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戦鬼伝 第三章ー露ー

鈴奈



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イラスト・キャラクターデザイン  さらまんだ
コンセプトアート         BUZZ
装丁               兎月ルナ

 目 次

十一

十二

十三

十四

十五

 喧騒な駅のホーム。慣れない新幹線での一時間半。見知らぬ駅の乗り換え。
 緊張続きの二時間を経て、彼らは、鈍行列車に揺られていた。窓から見えるのは晴れ晴れとした大空か、青々とした畑ばかりである。陽は籠から首を伸ばし、いつもとは違う景色をぼんやり眺めていた。
 彼らは、信濃しなの市の戸黒湖とぐろこ温泉に向かっていた。
 病院に侵入した日。雫との話を終えた竜が、唐突に、「信濃市へ行くぞ」と言いだしたのである。
 二日後、諸々の準備や手配を済ませ、彼らは出発した。
 陽を戻す手立ては、今のところない。
 では、なぜ、信濃市へ行くのか。
 簡単に言えば、竜の力を、「本物」にするためである。
『鬼いずる昔話』に基づけば、竜の青い刀は、鬼神を滅ぼした蒼龍刀であると考えられた。
 しかし、あの話には続きがあった。
 鬼神が魂を解き放ち、消滅した跡から蒼い龍が飛び立って、もといた湖へ戻っていったのだと。
 その言い伝えが本当であれば、竜の『無限刀』に蒼龍を取り込むことで、どんな鬼でも消滅させることができる強大な力――蒼龍刀を手に入れることができるはずだ。
 今でさえ十分じゅうぶん強いのに、どうして、その力が欲しいのだろう。姫は、二人の話に入っていなかった自分がとやかく言えないと思い、今日まで黙っていたが、英単語帳を閉じて竜に尋ねてみた。
「それは、僕が説明しましょう」
 竜の体に隠れていた雫が、ひょっこり首を出した。竜がじとりと睨むと、雫はさらりと微笑み返す。
 わずかの間の後、竜は腕を組み、目をつむった。
「姫さんは、神宮団がどのような組織か、ご存知でしょうか」
 神宮団は、鬼神を信仰し、鬼神の復活を目論む組織である。仇討ちのため、鬼神の復活を妨げさせないため、数多の陰陽師を手にかけてきた。そして、鬼神に捧げる自らの身に強大な力を宿すため、鬼神を確実に復活させるため、無数の鬼や鬼人を手にかけてきた。
 だが、奴らの目的は鬼神の復活にとどまらない。
 復活した鬼神の力によって、世界を滅ぼす。それが、奴らの真の目的なのである。
「今は守護符があり、法律があり、人間と鬼人は共存の道を歩んでいます。しかし、一昔前はそうではありませんでした。人間が鬼人を奇異なるものとして蔑む、差別社会でした。神宮団は、人間に蔑まれ、差別され、人間を、社会を、この世界を憎んだ鬼人たちの集まりなのです」
 雫の言葉は、情報を反芻するだけには聞こえなかった。妙な生々しさに、違和感が湧き起こる。
 雫は、姫から目をそらした。ふ、と息を吐く。長い上下のまつげが絡まり合い、影を落とす。
「……僕は、三十年前、そのような社会で生きてきた者です。そして、かつて、神宮団の団員でもありました」
 姫だけでなく、籠の中で話を聞いていた陽も、唖然とした。「えっ」という素っ頓狂な声で動揺を表すのが妥当なのだろうが、驚きのあまり息が詰まってしまった。
 雫は目を閉じて大きく息を吸うと、話を続けた。
「僕はシグレに従っていました。何も考えず、手を貸してきました。ですが、やはり、世界を滅ぼしたくない、と思いました。苦しいことは五万とありますが、泥沼で見つけた幸福は、何にも比べようもないほど美しいものです。素晴らしいこと、美しいものであふれかえるこの世界を、守りたいと思ったのです。だから、僕はシグレを止めようとしました。しかし、当時鬼神を宿していた肉体が寿命を迎え、シグレは僕たち神宮団の団員を『凍結』させました。そして一年前、僕は目を覚ましたのです。体は、三十年前のままでした。僕は神宮団を抜け、世界の破滅を止める方法を探してきました。そうして、みなさんと――蒼龍刀の使い手である斎王くんと出会ったのです」
 話を聞きながら、動揺した心が落ち着いてきた姫は、「じゃあ、つまり……」とつぶやいた。
「つまり、竜の刀を本物の蒼龍刀にして、鬼神が復活した時、鬼神を倒すってこと? そのために、蒼龍を探しに行くっていうこと?」
「ええ。それもそうです。ですが、もっと手っ取り早いのは、神宮団を統率するシグレを殺すことです。シグレは、鬼人ではありません。あれは、鬼の中でも特に高い知能と強い力を持った四鬼しきの一体、水鬼すいきです」
 陽は、あんぐりと口を開けて、姫を見た。
 姫は冷静に、なるほど、と納得していた。
「鬼神を倒した蒼龍刀であれば、強大な力を持つ四鬼のシグレを倒すことも可能、ということね」
「はい。奴を倒せば、鬼神の復活も、世界の破滅も防げるでしょう」
 竜が、長い息を吐いた。身を乗り出して話し込む姫と雫の間に、壁をつくるかのように。
「世界なんてどうでもいい。それがあれば奴らを叩ける。それだけだ。それに、俺はお前を信用したわけじゃない。変な行動をしたら容赦はしない。俺はいつでもお前を殺せる」
 姫が厳しく一喝すると、竜はずるずる腰を滑らせ、狸寝入りをした。

 十四時。戸黒湖温泉駅に到着すると、彼らは宿に荷物を置き、蒼龍伝説の湖へ足を運んだ。
 山の麓の石鳥居をくぐり、長い階段を登ると、社があった。白を基調としており、とても美しかったが、彼ら以外の観光客はいなかった。
 裏手に、整備しきれていない山道があった。深く深く、足場の悪い木の根道を登っていくと、空を映した、やさしい蒼色の湖があった。水辺にたたずむ真っ白な鳥居が神々しい。森の中に隠されて、守られているのだろうか。気温も山道よりいくらか涼しく、透き通る空気が美味しかった。陽が覗き込むと、鏡のようにはっきりと、黒い獣が映った。
 何か変わったものはないかと、湖をぐるりと一周するも、何も見つからなかった。ただの伝説で、もはやここには何もないのかもしれない。そう思うほど、しんと静まり返っていた。虫の音、鳥の声さえ聞こえない。
 また夜に来てみようということで、彼らは宿に帰った。
 宿はペット同伴可の、小さく古い温泉旅館であった。しかし、思っていた以上に内装は豪華で、きれいだった。赤を基調としたカーペット、ほんのり漂うお香の香り、金色に輝くふかふかのロビーの椅子。どれも高級感があった。
 チェックインを済ませると、姫は三つの鍵のうち一つを、雫に渡した。部屋は二つ取ってある。
 姫と竜が同じ番号の鍵を持っているのを見て、陽の喉の奥が苦くなった。
 部屋割りの時の悔しさを思い出す。

 姫の母が予約してくれるということで、パソコンを囲み、宿を調べていた時だった。
 宿が決まったところで、竜が、姫と一緒の部屋がいいと言いだした。陽は当然、猛反発をした。
「お前な! いくら姉弟でも、男と女だぞ! 姫が一室、男三人で一室だろ、普通!」
 または、自分と姫、竜と雫――という思いはとりあえず胸に秘めておく。
「なんのために一緒に行くと思ってる。シグレは姫が一人の時を襲ってきた。姫を一人にしたら、また襲われるかもしれないだろう」
 姫は、「心配いらないわ、姉弟だもの。着替える時は外に出ていてほしいけど」と平然と言う。
 だが、陽はいやだった。いやでいやでたまらなかった。弟だろうとなんだろうと、姫が男と同じ部屋なんて、いやすぎる。
 それに加えて、陽の心には、妙な疑惑が渦巻いていた。
 竜の叶えたい願い。それはもしかすると、姫との血のつながりをなくすことなのではないか。
 そして、姫と結ばれることなのではないか――。
 そんなはずはない。馬鹿げた妄想だ。そう思いたい。思いたいのに、渦巻が鎮まらない。
 竜の言動や眼差しは、姉を想うものではない。どうしても、そんな気持ちが拭えないのだ。
 だだをこね続ける陽の体に、姫の母が指を立て、毛をくるくると回した。これをされると、毛の奥が背骨にこすれて、頭がふわっとしてしまう。
「陽くんの気持ちは分かるわよ。本当は私が一緒に行けたらよかったんだけど、仕事なのよね。でも、今回は、色々危険も伴うし、竜ちゃんの案でいかせてもらえないかしら。姉弟だから問題ないし、その方が安心じゃない?」
 ふにゃふにゃになった陽は、「ふぁい」と情けない返事をした。
 だが、のちに一人でがっくりと肩を落とした。モヤモヤした黒い煙が雲のように固くなり、陽の気持ちをずんと落とした。

 こうしたいきさつで決まった部屋にそれぞれ荷物を置いて、三人は温泉に入りに行くことにした。
 湖までの山道はかなり険しく、三人とも汗だくである。
 大浴場があるはずの二階に降りると、どういうわけか、表示がなかった。左右に道が分かれているのだが、どちらを覗き込んでみても、先は暗くぼやけていて、検討がつかない。
「お客様、ご案内いたしましょうか」
 やわらかい声に振り向くと、桃色の仲居着をまとう女性が微笑んでいた。やわらかな黄土色の髪を一つに束ねている。
 彼女に続いて、三人は、右の道を進んだ。時折彼女から、金木犀の香りがした。
 青と赤の暖簾が目に入り、姫は、「お仕事中にすみませんでした。ありがとうございました」と一礼した。雫も、ぺこりと一礼する。竜はいつのまにか、暖簾の奥に消えていた。
「いえ。ごゆっくりおくつろぎください」
 仲居は深々とお辞儀をし、暖簾の中へ消えるまで、姫の姿を見送っていた。

 温泉は期待以上だった。内湯は木製で、檜の香りで満ちていた。露天風呂は石造りで、ちょっとした小庭に青紅葉がたたずんでいたのも風情があった。蝉たちの悲しげな声に囲まれて、夏の夕暮れを心穏やかに過ごせる幸せを噛みしめた。
 髪を乾かすと、姫は、ロビーに向かった。
 二人はすでに、浴衣姿で座っていた。雫は紅茶を片手に読書し、竜は水を飲みながらぼんやりしている。同じ卓を囲んでいるのに、ちぐはぐに座っている様子を見て、二人はどんな風に浴場で過ごしたのだろう、話はしたのだろうか、と気がかりになった。
 竜の左隣に腰掛けると、目の前の雫がにこりと笑った。
 隣から、いつもと違うせっけんの香りがした。
 先ほどの仲居がやってきて、「お飲物をご用意いたします。ご希望はございますか」と膝をつく。水をもらうと、仲居は、「ごゆっくりおくつろぎください」と言って去っていった。
 三人は、玄関に飾られている、巨大な絵を見つめた。真っ白な龍が猛々しく描かれている。
「本当に蒼龍はいるんだろうな。生き物の気配一つなかったが」
「僕もはじめて来ましたので、断言はできません。ですが、蒼龍討伐に出た団員たちは、誰一人帰ってきませんでした。蒼龍に敗れたと取るのが妥当でしょう」
 蒼龍を刀に封じ込める方法は分からない。まずは力で押さえつけてみるしかないと、二人は示し合わせていた。だが、訓練を積み、実戦経験も豊富な神宮団が誰一人かなわなかったとするならば、一筋縄ではいかないだろう。気を引きしめねばならない。
 こくり、と水を飲む姫の横顔を、竜は、視界の隅に映した。

 夕食は雫と陽の部屋で、三人と一匹で囲んだ。例の仲居が甲斐甲斐しく、茶なりお代わりなりを給仕してくれる。お造り、山菜の天ぷら、すき焼きなど、味も見た目も素晴らしく、腹も心も満たされた。
 食事を済ませた彼らは、すぐさま立ち上がった。もう二十時を回っている。
 仲居は、食事中の会話から湖へ行くことを知ったのだろうか。片づけの手を動かしながら、「夜に行くのは、おやめになった方がよろしいかと」と、静かに声をかけた。
「もう三十年前のことです。私も女将に聞いたことなのですが、湖の龍見たさに、一人の鬼人がこの村にやってきたそうです。しかし、彼は夜に見に行ったきり戻ってこなかったとか。村の者は皆、蒼龍に喰べられてしまったのだと信じています。誰も本物の蒼龍を目にしたことはありませんが、この土地には鬼も鬼人もおりません。蒼龍が不浄なものを全て浄化するからです。皆様は、その右手中指の石からして、鬼人とお見受けします。どうか、こちらでごゆっくりお過ごしになられてください」
 止められると、無視するのも悪いと思ってしまう。竜以外の三人は、足が止まった。
 気に留めず靴を履き始める竜の後ろ姿に、仲居は声を高くして笑いかけた。
「そうした逸話に所以ゆえんがございまして、当旅館は門限を二十二時と決めさせていただいております。二十二時を過ぎましたら正面玄関が閉まりますので、お早めにお帰りください」

 仲居が部屋を出て行った後、彼らは出発した。部屋に置いてある説明書を読むと、確かに二十二時が門限との文言があった。そのため、彼らは、早足で湖まで向かった。
 道中、守護符の紫の灯は、一つも浮かんでいなかった。この地域の人々が蒼龍の力を信じていること、そして、蒼龍の力が実際に染み渡っていることの表れだった。
 昼間は清らかに見えた神社も、なんの精気も感じられなかった木の根道も、夜はがらりと装いを変えた。月光も届かぬ暗闇。幾億千もの魂がこちらを見つめているような不気味さが、全身に絡みついてくる。不確かな足場が、さらに体をすくませる。
「姫」
 竜が懐中電灯を左手に持ち替え、右手を伸ばした。姫は、竜の手を、両手で掴んだ。
 ――離れろ!
 そう言いたい。だが、陽にはできなかった。そんなことを言ったところで、自分には、姫を支えることさえできない。もどかしくて、悔しくて、たまらない。
 二人の背中が、一緒に遠くなっていく。姫が遠くへ――手の届かないところへ行ってしまうかのような錯覚に襲われる。
 姫が、奪われてしまう。でも、何もできない。
 苛々と、心の中の靄が回る。綿あめのようになった暗雲が、体をひどく、べたべたと重くする。
 地を踏みしめた小さな肉球が、夜の闇に溶けて、沈んでしまいそうな気がした。

 湖に着くと、彼らは目を見張った。湖を包み込む木々の影のドームの中で、一筋の青白い月光がまっすぐ射し込み、深い青緑色の水を透き通らせている。白い鳥居は水の蒼を映して、ゆらゆらと揺れているように見えた。黄緑色の光がいくつも漂い、虫の声、フクロウの声、蝙蝠の羽音が無数に聞こえてくる。まるで、生き物たちが平和を求めて集まっているかのような、安寧の楽園がここにあった。
 誰も、声を出せなかった。自分たちが異物であるような気がしてならなかったのである。そして無意識に、この絶対的な平和を司るものからの排除を、心の底から恐れていたのである。
 しかし、その恐れは現実と化す。
 地の底から呻く怒りの音が、空気を、地面を震わせた。竜が、姫の手を握りしめる。
 目の前の湖が盛り上がり、うねる。次第に、体の形がくっきりし、うろこの一枚一枚が、牙が、ひげが、白い目が、浮き出てきた。

 枯れ果てた湖の上に、巨大な水の塊――蒼龍が君臨した。

――フ、ショ…………ナ、……、ク……ゥ…………。

 心臓をしびれさせるほどの低い唸りに混ざり、切れ切れの声が、竜の頭に響き渡る。
 竜は、懐中電灯を地に放った。角と牙を剥き、左手に青い刃を顕現させる。
 雫も、赤い石を輝かせ、角と牙を剥く。
 途端に、蒼龍が大きく口を開け、素早く迫ってきた。水でできた体とはいえ、無数の巨大な牙は、痛みを伴う死を容易に想像させる。
 雫はすかさず、両手を空へ伸ばした。森一帯から、泡粒のような魂が湧き上がる。それらを手中に宿し、彼ら三人を覆うほどの巨大な傘を創り上げ、ぶわりと開いた。瞬時に、勢いよく、蒼龍の牙が突っ込んできた。凄まじい力が迫る。竜は姫の体を背に引き寄せ、腰を低くし、刃を構える。柄を持つ雫の両腕が縮み、体ごと後ろへ押されていく。牙が食い込み、透明な傘の幕が、じわじわと溶けていく。
「……だめです! 耐えきれません……! よけてください!」
 言葉の終わりとほとんど同時に、傘は輝きとなって弾け飛んだ。傘の盾で耐えている間に、四人とも蒼龍の真正面から逃れていたため、転んだ程度で済んだ。しかし即座に、唯一左側によけていた雫に、蒼龍の爪が振り下ろされた。
「雫!」
 陽の声が森にこだまする。からっぽな洞穴で、虚しく残響するように。
 だが、案ずるには及ばない。
 雫は、寸手のところで、ロケットから父母の魂を取り出し、薙刀の形にして、爪を弾いていた。その反動で十メートル先の樹に背中を打ち付けていたが、森の中に入ったが好機、暗闇に身を隠した。
「斎王くん! 蒼龍の体は水でできています。ですが、物理攻撃は可能です! 薙刀の刃で、うろこに傷をつけることができました。斎王くんの刃なら、蒼龍に対抗できるはずです!」
 蒼龍の目は、闇の奥には届かないのだろう。声と足音をたよりに、しばらく空を廻り、雫を探しているようだったが、やがて音がなくなると、竜たち三人に向かって咆哮した。

――フジョウ、ナ、モノ……クウ…………!

 先ほどよりもはっきりと、言葉が脳の奥に響く。
 竜は姫の手を離し、無数の大太刀を出現させた。切っ先が地に突き刺さり、姫を隠す柵となる。
「ここから動くな。すぐに終わる」
 竜は、大木の枝に手をかけると、一気に駆け登った。左手に青い刃を宿し、蒼龍の首に、鋭く投げ飛ばす。蒼龍は身をくねらせてうろこで弾くが、竜の攻撃は終わらない。次から次へと太刀を、大太刀を顕現させ、蒼龍めがけて投げ下ろす。青き豪雨の中、蒼龍の咆哮が夜闇に轟いた。三振りの大太刀が、尾に刺さったのだ。空を舞っていた蒼龍が、刀の重みで地面に引き戻されていく。高い声を上げながら手足で地を掻きもがくが、深く地に突き刺さった切っ先に捕らわれ、動けない。
 好機。竜は、これまでにないほど大きく、鋭く輝く大太刀を顕現させた。
 幹を蹴って、跳ぶ。蒼龍の首をめがけ、一直線に。
 切っ先が、首に触れる。うろこに、ひびが入る。

 だが、その時。
 猛烈な風が、噴いた。

 竜の体が、森の奥へ押し飛ばされ、消えた。
 姫は陽を抱え上げ、あたりに目を凝らした。
 今の風は、明らかに変だ。ただの風ではない。
 鬼か、鬼人か――神宮団の仕業か?
「姫さん! 陽くん!」
 警戒し、肩をいからせる二人の前に、雫が戻ってきた。樹に打ち付けた背中が痛むのか、息を切らしている。だが、二人をかばうように氷色の薙刀を構え、蒼龍の反対方向、森の奥を睨んだ。
「誰だ、てめぇら。神宮団の連中か。まーた、蒼龍様を狙ってきたのか? え?」
 耳慣れない横柄な話し言葉、もたついた巻き舌。
 振り向くと、声の主は、空にいた。樹に座っているわけではない。空中に、仁王立ちで浮いている。足元には空気が渦巻いている。顔を見ると、額から一本の角が生えた少年だった。年は、彼らと同じくらいか、少し上だろうか。髪は月光に照らされ、真っ白に輝いていた。
 チッと舌が鳴る。
「てめぇ、神宮団団長の金魚のフンだな? ちょうどいい。ぶっ殺す!」
 少年は雫を睨み、九字格子くじこうしの描かれた紙人形を構えた。
「式神、捕縛! 急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」
 少年の指がさっと印を結んだ途端。紙人形が紐のように長く伸び、雫に迫った。雫は薙刀でその紐を絡め取ると、薙刀を球体に変え、紙人形を閉じ込める。――だが。
「くらいやがれ!」
 手ぶらになった雫に、少年の手がかざされる。途端に、爆風が降りかかった。こぼれ風から守るように、姫は陽を抱え、ぎゅっと体を丸めた。皮膚に、無数の鋭い痛みが走る。
「式神、捕縛! 急急如律令!」
 姫の体、背中から倒れこんだ雫の体に、紙の紐が巻き付いた。あまりのきつさに肺が苦しくなり、一瞬、息が止まる。吸い込む隙さえ与えずに、少年は、雫の胸を片足で踏みつけて着地した。
 そして、姫の顔を見て、はっとした。
「うっわ、カワイー! チックショー、神宮団じゃなけりゃなぁ……」
「待ってください! たしかに僕は、かつては神宮団の一員でした。ですが、今は違います! そこにいる彼女たちも、神宮団ではありません! 話を、聞いてください……!」
「うるっせぇ! 神宮団じゃなきゃあ、なんだって蒼龍様を殺そうとしやがる。俺は騙されねぇ!」
 少年の足に体重がかかり、雫の胸を強く押しつぶす。雫は痛みに呻いた。先刻、少年が解き放った風には、無数の見えない刃が仕込まれていた。もろに受けた雫は、体中、切傷だらけだった。雫を縛る白い紙に、赤い模様がにじんでいく。
「神宮団。てめぇらをぶっつぶせば、世界の平和は守られる。とどめを刺させてもらうぜ!」
 少年の半ズボンのベルトから、サバイバルナイフが抜かれた。
 しかし、その刃は輝かなかった。
 奇声とともに、大きな影が、彼らの真上から落ちていた。ひと悶着やっている間に、蒼龍の尾の三本の大太刀は、粉々に壊されてしまっていたのだ。
 白い髪の鬼人は、ニヤリと牙を剥きだした。
「ちょうどいい。蒼龍様にてめぇらを喰ってもらえば、一気に終わるぜ」
 そう言うと彼は、トンと地を蹴って風に乗り、背後の森の暗闇へ消えてしまった。

 残された二人と一匹は、紙人形に捕縛されたまま、身動きが取れない。動けば動くほど締まっていく。
 低い咆哮とともに、蒼龍の牙が、口が、迫ってきた。
 彼らは一斉に、目をつむった。

 金木犀の香りが、ふわり、と舞う。

 途端に咆哮は、甲高い悲鳴に変わった。
 姫が目を開けると、目と鼻の先に、肩ほど長く、やわらかいウェーブのかかった後ろ髪があった。薔薇の棘ほどの小さな角が、髪に隠れて二本生えている。自分よりも幼い子どもに見えた。
 蒼龍の目には小さな金色の矢が刺さっていた。蒼龍は蛇のように体を激しくくねらせると、乾いた湖のくぼみにとぐろを巻き、やがて水に戻っていった。
「あ、ありがとう……。あなたは、誰?」
 震える声を掛けると、その子は、振り返った。真ん中に大きくヒビの入った、黒い仮面をつけている。
「メイゲツ……!」
 雫が、緊迫した声を上げた。

 ――神宮団だ。

 姫は咄嗟に体を後ろにのけぞらせた。だが、距離は保てない。
 メイゲツ、と呼ばれた黒仮面は、そっと、姫の腕に触れた。少年の放ったこぼれ風を受けて、姫の左腕にも、小さな傷が無数についていた。
「お怪我はこれだけですか。そちらの、腕の中の方も」
「え? 私は、これだけで……」
「お、俺? あ、うん。なんとも……」
「そうですか」
 メイゲツは、ほっと息をついた。
「手当をしてさしあげたいのですが、この呪符が邪魔ですね。この呪符は、かけた当人にしか解けません。申し訳ありませんが、自分はこれにて撤退させていただきます」
 そう言うと、メイゲツはむせかえるような金木犀の香りに包まれながら、森の暗闇に溶け込んでいった。
「なんだったんだ……? なんで、神宮団が俺たちを助けた? 怪我の心配までして……」
「分かりません。ですが、奴らは意味のないことはしません。メイゲツの行動にも、必ず意味があるはずです。決して、心を許さないでください……!」
 雫の苦しそうな声が、喘ぐように訴えかける。姫はうなずきつつ、顔をしかめた。
「蒼龍はどうにかなったけど、どうしましょう。本当にこれ、あの子の言う通り、かけた本人にしか解けないのかしら」
「これ、陰陽術だ。式神だよ。間違いない。ちょっと俺、やってみようか」
 やわらかい体をねじらせて、姫の腕から脱出した陽が、姫の体に巻き付く紙人形をくわえた。だが、びくともしない。やはり、人間国宝の血が通っていようと、本人でなければどうしようもないのかもしれない。
 途方に暮れて、三人とも、言葉を失った。虫や鳥の高い声が、虚空にさらわれていく。
 一人分の足音が近づいてきた。竜が、戻ってきたのである。飛ばされた先で、どこかに落下したのだろう。額を切って流血し、手の甲で拭っていた。
 だが、姫の姿を見るなり、凍り付いた。
「何があった……!」
 竜が姫を縛る紙人形を力づくで破ろうと格闘している間、雫は、かくがくしかじかと端的に説明した。竜は引っ込めていた牙と角を再び生やして、青い刃の短刀を手に宿すと、紙人形を切ろうとした。しかし、竜の鋭い刃であっても、それを斬ることはできなかった。はさみで鉄パイプを切ろうとしているようなどうしようもなさが、竜の手に残った。
「……あそこか」
 竜は立ち上がった。怒りに燃えながら、もと来た道を、ものすごい速さで駆けていく。陽も、竜の後ろについていった。

 竜は、自らが落ちた所に戻ってきた。人一人分が横たわれる大きさのブルーシートが敷いてあり、缶詰、雑巾のようなタオル、火を焚いた後の炭が転がっている。
 竜が落ちた時には誰一人いなかったが、今は想定通り――いた。
 さなぎのような寝袋姿の、さっきの少年である。安らかな顔で眠っている。
 竜は怒りに任せて腹部を踏みつけると、首を絞めて、上体を起き上がらせた。さなぎ少年は充血した目を開け、しぱしぱと瞬きをした。
「今すぐ術を解け!」
「……神宮団。自分から来やがったな」
 さなぎ少年はニヤリと牙を剥いた。いつのまにか一本角が額に生えている。彼の体の周りから、不思議な風が渦巻いた。
「待て! お前、伊達だてひかるだな? 三十年前、じいちゃんに弟子入りしてたっていう……」
 風が、鎮まった。黒猫を目に映しながら、眉をひそめる。
「あれ、さっきの猫? なんだお前、しゃべれんの? ジイちゃん?」
「俺は、影宮 陽。じいちゃんは、影宮 聡一郎だ」
 さなぎ少年は、みるみるうちにパアッと顔が明るくなった。
「師匠の、お孫さん?」
 どす黒い怒りの塊に首を掴まれていることなど、なんのその。
 満面の笑みのさなぎ少年――伊達 光の背景には、ポップな花が漂っていた。

「本っ当に、すいませんでした!」
 光は額を地面にこすりつけ、土下座をしていた。竜は容赦なく白色の頭を踏みつける。
 姫と雫は無事に、紙人形から解放されていた。
「竜! やめなさい! えっと、伊達 光さん? たしかにちょっと困ったけれど、でも、警戒するのは当然です。解いていただいて、ありがとうございました」
「女神か! その腕の傷、治らなかったら、俺が結婚して一生償います!」
 鼻の下を伸ばして姫を見つめる光のつむじを、竜が思い切り踏みつける。光の額が、再び地面にぐりぐりとこすりつく。雫が慌てて、傷だらけの体を引きずりながら、竜に近づいた。
「斎王くん、僕にも責任があります。そもそも、僕がみなさんといたから、このようなことになったのです……。ご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした」
 竜の怒りはおさまらない。体重が、白い頭にのしかかる。怒りの声が、哀れに地中に沈んでいく。
「いい加減にして!」という姫の稲妻で、ようやく、竜の足は両方とも地に着いた。
 砂で汚れた白色の髪をはらい、光は立ち上がった。竜の足元に、砂が混じった唾をペッと吐く。
「ったく、覚えてやがれクソ野郎め……。いやぁ、女神様、助かりました! 金魚のフンも、思ったよりいい奴だなぁ。それ、紙で指切ちまったかんじの痛みだろ。意外と深いから、ちゃんと消毒しろよ? ま、鬼人だから明日には治ってると思うけど。つーか、神宮団抜けたとか、ほんとかよ? じゃ、なんで蒼龍様を襲ってたわけ? いろいろ聞いておかなきゃなんねぇ感じすっけど、今、超眠いんだよな。お前ら、いつ帰るんだ?」
 三人は、竜を見た。
「俺たちは、蒼龍の力を手に入れに来た。手に入れるまでは帰らない」
「ふーん。じゃ、明日の昼過ぎに蒼龍神社の神殿裏に集合しようぜ。ちゃんと消毒して寝ろよ!」
 さんざん頭を踏みつけられたのに、光は溌剌とブルーシートの方へ帰って行った。
 すでに、二十二時を回っていた。

 門限を二十分も過ぎても、玄関は閉まっていなかった。彼らは軽く汗を流してから、各々怪我の処置を施した。
 雫は、咄嗟に腕で顔を守っていたため、幸い、顔に傷はついていなかった。その分、腕にも腹部にも脚にも、何重もの切り傷が刻まれていたが、傷口は既にふさがり、消毒をしてもさほど染みなかった。
 全身の消毒を終えて、雫は布団に倒れこんだ。打ち付けた背中の痛みをじんわり感じながら、天井の木輪を眺めていると、視界に黒い毛玉が映りこんだ。
「雫。助けてくれて、ありがとな」
「こちらこそ。陽くんに救われました。……伊達 光くん。彼が、陽くんのおじいさんのお弟子さんだったとは、驚きました。希望が見つかって、本当によかったですね」
 陰陽術を使っていたということは、陽にかかった術を解いてもらえるかもしれない。
 陽も、期待していた。だが、不安もあった。もしまた、できないと言われてしまったら――。
 陽は、雫の頭にぴったりくっついて体を丸めた。
「……なぁ。一つ、聞いていいか?」
「はい」
「雫の鬼人の力って……取り出した魂を他の体に移し入れるとかって、できるのか? 例えば……例えばの話だけど、俺の魂を、別の人間の体に、とか……」
「一度試したことがあるのですが、できませんでした。それができれば、陽くんを人間の姿にと、僕も考えたのですが……お力になれず心苦しいです」
「えっ、やったことあるの? あぁ、いやぁ……いいんだ。俺もさ、姫には猫のままでいいなんて言っちゃったけど……。でもやっぱ、猫のままだと、できないことが多い。姫のこともそうだけど、雫の力にもなれない。人間の姿になったって、変わらないかもしれないけど、でも、体を支えたりとかはできただろうし……」
 雫は、陽のやるせないツヤツヤの背中を、指の背で撫でた。
「今朝、シグレが四鬼の一体である、という話をしましたが、覚えていらっしゃいますでしょうか。四鬼の一体に、隠形鬼おんぎょうきという鬼がいるそうです。隠形鬼は、魂のなくなったもぬけの殻の人間や鬼人に乗り移る力を持った鬼だといいます。シグレは隠形鬼からその力をもらっているために、人間の皮を被っていられるのです。鬼も鬼人も、源は同じです。もしかしたら、隠形鬼と同じような力を持った鬼人がどこかにいるかもしれません。伊達くんでさえこの術を解くことが難しいようであれば、そのような力を持った鬼人を探しましょう。大丈夫です。きっと、もとに戻れますよ」
 陽は、「ありがとな」と笑った。雫の優しさが、折れそうな心の芯を支えてくれた気がした。
 雫は微笑みを唇に浮かべ、重い瞼を閉じた。
「陽くんは、本当にお優しいですね。姫さんのことのみならず、僕のことまで気にかけ、心を痛めてくださっていたなんて。……僕は、この時代に目覚めてよかった。あの時、病院で、陽くんが僕のことを友達と言ってくれた時、心からそう思いました。はじめて友達と言ってもらえたので、本当に、嬉しかったのです」
 胸が痛くなった。自分なんかが何の気もなしにつぶやいた「友達」という言葉で、こんなに幸せそうな顔をするなんて。断片的に聞きはしたが、底知れぬ暗い過去を抱えているのかもしれない。
 聞いたら、傷つける気がした。その一方で、「友達」と断言したのに、知らないこと、知りたいことをそのままにするのは失礼な気がした。
「あの……。もう一個、聞いてもいいか?」
「どうぞ」
「電車の中で、三十年前のこととかシグレのこととか、雫、いろいろ話してくれたじゃん。なんか俺、友達っていっちょ前に思ってたけど、雫のこと何にも知らないなって。だから、いやならいいんだけど、教えてほしいんだ。ほんと、いやならいいんだけど」
 雫は瞼を開けた。黄金の、真摯な眼差しが、心の中に注がれる。
「……陽くんの、こういうまっすぐなところが、姫さんの心を掴んでいるんでしょうね」
 穏やかに微笑んだ雫の顔は、しかし、すぐに曇った。
「陽くんがお望みなら、お話します。ですが、僕の話は、この世のどの物語より、おぞましく、けがらわしい。いやな気持ちにさせてしまうかもしれません」
 危機に瀕して声を上げた時より、メイゲツを睨んだ時より遥かに、嫌悪や憎悪で濁った顔をしている。人間のこんな表情ははじめてで、竜に殺意を向けられた時以上に、背筋が凍った。
 だが陽は、「聞くよ」とうなずいた。
 引き戻ることは、もうできない。したくない。

 雫は静かに、話し始めた。

 雫は、物心ついた時から鬼人の力に目覚めていた。
 母と、大病院の次期院長である父は、ただの人間だった。当時、鬼人は、災厄を運ぶものとして、人間に忌み嫌われていた。たいていの鬼人は、力が目覚めた途端に人間の親に捨てられ、施設に預けられた。道端に転がって死を待つ――そういう鬼人さえいる時代だった。
 だが、雫は施設に預けられなかった。両親の間には雫しか子どもができず、その上、世間体を何よりも気にする家柄だったのだ。
 両親は、雫をただの跡取りの道具としか見ていなかった。おぞましい化け物を飼うかのように、雫を鍵のかかった部屋に閉じ込め、夜になると、私有地である裏の森に捨てた。家と森とは鉄柵で隔てられていて、鎖状の鍵がかけられていた。朝になるまで、鍵は開けてもらえなかった。
 雫は毎夜、雨の日も、雪の日も、熱の日も、森の中で過ごした。小さな生き物たちの魂を集めてテントにしたり、かじりついてくる鼠のような鬼の魂を抜いて難を逃れたり、時には獰猛な鬼に追いかけられ、傷だらけになったりする日々を繰り返した。
 生きたいという意志はない。ただ、本能的に生き延びてしまっただけだった。
 七歳になると、江戸市随一の名門学園の初等部に入学することが決まっていた。やがて大人になった時にしっかり跡を継げるように。
 右手の中指に絆創膏を貼って赤い石を隠していたが、頭のいい級友たちは雫が鬼人であることに気付き、近づこうとはしなかった。
 両親の仕打ちも、級友の仕打ちも、皆が自分を見る目も、どうも思わない。雫の心と頭は、動くことを知らなかった。
 二年生に進級しても生活は変わらなかった。
 だが、ある秋の日。
 雫は、一つの物語に出会った。レオ・レオニの『スイミー』である。

 真っ赤な体の仲間の中で、唯一黒い体を持つ小さな魚、スイミー。ある日大きなマグロが彼の仲間を一匹残らず食べてしまう。生き残ったスイミーは絶望の中で、様々な海の生き物に出会い、元気を取り戻していく。放浪の果てに仲間に似た赤い魚の群れを見つけて喜ぶスイミー。しかし群れは、大きな魚を怖がって岩かげから出てこない。スイミーは彼らを励まし、全員で大きな魚の形を作る。ただ一匹、真っ黒な体のスイミーは、魚の目の役を買って出た。そして彼らは大きな魚を追い払ったのだった。

 雫の胸は、ドキドキした。国語の時間、全員で声を出して読む中で、一人、声がでてこなくなった。

 ――どうしてドキドキするのだろう。

 雫は何度も何度も、『スイミー』を読み返した。
 仲間を失い、ひとりぼっちになるスイミー。
 様々なものを見て、絶望から希望へのぼっていくスイミー。
 勇敢に戦い、平和を勝ち取ったスイミー。
 自らの違いをものともせず、強く生きるスイミー。

 違った色のドキドキが心の中で弾けた。
 やがて雫は、ドキドキすることが楽しくなった。物語を次から次へと手に取り、心を動かす。
 次第に、物語について「どうして」と繰り返し考える中で、頭も動き始めた。
 ドキドキが、感情であることを知った。
 うれしい、かなしい、たのしい、つらい――。
 自分のどんなドキドキが、どんな感情にあたるのか、だんだんと分類できるようになった。
 どういう時に、どうドキドキしているのか、分析できるようになった。

 そして、気付いた。

 森の中にいる時は、つらい。
 鬼が襲って来ることが、つらい。
 怪我をすることが、つらい。
 だから、鬼と戦う。魂を抜き取って、殺す。
 そうすると、つらくなくなる。

 雨の中、雪の中、熱の中、つらい。

 くるしくて、つらい。

 さみしくて、つらい。

 こわくて、つらい。


 どうすると、つらくなくなる?


 雫が自らの力を使って鉄柵の鎖を壊すことなど、もはや、造作もなかった。


 雫は、学校で、家で、物語を読みふけった。
 もう、夜は森に行かなくていい。一睡もせず、乾いた喉を潤すように、物語を次々と飲み干した。

 それから三日後の晩。家のチャイムが鳴った。はじめは何の音なのか分からなかったが、ノックの音がして、気付いた。学校で、教務室に入る時と同じ動作だ。誰かが、家に入りたいと合図をしている。
 雫は何も考えず、扉を開けた。
 そこにいたのは、老爺だった。黒い仮面をつけ、真っ黒な布を身にまとっている。しわくちゃな、枯れ枝のような手で杖を握り、丸く曲がった背骨を支えていた。今にも、ぽっきり折れてしまいそうだった。仮面を取ったら、ちょうど今読んでいるファンタジー小説の魔法使いとそっくりなのだろうな、と思った。なんだか、甘い香りがした。
「こんばんは、ぼうや。私は、ずっと観ていましたよ。毎日毎日、森で過ごしていたでしょう。さみしかったでしょう、つらかったでしょう。ですがここ三日、あなたの姿が見えなかったので、つい来てしまったのです。……おや、何かにおいがしますね。人間の肉が、腐っているような」
 雫は、なんだかとても難しいことを言われている気がして、首を傾げた。老爺は、「入っていいですか」と確認の言葉だけかけると、ぼんやり目だけ開けている雫の脇を通って、中に入っていった。雫はなんとなく、老爺の後ろについていった。
 玄関の奥のリビングに、腐りかけた肉体が転がっていた。
「これは、あなたの両親ですか」
「リョウシン……」
「お父さんと、お母さんですか」
「はい……」
「なるほど。あなたの力で、魂を抜いたのですね」
 テーブルの上に置かれた、いびつな形の黒い石を見て、老爺は口が裂けるほどの笑みを浮かべた。
「ああ……やはり、あなたは素晴らしい。極上の才能を持っています」
 老爺は父親の体に触れると、「私があなたの父になりましょう」と言った。
「私があなたを、大切に、大切に育ててあげましょう。そして、あなたの願いを――この世界を恨み、破壊したいという願いを、叶えさせてあげましょう」

 その日から、雫は父親の皮を被った彼と暮らすようになった。母親と老爺の抜け殻は彼が片付けたらしく、いつのまにかきれいになくなっていた。
 彼は、名をシグレと言った。
 見た目が父親の姿になったとはいえ、父親をお父さんと呼んだことのない雫は、彼を「シグレさん」と呼んだ。
 夜になると、山奥の古い屋敷に連れて行かれた。そこは、大正時代の美しい洋館だった。黒く重たい石で固められた外壁は、とても冷たく見えた。赤を基調とした室内には、高級な家具や食器が並び、赤い花の模様のランプが飾られていた。窓や扉のアーチにも、赤い花の模様のステンドグラスが装飾されていた。
 講堂らしき部屋を覗くと、一番奥に、黒い着物をまとう女性が描かれた、巨大なステンドグラスが飾られていた。そして、シグレと同じように、黒い服と仮面を身に付ける人たちがいた。ステンドグラスに向かって片膝をつき、声を揃えて、同じ言葉を繰り返し唱えている。
 我が存在は、我が主のために――と。
 皆、世間から疎まれ、恨みを募らせ、世界の破滅を望む鬼人たちなのだとシグレは言った。
 雫は、黒装束と黒い仮面を与えられ、神宮団に入団した。
 神宮団では、それぞれの団員が、それぞれの役割を担っていた。まだ幼い子どもたちに力の扱い方を教える者たち、鬼神の魂を探し求める者たち、陰陽師を暗殺する者たち、鬼や鬼人を殺し、自らの右手中指の宝石を花咲かせようとする者たち。
 雫だけは、団長であるシグレから、毎晩さまざまな教えを受けていた。鬼神の思想、信仰の基本、鬼や鬼人の基本知識、鬼人の力の使い方や、戦略の立て方、戦闘向きの身のこなし方、催眠の方法、上手に世を渡りながら隠れるための処世術。
 やがて、雫はシグレに聞いた。
「僕はこれから、ここでどんな役割をもらえるのでしょうか」
 シグレは、やさしく微笑んだ。
「あなたは神宮団の、鬼神様の悲願を叶える鍵となる、特別な役割を担ってもらうと決まっています。これは、その時までしっかりと生き、その役割を果たすための準備です。心して励んでください」
 黒く、小さな魚が、心の中で泳いだ。

 物語で心を耕し、知能も見違えるほどに伸び、一人前に信仰の言葉を扱えるようになった少年は、目にも止まらぬ速さで、幹部に位置づく地位を築いていた。各隊が手こずると作戦を与え、または自ら先導して必ず成果を上げさせた。
 ――僕は、この群れの黒い目になれている。
 そんな自信が嬉しくて、雫はますます成長を続けていった。
 シグレは、鬼神の復活を遂げるその日まで雫を大切に生かしておくつもりではあったが、この程度の戦闘で雫が敗北するはずがないと、自由にさせていた。
 そして、雫が望むものは全て与えた。雫が興味を持った古書の読み方を教え、授業参観も学校行事も、かかさず足を運んだ。

 雫はふと、シグレのすすめで写真に変え、ロケットに閉じ込めていた父母の魂を眺めて、数年前の自分を振り返った。
 心が空っぽで、本能だけで動いていたかつての自分。
 何も感じていなかったが、あの頃の自分は絶望の底にいた。
 だが、今は、希望の中にいる。
 あの黒い魚のように、役割を得て、様々な物語やシグレと出会い、心を動かしながら。
 ――ああ、素晴らしい。生きていて、本当に良かった。
 嬉しさが体中に広がって、雫は生まれてはじめて、涙を流した。

 迷いが出たのは、中等部に上がったばかりの頃――ちょうど、鬼神の魂を宿した女が見つかった頃だった。
 鬼神と呼ばれた女は、もうすぐ魂の灯火が消えてしまいそうな老婆だった。一人で立つことはおろか、食べることも、話すこともできない。それでいて目だけはぎらぎらと、憎しみの色で燃えている。白髪の骸骨のような風貌に似合わない、真っ赤なベッドにいつも横たわっていた。
 日に日に、神宮団の団員は少なくなっていった。陰陽師との戦いで敗北が続いているせいもあった。だがそれよりも、鬼神が団員を喰べた数の方が遥かに多かった。
 団員が減っても、シグレは嬉々としていた。
「まもなく、あなたが真の役割を果たす時が訪れます。陰陽師の奴らも鬱陶しいですが、それらに負ける程度の団員など不要です。あなたはもう陰陽道の件には関わらず、あなた自身の身を案じて過ごしなさい」
 どんな役割か。それは聞かずとも、なんとなく分かっていた。鬼神の復活に必要な鬼の魂を、ありったけ集めるという役割だ。
 やがて、団員たちが喰べられて、シグレと二人きりになったら、自分の力は使われるのだろう。
 そうしたら、この世界は滅びるのだ。
 それは、どんな光景だろう。
 人間や動物は当然いないだろうし、家も、草も、木も、水も、何もかもなくなり、乾いた土と風と空だけになってしまうのだろうか。または、土も風も空もなく、地球が丸ごと消えてしまうのだろうか。
 今まで何百と本を読んだが、滅んだ世界の姿は、どこにもはっきり書かれていなかった。

「シグレさんは、世界が滅んだら、どんな景色になると思いますか?」
 朝食のホットケーキを切りながら、雫が尋ねた。
 シグレはメープルシロップをたっぷり浸したホットケーキを口に含み、じっと目をつむると、 熱い紅茶をすすった。それから、にこりと微笑んだ。
「それは、私たちのような者が想像しうるものではありません。全ては鬼神様の理想通りになるのですから」
「そう、ですね。……では、シグレさんは、鬼神様のためという理由以外に、世界を滅ぼしたい理由が何かあるのですか」
「いいえ。鬼神様の悲願を果たすこと。それだけです。そのために私は、四七〇年生きてきたのですから」
 シグレは、「早くお食べなさい。遅れますよ」と促した。もたもたしていると、八時の「誓いの時間」に遅れてしまう。その後の予定も、遅れてしまう。
 この日は休日。二人で本屋に行き、雫の新しい本を買った後、ランチをしてから帰宅し、雫の読み散らかした本を整理することになっていた。いつもの休日の過ごし方だ。
 だが、時計を見ると、まだ七時半だった。雫は、「大丈夫ですよ」と答えると、切りっぱなしのまま放置していたホットケーキをフォークで刺し、ぐったりした生地をナイフで支えた。冷め始めたホットケーキは、溶けたバターが絡まり、シロップが生地に染み込んでいた。口の中に押し込むと、甘さがどろりととろけた。
「シグレさんは、今の生活、幸せですか」
 シグレが、最後の一口を飲み込んだ。喉がごくりと波打ったのが見えた。
「さあ。幸せという概念は、そもそも鬼にはないのかもしれませんね。鬼神様の悲願さえ達成できれば、もしかするとそういった気持ちも生まれるのかもしれませんが」
 シグレは、雫の紅茶に角砂糖を二つと、たっぷりのミルクを入れて、くるくるかきまぜた。
「退行……赤ちゃん返り、というやつですか」
「違います。気になっただけです」
 勝手に甘くされた紅茶を押し返し、シグレの飲みかけを引き寄せた。

 それからというもの、雫の迷いを感じ取ったのだろう、シグレはことあるごとに、なぜ世界が滅びるべきかを説いた。人間は自分勝手で、自分たちこそが至高の存在だと位置づける。鬼人も、鬼も動物も、人間のいいままに扱われ、不幸ばかりが降ってくる。たしかに、雫もそうだった。

 それでも――。

 積めなくなって床に散らばった本たちを見て、雫は思った。
 人間も、不幸なのだ。だから、こんなにたくさんの物語が生まれた。
 不幸の重さは違っても、生き物には平等に不幸が降る。そして、不幸があるから、幸福が生まれる。
 幸福を集めることは、真夜中の砂浜で貝殻を探し集めるくらい、稀で、途方もないけれど。
 それでも、見つけた時の心のきらめきは、何にも代えられないほど美しい。
 不幸のあとの幸福、絶望のあとの希望。
 美しさであふれるこの世界の滅亡を、雫は恐れるようになっていった。

 雫が中学二年生になった時、神宮団はたったの六人になっていた。鬼神の魂を宿した老婆は、意識を失うことが多くなっていた。呼吸器をつけて、なんとか息を保っていた。
 シグレは、蒼龍討伐で不在のメイゲツを抜いた四人を集めて、これからの話をした。
「力は少しお戻りになったようなのですが……残念ながら、この体では動くこともかなわないようですね。他の体にお移りになる体力も残っていらっしゃらない。生まれ変わりになられる時を待つのが良いでしょう。今までの傾向から見ると、鬼神様が生まれ変わるのはおよそ三十年後。それまで、あなた方には凍結していただきましょう。万が一、途中で命が尽きてはもったいない」
 雫以外の三人は、力を蓄え、右手中指の石の蕾が今にも咲かんと膨らんでいる、鬼神への捧げ物たちであった。彼らは、素直にうなずいた。
 シグレが両手を大きく、空に掲げようとした――その時。

 雫は思わず、彼の左袖を掴んでいた。

 当たり前の日常、それでもこの上なく幸せな日常が――世界が、終わってしまう。

 心の中の黒い魚が、反対の方向に向き直るのを感じた。

 ――僕が目になろう。

 魚の台詞が、雫の決意に変わった。

「僕は、できない……! この日常を、世界を、失うことなんて……!」

 シグレは、雫の手を振り払い、左手で、雫の首を掴んだ。軽々と、発達途上の体が持ち上がる。
 必死に抵抗しようと両手でシグレの左手を掴むが、びくともしない。首筋がちぎれそうだ。頸動脈が詰まって、頭が熱くなる。かろうじて鼻で息をして、かすむ視界にシグレを映す。
「あなたの残忍さを気に入って、今まで大切に育て過ぎました。まさか、無駄な自我が芽生えるなんて。三十年、頭を冷やしなさい」
 仮面の中から、霧雨が降ってきた。顔が雨に包まれ、溺れてしまうと思った矢先、体中が溶けていくような感覚に飲まれていった。

 黒い仮面の中に肉体ごと封印する術。それが、「凍結」というものだったのだろう。

 目が覚めると、黄ばんだ古い天井が見えた。
 見覚えがある気がしたが、ぼんやりとして思い出せない。
「おはようございます」
 体を起こし、声の方を振り返ると、長い髪の青年が、破れた赤いソファに腰かけていた。雫より、三、四歳ほど年上のように見えた。ちょうど、骨ばった白い右手で、カップを持ち上げるところだった。
 話し口調と不敵な表情、紅茶をすする優雅な仕草で、彼がシグレであることが分かった。そして、赤い花の装飾が施されたランプやステンドグラスを見て、ここが神宮団の本部であること、凍結されて三十年経ったことが分かってきた。
 雫の父親は、五十を超えていた。三十年経って、古くなった体を捨て、またどこかから体を拾ってきたのだろう。妥当なことだ。
 それでも。
 雫が必死に握っていた、シグレと自分を結ぶ糸が、ぷつんと切れる音がした。
 やけにあっさりと。そして、はっきりと。

 雫は、立ち上がった。

 シグレは向かいにからのカップを置き、紅茶を注いだ。だが、雫は、座らなかった。
 見慣れないシグレの横顔を、静かに見据えた。
「僕の心は、三十年前に伝えた、あの時のままです。僕は、世界を滅ぼすことはできない。その手伝いをすることも、できません」
 シグレは雫を目にすることなく、熱い紅茶を喉の奥に流しこんだ。長い髪がパラパラと崩れ、細い首すじが覗く。
「そうですか。残念ですが、仕方がありませんね。あなたの力は惜しいですが、こうなってしまったのも、私の育て方が悪かったからでしょう。好きになさい。世界に絶望したら、また戻ってくればいい」
「戻りません。僕は、あなたを止めます」
「止まりませんよ。鬼神様は再び、この世界にご降臨していらっしゃるはず。あとはお姿を探し求め、我々を捧げるだけ。あなたはどこかに隠れて、この世界と一緒に滅びてしまいなさい」
 雫はこぶしをぎゅっと握りしめた。屋敷を飛び出して、変わってしまった街を無我夢中で歩く。
 家は、跡形もなく取り壊されていた。まっさらな砂地を見て、やっと力が抜けた。手のひらに爪が食い込み、真っ赤になっていた。

 あの時手に入れた幸せな世界は、もう、なくなってしまった。

 虚しくて、痛くて、苦しくて――。雫は、二度目の涙を流した。
 だが、生きていれば、世界があれば、この胸の痛みに勝る幸せが、きっと、再びやって来る。
 雫は今一度、心の魚に、世界の滅亡を止めることを誓った。

 それからは催眠を頼りに、いろいろなところを転々として生きてきたという。やがて、全戦無敗の鬼人が武蔵市にいるという噂を聞いた。その特徴から、彼が蒼龍刀を扱える人物だと想察し、武蔵市にやってきた。そして、武蔵六中に行き着いたのだという。

 雫は苦しそうに顔をゆがめて、唇を閉じた。
「……ありがとうな、雫。話してくれて」
 陽は、まっすぐに雫を見つめた。微笑みとも無表情とも取れぬ、やわらかな曲線を口元に描いて。
 雫は、ふっと頬をゆるめた。
「長話になりました。そろそろ眠りましょう」
 電気が消えた。真っ暗な部屋に、穏やかな寝息が流れた。
 陽は、瞼を閉じて、これでよかったのかな、と考えていた。
 雫に、返すべき言葉が分からなかった。
 ありがとう、しか言えなかった。もっと何か、言えることがあったのではないか。
 頭の中がぐるぐるして、むしゃくしゃする。
 それでも、聞いて良かった。
 何も分からなかったさっきより、雫が近くなったと思えた。これからは、どんなに倫理的に欠けている言動があっても、理解してやれる気がした。
 そして、人の根深いところを知ることが、強いつながりを生むことになるのだと気付かされた。今まで何となく人と付き合ってきた陽には、はじめてのことだった。
 姫のことさえ、自分は良く知らない。
 自分と出会うまでの姫の人生、そして竜とのこと――。
 聞かなければならない。聞けば、きっと今よりお互いを好きになれる。
 それでも――やっぱり、できない。
 竜が、姫の人生にどれほど深く存在しているのか。
 それを確かめるのが、陽は、どうしても怖いのだった。

 扉が閉まる音がした。汗を流した姫が、脱衣所から出てきたのである。
 竜は、既に布団に潜って眠っていた。
 姫は、竜の枕元に膝をついた。額から血を流していたので、きちんと手当をしたか、心配になったのだ。少しめくると、短い髪が覗いた。額の傷はふさがり始めているものの、絆創膏もガーゼも当てがわれていない。
「もう」
 呆れた声が漏れる。姫の手はそのまま、竜の首元まで掛け布団をめくった。

 室内が、しんと静まり返る。息の音さえ、聞こえない。
 ゆっくり、竜が瞼を開けた――その時だった。

 強い力が、竜の首を握りしめた。

 姫の手――しかし、少女の力ではない。今にも、骨も筋も粉々にりつぶされてしまいそうだ。
 抵抗しようと細い腕に触れると、ざらり、とこまかな傷跡に触れた。咄嗟に手を引っ込める。
 高笑いが、耳を突き刺した。
「何と愚かな男か。こんな傷のために、自分の命を棒に振るとは」
 ふっと、彼女の力がゆるむ。竜はせき込んで、芋虫のように体を縮めた。
 竜の襟を、華奢な指が乱暴に掴む。力なく、竜の上体が起き上がる。
「狸寝入りをするなど、浅ましいにもほどがある。私とまみえることを覚悟で、この女との同室を望んだのだろうに」
「うるさい。とっとと姫に体を返せ。――鬼神!」
 彼女は、姫の体のまま、姫の顔のまま、黒く変色した髪をさらりと揺らして笑った。額の縁から、うねり曲がった細いつるが伸び、後頭部を抱いていた。瞳の奥には赤い花が咲いている。
「戻ったところで、何をして遊ぶというのだ。この女は、お前と血を分けた姉弟。そういう呪いがかかっている。しかし、まだ諦めていないか。いい心がけだ。もがき続け、絶望するお前の魂を、もっと私に見せるがいい」
 右手が、竜の胸元に伸びる。中指に赤い蓮の花が咲き誇ると、竜の心臓に、巨大な手にひねりつぶされるような激痛が走った。痛みに呻きながら必死にこらえるも、喉から血があふれてくる。
 右手を離し、彼女は嬉しそうに、竜の口からこぼれる血を手のひらに掬った。
「実に久しぶりだな。あの男が傍にいる時に現れてはつまらないと思い、出てくるのを我慢していたのだ。今晩は存分にその魂をいたぶってくれる」
 嬉々としていた表情は、たちまち憎悪に満ちた。瞳の奥の花が、咲き乱れる。
 白い両手に、首を握られる。背中が、硬い布団に打ち付けられる。わずかな重みが、体にかかる。
 ぎゅっと指に力が込められ、竜の体はのけぞった。真っ黒い憎悪が稲妻になって、竜の全身をほとばしる。
「憎い……憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い……! またも、私を殺そうというのか! そのために、ここにきたのだろう! 蒼龍の力を得るために……! ああ、憎い……貴様の魂を、消し炭にしてやりたい……粉々に、壊してやりたい……!」
 両手が、パッと離れた。竜は深く息を吸い込み、姫の顔をした鬼神を睨む。
 彼女は、ニヤリと口元をゆがめて、再び嬉々としていた。
「しかし、今はまだ殺しはしまい。存分に生き地獄を見て、果てに絶望して死ぬがよい。お前は愛する者に決して愛されず、報われることなく、死んでいくのだ」
「俺は、それでいい。姫を、幸せにできるなら……!」
「夢物語よ。お前はこの女を救うことさえできない。蒼龍を得ようが得まいが構うまい。私を消滅させたければ来るがよい。この女の魂も道ずれだ。お前の魂が絶望に飲み込まれるさまを見るのを、楽しみにしていようぞ」
 高笑いが頭に響く。竜は、ぎりっと歯噛みした。憎悪にまみれた二人の瞳が交差する。
 ぷつん――と、赤い瞳が、色を失った。電源が切れた機械のように。
 力なく、姫の体が胸の中に倒れこむ。小さな寝息を立てる姫の体を、竜は静かに抱きしめた。
「大丈夫だ。俺がお前を鬼神から解放する。必ず――」
 やわらかな栗色の髪に、竜はそっと、頬で触れた。

 朝七時。三人と一匹は、雫と陽の部屋にて、朝食をとった。
 黒髪をぴちっと一つにまとめた年配の仲居が給仕だったが、昨日の仲居ほど甲斐甲斐しくなく、食事を並べ、ごはんを盛りつけると、颯爽と出て行った。
 陽は、怪訝な眼差しを竜に向けた。姫がどうもしょんぼりしていて、食欲もないのである。
 ひゅっと動いて、あぐらをかく竜の膝に爪を立てる。
「お前、何かしたんじゃないだろうな!」
 竜は目も合わさず、裏手をつかって、熱い茶を黒い毛玉に叩き込んだ。ギャンと飛び跳ね、避難してきた陽の毛皮に、姫は慌てて、冷たいお絞りを当てがった。
「ひどいことしないで!」
 竜はつんとすねて、海苔の袋を破いた。
「姫さん、お疲れですか?」
 雫が、心配そうに首を傾げる。姫は、「ちがうの……」とつぶやき、自らの爪に目を落とした。
 朝、目が覚めて、ふと竜の方を見ると、竜の布団が、浴衣が、血まみれになっていた。そして、姫の爪のふちにも、こびりついた赤茶色の跡が残っていたのだという。
「深夜に虫に刺されて、怪我のところを掻き壊したんだ。血が止まらなくなって起きたら、姫も起き出して……。寝ぼけたまま手当てしてたから、覚えてないんだろう」
「なんだよ。やっぱお前のせいじゃん。人騒がせな奴だな」
 陽は竜を一瞥するも、竜から一瞥を反撃され、ふんと目をそらした。
 姫は、合点できなかった。だが、何も分からない。
 行き止まりで立ち尽くすような姫の表情を、雫は、しんと見つめていた。
 水のように静寂に、氷のように尖鋭せんえいに。

 彼らは、小さく古めかしい温泉街を散策した。打ち水で濡れた石畳を歩いていると、「名物」と書かれた暖簾を見つけた。ここの名物は饅頭ではなく、「龍形焼りゅうかたやき」という龍の顔の人形焼のようなものらしい。試しに買ってみると、昨晩の戦いが思い出された。
 土産屋などをぶらぶらして、蕎麦屋で昼食を済ませると、彼らは約束の場所に向かった。
 そこにいたのは、金色の髪をした少年だった。ゴテゴテしたピアスやらネックレスやらをふんだんにつけ、だぼついたズボンのポケットに手を突っ込んで、壁にもたれかかっている。汚れた路地裏にたむろして、煙草を吸っていそうだ。あまりの柄の悪さに、目にしただけで足が止まった。
 少年は、おびえた目に気付かないのか、はたまたそんな目に慣れているのか、屈託のない笑顔で、「よぉ!」と手を挙げた。
「姫ちゃんだっけ? 腕の怪我、大丈夫だった? 元金魚のフンくんは? あっ、坊ちゃん! うっす! お疲れ様っす!」
 せわしなく、竜以外に一通り声をかけると、彼――伊達 光は歯を見せて笑った。
「で、どっから話すよ?」
 光は、そうやって聞いたにもかかわらず、若干の沈黙にも耐えられないのか、「じゃあ、俺のことから」と、前のめりに話し出した。
「俺の名前は伊達 光、十五歳。力は、『風』! 陽お坊ちゃんのおじいさんの弟子! 三十年前ぐらい? 神宮団の奴らが陰陽師狩りしてやがってよぉ。影宮家の家宝の蒼龍刀に蒼龍様入れて本物にすりゃあ、陰陽道も世界も守れんじゃね? って思って、ここに来たわけ!」
 しかしその時、神宮団の子どもが蒼龍を消失させようとしていた。そこで、蒼龍を守るため、奴に戦いを挑んだ。奴の仮面を割り、破片が服に入り込んだ時、突然、体が水のように溶ける感覚がして、気が付いたら三十年経った世界にいた、というわけだった。
「三十年経ったのには、まぁ、気付いたけどよぉ。蒼龍様ゲットしてから帰るつもりだったから、しばらくここで神宮団が来ねぇか、野宿して見張ったり、蒼龍様を封印できねぇか、やってみたりしてたわけ。一年半くらい? 日中に温泉街の蕎麦屋でバイトしながらな! ンでも、あの野郎も全っ然来ねぇし、封印も全っ然できねぇから、いったん影宮神社に帰ってみたわけ。そしたら、電車は古ぼけてんのに、駅が新しくなってて、髪の毛サラサラストレート系女子が増えてて、街がマブいことになってて! もう、大っ興奮よ!」
 ついここ二週間ほどのことらしい。影宮神社の社務所にも上がり、陽の父母が亡くなったことや、孫である陽がいることなどを知ったという。陽の祖父にも、陽にも会いたいとは思ったが、夜にも関わらずいなかったので、どこかへ泊りに行っているのだろうと諦めたそうだ。
 ここまで話して、光はヤンキー座りをした。陽の小さな両手を、指で掬う。
「そんで、坊ちゃん。師匠はお元気で?」
「数か月前に神宮団のシグレに襲われて、手は使えなくなったけど、元気です。今は、病院に入院してて……」
 光は、目を見開き、固まった。たちまち、大粒の涙があふれる。
「師匠……そんな。俺がいらねぇ意地で、帰らなかったばっかりに……」
 雫はすぐさま、光にハンカチを手渡した。光はハンカチを顔に押し当て、しばらく涙を流していたが、やがて思いっきり鼻をかんで、そのまま雫に返した。
「そんで、坊ちゃんがそのお姿なのは、神宮団との戦いで……?」
「いや、俺は、そこのむっすり野郎に……」
 言い切らないうちに、光は大きく舌打ちをして、竜にメンチを切った。ズボンに手を入れ、大きく胸を張り、竜の体に迫っていく。顎を上げて見下ろし、目を剥いて睨む。
「てめぇ、坊ちゃんに何しとんじゃゴルァ、えぇ?」
 さながら、極道である。しかし竜は微動だにしない。竜の方が背が高いので、上から睨み返すと、よっぽど極道少年より凄みがあった。お互い一歩も引かない睨み合いに、雫が笑顔で割って入った。
「斎王くんはやっていないとのことで、犯人はまだ、はっきりしていないんですよ」
 光は、視線を竜から離さず、ゆっくり体を離して、チッと舌を鳴らした。陽は、本当は「こいつがやったに違いない」と言いたかったが、せっかく場をおさめてくれた雫の手前、言葉を飲み込んだ。
「光さんさ。俺のこれ、実は陰陽術によるものなんだ。じいちゃんには解く方法ないって言われてるんだけど、何か分からないかな」
「へえ、猫になる術とかあるんすね。坊ちゃんが自分にかけたんすか? 相手にかけた術が、跳ね返ったかんじっすか?」
「跳ね返った、のかなぁ。俺、才能なくって、適当にやったらこうなっちゃって……」
「適当でこんな珍しいのできるなんて、天才っすよ! よっしゃ! できっか分かんねぇけど、研究してみるっす!」
 光が、「任せてください!」と満面の笑みで胸を叩く。彼の実力は祖父から何度か聞いたことがあった。昨日の戦いで、目の当たりにもしている。助かった。ほっと胸を撫でおろす。姫も同じだったようだ。ほっという息が重なった。
「そんで、蒼龍様を殺そうとしてたのは、なんで?」
 ぱっと切り替わる話題に、雫がすぐさま対応した。
 自分が神宮団を去った理由、陽たちが神宮団に狙われていること、鬼神や四鬼をはじめ、神宮団に対抗する力を得ようと考えたこと、竜が蒼龍刀のもとである青い刀を顕現させる力を持っていること。
 光は、すぐに納得した。
「でもよぉ。殺したら死ぬっしょ? 蒼龍様って鬼じゃねぇから、倒したところで鬼みたいに砂になって吸い込まれなくね? そもそも、蒼龍様って、もとは刀の中に宿されてたんだぜ。言霊縛りとかいうやつ? まぁ、あんな吠えまくってるだけの蒼龍様と話なんてできるわけねぇけど。でも、封印の方が可能性あるっしょ。俺はできなかったけど、蒼龍刀の使い手のてめぇならできっかもしんねぇぜ? 一枚、やるよ」
 光は惜しげもなく、白い札を一枚、竜に渡した。すでに力が込められているため、誰でも使えるらしい。本来、鬼や鬼人に使うと、その力を吸い込んで無力化してくれるものだという。
 竜は札をちらっと見て、礼も言わずにポケットにしまった。
「吠えまくってるだけ、か。俺には時々、咆哮に混ざって、言葉の断片が聞こえたが」
 姫も陽も雫も光も、目を丸くして首を振った。
「ほんとかよ! ちょっと話しかけてみろよ。言霊縛りのことは俺もよく知らねぇけど、ようするに口約束みたいなもんだろ? 今晩、やってみようぜ!」
 光は、「モノホンの蒼龍刀拝むの、楽しみぃ! おやすみぃ!」と、なんの屈託もない笑顔で、金色の髪を揺らしながら、森の中へ去っていった。
 聞いた話は全部信じてしまう。あっけらかんと自分を全部さらけ出す。そんな単純野郎の軽さが伝染したのだろうか。光を疑う余地もなく、彼らは自然と、共闘を約束していた。

十一

 昨晩同様、夕食を済ませ、二十時に旅館を出発した。湖に向かう木の根道の途中で、待ちくたびれた光と合流した。昨晩よりも少しだけ涼しく、虫の声ばかりがカラコロと聞こえた。
 湖に向かってゆっくり歩きながら、先導を歩く竜と、竜の手を支えにする姫を見て、光が不満そうに唇を尖らせた。
「あの野郎、いけ好かねぇ奴だと思ったが、まっすますいけ好かねぇ。戦い前に、美少女とイチャコラしやがって」
 雫は苦笑して、光にこっそり耳打ちした。
「あのお二人は、ご姉弟です。姫さんは、陽くんの恋人です」
「ギェッ!」
 素っ頓狂な声に驚き、樹のてっぺんから蝙蝠が飛び立った。
 竜がぎろりと振り返り、姫も心配そうにこちらを見つめた。
「わりぃわりぃ、ちょっとつまずいて」
 適当な言い訳をして、先導の二人の首をまっすぐ向かせると、男子三人のこそこそ話は再開した。
「失礼しました! ますます坊ちゃんの封印を解いて、顔を拝みたくなりましたぜ」
「いや、それは期待しないで。俺なんて学校で中の下って言われてるし……」
「ンだと? 影宮家の坊ちゃんを馬鹿にしやがって! どこのどいつだ! 俺がぶん殴ってやる!」
 光が吼えると、あたり一帯から蝙蝠の羽音が湧いた。姫が、「キャッ」と驚くのと同時に、竜がさっと抱き寄せる。そして、諸悪の根源をぎろりと睨んだ。光は、首を鳩のようにへこへこ動かして、「わりぃわりぃ……」と声を潜めた。
 姫と竜が、少し体を離して、見つめ合う。二人の輪郭が、月の中に浮かぶ。
 竜の冷たい目が、陽の黄金の目に、一瞬だけ触れた。
 また、このまま姫を連れて行かれてしまうような――奪われてしまうような気持ちになった。
 ――いやだ。
 もう、耐えられない。真っ黒な塊が、破裂した。
「待て、斎王!」
 前へ進もうとした姫が振り返り、足を止めた。それに合わせて、竜の足も止まる。
「お前、やっぱり、姫のこと、好きなんだろ! 姉弟としてじゃなく! そうじゃなきゃ、なんでそんな風に、姫を奪おうとするんだ! なんで……!」
 力いっぱいの醜い声が、闇に溶ける。
 姫は瞬きをして、「陽……」と小さくつぶやいた。
 竜は振り向きもせず、姫の手を引いた。
 雫と光が傍で何かを言うが、耳先を掠めるだけだった。悔しい気持ちばかりが体からあふれる。
 時折心配そうに振り返る姫を見ることができなくて、陽は、暗い足元の影に、目線を沈めた。

 湖にたどり着いた。昨夜観た景色なのに、神々しい輝きを放つ白い鳥居と、緑玉色の透明な水に心を吸い取られそうになる。
 竜は姫の手を離すと、二本の角を生やし、右手に太刀を握った。
「金髪。お前は陰陽術を使って姫の周りに盾を創れ。隙があったら蒼龍の体を捕らえるなりなんなりしてもいい。足手まといなことはするな」
「偉そうにしてんじゃねぇぞ、コラ。手伝ってやるんだから、これ終わったらジュース一本おごれよ、この野郎」
 雫は、陽を姫の腕に託し、羊のような角を出した。光も、額から一角を剥きだす。
 突如、水が天へと盛り上がった。白い鳥居の背後から、蒼龍が天高く立ち昇る。月の波紋が広がる空に、猛々しい咆哮が轟く。
 光は紙人形を四枚手にし、印を結んで、唱えた。
「式神、守壁しゅへき! 急急如律令!」
 紙人形が人間の三倍ほどの大きさになり、花びらのドームのように、姫と陽を囲んだ。

十二

 姫は、腕の中で静かに沈む陽の姿に目を凝らした。暗闇に溶け込んでしまった黒い体は、どんなに時間が経って目が慣れても、瞳に映ってくれなかった。
 ひとりぼっちになってしまったような苦しさが、胸の奥に流れた。
 陽の言葉から、心を探す。自分が紡ぐべき言葉を探す。
 あっているのか、分からない。それでも姫は、こくん、と息を呑んだ。
「……陽。ごめんなさい。私、陽を、いやな気持ちにさせてしまっていたわ。たとえ姉弟でも、陽の前で、あんな風に、手をつないだりしてしまって……」
 沈黙が流れる。真っ暗な、沈黙。体中が、冷たくなる。一秒が、永遠のようになる。
 どのくらい時間が経ったのだろうか。
 すっと息を吸い込む音が、沈黙を割った。
「……俺こそ、ごめん。姫と斎王が姉弟ってのは分かってる。だから、そんなはずないのに……。それでもやっぱり、あいつに姫を奪われるような気がしちゃったんだ。俺がこんな姿で、姫と手つないだりできないっていうのもあるんだけど。ほんとは俺がしたいのに、あいつはそれを、全部奪っていく。だから、なんかすごくもやもやして……。こんなこと言ったら、呆れられるかもしれない。けど……俺、弟だろうと何だろうと、姫を、とられたくないんだ! 誰にも、とられたくないんだ!」
 黄金の閃光が、姫の瞳にまっすぐ差し込む。姫はようやく、陽の姿が見えた気がした。
「私のこと、そんなに強く想っていてくれたのね。ありがとう。とっても嬉しい」
 暗闇の中なのに、姫の微笑みが、はっきりと映った。日だまりが差し込んでいるようだった。
 黒くなった心が丸ごと、受け入れられたような気がした。
「私、陽の気持ちを考えられていなかった。不安な気持ちにさせてしまって、ごめんなさい。でもね。どうか、私の気持ちを信じてほしいの。私は……」
 言葉の先を求めるように、陽は首を上げた。
 姫の心の奥から、やさしい声があふれた。
「――私は、陽に、恋をしているの」
 心の中に、天使のはしごが降り注ぐ。幸せな気持ちで、心が、体が、満たされる。

 ――ああ。姫が、好きだ。

 きらめきでいっぱいになった黄金の瞳を細くして、陽は、声を震わせた。
「……あの、さ。姫のこと、教えてくれないか。昔の話とか、斎王とのこと、とか……」
 本当はまだ、少し怖い。でも、聞きたい。聞けば、きっと今より、お互いを好きになれる。
 もっと近くなりたい。ずっと一緒にいたい。
 小さな足を、前に――姫の腕に、踏み出す。
 姫は、陽を大切に抱きしめた。そしてゆっくり、言葉を紡いだ。

十三

 光は自らの風の力でふわりと浮き上がると、式神のドームの上に仁王立ちした。
「よっし。これで姫ちゃんと坊ちゃんは安全。そんじゃ、行きますか!」
 光はニヤリと牙を出して、竜に手のひらをかざした。次の瞬間、竜の体は、爆風で空高く飛ばされた。
 動きに反応したのだろう、蒼龍が竜の体を追い、優雅に、神速に、天に昇った。竜は、向かって来る牙を青い太刀で受け止めた。少し弾かれ、間が空いた隙に、長いひげを掴んで、蒼龍の左横にぶら下がる。そして、ポケットから白札を出し、蒼龍のうろこに叩き付けた。だが、何も起こらない。蒼龍は奇声を発し、体をうねらせ、竜を振りほどかんと暴れまわる。
「光くん! 僕を、蒼龍の尾のところまで飛ばしてください!」
「合点承知!」
 雫が、森の命を両手に集めながら空を舞う。そして、蒼龍の後方に回ると、尾を巨大な球体で包んだ。球体は透明の鉛となって、蒼龍の巨体をぐんと地へと引き戻す。
 一緒に落下していく雫の体を、光の風が掬い上げ、ほとりにふわりと着地させた。鉛は浄化の力でみるみる小さくなっていくが、地に着くまでは持つだろう。地上近くまできたら、今度は尾を固定すればよい。雫はロケットの写真を槍に変え、待ち構えた。
 一方竜は、落下しながら、獰猛に暴れる蒼龍のひげを離すことができずにいた。何度か名前を呼びかけたが、反応はない。封印札も、言霊縛りも、失敗というわけだ。
 そうとなったら、戦うまで。
 手を離して間を取ってしまえば、体は蒼龍の鼻の下に移動してしまい、すぐに牙で体を貫かれるだろう。ならば、この状態から鼻を貫き、口を開けないようにしてしまえば良い。
 左手に太刀を顕現させ、振り上げた――その時。
 蒼龍の奇声に紛れて、言葉の断片が聞こえた。

――オマ、エ……アオ……イ……、アオ、イ……フジョウ…………。

 竜の手にあった蒼龍のひげが、泡になった。それだけではない。体が全て、水に戻っていく。
 竜の体を、飲み込んで――。

 雫の創った魂の鉛は役目を終え、飛沫のように弾けて消えた。
 空っぽだった土の穴は、もとの美しい湖に戻っていた。
「これは……撤退したのでしょうか」
「分かんねぇけど、撤退とおんなじ動きだ。だが、あいつを飲み込んじまった……!」
 虫と鳥の音が、静かな森に響く。水は波紋一つない。竜の気配も、ない。
 光は白いドームから滑り降りると、術を解除した。花が咲くように紙人形が開く。
 陽を大切に抱きしめながら、姫は、月の輪を見上げた。陽も首を回して、あたりを見渡す。
「終わった、のか?」
「……竜は?」
 蒼龍が、竜を飲み込んだまま、湖に戻ってしまった。
 雫の言葉を聞いた姫の瞳に、涙が揺れた。唇が白くなっていく。
「どう、しよ……竜が、もし……」
 陽は、こぼれ落ちた姫の涙を、頭で拭った。
 姫は陽をぎゅっと抱きしめ、「ごめんね……」と息を震わせた。
 雫は、再度魂を集め、大量の人の手を創りだすと、湖に沈め、捜索させた。しかし、土産物は石か魚ばかりである。
 光は、空に浮かび、もう一度、湖を上から見下ろした。月光に照らされ、透き通ってはいるが、やはり人影は見当たらない。
「斎王――! 帰ってきやがれ――!」
 金髪少年の咆哮が、湖に微少な波紋を広げた。

十四

 竜は、静かに目を開いた。音もない、無の世界。
 温かさに包まれながら、ふわふわと漂っているようだ。
 青白く揺れる、細い煙が見える。

――オマエ ノ タマシイ ハ ナゼ アオイ。

 煙が、言った。どこかで聞いたような言葉だ。竜は、落ち着いて、過去をつなげていった。
 自分は、蒼龍に挑んだ。空から地上に落ちながら、蒼龍の声を聴いた。蒼龍は水になり、自分を包み込んだ。
 そうか。ここは蒼龍の中。蒼龍の精神世界だ。目の前のあの煙は、蒼龍の魂なのだろう。
 竜は少し考えて、自分でもうまく説明できない問いに答えた。
「俺は、鬼人だ。だが、青い刃の刀を持っている。だからだ」

――アオイ……アア、アノ オトコ ト オナジ……ホントウ……ダ。

「俺はお前を、再びこの刀に宿しに来た」

――ナラバ、ミサダメヨウ。オマエ ガ ワレ ノ チカラ ヲ ツカウ ニ フサワシイ カ。

 竜は、鋭く煙を睨んだ。
「いいや、見定めるのは俺の方だ」
 煙は、風に吹かれたかのように、大きく揺れた。
 消えてしまうのではないかと思ったが、やがてもとのとおり、ゆらゆらと揺れた。
「お前は、不浄な物を浄化する力があると言ったな。鬼神は今、姫の――ある人間の体に宿っている。人間はそのまま生かし、鬼神だけを殺すことは可能か」
 煙は、しばらく静かにゆらゆら揺れた。

――ワレ ハ テンニョ ニ ツクラレタ。テンニョ ハ ワレ ニ シメイ ト チカラ ヲ アタエタ。ダガ アタマ ハ クレナカッタ。ダカラ ワカラナイ。

 ため息をつく竜に、蒼龍はゆっくりと言葉を続けた。

――タマシイ デハ ナク アノ イシ……チカラ ノ ミナモト ダケ タベレバ オソラク。

「可能性はあるんだな」
 返事の代わりに、煙は小さくうねった。
 竜は、右手を差し伸べた。
「俺と契約を交わせ。姫を鬼神から解放すると誓え。代償は、なんでもくれてやる」

――オニガミ ノ クビ デ ジュウブン ダ。ソノ カクゴ、タシカニ ミトメタ。

 煙は最後にそれだけ言い残すと、竜の右手中指の赤い宝石に吸い込まれていった。
 みるみるうちに、竜を包んでいた世界そのものが、指の中に入り込んだ。

十五

「竜!」
 気が付くと、枯れ果てた湖の真ん中に立っていた。姫の声が、一番に耳に届いた。
 森の傍で、ぽろぽろと白露をこぼす姫が目に入った。
 帰ってきた。竜は小さく息をついた。
「いやぁ、びっくりしたぜ。いきなり水がドバァーッて、真ん中に吸い込まれていったと思ったら、お前が立ってんだもんな!」
「斎王くんの体に、吸い込まれていったように見えました。蒼龍の力を得ることができたのですね」
 二人が竜に近づいて、口々に言葉をかける。
 だが、耳が、変だ。触れるほど近くにいるのに、遠く聞こえる。
 言葉の途中途中で、耳の奥が、コポコポ、と鳴る。
 音は次第に大きくなり――蒼龍の声が、聞こえた。

――アイツ ダナ、オニガミ ハ。

 水面のように揺らめく瞳が、自分の意思とは別に、勝手に、姫を捉えた。
 竜の様子がおかしいことに、四人は気付いた。ここに、戦うべき対象はいないはずだ。それなのに、こめかみから角が伸び、右手には青い刀が握られている。刀も、いつもと違う。白い煙が、青い刃に巻き付いて、揺れている。
 竜の体はいつのまにか、疾風のごとく飛び出していた。姫に向かって、まっすぐに。
「斎王くん!」
 雫が叫んだ時にはもう、青い刃は、地に膝をつく姫に向かって振り下ろされていた。

 その瞬間、刃を、透明な花が包んだ。咄嗟に振り上げた姫の右腕から、力が発動されたのだ。
 あまりの衝撃に、姫に抱きしめられていた陽は、ころころと転がった。
 姫の震える右腕が、迫り来る刃に抵抗する。少しずつ、透明の花が押し返す。押し返しながら、足を地に着き、立ち上がる。
 だが、姫の体が完全に立ち上がった途端、透明の花が、儚く弾け割れた。反動で、互いの体が後方に吹き飛ぶ。
 仰向けに倒れた竜の手から、青い刀が離れた。竜は、蒼龍の力を制御しようとするが、思うように体が動かない。力んだ手のひらで地面を握るばかりだ。
 そして姫は――大木に背中を打ち付ける寸前で、どこからともなく現れた、ひび割れた黒仮面の子どもに抱きとめられていた。
 ぽつぽつと雨が降ってきた。森の暗闇に紛れて、姫を囲う五つの黒仮面が浮かび上がる。
「神宮団……!」
 光が、ギリッと牙を鳴らした。
 姫を囲う五人と、姫の体を支えていたメイゲツは、姫に向かって片膝をつき、恭しくかしずいた。
「お迎えにあがりました。――鬼神様」
 シグレの声に、三人の視線は一斉に姫に集まった。
 ゆっくりと顔を上げた姫は、額から伸びたつるのような美しい角を黒く変色した髪に飾り、瞳を赤く、妖しく咲き乱らせていた。
 笑顔。だが、いつもの優しい微笑みではない。ゆがんだ狂気がにじみ出ている。
「今度は、ちょうど良い時頃に迎えに来られたな」
 彼女は褒美でも与えるように、自らの右手中指の石をシグレの唇に当て、口づけさせた。
「光栄でございます。我が存在は、我が主のために」
 ――我が存在は、我が主のために。五人の黒仮面の復唱が、低く、闇に沈む。
 困惑と絶望に墜ちた少年たちの顔など目もくれず、彼女は竜に向けて右手をすっと伸ばした。
 中指の石が花開き、一片の花びらが赤い大蛇と化す。大蛇はするりと伸びて、竜の首に巻き付くと、竜の体を軽々引きずり、鬼神のもとへ運んでいく。
 雫も光も、竜を解放しようと身を乗り出しはした。しかし、筋肉が固まって、うまく体が動かない。
 雫は、シグレの力によるものだと気付いていた。この雨に、麻痺の薬が仕込まれているのだ。だが、脱け出す方法を知らない。思案を巡らせるも、すでに竜は鬼神の足元で、白い指に髪を掴まれていた。
「よく見ているがいい。自分の愛する女を守れなかったさまを。この女が、絶望に墜ちていくさまを」
 竜の瞳が黒く、怒りに満ちる。鬼神は冷笑すると、竜を投げ捨て、立ち上がった。
「鬼神様。この蒼龍刀の男は、私が処分いたしましょうか」
 髪を一つに丸くまとめた黒仮面が勇み立つ。鬼神は、「よい」と制した。
「この男の魂には絶望を刻まねば気が済まぬ。この女が世界を滅ぼし、自らを責める姿を目の当たりにさせるまで、生かしておけ」


 その言葉を最後に、姫の姿は消えた。
 霞に溶けゆく、黒仮面とともに。

戦鬼伝 第三章ー露ー

2020年3月27日 発行 初版

著者・発行:鈴奈
イラスト・キャラクターデザイン:さらまんだ
コンセプトアート:BUZZ
装丁:兎月ルナ

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