに走り、一番奥の部屋にたどり着く。行き止まりだ。
 だが、この部屋には、一振の希望があった。
 いちか、ばちか。
 陽は、部屋の一番奥に恭しくたたずむ一振の太刀を手にし、鞘を抜いた。
 二振の青い刃が、月光の入らぬ真っ暗な部屋で対峙する。
「鬼人! この刀はかつて鬼神を討ち滅ぼした、蒼龍刀そうりゅうとうってやつだ! 鬼人の力は鬼の力。この刀に太刀打ちでき……」
 言い終わらないうちに、鬼人は目にも止まらぬ速さで突っ込んできた。咄嗟に刃を盾にすると――あっけなく、真っ二つに割れた。折れた切っ先が、陽の足元に刺さる。
 鬼人はそのまま、刃を下から振り上げた。
 腹から肩に、一筋の深い傷が刻まれる。鮮血が細かい飛沫となって、鬼人の顔を汚す。強い殺意と憎しみに満ちた目が、崩れる陽の体を追う。
 なんで……。耐えきれない痛みに肩で息をしながら、つぶやく。分からない。
 だが、今考えるのは、そんなことではない。

 ――生きたい。

 陽は、最後の賭けに出た。今まで一度も成功したことはない。
 だが、人間国宝の血は、たしかに流れている。
 鬼人が、とどめを刺さんと刀を振り上げた、その瞬間。

 陽はがむしゃらに、めちゃくちゃに、曖昧に覚えている「いん」を切った。

 目も開けられないほどの凄まじい光が、あたりを白く包んだ。



 目を開けると、黒い空間にたたずんでいた。

 小さな足音が耳先を掠めたが、目が慣れなくて、何も見えない。

「何をした!」

 足元の死にぞこないに掴みかかろうとするも、空を切る。

 畳を手でなぞって姿を探すも、陽は、跡形もなく消えていた。


 陽は、走っていた。唯一頼れる、姫のもとへ。裏庭のびわの木をしなやかに駆け登る。
 見回すと、幸い、暑さのためか、二階の角部屋の窓が少し開いていた。
 部屋に入ると、甘く、優しく、花のような、姫の香りがした。姫の寝顔が、月に照らされる。
「姫! 姫! 起きて! 起きてくれ!」
 ベッドに上がるのは忍びなかったが、四の五の言ってはいられない。陽は耳元で思い切り叫んだ。
「……ん……? 陽の、声……?」
 ぼんやりと枕元のスマホを触ると、画面に時間が表示される。
 午前三時。メッセージの通知も来ていない。

「姫!」

 顔先に現れた姿に、姫はびっくりして悲鳴を上げた。
 ドキドキする胸を押さえて、もう一度、その姿を見る。

「その声……陽、なの?」

 そこには、黒く、小さな、黄金の目をした、

――猫がいた。

 午前四時。謎の鬼人に襲われ、死に物狂いでめちゃくちゃな印を切り、黒猫になってしまった陽は、姫に助けを求め、一切合切を話して、寝た。混乱していて何が何だか分からなかったし、もしかしたら夢かもしれない、と思ったのである。
 だが、目を覚ました時、そこは姫の家で、自分の手足は黒い毛むくじゃらであった。
「まじか……」
 落胆して、大きなため息をつく。
「おはよう」
 困った顔で微笑む姫が、毛むくじゃらな陽の顔を覗き込んだ。朝六時を過ぎたところであったが、姫は早くも身支度を整えていた。レースが施された生成色のノースリーブから白い腕が覗く。紺色のデニムパンツが、足腰の細さを映えさせる。
 はじめて見る彼女の私服に、陽の心は一気に昂ぶり、硬直した。
「これからのことなんだけど、ちょっと整理してみたの」
 姫は淡々と、ノートを開いた。陽が話した内容が、きれいな字で並んでいる。
 見開きの右ページの隅に、赤い字で三つ、これからのことがまとめられていた。

一、しばらくの間、陽がうちにいられるようにすること。
二、犯人をつきとめること。
三、陰陽道の資料を探して、陽をもとに戻す方法をみつけること。

「あれから、考えてくれてたのか? 俺、寝ちゃったのに……」
「だって、眠れなくて。こんなことになるなんて……」
 姫は下唇をきゅっと噛み、うつむいた。
 かくまってくれるだけでよかったのに、こんなことまでしてくれるなんて。
 自分のために尽力してくれる姫のけなげさに、陽は、体の芯からときめいた。命を狙われ、猫になってしまったが、最高に幸せな気分であった。

 二人はまず、一つ目から着手した。下に降りると、コーヒーのいい香りが鼻をくすぐった。
「お母さん、おはよう」
 リビングを開けると、スーツを着た、涼しげな目元の美人がコーヒーを飲んでいた。彼女は、姫に似た微笑みで、「おはよう」と返すと、「あら、その猫ちゃんどうしたの?」と、姫の腕に抱かれる黒猫を指差し、コーヒーをすすった。
「猫……なんだけど、彼が陽なの。影宮 陽くん」
「はじめまして! ひ、姫さんとお付き合いさせてもらってます! 影宮 陽です!」
 恋人の家族にはじめて挨拶するのに、こんな、お腹を見せたみっともない格好だなんて……。
 陽は、顔から火が出そうになった。
 姫の母は、「ん?」と首を傾げる。
「姫の学校って猫ちゃんも通えるのかぁ……。ていうか、そっか……てっきり人間だとばかり思ってたけど、そっか、猫ちゃんが彼氏だったとは……。あ、ごめんなさい。はじめまして。いつも姫がお世話になってます。コーヒー飲めます?」
 母の早合点に感心しつつ、姫は、昨日あったことを簡単に説明した。その上で、しばらく陽を家に住まわせてほしい、と伝える。
「なるほどね。うちなら、近くに竜ちゃんもいるし、安心だもんね。私は構わないわよ。パパが海外に単身赴任中で、男手足りてなかったし、ちょうどよかったわ。ま、猫ちゃんだけど。あ、部屋はどうする? パパの部屋でも使う? それとも、姫の部屋がいいかしら?」
 姫の母はニヤリと笑い、コーヒーカップを唇に寄せた。
 どきり。緊張した陽の体が、ますます硬くなる。
 姫は、「ドアの開け閉めもあるし、私の部屋がいいかなって」と淡白に答える。
「いいけど、不純行為は禁止よ? 猫ちゃんだからチュッチュしたくなっちゃうかもしれないけど、キスは高校生からだからね。中学生は手をつなぐまで。中学生は中学生にしかできない、純愛を楽しんでちょうだい」
「分かってるってば……」
 姫は少し赤くなって、もぞもぞと答えた。陽を抱く手に、力がこもる。
 母はコーヒーカップをシンクに置くと、ゆったり、黒い鞄を肩にかけた。
「じゃ、今日は研修の後に飲み会があるから、二十一時くらいになるかな。竜ちゃんとこで食べてもいいし、作ってもいいし、任せる」
「ありがとう。行ってらっしゃい」
「……あ、竜ちゃんといえば、つい三十分前だったかしら。ゴミ捨てに行ったら会ったわよ。鬼退治の帰りだったみたい。ポテトサラダごちそうさまでしたって。ほんと、好きよね。なんだったらまだ残ってるから持っていってあげて」
 母は、「ごゆっくり」と陽に笑顔を向け、仕事に出かけて行った。
 玄関の扉がパタリと閉まると、陽は、ふうと息を吐いて、溶けるようにやわらかい体に戻った。
「さすが、姫のお母さんは美人だなぁ。笑ったところ、そっくりだった。今、姫、髪長めだけど、お母さんみたいなショートも似合うだろうな」
 陽の暢気な言葉に苦笑して、姫は簡単に朝食を準備した。ポテトサラダをパンで挟んだ、一口サイズのサンドイッチ。姫の母はポテトサラダに玉ねぎを入れないので、猫の体でも食べることができる。
 陽は一口食べて、今まで食べたポテトサラダで一番うまい、と思った。
「毎日毎食でもいける! 最っ高に幸せ!」
「そうはいっても、一刻も早く人間に戻らなくちゃ。夏祭り、行きたいでしょう?」
 陽はサンドイッチを口に含んだまま、激しく六回、首を縦に振った。

 食べ終わったお皿に手を合わせると、姫はスマホをさっと操作し、『斎王 竜』に電話をかけた。
 呼び出し一秒で、低く掠れた声が聞こえた。
「もしもし、竜。朝早くに申し訳ないけれど、今からそっちに行くわ」
 相手が、『ん』とだけ言うと、姫はさっと電話を切った。
「竜って、さっきも話に出てた……?」
「そう。陽とは違うクラスだから、見たことないかもしれないわね」
 姫はスマホをぎゅっと握りしめ、泣きそうな顔をして、言った。

「おそらく……陽を襲ったのは、竜よ」

 姫の家が白を基調としたモダンな造りであるのに対し、隣の家は暗く、古めかしく、守護符がよく似合う家であった。
 黄土色に変色したチャイムを押すと、ブーッという音がして、小さなおばあさんがゆっくり出迎えてくれた。しわだらけの目が、姫を映してとろんととろけた。
「おんや、姫ちゃんかえ。朝ごはん食べに来たのかえ」
「おはようございます。朝早くにごめんなさい。今日は、竜に用事があって」
 おばあさんは打って変わった大きな声で、「ほれ! 竜ちゃん!」と階段の上に向かって叫んだ。
「連絡してあるので、大丈夫だと思います」
「そ。入んなさいな。可愛い猫ちゃん、味噌汁飲むかえ?」
 姫は丁重に断ると、するすると家の中におじゃまして、急な階段を上った。一歩一歩がギシギシ軋む。
 二階にたどり着くと、姫は一番奥の扉をノックした。返事も待たず、勢いよく開ける。
 中は、紺色のカーテンで締め切られ、ここだけ夜かと思うような暗闇であった。もわりとした男臭さが陽の敏感になった鼻を刺激する。ほとんど物がなく、きちんと整理されているのが奇妙に思えた。隅に置かれた黒いベッドが、異様に膨れ上がっていた。
 姫は躊躇なく、掛布団をひっぺがした。
「竜、起きて。大事な話があるの」
 掛布団の中から現れたのは、黒い短髪の男だった。丸くうずくまっているが、体格がよく、普通の中学三年生よりはるかに大人びて見える。
 ゆっくり、瞼が開く。まぶしそうな顔が、わずかに上がる。
 鋭い目が、黒猫に留まった。
 陽は、「グァッ」と、つぶれた声を出した。
「姫! こいつ、こいつだよ! 角とか牙とかないけど、こいつだ!」
 姫は、ぎゅっと下唇を噛んだ。そして、ぼんやりしている竜に、胸に抱いていた黒猫を突き出した。
「竜。彼は、影宮 陽。私の恋人よ。昨日、ある鬼人に殺されかけて、こんな姿になってしまったの。陽を襲ったのは青い刀を持った鬼人。そして、竜の力は『無限刀むげんとう』。青い刃の刀を、いくつでも手元に顕現させることができる力よね。……竜ね? 陽を襲ったのは」
竜は、眉間の寄った険しい顔でしばらく陽を凝視したが、「知らん」と言って、背を向けた。
「違うと言うなら、昨日着ていた服を見せて」
「洗濯機」
 姫は早足で、するすると風呂場に向かうと、洗濯機の中に手を突っ込んだ。陽を斬った時の血飛沫が付いているはずだと思ったのである。
 だが、陽の記憶に基づいて黒いシャツを確認するも、血の痕跡は見つからなかった。
 部屋に戻ると、竜はベッドの上にあぐらをかいて、壁に寄りかかっていた。
「あったか」
「なかった」
「満足か」
 黙り込んだ姫の代わりに、陽が反論した。
「シャツなんてどっかで捨てたんじゃないのか! 襲われた俺が言うんだ! 絶対、絶対、お前が俺を襲った!」
 竜の鋭い目が、陽を射抜く。本物の殺気に、陽はぞくりと凍り付いた。
「うるさい、クソ猫。鬼人には色々な力がある。その鬼人は、姿を変える力で俺に化けた奴かもしれない。俺にやられたという暗示をかける奴だったのかもしれない。その可能性を全て消し去って、俺だと言える証拠があるのか。そもそも、鬼人が人間を襲えば、法令違反で警察に捕まる。そんな危険を犯してまでお前を殺す理由が、俺にあると言い切れるのか?」
「そんな……! お前と会ったのも、話したのも、昨日がはじめてだったのに、そんなこと、俺が知るわけ……」
 竜は、姫に目を移した。殺気が消え、やわらかく、温かい眼差しに変わったのが、肌に触れた空気ではっきり分かった。
「姫。俺は、姫が悲しむようなことはしない」
 まっすぐな言葉だった。険しく竜を見つめていた姫の瞳から、ぽたり、ぽたりと、白露がこぼれる。
 竜は静かに、けれどもとても素早く、扉の前で立ち尽くす姫に近づいて、姫の体を包み込んだ。
「は? おま、何してんの? 離せ! 離れろ!」と狂ったように叫ぶ陽を押しつぶしながら、竜はぎゅっと力を込める。陽の声はモゴモゴとした音と化した。
 姫はぽろぽろと涙をこぼしながら、「本当に、竜じゃないのね?」と聞いた。
 竜が、「ああ」とささやくと、姫は、竜の胸に頬を寄せた。
「疑ってごめんね。怖かったの。陽が猫になっちゃって、竜まで警察に捕まっちゃったら、どうしようって……。よかった、竜じゃなくて。よかった……」
 わずかに震えていた姫の体から、力が抜けていく。
 陽の話を聞いてから、姫はずっと元気がなかった。姫は、陽のことだけでなく、竜のことも心配し、心に抱えていたのだ。陽はそれに気が付いて、姫の優しさに感服した。
 しながら――もやもやした、黒いものが心に広がったのを感じた。

 姫の涙が落ち着くと、竜はようやく体を離した。陽は深く息を吸い込んで、ぐったり力を失った。
 残った涙を指で拭い、姫は改めて、真面目な顔で竜を見つめた。
「竜を信じるわ。だから、お願い。協力して欲しいの。陽が人間の姿に戻れるように。それに、竜じゃないなら、誰か分からない人が陽のことを狙ってる。私、陽がいなくなるなんて、絶対にいやなの。お願い。助けて」
 姫が悲しむようなことはしない。そう断言した竜が、縋り付くような姫の眼差しを、振り切れるわけがない。
 竜は返事の代わりに、苦い顔でため息をついた。

 それから姫は、持参したノートを開き、「今後の作戦を立てましょう」と言った。犯人については判然としなかったが、通報は保留になった。警察に届け出たところで、竜が疑われるだけだろう。最優先事項は、陽をもとに戻す方法を探すことである。有力な手がかりは二つに絞られた。

一、影宮神社の書庫にある書物から調べる。
二、入院中の祖父に聞く。

 二つ目が最も手っ取り早いのだが、できない事情があるのだという。
「あのじいさん、親族の俺しか面会できないようになってんだよ。病院に俺の顔が登録されててさ。人間の俺の顔じゃないと通してもらえないんだ」
「だいぶ厳重なのね。人間国宝だものね」
「あー……」
 陽の迷いが、濁った声になる。
「……えっと、本当はあんま……っていうか、絶対言っちゃいけないんだけど……」
 竜の冷たい一瞥が刺さる。
「実は、じいちゃんが入院してるのは、病気じゃなくて……襲われたんだよ、黒い仮面の奴らに」
 黒い仮面の奴らが、何を目的としているのかは分からない。しかし、人間が唯一、鬼に太刀打ちできるすべ、陰陽道を極めた最後の人間が襲われたのだ。知能の高い鬼によるテロの可能性がある。黒い仮面の奴らや模倣犯の出現を恐れて、国はこの情報を絶対に漏らさないようにしながら、人間国宝を守るため、厳重な警戒態勢を取っているというわけだった。
「そういう大事なことは早く言え。そういうことなら、お前を襲ったのはその黒い仮面の奴らだろう。跡取りであるお前を消して、陰陽道を完全に滅ぼそうとしているんだろう」
 竜はふっと眉間をゆるめて、そのままベッドに転がった。
「二十分、寝る」
 その言葉を最後に、竜の寝息が部屋に響いた。
「竜、寝ていないみたいだし、限界なのかも。私たちだけで、神社に行って調べてみましょう」
 鬼も鬼人も、力は夜しか使えない。黒い仮面の脅威も、昼間ならばさほど警戒しなくて良いだろう。
 二人は、竜の家を後にした。時刻はまだ、午前八時であった。


「あのさ、ごめんな。言ってないことあって」
 四方八方から聞こえる数多あまたの蝉の声に隠れて、陽がぽつりとつぶやいた。姫はそのつぶやきをきちんと拾い上げ、優しく微笑んだ。
「言ってはいけないきまりだもの。言うこと、すごく悩んだと思う。教えてくれて、ありがとう」
 陽は、隣を歩く姫の足に頭をもたげるか、姫の肩に飛び乗って頬ずりをするかをしたくなった。
 だが、まだその勇気はない。姫がひょいと抱き上げる時だって、耳先にかかる姫の呼吸や、全身を包む温もりに、ドキドキしすぎてクラクラするのだから。

 それなのに、あの竜とかいう奴は、姫を簡単に抱きしめやがって……。

 だんだん、さっきのもやもやが心に沸いてきた。

「あのさ、俺……やっぱり、俺を襲ったのはあの竜って奴だと思う。はっきりした証拠はないけど……。でも、やっぱあいつだよ。俺を睨む目に込められた殺気とか……なんかそういうのって、あるじゃん。好きとか、憎いとか、そういう感情って、言葉では全部同じだけど、一人一人、その感情を持ってる人によって、相手によって、それぞれ違ってくるものだと思うんだ。だから……」

 見上げると、姫は、悲しい微笑を浮かべていた。

 ――竜じゃなくてよかった。
 ――竜を信じる。

 そう言った時の姫の声や表情が脳裏に浮かび、陽は口を閉じた。

「実はね。私も、信じるって言ったけど、分からないの。竜は、何か隠してる。ずっと一緒にいたから、声とか、表情とか、視線とか、そういうの一つ一つで分かっちゃうの。だけど、協力するって約束してくれたわ。竜は、約束は絶対に守ってくれる。だから、もし竜が犯人だったとしても、もう襲ってこないはずよ。今は少し、様子を見てみましょう」
「ウン」とつぶやきながら、陽の心には黒いもやがかかっていた。

 赤い鳥居をくぐると、壊れた社務所が目の当たりになり、二人は立ち尽くした。かんかん照りのもとで改めて見ると、夢から覚めた気分でショックもひとしおである。玄関だけでなく、室内も、鬼人が振るった刀で襖や壁が傷ついたり、障子が破れたりしていた。昭和時代の古い家で辟易していたが、こうまでズタボロになると、ひどく哀しい気持ちになった。
 いち早く書庫に行きたい気持ちもあるが、掃除を優先した。
 奥の部屋には、真っ二つになった家宝の残骸が転がっていた。陽の血の痕跡は、畳に染み込んでいた。姫は白い指を震わせ、そっと跡をなぞった。
 あらかた片付いたのは、十三時を過ぎた頃であった。
 コンビニで調達した昼食をとってから、いよいよ二人は書庫に足を踏み入れた。
 書庫は一見、社務所の裏に建つ、ただの古ぼけた小屋であった。錆びた鍵で扉を開けると、埃と砂の混ざったにおいがして、息もできないような熱気がむわっと押し寄せてきた。十数の本棚が図書館さながらにそびえ立ち、上から下までびっちりと、古い本が並んでいる。
 二人はそれらしき本を選び、クーラーの効いた部屋へ運ぶことにした。
 最下段から手が届くところまでを姫が、それより上を陽が見て、陰陽道に関連していそうな本を選び、足元に積んでいく。
 山になっては運び、山になっては運び……。何往復かしたところで、ようやく三棚分、精選できた。
 姫は額の汗を手の甲で拭って、残りの棚たちを静かに見つめた。
 社務所から、十五時を知らせる鐘の音が聞こえてきた。
「今日一日じゃ、とても終わらないわね。今日はこのくらいにして、あとは部屋で、選んだ本を読んでみましょう」
「賛成!」
「そういえば、懐かしい本とかあった?」
「いや、実は入ったことなくて。小さい頃って、なんかこういう小屋にお化けがいるような気がするじゃん? だから入ったこともなければ、当然、本も読んだことないんだ」
「そうなのね。じゃあ、もしかしたら今日、陰陽道のこと、いろいろ分かるようになるかもしれないわね」
「いやぁ俺、人間国宝になっちゃうかも!」
 ――などと期待したことはおろか、人間に戻るための方法さえ、掴むことはできなかった。
 掴む、以前の問題である。書庫の本は全て蛇のようなぐにゃぐにゃの羅列やら、難しい漢字とカタカナで構成された直列やらで記されていた。
 つまり、端的に言うと、全く読めないのである。
「日本語じゃないな……」
「そうね、古い日本語なんだわ。漢字とカタカナで書かれた本なら、頑張れば読めそうだけど……」
 想像以上に長い道のりになりそうだ。二人は言葉なく、顔を見合わせた。

十一

 十六回目の柱時計の鐘が鳴り終わった頃だった。
『起きたら影宮神社に来て』という姫からのメッセージを見て、寝起きの竜がやってきた。
 姫は、早朝から一生懸命に頭も心も体も動かして、さすがに疲れてしまったのだろう。本の上に置いた手を枕にして、座ったまま、眠りに落ちていた。
 竜は、机の下に潜って警戒している陽を睨むと、居間を出て行った。そして、帰って来るなり、この家にある一番やわらかいバスタオルを姫にかけた。
 再び、陽の心に、黒いもやもやが膨らんだ。
「お前、姫のことが好きなんだろ。俺のことを襲ったのも、それが理由だろ!」
 竜の目が殺気に燃える。乱暴に陽の首の皮を掴み、宙にぶら下げる。陽がなんとか逃れようと、爪を伸ばし、手足を伸ばして暴れるも、竜は微動だにしない。無様な猫を鼻でわらう。
「好き? そんな浅い感情じゃない。お前の遊びに姫を巻き込むな。とっとと姫から離れろ」
「認めたな! 姫に全部言ってやる! お前は一生、姫に嫌われて、終わりだ!」
 竜は真っ黒な眼を剥いて、毛皮を握りつぶさんと、指の力を強めた。
「竜。陽を離して」
 鋭い声が竜に刺さる。姫が起きたのだ。
 竜のこぶしが、ふっとゆるんだ。陽は軽々着地して、姫の隣にさっと隠れた。
「姫! 聞いてたか? やっぱりこいつだ。認めたんだ。こいつは姫が好きで、俺から姫を奪うために俺を襲ったんだって!」
 竜の表情はピクリとも変わらない。
 そして、姫は――。

「それはないわ」

 一蹴。
 顔が変わるのは陽ばかりである。
「どうして、そんな……断言、できるんだよ……」
 たった三時間しか関わっていないが、思い返せば、竜が姫を好きである証拠は多々上がってくる。泣いている時に抱きしめたことだって、彼氏である陽に強い敵意を抱いていることだって、姫の頼みを断れず不本意な約束をしたことだって、電話に一秒で出たことだって、寝落ちてしまった姫にバスタオルをかけたことだって、「姫を悲しませるようなことはしない」という言葉だって――。
 行き場のない焦りのような、不安のような苛立ちに、陽は険しく顔をしかめる。
 姫は、ん? と首を傾げた。
「だって……。あら、陽には言っていなかったかしら」
「え……?」

「私と竜は、姉弟きょうだいよ」

 キョウダイ。
 ニランセイ ノ フタゴ――。

 言葉が大きな岩となって、陽の頭にぶち当たる。体中が、真っ白になった。
 姫の唇から流れる詳しい事情の説明や、伝えていなかったことへの謝罪が、右から左に通り抜けていく。
 そういえば、付き合いたての頃、家族構成の話をしたっけ。「弟がいるの」って、言っていたっけ。同じ学年で、八組で――名前も聞いたような気がしてきた。
 しかし、二卵性だとしても、こんなに似ているところがないものだろうか。姫の母の涼しげな目元は、言われてみれば少し、竜に似ているかもしれないが……。
 確かめたくて竜に目を移すと、竜の瞳に一瞬だけ、一粒だけ、切なさが輝いた気がした。

十二

 そうこうしているうちに、外の虫の音がヒグラシに変わり、鳥の羽音が集まってきた。
 十七時。夜が迫って来たのである。
 姫は、漢字とカタカナが混ざっていて、なんとか読めそうな本を二冊選んだ。古い時代の貴重な資料であるため、その他の本はいったん書庫に戻すことにした。持ってくる時は猫の手が借りられないため骨を折ったが、片付けは竜のおかげで大分楽ができた。二人で三往復したところで、残り一山になった。
「この一山は俺が運んで、鍵を閉めてくる。帰り仕度をしていろ」
 そう言って、竜は一人、書庫へ向かった。
 この家の貴重品や陽のスマホは最初のうちに回収しておいたので、帰り支度といっても、エアコンを消すだけであった。戸締りできない崩壊した玄関扉を抜けて、竜を待つ。書庫の鍵は古い上に錆びているので、開ける時も閉める時も、扉を上に持ち上げたり、鍵穴を下げたりしないといけない。てこずっていないだろうか。
 紅がかった紫の空に、白い月がうっすら浮かぶ。
 美しい夕空を眺めつつ会話をしていた、その時だった。
 ふわ、と甘い香りがした。

「おや。この家にお嬢さんはいらっしゃいましたでしょうか」

 頭上か、背後か。どこから声がしたのか分からないまま、姫の体は動かなくなった。むせかえるような甘い鎖に囚われて、指一つ動かせない。喉に、冷たく、鋭い感覚が当てがわれる。
 陽には、はっきりと見えていた。
 姫の背後に立つ、全身黒づくめの、髪の長い、黒仮面の男が。
 姫の喉元に立てられた、漆黒の刃が。
「シグレ……!」
「おや、そんなけだものになって。このお嬢さんは影宮家の親戚でしょうか」
「違う! その手を離せ!」
 黒猫が背を丸め、尾の毛を逆立たせ、牙を剥いて威嚇する。
 その時、疾風のごとき靴音がかすかに聞こえた。「あっ」と言う間に、社務所の屋根から、竜が駆けてきた。右手に――ガラスの破片だろうか、鋭い光が握られている。男の背後から躊躇なく、はやぶさのように飛び降りて、閃光を振り下ろす。竜の動きは速かった。
 しかし男は、悠に反応した。なめらかに竜に体を向け、ナイフを振り上げる。
 キン、と二つの凶器がぶつかり合う。竜の一撃は、重い。男のナイフが、弾かれた。
 攻撃は終わらない。竜は地に足を着くと、体をかがめ、男の足を払った。
 姿勢の崩れた男は、姫から手を離し、またもなめらかに右手で地面を押し上げ、左手でナイフを取って、弧を描くように空を舞った。黒い手袋から覗く白い手首が、頭上を通り過ぎていく。月の下、竜の手足の届かぬ間合いに着地する。
 男から離れた姫の体は、力なく崩れ落ちた。息さえできていなかったのか、喉を押さえて荒く呼吸をする。陽が駆け寄り、顔を覗き込むと、恐怖で蒼白に染まった肌から、次から次へと汗の玉があふれ出していた。

 竜は姫を背にかばい、男に対峙した。
 白い月が目に映る。夜の合図だ。
 ガラスの破片を放り投げ、角と牙を剥く。青い刃を右手に宿し、切っ先を男に向ける。
 その身は、怒りの炎で黒く燃えていた。
 男は静かに、ナイフを見つめた。刃が半分、砂になって崩れている。
「素晴らしい……!」
 うっとりつぶやき、恭しく、ナイフを両手で天へ掲げる。そして右腕で空を掬い、貴族のような一礼を捧げた。
「はじめまして。私は神宮団じんぐうだん団長のシグレと申します。また、改めて」
 またなどない。そう言う代わりに、竜は地を蹴った。青い刃が、シグレの腹部を斬り裂く。
 だが、その体は飛沫を上げて弾け、水の粒となり果てた。
「――我が存在は、我がしゅのために」
 竜の耳元で、粒が震える。
 たちまち、甘い香りが強く立ち込めた。無数の水滴は霧と化し、空気に溶けて、消えた。
 震える息を吐いて角と牙をおさめると、竜は、ばっと振り返った。
「姫、怪我は!」
 姫は肩で息をしながら、こわばる指を喉から離した。手のひらに、汗と血が浮かんでいた。竜の一撃をかわすため、シグレはナイフを振り上げた。あの時、刃が喉を掠めたのだろう。
 竜は、ギリッと奥歯を噛んだ。姫の鞄からハンカチを取り出し、左手で、喉の傷に押し当てる。
「いいから。私の傷はなんてことないの。大丈夫だから……」
 姫の濡れた手が、震えながら、竜の右手の甲を包む。竜の右手からは、どんどんと血があふれ、固く握る黒いシャツに赤いにじみが広がっていた。ガラスの破片で、深い傷を負ったのだ。
 姫を心配し、じっと見上げていた陽の視界に、激しい憎悪の眼光が刺さった。ぞくっと黒い毛並みがざわめく。陽が目を伏せると、竜は、目を上げた。男が消えた暗がりを、ひたと睨む。

 ――神宮団。許さない。もう二度と、手出しはさせない。
 必ず、守り抜いてみせる――。

 氷のように、炎のように、竜の目が光った。


 何か、恐ろしいことが始まろうとしている。
 木々の影のざわめきが、悪い予感を募らせる。
 あたりはいつのまにか、光を失いつつあった。

戦鬼伝 第一章ー影ー

2020年3月13日 発行 初版

著者・発行:鈴奈
イラスト・キャラクターデザイン:さらまんだ
コンセプトアート:BUZZ
装丁:兎月ルナ

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