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イラスト・キャラクターデザイン さらまんだ
コンセプトアート BUZZ
装丁 兎月ルナ
深夜二時、風はない。
紫のほのかな灯りの中を、脱兎のごとき黒い影が駆け抜ける。
ひゅうひゅうと、荒い息で助けを求めながら。
迫りくる青い刃を、何度も何度も振り返りながら。
だが、最後に振り返った時。青い閃光が宙を横切り――その黒い獣の首は、夜闇に飛んでいた。
砂になった体は、男の右手中指に輝く赤い石に吸い込まれていく。
その頭上を、影が覆う。
鋭く、真っ赤な、無数の眼光が降り注ぐ。
蝙蝠か。羽の生えた巨大な鼠か。否、違う。
奴らは、鬼だ。
「よくも俺たちの大将をやってくれたな……」
「許さん……! お前を喰って、大将の敵を取ってやる……!」
わらわらと頭上に沸く罵詈雑言。
青い刃に巻き付く白い煙が、踊るように波打った。
雨あがりの生ぬるい空気が、冷ややかに震える。
――フジョウ ゼンブ クウ……。
「ああ。全て喰え」
それだけ言うと、彼は、青い刃を投げた。まっすぐに、中央の鬼に突き刺さる。
白い煙が膨れ上がり、蒼い龍の姿を成す。
蒼龍は八の字を描くように、巨大な口で、次々と鬼たちを喰べていく。
彼の手に再び、一振りの太刀が握られた。
難を逃れた鬼の子どもたちが、どんどん上空へ逃げていく。
彼は素早く塀を登り、屋根に飛び移り、それらを追いかける。
そして、容赦なく、一匹残らず、ばらばらに斬り刻んだ。
無数の砂が、彼の蕾の養分となる。
姫の幸せ――ただそれだけを願うために。
赤い蕾は膨らむばかりで、その願いは、まだ咲かない。
六月中旬。武蔵市立武蔵高等学校。白い校舎は梅雨雲に包まれ、わずかな水滴に濡れている。学校中の教室が、静寂に支配されていた。焦りと、迷いと、願いと、熱と、ペンの音が入り乱れる、重く、刺々しい静寂に。
やがて、時計の秒針が、十二を指した時。
「やめ!」
声を合図に、ほっと安堵し胸を撫でおろす者、後悔で頭を抱える者のため息が混ざり合う。
そして、教員が、「これにて、終わり」と言うと、全校生徒、総勢一二〇〇人が、歓喜の雄たけびを上げた。
「やったぁ――!」
「終わったぁ――!」
四日間にわたる定期テストの最後をようやく迎えることができたのだ。どうして喜ばずにいられようか。
ガッツポーズを振り上げる者、どろどろに溶けて机にへばりつく者、一抹の不安を分かち合う者。そして、ぱあっと遊ぼうと声を掛け合う者。彩もその一人であった。
「やーん。姫ちゃん、おつかれ! やっとおわったね! ぱあっと遊びに行こ!」
姫は、にっこり笑った。時計を見ると、まだ十一時だ。
「行きたい。十六時半から陽と約束しているから、それまでなら遊べるわ」
「じゃ、イツメンで行こ!」
彩が、友人二人に声をかけに行く。姫はスマホで、さっとメッセージを送った。
ランチの場所はどこにしようか、その後何をしようか。
テストの手ごたえ、分からなかったところの答え合わせ。
四人であれこれ話をしながら下駄箱に向かうと、学生服の男が、玄関扉のガラスにぼうっともたれかかっていた。姫の隣にいた三人が、「お?」と口の形を揃える。
「竜、お疲れ様。さっきメッセージ送ったんだけど……」
竜は、ポケットからスマホを取り出すと、軽く操作した。
「遊びに行くのか。あまり遅くなるな」
「大丈夫よ。じゃあね」
とぼとぼと歩いていく広い背中を見送りながら、姫は、靴箱に指を伸ばした。すでに靴を履きかえていた友人二人が、にやにやと姫の腕をつつく。
「いつ見ても、竜くんの愛は深いですなぁ」
「あまり遅くなるな!」
「そういうのじゃないってば」
姫が苦笑する。そこに、ちょうど雫が通りかかった。
「ヤッホー、雫くん。テストどうだった?」
「お疲れ様です、彩さん。姫さん、みなさんも。テストは、どうでしょう。特に問題ないかと思います」
雫が振りまく余裕の微笑みに、友人二人は、一気にそちらに釘付けになった。
姫はつつかれていた腕をそっと、手のひらでさすった。
「雫くん、これから帰る? 竜が一人で帰っちゃったから、よかったら一緒に帰ってあげて」
「本当ですか。頑張って追い付きます。それでは、失礼します」
雫は、ローファーの爪先をトンと整えると、ふわりと微笑み、髪をなびかせ、颯爽と走って行った。
友人二人は、輝く走り姿が米粒になるまで、釘付けになっていた。
彩だけは、靴を履き替える姫を、ニヤニヤ見つめ続けていた。
「やっぱり、姫ちゃんからの愛も深いですなぁ」
「そんなことないってば……」
姫は、つんと唇を尖らせた。
外の曇り空とは正反対の、晴れ晴れと明るいカフェでパスタを巻きながら、女子高生四人は思い思いの言葉で互いをつなぐ。今日は特に、恋バナばかりが咲いていた。学校からここまで、雫の話でもちきりだったが、ふと、一人の友人がミートソースを巻きながらぼやいた。
「ほんと、いいなあ、姫は。あたしも、竜くんみたいな彼氏ほしい!」
「竜はただの幼馴染よ」
「幼馴染でもさぁ、毎日一緒に学校通ってるし、帰りもいっつも待っててくれるじゃん。そういう風に愛されたい!」
「ただ家が隣だからそうなってるだけよ」
「いや、もう何度も言うけど、はたから見たら、絶対竜くんは姫のこと好きだからね!」
姫は、静かに水を飲んだ。
彩がボンゴレ・ビアンコの貝の中身をフォークで突き刺し、「うぅん」と唸る。
「でも、ずっと謎なんだよねぇ。なんで姫ちゃんは竜くんじゃなくて、陽くんなの? 私、竜くんが、姫ちゃんと一緒の高校に行くって一生懸命頑張ってた時、絶対竜くんの方が姫ちゃんを幸せにできるって思ったよ?」
竜が、姫と同じ武蔵高校を志望していることが発覚したのは、九月の三者面談後のことだった。志望動機を聞いても、「行きたいから」としか言わなかったが、とにかく竜が受かるように、姫は全面的に協力をした。武蔵高校は市内で一番偏差値の高い進学校である。定期テストで全教科七十点台の竜が受かる場所ではない。だが、地頭が良かったのか、火事場の馬鹿力を発揮したのか、竜はなぜか合格を勝ち取ったのである。
姫は、「彩はずっと、アンチ陽なの」と、友人二人に苦笑を投げかけ、小さなとぐろを巻いたジェノベーゼを口の中に入れた。友人たちは鼻で笑い、「まあ、彩の気持ちは分かるわ」と、パスタを吸い込んだ。
「姫の彼氏のこと、写真でしか見てないから分からないけどさ。顔で選ぶなら竜くんだよね」
「それはあるね。最初はなんか怖くて直視できなかったから分からなかったけど、よく見ると顔、整ってるもんね」
「この前、あけみ先輩が告ったんでしょ」
――カチャン。
金属音が、店内に響く。姫のフォークが大きく、一回転をした。緑色のソースがべったりとついた皿の上で滑ってしまった。
どきん、どきん、と体が揺れる。まるで、体がまるごと、心臓になってしまったように。
「姫、大丈夫? 目がこぼれそうになってるけど……」
「え、姫、もしかして、聞いてなかったの? 竜くんから」
ショートカットの友人が、食べようとしていた一口分のペペロンチーノをスプーンに置いて、目と口を丸く開いた。
「まじ? 二週間前くらいの話だよ。あけみ先輩が竜くんのこと狙ってるのは結構有名だったけど、テスト勉強始まるあたりで、『テスト終わったら返事ちょうだい』って言って告ったんだって。そしたら、『は?』って一言いわれて、終わりだってさ」
「うわ、それめっちゃ心折れる……」
姫は、鼓動が響いたままの体から、なんとか、「そう、なんだ……」と絞り出した。
向かいに座る彩が、フォークを置いて、焦点の合わない姫の瞳を覗き込んだ。
「姫ちゃん。……今、どんな気持ちなの?」
目を上げると、彩は珍しく、真面目な顔をしていた。
姫は、動いたり、きゅっと締まったりする忙しい胸に手を当てて、しばらく考える。
そして、一縷の切なさを含んだ微笑みを浮かべた。
「なんだろう……。今まで竜が、そういう風に、誰かに好きとか、かっこいいとか言われたことってなかったから、不思議な気持ち」
友人たちは、「そうなんだ」「意外だね」と顔を見合わせる。
彩は、しばらくじっと姫の顔を見つめていたが、ややあって、パスタを巻いた。
「ま、いいけどさ。もっと、自分の気持ちに素直になりなよ。それが、姫ちゃんの幸せにつながっていくと、私は思うよ」
姫は、緑のオイルがべたべたに絡まったフォークを見つめた。
――分かっている、自分の素直な気持ちは。
考えて、考えて、考えてきた。
何度も、何度も、何日も。つぶれてしまいそうな胸の痛みに耐えながら。
もう、答えを持っている。
これが自分の素直な気持ちだ。
嘘なんて、少しもついていない。
十六時。姫は一人、友人たちとのカラオケ大会を抜けた。新武蔵駅から電車に乗り、武蔵駅で降りる。
ホームを出ると、目の前のベンチに、陽が座っていた。姫に気付くと、満面の笑顔を咲かせて、大きく手を振った。姫はほっとして、駆け寄った。
「久しぶり! テストお疲れ!」
「久しぶり。陽、髪切ったのね。すごくいいわ」
二人が会うのは、五月二十二日の一年記念日のデート以来、三週間ぶりだった。陽の高校のテストが六月上旬にあり、その一週間後に姫の高校のテストがあったので、互いに勉強漬けで会えなかったのだ。それまでは二日か三日に一回は、こうやって最寄り駅で待ち合わせて会っていたので、三週間も会えなかったのは、陽の心にこたえた。メッセージでやりとりはしていたが、会いたくて会いたくてたまらなかった。
陽は、姫の手を強く握りしめた。
二人が住む地域は、スーパーとコンビニばかりで、新武蔵駅のように、きれいなカフェもカラオケもない。帰り道のデートスポットは、駅から十分ほどの、陽の家だ。
「お邪魔します」
玄関で声をかける。決まって返事はない。奥の道場で、陰陽道の稽古をしている音が聞こえてくる。姫と陽に気を使って、わざと聞こえないふりをしているのだろう。
二人は、縁側に座った。さっきまで湿った曇り空だったのに、切れ切れな雲の隙間から、橙色が燃えている。
陽は、姫と指を絡めた。右肩を、小さな左肩にくっつける。
「会いたかった」
「私も」
「去年の夏は最高だったな、毎日一緒にいられてさ」
「その分色々大変だったじゃない」
「でも、姫といられたから、最高に幸せだったよ。また猫になろっかな」
「いくら陰陽術が上達したからって、変なこと言わないで。皆、大変だったんだから」
「じゃあ……膝枕して」
姫が「えっ」と戸惑う隙に、陽はそそくさと姫の膝に右耳を乗せる。
「はぁ、幸せ。猫だった時は、毎日こうしていられたのになぁ。やっぱ猫になりたい」
「やだ! もし、おじいさんたちが来たら……」
「姫が来てる間は出てこないから大丈夫」
去年の夏に思う存分浸った、姫の香りがする。甘くて、温かくて、やさしい、花みたいな香りだ。
しかし――思い切ってやってみたものの、その香りと、膝の温もりややわらかさを人間の肌身で感じるのは、とんでもなくドキドキした。頬をくっつけているつもりで、微妙に一ミリくらい、浮かせていた。とても体重をかけられない。それに、体が、どくんどくんと鼓動で揺れているのが、姫にまる見えになっているのではないかと思うと、恥ずかしい気持ちもこみ上げる。
目をつむると、心いっぱいにドキドキを感じた。こんなに幸せな感情で体が満たされていることが、何にも代えられない素晴らしいことに思えた。
「姫といると、生きててよかったって思う。大袈裟だけど」
「ほんと。でも、嬉しい」
二つ呼吸をして、そっと、一ミリの隙間を埋めてみた。
――ああ。姫が、好きだな。
このままずっと、一緒にいたい。
じんわりと、そう思った。
烏の声が、遠くで聞こえる。
ふと、姫と目を合わせたくなって、頬を入れ替え、目を上げた。
姫は――黒い雲の隙間から覗く橙の奥へ、一生懸命に目を凝らしていた。
何かを、探すように。何かを、想うように。
――だめだ。
何がだめなのか。陽自身にも分からない。ただ、そんな言葉が浮かんだ。なよ竹のかぐや姫のように、どこか遠くへ、姫が離れて行ってしまうような気がした。
捕まえておかなくては。
体を起こして、左腕を引き寄せる。
目の前の森が、ざわりと音を立てた。
音がだんだんと小さくなって、二人はゆっくり、唇を離した。
「ごめん、急に……」
姫は、ふふっと声を漏らすと、「やっぱり陽といると、すごくドキドキする」と言った。両手で鼻と唇を覆う。真っ赤に染まった顔を隠す、姫のいつもの癖だ。
空は紺色に染まり、橙の隙間はどこかへ消えていた。
陽は、姫の隣に座り直して、自分の両手の指を絡めた。もぞもぞ動かして、指と指の隙間の汗を、手のひらの汗を、互いの手で拭う。
「なんかさ……思ったより、違う学校って、不安なものだな」
会いたくても、すぐに会えない。会えない間に、誰と話しているかも分からない。もしかしたら、その誰かに、少しでも心惹かれていたりするかもしれない。傍にいないからこそ、相手の周りにいる人間の顔が分からないからこそ、あらぬ妄想をしてしまう。信じたいのに、不安が妄想を膨らませる。
「私も、不安よ。陽っていろんな人と仲良くなれるから、誰かが陽のこと好きになっちゃったらどうしよう」
「それはない! っていうか、光さんが俺んとこにしょっちゅう来てさ。光さん、チャラいし怖いから、俺までやばい奴だと思われちゃってるみたいで、女子が怖がって去っていくんだよな。そういうわけで、俺今、女友達一人もいない」
「それは、光さんに感謝しないとね」
姫は、屈託なく笑った。
かくいう姫は、入学当初から何人かの男子から告白をされたと聞く。二人で話し合って、そういうことがあったら、隠さないで伝え合うことにしている。報告を受けると、もやっとはするが、隠されているよりずっといい。隠しごとをして、胸に罪悪感や不安を抱えたまま一緒にいたら、すぐに分かる。そして、悲しくなる。さみしくなる。ひとりぼっちになってしまったかのように。
姫も、それは分かっているはずだ。だから、何も言わないのは、最近は告白をされていない、ということだろう。何も秘密にしていることはない、ということだろう。
それでも陽の心には、ひとりぼっちになってしまうような不安が胸に渦巻いていた。
今、捕まえたはずなのに。どうしても、不安が拭えない。
陽は手をほどいて、ズボンを握った。汗が、黒いズボンに染みていく。
カラカラになった喉を開いて、姫を覗き込む。
「……斎王と、何も……ないよね?」
姫は、二度、瞬きをした。上唇が少しだけ開いた。
目をそらして、うつむいて。
そして姫は、「ごめんね」と小さくつぶやいた。
「いつも、陽に心配かけちゃって」
「何か、あったのか?」
「ないわ。でも……」
姫は、小さなため息をついた。かすかに肩が揺れる。後ろ髪がはらりと、姫の顔を隠す。
「竜に、ちゃんと言おうかなって、思ってるの……」
「何を……?」
「……距離を、おきたいって」
陽は、ごくんと唾を飲んだ。自分の喉の音が耳に響いた。
リビングの電気が、やけに白く、二人の背中を照らす。
顔を上げた姫の瞳は、白い輝きがきらきらと揺れていた。
「私は、陽が好き。陽と一緒に、いたいから」
陽は、左手を伸ばした。姫の右頬を引き寄せる。
二人はもう一度、長いキスをした。
コンコン、と窓を叩く音がした。夜、二十一時を回ったところだった。
シャーペンを止めて、少し考える。開けようか、開けまいか――。
もう一度、コンコン、と鳴った。少し考えて、姫は窓を開けた。蛙の声が、どっと入ってきた。
竜が、「そっち、行っていいか」と聞いた。二人の部屋の窓は、手の届く距離だ。用事がある時は、竜が窓をくぐって姫の部屋に入る。
「私たちももう高校生なんだから、お互いの部屋に軽々しく入らないようにしようって、何度も言ったでしょう」
数か月前まで受験勉強していた時は、互いの部屋を行き来していたのに。竜はそう言いたげに、少しむっとした表情をした。
「分からないところがあるんだが」
「ここで聞くわ。どこ?」
竜が見せてきたのは、国語の教科書だった。『伊勢物語』第二十三段「筒井筒」。
定期テスト終了直後ではあるが、明日の授業のために訳をしてくるよう課題が出されたという。
姫はまだ読んでいないところだったが、軽く読んで、なんとなく内容を理解した。
昔、あるところに、幼い少年と少女がいた。二人は、井戸の傍でよく遊んでいたが、大人になり、お互いに恥ずかしくなって、会わなくなってしまった。しかし、彼は彼女を手に入れたい、と思った。彼女もまた、彼のことを想っていた。
竜は、ここまでは分かったという。
「『親のあはすれども』ってところから、よく分からない」
竜が身を乗り出して、姫の手にある教科書の一文を指差した。額と額がくっつきそうになる。
姫は一歩下がって、竜に単語帳を持ってくるよう指示をした。
「あふ」「妹」という単語を確認すると、竜は、「あぁ」と静かに合点した。
「結婚したのか」
「そうね」
しかし竜は、自分の首の後ろを握って、目を細めた。
「この和歌が、よく分からない」
彼のうたは、
「筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」
―― 一緒に遊んだあの頃、同じくらいの背丈だった井戸の高さを、僕はもう越してしまいました。愛しいあなたに会わないうちに。
彼女のうたは、
「くらべこし 振分髪も 肩すぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき」
――あなたと競うように比べていた私の髪は、肩をすぎるほど長くなりました。あなたでなくて、誰がこの髪を上げて大人にしてくれるというのでしょう。
「昔の女性は髪を結い上げることが成人の証だったの」
姫が付け足すと、竜は、「そうなのか」とつぶやいた。だが、腑に落ちないのか、首を傾げて教科書を睨んでいる。
「どうして、このやりとりをして結婚をすることになった? 背とか髪とかの話をして、大人になったって言ってるだけだろう。この和歌はつまり、どういう意味なんだ」
姫は、解説をしようと思ったが、やめた。一生懸命考えているところに、自分の解釈で、水を差したくはない。
じっと見守っていると、竜は小さく、「あぁ」と感嘆を漏らした。
「大人になったが、ずっと一緒にいたいっていうことか」
「そうね……」
竜は、「なるほど、分かった」と言って、別のページをぱらぱらとめくった。他にも質問があるのかと思い待っていたが、なんとなくページをめくっているだけのようだった。
竜は高校に入ってから、勉強をよく頑張るようになった。毎日、鬼退治をした後、二十一時までには帰って来て、姫に教えてもらいながら勉強をする。終わり次第、また鬼退治に出かけ、帰ってくるのは深夜か早朝らしかった。
身体能力が高く、体力もある竜にとっては、戦いなど負担ではないのかもしれない。それでも、竜の努力を、姫は静かに尊敬していた。
だからこそ、力になりたい。そう思ってきた。そう思っている。
でも――。
「……竜。話したいことがあるの」
竜は、目を上げて、教科書を閉じた。姫の長いまつ毛の影を見つめる。
沈黙が続く。
姫の心は、何かに強く掴まれているようだった。
痛い。苦しい。声を出すことも、呼吸さえも、思うようにできない。
――突き放せない。
このまま、突き放せない。このまま、ひとりにできない。
ぎゅっと、組んだ両手を握りしめる。
「……クローバー」
脳裏に、懐かしい形が浮かんだ。
竜は、言葉を繰り返して、疑問符を付ける。
姫は、うなずいた。
「四つ葉のクローバー、探しに行きたいの」
姫の家の隣にある小さな公園に、二人はぽつんとしゃがんでいた。雨が蒸れた、梅雨のにおいが充満している。紫色の守護符の灯りが、公園の中をほのかに照らしているが、深緑のクローバーは暗闇に溶けてしまって、よく見えない。竜が、スマホのライトで姫の手元を白く照らした。
「そういえば、竜、告白されたんだって? 先輩に」
「さあ」
「さあって。聞いたわよ。は? って返したんだって?」
「あぁ、あれか」
二人は、指で一つ一つクローバーの葉を確かめながら、目も合わせず、さらさらと話をする。湿った土のにおいがする。
「竜のこと、好きって言ってくれたんだから、大切にしなきゃ。ありがとうとか、ごめんなさいとか、誠意を持って返した方がいいわ」
「なんて返したって結局同じだろう。そんなどうでもいい奴に、いちいち言葉を考える必要はない」
姫の指が、クローバーの葉をつまんで、止まった。
「竜は、好きな人とか、いないの」
竜は、手を止めなかった。川の流れのようだった言葉は、せき止められたように出なくなった。蛙や虫の高い音が沈黙を埋める。
「竜は――」
降り始めた雨のように、姫の声がぽつりと漏れた。
「私のこと、どう思ってるの……」
竜の手が、止まった。
耳の中が、空っぽになる。
姫が、すっと立ち上がって、少し離れたところにしゃがんだ。
自分のスマホのライトでクローバーを照らし、指を動かす。
竜は、何も言わない。
ああ、いっそ、言わなくていい。どうしてこんなことを聞いてしまったのだろう。
自分の伝えるべきことは、変わらないのに。
姫は、ずっと考えてきた。
あの戦いで鬼神が言った、竜が自分のことを大切に思っている、という言葉を。
そして、竜が今まで何度も繰り返してくれた、「姫が幸せならそれでいい」という言葉を。
竜はどうして、そんな風に思ってくれているのだろう。どうして、そんなことを言ったのだろう。
眠れない夜を繰り返した。
いつまでも朝が来ない気がして、窓を見つめては、苦しくなって瞼を閉じた。
一つの憶測が心で騒ぐ。竜の行動がつながっていく。
だが、確かめようとどうしようと、伝えることは変わらない。
それなのに、口に出そうとすると、死んでしまいそうなくらい、胸が痛くて、苦しい。
体が勝手に、命をつなごうと、浅い呼吸をする。
その時。右手の指が、隠れた葉っぱを一枚見つけた。
白いライトで照らすと、たしかにそれは、四つ葉のクローバーだった。
根元からやさしく摘み、胸に抱いた。
心からの願いを、託すように。
「竜」
振り返ると、姫が、四つ葉を差し出していた。
「竜が、幸せになりますように」
優しい微笑みに、なぜか息が苦しくなって、竜は目をそらした。
「俺は……姫が幸せになれば、それでいい」
「だめ。持っていてほしいの。お願い」
姫が、竜の前に膝をつく。そして、竜の左手をそっと開くと、四つ葉を置いた。
「竜、聞いて」
姫の指が、やさしく、竜の左手の指を畳んで、クローバーを握らせた。そのまま、ぎゅっと、姫の細い指が、竜の大きな手を握りしめる。白い指は、少しだけ冷たくて、少しだけ震えていた。
「竜、この前も言ってくれたわよね。私が幸せであることが、自分の幸せって。嬉しかった。竜が私と同じ高校に行くって言った時も、びっくりしたけど、嬉しかった。また一緒にいられるんだって。でも、私……そうやって、竜に依存していたんだなって、気付いたの。竜が、誰かに告白されたって聞いた時も、すごく、いやな気持ちがして……。だめよね。竜が私を……幼馴染として大切にしてくれているからって、そうやって、竜を縛っている」
「いいよ」
「よくない。だって、私は……竜と、ずっと一緒にはいられない」
泣きそうな瞳が交差する。竜が、ひとりぼっちになったような目をしている。
かすかに、「なんで」と、唇が震えた気がした。
「私は、竜がどんなに大切に思ってくれていても、陽が好きなの。この先、どんな将来があるか分からないけれど、きっと私は、大学に行ったり、誰かと結婚したりするわ。でも、私は、竜の想いにこたえられない。こたえられないのに……。そうやって、振り回して……竜の人生に、私はこれ以上、責任を持てないの……!」
姫の手が、竜の左手から離れていく。強く食い込んだ細い指の跡は、すぐに赤みを帯びて、熱くなった。
姫は、小さく「ごめんね」と肩を震わせた。
「距離を、置いてほしいの」
竜はしばらく、自分の左手を名残惜しそうに見つめ、熱いところを撫でていた。
だが、やがて、「分かった」と静かにつぶやいた。
耳慣れた足音が、遠くなっていく。
姫は、ありったけの力で、胸を掴んだ。
痛くてたまらない。
心がえぐられて、ぽっかり穴が開いてしまって、だけど、もう決してふさぐことができないような、果てしない痛み――。
だけど、きっとこれでいい。
自分も、竜も、幸せになれる。
悲しみも、苦しみも、永遠には続かない。
いつかきっと、この痛みを乗り越えて、幸せになれる日が、きっと来る。
今までだってそうだった。生きているって、そういうことだ。
いつのまにか、虫の声は聞こえなくなっていた。
ぽつり、ぽつり、と姫の頬に雨が落ちた。
姫をひとりぼっちにして、何をしているのだろう。
真っ暗な部屋で、窓の鍵を、カーテンを閉めて――これじゃあ、姫が無事に帰って来たかなんて、分からないのに。
姫が、自分とは一緒にいられないと、そう言っただけじゃないか。
そんなことは、分かっていた。
いつかそうなるだろう、という覚悟だってできていた。
一緒にいられようと、いられまいと、自分の願うことは変わらない。するべきことは変わらない。
姫が幸せになることを願う。そのために、戦う。
それだけだ。
そのはずなのに……。
竜は、部屋のどこかも分からないところで、膝を抱えていた。呼吸が苦しい。
心臓にぽっかり大きな穴が開いて、もう決してふさぐことができないような、果てしない痛みが走る。体がねじ切れてしまいそうだ。いっそ、ねじ切れてしまえばいいとさえ、思う。
――姫とは、もう、一緒にいられない。
その言葉が脳裏に浮かぶたび、苦しくて、苦しくて、力いっぱい、手を握った。
体が勝手に、浅く、呼吸を求める。
どうして、こんなに痛いのだろう。
ふと力がゆるんだ時、深く吸った空気と一緒に、答えが体中に沁み渡った。
――姫と一緒に、いたかった。
大人になっても、ずっと一緒に、いたかった。
だが、姫はそれを望んでいない。
一緒にいたいなんて、自分の思いでしかない。
自分の思いなど、必要ない。
必要なのは、姫が幸せになること。それだけだ。
――姫が幸せになるなら、それでいい。
一緒にいても、いなくても、姫への想いは変わらない。
どんなに苦しくても、痛くても。それで姫が幸せになるなら、構わない。
竜は、固く握った左手に、口づけた。
幼い頃の記憶に刻まれたクローバーの青いにおいに、すがるように。
窓を打つ雨の音が、ひとりぼっちの部屋にあふれた。
翌朝は、土砂降りだった。黒い雲がときどき白く点滅し、低い轟きがかすかなしびれを感じさせる。
電車の遅延、水浸しの道。
姫の母は、「今日は送っていってあげる」と言った。
玄関から出た所で、ちょうど、竜が前を通りかかった。
「おはよう、竜ちゃん。一緒に乗っていって」
竜は、うつむいたままの姫を一瞬だけ目に映すと、「いや、いいです。電車で行きます」と言って、次の言葉を待たず、去って行った。
母は、姫の赤く腫れた目を見つめた。
透明の傘が、重い。一粒一粒が、ずっしりとのしかかってくる。
靴も、靴下も、ズボンの裾も、肩も、腕も、十分と歩いていないのに、びしょ濡れになってしまった。冷たくて、気持ちの悪い感覚ばかりする。
住宅街を抜けて、駅の目の前の大きな横断歩道に出た。一人で歩く十分は、長く、果てしない。二人で歩く十五分は、もっと、あっという間だったのに。
こんな雨なのに、いつもと同じくらいたくさんの人が、赤信号が切り替わるのを待っている。
後ろから、学生らしい、楽しそうな声も聞こえてくる。車が水を掻く音。二十もの傘を打ち付ける雨粒の音。コンクリートと雨の蒸れたにおい。白い飛沫。無数の波紋。信号の朧げな赤。かすかに聞こえる、駅のホームのアナウンス。
からっぽの心は、そこにある全ての感覚をひたすら受け入れた。
信号が青に変わって、横断歩道の白いラインを踏んだ。
水が跳ね返って、隣の誰かの靴を濡らす。
――サッ…………キ……………………。
一瞬、聞こえた。耳が受け取ったのではない。体の中から、静かに、震えるように、それでいて、切迫しているような声が湧いた。
同時に、背後から、幾億もの黒い手が体を掴んで引き裂こうとしているような、おぞましい恐怖を感じた。
咄嗟に、体を左にそらす。
わき腹を、鋭い刃が掠めた。
透明の傘が、宙を飛ぶ。
周りにいた人々が、悲鳴を上げて、下がった。竜と男の周りに、慄然とした人の円ができる。
目の前にいるフードを被った男がのそりと振り向く。口元が、不気味にゆがんでいるのが見えた。
男は手中のナイフをぎらつかせると、竜の腹をめがけて、素早く刃を伸ばした。
即座に、竜は男の手首を掴んだ。
「お前、斎王 竜だろ? まあ違っててもいいんだけどさぁ。鬼人喰えば力になるし、何より、うまいからなぁ」
男が、ねっとりした声でささやく。互いの手に、力が入る。
しかし、竜の手が、雨で滑った。わき腹の傷の上に、深く突き刺さる。
「斎王!」
聞き覚えのある声が二つ、足音とともに聞こえた。
光と、陽だ。
二人は、男の手を片方ずつ、体全部で押さえ込んだ。
刃が引き抜かれ、足元の水たまりに、赤い液体が混ざる。
「ははははは! やっぱりお前が、斎王 竜か! お前の力、俺がもらうぞ!」
男は威勢良く、狂気に満ちた顔で笑う。光と陽を、振り払おうともがきながら。
すぐに、サイレンの音が聞こえてきた。誰かが呼んだのだろう。
水面に、赤い点滅がぼんやり映る。光と陽はますます力を込めて男を押さえ、警察に引き渡した。
救急隊に声をかけられ、急に足が崩れた。
大した傷じゃない。鬼との戦いで、この程度、慣れているはずなのに。
竜の意識は、そこで途絶えた。
泣き声で、目が覚めた。
姫と、知っている顔が三つ、心配そうに覗き込んでいる。無意識に、曇ったガラスを拭くように、竜は、姫の涙を指で拭った。
それでも、姫の涙は、ぽろぽろと止まらない。
「ごめんね。私が、あんなこと言ったから……。朝、一緒に行っていればよかった。お母さんの車で送ってもらっていたら、こんなことには……」
なんのことだっけ、とぼんやり考えていると、右わき腹がなんとなく痛いような気がした。
薬のにおい、冷たくて硬い真っ白なシーツ、見慣れない天井。
だんだん、朦朧とした意識がはっきりしてきた。
変な男に刺されて、病院に運ばれたのだ。
三人の少年たち――陽、雫、光から話を聞くと、目が覚めるまでのいきさつは、こうだった。
陽と光が通う私立武川高等学校は、影宮神社の最寄りにある武蔵駅から、三つ先の駅の前に位置している。今日は豪雨のために、いつもより二本早い電車に乗ることにした。そこでちょうど、竜がフードを被った男に襲われているところに出くわしたのだ。
男を捕らえ、警察に引き渡した後、二人はそのまま、意識が朦朧としている竜に付き添った。
傷が深く、出血も多かったために、竜は手術室に運ばれた。
光が、図書館で本を読むため、朝早く登校していた雫に連絡を取ると、雫は急いで姫に伝えた。青ざめ、取り乱す姫を連れ、雫はうまく学校を抜け出し、竜のところへ駆けつけた。どうやってうまく抜けたかは、バニラのにおいで察しがついた。
涙の止まらない姫にもう一度手を伸ばそうとした時、陽が、姫の隣にしゃがんで、細い肩を抱きしめた。
行き場のなくなった手をシーツに隠し、竜は目をつむった。
廊下から、母の声と、担任の声が聞こえてくる。幸い、やりとりは長引きそうだ。
「お前たちも聞いただろう。あの男は、俺を狙っていた。俺の力、と言っていた」
光は、強くうなずいた。
「ありゃ、隠形鬼だな」
――隠形鬼。
四鬼の一体で、人間や鬼人の死体に乗り移り、その人間や鬼人として生きていく力を持つ鬼である。その力は他の四鬼にも分け与えられていた。
隠形鬼のやっかいな点は、乗り移った人間や鬼人の性格を引き継ぎ、周りに気付かれないまま生活できることだ。その上、昼夜も、守護符の内外も関係なく、動くことができてしまう。さらに、人や鬼人に乗り移っても、肉体や戦闘能力は鬼の時と同等に強化され、鬼人に乗り移った場合には、その力を使うこともできてしまう。
隠形鬼とは、確実に狙った獲物を仕留める、最恐の暗殺鬼なのである。
「でも、なんで斎王を狙ってるんだ?」
「分かりません。可能性として考えられるのは、金鬼や鬼神を倒し、その魂を吸い取った斎王くんを殺すことで、自らの力を強めようとしている、ということです。鬼は、鬼や鬼人の魂を喰べて力をつけます。その魂が共喰いをして多くの魂を吸収していればしているほど、強く、貴重なものとなります。斎王くんは、力を欲する鬼にとって、最高級の獲物なのではないでしょうか」
陽は、「なるほど」と顔をしかめた。姫が、自分の体をぎゅっと抱きしめて、小さくなった。
「畜生! 目的はなんなんだ。力を手に入れて、何をしようってんだ。また、世界を滅ぼそうってか!」
光の目が、怒りに燃える。雫の瞳も、氷のような冷たさを宿した。
「俺には蒼龍が宿っている。あれは鬼の力じゃないから、日中でも少しは動けるんだろう。今回も蒼龍が殺気を感じて、俺に危険を伝えた。警察も事情を説明すれば、何か動くはずだ。俺の方は、良い」
心配なのは――。
うつむく姫を、見つめる。
「……姫。ほとぼりが冷めるまで、一緒にいてくれないか」
姫は、戸惑いの色を浮かべた。陽が強く、姫の肩を引き寄せる。
「待て! 隠形鬼がお前を狙っているんだったら、かえって姫といるのは危険じゃないか? 俺とか、雫、光さんといた方が、お前といることを悟られない。むしろ、一緒にいない方が、姫にとってはいいんじゃないか!」
竜は、陽を睨んだ。だが、その瞳に、いつもの凄みはない。どことなく悲しく、縋り付くような、弱弱しさが灯る。
「お前たちも、隠形鬼に乗り移られる可能性がある。この中で確実に隠形鬼に喰われないのは、狙われている俺だ」
「……たしかに、斎王くんのおっしゃるとおりかもしれません。隠形鬼は、体を乗り換えることも可能です。そして、乗り移った人間や鬼人として、周りに違和感を与えることなく、自然に生活します。僕たち三人が束になっても、互いが隠形鬼に体を取られたことは、きっと分かりません。誰か一人にほころびが生まれたら、それで終わりです」
「かえって危険だな。それに、隠形鬼の体を乗っ取る力って、陰陽術で封印しても、制御されねぇみたいなんだよな。普通、制御されりゃ、乗っ取った体から本体がぽろっと出てきそうじゃん? あん時、封印札を貼ってみたんだけどよ、なーんか、そうならなかったんだよな。なんで、言いにくいんですが――特に、坊ちゃんは危険っす。封印術は大分上達しましたが、隠形鬼の力自体に、封印術が通じねぇ可能性がありますから」
姫の近くにいたら、陽の身が危うい。陽が体を乗っ取られたら、姫の身が危うい。そういうことだ。
陽は、下唇を噛んだ。苦みが喉を通って、ひりひりと痛む。
掠れた声で、陽は静かに、「分かった」と言った。そう言うしかなかった。
姫の肩から、陽の手が滑り落ちた。
刃は内臓まで届いていなかったが、竜は当然、退院を止められた。しかし、病院は見知らぬ人の出入りが多いため、むしろ襲われる危険性がある。そう言って、退院を押し通した。竜の母は線の細い女性で、おどおどしながら竜の背中を見守っていた。
警察の事情聴取を終えた陽と光、そして、姫と雫も、竜と一緒に病院を出た。すでに、十六時をまわっていた。雨はまだ、激しく降り続いていた。
「じゃ、またなんかあったら電話なりメッセなりよこしやがれ。つーか俺、お前の連絡先知らねぇわ。スマホあっか? アド、交換しようぜ!」
竜がつんとそっぽを向くと、タクシーが飛沫を上げながら走ってきた。
「竜、行きましょう。姫ちゃんも乗って。みなさん、本当にありがとうございました……」
竜の母が長い黒髪をひらひらさせながら、細々とした声で、何度もぺこぺこ頭を下げる。
窓越しに、姫が、陽を見つめた。二人とも笑顔になれなくて、なんとなく手も振れなかった。
タクシーが右折し、見えなくなった頃、陽はため息をついた。
「俺、何もできないのかな……」
高校に上がってから、陽は陰陽術を特訓し始めた。だが、才能がなくて、未だに簡単な封印術しかできない。一緒に始めた雫は、すでにいくつもの術を扱えているというのに。もう少し強ければ、姫と一緒にいられたかもしれない。そう思うと、力のない自分が情けなくて、もどかしい。
「坊ちゃん」
光が、やさしく笑いかける。温かく、兄らしい眼差しで。
「できることって、術を使うことだけじゃないっすよ。姫ちゃんを優しく受け入れて、待っててあげる。それこそ、今坊ちゃんができることなんじゃないっすか」
分かっている。でも、簡単じゃない。
陽は黙って唇を尖らせ、帰りの手段をスマホで調べた。病院は、武蔵駅の東側の奥に位置している。影宮神社は西側なので、歩くと一時間以上はかかるのだ。
「光くんは、体の方、大丈夫ですか」
雫が、心配そうに光を覗き込んだ。
光は、いつもの調子でへらりと笑う。
「おう、全然なんともねぇ。火鬼の奴、消えたんじゃねぇかってくらい大人しくしてるぜ。去年の戦いから、別に鬼と戦う必要もねぇから、あんまし鬼人の力使ってねぇじゃん? だからかもしんねぇけど。思いっきし力使ったら、どうにかなっちまうかもしんねぇが……ま、そうなったらそうなっただ。つーか、雫くんは俺のことより自分の心配しろよな」
雫は、シグレとの戦いの際、鬼神と同等の万能の力を願った。しかし、五分と経たず、力の大きさに魂が耐えられず、命を落としかけた。もう一度使ったら、今度こそ命を落とすかもしれない。
隠形鬼は、得体が知れない。だが、四鬼の一体だ。暗殺能力が優れているだけとは思えない。
陰陽術があるとはいえ、今の雫と光は、命を削らなければとても四鬼とは戦えない身だ。
戦い抜けるか。この身を、奪われずにいられるか。
これは、自分たちにとっても大きな戦いである。
二人はしっかり、その事実を飲み込んでいた。
二時間後、十八時。
捕らえられていたフードの男が脱走したという報道が、速報で流れた。
「だめ!」
竜の部屋に、姫の叱咤が鞭のように鋭く響いた。
廊下からは、しくしくすすり泣く竜の母の声と、それを慰める姫の母の声が漏れ聞こえてくる。
いったんは自宅に帰った姫だったが、竜の母が、「竜が、犯人を殺しに行くって言ってきかないの! お部屋にいれてももらえないわ……。姫ちゃん、助けて!」と泣きながら家に飛び込んできたので、急いで竜の部屋に駆け込んだのである。
竜はちょうど、シャツを脱ごうとしているところだった。姫は、手のひらでぱっと顔を覆った。
「ちょうどいい。行くぞ、姫」
「行かないわ。竜も、行っちゃだめ。いくら蒼龍の力があるからって、そんな怪我を負って、四鬼と戦えるわけがないわ」
「あいつは四鬼じゃない。俺を襲った時、あいつはいろいろとしゃべり過ぎた。人間社会に溶け込めるほどの暗殺鬼が、そう簡単にべらべらしゃべるわけがない。あいつは、隠形鬼の力を持った下っ端というところだろう」
「さっきはそんなこと言ってなかったじゃない」
「あいつらが次から次へといろいろ話すから、言うタイミングがなかったし、麻酔でぼんやりしてた」
「でも、四鬼である可能性だってあるでしょう。とにかく、今日は休んで。お母さんに心配かけちゃだめ」
竜が、チャックを上げ終えた。その音を合図に、姫は、ぱっと両手を開き、竜の右腕を捕まえた。左腰を支え、やさしく、ベッドに座らせる。
「姫。鬼人の体は人間より強い。この程度の傷はそれほど痛くもないし、もうほとんど治ってる」
「そうかもしれないけど、でも、心配なの。お願いよ、竜……」
姫が苦しそうに、声と瞳を震わせる。
竜は目をつむって、温かな息を吐いた。
いつもなら、ここで折れてしまう。どうするか――。
「おぉーい。斎王 竜く――ん。この家にいるんだよねぇ? でてこ――い。……でてこいよぉ――!」
突如、外から、気のふれた声が聞こえてきた。廊下にいた二人の母が、「キャッ」と小さな悲鳴を上げる。
竜は咄嗟に、姫を引き寄せ、抱き込んだ。どちらともない鼓動の音で、体が振動する。
竜は、声の方向に背を向けて、全神経を耳に集中した。
「待たせんじゃねぇよ。とっとと出てこい。てめぇがこの家にいるのは分かってんだ。血のにおいがプンプンするんだよなぁ。……おぉい、早くしろって。じゃねぇと……この家壊すぞ、おぉい!」
ガンッという破壊音が、聞こえてきた。コンクリートが砕ける音だ。家の塀が破壊されたのだろう。
廊下にいる竜の母が悲鳴を上げる。姫の母が冷静に、警察に連絡をする声も聞こえてくる。
姫は、ぐいっと竜の胸を押して、「雫くんに連絡するわ」と、スマホを取り出した。
「向こうから来たからには、戦う他ない。行くぞ」
「私……いたって、足手まといになるだけだわ。怪我を負っているのに、私を守りながら戦ったら危ない」
「さっきも言ったが、俺はあいつが下っ端だと考えている。だが、あんなに頭の悪い下っ端一人をこしらえているとも考えられない。隠形鬼の力を持った鬼は、複数いる可能性がある。ここに姫を残していったら、姫が危ない」
「そんなはっきりしない可能性にかけて、竜が危険になる必要なんてないわ!」
「いいから、俺に姫を守らせてくれ!」
姫の肩を包んでいた竜の手に、強い力がこもった。
姫は、はっと息を呑んだ。
竜は、今、怖いに違いない。歩いているだけでも気が休まらないのに、家族だって疑わなければならない。とても孤独な状況だ。学校でも一緒にいられる最も近い存在は、唯一、姫だけなのだ。
孤独な心の拠所は、今、きっと、自分しかいない。
再び、コンクリートが破壊される音と、男の奇声が響いた。
竜は、姫の右手首を掴んで、立ち上がった。
「必ず、守るから」
姫は言葉を失い、ただ引っ張られるままに、しかし足手まといにならないように、全力で竜についていった。
大粒の雨は、いつのまにかほとんど上がり、上弦の月が雲間から覗いていた。
玄関の戸を開くと、フードを被った、赤い眼の狼男が立っていた。耳の部分からは牛の角が生えている。長い舌から唾を滴らせ、荒く呼吸をしている。毛まみれの手には、長く、太い爪が伸びていた。この爪で、コンクリートを破壊したというわけか。
竜は右手中指の石を赤く輝かせ、二本の角と牙を生やした。右手に太刀が顕現する。白い煙が青い刃をまとう。
「やっぱり、いやがったな? てめぇの力、俺がもらう!」
「蒼龍! 来い!」
白い煙が、みるみるうちに巨大な蒼い龍となり、三十二本の牙を剥いて、咆哮した。ひげをうねらせ、フードの男に喰いかかる。
だが、蒼龍が嚙み砕こうとした瞬間、フードの男はするりと本物の狼に姿を変えた。狂った笑い声を上げながら、姫の家の前、公園の前を駆け抜けていく。蒼龍が体をうねらせ、追いかける。竜も、姫の手を引いて、後を追った。蒼龍は何度も狼を捕らえようと、爪を、牙を伸ばすが、コンクリートをむやみに削るだけだ。奴は、攻撃の瞬間、影に溶け込んで回避している。
「なかなか厄介な客だな」
そう言って、竜は振り返った。笑ってはいないのに、ひどく楽しそうに見えた。姫の心に、冷たい痛みが走った。
姫は、言葉を返すことができなかった。竜に引っ張られて走るのは、つらい。息をして、足を動かすのも精一杯だ。
竜は足を止めて、蒼龍を刃に戻した。
淡い紫色に染まるコンクリートの道に、電信柱と民家の影が縞模様をつくっている。
毛むくじゃらの狼男が、ゆらりと立ち上がる。
竜は、太刀を構えて、姫をぐっと引き寄せた。
「貴様はそのまま殺さない。色々と吐いてもらうことがある。まずは、その鬱陶しい足からもらう」
毛むくじゃらが、唾液で濡れた口の回りをべろりと舐めた。
「お姫様を守りながら? かっこいいねぇ……。しかも、好都合。……さあ、殺すぜぇ!」
狼男が、銀色の爪を輝かせる。太い足で、コンクリートを蹴る。俊敏に、竜にまっすぐ、突き進む。
竜は、ぎゅっと体を硬くする姫を、左腕で抱えた。目を凝らし、姿勢を低くし、間合いをはかる。
今だ。
青い閃光が、宙を横に斬る。
だが――狼男は、無数の風の刃によって斬り裂かれ、真っ黒な影になって、散り散りになった。
向こうをみると、してやったりの顔をした光と、苦笑を浮かべる雫、そして、陽が立っていた。
姫は、慌てて竜の腕から脱け出した。膝が、がくんと崩れる。疲労、恐怖、安堵――いろいろな感情が入り交ざって、心臓がバクバクと激しく脈打つ。胸に手を当て、肩で息を整える。
「危機一髪だったじゃねぇか。あ、もしかして! まだポンポン痛いんでしゅかぁ?」
光の一言に、竜は牙を剥きだした。
「影ごとき、俺一人でやれた。ふざけたことをぬかすなら、次はお前ごと殺す」
「ンだと?」
ガンを飛ばし合う二人をよそに、雫はのんびり、「なるほど」と下唇を撫でた。
「影の力を使う鬼ですか。前に、戦ったことがあります。ということは、あれは四鬼ではない、ということですね」
影に忍ぶ力を持った鬼が、狼に変化する鬼人の体を乗っ取った、というところだろう。
「ああ。しばらく殺さない。足だけ斬り落とす」
「ではまず、影から本体をあぶりだしましょう。この辺一帯を更地にするのが、一番手っ取り早いですね」
「待て! そんなことしたら、雫が危険だ! ってか民家だからまずいって。中の人も死ぬ……!」
陽が冷や汗をかきながら制止する。雫は目を丸くして、一瞬、きょとんとした。だが、すぐにふわっと笑って、「では、こうしましょう」と光に耳打ちした。光は、楽しそうに、ニッと牙を剥きだした。
「斎王! ぶっ飛ばすぜ!」
即座に、竜が姫を左腕で抱き上げる。姫が「キャッ」と悲鳴を上げ、陽が「あっ」と声を漏らす。
光は、右手の中指を赤く輝かせ、思い切り竜巻を放った。竜と姫の体がぶわっと宙に巻き上がる。
二人が空中で安定したところで、雫と光が、ありったけの封印札を撒いた。光の風に運ばれて、白い紙がコンクリートを覆い尽くす。たちまち、一柱の電信柱の影から、狼男が飛び出した。封印札が影に蓋をしたために身動きができなくなり、隙間から脱出したのだ。
「邪魔しやがって! お前ら全員喰ってやる! だが、まずは、てめぇだ!」
狼男が地を蹴って、跳んだ。竜と姫に向かって、爪を伸ばす。
「し……式神、捕縛! 急急如律令!」
たどたどしい陽の声が響く。たちまち、式紙の紐が、狼男の体に絡まった。狼男の体制が崩れ、竜の方に足が向く。
竜は青い閃光を放ち、狼男の足を斬り落とした。
絶叫が夜闇に響く。
姫は咄嗟に顔を背け、竜の胸に額をうずめた。竜は青い太刀を投げ捨て、右腕で、姫の体を抱え込む。
雫が、鞄から三十、いや、四十以上もある紙人形を取り出し、印を切った。
「式神、編縄創床。急急如律令」
瞬く間に、式神の縄が、雫の手から華麗に飛び立つ。糸を織って布を作るように、互い違いに重なった式神たちは、民家の屋根の上に、床板のようになって浮かんだ。
変身が解け、フードを被った男が、うつぶせに床に落ちた。ピクリともしない。膝から下がなくなり、式神の白い床に赤い液体を滴らせていた。
竜と姫は、白い床に降り立った。胸の中で呼吸を震わせる姫に、「目をつむってろ」とささやくと、竜は、姫の右肩を抱きしめたまま、男の頭に近寄った。
光の風に乗って、三人も、式神の床を踏んだ。
「姫!」
陽の目に一番に映ったのは、姫だった。竜の胸で目を隠し、小さく震えている。この場から離してあげたくて、陽はすぐさま駆け寄り、姫の右腕をぐいと引き寄せた。だが、竜は、姫を離さない。
竜の憎悪に満ちた目と、陽の怒りに満ちた目が交差する。
「姫が怖がってんの、分かんないのか! 姫の手を離せ!」
「お前が隠形鬼で、俺から引き剥がした瞬間、姫を喰い、俺を殺そうとする可能性がある」
「違う! 俺は、そんなことしない!」
竜が、鼻で嗤う。
「……竜、やめて。私を、離して……!」
姫が、声を絞り出して、言った。左手の白い指が、ぐっと、竜の胸に食い込む。
だが、竜は決して離さない。顕現させた青い短刀を、陽の前に放り投げる。
「隠形鬼でないと言うなら、この男を拷問しろ。情報をきっちり、全部吐かせろ。四鬼である隠形鬼が、今どんな奴に乗り移っているかまでな」
「やめて! 陽はそんなことできない!」
「てめぇ! 黙って聞いてりゃ、がたがたがたがた言いやがって!」
光は、怒りに任せて叫んだ。たしかに、どんな者にも乗り移ってしまう隠形鬼に命を狙われていれば、何もかも疑心暗鬼になるだろう。だが、陽は、戦いに慣れていない。ちょっと陰陽術ができるだけの、ただの人間の高校生だ。拷問なんて、できるはずがない。そんな凄惨なことをさせるなんて、正義の心が許さなかった。
竜は言い返しもせず、光を見ることもない。ただ冷たく、試すように陽を見下ろしている。
陽はしばらく奥歯を噛んでいたが、やがて、短刀を拾って、呻き声を上げる男に体を向けた。
だが、体が動かなかった。冷たい汗をだらだらと流して、短刀を持って立ち尽くすばかりである。
月明りの乏しい夜空の下でも、陽の顔が真っ青になっていることは、明白だった。
静かに――いつのまにか。
震える陽の手から、雫が、青い短刀を奪っていた。
「僕の方が、手慣れていますから」
やわらかい髪をなびかせ、膝をつく。
男の髪を掴み、雫は、刃の先端で瞼をめくった。
「お待たせしました。では、お伺いします。体を動かさず、はっきりお答えください。体を動かしたり、お答えがなかったり、分かりにくかったりした場合には、一つずつ、体の部品をいただきます」
雫は、いつもと同じように、にっこり笑っていた。
男の、唾を飲む音が聞こえる。
「あなたに隠形鬼の力を与えたのは、誰ですか」
「……ち、ちゃいろい、かみの、おんなだ…………」
青い短刀が、眼球を貫いた。痛みに喘いで体をばたつかせる音が、耳の奥をえぐる。嘘はついていない、という言葉が叫びに紛れて、何度も何度も聞こえてきた。
竜は、姫の耳をふさぐように、硬くなってがくがく震える体を包み込んだ。
陽も耐えられず、耳をふさいで、うずくまった。自分の心臓が、えぐられているかのようだった。光が駆け寄ってきて肩を支え、立ち上がらせようとしてくれるが、足が震えて腰が上がらない。
「体は動かさないように、と言ったはずです」
人差し指が、斬り落とされる。絶叫が、鳴りやまない。
「先ほどの答えは、質問に正対していませんでした。僕は、誰、と伺いました。名前を教えていただけますか」
穏やかな口調。男の右手首に当てがう刃の切っ先も、ひどく落ち着いている。男は、よだれを流しながら、大きく息をして、なんとか答えた。
「め……めいげ、つ……と、きいた…………が、お、おんな……が、なのって、たんじゃ……ない……それしか、し、しら、ない……」
――メイゲツ。
聞き覚えのある名に、五人は、目を見開いた。
雫は再び笑顔をたずさえ、続ける。
「彼女が名乗っていたのではない、というのはどういうことですか」
「ご、……ごじゅっぴき、くらいの、おに……をあつめ、て……やつは、ちから……あたえた……そのと、き……いた、おにが……やつ、を、そう……よんだ…………」
サイレンが聞こえてきた。
姫の母が呼んだ警察が、ようやく到着したのだろう。
一度連行された身である上、鬼人の姿をしているため、この男の身柄は引き渡さなければならない。
だが、もう一つ、聞くべきことがある。
「時間がありません、最後です。すぐに答えてください。メイゲツの目的は何ですか」
「さ……さいおう、りゅうの……まっさ、つ……」
「理由は」
「しら……な、ない…………」
青い刃が、容赦なく手首を斬り落とした。男は、本当に知らないのだと絶叫する。
その声に気付いたのだろう、警官が、メガホンでこちらに呼びかける。
これ以上絞り出せそうもないので、彼らは男を連れ、光の操る風に乗って、下に降りた。
男の身柄を渡すと、五人は、正当防衛にしてはやりすぎだと、きつく指導を受けた。
男の話したわずかな情報は、まだ伝えなかった。
情報を整理すると、こういうことになるだろう。
――かつて神宮団の一員だったメイゲツが竜の命を狙い、五十匹ほどの鬼に隠形鬼の力を与えた。
雫は、神宮団員としてメイゲツを認識していたが、鬼ということを知らなかった。
あの夏の戦いの時は、屋敷にさえいなかった。鬼神への捧げ物として、シグレに喰われて消えたのだとばかり思っていた。
竜を狙ってくるということは、メイゲツが四鬼の隠形鬼で、母である鬼神を殺した恨みを晴らそうとしている、ということなのだろうか。または、この世界を破壊する力を欲しているのだろうか。
だが、たとえそうだとして、なぜ五十もの下っ端をつくる必要があるのか。
分からない。
真相は、闇の中である。
見えるようで、何も見えない。
ただ、彼らは、はっきりと聞いた。
隠形鬼との戦いの、幕が開ける音を。
2020年4月17日 発行 初版
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