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戦鬼伝 第七章ー廻ー

鈴奈



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イラスト・キャラクターデザイン  さらまんだ
コンセプトアート         BUZZ
装丁               兎月ルナ

 目 次

第七章 -廻-

 最終章 -咲-

 家族や友人の犠牲。
 最悪な事態を、考えないことはなかった。
 だが、その時に負う心の傷がどれほど深くなるかまで、想像できるはずがなかった。
 無二の親友の死で、姫の心は絶望の海に沈んでしまった。
 姫を守ると言っておきながら、何も守ることができなかった。
 姫も、姫の大切な人も、全部全部守ってやればよかった。
 そうすれば、姫の心は守れたかもしれない。
 自分にはもう、これ以上、絶望を増やさないようにすることしかできない。
 そのために、もう一度だけ、姫を傷つけなければならない。
 それでも、これで、最後の一つで、絶望はなくなる。
 最初から、そうしていればよかったのだ。
 そうすればきっと、こんなに苦しめなくてすんだのに。
 姫を傷つけたくないといいながら、動けなかったのは――動かなかったのは。
 自分が弱くて、姫の傍にいたい気持ちに負けて、甘んじていたからだ。

 真っ暗な部屋で、竜は、青い刃を握りしめた。

 自分の気持ちは捨てる。自分にできる限りのことをする。
 たとえそれで、姫の傍にいられなくなっても。たとえ、命が尽きようとも。

 ――奴を、殺す。

 姫は、ベッドの中で動けなくなっていた。
 日射しも電光も音も、全て遮断した。少しでも、体を、心を、頭を動かすと、体の全てが張り裂けてしまうような痛みが走った。
 息をするのも、苦しい。いっそ止まってしまえば、苦しくないのに。そう思うと、涙がぽろりとこぼれた。

 コンコン、とノックの音がした。

「姫、俺。あの……入っていいか?」

 陽の声だった。姫は、答えられない。答えなきゃ、という気持ちさえ起きない。声も出せない。ただぼんやりと、周りの出来事が流れていく。
 陽はそっと、細く扉を開けて、真っ暗な部屋を覗いた。姫の甘い香りがする。だが、かつて一緒に過ごした部屋とは、違って見えた。部屋いっぱいに姫の哀しみがあふれかえっているような気がして、苦しくなった。
 するりと中に入り、音を立てずに、扉を閉める。少し立ち尽くして、ベッドの傍に来て、また立ち尽くした。
 どうしたらいいのだろう。
 話しかけることはおろか、名前を呼ぶこともはばかられる気がした。掛布団越しでも、触れてしまったら、砂のように崩れてしまうのではないか、と怖くなった。
 陽は、しばらく何も言わずに、傍に座っていた。

「……ずっと、いなくならないって、おもってたの」

 吐息ほどの小さな声がこぼれた。
 姫自身も、どうしてぽろりとそんな言葉が出たのかは分からなかった。陽が傍にいるから、だろうか。言ってしまって、やっぱり、心が痛くなった。瞳から露が流れ落ちる。それでも、唇からは勝手に言葉の涙があふれた。
「あやが、いなくなっちゃうなんて……わたし……」
「姫……!」
 陽は、掛布団の上から、姿の見えない姫を抱きしめた。いつもより細く、小さく思えた。
 そっと掛布団をめくると、髪までびしょびしょに濡らした、姫の泣き顔が露わになった。泣きはらしているのに、瞼も鼻も赤く腫れることなく、顔面蒼白で、虚ろな瞳をしていた。こぼれた涙に、陽が映った。
「……ようは、いなくならないで…………ずっと、いっしょにいて……」
「いるよ。大丈夫。俺は、ずっと一緒にいるから」
 姫の左手が、布団の中から伸びて、陽の背中に縋り付く。
 陽も、姫の背中を抱きしめた。
 姫の涙が、胸に染みていく。

 姫のこんな姿を見るのは、苦しい。かわいそうだ。
 でも、こうして縋り付く姫の左手が愛しくて、姫の言葉が嬉しくて。

 こんな時なのに、じんわりと、幸せを感じてしまった。

 陽と、付き添いで来ていた雫と光が姫の家から出ると、竜が立っていた。
 その姿は、夜闇の紫色の中でぼんやり浮かぶようだったが、激しく、揺らぎない憎悪が、体の底から黒くあふれかえっていた。
 陽は射すくめられて、思わず自分の身を抱いた。
「話がある。ついてこい」
「斎王くん、あのことなら――」
 竜の鋭い眼光が、雫を貫く。いかづちに打たれたような感覚がほとばしり、雫は、言葉を失った。光も、唾をごくりと飲んだ。唇に鍵がかかったようだった。
 三人は、静かに竜の後ろについていった。たどり着いたのは、武蔵山公園だった。武蔵市第五地区の奥、小高い山の中にある場所である。
 紫の灯はない。月光は輪を描くばかりだ。暗闇が、四人を閉じ込める。
 竜は、二本の角を生やし、牙を剥いた。
 そして、青い太刀を右手に握ると、殺気に満ちた切っ先を、怒りの矛先に向けた。
「ここまでだ。お前を殺す。影宮 陽――いや、隠形鬼、カゲロウ」
 青い切っ先が、陽の喉に触れる。
 陽の額に冷や汗がにじむ。困惑して、全身がしびれる。
「ちょ……っと、待ってくれよ。なんで、俺が…………?」
 雫と光が、陽を守る壁になった。三歩下がって、竜の殺意と間合いを取る。
「斎王。坊ちゃんはカゲロウじゃねぇ。ぜってぇ違う!」
「僕も同感です。陽くんは、違います! たしかに、隠形鬼ではないという証拠はありません。 ですが、陽くんが隠形鬼であるという明確な証拠もありません!」
 二人は、隠形鬼の下っ端男と戦った後、陽が四鬼の一体、隠形鬼カゲロウであることを竜から聞いていた。しかし俄かに信じがたく、陽を見守ってきた。
 隠形鬼は、全ての記憶をその体から引き継ぐ。だが、陽がふりをしているとは、どうしても思えないのだ。まっすぐに人を思いやる温かさ、言葉にこもる熱意、姫を想う表情――その全てが本物に思える。ありのままに生きているようにしか見えない。
 二人は、陽を信じていた。
「目に見える証拠はない。だが、俺は、鬼神から聞いた」

 姫が陽と付き合いだして、二か月ほどが経ったある日のことだった。夜になると度々姫の体に現れていた鬼神が、高い声で、腹を抱えて笑い出した。今でも、あの時の言葉は、全て覚えている。
「この女がどうしようもなく執着してから、と思っていたが――だめだ。おかしくて、我慢ならぬ。この女の恋人になった男、影宮 陽といったか。奴は、四鬼が一体、隠形鬼カゲロウだ。ふふ……何を考えているのやら。私の魂を見抜いているわけでもないだろうに。食えぬ奴よ」
 隠形鬼が何か、四鬼が何か。その時、鬼神の話から、全てを知った。
 鬼神は、楽しそうに笑って、竜の顔を覗き込んだ。
「さあ、早くしないと、隠形鬼がお前の愛しい女を喰ってしまうかもしれぬな? その前に殺さないと――ああ、だが、そうしたらどれほど、この女は哀しむだろうか。心を壊して、お前を憎んで……。お前の魂がずたずたに引き裂かれるのを見るのが、楽しみだな」
 はじめは、そうやってけしかけているのだと思った。
 だが、本当だったら?
 嘘でも、まだ二か月。このまま陽への気持ちが強くなって、それから引き離すよりいいだろう。
 そう考えた竜は動いた。鬼に殺されたことにするために、神社前の守護符を剥がし、鬼を誘導した。

「あの時の――そういうことだったのか。だけど、俺は違う! 隠形鬼じゃない!」
「メイゲツは、姫に手を出さないよう、部下たちに伝えていた。姫を傷つけず、俺を狙う。読めない動機も、お前がカゲロウであれば、つながる」
「おいおい。坊ちゃんがてめぇを殺して、姫ちゃんを独り占めしたいって思ってるってことかよ! 坊ちゃんは、人を思いやれる人だ。姫ちゃんが傷つくようなことはしねぇ。てめぇと違ってな!」
 竜は、殺気を込めた眼差しも、切っ先も、陽から離さない。
「違うと言い切るなら、蒼龍の牙を受けろ。奴の牙は不浄なもの、鬼や鬼人の体を貫く。だが、人間は傷つけない。お前が隠形鬼でないならば、蒼龍の牙を受けても、お前は生き残るだろう」
 白い煙が、蒼龍となる。爪を伸ばし、牙を伸ばして、咆哮する。
 光は一角を生やして、両手に紙人形を構えた。
「てめぇの言葉が嘘だって可能性もあるだろうが! 本当は、てめぇが坊ちゃんを邪魔に思ってんじゃねぇのか!」
 竜は、壁になる二人を、冷ややかに一瞥した。
「どかないなら、お前たちも死ね」
 蒼龍が、高く咆哮した。直角に、三人に迫りくる。雫と光の声が重なる。
「式神、守壁! 急急如律令!」
 たちまち、三人の頭上を、六重の式神が覆った。蒼龍の爪が強く食い込む。じわり、じわりとつぶれていく。白い壁が溶けていく。
 光は、空いた穴の先へ、両手を伸ばした。
「この野郎! 蒼龍様をひっこめやがれ!」
 竜の体に、息もできぬほどの爆風が直撃する。だが、竜は微動だにしない。冷たい殺気を燃やしながら、まっすぐに立ち構えている。
 白い壁が消える手前で、雫は七枚の紙人形を手に、再度術を唱えた。頭上に再び、白い壁が現れる。蒼龍の指に握りつぶされ、みるみるうちに溶けていく。

 だが、それでいい。ただの目くらましだ。

「光くん、行ってください。ここは、僕が引き受けます」
「……怪我すんなよな!」
 光は陽の腰を抱えると、足の裏から思い切り突風を噴射し、一直線に、上空へ飛び立った。
「蒼龍!」
 竜の目が、二人を追いかける。蒼龍も細くうねりながら、二人の体を追っていく。
 雫は溶けかけた白い壁の脇からすっと抜け出て、竜の死角に入った。静かに、しなやかに、竜の足を払う。竜はしかし、頑としてまっすぐ立っていた。冷たい眼光が、雫を刺す。太刀が軽やかに、しかし重たく、振り下ろされる。
「式神、捕縛! 急急如律令!」
 式神の紐を自らの腕に巻き付け、刃を受ける。鉄がぶつかり合う音がして、互いの腕がじんと響いた。雫はそのまま刃を握ると、ぐいと引き寄せ、くるりと宙に身を上げた。
 竜の目の先、雫の指には、封印札が挟まれていた。
 蒼龍は、竜の『無限刀』、すなわち、鬼人の力に宿っている。鬼人の力を封印すれば、蒼龍をおさめさせられよう。単純な作戦だ。
 だが、一筋縄でいくはずもない。青い太刀が、雫のわき腹に迫る。
 雫は即座に腕の式神を脚に巻き替え、蹴りを回して刃を受けた。反動で宙を舞いながら、脚の紐を右手に持ちかえ、竜に伸ばす。竜の左手首に、式神の紐が巻き付いた。一瞬着いた地を蹴って、紐をたぐりよせながら、竜の懐に潜り込む。封印札を、竜の体に突き伸ばす――。
「邪魔だ」
 視界の端に、青い閃光が映った。はっとして、体を後ろへ反らす。
 間一髪、と見えたが――喉に、切り傷が刻まれた。目を離した一瞬の隙に、竜が、太刀を捨てて短刀を宿し、斬りつけてきたのだ。
 体をそらしていなければ、確実に、首が落ちていた。心臓が、ぞくりとする。だが、そんな気持ちに浸っている場合ではない。短刀を握る右手首が、再び間近に迫りくる。封印札を貼るなら、今が好機。
 雫の指が、封印札が、竜に伸びた。
 しかし、青い刃が下から振り上げられ、手のひらごと、封印札が半分に斬り裂かれた。肉がえぐられ、骨がこすれる。激しい痛みが冷たさを伴う。雫は下唇を噛んで耐え、竜の右手首を掴んだ。
 竜は、容赦ない。今にも仕留めんと、全力で刃を攻めてくる。傷を負った細身の片腕では、竜の力に抵抗しきれない。だが右手は、式神の紐で竜の左腕を捕らえているので、使えない。捕えていると言っても、竜の方がむしろ強く引っ張ってくる。体勢を崩そうとしているのだ。引きずられないよう、歯を食いしばって抵抗する。余裕など、あるはずがない。
「斎……王、くん……! お願いです! 蒼龍を、蒼龍を……おさめてください……!」
 竜は、ふっと力を抜いた。瞬時に、雫の片足が、軽く払われる。
 体が一瞬、ふわりと浮いたのが最後。硬い土に、肺が打ち付けられた。
 式神の紐がゆるむ。右手首が捕らわれ、握りつぶされる。さらに、その右手首を雫自身の喉に押し付けられ、圧迫させられる。声が出ない。息さえ、危うい。

 ――なんとか、しなければ……!

 浅い呼吸の中で、方法を探す。自らが助かるための、ではない。蒼龍をおさめる方法をだ。
 だが、右手は自らの喉を圧迫させられ、左手は短刀に抵抗している。腰を動かして体をひねらせてみるも、びくともしない。ただ、上体を押さえ込まれているだけなのに。
「蒼龍。その男ごと、斬り刻め!」
 焦燥する雫の瞳に、天を駆ける光と、蒼龍の姿が映った。

 蒼龍が猛る。白い爪が、光の背中を一筋、刻む。痛みにひるんだ光の腕から、陽がこぼれ、落ちていく。蒼龍が陽を追い、牙を、爪を伸ばす。そして、わずかに触れんとした時。陽の体は何かに押されるように蒼龍から離れ、茂みの中にふわりと落ちた。光が力を振り絞り、風の力で、蒼龍の襲撃から守ったのだ。
 雫の近くに、どさりと落ちる音がした。目を動かすと、赤い一筋の傷がうるむ、光の背中が見えた。
「ぼっ、ちゃん……!」
 光が、痛みに抗い、喘ぐような声を上げる。
 蒼龍の牙が、爪が、咆哮が、まっすぐ陽に迫っていく。風を出すが、間に合わない。
 陽が恐怖で顔を濡らし、ぎゅっと目をつむった。

 ――もう、これしかない。

 雫の右手中指が、竜を見据える瞳が、迷いなく、赤く染まらんと輝いた――次の瞬間。

 黒く、巨大な塊が現れ、蒼龍の体を、まるごと飲み込んだ。
 そしてその黒い塊は、ぎゅっと小さく縮み、

 ――パン。

 軽い音を立て、塵となった。ほんの、瞬きのうちの出来事だった。

 竜は、雫から離れ、胸に手を当てた。
 蒼龍の気配が、ない。
 蒼龍が、消滅した。

 陽は茫然と、塵を見つめている。
 雫と光は、騒ぐ心臓にまかせて、浅く、荒い呼吸をしながら、瞳を揺らした。

 ――見てしまった。

 左手の指から、黒い塊を出したところを。

「なんだ、今の……?」

 陽が二人に視線に気づき、眉をひそめる。
 自分ではない。何が起こったのか分からない。
 力なく、自然に、戸惑いの表情をつくる。

 だが、二人の瞳はもう、哀しみに染まっていた。
 そして次第に、光の目に怒りがこみ上がってきているのが、見ていて分かった。

 ――二人には、もう、信じてもらえないようだ。
 深くため息をついて、陽は、膝を抱えた。

「俺は、何もやってない。メイゲツが、全部勝手にやったんだ」

 光も、雫も、哀しみで壊れそうになるのを耐えるように、歯を食いしばった。
「……じゃあ、認めるんだな。坊ちゃん……いや、てめぇが……」
「カゲロウ……本当に、陽くんが…………?」
 竜は、陽に近づき、陽の首に青い太刀の切っ先を向けた。
 いつものような苦い顔で、陽は体をのけぞらせる。
「ちょ……本当に、俺は何もやってないんだ! ちょっと、お前と姫に妬いたことがあって、それをつぶやいたら……多分それで、あいつが勝手に……!」
 その言葉で、真相が分かった。

 陽――カゲロウが、姫の傍にいる竜を疎ましく思った。消えればいい、とでもこぼしたのだろう。そして、メイゲツがその願いを聞き、竜の命を狙って動いた。
 動いたのは、メイゲツかもしれない。カゲロウは、何の指示も出していないのかもしれない。
「だが、元凶はやはり、お前だ」
 竜が刃に力を込め、喉を突く。
 だが、刃は、触れたところから、粉々に崩れていった。
 竜は諦めず、もう一本大太刀を顕現させ、思い切り首を斬りつけた。
 しかしやはり、陽の体に触れたところから、刃は粉々になる。
 竜は舌打ちをして、間合いを取った。
 陽は目だけを動かして、竜を見上げる。
「俺は、姫といたいだけなんだ。メイゲツに話をするし、他の隠形鬼の力は、全部回収する。だから、姫には、黙っていてくれないか」
 光が、ゆらり、と立ち上がった。
「……てめぇ、なんだよ……そういうこと、できたのかよ。じゃあ、なんではじめっからやらねぇんだ! なんで何も知らねぇふりして、見てるだけだったんだ!」
「だって、力を使ったら、正体がばれるかもしれないって……!」
「自分の正体を守るために、てめぇは、どれだけの命を犠牲にしたんだ! 彩ちゃんだって……! 畜生! てめぇが人を思いやれる奴だなんて、なんで俺は……信じちまったんだ…………!」
 光は、はっとした。
 さっきの、得体の知れない強大な破壊の力は、他の鬼の力の複製によるもの。
 そしてその中には、メイゲツの『状態変化』の力もある。
「まさか……猫になったのも、陰陽術じゃなくて……」
「あれは……! だって、破壊の力使うの、いやだったし。それに、まずいかなって思って……。人一人失踪したら大ごとになるだろ? でも、生きなきゃって思って、咄嗟に……」
 おかしいと思ったのだ。媒体なしの封印術も、動物の姿に変化させる術も、どの資料にも載っていなかった。
 陽のために、皆で一生懸命に考え抜いて、封印を解くことができたと思っていた。
 だが、あれはただ、タイミングを合わせて、元に戻っただけのこと、というわけだ。
 そうだとすれば、神宮団との戦いでも、鬼神との戦いでも、その強大な力をあえて使わなかった、ということになる。
 自分の正体を隠し通すために、無能な猫を演じて、見ているだけだった。
 光の危機も、雫の危機も、竜の危機も、そして、姫の危機さえも、手を差し伸べることはなかった。
 本当に陽が――カゲロウが仲間であったのならば、力を貸してくれたはずだ。
 そうすれば、光は命がけで火鬼を封印することなどなかった。
 雫も、命を削るような願いをすることなどなかった。
 理解ある仲間のつらを被って、友達のふりをしていただけだった。
 その上、自分の力が元凶と知っていて、見て見ぬふり。
 たちが悪いにもほどがある。
「お前みたいな奴を放っておいたら、世界は滅びちまう……!」
「俺は別に、世界を滅ぼそうだなんて思ってない!」
 それでも、嫉妬一つでこのありさまだ。被害者はとうに一〇〇を超えている。
 世界を守るなら、今しかない。
「斎王。蒼龍様は消えちまったが……あの約束、頼んだぞ」
 竜の視線を返事と取って、光は、自らの胸を掴んだ。
「火鬼。てめぇの怒りも、心臓に感じてるぜ。てめぇにこの体を貸してやる。てめぇはあいつと同じ四鬼だ。できるだろ……喰い殺せ!」

 次の瞬間、光の体が豪炎に包まれた。

 肉体は燃え尽きない。前髪を全て後ろに掻き上げて、赤い瞳を憎悪に染める。肥大化した一角が、炎を灯す。
「カゲロウ。お母様を傷つけた罪、決して許さぬ。私が、お前を消し炭にする」
「待ってください!」
 雫の声が、割って入った。
「光くん、正気を取り戻してください! 陽くんは、世界を滅ぼすつもりはないと言っています。他の隠形鬼の力も回収すると……。殺す必要はありません。彼とは、和解できます!」
 だが、見据える先は変わらない。
「嫉妬一つでこうなったんだ。また繰り返される。ここでこいつを殲滅することが、世界を守ることにつながるんだよ」
 光の、言葉だった。
 サテツがこぶしを突き伸ばし、ぱっと手のひらを開いた瞬間。陽の体が、炎の渦に包まれた。
 竜はすかさず、後ろに下がった。五メートルは離れたのに、鼻の先が燃えそうなほどに熱い。
 炎の渦から、陽の影が浮かび上がる。まっすぐ、歩いてくる。その体には傷一つない。
 陽の前に、サテツは対峙していなかった。――上だ。
 サテツが陽の頭上から、爆炎の風とともに、炎のこぶしで迫りゆく。陽はそれに目もくれない。ただ、背中から無数の黒い手を伸ばし、燃えるこぶしを掴むと、光の体を軽々と自らの目の前へと投げ飛ばす。サテツは、片膝をついて着地し、余裕の笑みで指を鳴らした。
 音と同時に、陽の脚が炎のつるに捕らわれた。だが陽は、熱さに呻くことも、おびえることもしない。哀しそうな瞳で、サテツを――光を見つめる。
「たしかに、俺は姫を傷つけた。光さんとか、雫とかも。皆を騙してた。でも、俺は姫と……皆とも、いたかったんだ。世界なんて、滅ぼさない。サテツだったら分かるだろ? 俺がそんなことに興味ないって……!」
「ああ、そうだな。お前は破壊を厭い、お母様に忠義を尽くさぬ、できそこないの鬼だ。だが、お前の意志は関係ない。その力が、危険なのだ。全ては、お母様のため……世界の、平和のために……たとえ、どんな相手でも、たとえ、相手がてめぇでも……俺は、このこぶしを奮う! それが、俺がここにいる理由だ! 俺が、生きてきた意味だ!」
 サテツと光――二人は混ざり合っていた。
 色の違う双眼が、哀しみと決意をはらんで輝く。
 こぶしに炎を燃やし、足から風を噴射して、陽に向かって突っ込んでいく。
 光が放ったこぶしから、豪炎の竜巻が巻き起こる。中に陽を閉じ込めた――はずだった。
 陽は、光の背後に立っていた。光は身をひるがえし、炎をまとったこぶしで陽に殴りかかる。
 陽の前に金色の盾がそびえたつ。その体には、傷も焦げもついていない。
「もう、やめてくれよ。俺は、生きたいんだ……それだけなんだ!」
 光は長い息を吐くと、赤い眼を剥き、右手を陽に伸ばした。
「きりがない。この場を全て燃やし尽くす。……てめぇの魂が、尽きるまで!」
 豪炎の球体が、光の手のひらで、みるみる大きくなっていく。
 陽は、落胆の息をついた。

 隠形鬼カゲロウは、あらゆる生き物の体を奪い、その力を自らのものとすることができる。
 自らが乗っ取った体の力も、力を分け与えた者たちの力も、その者たちが乗っ取った体の能力も。
 全てをその身に宿し、強大で静寂な消滅の力を扱うことができる。

 静かに、陽の右手が伸びた。
 黒い球体が、手のひらから現れる。ぶわりと膨らみ、光の体が飲み込まれる。
 ぎゅっと、小さく、小さく縮む。軽い音が儚く弾ける。

 そして、球体は――塵と、なった。

 光がいた場所は、何もなくなった。
 跡形もない。
 動くことさえできないほどのすさまじい熱風が、一瞬で消えた。
 雫の体の中が、さっと冷たくなった。竜の背中に、冷たい汗が一筋流れる。
 陽は、力なく天を仰いだ。
「もう、これで……皆、普通ではいられないよな。なんで、こんなことになっちゃったんだろ……」
 哀しい微笑を眉に浮かべ、陽は、右手を伸ばした。
 色を失う、雫に向けて。
「ごめん。最後まで信じてくれて、ありがとな。でも、俺はやっぱり、生きたいんだ。姫と一緒にいたいんだ。だから、こうなった以上は、雫も、斎王も、皆……消さなくちゃ」
 陽の右手に、再び黒い球体が膨らんだ。
 雫は、下唇を噛み、右手の赤い石を輝かせた。太く長い渦巻の角が生え、瞳が赤く輝く。
 心臓がぎゅっと小さくなったのを感じた。
 あと一度、何か力を使ったら、魂が尽きてしまう予感がした。
 そのわずかな力には、あの強大な黒い塊を飲み込む力も、カゲロウを消滅させる力もないだろう。
 だが、良い。もとからそんなつもりはない。
 どうせここで命が尽きることを避けられないなら、最期にできることをするまでだ。
 それは――自分が生きてきたこの美しい世界を、そして、自分の小さな世界を、守ること。
 右手中指に、赤い花を美しく咲かせ、雫は、笑った。

「陽くん。君は僕の――友達だ」

 はじめて、自分の過去を受けとめてくれた人。
 誰かの思いを、一生懸命考えられる人。
 残酷に手を汚すことが似合わない、優しい人。
 願わくは、もう君が、誰かを傷つけることがないように。
 それが、大切な大切な、自分の小さな世界の一つだったから。

 二人の手から、同時に力が放たれた。

 雫のいた場所から目を背け、竜は陽を凝視した。
 陽の両手首には、黒い腕輪が巻かれていた。腕輪を見つめ、陽は、茫然とつぶやいた。
「力が……」
 竜は、察した。雫は、最後の力を振り絞って、カゲロウの力を封印したのだ。

 今なら、勝てる。

 竜は再び、両手に青い大太刀を握りしめた。もう、白い煙はない。
 月の光が降り注ぐ。真っ青な輝きが、走る。陽は、はっとしてかわした。
 竜の手は、止まらない。陽も、必死に刃をよけ続ける。
 一瞬の隙をついて、青い刃が、陽の肩を斬りつけた。痛みに呻きながら、陽の体が土に転がる。
 即座に顔を起こして――しかし、陽の体は、氷となった。
 漆黒の深い闇の中。強い殺意と憎しみに満ちた目が、青白い月を宿して浮かぶ。

 ――終わり。
 そんな言葉が、脳裏によぎる。

 いやだ。いやだ、いやだ、いやだ、生きたい……!

 終わりの斬光が、振りかざされた。

「そこまでだ」

 金木犀の香りが舞う。青い刃が、陽の額の上で、ぴたりと止まった。
 声の方を向くと、姫の母が、姫の首にナイフを当て、立っていた。
 二人の視線を受けると、姫の母は、黄土色の髪をした青年に形を変えた。
 姫は、おびえと戸惑いで、白い唇を震わせている。
「メイゲツ、貴様……! 姫を離せ!」
「言ったはずだ。カゲロウ様に手を出したら、お前の大切なものを奪うと」
 姫は、ごくりと喉を鳴らし、陽を見つめた。

 ――カゲロウ。
 陽が……。

 恐怖で染まった姫を前に、陽は、息ができなくなった。
 どうして、こんなことに……。

「刀を捨てて力をおさめ、カゲロウ様から離れろ。さもなくば、彼女を斬る」

 竜は、せざるを得ない。注意を陽に、殺気をメイゲツに向けたまま、刀を捨て、角と牙をおさめる。
 その瞬間、陽は走った。
 姫の左手を取り――メイゲツの首を握りしめる。自分と同じだけの背丈の男が、片手で持ち上がる。
「余計なことをしてくれたな! なんで、姫を連れてきたんだ!」
「も、申し訳……ありません……。あなたを、救いたく……て…………」
 竜が再び力を宿し、刀を構えたのが、横目に映った。
「メイゲツ。最後の命令だ。死んでも、あいつを殺せ」
 陽はメイゲツの体を投げ捨てると、ぐいっと姫の手を引いた。
「行こう、姫!」
 姫は踏みとどまろうとしたが、陽の力は、いつもと比べ物にならないくらいに強かった。
「竜!」
「姫!」
 竜が、姫が、右手を伸ばす。二人の間に、メイゲツが立ちはだかった。
 半ば引きずられるように、姫は、山の奥、森の向こうへ、消えていった。

 鬼として生を受けたが、人を苦しめることや破壊することに、興味はなかった。

 他の鬼たちは、人を苦しめたり、破壊したりすることを「面白い」と言っていた。
 自分は、欠陥品なのだろうか。何も、面白いと思わなかった。
 やがて、自分は何をしたら面白いと思うのかを探すようになった。
 貧しい農民になって瀕死の生活を経験したり、老中になって殿上人を陰で操ったり、画家になって人々から称賛を受けたり、江戸一番の花魁になって男たちをたぶらかしたり。
 犬になって可愛がられたり、モグラになって土の中でじっと過ごしたり、鳥になって弱肉強食を勝ち抜いたり、はえになってうまいものを求めたり。
 他の鬼に力を与えたのも、同じ理由だった。
 奴らが何か、自分には思いつかないような、面白いことをしてくれるのではないかと思った。

 死にかけの小さな鬼が、助けてほしいと足元に縋り付いてきたのは、二〇〇年ほど前のことだった。
 子ども向けの童話に、助けた鶴が恩返しをしてくれる、という話があった。
 それを思い出して、面白い恩返しを期待し、力を与えて助けてやった。だが、そいつは自分につきまとってくるだけで、何も面白いことをしなかった。

 こんなに退屈なら、死んでしまってもいいかもしれない。そう思ってふらっと、崖の上から飛び降りたこともあった。
 だが、鬼の体は、そんなことでは死ねなかった。他の四鬼や陰陽師に頼んでみようかとも思ったが、いろいろ考えているうちに、面白いことも知らないで死ぬのはもったいないかもな、と思うようになって、なんとなく生き続けることにした。退屈な日々が、永遠のように続いた。
 死ねないならいっそ、こんなに面白くもなんともない世界、壊してしまってもいいかもしれない。そう思ったタイミングで、シグレに声をかけられた。神宮団という組織に入り、鬼神が復活することに協力しないかと。
 面白ければいいか、と思い、はじめは協力をした。だが、やっぱり退屈になって、メイゲツを残すから抜けさせてくれ、と頼んでやめた。
 有名なスターになって世界中を飛び回ったり、美女になって街を歩いたり、浮浪者になって凍え死ぬような夜を何度も超えたり、会社員として普通に働いてみたり。
 繰り返し繰り返し、いろいろな人生を試してみたが、やっぱり何一つ面白いと感じることはなかった。

 ある時、フクロウになって木の影で寝ていると、人間の死体が見えた。中学生くらいだろうか。近くに、シグレがいた。
「シグレ。この体、もらっていいか?」
 翼をはためかせ、死体の上に降り立つフクロウを見て、シグレはため息をついた。
「カゲロウですか。またフラフラとして」
「まあ、いいじゃん。で、なんで殺したの? もらっていい?」
「彼は影宮家の人間。陰陽師の一族です。あなたも神宮団の一員だったのですから、覚えているでしょう。私は陰陽師さえいなくなれば構いません。あなたが陰陽師になるなどと馬鹿なことを言わなければ、好きになさい」
 カゲロウは、「分かった」と快諾し、その肉体と、一つになった。
 影宮 陽という少年は、陰陽道も剣道も才能がなく、かといって勉強も運動もできるわけではなく、見た目も平々凡々で、あまり目立たない子のようだった。仲の良いグループの中ではいじられ役。それはそれで楽しいようだ。なるべく自分の世界の外には目を向けない。目立たないように、地味に過ごすことを貫いていた。自分に自信がない子ども。なんとなく、似ている気がした。自分も、他の四鬼や鬼のような破壊を求める心がなく、自信がなかったから。
 影宮 陽は、今まで被ってきた奴らに比べて、なりきる必要が少なかった。
 そうして、なんとなく学校生活を過ごしてみた。
 退屈だが、気楽と言えば気楽か。
 このままなんとなく成長していってみるのも、悪くないかもしれない。
 そうぼんやりと考えながら、手を洗っていた時だった。ふと、隣の手に目が留まった。

 ――きれいな手だ。

 どきり、とした。
 こんなに大きく心臓が跳ねたのは、五〇〇年生きてきて、はじめてだった。
 目を上げると、横顔のとてもきれいな少女が、隣にいた。
 頭のてっぺんが、かぁっと熱くなった。心臓が早くなっていく。
 どうにかして、手に入れなければ、と思った。
 気付いたら、小さな滝に手を伸ばし、濡れた手を、握りしめていた。
 姫がうなずいてくれた時は、心臓が破裂するんじゃないかと思うくらいに嬉しかった。
 一緒にいて、話をして。時々、肩がぶつかりそうになるのにさえ、ドキドキした。
 変なことを言ったりして、嫌われるのが怖かった。
 なかなか続かない話が、もどかしかった。
 真正面で向かい合うと、恥ずかしくて心臓がかゆくなった。
 全部、影宮 陽としてではなく、カゲロウ自身の気持ちだった。
 手をつないで、キスをして、「どんな姿でも好き」――そう言ってくれて。
 自分が――カゲロウ自身が受け入れられていること、愛されていることを感じて、温かさがぶわっと心に広がるような、満たされた気持ちになった。
 自分の心がこんなに激しく動くなんて、信じられなかった。
 面白い、なんてものじゃない。
 幸せだった。生きていてよかったと、心の底から思った。
 この幸せをずっと、ずっと感じていたい。
 だから、姫の傍にいたい。そう思った。いや、そう思っている。

 だが、竜が、邪魔だった。

 竜は、自分より長く、近く、姫の傍にいる存在だった。
 そして、姫のことを好きでいるのは明確だった。
 姫が奪われる。この幸せが奪われてしまう。
 そう思うと、心の中に、暗雲が立ち込めた。
 いなくなってしまえばいいのに。そうすれば、ずっと幸せでいられるのに――。

「そう思ったことが、全ての元凶だったんだ。ごめん。本当に、俺……」
 山の奥深く。通り雨に濡れた土のにおいがする。しんしんと、冷たい虫の声がする。
 姫は黙ってうつむいたままだった。
「五〇〇年生きてて、はじめてだったんだ。こんなに好きになるのも、幸せだって思うのも、生きててよかったって思うのも。誰かになりきって、作った気持ちじゃないんだ。はじめて、俺が俺のまま生きて生まれた、俺の素直な、本当の気持ちなんだ。だから、だから――一緒に、いてほしいんだ。一緒に、いて――……」
 陽は、握りしめていた姫の両手を、自分の額にくっつけた。
 姫の靴に、二粒の涙がこぼれ落ちた。
「……できない」
 陽の心臓が、震えた。息が止まる。こんなに痛くなるのは、生まれてはじめてだった。
「いやだ……どうしたらいい? どうすれば……!」
 姫は、顔を上げた。ぼろぼろに顔を濡らし、しゃくりあげながら、陽を見る。その瞳には、憎しみがあふれていた。
「私だって、陽と一緒にいたかった。陽が、好きだった……。でも、だからこそ、すごく……憎いの……! 陽の力が、彩を殺した。その事実を、私は絶対に許せない。これから先、一緒にいたって、私は、絶対に許せない! ずっと、陽を憎み続ける!」
「いいよ……憎み続けて、いいよ! それでも、一緒にいてくれれば、俺は幸せだよ!」
「幸せなわけない……! 今まで幸せだったのは、私が陽を好きだったからよ。私は……もう二度と、陽を好きになることはない! 憎まれながら一緒にいて、幸せなわけがない!」
 陽の涙が、頬をつたった。力が、抜けていく。
 姫はゆっくり、両手を、陽の手から引き抜いた。
 二人の手が、するりと離れた。姫の指先の感覚だけが、残った。
「……私は、陽と一緒には……いられない…………」
 姫は、赤くなった両手で涙を拭った。陽は、姫の濡れた手を、ただぼんやりと見つめていた。

 ――きっと、もう、だめなんだろうな。

 たとえ、竜を殺しても。この世界を滅ぼして、二人きりになっても。
 姫のこの思いは、変わることはない。
 どんな姿でも好きだと言ってくれたあの頃のように、想ってくれることは、ない。

「……分かった」
 姫が、涙でいっぱいになった瞳を上げた。


 陽は、優しく、微笑んでいた。

「姫、好きだよ」

 大好きだった、笑顔だった。

 青い刃が舞う。
 青年が、黄土色の髪をなびかせて、左腕を刃に変え、青い一撃を受ける。
 そして、右腕を薙刀に変えると、竜の腹部を思い切り斬った。
 メイゲツの力の限界か、さほど深くはなかったが、浅くもない。土に細い血だまりができる。
 メイゲツがもう一度薙刀を振りかぶったところで、竜は、足を後ろに下げ、姿勢を低くした。そして、太刀を大太刀に変えると、メイゲツの足を薙ぎ払った。
 確実に斬れた――が、血液が糸になって離れた部分にくっつき、元通りになってしまった。
 メイゲツの両腕が、銃に変わる。
 すさまじい連射が降り注ぐ。軽い弾だが、裁ききれず、二発、竜のわき腹を掠めた。腹部の痛みが相まって、竜は一瞬、ひるんだ。
 メイゲツは、子どもの姿に変わると、足から羽を生やし、一つ、地を蹴った。竜の前に着地した瞬間、大人の女性に姿を変え、右腕を刃に変える。
 とどめだ。
 竜は両手に短刀を持つと、メイゲツの両足に突き刺した。
 痛みに顔をゆがめながら、メイゲツが腕の刃を振り下ろす。
 だが、竜の方が速かった。
 竜は顕現した大太刀で、メイゲツの心臓を貫いた。
 刺さったところから、砂があふれ出す。
 しかし――メイゲツは、腕の刃を竜の背中に突き刺した。これが今際の際の力か、と思うほど強い力で押し込んでくる。
 竜は大太刀から手を離し、メイゲツの二の腕を掴んだ。メイゲツは、離れない。獣のような目で、荒く息をして、死に物狂いで、竜の体を貫かんと力み続ける。
「カゲロウ様が、はじめて、幸せになったんだ……! 斎王 竜……! お前さえいなければ、カゲロウ様は、ずっと、ずっと、幸せでいられる……!」
 竜は、両手に短刀を握り、メイゲツの両腕に突き刺した。だが、斬り落としたはずの場所はやはり、血液の糸がつないでしまう。執念は、ますます強くなる。
 メイゲツの刃の切っ先が、竜の腹部に頭を出した。
「カゲロウ様、自分が、幸せにしてさしあげます……! 命にかけて、この男を、殺してみせます……! それが、自分を、生かしてくださった、カゲロウ様への……!」
 竜の太刀が、もう一振、メイゲツの心臓に刺さった。
 メイゲツの虚ろな目が、ゆっくり、砂になって溶けていく。

 あとには、何振もの青い刃が残った。

 大した奴じゃなかった、はずだ。
『状態変化』の力はやっかいだったが、もとは、一振りで殺せる程度の小物だったはずだ。
 そのはず、なのに。
 奴の想いに、執念に、痛手を負った。
 体に穴が開いて、腹部も斬り裂かれている。喉から熱い血がこみ上げる。
 気付けば、竜の周りには血だまりができていた。

 だが、歩けないわけじゃない。
 今すぐ、行かなければ。
 姫を守る。幸せにする。この命にかけて。

 竜は、青い刃を支えにし、立ち上がった。

 姫は、土の上に座り込んでいた。うなだれて、顔は見えない。涙が、ぽたり、ぽたりと膝を濡らす。
 何度呼んでも、返事はない。空っぽの人形になってしまったようだった。
 抱きしめたら、血で汚してしまう。せめて、血の付いていない右手で頬を包もうと手を伸ばす。
 だが、やはりやめた。触れたら、あの透明の花のように崩れて消えてしまいそうで、できなかった。
「……姫。俺は必ず、お前を幸せにする。約束だ」
 姫が、ぼんやりと目を上げた。声にならない息の震えが、空気に溶ける。
 姫の髪からつたい落ちる涙を、竜は最後に、指で掬った。
 点々と、決意の跡を地に染めて、竜は前へ進んでいく。赤い希望を、右手に秘めて。

 姫のおぼつかない足が、ゆっくりと、立ち上がった。

 切株の上に、見慣れた後ろ姿が座っていた。
「意外と遅かったな」
 陽は振り返って、満身創痍の竜を見た。まだ乾いていない涙の跡が、月光に照らされた。
「いいよ、俺を殺して」
 罠か、と構えたが、陽の両手にはまだ、黒い腕輪があった。
 陽はうつむいて、言葉を続けた。
「いろいろ考えたんだけど――たとえば、お前の体をもらうとか、姫がこれから付き合う男の皮をその都度奪っていくとか。そうすれば、姫の傍にいられるかなって。でも、姫はきっと、俺に気付いてくれると思うんだ。だけど、もう、俺のことを、前みたいに好きになってはくれない。俺は、俺自身を、姫に好きになってもらいたい。けど、でも、もう……無理なんだ」
 陽は下唇を噛んで、こみ上げる涙を飲んだ。
 ややあって、口元だけで、力なく微笑んだ。覚悟を決めた顔だった。
「俺は、姫と一緒にいられて、幸せだった。これ以上の幸せは生きていたって、きっとない。だから、もう、いいや」

 竜は、青い太刀を握りしめ、陽の背後に立った。
 手が震える。傷が痛むからじゃない。
 悔しさ。憎しみ。
 姫を、あんなに、苦しめておいて――。
 体中に、痛みと力が沸きあがる。牙が、下唇を割く。


 青い刃が、赤い砂を散らした。風も、音も、月も、どこかへ消えた。


 憎しみが、おさまらない。
 もうない体に、ただの砂に、ただの土に。青い切っ先を、深く、深く、めり込ませる。
 こんなに憎い魂の塵に、この願いを叶えさせたくない。
 右手に吸い込まれるこの砂を、一粒残らず、永遠の苦しみを味わわせて消し去ってやりたい。
 肩が荒く息をする。体が、痛い。呼吸が、苦しい。
 憎い、憎い、憎い、憎い――。


 ふっと、目の中が白くなった。


 ――背中が、温かい。


 見なくても、分かった。姫が、竜の傷を埋めるように、やさしく、頬をくっつけている。
 泡沫うたかたを抱きしめるように、細い腕が、竜の体を包み込む。心の奥に、温もりが染みていく。
 深く息を吐いて、竜は、願った。

 ああ、やっぱり――咲いてくれ。

 今感じている幸せを、今までもらった幸せを、全部、全部、返してあげたい。
 今でなければ、だめだ。こんなにいとおしい人に、深い傷を負ったまま、苦しみを抱いたまま、生きてほしくはない。
 自分の魂だって、体だって、心だって、世界だって、いくらでも喰べて構わない。
 だから、どうか、咲いてくれ――。

 赤い蕾から、無数の花びらが開いた。
 それは、赤く、小さな、シロツメクサだった。

 目を覚ますと、真っ白な世界にいた。空も床も白い。右も左も永遠のようだ。浮いているのか、地に足をついているのかも、分からない。音もない。指を動かしても、空気というものを感じない。呼吸をしているかどうかさえ分からない。
 死んでしまったのかもしれない。鬼神が、自分の願いは、命を代償とする、と言っていたから。
 もし死んでしまったのなら、姫の幸せは叶ったということだろう。それなら、良い。
 一度瞬くと、目の前に、羽衣をまとった真っ白な少女が立っていた。
 色がなく、髪の長さは腰ほどまであり、表情も少し違ったが、姫と同じ顔をしていた。
 彼女は、優しく微笑むと、両手を差し伸べた。
 自然と、手が伸びた。彼女の指先に触れると、清らかな水に触れた時のような冷たさと、波紋のような震えが、体中に響いた。

「斎王 竜。ありがとう。私の幸せを願ってくれて」

 頭の中に、言葉が響いてきた。優しい、姫の声だった。だが、姫ではない。

「俺は、姫の幸せを願った。お前は誰だ」

 喉からは声が出なかった。触れ合った指を通じて、言葉が通う。

「私は、東条 姫の魂。かつては、天女でした。あの方と出会い、恋に落ちるまでは」

 彼女が哀しそうに瞳を閉じると、真っ白だった世界に、彼女の記憶が映し出された。

 天女は、人の世にはびこる妖怪達を殲滅するため、天神に命じられ、とある湖に降り立った。そこで、不浄なものを清める蒼い龍を創り始めた。ある時、陰陽武士の青年がやってきた。青年は天女が蒼龍に捕らえられていると思ったのか、蒼龍の中で眠る天女を救い出した。
 一目で恋に落ちた天女は、蒼龍を完成させることなく、信濃の藩主の娘に化けて、青年と結婚した。
 少し不思議な力が使える人間のふりをして、彼女は青年に尽くした。

 ――しかし。

 幸せな映像は途切れた。世界は再び、真っ白になった。

「あの方は私を裏切り、私を殺しました。私の魂は憎しみで染まり、鬼神の人格が生まれました。そして、世界中に鬼と、鬼人を生んでしまった……」

 彼女は、真珠のような白い涙を、ぽろりとこぼした。

「天神は怒り狂い、私を天から追放し、呪いをかけました。私は、人間として永遠に生を繰り返し、愛する人に裏切られる哀しみを味わい続けてきました。そして今世もまた、愛する人に裏切られる哀しみを、私は味わった……」

「つまり、その運命を断ち切れば、姫は幸せになれるのか」

「ですが、東条 姫は私の仮面に過ぎません。東条 姫の幸せを願うということは、私の魂の救済を願うということ。それは、時代を超越し、世界を変えることになります。あなたの命をかけても、足りないかもしれません。世界の均衡が崩れてしまうかもしれません」

「姫が幸せになるなら、俺はそれで構わない」

 彼女は、首を横に振った。

「あなたのその想いは嬉しい。ですが、東条 姫は、あなたにも幸せになってほしいと願っています。私の魂があなたの魂を愛することをおびえるばかりに、東条 姫はあなたと結ばれることを避けてしまっているけれど……。あなたがあなたらしく生きること、そして、自身の願いのために生き、幸せになってほしいと、心から思っているのです」

 自身の願い。
 竜は苦しくなって、胸を掴んだ。

「俺は本当に、姫の幸せを願っていた。だが……姫のためといいながら、結局は全部、自分のために動いてきた。もっと他に道があったのに、いろんな選択を間違えて、そうやって結局、姫を幸せにできなかった。だから俺は、俺の思いも願いも、全部いらない。姫が幸せになれるなら、俺は幸せになれなくていい」

 彼女は、水のように透き通った瞳で、竜の心の奥を見据えた。

「誰だって、間違いを犯します。東条 姫も、あなたに幸せになってほしいと願い、あなたと離れる選択をしました。とても、自らの胸を痛める選択を……。人は正しい選択と間違った選択を繰り返し、傷つけ合って、慰め合って、不幸と幸福を繰り返して生きているのです。あなたの選択は、不幸だけをもたらしたのではありません。あなたの優しさや本当の気持ちに触れた時、どんなに嬉しく思ったことでしょう……」

 優しい瞳に包まれて、体に言葉が沁み込んでいく。
 彼女の心が伝播して、竜の心に温かさが広がる。
 姫と一緒にいる時の、温かさに似ていた。

 少しだけ、赦された気がした。

「後悔しない選択はありません。ただ……後悔の少ない選択をすることはできます。それは、自分の本当の気持ちに素直になって選択すること。あなたは自分を犠牲にして生きてきた。自分の気持ちを抑え、彼女の絶望をも一人で背負って。でも、今、あなたは自分の本当の願いが分かっているはず。自分にとって辛い選択をする必要はありません。本当の願いを、本当の気持ちを大切にすればいいのです」

 竜は、目をつむった。自分の本当の願いを、噛みしめるように。
 そして、ゆっくり、瞼を開いた。

「俺は……姫を幸せにしたい。俺の命を、全てをかけて。俺の全てで足りないなら、世界を全てかけてもいい」

 竜は、まっすぐに、言った。

「姫の幸せが、俺の幸せだ」

 白い少女は、瞳を、大きく見開いた。

「かつてのあなたが、私にくださった言葉と……約束と、似ていますね」

 二人の手が、離れた。

 白い体が、羽衣に引き上げられ、ふわりと天に舞い上がる。
 美しい声が、白い世界に響き渡る。

「この選択が、あなたにとって幸せなものであるよう、願います」

 声が消え、少女が白い光を解き放った。

 瞼の中が、真っ白に染まった。

 開け放たれたやかたに、白い布で顔を隠した三人の男が座っている。
 御座に座る若い夫婦を、何人もの武士が取り囲む。
 武士たちの袖には、五行の刺繍が縫い込まれている。陰陽武士の証だ。

 一人の男が鏡を掲げる。
 その銀光に照らされた途端、女は、真っ白な姿になり果てた。
 髪も肌も目も全て真っ白な、人ならぬ者。
 白い体を、一振りの太刀が貫いた。
 それに続くように、無数の刃が、体を串刺しにした。

 朦朧とする意識の中、女は目を覚ました。
 傷だらけの顔をした男が、何かを言っている。

 かつては、聞こえなかった――聞こうとしなかった声に、耳を傾ける。

「あなたを幸せにすると約束したのに、私は……あなたも……深手を負ってしまった……。追手が来る前に、あなたを、これ以上奴らの手で、傷つけさせないよう……せめて、守らせてください……」

 男は震える体を起こした。唇から血が流れ、女の白い羽衣を赤く濡らす。
 そして男は、震える指で、青い刃を抜いた。

「生まれ変わって、次にあなたと出会えたら、その時は今度こそ、必ず、あなたを、幸せにします」

 青い刃に、体を貫かれる。
 だが、憎しみは、なかった。

 ――ああ。やっぱり彼は、約束を守ってくれる人だった。

 彼に愛され、彼を愛して、ともに過ごした全ての時間が、体を流れていく。
 心が、温かくなる。
 来世の約束なんて、いらない。自分は十分じゅうぶん、幸せだった。
 この痛みさえ、愛おしく思えるほどに。
 けれど、彼はきっと、約束を守ろうとするだろう。


 ならば、せめて――。







 残された力で、女は、男の冷たい頬に触れた。

「あなたの幸せが、私の、幸せ……」

 真っ白な瞳から真珠がこぼれ、天女は、微笑んだ。





最終章 -咲-

 七月中旬。武蔵市立武蔵高等学校。白い校舎は青空に包まれ、じりじりと熱い日射しに照らされている。学校中の教室が、静寂に支配されていた。焦りと、迷いと、願いと、熱と、ペンの音が入り乱れる、重く、刺々しい静寂に。
 やがて、時計の秒針が、十二を指した時。
「やめ!」
 声を合図に、ほっと安堵し胸を撫でおろす者、後悔で頭を抱える者のため息が混ざり合う。
 そして、教員が、「これにて、終わり」と言うと、全校生徒、総勢一二〇〇人が、歓喜の雄たけびを上げた。
「やったぁ――!」
「終わったぁ――!」
 四日間にわたる定期テストの最後をようやく迎えることができたのだ。どうして喜ばずにいられようか。
 ガッツポーズを振り上げる者、どろどろに溶けて机にへばりつく者、一抹の不安を分かち合う者。
 教室は一変して、賑やかな空気に包まれた。
「いやぁ――。本っ当に頑張ったぁ。すっきり! さぁて、スマホ解禁っと」
 彩は、テストが終わるまで封印していたスマホの電源をつけた。
 なじみのエスエヌエスを開いて、軽く目を通す。
 一つ、目に留まったものにびっくりして、椅子の上で、ぴょんと跳ねた。
「わ! 姫ちゃん! 見て、これ!」
 前の席にいた姫は、にっこり笑って振り向くと、彩のスマホを覗き込んだ。
「雫さんと息子さんのツーショットがあがってる! キャーッ! 生後六か月だって!」
「あら、可愛いわねぇ。雫さんって、江戸市第一病院の院長さんだっけ?」
「そうそう! あぁ、雫さん、めっちゃ顔いいわぁ。芸能人レベルだよね。きっと息子さんもイケメンになるんだろうなぁ」
「まぁ、彩の一番は伊達先生だけどね」
 ちらり、と姫が教卓の方を見た。茶色い髪がつんつん立っている、体格のいい男性教師が、男子生徒数名に絡まれている。他の教員に比べて少しおチャラけているが、明るくて、よく話を聞いてくれる、熱血な担任だ。
 彩は、本気で惚れていた。
「うん! 今回も社会めっちゃ聞きに行ったもん! テストって近づけるチャンスだよねぇ。この調子で頑張って、卒業したら絶対告る!」
「応援してるわ」
「私も姫ちゃんのこと、応援してるよ?」
 彩はニヤリと笑って、姫の腕をつんつんとつついた。
「先輩への答え、どうすんの? 明日でしょ」
 姫は、うつむいた。はらりと流れる栗色の髪から、真っ赤に燃える耳が覗く。

 五月の体育祭終了後。競技で使用した道具を、倉庫に返しに行った時のことだった。
 一人の先輩が、全ての道具を入れられるようにと、奥の方を整理していた。
「すみません。コーンを持ってきたんですが、どこに置いたらいいでしょうか」
「あ、じゃあ、こっちにちょうだい」
 彼が手を伸ばして、こちらを見た。その瞬間、彼の時間が、止まった。
 石のように固まっている先輩に声をかけると、彼は、はっと正気を取り戻し、コーンを受け取った。
 少しだけ、二人の指先が触れ合った。
「……あの!」
 倉庫を出て行こうとする姫に、彼は、叫んだ。
「一目惚れしました! 付き合ってください!」
 姫にとって、はじめてのことだった。
 心臓がバクバクして、頭がぐるぐるする。
 体中が真っ赤になって、今にも破裂しそうになった。
 嬉しくて、恥ずかしくて、「はい」と言ってしまいそうな自分がいて――。

 だが、ふと。
 ちくり、と何かにひっかかった。

 ――なんだろう。

 胸に手を当てると、いつのまにか、混乱していた心は落ち着いていた。
 姫は、深呼吸をして、息を整えた。
「ありがとうございます、でも――」
 彼の顔を見ると、不安と期待で混ぜこぜで、今にも泣きそうな顔をしていた。
 簡単に断ってしまったら、どれほど傷つけるだろう。
 はじめて誠意を持って告白してくれた人に対して、申し訳ない気がした。
 しっかり自分の気持ちを考えて、しっかり答えを伝えたい。そう思った。
「考えさせてください」
 姫は、そう答えた。
 それから、彼に誘われ、二回、デートに行った。彼はいつも優しくて、素直だった。
 彼といると、いつも観る景色も、今までとは違って見えるような気がした。
 ほとんど毎日、スマホで連絡を取り合った。
 電話がかかってきた時は、ドキドキして、嬉しくて、心臓が跳ねあがった。
 彼と話していると、とても楽しかった。
 テスト期間が始まる前、彼が電話で言った。
『終業式の日、一緒に帰ろう。答えを聞かせてほしい』
 姫は、承諾した。しながら、やはり心がちくりとした。
 テスト勉強は一生懸命にやり抜いた。

 それと同時に、一生懸命、自分の心と向き合って、ちくりと痛む理由を知った。

 そして、彼への返事を決めた。

「一目惚れして十秒で告白って伝説だよね。で、なんて答えるの?」
「えっと……」
 なんとなく照れて、姫は何も言えなくなった。真っ赤になって固まる姫を、彩はぎゅっと抱きしめる。
「うふふ、姫ちゃん可愛い。いいよ、明日の楽しみにしておくね! でもさ、あの先輩、姫ちゃんと並ぶには、ちょっと顔が普通過ぎるかな」
「そんな……」
「まあさ。私は姫ちゃんが幸せになればいいんだ。今度こそ、自分の気持ちに素直になりなよね」
 不思議そうに首を傾げる姫に、彩は、ふふふと笑った。
 ぱっと二人の体が離れる。
「そろそろ行った方がいいんじゃない? 私は、あの男子集団が散るまでもうちょっと待って、光先生とお話してから帰る!」
「そう。頑張ってね。じゃあ、また明日」
 姫は、手を振って、教室を出て行った。

 彩も、手を振った。
 廊下を覗き込み、玄関へ急ぐ姫の後姿を、優しく見守った。

 下駄箱にたどり着くと、学生服の青年が、玄関扉のガラスに、ぼうっともたれかかっていた。
 彼は、姫を見つけると、何も言わずにじっと見つめた。
 姫は目をそらし、そそくさと靴を履きかえ、隣に並んだ。

「お待たせ。行きましょう、竜」

 竜はこくりとうなずき、姫の歩幅に合わせて、歩き始めた。

 二人は、新武蔵駅まで歩くと、時計を見た。十二時半を回っている。このまま帰ると、昼食が遅くなりそうだ。
「せっかくだから、どこかで食べていきましょうか。どこがいい?」
「姫の好きなところでいい」
 姫は少し考えて、近くのカフェに入った。
 晴れ晴れと明るい店内には、女性かカップル客ばかりである。
 竜は場違いな気がして、居心地が悪そうに、汗ばむ手でそわそわと太ももをこすった。
 姫はクスリと笑って、スマホを取り出し、竜の写真を撮った。
 姫はカルボナーラを、竜はピザを注文する。
 食事が来るまで二人は、うまく撮れた写真を見せ合ったり、夏休みの予定について話したり、花火大会や夏祭りの日程を調べたりした。
 食事が運ばれてくると、カルボナーラを巻きながら、姫が聞いた。
「テスト、どうだった?」

 テストのことは、よく覚えていなかった。
 気が付いたら、ぼんやりと玄関扉のガラスにもたれかかっていたのだ。

 ――そもそも、自分は、なぜ生きているのだろう。

 竜には、全ての記憶があった。
 隠形鬼たちとの戦い、メイゲツとの戦いで負った傷の痛み、絶望した姫の苦しみ、赤いシロツメクサ、真っ白な世界で交わした天女との会話――。
 右手の中指には、赤い石がなくなっている。街には、守護符が一枚もない。
 おそらく、鬼や鬼人といった存在が消えたのだろう。
 ここが、姫が幸せに生きられる世界であるなら、きっとそうだと疑わなかった。
 だが、分からない。自分は、なぜここにいるのか。なぜ、姫と向かい合って、居慣れないカフェで、ピザをほおばっているのか。
 もしかしたら、これは死んでしまった自分の、一抹の夢なのかもしれない。
 口の中で、トマトと、バジルと、チーズの味が混ざり合い、口の中がもちもちする。
 やっぱり、現実なのかもしれない。
 まあ、夢でも現実でも、どちらでもいい。姫が幸せでいられるならば。

 半分くらい食べたところで、姫が唇を拭いた。
「竜。あのね……」
 姫は、竜の手をじっと見つめて、言葉を止めた。左手の小指を、もじもじと触っている。
 食べたいのだろうか。
 一切れ差し出すと、姫は、「いらない」と首を横に振った。
「明日……なんだけど。一緒に、帰れないの」
「遊びに行くのか?」
「遊びに、っていうか……。先輩に、返事をしなきゃいけなくって……」
「返事?」
「先輩の、告白の……」
 姫が、きまり悪そうに、もぞもぞと言った。頬と耳の縁が、真っ赤に燃えている。
 よく分からないが、誰かに告白をされた、ということらしい。
 いろいろと、前との違いが見えてきた。
「……なんて、答えるんだ?」
 姫が、竜の目の奥をじっと見つめた。
「……なんて、答えると思う?」
 竜は、姫の瞳から目をそらした。
「姫が幸せなら、どっちでもいい」
 姫は、「そう」と言って、静かにフォークを握った。

 新武蔵駅から、武蔵駅に向かう。
 電車を降りて、横断歩道を渡って、通い慣れた住宅街を歩く。
 二人の家が見えてきたところで、カフェを出たきり黙りこんでいた姫が、「もし私が先輩と付き合ったら、一緒に帰るの、今日で最後ね」とつぶやいた。胸が、つんと痛くなった。
 公園の前で、どちらともなく立ち止まった。
「久しぶりに、四つ葉のクローバー探したいわ。天気もいいし」
 見上げると、薄青い空が広がっていた。
 まだ若い蝉の声が、伸びていく。
 二人は公園に足を踏み入れ、肩を並べて、クローバー畑にしゃがみこんだ。
 白い指が、一つ一つ丁寧に、小さな葉の重なりを確かめていく。
 竜は、日射しに温められ、乾いた土を触った。青臭いにおいが鼻をつく。
 なんとなく右に視線を移すと、四つ葉のクローバーが生えていた。
 根元から摘み取り、姫に差し出す。
 姫は、「ありがとう」と受け取った。

 両手で四つ葉を包み込み、目をつむって、姫は願った。


「竜が、幸せになりますように」


 竜は、息を呑んだ。
 紫色のほのかな灯りの中で、暗闇に溶けるクローバーを探した、あの夜が脳裏をよぎった。

 あの夜が、繰り返される気がした。

 姫が幸せならば、苦しくたっていい。
 そう思いながら、果てしない痛みに耐えた、あの夜が。
 体がねじ切れてしまいそうで、いっそ、ねじ切れてしまえばいいとさえ思った、あの夜が。

 ――いやだ。

 姫が幸せなら、それでいい。苦しくたっていい。死んだっていい。
 それは、嘘じゃない。本当の気持ちだ。

 だが――。

 少しだけ、自分の幸せに、手を伸ばしてみたくなった。

 姫の両手を、大きな両手で、やさしく包んだ。

「その告白を、断ってくれ」

 他の男と話しているのも、並んで歩いているのも、笑っているのも。
 電話をしているのも、手をつなぐのも、キスをしているのも。
 自分じゃない誰かに幸せにされていると思うと、本当は、とてもいやだった。

 自分が、幸せにしたい。
 人生に、永遠の幸せがないとしても。
 どんな不幸が、何度降ってくるとしても。
 その不幸から守って、支えるのは、ずっとずっと、自分でありたい。

 竜は、穏やかに微笑んだ。








「大人になっても、ずっと一緒にいてほしい」















【戦鬼伝 完】

戦鬼伝 第七章ー廻ー

2020年5月1日 発行 初版

著者・発行:鈴奈
イラスト・キャラクターデザイン:さらまんだ
コンセプトアート:BUZZ
装丁:兎月ルナ

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