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戦鬼伝 第六章ー吹ー

鈴奈



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イラスト・キャラクターデザイン  さらまんだ
コンセプトアート         BUZZ
装丁               兎月ルナ

 目 次

「こいつとは、しばらく会うな」

 隠形鬼の下っ端男との戦いを終え、警察の事情聴取も終えて、鬼人の三人は、男から得た情報について話をしていた。
 話を終えると、竜は、少し離れた場所に座っていた姫と陽に近づき、そう言い放った。
 陽が食ってかかって、姫も妥協案をいくつか提示したが、竜は頑なに聞き入れなかった。
 雫と光は、ただ静かに、苦しげに、見つめていた。

 帰路。陽は力なく、とぼとぼと、二人の影をたよりに足を動かしていた。
 光が、沈黙に耐えきれず、振り返った。
「いやぁ、坊ちゃん。今日は大活躍でしたね! 捕縛、大成功だったじゃないっすか! あれ、はじめてやったんじゃないっすか? さっすがっす! 俺は大分、捕縛に苦労したんで、超尊敬っすよ!」
「……俺も、できるとは思わなかったよ」
 暗い声のトーンではあるが、返ってきた。光は、ほっと安堵の息を吐いた。
「捕縛さえマスターすりゃ、結構無敵っすよ。縛られた方は、絶対身動きとれねぇっすから!」
「……でも、どんなに術を使えても、斎王は、俺が隠形鬼かもしれないとか、隠形鬼になるかもしれないって、疑いやがる……。分かるけど、でも、そうやっていつも俺と姫を引き剥がして……くそっ!」
 陽の苦しげな顔に、憎しみが浮かぶ。
 光の胸が、どくん、と熱くなった。

 ――どくん、どくん……。

 鼓動が鳴るたび、熱くなる。燃えるように、いや、炎が体の奥底から、こみ上がるように――。
 光が、胸を押さえる。そのまま、小さく呻き、うずくまった。
「光くん!」
 雫が咄嗟に、光の背中に触れた。燃えるように熱い。じわじわと、服が黒い焦げを広げ、溶けていく。
 肌は真っ赤になって、ところどころ薄皮が剝がれ、桃色のまだら模様ができている。
 コンクリートを握る右手から、炎が流れだした。
「火鬼の封印が、解けているのですか……!」
「火鬼って、四鬼のか? なんで、急に……!」
 光の顔が、ゆっくり上がる。その顔にはもう、苦しみはない。
 だが、焦点の定まらない双眼が、鬼のように、真っ赤に輝いていた。
 雫は、右手を構えた。四鬼に対抗するには、この力を使うしかない。
 光の左手が、宙に伸びる。虚ろに。何かを探しているかのように。
「お……かあ、さ……ま……どこ……に…………」
 雫が、奥歯を食いしばり、右手中指を輝かせる。

 しかし――その声を最後に、光は意識を失い、その場に倒れた。

 背中に触れると、まだ熱はあるものの、燃えるような熱さではなくなっていた。
 雫と陽は、光を担ぎ、影宮神社に急いだ。

 窓から入る日射しが、瞼の中を真っ白に染め上げていることに、光は気付いた。
 ゆっくりと瞼を開く。
 最初に目に入ったのは、陽の左耳だった。床の上で、すやすやと眠っている。周りを見てみると、熱さましシートの残骸が散らばっていた。ずっと傍で、看病をしてくれていたのだろうか。
 ぬるくなって角が丸まった熱さましシートを額から外し、陽に掛布団を譲ると、光は、下の部屋に降りた。ふらつく足で、軋む階段を踏みしめる。陽の祖父に合わせて音量を大きくしているために、居間からニュースの音が漏れ聞こえてくる。

 隠形鬼という鬼に、次々と人間や鬼人が襲われている。
 隠形鬼によって命を奪われた被害者は、現在九十七名にも及んでいる。
 隠形鬼に乗り移られた人間および鬼人と、そうでない者との違いを確認する方法は解明されておらず、政府や警察は対策を急いでいる。
 現在、武蔵市、江戸市、鎌倉市のみで被害が確認されているが、他の地域の方々も、お気を付け願いたい――。

「俺が寝てる間に、なんてことになってやがんだ!」
 バンッと思い切り襖を開けると、雫と陽の祖父が、朝食を囲んでいた。目と口を丸くして、口に運ぼうとしていたごはんを、ぽとりと落とす。
「光、お前……」
「目が……」
「おう! 起きたぜ! 師匠、雫くん、おはよう! ご心配おかけしました! 俺、何日くらい寝てたよ?」
「二日、だが……お前」
 雫は、もう一回、「目が……」と言った。ぽかんとしたまま、光の目を指差す。
 光は、首を傾げて、スマホのカメラを起動し、インカメラに切り替えた。
 画面に映る姿を見て、光の顔の全てのパーツが丸くなった。
 右目だけが、鬼のように、真っ赤に輝いていた。

 神宮団との戦いで、光は、火鬼と戦った。
 そして、自らの体を媒体に、火鬼を封印した。

 約一年間、体に異常はないと思って過ごしてきた。だが、ゆっくり、じんわりと、内側から魂を喰い破っていたのかもしれない。鬼人の力を使ったことをきっかけに、力の源である魂を通じて、光の体に現れたのではないか。そして、片目が赤くなったのは、火鬼が光を侵食している証拠なのではないだろうか。陽の祖父は、そう分析した。
「くっそ……! 隠形鬼が暴走してやがるこんな時に……! 畜生!」
 光は、寝癖だらけの金髪を掻きむしり、声を荒らげた。
 だが、すぐに、「まぁ、どうしようもねぇか」と、台所に向かい、茶碗に山盛りのごはんを盛って帰ってきた。そして、浅漬けを小皿に取りながら、「つーか、今日学校は?」と雫に聞く。
 もはや普通である。
「学校は、今日からしばらく休校です。僕の高校も、光くんの高校も、どこもそうみたいです。ほとんどの企業やお店も、休業です。これだけ被害が広がっていますからね」
「はぁん。だから、おかずが浅漬けだけ……」
 それは単純に、料理担当の光がいなかったからである。本で調べて、雫が作った。
 食料は、警察が各地域を回り、配給している。警察も政府も、今はそれしかできない。
「いや、ちょっと待て。たしかに隠形鬼は大変な問題だ。だが、お前の方も重大な問題だぞ。どうする」
「こっちのことなら、ちゃーんと考えてあるし、そのための根回しもしてあるっすよ」
 光はもぐもぐ、暢気にごはんを咀嚼しながら、言った。
「斎王に頼んであるっす。俺がやばい時は殺すようにって」
 陽の祖父は、険しく顔をしかめ、眉をピクリと動かした。
「お前にしては、諦めが早いじゃないか」
「だって、助かる方法っつったら、一回俺の体から火鬼出すっしょ? そんで、もう一回なんかに封印するかんじ? いや、無理っしょ。一回出した時に暴れやがっかもしんねぇし。火鬼を倒せる、そんで世界をしっかり守れる、一番確実で安全な道をとった方がいいっすよ」
 雫が、自分の赤い石を見つめた。
「いいのいいの。覚悟の上でやったことだし。それしかできなかった俺の責任だし。雫くんが命をかけるようなことじゃねぇよ」
 光はへらへら笑って、ごはんに塩をかけた。大きな一口を詰め込む。
「まあでも、次にやばくなった時まで、もうちょい生きてっかな。死ぬ前に一個、やりてぇこともあるし?」
 陽の祖父は、ため息を一つついた。
「住所なら、そこの棚だ」
 静かにそうつぶやくと、のろのろと、居間を出て行った。

 数日後。光は、江戸市行きの鈍行電車に揺られていた。陽と雫も、隣に座っている。
 学校や企業は大体が休みになっているはずだが、電車は動いており、乗客もぽつぽつといた。
 乗客が鬼なのではないか、襲われたりはしないか……。
 そんな疑念でひりひりしながら、三人は黙って、電車に揺られ続けた。
 下車して少し歩くと、目的地にたどり着いた。
 江河こうか大学。鬼の研究で有名な大学である。
 広大な敷地に、三人は、「ほわぁ」と感嘆した。歩道は守護符が敷き詰められて、透明のカバーで保護されている。明るい日射しの下でも、紫色の淡い灯がやさしくあふれていた。歩道以外の所は砂利と石で覆われ、石庭のようになっている。目を凝らすと、オブジェの岩や、石の一つ一つに、守護符と同じ文字が書かれていた。守護符にあたる開発物の成果、というところだろうか。
「はぁん……。なんか、こんなん必要なかったかもな。隠形鬼もよせつけねぇ感じするわ……」
 光は、握りしめていた白い封筒に目を落とした。
 伊達 あきら様。
 白い封筒の宛名には、そう書かれていた。この大学で鬼の研究をしている、准教授の名だ。そして、光の実弟の名である。
 封筒の中身は、封印札だった。陽の祖父の名前で書いた、簡単な手紙も入っている。
 光は、民俗学研究棟六階のE号室の前にたどり着くと、封筒を研究室前のポストに入れた。
 研究室の扉には大きなガラス窓がついていた。ほとんどの研究室がカーテンを締め切っていたが、彼の研究室にはカーテンがなく、中が見えるようになっていた。
 恐る恐る覗き込むと、三十代半ばくらいの品のよさそうな男性が、私服姿の学生六名と話し合いをしていた。資料を読み、学生の話に耳を傾け、こめかみを人差し指で押しながら考える知的な姿は、光に似ても似つかない。だが、はっきりした目元と、微笑んだ時の口の形は、たしかに光とそっくりだった。
 光はしばらく扉越しに、息を止めて見つめていた。
 しかし五分と経たず、「よし、行こ」と、こそこそ踵を返した。足音さえも残さないよう、そっとその場を後にする。
「いいのか? せっかく来たのに、話とかしなくて」
「いいのいいの。鬼よけのあれ、渡しにきただけですし。あわよくば、ちょっと見れればいいかなって思ってたけど、それもできたし。それに、十六歳の金髪野郎が、いきなり、お兄ちゃんですよ! ってやって来たって、怪しいだけっしょ。そもそもあいつは、自分に兄貴がいることも知らねぇんだから」
 階段を逃げるように駆け降りて、三人は、外のベンチに座った。
 光が自販機で、コーラを三本買ってきた。
「付き合ってくれて、ありがとな」
 二人が缶を受け取ると、手のひらに冷たさが染み渡った。プシュ、と三つの音が鳴る。
「光さんに弟がいるなんて、知らなかった。他の家族に連絡とかは?」
「ん? とってねぇっすよ? 連絡先も知らねぇっす。 弟だって、鬼の研究者になって、師匠とつながりがあっから、たまたま連絡先知ってるだけだったし」
 陽は、「そっか」と小さくつぶやいた。
「一年も一緒にいたのに、光さんのこと、全然知らなかった」
「すいません。坊ちゃんが聞きたいなら、なんでも話しますよ!」
「知りたいけど、いやじゃないか?」
「別に、大したもんじゃねぇっすから」
「……じゃあ、家族のこととか、三十年前のこと、聞いていいか?」
 陽がおずおずと光を覗き込む。
 雫も、缶で両手を冷やしながら、光の顔を見つめた。
 光はコーラを喉に流し込み、パチパチと弾ける小さな痛みを感じてから話し始めた。

 生まれつき右手の中指に赤い石が埋め込まれていた光は、すぐに施設に入れられた。
 記憶も朧げなほど幼い頃は、日中は実の父母のもとで過ごし、夜だけ施設に帰るような生活だった。
 だが、小学校に入学してから、完全に施設の子になってしまった。
 こっそりと実家に行くと、母親が赤ん坊を世話しているのが見えた。弟が生まれたのだ。遠目から見ても、小さくて、やわらかそうで、可愛いと思った。
 学校帰りは実家に立ち寄って、こっそり窓から中を覗くのが日課になった。チャイムを押したら、追い返されて、二度と来られなくなってしまう気がして、できなかった。
 弟は、日に日に成長していった。寝転がって、手足を動かしているだけだった小さな生き物は、たどたどしく立ち上がって、ふらふらと歩けるようになった。ふわふわだった髪もしっかりと生えてきた。どろどろになって食べていたごはんは、スプーンやフォークを使って食べられるようになった。
 しかし、三年後。弟は実家から姿を消した。母親が顔面蒼白で涙を流している姿ばかりが目に入る。
 光はいてもたってもいられず、学校をさぼって、朝から実家の近くに潜み、様子を伺った。実母がタクシーに、「武蔵第一病院へ」と言うのが聞こえた。
 一時間半歩いて病院にたどり着くと、弟は入院していた。
 きれいだった黒髪はぼろぼろに抜け落ちて、頭部はまだらになっていた。ピンク色で、いつもよだれで潤っていた唇は、からからにひび割れていた。皮膚は全体的に青白く、腕には大きなトンボが刺さって、包帯でぐるぐる巻きになっていた。ひとりぼっちでぼんやり、手の中の人形を眺めていた。
 光は、思い切って病室に入り込んだ。大部屋で相室の子どもの兄弟が、興味本位で話しかけたふりをして、声をかけた。
「それ、何の人形?」
 虚ろな瞳が、光の顔を映した。
「ファイトマン……」
 はじめて聞く幼い声に、胸がきゅっとした。
 その人形は、赤い目の、トンボのような顔をしていた。頭の先が尖っている。体は赤や白、銀色で塗られている。全身スーツなのだろうか。
「好きなのか?」
「うん、すきだよ。ほのおのパンチだすの、かっこいい」
「へぇ」
「おにいちゃん、しらないの? テレビでやってるよ」
 災厄の鬼人を詰め込む無機質な施設は、食堂と、数人部屋と、トイレと、シャワーだけ。テレビなどの娯楽はなかった。
 光は、ベッドに転がっているもう二体の人形について聞いた。それらは、ぎざぎざの体をした化け物だった。ファイトマンの敵らしい。
 光は遊び方を心得て、人形遊びの相手をしに来るようになった。母親が来るのは、朝の十時から十五時。光は学校などお構いなしに、朝の九時から三十分ほどか、十六時から面会終了の一時間、弟の病室に顔を出した。毎日毎日足しげく、一時間半の道を往復した。
 弟は次第に心を開き、笑顔を見せるようになった。目をキラキラと輝かせ、ファイトマンを動かす弟を、光はとても愛おしく思っていた。
 だが、冬になるにしたがって、弟の体調は思わしくなくなっていった。ひゅうひゅうと息を立てて呼吸をしながら、乾いた唇で、絶望を漏らすことが多くなった。目の下には、青いくまができていた。
「ぼく……しんじゃうんだって……」
「そんなわけない! 病院にいるんだから、治るって!」
「でも、ママとパパ、いつもないてる……」
 光は、ファイトマンを弟の額にくっつけた。
「熱いハートに正義を燃やせ! ファイッ! トッ! マーンッ!」
 すっかり覚えてしまった、ファイトマンの決め台詞を言い放つ。
「明は、ファイトマンの諦めないところが好きなんだろ。そんならお前も、諦めちゃダメだ!」
 弟は、点滴に拘束されて、ぐるぐる巻きの腕をさすった。
「おにいちゃんは……ファイトマンに、にてるね」
「えぇ? 俺、こんな顔?」
 ショックを受けて人形と見つめ合う光がおかしくて、弟はかすかに笑った。

 その日から、鬼との戦いを始めた。
 右手中指の石が花を咲かせれば、なんでも願いが叶う。それならば、弟の治らない病気を、自分が治してやればいいのだ。
 十歳の頭でたどり着いた希望に縋り付き、光は、夜の街に繰り出した。
 この日まで、鬼と戦ったことなどなかった。施設が鬼に襲われた時も、シェルターに入って免れたり、強い年長者がなんとかしてくれたりしていた。
 光の力は、風を出すこと。吹き飛ばして、ちょっと隙をつくることしかできなかった。
 襲ってくる鬼を風で吹き飛ばし、電信柱に打ち付けて、台所から持ち出した果物包丁でとどめを刺す。はじめて鬼を刺してしまった時は、ぬめっとした肉感と、細胞がぶちぶちと切れる感じに背筋が凍り、罪悪感でいっぱいになった。
 しかし、繰り返していくうちに、慣れてしまった。
 一筋縄ではいかない鬼とも、何度も戦った。体中が傷だらけになった。
 それでもなんとか生きながらえて、右手の石に砂を吸い込んだ。
 二年間戦い続けても、赤い蕾は、膨らみもしなかった。

 そんな時、弟が退院をした。薬の効果が出て、治り始めたのだという。
 実家に弟の姿を見に行くと、弟はピンク色の唇で、無邪気に母親に抱き着いていた。
 母親と父親は、笑顔で言葉を交わしていた。温かな夕日が、三人を橙で包み込んでいた。

 ――よかった。

 でも――胸が痛かった。昨晩深くえぐられた二の腕を握る。
 そして一人、窓に背を向けた。
 足早に、実家から離れていく。涙があふれて、こぼれて、止まらない。
 走って、走って、走って――どこかも分からない橋の下にたどり着いて。
 そこでようやく、声を上げて泣いた。

 弟が、治ってよかった。家族に、笑顔が戻ってよかった。
 それは、本当に思っている。
 思っているけど、でも――自分が戦ってきたのは、なんだったんだ?
 何のために、ぼろぼろになって、あんな思いをして、戦ってきたんだ?
 こんなに戦ったのに、あの橙色の中に、自分は入れない。

 弟を救って、あわよくば、家族にありがとうって言われて、迎えてもらって――。

 こっそり、そんな希望を持っていた自分に気付いて、呆れかえる。
 弟を、そのための道具みたいに考えていた自分にも気付いて、いやになる。

 自分のしてきたことは、何の意味もない。
 誰にも受け入れてもらえない。
 願いなんて、一つも叶わない。

 橋の下の影の中で、光は、泣き続けた。

 それから光は誰とも会いたくなくなって、施設にも帰らなくなった。
 路地裏の隅で一人、膝を抱える。
 何時間、いや、何日か経った頃だったろうか。鬼人の不良が取り囲んで、幼い新顔を覗き込んだ。
 奴らは、光を廃屋に連れて行き、光の皮膚に釘を刺して遊んだ。
 光は、怒りに任せて、風で廃屋を滅茶苦茶に壊した。
 その噂が広まると、鬼人や鬼に絡まれるようになった。
 傷つけられるたびに、傷つけるたびに、心が暗く、濁っていく。
 ――全てから拒絶されたい。全てを、拒絶したい。
 その一心で髪を染め、ずたずたの耳にピアスをつけた。近づいたら肌が切れてしまいそうな空気が助長され、光に近づく者は、次第にいなくなっていった。
 一人でいると、時々、絶望が胸でうずいた。

 ――こんな世界、なくなっちまえばいいのに。
 ――なんで俺、食いつないでんだろ。生きてねぇで、とっとと死んじまえばいいのに。

 黒い心が爆発するように、しばしば、鬼人の力が暴走した。ビルを一棟、壊してしまったこともあった。
 その直後だっただろうか。路地裏で壁にもたれかかって座っていると、中年の男が近づいてきた。しゃがんで、顔を覗き込んでくる。
 男は、珍しく不良ではなかった。かといって、警察という風合いでもなかった。ごく普通の、右手中指に赤い石がない、人間だ。十一月、冬に近づきつつある秋の日には似合わず、薄い長袖シャツに、半ズボン、サンダルといった姿だった。散歩をしに出てきたような気楽さが怪しかった。
「お前、いくつだ?」
 光は答えず、顔を背けた。男はまじまじと、光の頭のてっぺんから、ぼろぼろの靴の先までを眺めた。パッと目につく金髪やピアス、皮と骨だけの傷だらけな体、死人のような目、血や汗で汚れたままのよれた白いシャツ。何日体を洗っていないのか、異臭が漂っている。
 男は、顔をむんとした。
「俺は、怪しいもんじゃない。ここらでビルをぶっ壊した奴がいたって聞いたんで、どんな奴か見に来ただけだ。そしたら、こんな危ないところにお前みたいな子どもがいたんで、気になってな。家は? 施設か?」
「……るっせぇ」
「あ? なんてった?」
 男が聞き返した途端に、光の脳裏で、プチンと切れた音がした。
「うるっせぇ! 向こう行け、じじい!」
 額から一角が生え、牙が伸びる。振り上げた右手が、男に強烈な風を打ち付けた――はずだった。
 男は腕で風を受け、その風圧を使って体を上に移動させると、しなやかに跳んで、光の背後に立った。そして静かに、光の後頭部に何かを貼った。一角も牙も、右手の石の輝きも、しゅんとおさまった。
「てめぇ……何しやがった!」
「ちょいと封印させてもらった。竜巻で壊されたと聞いていたが、そうか……お前か」
 光は、睨んだ。獣のような目だった。
 男は、光の骨のような腕を掴むと、ぐいと引っ張って路地裏を出た。
 力の使えない光は、ただのガリガリの子どもになってしまった。
 抵抗も虚しく、民家の間にある小さな神社に引きずり込まれた。温かな電光がこぼれる社務所を、男が、がらりと開ける。橙色の明かりが迫ってきて、目の奥が痛くなった。
 中年で小太りの、優しそうな女性がびっくりした顔で出迎える。十歳くらいの少年が、階段の上から、おびえた様子で、目だけで覗き込んでいた。
 困惑しているうちに、男は次々と二人に指示を出した。光は着替えとタオルを押し付けられ、洗面所に押し込まれた。少し考えて、そっと洗面所の扉を開けると、男が立っていて、ぴしゃりと扉を閉められた。風呂に入らないと、ここから出してもらえないらしい。
 渋々、体をお湯で流した。温かくて、心まで溶けていくようだった。体も心も冷えていたのだと気付いた。黒やら赤やら茶色やら、なんだかよく分からない色のお湯が、体をつたい、足元から流れて行った。
 十歳の子ども服は少し小さかったが、やせ細った体には、ちょうどいいくらいだった。
 居間に連れ込まれ、布団がくっついた卓に入らされた。中で火が燃えているのか、足が焼けてしまいそうだと思った。布団はなんだか、湿っているような、べたついているような気がした。知らない家のにおいがした。
 男は光の肩を掴んだまま、いろいろなことを尋ねた。名前とか、どこの施設だとか、どうしてあそこにいたのかとか、どんな生活をしていたのだとか……。
 光は膝を抱えて、布団に唇をくっつけ、卓の上のミカンを睨んでいた。
 居間の襖がおずおずと開いて、少年がおびえた目を覗かせた。
「お父さん……布団、敷けたけど……」
 男は、光の肩を力強く叩いた。骨の奥にずんと響いた。
「明日、もう一回聞く。とりあえず、今日はうちで寝ろ」
 少年に案内されるまま二階へ行くと、小さな和室に、布団が二つ敷いてあった。少年は、入り口側の布団を指差して、「こ……こっち、使っていいよ」と言うと、そそくさと窓側の布団に潜った。頭から白い布団を被って、小刻みに震えていた。光が怖いのだろう。
 光はやや悩んだ。今なら、出ていける。このまま眠ったら、明日の朝、警察に突き出されるかもしれない。施設に戻されるかもしれない。
 だが、布団の誘惑には勝てなかった。
 光は布団に潜ると、冷たくなった鼻を掛布団でこすった。数か月ぶりの布団はひんやりしていて、自分の体温を教えてくれるようだった。体中の痛みやだるさが吸い取られていく。何かの花のにおいと、畳のにおいがした。
「……名前、何ていうの?」
 背後から、小さな声が震えた。
「……光」
 なんとなく、苗字は言いたくなかった。
「僕は、幸輝こうき
 光は、こうき、と小さく繰り返した。
「光くんは、いくつ?」
「今年で十二」
「見えないね」
「あぁ?」
 威嚇すると、隣の白い布団は、さらに形を丸くした。
 二人は、口を閉ざした。外が森だからだろうか。耳慣れない、コロコロした虫の声が聞こえる。
 今まで吸ってきた汚いものを出すように、光は大きなため息をついた。
「…………光くんって、武蔵六小? 僕は五小なんだけど……」
 眠りに落ちそうになっていた時に、また話しかけてきた。繭の中に閉じこもっているくせに、度胸がある。ちぐはぐな奴だ。それでも、いつもの奴らのように毒気がなく、答えてもいいか、という気分になるから不思議だった。
「……行ってねぇ。学校の名前なんて、知らねぇ」
「この辺に住んでるの?」
「この辺ははじめて来た」
「どこに住んでるの?」
「……どこにも住んでねぇ」
「だから、うちにきたの?」
「知るかよ! てめぇの親父に無理やり連れてこられたんだよ。なんなんだ、あいつは……」
 振り返って吼えると、幸輝も繭から顔を出し、くるりと光の方を向いた。
「お父さんは、陰陽師だよ」
 光は、はっとした。
 ファイトマンで遊んでいた弟と、同じ目をしている。
 光が茫然としているので、陰陽師を知らないと思ったのか、幸輝はワクワクと説明した。
「お父さんは今、陰陽師の力で、鬼人と人間が一緒に生きられる世界をつくろうとしているんだ。本当は鬼も一緒に生きられればいいと思っているんだけど、それはどうしても難しいんだって」
 光の心に、ほんの蛍ほどの小さな希望が宿りかかった。
 しかし、すぐに心の闇に溶けてなくなった。
「そんな世界がつくれるんだったら、とっととつくっておけよ。おせぇよ」
 光は、繭になった。耳も、口も、働かせるのをやめた。

 幸輝に起こされるまま目を覚ます。連れられるまま居間に入ると、茶色い卓に、食事が並んでいた。暗い食堂でかじった干からびたパンでも、店から持ち出した冷めた飯でも、お盆の上に無造作に盛り付けられた給食でもない。どのお碗からも、湯気が立っていた。温かいにおいがした。あまりに理想的で、美しくて、自分が口に入れてはいけない気がした。
 幸輝は当たり前のように完食し、黒いランドセルを担いで、走り去っていった。
 三口だけごはんを食べて、箸を持ったまま固まってしまった光を、男はじっと見つめていた。
「幸輝から聞いた。お前、光、というらしいな」
 光は、箸を置いて、男を獣の目で睨んだ。
「善人面しやがって……。どうせこれから俺を、サツに突き出すんだろ」
「いや、突き出さん。知り合いの刑事に軽く話しとく」
「じゃあ、なんだって俺をここに連れてきた」
 男は、眉間にしわを寄せた。
「そんなもん、死にそうな子どもがいたら、助けるに決まっているだろう!」
 光は、奥歯を噛み、男の目の前に、右手の中指を突き出した。
「俺は、鬼人だ! 家族からも、施設からも、学校からも捨てられてんだ! 俺なんて、鬼人なんて、なんでそんな意味のねぇもんを助ける必要がある!」
 その瞬間、男が卓を掴み、光の方に投げた。食べ残したご飯も、味噌汁も、肉じゃがも、海藻サラダも、ごちゃまぜになって光に降りかかる。畳も布団も、滅茶苦茶になった。
 男は、ひっくりかえった光の胸ぐらを掴み、引っ張り上げた。
「意味がないだと? そんな命があるか! いいか。死んでいい命なんて、はじめから生まれてきていない。生まれてきたことも、生きていることも、意味があるんだ!」
「じゃあ……言ってみろよ! 俺なんかになんの意味があるんだ! 弟も助けられなくて、家族にも捨てられて……なんで俺は生きてるんだ!」
「知るか!」
 男は思い切り、光を放り投げた。残飯の海に尻もちをつく。
「生きている意味なんて、はじめは誰でも分からねぇんだ! お前の生きている意味はこれだって決められて、その通りに生きていけると思うか? 一生懸命に生きて、考えて、自分で見つけろ!」
「なんだよ、それ……」
 真っ黒な心に、白い液体が混ざって、ぐにゃぐにゃになっていく。ごちゃごちゃになって、光は頭を抱え、うずくまった。
 男が、そっと光の手を包んだ。はじめて、大人の男の手に触った。大きな手は、温かくてごつごつしていた。
 恐る恐る目を上げると、大きな顔の後ろから、やけにまぶしい電光が射していた。
「お前は、いい子だ」
 信じられない言葉に、目と鼻が、熱くなっていく。
 男は、優しく笑った。
「お前はたしかに、ビルを壊したり、喧嘩をしたりしてきたかもしれん。だが、それは何かに絶望したからだ。人間は、でっかい希望を持っていればいるほど、でっかい絶望に落とされる。お前は今、その絶望の中にいるだけだ。本当は、すばらしい希望を持って、それに挑戦できる奴なんだ。お前は、絶対、生きる意味を見つけられる。この世界に、必要な存在になる」
 男が、光を抱きしめた。誰かに抱きしめられたことははじめてで、どうしたらいいのか、分からなかった。熱いものが瞳からあふれる。シャワーより、布団より、食事より温かな、男の温もりを感じた。

 それから光は、影宮神社で暮らし始めた。
 四人で朝食を食べて、幸輝と学校に行って、なんとなく過ごして帰ってきて、幸輝や男の弟子たちと陰陽道や剣道の稽古をし、幸輝と風呂に入って、四人で夕食を食べて、テレビを観て談笑して、寝る。
 光の心は、半年と経たず、白く満ちた。
 鬼や神宮団が襲ってきたら、最前線に立って、影宮一家を守った。
「助かった、ありがとう」
 そんな言葉を、はじめてもらった。
 ――世界なんて、なくなってしまえばいい。
 そんな風に思っていたことが、嘘みたいだった。
 この人たちのいる、この世界を守りたい。いつのまにか、そう思うようになっていた。

 稽古の休憩中だっただろうか。光は、男――師匠に、師匠の生きる意味は何か、と聞いてみた。空の下側が橙に輝く、秋風が冷たい夕方だった。
「とりあえず、この世に生きるものたちが、自分らしく、幸せに生きられる世界をつくるためだと、俺は思っている。俺たちの世界は、それぞれの命が、生きる意味を果たし合ってできている。人間も、鬼人も、鬼も、動物も。だからこそ、互いを認め合い、手を取り合いながら、皆が平和に暮らせる世界をつくるために生きていきたいと、俺は思う。……まあ、とどのつまり、世界の平和のためってとこだ」
 夕日を浴びる師匠の横顔は、揺るぎない信念に満ちていた。弟の、幸輝の、キラキラした目がどんなふうに世界を映していたのか、光は、今、ようやく分かった気がした。

 ――正義のヒーローだ。かっこいい……!

 言葉にすると、単純で幼稚になってしまう。そんな感動だった。
 今は、この尊い人たちを守るために生きている自分だが、いつか、世界の平和を実現させることこそ自分の生きる意味だと、胸を張って言えるようになりたい。
 ぐんと伸ばした足の先に、気まぐれな赤とんぼが止まった。
 真っ赤な目をした、ファイトマンを思い出した。

「光さん。やっぱさ。今度、弟さんに会いにこよう」
 陽は、まっすぐに光を見つめた。両手が、一生懸命に缶を握りしめていた。
「光さんが弟さんを見てるだけなんて、なんか俺、いやなんだ。たしかに、弟さんに会うのは、すっごく勇気がいることだと思う。でも、光さんの大事な人ってことには変わりないだろ? 大事な人に会えないのは、すっごく辛いって、俺、分かるから……。だから……俺、もっと封印術を磨く。頑張るから。光さんの体から火鬼を取り出して、封印して、またこよう!」
 光は、ぎゅっと胸を掴んだ。胸の奥が、目の中が、キラキラする。
 陽から射す輝きが、心の中で熱く灯る――。
 気が付くと、雫も、キラキラした目で陽を見つめていた。光は、ふっと頬をゆるめた。
「やっぱし……ファイトマンに似てますね。坊ちゃんも」
 陽が首を傾げると、光はいつものようにへらりと笑った。
「へへ。じゃあ、嬉しいこと言ってくれた坊ちゃんのために、一肌脱ぎますか」
 光は、ぬるくなったコーラを一気に喉に流し込み、立ち上がった。
「姫ちゃんとこ、いきましょ! しばらく会えてねぇからか、もう坊ちゃん、干からびた蛙の目になってますよ。俺と雫くんがついてる。あいつにゃ文句いわせねぇ!」
「えっ、いいの?」
 陽は、「やったー!」と飛び跳ねた。水を得て生き返った蛙のように。
 少し離れた所でスマホを耳にくっつける陽を見つめながら、雫は、ゆったりと笑った。
「素敵なお話を聞かせていただいて、ありがとうございました。僕も、陽くんや光くん、聡一郎さんといると、温かい気持ちになるので……とても、共感しました」
 陽に招かれて影宮家で過ごしながら、雫は、凍った心がゆっくり溶けていくように感じていた。
 皆で食卓を囲んだり、テレビを観て盛り上がったり。そんなこと、今までしたことはなかった。自分がここにいることが不思議な気がして、今でも時々、泣きそうになる。「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせる時、布団に入って目をつむる時。きまって、心の底から体中の血管に温かさが広がるのを感じる。
 それははるか昔に知った、幸せという感情だった。
 だが、あの時とは少し違う。温かい紅茶が胸の奥に流れていくような、しみじみした気持ち。
 こんな気持ちになるのはきっと、周りの人が、大切な人が傍にいてくれるからだろう。雫は、そう確信していた。
「だから僕は、ただこの世界を守るだけではなく、僕の周りの大切な人を――僕の小さな世界を守りたいと、今、心から思っているのです」
 今度こそ、もう、失うことがないように。
 雫は、胸に両手を当てた。ロケットが食い込んで、少しだけ痛かった。
「一緒だな!」
 光はニッと歯を見せて、雫の肩を抱いた。
「僕は、陽くんのことを信じています」
「ああ。俺も、信じてる」
 陽が二人に、幸せそうな笑顔で、大きく手を振った。

 竜は学校で、道で、何体もの隠形鬼に襲われた。日中もさることながら、夜までも押しかけてくる始末だった。竜は姫を守りながら、全てを駆逐した。
 奴らと戦って新たに得た情報は、メイゲツが下っ端たちに、「竜を殺せば、鬼神や四鬼と同等の力を手に入れることができる」と甘い蜜をぶらつかせてけしかけたらしい、ということだけだった。
 戦いを終えると、竜は決まって姫に謝った。
 姫を守りたいと言いながら、姫の心を守れていない。戦いに連れ出さなければ、残虐な光景を見せることもない。優しく、美しい姫の心を傷つけることもないのに。本当は心も守りたいのに、姫を失いたくない気持ちが、命の方を優先させる。
 竜がうつむいていると、姫は決まって、「どうして謝るの。守ってくれてありがとう」と苦しそうに微笑んだ。
 一緒にいるだけで幸せなのに、姫の「ありがとう」や心配の言葉を聞くと、心が風船のように膨らんで、破裂してしまいそうになる。
 こんなに大きな幸せを、どうにかして姫にもあげたい。

 だが――。

 竜は、卓の上に上体を伸ばして、右手の中指を見つめた。
「お疲れ様。ちょっと休憩しましょう」
 姫が、台所から持ってきたオレンジジュースを、竜の体と勉強道具でいっぱいになった卓の上の隙間に置いた。
 メイゲツから隠形鬼の力を授かった鬼たちは、力欲しさに、竜だけでなく多くの鬼人を喰い散らかしていた。被害者は増え続け、とうとう高校が休校になった。
 それから一週間。竜は、姫の部屋で予習を進めていた。二人の家族は、今のところ無事である。だが竜は、自分の家族を強く警戒し、顔を合わせようともしなかった。そして、姫に何かあったらすぐに対処できるよう、なるべく姫と二人で過ごすようにしていた。
 竜は、伸ばした右腕に頬を乗せた。知恵熱か、いつもより顔が熱い。
「単語が覚えられない。頭がパンクする」
「でも、頑張っていてすごいわ」
 学校が再開した時が楽しみだと、姫は笑った。きっと、先生も級友も、目を見張るだろう。
「早く、戦いが終わればいいのにね」
 スマホの暗い画面に目を落として、姫は少し、さみしそうに言った。友人、そして、陽のことを想っているのだろう。
 なんとなく返事ができなくて、斜め前の姫から目をそらした。オレンジジュースを満たしたグラスを、左手の爪で撫でる。
 姫は苦笑し、ピンと伸ばされた竜の右手中指の石を覗き込んだ。
「竜の戦いも、早く終わればいいと思っているのよ」
「俺の戦い?」
「鬼退治のこと。だって、こんなに残虐な戦いを繰り返してほしくないもの。隠形鬼のことさえなければ、本当は戦ってほしくない。早く咲いてしまってほしい」
 竜と戦いをともにしながら、姫は考えていた。
 かつて目の当たりにした、蒼龍との戦いも、神宮団や鬼神との戦いも、これほど残虐ではなかった。だが、竜や雫、光はこのような戦いに慣れきってしまっている。こんなに残虐な戦いを数えきれないほど繰り返す――それに耐え続けられるくらいの強い願いや、そんな風に生きなければならなかった不遇など、自分にはない。
 竜が、雫が、光が、自分とは別の世界の存在のように思えた。
 だが、竜には、こんな残虐な世界にいてほしくない。
 今、この時のように、こちらの世界に、同じ世界にいてほしい。
 竜には、幸せになってほしい。ずっと一緒には、いられないけれど――。
 姫は苦しくなって、卓に重ね置いた手の甲に右頬を乗せ、瞼を閉じた。

 互いの額が、手の届く距離にある。

 姫の長いまつ毛の生え際が、はっきり見える。
 髪が頬に流れて、白い耳の縁が覗く。
 とても綺麗で――触れてみたくて、左手が伸びる。

 ――その時。

 姫のスマホが、着信音とともに震えた。二人はびくっとして、ぴょんと頭を起こした。スマホは元気に鳴きながら、床を泳いでいる。
 陽からだ。姫は、ほっと嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「もしもし。陽? どうしたの?」
『あ、姫! これから、そっちに、会いに行っていいか? 雫と光さんもいれば、斎王だって文句ないと思うんだけど。これから行くと、こっからだと……えっと……十六時半になるかな』
「嬉しい。竜に聞いてみるから、待ってて」
 姫は、送話口を指で押さえた。
「陽が十六時半くらいに来たいって。雫くんと光さんも一緒だって。いいでしょう?」
 十六時半ならば、まだ明るいだろう。だが、月が顔を出す時間だ。
「だめだ。時間も遅い」
「お願い。会いたいの」
「だめだ」
「お願い! 会いたいの……」
 姫は両手で、ぎゅっとスマホを握りしめた。

 姫を守りたい。できる限り、命の危険を冒したくはない。
 だが、心も守りたい。
 陽のことを想う時、陽と電波でつながっている時の姫の表情を思い出す。
 陽と会うことが、姫の心を守ることになるのなら――。

「……分かった。ただし、条件がある」

 姫の家の隣の、公園で会うこと。陽の手の届く範囲に近づかないこと。
 竜、雫、光も立ち会うこと。十七時には家に入ること。
 全て、陽を疑い、戦闘を視野に入れているがゆえの条件だ。
 姫は少しむっとしたが、その条件を飲んだ。

 十六時半。空がうっすら、黄色がかってきた。
 公園に、陽がやってきた。雫と光も一緒だ。
 ブランコに腰かける姫が、笑顔で手を振る。陽は嬉しくなって、ふわりと浮き足立った。

――フ、ジョ……ウ…………!

 竜の身の毛が、ざわりとよだった。
 咄嗟に、姫に腕を伸ばす。陽はきょとんとして、足を止めた。
「光くん!」
 雫の声が、響いた。
 光が、胸と右目を押さえて、うずくまっていた。足元から炎があふれ、芝生を黒く燃やす。
 竜と雫は右手を伸ばしたが、石は光らない。当然だ。まだ夕日も顔を出していない。
 彼らは、二歩後ずさりして、光の様子を伺った。

 ――炎が、鎮まった。

 光の手が、胸と右目からゆっくり離れる。うつむいたまま、ふらりと立ち上がる。
 そして、前髪を全て後ろに掻き上げたかと思うと、急にすたすた前進してきた。いつものだらけた歩き方と違う。堂々としていて、一歩一歩の爪先が鋭い。
 竜と姫は、近づいてくる分だけ後ずさる。冷たいコンクリート塀にぶつかり、背中がひやりとする。
「止まれ!」
 竜の声が空に響く。光の体は、ぴたっと止まり、その場に片膝をついた。口元に微笑みをたずさえ、顔を上げる。
 姫の不安げな瞳が、光の赤い双眼を捉えた。たしかに光なのに、その表情は別人で、だが、どこかで会ったことがある気がした。
 光の頭が、恭しく垂れた。

「お久しぶりでございます、お母様。四鬼が一体、火鬼サテツでございます」

 四人に、戦慄が走った。
 光は、火鬼に体を乗っ取られてしまっていた。

 幸い、火鬼は暴走することなく、最上の忠誠を、鬼神を宿していた姫に向けている。
 姫は、恐る恐るサテツに言葉をかけた。
「サテツさん……光さんを、どう、したの?」
 光の顔をしたサテツは、穏やかな苦笑を姫に向けた。
「残念ですが……この者の体を、私の人格が借りているまでのこと。数日前からこの者の体を動かせるようになってまいりまして、今日は、お母様のお姿を拝見したので、飛び出してみたのです。ああ、お会いできて幸いです。まだ夜ではないので、あまり自由が利かないのが心苦しゅうございます。いずれ、この忌々しい封印を施した魂を喰い破り、お母様のお役に立ちたく思っている次第です」
「ああ、よかった。あの……これ以上、光さんの魂を喰べるのはやめてほしいわ。お願いできますか?」
「お母様の仰せのままに」
 サテツはまた、恭しく頭を垂れた。案外、簡単に納得してくれたようだ。
 この様子ならおそらく、姫の一声で光に体を戻すだろう。しかし、火鬼はれっきとした四鬼。同じ四鬼の隠形鬼の情報を知っているはずだ。
 だとすれば、これは好機。
 姫は、警戒して今にも噛みつきそうな竜越しに、サテツに声をかけた。
「サテツさん、聞きたいことがあるのだけど……」
「はい。隠形鬼のこと、でしょうか」
 サテツは、光の体を通して、全ての事態を把握していたという。姫のために話したくて、うずうずしていたらしい。
「四鬼が一体の隠形鬼は、名を、カゲロウと申します。メイゲツは、二〇〇年前からカゲロウに仕える、奴の忠実な下僕しもべ

 ――カゲロウ。
 奴が、真の隠形鬼。

 竜が、鋭く睨んだ。陽と雫は呼吸を忘れて、サテツの言葉に集中している。
「カゲロウは、今どこに?」
「我々には分からないのです。隠形鬼の力で皮を被ると、その体と一体化してしまいますから、たとえ鬼同士であっても、気配を感じることはできません。ですが、お母様と、メイゲツだけは別です。お母様は我々の力の根源でいらっしゃいますから、当然お判りになるでしょう。そしてメイゲツは、魂を見分ける目を持った鬼なのです。だからあいつは、どんなにカゲロウが姿を変えても、その魂を見つけて仕え続けることができるのです」
 サテツは、ぱっと明るい顔を上げた。
「ああ! メイゲツの眼をくりとって、魂を見分けることのできる宝石をお贈りいたしましょう! 力を発揮されない御身でも、隠形鬼どもに対抗できるでしょう!」
 たしかに、魂を見分けることができれば便利だ。しかし、姫はそんな残虐なことは望まない。
「ありがたいけど……他の方法が分かったら、是非教えてほしいわ。カゲロウが竜を狙う理由は、知っていますか?」
「申し訳ありませんが……。カゲロウは気まぐれな奴で、ふらふらといろいろなものになって遊んでいるので、私はもう、一〇〇年以上会っていないのです。しかも、自分を落ちこぼれだ何だと卑下して、本当の力を使おうともしない。お母様の復活にも力を貸さずに逃げる始末……。不届き者で、大変心苦しい……」
「本当の、力……?」
「はい。カゲロウは、隠形鬼の力を分け与える代わりに、その鬼が持つ力や、乗り移った鬼人の力とまったく同じ力を自分の力として複製します。それをそのまま使うこともできれば、それらを複合して、より強大な破壊の力を使うこともできます。この五〇〇年、どれだけの鬼に力を与えてきたかは分かりませんが、私や金鬼ライゴウ、水鬼シグレの力も併せ持っておりますから、おそらく今、奴は、まち一つ、いえ、二つ三つは破壊できるほどの力を持っているはず」
 彼らの手に、冷たい汗がにじんだ。そんな敵に、太刀打ちできるのか? 不安が心にとぐろを巻く。
 サテツが額を押さえ、ふらりと体を崩した。そろそろ、限界が近づいているようだ。
「できれば、力を貸してほしいわ。光さんの体を傷つけないように」
「もちろんです。お母様のためなら、我が命も燃やしましょう。それでは、またお会いできるのを楽しみにしております、お母様」
 光の左目が、いつもの色に戻った。たちまち、いつもの光の表情に戻る。素っ頓狂で、阿呆らしい表情だ。光は自分のシャツの襟を引っ張って、自分の傷口に吼えた。
「チックショー! 火鬼め! 熱いわ! もう出てくんな!」
 サテツに乗っ取られていた間の記憶はあるらしい。そしてその間、心臓が燃えるように熱くなっていたらしい。
 光が熱さに耐えてくれたおかげで、重要な情報が手に入った。

 隠形鬼カゲロウ。隠形鬼の力の源。
 討つべきは、奴だ。

 火鬼サテツの話を聞いていたら、約束の十七時になってしまった。せっかく会いに来たのに、話ができないなんて。陽はがっくりと肩を落として、姫の顔を泣きそうな目で見つめながら、雫と光に引きずられ、後ろ歩きで帰って行った。
 姫は、ふうと脱力して、近くのブランコに座り込んだ。
 緊張した。何か言葉を間違えていたら、大惨事になっていたかもしれない。ずっと、全神経を集中していた。大きく息を吸い、空を見上げる。
 朧雲が、黄金に染まって輝いていた。
「頑張ったな」
 隣のブランコが、きしっと音を立てた。横を見ると、竜が小さなブランコに座っていた。竜は背が高いので、足が長く余って、体が丸まってしまっている。なんだか少し滑稽で、姫はくすりと笑った。
「昔はぴったりだったのにね」
 竜は足を伸ばしたり、縮めたりして、座り方を考えていたが、しっくりくる座り方はなかった。
「……帰るか」
 竜はすっと立ち上がり、姫の右手をやさしく引いた。

 姫の家の玄関前に、見覚えのある後ろ姿が立っていた。
「彩?」
 少女が、くるっと振り向く。
「ヤッホー、姫ちゃん!」
 いつもの無邪気な笑顔で、彩が手を振った。
 竜は警戒し、彩を睨んだ。姫の右手を掴んだままに。
「お? いよいよ姫ちゃん、陽くんと別れて、竜くんと……?」
「もう、違うってば。ほら、勘違いされちゃうから、離して」
 しかし、竜は離さない。姫を背中に引き寄せる。
「なぜ、ここにいる」
「塾帰りに、ちょっと寄ったの。昨日の電話で、姫ちゃん元気なかったから、心配で……」
「ありがとう、心配してくれて。それにしても、こんな日に塾があったの?」
「そうなんだよ! 普通休みになるよねぇ。親も、授業料もったいないから行けってさぁ」
 彩は、ハァとため息をついた。いつもと変わらない調子に見える。だが、竜は警戒し続ける。
 姫は、彩を信じながらも、竜の心配な気持ちを汲むことにした。
「ごめんね、彩。実は今、竜が隠形鬼に狙われているの。それで、ちょっと神経質になっていて。せっかく来てくれたんだけど、また連絡するわ」
「えっ、そうだったの! そっか、だからすごい目で睨んできてたのか……。分かった! じゃ、またイツメン四人でグループ電話しよ!」
 彩は軽いステップで、竜の体の後ろに隠れる姫の前に跳んでくると、小さく手を振った。
 竜の後ろで手を振ろうと、姫の左手が、少しだけ上がった。

 ほんの、一瞬の出来事だった。

 姫の左手が、彩の右手に、掴まれた。

 それだけではない。
 姫の左手首には、ナイフが当てられていた。

「あ……や…………?」

 まさか。

 心臓がばくんと痛んで、頭の中が真っ白になる。視界がゆがむ。

「うそ……うそ、でしょう……あや…………」

 少女は、ニヤリと竜に笑った。さも、勝ち誇ったかのように。

「動いたら、深く刺す」

 彩の声が、低く響いた。

 少し腕を上げれば、奴の首に手が届く。姫の左腕を掴んで、引き剥がすことだってできる。
 それなのに、指さえ動かせない。
 すでに、姫の左手首にはナイフが軽く刺さっており、血痕がぽたぽたとコンクリートに落ちていた。
「貴様…………!」
 激しい憤怒が、竜の体中から流れ出す。もはや、それは殺気だった。
 だが、鬼は余裕で笑った。
「この女の手を離して、五歩下がれ。従わなければ、この女の動脈を斬る」
 竜は、奥歯をギリッと鳴らした。鬼から目を離さず、ゆっくり、姫から離れる。
 鬼は、放心している姫の体をぐいと引き寄せて、首にナイフを押し付けた。
「ははっ。なんだ、やっぱりこの女さえ押さえれば楽勝じゃないか。掟がなんだ。お前を喰べてしまえば、結局同じこと! さあ、手を挙げて、そこに這いつくばれ!」
 竜は、言われたとおりにしながら、心の中で、必死に蒼龍を呼んだ。

 ――来い。来い、来い、来い、来い、来い……! 来てくれ……! 
 頼む、姫を、守らせてくれ……!

 竜が、手を挙げたまま、ぬるいアスファルトに額を近づける。
 心臓の底から、太い筒がぶわっと突き上がってくる感覚がした。
 天を見上げると、右手から、巨大な白い煙が放出されていた。蒼龍だ。
 鬼はさっと青ざめ、「そいつをおさめろ! さもなくば……!」と姫の喉に刃の切っ先を突き立てる。
 蒼龍の速さなら、姫の喉に突き刺さる前に、あの鬼を喰い殺すことができよう。憤怒を込めて指を伸ばし、蒼龍に合図を送れば、一瞬だ。
 だが。
「いや! 彩を、殺さないで!」
 姫の声に、ぐらついた。
 彩は、もう死んでいる。
 それでも、目の前で、消してしまっていいのか。
 彩は、姫の無二の親友だ。だからこそ、きっとこの事態を分かっていながら、受け入れられていないのだ。
 たとえ隠形鬼であったとしても、彩の体を消してしまったら、姫の心が壊れてしまう。
 葛藤。白い煙が、心を映して揺れる。
 鬼は、その心を読んだのか、再び余裕の笑みを浮かべた。
「馬鹿な女……。だが、おかげで助かった。さて、では作戦通り、皮を変えようか」
 竜は、はっとした。
 この鬼の真の作戦は、姫の体を奪い、自分を殺すことだったのだ。

 迷っている暇はない。蒼龍を――!

「東条 姫には手を出すなと言ったはず。これは掟ではない。鉄則だ」

 次の瞬間、彩の首は、なくなっていた。
 彩の体が、砂になって消えていく。
 姫は、力なくその場に崩れ落ちた。
 流れていく砂を追いかけて、一生懸命に腕を伸ばし、抱きしめる。
 砂が吸い込まれていく先に、小さな子どもが立っていた。
 風がなびき、金木犀の香りが流れる。黄土色の髪から、薔薇の棘ほどの小さな角が覗く。

 ――メイゲツ。

「彩を、かえして…………かえしてよ………………っ! あああああああああぁぁっ!」
 姫の悲痛な叫びが、灰色の雲に響く。
 竜は、蒼龍を握りしめた。自分の右手が、つぶれてしまうほど、強く。
 白い月が、顔を出す。
 まだ空は明かりを残している。それでも月は、夜の合図だ。
 こめかみの血管が、浮き出る。
 ゆっくりと、角が生える。
 八重歯が牙に肥大していく。噛みしめた唇から、血が滴る。
 右手の蒼龍は、青い太刀に姿を変えていた。
「貴様……メイゲツ! よくも……よくも!」
 竜が、一瞬で、メイゲツの間合いに入った。メイゲツは咄嗟に体を後方にそらせる。だが、竜は目にも止まらぬ速さで、メイゲツの腹部を斜めに斬りつけた。幼い体から血飛沫が舞う。
「許さない……! 貴様が、力を与えなければ……!」
 竜が、がむしゃらに斬りかかる。
 メイゲツはよろめきながら、半ズボンのベルトから二本のナイフを取り出し、刃を受けた。腹部の傷は、すでにふさがっていた。腕に傷を負い、態勢を崩しながらも、止まらない青の閃光を二本のナイフで必死に薙ぎ払う。
 わずかに、間ができた。その隙をついて、メイゲツは、背後のコンクリート塀に飛び乗った。
 着地とともに、奴は、大人の男に形を変えた。髪の色と顔だちは同じだが、身長も骨格も、男のものだ。手に持っている小さなナイフは、二丁の拳銃に変わった。『状態変化』の力か。
 メイゲツは、銃を二丁構えると、一発ずつ、打ち込んだ。
 どちらの弾も蒼龍刀で受け流す。
 その隙にメイゲツは、片方の拳銃を姫に向けた。
「貴様……!」
「せっかくの機会だから言っておく。斎王 竜。お前を殺そうとしているのは、自分だ。カゲロウ様は関係ない。カゲロウ様に手を出してみろ。お前の大切なものを、奪ってやる」
「ならば、ここでお前にとどめを刺し、それから、奴を殺す!」
 刃から蒼龍を実体化させ、メイゲツを襲う。
 だが、メイゲツは即座に蛇に姿を変え、コンクリート塀の裏の家の庭に落ちていった。蒼龍が追いかけ、裏庭の茂みを噛み砕いたが、メイゲツはすでに地中深く潜ってしまっていた。

 ならば、もういい。

「姫!」

 竜は、刀を捨て、泣き叫ぶ姫に駆け寄った。
 固く握りしめた左手の傷口から血があふれて、コンクリートに赤い水玉ができていた。
 腕を持ち上げ、コンクリートに這いつくばった体を起こし、抱きしめる。
 姫は、力いっぱい竜にしがみついた。
 竜の背中に、姫の指が食い込む。手首の血が、べったりと染みつく。
 竜の胸の中で、声にならない悲しみを、叫び続ける。

 ――痛みも苦しみも悲しみも、このまま全部、自分に移ってしまえばいい。

 竜は、力いっぱい姫を抱きしめ続けた。
 姫の全ての絶望を、自らに刻み付けるように。

戦鬼伝 第六章ー吹ー

2020年4月24日 発行 初版

著者・発行:鈴奈
イラスト・キャラクターデザイン:さらまんだ
コンセプトアート:BUZZ
装丁:兎月ルナ

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