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イラスト・キャラクターデザイン さらまんだ
コンセプトアート BUZZ
装丁 兎月ルナ
影宮神社は神主不在のまま、武蔵市の役員が取り仕切り、例年通りの大きな祭を敢行していた。
屋台にも鳥居にも神殿にも神輿にも、警備員にさえ守護符を貼る厳重警戒態勢だったが、そのおかげもあって、人々は平和な夏の夕暮れを楽しんでいた。
「姫ちゃーん!」
りんご飴を振って、ピンク色の浴衣を着た少女が駆けてくる。
名前を呼ばれた少女は、くるりと振り返った。紺色の浴衣の袖が、白い蝶の柄とともに、ひらりとはためく。枝垂れ小花のかんざしが、しゃらりと清らかな音を鳴らす。
「彩! 久しぶり。ごめんね、なかなか遊べなくって……」
「超会いたかったよぉ! でも私もさ、姫ちゃんと同じ高校行くために、塾ばっかり入れちゃって、全然動けなかったんだよねぇ。ほんと、誘ってくれて嬉しかった! 今日のために生きてきたよ!」
「キャーッ」と抱き合って再会を喜ぶ少女たちを、二つの長い影が見つめていた。かたや慣れたことのように、かたや微笑ましそうに。
その視線に気付いた彩は、姫から体を離すと、怪訝そうに目を細めた。
「えっ。姫ちゃん、まさかとは思ったけど……陽くんと別れたの? 何これ、どういうメンツ?」
慣れを誇るのは、いわずもがな竜である。姫の親友歴十二年の彩にとっては、もはや竜など、空気である。
彩は、微笑みをたずさえる方を凝視した。
天野雫。
今年転校してきたばかりなのにもかかわらず、儚げで美しく整った顔立ちに加え、江戸市の名門中学出身でIQ二〇〇という噂が相まって、一気に人望を集め、学級委員に抜擢された人物である。ちなみに学力の噂は本当で、一学期のテストは全て満点だったという。
同じクラスのため、学校内で姫と並んでいる姿は目になじんでいたものの、外で二人が一緒にいるのは、彩にとって違和感があった。しかし、いやな違和感ではない。
雫が、「こんばんは」とふんわり笑う。襟首にかかっていた髪が、さらりと揺れた。
彩はニヤニヤと姫の顔を覗き込んだ。
「いやぁ、皆も言っていたけど、やっぱり陽くんより雫くんだね。私服で並ぶと、お似合い度が増し増しで、ときめいちゃうね! 私も、雫くんなら納得。応援するよ! ナイス判断!」
「彩、別れていないわ。陽は今日、運営の方で忙しいの」
「姫ちゃんの浴衣姿より運営取るとか、もう別れろとしか言えない」
辛辣な彩の言葉に、雫がやわらかな苦笑をこぼした。
「僕は通りがかっただけなので、これで失礼します」
「えぇ! 珍しいメンツで面白いし、このまま一緒に行こうよ!」
「たしかに、魅力的なのですが……人を待たせていますので。是非、また誘ってください」
雫は丁寧に会釈をすると、人ごみに飲まれていった。
姫は彩と手をつなぎ、屋台通りへ足を踏み入れた。からあげ、やきそば、お好み焼き、わたあめ、かき氷……。石畳の参道に、美味しいにおいが立ち込める。色とりどりの看板と、紅白のぼんぼり、紫色の光。少女たちは金魚のように、七色の会場をくるくる回った。
おそろいの電球ソーダを買って、二人は、屋台の裏側に設置されたコンクリートの椅子に腰掛けた。
人々の楽しげな声とお囃子の音が、少女たちの頭上を漂う。
「付き合ってもうすぐ三か月じゃん? 今日は会えなかったけど、夏休みはデートしたりしてんの?」
「ええ、頻繁に」
「そっかぁ。姫ちゃんの受験勉強の邪魔をしてるってことだね。まったく、空気読めないなぁ」
「大丈夫よ、一緒に勉強しているもの」
足指を伸ばして、彩は空を眺めた。屋台と守護符の光にかき消されても、橙と紺の交じる夕空のてっぺんは、深い夜が始まっていた。
「あーあ。姫ちゃんがさ……あんな平凡男と付き合うなんてさ」
「彩は、どうしてそんなに陽が気に入らないの?」
「理由なんてたくさんあるよ。平々凡々で、高嶺の花の姫ちゃんには顔面も内面も学力も釣り合ってないし。でも一番はさ。浅い感じがするんだよね。ずうっとひたすらデレデレしてる感じでさ、下心しかないんじゃないかって思っちゃう。周りの剣道部の奴らも、姫ちゃんと陽くんで遊んでる感じでいや。あとさ、頼りないじゃん? 告白してきた時もさ、一目惚れしました! って言ってきたけど、クラスとか部活とか委員会とかで一緒になったことがないにしても、三年間同じ学校だよ? 超美人で超有名人な姫ちゃんのこと、なんで今まで知らなかったわけ? どんだけぼんやりしてんの?」
「私は、一目惚れしましたって言ってもらえたの、とっても嬉しかったわよ」
「給食準備前の手洗い場で、隣で手を洗ってたら、突然公衆面前告白だもんね! 一目惚れして十秒で告白って伝説だよね。勢いで突っ切っちゃう行動力に感心だよ。後ろで見てる私も、本当にびっくりしたんだから。しかも姫ちゃん、オッケーするんだもん! 心臓、二回止まったよ」
「ごめんね、びっくりさせちゃって。あの時は、私もびっくりしたわ。でも、陽のまっすぐな気持ちが嬉しかったし、すごいなって思ったの。今だって、まだ三か月だけど、陽といると、今までとは違う景色が見えるの」
姫は、紺碧に浮かぶ雲を見つめて、微笑んだ。
「ま、私は姫ちゃんが幸せならいいんだけどさ」
背後に座る竜を、彩は、ちろりと見た。
「弟くんが不憫でならないなぁ」
彩と別れると、竜と姫は社務所に上がった。襖を開くと、クーラーでキンキンに冷えた居間の真ん中で、負のオーラをまとった黒猫がぐんにゃりと倒れていた。「おじゃましてます」と顔を覗き込むと、涙でびしょびしょになっていた。
「ごめん、姫……。結局、人間に戻るの、間に合わなくて……。約束、守れなくて……」
「そんな。私のことはいいのよ。一番つらいのは陽でしょう。むしろ、彩と一緒に行くように言ってくれて、ありがとう」
黒い毛玉を引き寄せようと手を差し伸ばすと、竜が、「毛がつく」と制止した。
陽が猫になってから二週間。相変わらず、人間の姿に戻るための方法は掴めないでいた。
しかし、一つだけ、大きな変化があった。
「お二人とも、お帰りなさい」
襖を開けて入ってきたのは、天野 雫である。
彼の手にあるお盆には、グラスが二つ並んでいた。
透き通った緑茶の中で、氷とグラスがこすれ合う、涼しい音が響いた。
雫は、祭りの三日前に突然、書庫に現れた。散歩をしていたら、たまたま見つけたので、覗いてみたのだと言った。
しゃべる猫、必死に何かを探す姫、警戒し敵意を剥きだす竜。
雫は事情も聴かず、「困っていることがあるのなら、何か、僕にできることはないでしょうか」と微笑んだ。
唐突の訪問、上品じみた話し方、どことなく似た微笑み。
もしかして、神宮団のシグレか。そうでなくても、奴らの一味であるのではないか。
陽と竜は疑い、口を開かない。
沈黙を破ったのは、姫だった。
「ごめんなさい、雫くん。せっかくの申し出なんだけど、三人でなんとかなるわ」
雫は、「分かりました」とあっさり引き下がった。
「では、お暇する前に……。厚かましいのですが、一つお願いをさせてください。こちらの本、かなり古いものですよね。僕、古文を読むのがとても好きで……。少しでいいので、読ませていただけませんか」
姫が、「ええ」とうなずくと、雫は自分の足元に積んであった本を一冊、手に取った。しばらく空気に溶け込み、静かに本を見つめているかに見えたが、すう、と深く息を吸い込むと、「興味深い……。陰陽道の巫女の日記ですね。自分が行った呪術やそれに関わる話が物語形式で……」などとぶつぶつつぶやいた。
「雫くん、読めるの?」
「はい。くずし字も習っていましたから」
「くずし字?」
「これです」
雫が開いて見せたのは、蛇のようなぐにゃぐにゃの羅列であった。
竜と陽の警戒の眼差しをよそに、姫は、「やっぱり」と身を乗り出した。
「やっぱり、手伝ってもらっていいかしら。私たち、その字が読めなくって……」
「だめだ」
頑固な父親の様相で、竜は断固拒絶する。
「でもこのままじゃ、全然前に進めないわ。じゃあせめて、辞書とか、読解のための資料とか教材とか、貸してもらえないかしら」
「斎王くんと影宮くんがそれでもいいとおっしゃるなら、僕は構いませんよ」
竜と陽が、一層鋭く睨んだ。
「なぜ転校生が違うクラスの俺たちを知っている。クソ猫のことも、俺たちは一言も言っていない」
もの怖じもせず、雫は静かに微笑みかける。
「姫さんとは、同じクラスの学級委員として、大変お世話になっています。その関係で時々、休み時間に二人で打ち合わせをすることがあるのですが、その際、斎王くんがよく近くを通るので、名札を拝見して覚えさせていただきました。影宮くんは、人間国宝でいらっしゃる影宮 聡一郎さんのお孫さんとのことで、存じ上げておりました。僕も鬼人なので、守護符開発に献身してくださった聡一郎さんに、感謝と尊敬の念を抱いておりましたから。廊下で一度すれ違った時にお聞きした声と一緒だったことと、斎王くんと姫さんがいらっしゃるのに住んでいらっしゃるはずの影宮くんの姿がなかったことから、影宮くんはそちらの猫さんなのではないかと推察いたしました」
陽は、「なるほど」と納得した。
「浅はかな猫は騙せても、俺は騙せない」
「いい加減にして、竜」
厳しい母親の様相で、姫は冷声叱咤する。
「読むのは私だもの。私が判断するわ。雫くん、明日だけ、お願いしたいの。くずし字の読み方を教えてください」
竜、姫、陽。表情の全く違う三人を順に見つめ、雫は、「分かりました」とうなずいた。
翌日、雫は参考資料や辞書を持ってやって来た。くずし字の読み方を丁寧に教わる姫の左横で、陽は「へえ」「ほお」と分かったようにつぶやいていた。竜は終始、勉強する三人を前に、絶対的な警戒心を崩さず、岩のように座っていた。
くずし字の読み方は大方理解できたが、辞書がないと正確に読み取ることは難しい。結局次の日、すなわち今日も、雫に来てもらうことになった。雫は事情も聞かず、日中、静かに解読を手伝ってくれた。そして夕方は、解散したにもかかわらず、陽のために、お好み焼きとやきそば、かき氷を調達してきてくれたのだった。陽の疑心は薄まって、逆立っていた尾の毛が、なだらかに戻っていた。
食事をつまみながら、陽は雫に尋ねられ、姫と付き合うことになったいきさつを語った。姫の浴衣姿を見て気持ちが昂ぶっていたので、ノリノリである。
「給食前に手洗ってたらさ、隣で洗ってる子の手がすっごくきれいでさ。どんな子だろうって顔見たら、超可愛いわけ! 俺ってそんな目立つ方じゃないし、特技もそんなにないし、皆にいっつも中の下っていじられてるからさ。有名な人のこと、自分とは身分違いだって思ってシャットアウトしてたんだけど、誰っ? ってなって。そんで、一学年四〇〇人のこの学校で、もう二度と出会えなかったらどうしよう! って思って。あとはもう勢いで、一目惚れしました! 付き合ってください! って、言っちゃったんだよ……!」
「奇跡みたいな出会いですね……!」
「だろ! オッケーもらってさ、手もちょーっとだけどつないだし、キスもしたし。幸せな人生、だったんだけどなぁ……」
陽の口は止まらない。自分が猫になったのは竜のせいであるということや、その時の状況について、詳らかに説明する。
「三角関係というものでしょうか?」
「いや。それがあの二人、双子なんだよ。二卵性らしいけど、似てないよなぁ」
「全く気が付きませんでした。ですが……いえ、斎王くんを肯定する訳ではないのですが、お姉様を恋人と引き剥がすために、罪をも犯す覚悟でいらっしゃるとは、よほど深い愛がおありなのですね。お二人にも、何か物語があるのでしょうか」
たしかに、と陽は思った。自分は一人っ子だから、兄弟の関係についてはよく分からない。だが、竜の深い想いには、何かそれなりの理由があるにおいがする。
そうはいっても、知りたい気持ちはあまりなかった。姉弟だと分かっていても、あの二人を見ていると、やっぱりもやもやしてしまうのだ。
こんなことまで口にしてしまっても、不思議と陽に後悔はなかった。聞き手のおかげだな、と思う。そもそも、普段はこんなに自分のことを話す方ではない。それなのにこんなに話せるのは、話したくなるのは、雫の懐の深さのおかげだろう。
「俺ばっかりたくさん話しちゃって悪かったな。雫、話しやすくてさ」
「いいえ。僕は、物語を読むことも、人の話を聞くことも、とても好きなのです。言葉が紡ぐ物語は、とても素晴らしいものです。心を動かし、感情をあふれさせる。そんな魔法を持っていますから」
雫は、愛おしそうに胸に手を当てた。
神宮団の実態が分からない以上、疑いと警戒はするべきだろう。それでも、陽は雫の言葉に、なんとも説明しがたい美しさを感じた。こんな風に、何かを愛おしく思える人と、あの残虐な神宮団のシグレとが、同一人物なはずがない。信じたい気持ちが強く、大きくなった。
陽はすっかり心を許して、どれほど自分が姫を好きか、どれほど今日を楽しみにしていたか、どれほど竜を憎く思っているかを涙ながらに語った。
そうして、今に至る。
夜が深くなってきた。店じまいの音が聞こえる。
自分たちもそろそろ帰ろうかと、エアコンを消した――その時だった。
悲鳴と、鉄パイプが散らばる音、獣の奇声が外で響いた。
鬼だ。
「あれだけ徹底的に守護符を貼っておいたのに、なんで……!」
「子どもがふざけて剥がしたり、神宮団が紛れていたりしたんだろう」
竜が疑いの眼差しを雫に向ける。雫は、竜の視線に気付き、困ったように微笑んだ。
「一掃してくる。姫は書庫に隠れていろ」
「私だけ?」
「姫が神宮団に襲われたのは、このクソ猫が陰陽師の血を引いているからだ。クソ猫といたら、また襲われる。こいつは信用できない。それにその格好だ、怪我もしかねない。暑いだろうが、鍵のあるところで待っていろ」
姫を書庫に入れて鍵を閉め、竜は力を解放した。右手中指の蕾が萌え、二本の角、青い刀が顕現する。
「ついてこい。貴様らも、書庫に近づいたら容赦なく斬る」
雫はうなずいて、陽のやわらかい体を肩に乗せた。
「陽くん、大丈夫です。僕も鬼人。万が一の時は力を使います」
「ありがとな」
陽の心に、雫への疑心はもはやなかった。
バニラの、甘い香りがした。
屋台の方は、酷い有様だった。斬り裂かれ、ぐちゃぐちゃに崩され、輪切りにされた鉄パイプの残骸が落ちている。血を流し、倒れている人もいた。
鬼たちは、狼の頭をつけたトカゲのような姿をしていた。おそらく、七十匹はいるだろう。鬼人の警官が、それぞれの力で一匹ずつ片付けているが、あまりの数に、口々に絶望を漏らしている。
陽は、ごくりと喉を鳴らした。
だが、竜にとっては造作もないことだった。手中の刀を投げて二体を串刺しにすると、新たな刀を顕現させ、群れの中に突っ込み、一匹。腰を回してまた一匹、右足で地を蹴り、また一匹。目にも止まらぬ速さで、次々と斬り裁いていく。
「一体につき〇.二八秒……間を詰めるのに多くて二秒。鬼の数を七十匹と仮定すると、全て倒すのに二分かかる、といったところでしょうか。あの、斎王くん。お手伝いしましょうか。僕の力をお貸しすれば、これら全て、十秒以内に終わります」
竜は次々と斬り裁きながら、赤い砂の中で、雫を睨んだ。
「俺には叶えたい願いがある。こいつらは全部、俺がいただく」
「手柄は全てお譲りします。書庫は暑いでしょうから、急いだ方が良いのではありませんか」
「どういう意味だ……!」
また一匹、鬼を斬る。竜の殺意が、雫を貫く。不穏な予感。
まさか、姫を――!
「いえ。僕はただ、斎王くんのお力になりたいだけです」
雫はにっこりと微笑むと、右手中指をまっすぐ伸ばした。赤い蕾が、不敵な輝きを解き放つ。頭部から二つ、細くうねった羊のような角が生える。
たちまち、鬼たちから、透き通った泡粒が立ち昇った。次々と、鬼たちの体が力なく倒れていく。
あの粒は、魂か。戦闘していた警官たちは我が身を案じ、怖れを成して、続々と後退する。
鬼たちの魂は一匹残らず吸い上げられて、空中で透明な球体にまとまった。
「さあ、今です」
竜は牙を剥きだし、雫を睨みつけていたが、こうしている時間も惜しい。球体がぬらりと落ち始めると同時に天高く跳び、青い刃で、真っ二つに斬り裂いた。透明の飛沫が上がる。もぬけの殻の肉体が一斉に砂となって弾け、竜の右手中指の宝石に吸い込まれていく。
鬼の魂は、協力した者がいたとしても、最後にとどめを刺した者の報酬となるのである。
本当に、ものの十秒で終わってしまった。陽は口をぽかんと開けたまま、「すっご……」とこぼした。
「僕の力は『霊魂操作』。魂を抜き出し、実物化する力です。今回はたまたま弱い群れだった上に、斎王くんのような攻撃主がいたからできただけのことです。僕の力は、弱い鬼や虫や動物、人間の魂を抜いて、それらの魂を物体に変えることですから。一人で戦う時は、弱い鬼であれば、魂を抜いて数日放置しています。数日置くと、肉体が腐っていくので、それを待つのです。強力な鬼人や鬼の魂は抜き取れませんので、周りの動物の魂を借りて武器を創ったり、こうして……」
雫は、胸に隠していたロケットを開いた。色あせた女性と男性の写真が、両面におさまっている。顔をよく見ないうちに、二枚の写真は透き通った蒸気となり、槍の形になって、雫の右手に宿った。
「携帯している父母の魂を武器の形にして、戦います」
「ふ、ぼ……?」
雫は、にっこり微笑んだ。
目を離した隙に、竜は、書庫の方へ走り出していた。二人も、竜を追いかけて走る。
「姫さんが書庫に入った時、『伊勢物語』を思い出してしまいました」
昔、身分の違いからか、決して結ばれない女を好きになった男がいた。ある時、男は女を盗みだす。女をおぶって必死に走る男は、はじめて外の世界を見た女の問いに答える余裕がない。夜が更け、雨が強くなったため、とある小屋に女だけを閉じ込めた。男は小屋の前で一睡もせず、門番をした。しかし女は、中に隠れていた鬼に喰べられてしまった。男は戸口にいたものの、雷の音で女の悲鳴を聞くことができなかった。男は嘆き悲しみ、「こんなことになるなら、君の問いかけに答えてそのまま消えてしまえばよかった」と後悔の歌を詠む。
「似てる……」
「はい。それでなんとなく、早くしないと、と思ったのです。書庫の戸締りをしっかりなさっていらっしゃいますから、現実には起こり得ないと思いますが」
竜が慣れた手つきで鍵を開ける。扉が開かれると、蒸し返った空気が、どっと三人に迫った。
そして、彼らは、息を呑んだ。
真っ暗なはずの書庫内が、差し込む月明かりに照らされ、まばゆいきらめきにあふれかえっていた。きらめきの正体は、氷ともガラスとも水晶とも言い得ぬ、澄み切った透明の蓮の花だった。本も本棚も閉じ込めて、書庫中に咲き乱れている。
「姫! いるのか!」
返事はない。竜はさっと血の気が引いた。なりふり構わず、得体の知れない花に手を伸ばす。ほんの爪先を掠めただけで、花は、中に閉じ込めた本もろとも、粉々に崩れ去った。
「斎王くん、落ち着いてください! 慎重に行かないと……」
「うるさい!」
「もし、この花に姫さんが閉じ込められていたら……!」
竜は、真っ黒な眼光を、雫に突き刺した。しんと沈んだ空気の中で、深く、息を吐く。奥歯を噛む力が、わずかに弱まる。そっと、花びらの先端に、指先で触れる。力の加減を調整しながら、ゆっくり、着実に、体をねじ込み、前へ進んでいく。砂になって崩れた花の残骸が靴でこすれる。じりじりとした音が、いやに、緊張を煽る。呼吸一つ満足にできない。玉のような汗があふれて苛立たしい。
「姫、どこだ、返事をしてくれ……!」
部屋の三分の二まで来た時、前方に、淡いきらめきが見えた。
姫の、かんざしか?
焦燥に駆られ、腕がぐっと伸びる。深く、深く、前へ、横へ、花が崩れていく。
ようやく、姫の姿が見えた。うつ伏せで、倒れている。
「姫!」
飛び込むように手を伸ばすと、あたり一帯の花が崩れ、巨大な透明の花に手が触れた。花は崩れなかったが、花びらの縁が刃物のように鋭く、竜の指から血が滴り落ちた。
この花の中に、姫がいる。
竜は右手に、刀を宿した。
「斎王くん……」
「話しかけるな。近づいたら、殺す」
竜は恐る恐る、花びらに刃を当てる。少しずつ力を加え、強度を確かめる。そして、刃を、力いっぱい押し込んだ。金属がこすれ合うような、耳に痛い音が響く。
斬り落とされた花びらは、床に落ちると、砂になって散らばった。
あと五枚……四枚……。
得体の知れない花を、息を止めて、慎重に、確かめながら、斬っていく。
あと、一枚。ぐっと力を込め、斬り崩す。
ガラス越しでぼやけていた紺色の背中が、鮮明に、足元に、露わになった。
巨大な花の中心部分。人二人ほど入れそうな、円形のこの場所だけ、花が咲いていなかった。
姫の指のすぐ傍に、おびただしい血だまりが広がっていた。
「姫!」
血だまりに膝をつき、左手で姫の体を掬い上げる。やわらかく、温かさもある。浴衣が、汗で湿っている。だが、汚れはない。体には傷一つついていないようだ。しかし、揺らせど、名前を叫べど、一向に起きる様子がない。顔は妙に穏やかで、もしかして呼吸をしていないのではないかとさえ思う。焦燥に揺れながら耳を近づけると、熱を帯びた小さな吐息が、やさしく触れた。
――よかった。わずかな酸素を思い切り吸い込み、安堵の息をつく。
竜は額の汗を拭い、傷ついた右の手のひらをこぶしに閉じ込めた。姫の体を腕で抱え、もと来た道を戻る。
たまらなくなった陽が、竜の足元に駆け寄った。
「おい、これって……鬼の仕業か? まさか、神宮団? 姫は、無事なのかよ?」
竜は、黙って黒猫をまたぎ、雫を睨んだ。今にも掴みかかってやらんとばかりの殺気をこめて。しかし、今は何より姫が先だ。殺意を奥歯で噛み殺し、急ぎ、書庫の外へ出る。
月明かりに照らされて、姫の右手が――右手の中指が、赤く光った。
「……そういうことですか」
遠くなっていく竜の背中を見つめ、立ち尽くしていた陽が、雫を見上げた。
「姫さんはここで、敵に襲われたのでしょう。ですが、この花は敵の力ではありません。姫さんが鬼人に目覚め、この花を咲かせたのです」
「姫が、鬼人に……?」
どうして、という言葉がふつふつ浮かぶ。
色々な困惑が最後に生んだのは、どうして姫が襲われたのか、という疑問だった。
だが、陽はもう、考えることができなかった。
動揺の連続で、頭の中が真っ白になっていた。
得体の知れない不安ばかりが、彼らの心に焼き付いた。
窓に射す月の光が、少女の寝顔を白く浮かび上がらせる。熱を帯びた風と、蛙の声が入り込む。
「守れなくて、ごめん、姫――」
握りしめた彼女の手を、頬に寄せる。鋭い石の感触に、悔しさが広がる。
守れなかった。守りきれなかった。
だが、次はない。必ず、守り抜いてみせる。
そして。
「この石を咲かせてみせる。必ず――」
心の奥からあふれた言葉が、暗闇の中で、泡のように消えた。
鳥のさえずりで目が覚めた。見慣れた白い天井。左頬には、やわらかな黒い温もりが寄り添っている。そして、右手がとても熱い。
首を起こして見ると、竜が姫の右手を固く握って、ベッドに顔を伏せ、眠っていた。
ぼんやりと、昨日の記憶のかけらを集めていく。
雫、彩、屋台、悲鳴、暑くて暗い場所、むせかえる甘いにおい――。
恐怖が心を蝕み、姫の手が、びくんと跳ねた。
「姫……起きたのか」
姫の大きな瞳から、一筋の涙がこぼれていた。
つないだ手を、互いにぎゅっと握りしめる。
「あの男か」
「分からない……。よく、覚えていないの。ただ、すごく、怖いの……」
姫は、目をつむった。長いまつ毛から、また一粒、涙がぽろりとあふれる。
竜が体を起こし、左手を姫の涙に伸ばそうとすると、姫は、陽の毛並みに鼻を埋めていた。
落ち着いて、一つ一つ整理する。姫が書庫に入れられた後、すぐに、甘いにおいが立ち込めた。同時に、あの男の声が聞こえたのだが、何を言ったか記憶にない。言葉どころか、その後何をされたか、自分に何があったかすら、記憶にない。
姫はしばらく、自分の右手中指にできた赤い石を、眉根を寄せて見つめていた。
三人でリビングに降りていくと、姫の母が冷めたコーヒーを両手で握りしめ、ソファに座っていた。姫が入って来るなり、投げるようにカップを卓に置き捨て、姫を抱きしめた。
「怖い思いをしたのね。頑張った。鬼人になったこと……お夕飯にお赤飯炊いて、皆でお祝いしよう」
姫の頭をぽんぽんしながら、姫の母は、竜に目を移した。
「竜ちゃん、運んでくれて、寄り添ってくれて、本当にありがとう」
竜は、「いや」とつぶやいて、うつむいた。
こぶしは固く、硬く、握りしめられていた。
朝食を済ませると、三人はすぐに影宮神社に向かった。
書庫の前に、雫が立っていた。微笑みをたたえ、本を読んでいる。
三人の足音に気付くと、文字から目を離し、軽く会釈をした。
「なぜここにいる」
「昨日のことや、姫さんのことが気になりまして」
「しらじらしい嘘だな。貴様が全て仕組んだんだろう。神宮団、シグレ!」
掴みかかろうとする竜の右手を、姫がばっと両手で掴む。
陽は雫の肩に登り、「いい加減にしろよ!」と怒鳴りつけた。
「雫のことを疑うの、もうやめろよ! 戦いの間、雫はお前の目の届く場所にいた。俺もずっと一緒だった。お前の戦いを手伝ってもくれただろ。雫は、シグレとは別人だ。神宮団でもない!」
反論しようと息を吸い込む竜の手首を、姫が一層、強く握った。
「陽の言う通りよ。竜、もう疑うのはやめましょう。ごめんね、雫くん。わざわざ来てくれて、心配してくれて、ありがとう」
雫は、「お会いできてよかったです」と、微笑んだ。
書庫を開けると、昨日に時間が巻き戻ったような気持ちになった。透明の蓮の花が、本も本棚も閉じ込めて咲き誇っている。真ん中にできた白い砂の道の先には、一際大きい、牢獄のような蓮の花が咲いていた。
「これ、私が……? 私の力なの?」
「姫さんはあの巨大な花の中で倒れていました。血だまりがありましたが、姫さんには傷がありません。だとすれば、姫さんがこの花を出現させ、敵を撤退させたと考えるのが妥当かと……」
「そんな……。どうしよう。これって、もとに戻せるのかしら……」
姫は両手のひらで顔を覆って、「ごめんなさい」と声を震わせた。
「陽のお家の大切な資料をこんなにしてしまって……。陽を助ける大事な手がかりだったのに。雫くんにも、申し訳ないわ。せっかく二日もかけて、読み方を教えてくれたのに……」
「そんな。俺こそ、姫を巻き込んじゃって……」
ごめん、と言い切らないうちに、竜が大きな手で姫の頭を包み、引き寄せた。
陽は、むかっとした。
「夜になって、鬼人の力を試してみないと、まだどうなるかは分かりません。ですが、きっと大丈夫です。希望を捨てず、今できることをやりましょう。例えば、陰陽道の資料は、どこか他の場所にないのでしょうか?」
陽は、首を振った。幼い頃、守護符研究所へ出かける祖父を引き止めて、「陰陽道の資料はここにあるだけだ。わしを含めてな! だから、歩く陰陽道資料のわしが、守護符研究所へ行くんだ」と諌められたことがあったから、よく覚えていた。
「つまり、おじい様にお聞きすれば可能性がある、ということでしょうか?」
「そうなんだけど……」
陽は、「うぅん」と考えて、雫に、祖父が陽以外に面会できないことを、理由を含めて説明した。
雫は、中指で下唇をなぞりながら空を見た。
「夜に行って、病院中の人間の魂を抜いて侵入すれば、お会いできそうですね。ただ、このご時世、人間や鬼人以外に、何か、機械が仕掛けられているかもしれませんね……」
侵入警報機以前に、魂を抜いて屍だらけにする方が問題のように思えたが、大真面目な雫に、誰もそれを言えなかった。
「では、明日の午後に行きましょう。確実にうまくいく方法があります」
雫は、にっこり笑った。
夜になって試行錯誤してみても、姫の鬼人の力は発動すらしなかった。
姫はしょんぼりと膝を抱え、右手中指を見つめた。
「申し訳ないけれど、明日の雫くんの作戦にかけるしかない……わよね」
雫の自信たっぷりな笑顔を脳裏に描くと、不思議と、うまくいく予感が湧いた。
武蔵市第三病院。裏側の職員玄関に、彼らは集合した。陽は、姫の父の部屋から借りた黒いトランクに忍んでいた。
「では、お二人とも。これを羽織ってください」
雫が、大きな紙袋から白い布を取り出すと、甘い香りが強く立ち昇った。
手渡されたのは、白衣であった。念のためにと、聴診器と度の入っていない眼鏡も渡される。
全て装着すると、ようするに、医者のコスプレであった。
「竜、すごく似合うわ。ドラマに出てきそう」
竜は少しの間、姫を見つめて石になっていたが、やがて眉をひそめ、右腕を鼻に寄せた。
「本当に、素敵です。姫さんも、似合っていらっしゃいますよ。髪を一つにまとめると、もっとそれらしいかもしれません」
「ありがとう。そうするわ。雫くんはしっくりきすぎていて……あれ……」
目の前が、ぐにゃりとゆがんだ。先ほどまではなかったはずなのに、雫の胸元に名札があるように見える。
「あまの……せんせ……」
陽がガタンガタンとトランクを揺らして、「俺も見たい! 一瞬! 一瞬でいいから、出してくれ!」と暴れた。
姫ははっとして、トランクを胸に抱えた。
「あ、ごめんね。我慢して、静かにしていてね。終わったら見せるわ」
もう一度雫を見ると、やはり胸に名札はなかった。雫は、クスッと笑った。
「女性は嗅覚が鋭いので、姫さんはかかりやすいのでしょうね。これは、催眠術です。強い香りはとても効果があるのですよ。誰も僕たちを中学生だと思わないでしょう」
竜が姫をかばうように、二人の間に入った。竜の背中から、バニラの香りが迫りくる。
「催眠だと? このにおい、あの男――シグレと同じにおいだ。貴様、やはり……」
「調合は変えてあります。ムスクは控えました。姫さんはあの香りに、恐怖で縛られているようですから」
「認めるのか、お前がシグレ本人だと」
「いえ。僕はシグレではありません」
竜の警戒の壁は、高く、堅い。それでも雫は、そびえる壁を、ただ受け入れ、眺めていた。
二人は黙ったまま、目と目を離さない。
トランクの中で、陽がガタゴトと動いた。
「いい加減にしろって言っただろ! 怖がってんのかよ!」
「怖がってるだと?」
振り返ってトランクを睨むと、姫が、「あの」と声を出した。
「そろそろ、入りませんか。天野先生、斎王先生。昼休みが終わります」
姫は、大真面目な顔で竜を見上げていた。
「ええ。行きましょう。患者さんが待っています」
雫はにっこり笑って、カードキーを取り出した。昨晩ここで待ち構え、今日欠勤する医師からくすねたのだという。
雫についていく姫は、すっかり催眠に堕ちている。「待て」と腕を掴んでも、「どうしたんですか、斎王先生。急ぎますよ」と、逆に引っ張られてしまう。
警備員の前を悠々と通り抜け、エレベーターに乗り込み、「五」のボタンを点灯させる。看護婦が三人乗っていたが、「あら、先生方、今お帰りですか」と、いつものことのように話しかけられた。雫も、いつものことのように「はい。お疲れ様です」と笑顔で返す。
「おい、貴様……」
雫は人差し指を唇に当て、竜の不信の言葉を制止した。三階に止まって、看護婦が出て行くと、雫から話を再開する。
「ここで信じていただけるとは思っていません。これが終わったら、全てをお話しします。信じていただけるよう、僕ができる、誠心誠意の協力をさせていただきます。僕は、みなさんの仲間になりたいのです」
雫は、ポケットから取り出したパクトを開くと、白い練り物を指に取り、自らの首筋に拭いつけた。
気が遠くなるような甘いにおいが、より一層、個室に充満した。
「着きましたよ」
こまかな霧が顔にかかる。アルコールのにおいが鼻をつく。
いつのまにか、「集中治療室 一」の前にいた。陽がひそひそと、「本当に覚えてないのか? 話かけられても普通に対応してたし、二〇五号室の佐藤さんがどうたらこうたらとか言ってたぞ?」と、二人に教えた。完全に催眠にかかっていたようだ。
雫は手早く、ノックを三回し、扉を開けた。
中には、一人のおじいさんがいた。ベッドであぐらをかき、ヘッドホンで音楽を聴きながら、ノリノリで演歌を歌っている。集中治療室にいるので重症かと構えていたのに。どっと気が抜けた。
三人は陽の祖父の視界に入ると、聞こえていないだろうが、一応挨拶をした。祖父は「おぉ」と言って、ヘッドホンを外した。
「新しい先生か。ずいぶん若いな」
「いえ、実は……」
姫がトランクを開けると、黒猫が飛び出した。祖父は、「のわっ!」と驚いて、跳ねた。
「じいちゃん! 俺だよ! 陽!」
祖父はくしゃくしゃの顔をゆがめ、「はぁ?」と言ってしばらく黒い毛むくじゃらと見つめ合っていたが、やがて、「お前、また印切って遊んだな!」と、小さな頭を平手で叩いた。
「お前には才能がねぇんだから、やめとけって言ったろうが! 知らんぞ、そんなん解く方法!」
「遊んでない! これはだな……」
陽は、猫になった経緯を語った。
一通り聞き終わるも祖父は、「どっちにしろ、戻る方法はない」ときっぱり言い切った。
「教えてもらおうと思って来たのに! せっかく雫が頑張ってくれたのに、水の泡になっちまうじゃんか……! なんでもいいから、教えてくれよ!」
祖父は大きく、ハァ、とため息をついた。二人のやりとりを見守る、白衣を着た三人の中学生を目に映す。
「このたびはうちのバカ孫が迷惑かけました。ほら、まずはお前、自分のことばっか話してねぇで、紹介せい!」
祖父は再び、陽をペチンと叩いた。陽は、むっとしつつも、従順に紹介を始めた。
「じいちゃんに一番近くてかっこいいのが雫。雫がいろいろ計画立てて、ここまで連れて来てくれたんだ。優しくてまじいい友達。隣の子が姫。俺の、その……彼女」
祖父が、今日一番の平手打ちを陽の頬にくらわせた。陽の左耳が、ベッドにめりこむ。
「失礼なこと言うんじゃねぇ! こんなべっぴんさんが、お前みたいなちんちくりんの彼女なわけねぇだろ!」
姫は慌てて、「おじい様、本当です!」と頭を下げた。
「ご挨拶が遅れて、申し訳ありません。東条 姫です。陽くんとお付き合いさせていただいています」
祖父は、白目を剥いて、ふらりと後ろに倒れ込んだ。
陽は、ガンガンする頭部の痛みに耐え、最後の一人を横目で示す。
「……んで、端の奴が、斎王 竜。俺を襲ってきた奴。猫になっちまった元凶」
竜はぎろりと睨んだが、それ以上の剣幕で、祖父の黒目が睨みをきかせた。どちらも陽が標的である。
「お前な。こんなべっぴんな彼女がいて、無傷でいられるわけがないだろう。死ななかっただけでもいいと思え。身分不相応の刑だ」
そう言うと祖父は、頭からすっぽり布団に潜ってしまった。
姫と雫は、困り顔を見合わせた。
「あの、おじい様。私たち、陽くんを人間に戻す方法を調べようと、勝手ながら、書庫に入らせていただいていました。ですが、私のせいで……書庫を、大切な資料を、なんと言ったらいいか……凍らせてしまった、と言えばいいのでしょうか……。本当に申し訳ありません。ですが、もう陰陽道の情報を持っているのは、おじい様だけなんです」
「何か、手がかりだけでもいいのです。たとえば、猫や、獣の姿に変える陰陽術そのものについて、他の術を解く方法……。何か、ご存知ありませんか」
祖父は、布団にくるまったまま、しわだらけの目を覗かせて、美少女と美少年の期待の眼差しを鑑賞した。そして、むくりと体を起こして、「とにかく、座りなさい」と壁際にある丸椅子を顎で指した。
三人が腰をかけたのを確かめると、祖父は腕を組んで、フウと息を吐いた。
「まず、体が獣に変化する術。それは、ない」
めちゃくちゃに印を切って、火事場の馬鹿力で創作してしまったのだろう、と祖父は分析していた。
「だが、力を抑える術の一種と考えれば、封印術の可能性がある。封印術を解く術は、存在する。それを試す価値はあろうが、わしはもう、指が動かん」
祖父は、包帯でぐるぐる巻きの両手を見せた。命は助かったものの、指の神経を完全に断ち切られてしまっていた。
「しかし、わし以外に陰陽道を志す者は、もういない。神宮団に殲滅させられたからな。せめて、あいつがいれば……」
遠い目に、悲しみが泳いでいた。雫が小さく「あいつ」と反芻すると、祖父は首を横に振った。
「まあつまり、方法はない、というわけだ」
陽の心はすっかり鉛になっていた。姫は陽のくにゃくにゃの体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「なんだよ……。人間国宝、歩く資料とか言っておきながら、できないのかよ……。あの刀――蒼龍刀だって、鬼神を倒したとか言ってたくせに、こいつに真っ二つにされたぞ」
陽が震える声で毒を吐くと、祖父は冷たく、「あれは贋作だ」と答えた。
「まったく、お前もか。本物なわけないだろうが。お前がションベン漏らしてた頃、毎日語って聞かせたろ、『鬼いずる昔話』を」
「姫の前で恥ずかしい過去をばらすな! てか、何それ。全然覚えてないし……」
雫が瞳を輝かせ、語り部を買って出た。
『鬼いずる昔話』とは、鬼と鬼人を生んだ鬼神の物語である。
約五〇〇年前。世は人と人ならざらぬものにあふれていた。次第に、禍々しき妖怪どもが猛威を振るうようになり、武士や陰陽師が追い払うだけでは手に負えなくなっていった。そこで、陰陽師より強い霊力を持ち、妖怪どもに太刀打ちできる武士――「陰陽武士」が、妖怪退治に任命された。
ある若い陰陽武士の青年が信濃にたどり着いた時、藩主に助けを求められた。話を聞くと、藩主の娘が、湖の蒼い龍にさらわれてしまったという。哀れに思った青年は蒼龍と戦い、見事に娘を助け出した。娘はたいへんな美人で、二人はすぐに恋に落ちた。
青年は娘を妻に迎え、ともに旅をしながら、各地を妖怪の魔の手から救済した。妻は、不思議な力を持っていた。倒した蒼龍を彼の刀に宿し、妖怪を必ず討ち亡ぼす「蒼龍刀」を作ったり、手のひらに出現させた赤い花びらに吐息を吹きかけ、ささやかな願い事を叶えたりと、青年に尽くした。
青年の名声は高まり、「蒼龍刀の君」と呼ばれ、敬われた。
しかし、一年後。国に戻ると、名のある陰陽師たちが二人を取り囲んだ。そして、彼の妻が妖怪なのだと告げた。鏡に妻の姿が写ると、妻はたちまち、真っ白な妖怪に姿を変えた。
青年は葛藤したが、妻を、蒼龍刀で貫いた。妻は怒りで体を赤く染め上げた。地面が震え、ひび割れた隙間からは火が噴き上がった。そして、自分を裏切った男と、蒼龍刀を丸ごと飲み込み、息絶えた。
怒りと憎しみにまみれた妻の魂は爆発し、木端微塵になって、世界中に散らばった。
そのかけらを宿した妖怪が鬼となり、かけらを宿した人間が鬼人となった。
鬼と鬼人を生んだその妻を、人は、鬼は、鬼人は――鬼神と呼ぶ。
祖父は深くうなずいた。
「つまり、だ。伝説の通りであれば、本物の蒼龍刀は、鬼神に飲み込まれてしまっている。鬼神の一部になったということは、本物の蒼龍刀は、鬼人の力として顕現している可能性がある」
一斉に、竜に視線が注がれた。
「まぁ、話はそれたが、とにかく贋作のあれで鬼人に太刀打ちなんてできないって話だ。死ななかっただけ良かったと思って生きていけ」
落胆して音も出せない陽をトランクに詰めて、三人は祖父の部屋を後にした。
病院を出ると、白い雲が青空を覆っていた。じめっとした暑さが体を包む。じりじりした虫の声が、三人と一匹の沈黙を埋める。
近くの公園まで来て、先頭を歩いていた竜が立ち止まった。
「話してもらおう」
雫が、「はい」とうなずいた。
姫は、「私は、陽と話しているわ」と、少し離れたところにあるベンチに腰掛けた。竜と雫が何の話をするのかは、なんとなく察しがつく。雫が白か黒か、その点を問答するのだろう。
たしかにそれも大切なことだが、今は何より、陽と話をしなければならない。
黒いトランクを開け、ぐったりした体を抱き上げる。陽は人形のように、されるがままに抱きしめられた。
「陽、待ってて。私、この石を咲かせてみせる。そして必ず、陽を、もとの姿に戻すわ」
竜でさえ、毎夜鬼を倒すこと四年、未だ蕾のままである。まして力を扱えない自分など、何年かかるか分からない。それでも、陽を悲しみに沈めていたくはなかった。自分にできる全てをかけて、力になりたかった。
陽は姫の肩に頭をもたげて、「ありがとな」とつぶやいた。消え入りそうな声だった。
「でもさ、姫にそんなこと、させたくないよ。危ないし、何かを傷つけるなんて、たとえ鬼であっても、姫はいやだろ。姫を傷つけたくないんだ」
陽は首をねじらせて、姫の瞳を覗き込み、やわらかく笑った。
「じいちゃんの言う通り。生きているだけでラッキー。姫といられるんなら、なんか、それだけでいいや。どんな姿でも」
納得しているはずはない。自分に言い聞かせているだけだ。
姫は、言葉を探した。今の陽に必要な言葉を。こくん、と飲み込んで、震える唇を開く。
「私は……陽がどんな姿でも……陽が、好きよ」
陽の目が、大きく見開かれた。
「ほんと? どんな、姿でも……?」
「ええ。だって、陽は陽だもの」
目が、熱い。シャボン玉を集めたように、きらめきでいっぱいになる。
瞬きをするのも、うつむくのも、みっともなくてできない。それでも、あふれてとまらない。
心の底から、噴水のように、温かなひだまりが湧き上がる。自分の全てを満たしていく。
息ができないくらい、幸せで幸せで、たまらない。
ややあって、陽が小さく口を開いた。
「あのさ……戦いなんて、しなくていいよ。そのかわり――ずっと、一緒にいてほしい。俺は、それで、猫だろうとなんだろうと、幸せに生きていけるから」
姫は微笑み、「もちろんよ」とうなずいた。
空を、二人を、淡い橙が染めていく。
影は深く、黒く伸びてきていた。
2020年3月20日 発行 初版
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