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戦鬼伝 第四章ー跡ー

鈴奈



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イラスト・キャラクターデザイン  さらまんだ
コンセプトアート         BUZZ
装丁               兎月ルナ

 目 次

十一

 記憶の始まりから、姫と手をつないでいた。
 幼稚園から帰ると、互いの家に帰るだけなのに、姫の手を離すことがひどく不安だった。
 なんとかしてつながっていたくて、隣同士の窓を開けて、話をしながら眠りに落ちた。
 小学校に入ってやっと、手をつながないことを我慢できるようになった。
 姫以外には何もいらない。姫以外とのつながりは汚くていやだ。
 そうやって、望んでつながりを作らない自分に、やっぱり姫は手を差し伸べてくれた。
 姫といると、それだけで幸せだった。
 だから自分も、姫を幸せにしたいと思った。
 姫はいつもにこにこしているけれど、自分がもらうこんなに大きな幸せは、きっと持っていないだろう。
 ありったけ集めた四つ葉のクローバーは、全部、姫にあげた。
 だが、自分が何をしたって、自分がもらう幸せには到底足りていないことを知っていた。
 魔法でもない限り、足りることはないだろうと思っていた。

 小学五年生の冬。突然、鬼人の力が目覚めた。二日間熱で寝込んで、目が覚めると、右手の中指に赤い宝石が埋まっていた。魔法が来た、と思った。
 熱も引かないうちに、小躍りしながら窓枠に上り、ノックもせずに姫の部屋の窓を開けた。パジャマ姿で窓の柵から身を乗り出す。姫は目を丸くして駆け寄った。
「どうしたの? 熱はもう大丈夫?」
 額に貼っていた熱さましシートが剝がれかけている。姫はやさしく、貼り直してあげた。
「熱なんてどうってことない! それより、これ!」
 竜が、右手の中指を突き出す。姫の瞳に、赤いきらめきが映った。
「鬼人になった! しかも、すごいぞ」
 竜がくるっと手のひらを返すと、青い刃の刀が現れた。姫は、ぽかん、と目と口を丸くしている。
「これなら、鬼と戦える。知ってるか? 鬼を倒しまくって、この石が花の形になると、なんでも願いが叶うって話。俺は、たくさん鬼を倒す。花を咲かせたら、姫にやる! 姫が最高に幸せになるような願いを言ってくれ!」
 竜が、生えたての角をいじりながら、牙を見せて笑った。
 姫の唇が、ゆっくり、弧を描いた。
「そう。それは、楽しみ」
 瞳が、石を映してもいないのに、赤く染まった。
 背筋がぞくり、とした。
 すぐに分かった。
 これは、姫じゃない。
「誰だ、お前……」
 夢なのか? 困惑で、瞳が震えて、よく見えない。だが、姫の髪が、綺麗な栗色から漆黒に染まっていくのははっきり分かった。額から、つるのようなものが生えて、姫の頭を抱える。いばらの冠さながらの、角であった。瞳の奥に、赤い花が咲いていた。
 姫の顔は、今まで見たことのないような、不穏な笑みをゆがませた。
 そして、伸ばしたまま固まった竜の右手を掴み、体ごとぐいっと引っ張った。
 やはり、いつもの姫ではない。姫に、こんな力はない。
 ねじ切れてしまいそうな腕の痛みに声も出せない。
 抵抗しようと白い手に触れたが、力は入れられなかった。
 姫ではないが、姫の体であることは間違いない。
 姫を、傷つけたくない。
 歯を食いしばって痛みに耐える。
「ああ、五〇〇年……五〇〇年待ったぞ。ようやく、見つけた。この、憎い、憎い、魂を……!」
 歓喜と憎悪の混ざった笑みが、竜の顔に近づいた。
「幼いが、面影はある。間違いないな」
 竜は、ごくりと唾を飲んで、同じ問いを絞り出した。
「……誰、なんだ、お前……」
「私は鬼神。この女と私を別物と見分けられたこと、誉めてやろう。よほどこの女が大切とみえる」
 ――オニガミ。
 小さい頃、鬼と鬼人が生まれるきっかけになった昔話を聞いたことがあった。
 鬼と鬼人を生んだ者を、鬼神といった。
 姫の顔をした女から感じる、得体の知れない、おぞましい力。たしかに、鬼神に違いない。
 だが、竜はいっそ明確に敵意を向けた。
「姫に憑りついているのか……! 姫の体から、出ていけ!」
「憑りついてなどいない。私は生まれ変わり、この体に宿ったのだ。この体は、私のもの」
 白い手が、力を強める。竜の腕から、ビキビキと、氷にひびが入ったような音が響く。竜は、強く歯を食いしばった。あまりの痛みに、頭の中が白くなる。手のひらが硬直して、青い刃が茂みへ落ちる。冷や汗が、首から体につたっていく。
 それでも、竜は鬼神を睨み続けた。
「姫を……返、せ……!」
 鬼神が、恍惚の笑みを浮かべた。
「なるほど、痛みには耐えられるか。だが、この女がお前の弱み、というわけだな」
 少女の左手が、竜の下顎を掴む。細い指の先が、骨に食い込む。
「私は五〇〇年間、お前の魂を――私の夫だった男の魂を探し続けていた。私を裏切ったあの男に、復讐するために。巡り会ったからには、お前のその魂を、私が味わった以上の絶望で苦しめて、ずたずたにして、粉々に砕いてやる。お前がこの女に執心しているならば、まずはこうしよう」
 瞳の奥の花が渦巻く。まるで、眠り姫の糸車のように。
「今、この時より、お前たちは血のつながりのある姉弟だ。お前は愛しい女と、一生結ばれない。それでも、きっとお前はこの女を愛し続けるだろう。求め続けるだろう。身が張り裂けるような苦しみを味わいながら!」
「はったりだ! そんなこと、できるわけがない!」
「私は万能なのだ。あと少し力があれば、この世の全てを思いのままにできる。この程度の呪いなど、造作もないこと」
「万能なら、姫の体から出ていけ! 俺が憎いなら、いくらでも苦しみを引き受けてやる! 姫は、関係ない!」
「お前を苦しめるために、この女は必要不可欠だ。私がこの体を支配していることが、お前の苦しみになるのだからな。大した力もないが、このまま使わせてもらおう。ただし」
 必死にしがみつくように、竜が言葉尻を繰り返す。鬼神が、さも愉快そうに目を細めた。
「機が熟したら、この女の人格を喰べ尽くして、体をいただく」
 真っ白な脳裏に、稲妻が走った。
 ますます、鬼神の目が細くなる。
「機が熟したら……ってなんだ、いつだ」
「さあ。今でもよいが?」
「ふざ……けるな……!」
 竜は、自分の顎を掴む細い手首を握った。硬く、浮き出た筋を感じる。姫が支配されていることが、肌を通じて伝わってくる。竜は、黒い憎悪を瞳に宿した。
「俺は、この石に花を咲かせる! そしてお前を、姫の体から引き剥がす!」
「いいだろう。しかし、お前が考える以上に、この花は多くの鬼どもの魂を吸収しなければ咲きはしない。一生かかっても蕾のままだった鬼人を、私は何人も見てきた」
「俺は、やり遂げてみせる!」
「意気のいい。だが、願いを叶えるとは、力を自らの理想通りに解き放つこと。魂の器に不相応なお前の願いなど、魂が耐えられず命を落とそう」
 竜は、左手の中の白い手首を、一層、力を込めて握った。憎しみでなく、愛しさが温もりにこもる。
「俺が生きているのは、姫を幸せにするためだ! なんだってする! 魂だって、命だって、くれてやる!」
 鬼神の目が大きく開き、憎悪で真っ赤に燃え上がった。竜の手が、稲妻に叩かれたように、少女の手から弾かれる。バランスを崩した竜の首が細い両手に囚われる。力いっぱい絞め上げられながら、体が持ち上がっていく。
「憎い……憎い憎い憎い憎い憎い……! あの男と同じことを言うか! 同じ言葉で、侮辱するか! 憎い憎い憎い憎い憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い、憎い……!」
 首の骨が、筋が、器官がつぶれる。壊れる。口の中に、血の味が広がる。
 ぎゅっと目をつむった途端、竜は気を失った。
 朝日が窓に差し込むと同時に、自分のベッドの上で目を覚ました。姫の部屋側の窓は閉まっていた。
 夢だったのかもしれない。むしろ、夢であることばかりを願った。
 だが、それは叶わなかった。
 姫も、家族も、今まで幼馴染だった二人を、双子の姉弟と信じ込んでしまっていた。

 朝食もとらず、荷物だけ持って、彼らは電車に飛び乗った。雫の言うままに、鎌倉市西部の山奥へ向かう。光も、簡単な荷物を持ってついてきた。
 誰もいない早朝五時の電車内。背後の窓から淡い朝日を浴びながら、光が苛々と脚を揺らす。膝の上に、固く、こぶしが握られている。
「鬼神が目覚めちまうなんて……! つーか、姫ちゃんが鬼神だったなんて……!」
 雫が儚く、落胆の息を漏らす。
「斎王くんが蒼龍を手にしたら、目覚めるだろうとは想定していました。神宮団が来るだろうということも。ですが、シグレが一枚、上手でした……」
 光と陽は、目を見開いて雫を見た。
「知ってたのか……?」
 雫は小さくうなずき、黙っていたことを謝罪した。雫は、書庫に咲いた透明の花を見て、姫が鬼神だと気付いた。三十年前の鬼神が、同様の力を使っていたからだ。病院に潜入した後、雫はこのことを竜に伝えた。竜は既にそのことを知っており、姫にも周りにも決して話さないよう、雫に口止めをした。姫は自分に鬼神が宿っていることを知らない。知ったら、深く悩み、罪悪感に苛まれるだろう、と。
 竜が蒼龍を求めたのは、神宮団に対抗するためではない。かつて鬼神を討った力であれば、姫の中にいる鬼神を殲滅できるのではないかと考えたからだ。
 陽と光は、竜を見つめた。うなだれて、顔は見えない。膝の上で強く握ったこぶしが、わなわなと震えている。
「姫を、助けるため、ってことか? でも、できるのか? 蒼龍刀って、鬼とか鬼人とかを喰うんだろ? そんなので姫を斬ったら……」
「可能性は、ゼロじゃない」
 竜が、うなだれたまま、小さくつぶやいた。その声色は、「可能性」という明るい言葉を、暗く塗りつぶしてしまっていた。
 蒼龍によれば、姫の右手中指の赤い石を壊せば、鬼神を消滅させることができるかもしれないという。姫の魂が心臓部にあるとすれば、鬼神の魂はあの赤い石にある、というわけだろう。たしかに、今まで鬼神は、夜にしか出てこなかった。そして出てくる間は、普段はない赤い石が、右手中指に出現していた。そうした情報をつなげて、蒼龍の話を信じ、希望にしていた。
 しかし、蒼龍刀は鬼神といい勝負をしたものの、結局弾かれてしまった。それ以前に、蒼龍に操られるままで、指一つ思うように動かせなかった。狙うは、姫の右手中指の石。そこだけだ。それ以外は、傷つけたくない。繊細なコントロールが必要になる。うまくいくのか――。
 可能性は、ゼロではない。だが、一〇〇でもないのだ。
 光が、大きく息を吸い込んで、「オシ!」と声を上げた。震える脚をビシャンと叩く。
「おっし。やるぜ。鬼神を倒して、姫ちゃんを救い出す! そんで世界も救ってやる!」
「そうですね。世界を滅亡させるわけにはいきません」
 決意を秘めて、雫は笑った。そして、陽は――。
「俺は……世界とかそういうことは、よく分かんない。でも、姫がこのまま鬼神になるのは、いやだ。姫に、帰って来てほしい!」
 これからなのだ。もっともっと近くなって、もっともっと幸せになるのだ。
 陽は二人と顔を見合わせ、うなずいた。

 竜の背肩を、ガラスで歪んだ光芒がじりじりと焼きつけた。

 目を開けると、赤い幕が目に入った。見覚えはない。その幕は天蓋で、自分はベッドに寝そべっているのだと、じんわりと理解する。記憶は、湖が枯れて、竜が戻ってきたところで途切れていた。あの後、何があったのだろうか。気絶でもしてしまったのだろうか。いずれにしても、ここは戸黒湖温泉の旅館でも、まして自分の部屋でもない。薔薇と百合の香りがする。
 腰元に、小さな重みがある。陽だろうと思っていたのだが、頭がはっきりしてくると、人間らしい体温だと分かった。
 上体を起こすと、はじめて見る、白いセーラー服姿の少女が、姫の腰に抱きついて眠っていた。おかっぱらしい髪をしているので幼く見えるが、自分よりも少し年上のようだ。高校生くらいだろうか。
「だれ……?」
 姫の声に反応して、少女がパッと目を開く。そして、嬉しそうににっこり笑った。
「ママ! おはよう」
「ママ……?」
「僕だよ。金鬼きんきライゴウ。ママ、ようやく会えたね」
 少女が、何が何だか分からないままの姫を、やさしく、愛しく、抱きしめた。
「ライゴウ様、御仕度の時間です。いったん御退出ください」
 気付くと、部屋の扉の前に、長髪を丸くまとめた黒仮面の女が立っていた。反射的に心臓がばくんと跳ねて、体が恐怖に蝕まれる。
 ――そうか、神宮団に捕まってしまったのか。
 現状は分かったが、どうしたらいいのか分からない。
 震える姫をそのままに、ライゴウとかいう女子高校生は、「はぁい」と明るく返事をして、外に出て行ってしまった。
 黒仮面の女が、足を一歩、前に出した。
「来ないで!」
 おびえた表情の姫を前に、黒仮面の女は立ち尽くした。
「御入浴と、御着替えを手伝わせていただきたかったのですが」
「結構です。私を、帰してください!」
「それは、できかねます。鬼神様には、今晩、世界を滅ぼしていただきたく」

 ――鬼神。

 この人は、今、自分に対して、言葉を発した。自分に対して、鬼神、と言った。
 自分が捕らえられたのは、おとりでも、人質でもなく――。

 姫は、こくんと息を呑んで、声を震わせた。
「……入浴は、一人でできます。一人にしてください」
 女は、右の黒い扉を手で示し、「あちらです」とつぶやくと、また立ち尽くした。

 赤薔薇が浮かぶ白い陶器のバスタブの中で、姫は膝を抱えた。
 自分が、鬼神――。
「そんな」というショックもあったが、「やっぱりな」という気持ちもあった。
 夜、知らないうちに眠っていたことや、朝起きた時、手のひらが何か強いものを握ったようにじんじんと痛むことがあった。昨日も、そうだった。竜のあの首の怪我は、記憶はないが、鬼神がこの体でやったのだろう。
 鬼神の怒りは、蒼龍刀の君、つまり、竜の前世に向いている。
 だとすると、ここにいた方がいいのかもしれない。竜を傷つけなくて済む。
 しかし、このままここにいたら、鬼神は世界を滅ぼしてしまう。
 鬼人の力さえ満足に使えなかった自分に、鬼神の存在を認知できない自分に、何ができよう。
 壊れそうな心から逃げたくて、姫は生ぬるいお湯の中に顔を沈めた。

 風呂から上がると、黒仮面の女がバスタオルを持って待ち構えていた。全力の抵抗も甲斐なく、体を拭かれ、着替えさせられ、髪を乾かされ、きれいにまとめられる。
 顔が仮面で隠れているので分からないが、彼女の年齢は、姫の母と同じか、少し上のようだった。世話には慣れていない手つきだった。それでも、一つ一つ丁寧に、やさしく整えてくれた。髪は少しのほつれもなく、赤い蓮のかんざしで一つにまとめられている。痛みは、全くない。最後は、唇に紅をさされた。
 自分の体のはずなのに、まったく違う人の体になってしまったような気がした。
「ありがとうございました」
 姫がぺこりと頭を下げると、黒仮面の女は少し動きが止まった。ややあって、何も言わず、姫に手を差し伸べた。
 姫は真っ黒のレースで仕立てられた着物を身にまとっていた。薄い打掛の、引きずる裾を踏まないよう、彼女の手を支えに、部屋へ向かう。
 改めて部屋の中を見回すと、黒と赤を基調とした、レトロな内装だった。真ん中に置かれた赤い天蓋ベッドの両脇には、大量の赤薔薇と白百合が飾られている。天井には、七色のガラスが無数にきらめく、豪華絢爛なシャンデリアが吊るされている。
 赤い錦のソファに、二人が座っていた。一人は、先ほどの女子高校生、ライゴウ。もう一人はベージュスーツの中年男性だった。オールバックの髪、金色の時計。スーツや靴、鞄も高級そうである。
 そして、ソファの隣で片膝をついているのは、髪の長い、静かな青年。どことなく雫に似た、上品じみた微笑みが、口元に浮かんでいる。

 ――どくん。
 心臓が跳ねて、彼女の手を、思わず強く握った。

 彼は、シグレだ。

 姫がその場で動けずにいると、ライゴウが、「ママ、かわいい!」とはしゃいで、姫に駆け寄り、ぎゅっと抱きついた。
「ライゴウ! ずるい……いえ、失礼にあたるぞ。ひかえよ」
「あはは。サテツ、ずるいって言った。そうだよねぇ、中年男がこんな可愛い子に抱きついたら犯罪だもんね。甘えたいなら僕みたいに可愛い皮を被ればよかったのに」
 スーツの男――サテツは、むっと顔をしかめ、まっすぐ立ち上がった。しかし姫を目に映すと、たちまちうっとり口元をほころばせ、鋭い爪先で姫に歩み寄った。
「ああ、お母様。お初にお目にかかります。四鬼が一体、火鬼かきサテツでございます。人の世ではこのような身分でございます。お母様を苦しめたこの世の者たちから何もかもを搾り取り、献上するために、地位、名誉、財産を集めてまいりました。どうぞ、焼くなり煮るなり茹でるなり、ご自由になさってください!」
 差し出された名刺には、「三鉄さてつ財閥」と書かれていた。街でもテレビでもよく見かける上、社会の授業でも名前が上がるような、有名な財閥だ。彼は、その総帥であるという。この屋敷も、服も、仰々しく飾られた生花も、全て彼が準備したそうだ。言うべきか否か分からなかったが、自分のためと言われては、感謝を言わざるを得ない。
「ありがとうございます」
 サテツは、はっと目口を丸くした。そして、泣きそうになりながら、微笑んだ。
「五〇〇年生きた中で、最も……嬉しいお言葉でございます」
「いいなぁ。でも、いいもん。僕はこうしてぎゅうってできるから。前世も、その前も、その前も……ママは、見つけたと思ったら、すぐ死んじゃった。だから、嬉しいの。今日が最期でも、こうしていられるだけで嬉しい」
 四鬼。鬼神の力をもっとも色濃く継いだ四体の鬼。そのうち三体がここに揃っている。
 金鬼ライゴウと火鬼サテツは、鬼神を、母として慕っている。五〇〇年間も、いつか巡り合うことを待ち望んでいるほどに。
 だが、水鬼シグレは違う。奴の望みは、鬼神が望む、世界の滅亡を果たすこと。
 畏怖の眼差しを向けると、青年は、細い目を一層細くした。
「下がってよろしい」
 黒仮面の女は姫の右手中指に口づけると、「我が存在は、我が主のために」と唱え、離れていった。
 扉が閉まる音がする。だが姫は、彼女に声をかけることも、見送ることもできなかった。
 ムスクのにおいが、近づいてくる。
 目が回る。動機がする。息ができない。体中が冷たくなって、全ての感覚が失われる。
 ただ、右手中指をのぞいては。
 片膝をついたシグレが、姫の右手を掬い、信仰の口づけを捧げた。誓いの言葉をささやいて。
「我が存在は、我が主のために」
 赤い眼光に、貫かれる。頭の中が、真っ白になる。姫の体はそのまま、ソファに導かれた。

 意識がはっきりしてくると、螺鈿らでん細工が施されたローテーブルに、紅茶が置かれていることに気が付いた。ライゴウがぷうと頬を膨らませ、「冷たいミルクティがいい。タピオカ入れて」とわがままを言う。サテツが、「ぬるい」と文句をつけて、一気に飲み干す。
 シグレは姫の足元で、片膝をつき、低頭していた。立て膝の上の黒い手袋から、木製の手首が覗く。
「鬼神様。まずは蒼龍の件、お詫び申し上げます。消滅させることは叶わず、せめてあの男が蒼龍を手に入れないようにメイゲツをけしかけたのですが、失敗し、このような形となりました。しかし、鬼神様のお力を拝見し、確信いたしました。ここにいる我々神宮団と、ライゴウ、サテツの魂をお召し上がりになれば、鬼神様は再び、世界を滅ぼす力を得ることができるでしょう。日が沈んだら、我々は体を奉納いたします。どうぞお召し上がりになられて、思う存分、世界を滅ぼしていただけたらと」
 はちきれそうな恐怖が、心を縛る。だが、このまま負けてはいられない。
 姫は、がたがた震える体を力いっぱい左手で握りしめ、口から深く、息を吸い込んだ。
「……私は、鬼神は……世界を滅亡させようなんて、思っていないわ……」
「いいえ、思っていらっしゃいます」
「確信が、あるわ……! 鬼神は、今でさえ、強い力を持っている……。それなのに、今まで、何も、動かなかった……。本当に世界を滅亡させたいなら、自分で鬼を喰べに行くか、早々にあなたたちと、合流するはずよ……!」
「なるほど。ですが、鬼神様は、世界を滅亡させたいと思っていらっしゃいます」
 絶対的な自信で二度も返され、姫は言葉を失った。
「鬼神様はおっしゃいました。人間は、他の種族を犠牲にしてでも、自らの命を、地位と名誉を欲する愚かな生き物だと。そのような生き物がはびこる汚れた世界は滅びるべきだ、と。このような尊い鬼神様の思想が変わることなどございましょうか。鬼神様の思想と理想は、永遠とわのものでございます」
 サテツとライゴウも、うなずいた。
「お母様はあの男に尽くしていらっしゃった。それなのにあの男は、お母様を犠牲に、地位と名誉を取った。そんなけがらわしいもので汚れる世界を、どうして滅ぼしたくないなどお思いになりましょう」
「僕も、そう思うよ。だから僕たちは、ママを傷つけたあいつを、人間たちを、絶対許さない。僕たちは、ママの味方だもん。ママの理想を、果たそうね」
 ――だめだ。何も言い返せない。
 説き伏せて、あわよくばライゴウとサテツに味方になってもらおうなど、甘かった。
 ぎゅっと下唇を噛む。慣れない口紅の味がした。

 雫の先導によってたどり着いたのは、江戸市の山奥にある古い洋館だった。雫が神宮団だった時、本部だった場所だという。しかし、どの部屋を探してみても、荒れ果てて人の気配はない。
 光がばてて、その場に寝転んだ。
「畜生! 他に手がかりねぇのかよ!」
 雫も陽も、その場に崩折れた。
 ここ以外に奴らが使いそうな場所はどこだ。ゆかりのある旅館、ホテル、施設……。分からない。検討がつかない。そんなものは、かつてはなかった。俗世に隠れていたからだ。
 どうしたらいい――。
 シャツが、汗でぐっしょり濡れている。高気温の中の山登りで、頭が沸騰して、うまく頭が動かない。
 竜が、こぶしを壁に叩きつけた。古い木がガコンと軋む、鈍い音がした。
 雫の額から、滝のように汗が流れる。まつげについた透明の玉で、視界がぼやける。
 不意に、動くものが見えた。窓際に、何かいる。
 汗を拭って目を凝らすと、それは小さな鳩だった。
 鳩は一度だけ喉を鳴らすと、部屋の中を低空飛行し、陽の頭の上に、何かを落としていった。誰かの名刺のようだった。よく見ると、有名な財閥の総帥の名前が書いてある。
 もし――これが手がかりだとすれば、この財閥におしかけて総帥の居場所を聞くか、この財閥が抱えている邸宅や旅館をつぶしていけば、行き着くかもしれない。
「みなさん、振り回して申し訳ありません。もう少し、お付き合いいただけますか」
 立ち止まってはいられない。可能性がある限り、進み続けなければならない。
 彼らは立ち上がり、あふれてやまない額の汗を拭った。
 ほのかに、金木犀の残り香がした。

 十九時。街を燃やすような夕日の頭が沈んでいく。朧月が、ゆっくり浮かぶ。
 鎌倉市のはずれにある三鉄財閥の別邸に、彼らは行き着いた。明治時代の洋館だろうか、まるで外国の宮殿のようだった。小さな煉瓦が敷き詰められた黒い壁に、いくつもの大きな窓が並ぶ。どの部屋にもぼんやりと、淡い明かりが揺れている。竜は、やしきを睨み上げた。

――フジョウ、イル……イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ……。

 心の底が、震える。心臓から、水が、力が、あふれだす。抗えない。
 眼球まで、たっぷり力が染み渡る。右手中指に、蕾が萌える。角と牙が生え、煙をまとった太刀が顕現する。
 意識が、深い、水の底に沈んでいった。

 竜の体が、右後方を向いた。二十メートルはある樹のてっぺんに、少女が座っているのが、水面のように揺らめく瞳に映った。
「およ? 早いな、見つかっちゃった」
 少女は、ひらりと舞い降りた。落下の直前に金色のガラスの板のようなものを出現させ、衝撃を防いだのが見えた。
 おかっぱの髪をさらりと揺らし、彼女は笑った。
「こんばんは。僕は金鬼ライゴウ。僕のママを奪いに来たんだってね? 殺していいのは、どれかな?」
 目が赤く光った――と思った矢先、白い制服が、光の目の前に移動していた。
「まず、これだよね?」
 少女のこぶしが、光のみぞおちに入った。光の体は、目で追えぬほどの速さで鉄門の外側へ吹っ飛ばされた。
「光くん!」
「これも、殺っていいよね!」
 少女は、雫の右隣に移動していた。わき腹に食らわさんと、肘を振り上げる。雫は間一髪で鬼人と化し、父母の魂を氷色の盾にして、衝撃を防いだ。
 同時に、青い閃光がライゴウを襲った。ライゴウは目もくれず、背中に金色の鎧を出現させる。
 だが――ザクリ、といやな音が響いた。
 ライゴウは、振り返った。防いだはずの青い刃が、金色の鎧を貫通していた。白い背中に赤い染みが広がる。冷たい。熱い。痛い。痛い――。
 ライゴウの視界から離れた雫は、父母の魂を槍に変え、すぐさま突いた。だがその先端は、黄金の瓦に当たるだけで傷さえつけられない。ならば、一撃を重くするのみ。雫は槍を薙刀に変え、刃を振らんと腕を引く。竜の腕も、同時に動く。
 ライゴウは舌を鳴らし、怒りに燃える目を上げた。三十、四十もの瓦の束が、少女の体を取り囲む。迫りくる前後の刃を、かつは弾き、かつは阻む。その隙に、ライゴウは上空へ跳んだ。ひらりと身を翻すと、足元に浮かんだ黄金の瓦を蹴り、二つの切っ先の届かぬ距離に着地する。
「それが、蒼龍刀か。へぇ……僕の鉄壁の守りを貫くなんて、すごいね? でも、なんかむかつく」
 赤い瞳が妖しく閃く。その刹那、ライゴウの体が、金色に輝いた。全身に、まばゆい鎧がまとわれていく。全てが体に貼りついた時、黄金の拳が、ガチャリと開いた。
「僕を傷つけたんだもん。首の骨折ったって、ママは許してくれるよね?」
 竜と雫が、武器を持つ手に力を込めた時、玄関の両開きの扉が、勢いよく開いた。
「ライゴウ、まぶしいぞ。お母様は、明るいのを好まれない。早く終わらせろ」
「あぁもう、うるさいなぁ、サテツは! せっかく今盛り上がってきたとこなのに。先にママに喰べられて待ってて!」
 奴の視線が後ろに注がれている隙を突き、竜の体は地面を蹴って、ライゴウの体に青い刃を振り下ろした。しかし鎧の前に、二十、三十、四十もの輝く瓦が出現し、青い刃の進行を止める。ライゴウが、ニヤ、と余裕の笑みを浮かべ、ゆっくり竜に向き直った。一層まばゆく、鎧が金色を解き放つ。
 サテツは、呆れ混じりのため息をついて、踵を返した。
「陽くん、僕たちは中へ行きましょう!」
 ライゴウは、竜に任せられる。鬼神がサテツや神宮団員を喰らい、力をつけるのを阻止しなければ。
 雫は陽を小脇に抱え、玄関に向かって飛び出した。

 ――その時。

「吹っ飛べ―!」

 思いも寄らない光の咆哮が、強風とともに迫りくる。
 雫の背中が、勢いよく押し飛ばされた。
 着地の瞬間に薙刀を振り下ろすとか、盾に変えるとか――衝撃を回避する方法はいくらでもあった。だが、回転の速い雫の頭が回る間もなく、雫はサテツに激突した。サテツは背後からの衝撃に体を押され、玄関に飾っていた巨大な壺に頭を打ち付け、倒れた。壺は、独楽の最後の一回りのように大きく一回転をすると、床に落ちて木端微塵になった。
 雫は即座に身を起こし、下敷きにしていたサテツから離れた。動かないことを確かめながら、慎重に距離をおく。
「……陽くん、先に行ってください。姫さんを探しに。僕も後から追い付きます。くれぐれもお気を付けて」
「分かった! 姫の場所が分かったら、戻ってくる!」
 陽は雫の腕から抜け出し、尾をひらひらさせて、暗闇の中に音もなく溶けていった。
 スーツ男は、ピクリとも動かない。雫は、手中の薙刀を戦棍せんこんに変え、構えた。
 直後。背後に、長い影が伸びた。振り向くと、月光を背に浴びて、金色の髪が輝いていた。
「あの団長を止めたいんだろ? 決着つけてこいよ。ここは、俺がやる」
 雫は、さらりと微笑んだ。
「ありがとうございます。それでは、よろしくお願いします」
 うなずきを交わし、雫は、曲線状の階段の先へ消えていった。
 ややあって、スーツの背中が、ゆらりと動いた。
「火鬼サテツだな? てめぇはここで、俺が食い止める!」
 光は紙人形を指に挟み、印を切った。力を込めて、唱える。
「式神、捕縛! 急急如律令!」
 紙人形が、サテツの背中に鋭く伸びる。だが、彼に触れる、一センチほど手前。列をなした紙人形は火縄と化して、高級そうな赤いカーペットに力なく落ちた。玄関に、炎が回る。
 毛穴までくっきり見えるような熱い炎に照らされながら、サテツは首だけくるりと向き、光を睨んだ。しわが深く刻まれた目元には、赤い瞳が浮かんでいる。額からは一筋、血が流れていた。
「風を起こしたのは、貴様か。扉も壺も構わないが、見てのとおり、額に怪我をして、スーツについてしまった。これからお母様の供物となるはずの姿を、汚してしまった。弁償してもらう。その、命で!」
 サテツが両手を広げると、玄関を燃やし始めていた火が、手のひらに集まってきた。大きな火の玉が二つ、光の目に映る。
 竜の攻撃をかわすライゴウが、キャハハ、と黄色く笑った。
「体を取り替えるなら、僕は逃げた方の子、推し」
「言われるまでもない。すぐに追い付く」
 火の玉が、光めがけて降りかかった。

 奥底に沈む、意識の中で。竜は、業を煮やし始めていた。蒼龍の、がむしゃらで一方通行な攻撃に、ライゴウは幾重もの盾を用意して対抗し、余裕を見せ始めている。

 苛立たしい。こんなことをしている場合ではない。こんな奴はどうでもいい。
 自分は、姫のために来た。
 この体も、この力も、全部、姫のためにある。
 行かなければ。今すぐ。
 今すぐ、姫を、守るために――!
 
 遠い意識の先へ、強く、手を伸ばす。

 その時。

 全身を満たしていた蒼龍の力が、さっと引いていくのを感じた。体の感覚が、意識が、はっきりと戻ってくる。気が付くと、太刀に巻き付く白い煙に、確かに、うろこが浮かんでいた。

「つまんないなあ。もうそろそろ、首の骨折っちゃうね?」
 ライゴウが、指を動かす。ガチャガチャと金属音が鳴る。そして、鋭い爪を伸ばし、まっすぐに突っ込んできた。
「蒼龍!」
 竜の声に呼応して、白い煙が、蒼龍の姿を成した。巨大な口が、無数の牙が、ライゴウを嚙みくだこうと襲い掛かる。ライゴウは一瞬、白い顔をひるませたかに見えたが、蒼龍の口の前に分厚い金色の壁を建て、瞬きのうちに竜の目前に詰め寄った。
 薙ぎ払った青い刃が、ライゴウの籠手とぶつかる。全力で押し込んでくる竜を、少女の鼻が嘲笑う。

 金鬼ライゴウは、どんな攻撃も跳ね返す、鉄壁の守りを誇る。
 蒼龍の浄化の力も届き切らぬほど、濃い守りの力が、奴の身から放たれている。

 だが、それは、蒼龍の力をまとった太刀が、届ききらなかっただけのこと。
 本物の蒼龍の浄化の力を前に、金鬼の盾など、薄氷にすぎない。

 ライゴウの背後から、蒼龍が猛った。
 一瞬のうちに、ライゴウの体に巻き付き、黄金の鎧を浄化する。
 鎧が溶け、身動きも取れない。焦燥と絶望に染まる、ただの女子高生になっていく。
 竜は、ふっと力を抜いて体をかがめると、するりと回転し、ライゴウの腹部を斬り裂いた。
 黄色い絶叫が耳をつんざく。少女の体が、みるみる砂になっていく。

 砂に追いかけられながら、竜は、がらんどうの玄関に走った。
 炎はいつの間にか森に流れ、暗闇を赤々と覆い尽くしていた。

 火鬼サテツは、強烈な炎を創り出し、自由自在に操ることができる。
 他の力を燃やし尽くし、無効化するほどの、巨大な火の玉を爆発させることもできる。

 光は幸い、サテツが放った両手の火の玉を風で吹き飛ばし、回避することができた。
 だが、いったん森に潜り、杉の木のてっぺんで作戦を考えていた。
 炎が相手では、紙媒体の封印札は使えない。
 それに、さっきは運よく風で火を薙ぎ払えたが、四鬼ほどの鬼が、竜巻程度の風で鎮火されるような力しか持っていないことなどあろうか、いやない。風の渦で防いだものの、金鬼にやられてずきずき痛むみぞおちをさすり、確信する。だとすると、至近距離での攻撃は、慎重さを要する。最悪の場合、一瞬で消し炭になるような炎を放たれるかもしれない。とはいえ、風の力は、至近距離ほど効力が高いため、遠距離から風を噴射したところで、太刀打ちできない。かえって火に油だ。火は風よりも勢いがあると、強さを増すものである。どうしたらいいものか。頭をわしゃわしゃ掻きむしる。
 ぱっと、一つの案が思いついた。他の道具を媒体にして、サテツの火の力を封印する。その上で、至近距離での攻撃に移る。これならば、可能性はある。
 何を媒体にしようかと考え始めた時、耳に、地鳴りのような低い音が響いてきた。
 杉の葉の間から、ひょっこりと覗き込む。
 すると――熱くまばゆい塊が、顔面に迫ってきていた。凄まじい破壊音を立てて、火炎が二十メートルもの杉の木を包み込む。一瞬で、消し炭になった。
 間一髪、光は足裏から噴射した風で空を飛び、難を逃れた。靴の先が溶けていたが、足の指は無事だ。一角の下であふれる汗の玉が、地上に落ちる。
 スーツの男は右手に火炎を吸い込むと、額の血を左指で押さえながら、空に浮く金の髪を見上げた。
 何かを、言っている。
 口元を見ようと目を凝らすと、男は、瞬きのうちに消えた。

 そして、光の上に、いた。

「私を、火を撃つだけの男と見くびってもらっては困る、と言ったのだ」

 光は、反射的に振り返った。同時にナイフを引き抜き、振る。サテツの革靴の爪先とこすれ、マッチのように火花が散って、たちまち、ナイフがまるごと、炎に包まれた。慌てて離したが、右手にも燃え移って、消えない。続けざまに、左こぶしが重く、光線のように降ってきた。反射で、右腕を盾にする。ますます、火が強くなる。沸き立つ焦燥感とは反比例に、腕の感覚は冷たく、鈍くなっていく。
 光は、左手のひらを腰の後ろで開き、思い切り、風を噴射した。幸い、腕の火が消え、自分の体もうまいことサテツから離れることができた。光は足の風を消して、杉の木の中に落下し、隠れた。だが即座に、隣の木が轟炎に包まれた。次々と、周りの杉が消し炭になっていく。
 この場でとどまっていることはできまい。
 光はぜえぜえ鳴る息を殺しながら、幹に指をかけた。冷たかった腕が、次第に痛みを増していく。皮膚が溶けて、熱くなる。斬り落としたいほど、悶絶したいほどの痛みが、身体中に広がっていく。また一つ、また一つ、周りの杉が墨となっていく。汗が鼻の先から、ぽたり、ぽたりと落ちていく。
 痛みや焦りに耐えながら、光はなんとか、地面に降り立った。冷や汗と暑さによる汗とでべとべとの体をひきずり、ナイフを捕まえる。黒く焦げているが、切っ先はまだ鋭い。使えなくもない。
 痛みでかすむ目で、あたりを見回す。
 石ころでいい。
 石ころを媒体にして、火の力を封印すれば――。
「いた」
 目の前に、さかさまの眼球があった。
 次の瞬間、光は絶叫し、倒れていた。奴の五本の爪が、深く体を引き裂いて、傷跡を燃やしている。あたりの土は、光の体から噴き出す汗と血とが染み付き、黒く変色していた。
 サテツは、光の後ろ襟をつまんだ。汗と土とでぐちゃぐちゃになっている。気持ちが悪いので髪に持ち替え、そのまま、光の体を引きずって歩き出した。
「陰陽術を使えるとはいえ、鬼人。敗北した金鬼の穴を埋めることはできまいが、献上しても無駄なことはあるまい」
 サテツの浮足は屋敷へと向かっていく。獲物を捕って飼い主に褒めてもらいたがる犬のように。
 うっすら目を開け、光は、自身の体に刻まれた五本の傷跡を見た。深いが、もはや痛みを超越し、何も感じない。ふっと、口端が吊り上がる。

 最大のピンチこそ、最大のチャンスである。

 光は、左手に握ったナイフを、自身の体に当てた。
 五本の傷に垂直になるように――一本、二本、三本、四本。
 体に刻んだのは、九字格子くじごうしであった。
 光はナイフを膝に置き、印を切った。
「……急急如律令!」
 サテツの背後から、赤い輝きが湧き起こった。
 はっと後ろを向くと、風前の灯火だった金髪が、傷だらけの体で、ニヤリと牙を剥きだしていた。金髪を掴む指先から、砂がこぼれる。九字の傷から放たれる赤い世界に、砂状の魂が吸い込まれていく。抵抗できない。
「貴様……何をした!」
「俺の体を、媒体に……封印、させてもらうぜ……! はじめてやるけど、多分、できちゃうからな……!」
 媒体は大きいほど、大きな力を封印できる。肉体を媒体にすれば、四鬼であろうと、封印できよう。
 サテツは般若のごとき形相で赤い目を剥いたが、時すでに遅し。
 サテツの体から、砂が出尽くした。スーツ男のもぬけの殻は、バタリとその場に崩れ落ちた。
 指先で、そっと、盛り上がった傷口に触れる。首を起こして確かめると、しっかりふさがり、桃色の九字が刻まれていた。
 ――成功した。
 光の体も、力なく倒れた。右手の火傷と九字の傷跡が、喘ぐように脈を打っていた。

 ほの暗い、長い廊下。赤い蓮のランプが、淡く、道の先を照らして並ぶ。
 雫は息をひそめ、慎重に進んでいた。扉に近づくたびに、小さな息に耳を澄ます。どの部屋にも、人の気配はない。シグレはおろか、他の神宮団員とさえ遭遇しない。
「雫!」
 雫の耳が、かすかな空気の震えを拾った。目を移すと、黄金の双眼が浮かんでいた。
「見つけた。あっちだ。姫も、シグレもいる」
 雫はこくりとうなずき、真っ黒な水先案内猫に導かれた。
 たどり着いた扉は、たしかに一際、重厚感があった。そっと耳を当てると、憂いを帯びたため息が聞こえた。
「陽くんは、ここで隠れていてください」
 雫は、握りしめていた戦棍を両手で振り上げ、真っ黒な扉を粉々に打ち壊した。黒いかけらの先には、出窓に腰かけ、憂いを浮かべる黒髪の少女と、彼女に向かって片膝をつく青年の後姿があった。
「ずいぶん不作法ですね。来客のもてなしもないのですか」
はえにもてなし? 眺めるくらいで十分でしょう」
 立ち上がったシグレが、首だけ振り向く。
 雫はシグレに向かって、右手中指を突き伸ばした。赤い石から、細い花びらの百合――イヌサフランが赤々と咲いた。
「何を願うつもりですか」
「この力は、もとは鬼神のもの。それゆえ鬼神が許せる範囲で願うべき。四鬼であるあなたの、この教えは守りましょう」
 シグレは雫に体を向けると、やさしく両手を差し伸べた。
「おやめなさい。せっかくの美しい花をドブに捨てるくらいなら、鬼神様に献上いたしませんか。私が喰らい尽くした、他の神宮団員たちのように」
「やはりそうでしたか。ならばなおさら、僕は、あなたを倒します。世界の滅亡を、止めてみせます」
 そのために、溜めてきた。夜な夜な子を為し増え続ける鬼の――鬼人の魂をかき集め、喰べてきた。
 決意は堅い。雫は、指に咲いた花を天高く伸ばし、声高らかに唱えた。
「僕は願う。鬼神に匹敵する力を!」
 花はみるみる肥大化し、雫の右手を赤い花びらで包んだ。渦を巻いた角が、太く、長く成長していく。尖鋭な牙が鋭さを増していく。
 瞳が赤く、輝いた。
 雫は左手に持っていた戦棍をライフル銃に変え、ためらいなく、シグレに撃ち込んだ。シグレは俊敏によけた――と見えたが、弾は命を吹き込まれていたのだろうか、シグレの体を追跡し、右肩に直撃した。即座に、めり込んだ銃弾から、鋭く長い蜘蛛の足が八本生え、シグレの心臓を貫いた。
 しかし。シグレの体は、破裂した。水滴となり、雫の体にまとわりつく。
 雫の体に、わずかなしびれが走る。また、麻痺の薬か。二番煎じの攻撃に、雫は表情一つ変えない。赤い瞳をただ一度、きらりと輝かせる。
 小さな稲妻が、水の粒の中で弾けた。
 衝撃を受けて、水滴は、一斉に雫の体から剥がれた。雫の手の届かない距離で、再び人の形を成す。
 二人は静かに、正対した。

「シグレ」

 少女の声が、低く響いた。空気が、いや――時間が、凍り付いた。
 鬼神が、赤い瞳を苛々と淀ませている。シグレはすぐに、片膝をついた。
「私の一番嫌いなものはなんだ」
「愛と、裏切りでございます」
「そう。お前は、私に誓った。私を信仰し、私に尽くすと。それを今、お前は、裏切ろうというのか!」
 シグレは否定しようと、顔を上げた。憎しみにまみれた眼光に射られ、体中に刺さるような痛みが走る。シグレは呻きを噛み殺しながら、再び低頭した。
「恐れながら……私の存在理由は、鬼神様の悲願を果たすこと。どうして裏切りなどいたしましょう」
「ならばなぜ、あの男を攻撃しない。苛立たしい……愛を見せつけおって!」
 鬼神の赤い瞳が、強い輝きを放つ。シグレの心臓が、締め上げられる。シグレは唇を噛み、胸を掴んで、静かに耐える。
 ふっと、締め付ける力が弱まると、シグレは乱れた息を整えながら、掠れた声をこぼした。
「あなたを信仰する私が、どうして愛など、知りましょうか――……」
 鬼神の右手中指の花から、透明のナイフが顕現した。シグレの爪先に、粗雑に放られる。
「愛ではないというのなら、信仰を誓い続けるというのなら――そのナイフで、男の首を取れ。この程度の鬼人が力を得た所で、四鬼の足元にも及ばぬ。証明せよ」
 鬼神は棘のような声を吐き捨てると、ふいと顔を背け、窓の外、青白い満月を眺めた。
 シグレは肩で息をしながら、黒い仮面で、自らを覆った。

 水鬼シグレは、水を司り、雨や霧を生み出すことができる。
 自他を水に変え、その姿を永久に、水循環の檻に閉じ込めることもできる。

 シグレが、ゆっくり、ナイフを握った。瞳の奥が、赤く、ゆがんだ。
「我が存在は、我が主のために……!」

 時間が割れる音がした。
 雫の唇に、笑みが浮かんだ。

 シグレは、即座に霧散した。部屋が白く曇る。
 しかし、凍てつく感覚が体の奥に走り、咄嗟に人型に戻った。地に足を着いた瞬間、姿を隠すために生み出した霧の粒が、氷になって一斉に破裂した。
 破裂音に潜んで、ライフル銃の軽い音が鳴る。だが、音さえ聞こえれば、目にするまでもない。銃弾はシグレの目の前で飛沫となり、床を濡らす。何発も、何滴も。
うるさい虫ですね」
 シグレは再び霧散すると、一瞬で雫の鼻の先に移動した。雫が身を守ろうと振り上げたライフル銃の筒を、左手のナイフで受ける。そして、隙だらけの首を、義手で掴んだ。
「この程度で万能の力? 鬼神様と同等の力などと豪語して、おこがましいにもほどがあります。罰を与えましょう」
「どうぞ、ご自由に」
 雫の目線が下がっていく。足元が、水になっていく。
 膝が、腰が、胸が。肩が、腕が、シグレの手を掴んでいた指が、水になる――。
 そして、透き通った笑みが唇から流れたかと思うと、雫の体は、飛沫を上げて、散った。
 だが、まだだ。これは、体が水になっただけ。完全に、息の根を止める。
 全ては、鬼神の望みのままに。この子を、殺す。我が主のために――。
「我が存在は、我が主のために!」
 シグレは水たまりの前に膝をつき、ナイフを振りかぶった。
 パン――と、軽い音が部屋中に響く。
 赤い砂と、白い雪が飛び散る。
 水たまりは消え、シグレの胸には、拳銃が押し付けられていた。
 弾が撃ち込まれた傷口は凍り付き、細い空洞をつくっていた。
「終わりです」
 雫はもう一発、撃ち込んだ。

 この程度、造作もない。体は動く。
 我が主の望みを果たす。我が主のめいを遂行する。
 だから、殺す。殺さねばならない。

 五〇〇年間、信仰してきた。
 鬼神の思想や理想を絶対的なものだと信じ、動いてきた。
 それが、自分が四鬼として生まれた意味であり、生きる道筋だった。
 自分の意志など関係ない。しなければならない。鬼神の望むままに。
 それが、信仰。
 だから、殺すのだ。殺さなければ、ならないのだ。

 ――それなのに。

 シグレの左手から、ナイフがこぼれた。
 そして、その指が、わずかに。本当に、わずかに。
 雫の髪に伸びんとした――その時。

 雫は、もう一発、撃ち込んだ。表情一つ、変えることなく。
 シグレの体は粉々になり、ただ静かに、雪のように、降り積もった。

 肩についたわずかな砂を払い、雫は、立ち上がった。爪先で、残された仮面をすりつぶす。
 そして、にっこりと笑った。いつものように、穏やかに。
「あっけなかったですね。あなたに匹敵する力があれば、こんなに簡単なのですね」
「ほう。愛を知らぬはお前の方か。面白い。お前の忠誠なら、受け取っても良いが?」
「せっかくのお申し出ですが、お断りします」
 雫は微笑みをたたえたまま、拳銃を泡に変えた。もの怖じもせず、彼女に近づいていく。
「さて。思いのほか早く終わってしまいましたので、斎王くんが来るまで時間が余ってしまいました。暇つぶしに、この力を試しましょう。鬼神に匹敵する万能の力。これで、あなたと姫さんを引き剥がせるかどうか……」
 ゆっくり近づいていく雫に、鋭いガラスの破片が降り注ぐ。それらはたしかに体中に刺さったが、雫は微笑んだまま、全てを雨粒に変えていた。
 鬼神の白い右手が、雫の指に掬われる。透明の花が、雫の手を消さんと包む。しかし、花は泡となり、儚く、部屋に舞い上がる。
 雫の唇が、右手中指に咲き誇る、赤い蓮の花に触れた。たちまち花が肥大化し、みるみる形を変えていく。やがて赤い女の姿と化すと、姫の体が、力なく窓にもたれかかった。
「あなたが、鬼神ですね」
 赤い体の女は、雫の頬を両手で包むと、ケタケタ笑った。
「思い上がりおって。お前程度では……ほら、もう限界だ」
 限界? 何を言って――……。
 心の声が、ぶつりと切れた。雫の目に映る景色が突然、万華鏡のように幾重にも重なり、回り始めたのだ。音も、鼓動も、何もかもがぐるぐる回る。
 赤い女は、雫から手を離すと、雫の額をトンと押した。雫の体が宙に弧を描き、壊れた扉の残骸の上に転がる。陰から見ていた陽が、「雫!」と叫んで駆け寄った。
 いつのまにか赤い女の体はなくなり、鬼神は、姫の顔で、無様なさまを眺めている。
「鬼の力は魂を源としている。力には、相応、不相応があるのだ。五分と使っていないのにこのざまとは、なんと哀れな」
 鬼神は、声を殺して笑う。
 雫には、この言葉が届かなかったのだろう。虚ろな目で、呼吸を探している。
「雫! 力を引っ込めろ!」
 鬼の力は魂を源としている。つまり、雫が苦しんでいるのは、大きすぎる力に、魂が耐えきれていないからだ。
 何度も何度も、叫んだ。八度目で、ようやく届いた。人の姿に戻った雫は、穏やかに、瞼を閉じた。
 陽はほっとしたが、直後、いつのまにか入り口に近づいてきていた鬼神の姿に、身をすくめた。
 姫と同じ顔なのに、なんて恐ろしいのだろう。言葉で言い表せない憎悪や執着、そういう黒いものの塊であるような気がした。
 鬼神は、陽にも雫にももはや目を向けず、入り口の向こうに、ニヤリと笑いかけた。
「ようやく来たな。待ちくたびれたぞ」
 蒼龍刀をたずさえた竜が、鬼神を見据えた。

「今日こそ、姫から離れてもらう」

 青い刃に巻き付いていた小さな白い煙が、刃を離れた。そして、湖で顕現した時と同等の大きさに膨らみ、蒼い龍の姿になると、猛々しく吠え、威嚇した。
「おお、怖い怖い」
 鬼神はケタケタ笑って、さっきまで座っていた窓の方へ、無邪気に踊り寄った。
 両開きの窓を両手でめいっぱい開け、身を乗り出す。そしてそのまま、下に、落ちて行った。
 陽は思わず、姫の名を叫んだ。
 竜はすかさず、姫の体を追い、窓から飛び降りた。落ちた先は茂みの上で、かすり傷さえつかなかったが、姫の姿が見当たらない。
 あたりを見回していると、青白い月に照らされていた世界が、ぐにゃりとゆがんだ。

 気付くと、上も、下も、右も、左もない、真っ黒な世界にいた。
「ずうっと、ずうっと、お前が来るまで、お前を苦しめるのに一番良い方法を考えていた」
 クスクス、ケタケタ笑う声が、四方八方から聞こえる。鬼神の姿は、どこにも見えない。
 刃に巻き付いていた蒼龍が、後方を見て、大きく咆哮した。
 竜が振り向くと、姫が立ち尽くしていた。鬼神と同じ黒い着物を着ているが、鬼神ではなく、姫だと分かった。
 姫は竜に気付くと、不安げな瞳を震わせた。
「竜……!」
「姫! そこで待ってろ!」
 姫に向かって走り出す。どれほどの距離があるのだろう。それほど遠くは見えないのに、いつまでも、いつまでも、二人の距離は変わらない。
 再び、四方八方から、鬼神の笑う声が不気味に響いた。
 姫の手の甲をつたい、青白い指が絡まる。肩から、赤い目をした鬼神がニタニタと覗いた。
「離れろ!」
「いちいちうるさい奴だ。まあよい」
 鬼神は竜の望み通り姫の体から離れると、ふわりと宙に浮き、足を組んで座った。二人の指が、透明の糸でつながっているのが見える。
 鬼神がこれ見よがしに糸を動かすと、姫の両手が黒い天に伸びた。
「お前は、この女を何より大切に思っている。自分の幸せも、命も、全てこの女にくれてやってもよいと思っている。そうまでして、この女の幸せを願い、この女が苦しまずに生きることを望んでいる」
 鬼神は、乱暴に糸を動かした。姫の両手が、自らの白い首を掴む。
「そうであるならば、この女が苦しむ姿を見るのが、最もお前を苦しめよう」
「蒼龍!」
 竜に応じて、蒼龍が猛る。牙を剥き、目にもとまらぬ一矢となる。余裕の笑みを浮かべる鬼神を、鋭い歯の檻が閉じ込める。しかし再び、四方八方からケタケタと声がした。
 幻影だ。やはり本体は、姫の右手中指の石。
 しかし、姫の手が首にある限り、巨大な牙でむやみに攻撃できない。竜は、鬼神の石を滅茶苦茶に壊してやりたい気持ちをこらえながら、暴れまわる蒼龍の力を、心の中で必死におさめた。 呼吸を整え、冷静に、最善の方法を選び取る。
「蒼龍! 姫の手に巻き付け! 首から、引き剥がせ!」
 蒼龍が疾風のごとく飛び出した瞬間、姫の両手が首から離れ、すっと前に伸ばされた。両手のひらから、黒く、まがまがしい気の塊が膨らみ、まっすぐ突き進んでくる蒼龍を包む。一瞬、全てが白くなり、耳を壊すような爆発音がしたかと思うと、蒼龍を包んだ球体は木端微塵に吹き飛んでいた。
 姫は、「あっ」と小さく叫び、白い顔をした。
 だが、蒼龍は、右手で握った青い刃に、白い煙となって巻き付いていた。球体の中で煙に変わり、戻ってきたのだ。
 安堵する暇もなく、鬼神が姫の体を背後から抱きしめた。首筋に耳を当て、動脈の音を確かめる。
 唇の端が、ニヤリと吊り上がった。
「自分より人を傷つける方が苦しいか。よかろう。私も、お前を使ってあの男を傷つける方が面白いと思っていた」
 鬼神は姫に透明のナイフを握らせ、体から離れると、嬉々として指を動かした。
 姫は、引っ張られるように竜のもとへ跳んだ。見えないナイフを振りかぶって。
 竜は、その切っ先を見切り、するりとよける。
 しかし、姫の手は止まらない。振り上げられたナイフに触れて、竜の右頬が切れた。
「竜! いや、やめて!」
 姫は自らの手を操られながら、叫んだ。どんなに力を入れても、抵抗できない。どんなにいやだと思っても、ナイフを振る手は止まらない。
 竜は蒼龍刀でうまく弾きながら、苦痛にゆがむ姫の顔から目が離せなかった。何度かやってみたが、ナイフを握る力が強く、薙ぎ払うことはできない。受け止めて間をつくろうも、すぐに蒼龍刀からナイフを離して、新たな一撃を振るってしまう。
 だが、どうにか、止めなければ。これ以上、姫を苦しめるわけにはいかない。
 竜は降りかかるナイフを、右手で受け止め、握りしめた。姫の指をナイフから剝がそうと、蒼龍刀を捨て、自らの指をこじ入れる。だが、びくともしない。むしろ、ますます力が強くなっていく。竜の手のひらに、刃が深く押し込まれていく。竜の血が大きな粒になって、足元の暗闇に消える。
 姫の頬に、一筋の涙が流れる。もう一粒、こぼれそうな涙を飲み込んで、姫は叫んだ。
「やめなさい! こんなこと、無意味だわ! 竜は、あなたが憎む人じゃない!」
「そいつとあの男は、同じ魂。降りかかる罪は同じよ」
「違う! 竜は、竜よ! 私たちは、生まれ変わろうと、魂が一緒だろうと、この世界で生きている、別の人間よ!」
 ふっと、竜の手の中から、姫の姿が消えた。姫の声の跡だけが、果てのない暗闇に残る。
 振り向くと、姫が泣きそうな瞳で、自らの首にナイフを突き立てていた。
 鬼神の声が、また、どこからか響いた。
「蒼龍刀の君よ。額を付けて、許しを請え。それで考えてやろう」
 竜は憎々しげに黒い空を睨んだ。鬼神がついと指を動かしたのか、姫の両手が下がり――勢いよく、鋭利な先端が、細い喉に迫った。
「やめろ!」
 叫ぶと同時に、竜は、膝を折った。言われたとおりに、額を闇に押し付ける。地はコンクリートのように硬く、ひんやりとしていた。涙で震える姫の声が、胸の奥を痛くする。
「……許してくれ」
「何を」
 鞭で弾かれたような痛みが背中に飛んできた。傷口に冷たい空気が触れる。食いしばった歯の隙間から、息を呑みこむ。
 鬼神が求めているのは、自分の謝罪ではない。前世の自分の謝罪だ。
 言葉を急かして、もう一つ、鞭が飛ぶ。竜の名を呼ぶ、姫の悲痛な声が聞こえる。
 正しい答えが、分からない。だが、口を開いた。
「裏切ってしまったこと。申し訳なく、思っている」
 沈黙が流れた。
 ひた、ひた、と小さな足音が近づいてくる。ぴたりと止まった爪先が、竜の頭を小突いた。
「何を、裏切ったと?」
 分からない。欲しい言葉が、分からない。何について、許しを請えばいいのだ。
 やさしくつむじをつついていた足が、横暴に、竜の頭を横から蹴り飛ばした。竜の体が、冷たい暗闇で、力なく転がる。うつ伏せで止まったと同時に、後ろ髪を、ぐっと持ち上げられた。
 姫の顔をした鬼神が、蓮の咲く眼で、竜の瞳の奥を探る。
 程なく、淀んだ声が流れた。
「何も覚えていないか。うわべだけの言葉、反吐が出る。……そう。お前は私を傷つけた。ならば、私もお前を傷つけてもいいだろう」
「何を、する気だ……!」
 鬼神の嘲笑が、黒い空気を震わせた。
「この女の手で、世界を滅ぼしてやろう。友人、恋人、家族――全てを自らの手で滅ぼすのだ。その罪悪感でもがき苦しむ女を見て、お前は狂わずにいられようか」
 竜は、青い短刀を握りしめた。そして、みずからの頭を掴む右手――その中指の石に向けて、振り下ろした。右手の石から透明の蓮が出現し、石を守る。蒼龍刀にまとう白い煙が一瞬で浄化するも、姫の手は素早く、蝶のようにひらりと、竜の髪から離れて逃げた。

 確実に小さな石だけを狙おうとしても、隙がない。隙をつこうも、逃げられる。力は遠く、及ばない。
 短刀を握りしめながら、こぶしを、冷たい闇に打ち付ける。
 それでも、絶対に諦めない。奴は、姫を苦しめ、傷つけ、涙を流させた。
 絶対に――絶対に、奴を倒す。

 覚悟で燃える竜の体に、白い煙がまとった。

 暗闇に、扉が浮かび上がった。
 いつのまにか一人で立ち尽くしていた姫は、操られるまま、両開きの扉に腕を伸ばした。
 紫色のきらめきの海が、真下に広がっていた。武蔵か、江戸か、鎌倉か――あるいはもっと広い範囲の地上を見下ろしているのかもしれない。
 さっと、血の気が引いた。

 ――この世界を、自分の手が、滅ぼしてしまう。

 鬼神の思い通りになってはいけない。一番鬼神に近いのは、自分だ。
 ただの人間で、鬼人の力もない。体だって、思う通りに動かせない。
 だが、力は物理的なものだけではない。心を動かすのも、力だ。

 ――探し出せ。彼女を止める言葉を。彼女の心を揺らがす、決定的な一撃を。

 姫の右腕が、窓の外に伸ばされる。おぞましい力を、中指に感じる。
 姫は意を決し、強く食いしばっていた口を、開いた。

「あなた、今でも愛しているのね」

 右指でうずいていた力が、ぴたりと止まるのを感じた。
 時間が止まったかのように、暗闇の世界に、静寂が広がった。
 姫は、息を震わせて、続けた。

「私を傷つけ、竜を傷つけ、世界を壊すのも、全部全部、その人が憎いからなのでしょう。私だったら、好きな人に裏切られたら、消えてしまいたくなる。でも、あなたは消えなかった。万能の力があるのに、復讐のために五〇〇年も生きながらえた。たしかに、それらの行動は全て復讐だわ。でも、どの行動も、その人につながっている。あなたは、その人とつながっていたくて、五〇〇年間生きてきたのね」

 指に咲く、赤い蓮の花を見つめて、言い放つ。

「あなたは、ずっと彼を愛している。彼に、愛されたがっている」

 静寂が、破裂した。

 暗闇がぐにゃぐにゃと揺れ、四方八方から槍の雨のごとく金切り声が降り注ぎ、耳を突き刺す。
 姫は、外へ振り落とされないよう、窓枠を握りしめた。鬼神が怒りのあまり、操り糸を切ったのだ。
 竜は、ゆがむ地面に足を取られながら、走り出した。
「忌々しい! 愛だと? 私が、あの男を、未だに愛しているだと? 愛されたいと思っているだと? 虫唾が走る! 愛? あの日々を思い出すだけで、吐き気がするのに……! ああ、愚かしい。生意気に、知ったような口でそのような言葉を吐きおって。世界を壊してから喰ってやろうと思ったが、これ以上、不愉快な言葉を並べられるのは我慢ならぬ。今すぐ、ここで喰ってやろう!」
 姫の右手中指の赤い蓮の花が、みるみるうちに肥大化し、真っ赤な体の女と化した。
 赤い手が、姫の肩を掴む。大きく口を開ける。人の頭一つ飲み込めるほど、大きく――。
 姫は顔を白くしながら、立ち向かうように、きっと見据えた。
「姫!」
 燕のごとく一筋に、青い閃光が、鬼神の腕を叩き斬った。
 悲鳴が轟く。姫の肩から、赤い砂が流れ去る。
 竜は右腕で姫の体を引き寄せながら、姫の右手中指から膨張する赤い塊の根元に、勢いよく太刀を振り下ろした。透明の花が咲き、破壊を阻む。耳をえぐるような音が、果てのない闇に残響する。
「竜!」
 姫が手を伸ばし、竜の背中にしがみついた。たちまち、心を覆っていた胡桃の殻が割れ、弱く、たよりない中身が露わになってしまったような気持ちになって、竜の胸に、ぎゅっと顔を押し込めた。
 竜のにおいが、胸いっぱいに入り込む。
 ほっとにじんだ涙が、心の奥で、温かく広がった。
 竜は姫をいとおしく抱きしめ、鋭い眼光を、鬼神に向ける。赤い石は、硬い。奴の意識がこちらに向いているからか、はたまたこちらが片腕で攻めているからか。どんなに力を入れても、先ほどのように容易に斬り落ちてはくれない。透明の花びらが、砂のように溶けていくばかりだ。
 そして、二人を映す赤い目は、先ほどとは段違いの、計り知れない黒い感情で燃えていた。
「ああ、あ、あぁ……! 憎い、憎い、憎い……! 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!」
 竜の首が赤い腕に囚われる。これまでにない力で、締め上げられていく。同時に、五臓六腑が握りつぶされる感覚が走り、四肢がちぎれそうになった。唇から、血が流れる。牙で食いしばったところが傷になり、内臓からこみ上げる黒い血と混ざりあう。
 だが、決して力はゆるめない。

 いくらでもかかってくればいい。相打ちはとうに覚悟している。
 姫を守れるなら、それでいい。
 どんなに強くとも、万能の力があろうとも、どれほど憎しみが強かろうとも。
 絶対に、倒してみせる。絶対に、姫を、守り抜いてみせる。

 姫を、幸せにしてみせる――!

 声は出ない。だが竜は、まっすぐな眼光で、言った。
 鬼神が絶叫する。体から、黒い靄が流れ出る。

「貴様ら……! ああ、あ、はらわたが、煮えくり返る……! 憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い、憎い……! この憎しみ、嫌悪、あぁ、言葉にできぬ。したくもない。目障りだ! 貴様ら二人とも、今すぐ消えよ! 消し炭にしてくれる!」

 赤い女の背中から、枯れ枝のような二本の腕が生えた。
 長い爪をぎらりとさせて、姫の首に迫りくる。

「姫、に……! 触るな……!」

 ぐっと、左手に力を込める。
 竜の体にまとっていた白い煙が、枯れ枝の腕に巻き付き、いっぺんに浄化させた。
 そのまま、竜の心臓に入り込む。清い力が体中に染み渡る。
 刃の輝きが、膨れ上がる。赤い女の足元が、じわりじわりと焼けていく。
 鬼神が呻きながら、赤い瞳を閃かせた。どす黒い殺気が押し寄せる。
 だが、竜は揺らがない。意志はますます強くなる。

 姫を、幸せにしてみせる。この命を、全てをかけて――!

 竜の瞳が、青い輝きを解き放った。

 その、直後。キン、と儚い音が鳴り、姫の右手中指から、赤い女の足元が、斬り落ちた。
 切り離された赤い体が、脆い砂となっていく。
 金切り声が絶叫に、断末魔に変わる。
 暗闇がますますゆがみ、揺れる。
 だが、姫の指にはまだ、赤い石がこびりついていた。

 竜は姫を支えながら、ゆっくり、揺らぐ闇に膝をついた。
 太刀を消し、姫の背中からそっと手を離す。
 そして――青い短刀を右手に宿し、姫の右手に、左手を重ねた。

「すまない……姫!」

 蒼龍刀が、赤い魂を貫いた。

十一


 ――温かい。

 なつかしい温もりに包まれている。触れたところから伝わる熱、心臓の音、やさしい甘さと男の子らしい苦さが混ざったにおい、体を支える腕の強さ。
 何もかもに安心する。

 そっと目を開けると、首筋が目に入った。汗が一粒、襟の中へ落ちていった。
 静かな虫の声が、遠くで聞こえる。蛙の声が、近くで聞こえる。
 顔を上げると、見慣れた人と目があった。
 見慣れ過ぎているくらいなのに、息が、止まった。心臓が、破裂しそうになった。
 頭の中がぐるぐるして、姫は、両手で顔を覆い、叫んだ。
「ちょっ……やだ! どうして、これ……お姫様抱っこ? やだ! 降ろして! 自分で歩くわ!」
「落ち着け。こんな裾の長い着物で、歩けないだろう。それに、靴も履いていない」
 両手の指先から目だけ出して覗くと、黒い着物の裾が、金魚の尾のように、風に揺れてひらひらしていた。裾が長すぎて見えないが、たしかに自分は足袋一つだった。
 状況は理解した。だが、落ち着かない。
 心臓がばくばくと暴れ続けている。触れ合うところが、熱くてたまらない。
 再び両手で、燃える顔を覆った。
「近い……」
 姫が、小さな息とともに、心の声を漏らした。

 竜は――困った。なんとも言えず、眉間に深いしわが寄る。
 竜とて、この近さを気にしていないわけではない。自分の汗がこぼれてしまうのではないかと気が気でないし、体の傷は一応血が止まっているが、何かのはずみで傷口が開いて姫を汚してしまうのではないかとひやひやしている。それでも、こんな状態の姫に、歩かせたくはなかった。
 姫が何かを思い出したように、はっとした。両手の先から、目だけ覗かせる。
「私の、服は……?」
「探してない。そのまま出てきた」
「私、探してくる。靴だってあるかもしれないし……。そういえば、陽とか、雫くん、光さんは? 一緒だったの?」
「さあ。そのうち来るだろう」
「一緒に来てくれたのね。それならやっぱり、私、戻るわ。降ろして」
 竜は黙って、踵を返した。
 街灯も、紫の灯もない。民家も、店もない。田畑が広がる、真っ暗な道のはるか先に、茂みに隠れた米粒のような家がぽつんとたたずんでいる。おそらく、あそこからきたのだろう。月明りもとぼしい道を、もうずいぶん、歩いてきたらしい。
「降ろさない。戻るなら、このまま行く」
 混乱して記憶が飛んでいたが、竜は今、戦いを終えたところだった。そもそもこんな、どこだか分からないところに来るのは、簡単ではなかっただろう。そんな疲労困憊の竜に、あそこまで戻れなどと鬼のようなわがままが言えようか。
 口をつぐむと、竜は再び帰路をたどった。
「駅まで、あと十分じゅっぷんぐらいだろう。ロッカーに、着替えもスマホもある。着いたら連絡を取れ」
 しばらく、沈黙が続いた。
 温かさに身を委ねていると、姫は少しずつ、落ち着いてきた。目だけ覗かせ、竜の右頬をちらりと見た。鬼神との戦いの中で、自分の手が傷つけてしまった傷だった。深くはないが、血がにじんだ跡があった。右手にも、傷を負わせてしまったことを思い出した。
「……竜、ごめんなさい。私、わがままばかり言って。大変な思いで来てくれたのに、お礼も言っていなかった。来てくれて、助けてくれて、本当にありがとう」
 竜は、首だけで「ウン」とうなずいた。
「あと、本当にごめんなさい。私、竜を傷つけてしまった。傷、痛くない?」
 竜はまた、首だけで「ウン」とうなずいた。
「鬼神は、消えた、のよね……」
 姫は、顔から手を離し、指を見つめた。赤い石は、もうない。
 蒼龍刀で貫いた石は、砂になって、竜の石の中に吸い込まれていった。今まで戦った鬼たちと同じように。
 あれだけ強い力を手に入れたはずなのに、竜の石の蕾は、ほんの少し膨らみはしたが、花は開かなかった。花さえ開けば、それを確証にできたかもしれない。だが、他に確かめるすべはない。
 当初、姫の指の赤い石は、鬼神が体を乗っ取った時にしか現れていなかった。祭後に出現し続けていたのは、姫を罪の意識に苛ませ、竜を苦しめるためだったのだろう。自由自在に石の出現を操作できるとしたら、もしかすると、まだ姫の中に潜んでいるのかもしれない。
 だが。
「もし、鬼神が消えていなかったら、また倒すだけだ。今はとにかく、姫と帰れれば、それでいい」
 姫は、大きな瞳を見開いた。きゅっとした胸を、そっと、両手で隠した。

 後ろから、二人を呼ぶ声がした。
 竜の肩から後ろを覗くと、黒い猫が走ってくるのが見えた。
 竜は聞こえていないのか、足を止めない。心なしか、むしろ早足になった気がした。
「竜! 陽が来たわ。止まって、降ろして。勘違いさせたくない」
「姉弟なんだから、別に構わないだろう」
「姉弟……みたいなものかもしれないけど」

 姫が左手でぐいっと、竜の胸を押した。

「幼馴染なんだから、気にするわ」

 竜は、足を止めた。
 じっと見つめると、姫は下唇を甘く噛んで、目をそらした。

「幼馴染……。そうか」

 竜は姫を離すことなく、再び歩き始めた。

戦鬼伝 第四章ー跡ー

2020年4月3日 発行 初版

著者・発行:鈴奈
イラスト・キャラクターデザイン:さらまんだ
コンセプトアート:BUZZ
装丁:兎月ルナ

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